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九州電力株式会社

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九州電力株式会社
’
雪
風
ノ
ロ ン
’
人間の集合体で、各自、自
られる最良の手段である。
っているのは教育と物価の ている。
りすればするほど利益を得
ても、それに煩わされる恐
る階層と、いかほど騰貴し
れのない富豪があるから、
国民全体の関心事ではない
かも知れないが、反面には
貧苦のために一家心中する
人たちもあるほどである。
かけて政治の貧困は除去せ
だから民主々義国家の名に
ねばならぬ。しかるに現状
によって国民の間に、また
は物価の値上りは野放しで 大きな断層が生ずることを
ある。政治的施策を全然し 深く卜うるものである。
’
民主々義の要諦
県着任はそ闘の実績を買われ
、
五円、一五〇キ。につき赤 費者価格があがる。そし
引政府入金は一万七四七
の基礎の浅さをつくづく︵
任に対し生徒が罵声を浴せ
国家の現状から見て政府
の出現を待望している。
塾ーノ
て米しか喰うことのでき 老えさせられる。 嘱
卿
た学校もある。
教育を権力で支配しよう が次期国会に提出する法案
としたのは、明治憲法が幅 は、国民にはもっとも不適
を利かしていた時代までの 格である。もとより佐藤首
ことで、現憲法下でそんな 相の無責任は、このことば
かりに限られているのでは
ことがあれば、 一種の反逆
る。無責任時代は植木等の
唄だけで十分だ。政治家は
うけついでいるようであ
の官僚も、率先して伝統を
習性は鉄則のようでこの頃
代の習わしであるが、この
これに倣う﹂これは封建時
る。 ﹁上の好むところ、下
んどが無責任に終ってい
ない。彼の重大発言はほと
による慣習になっていた福 組は激怒した。保守政権の
責任の所在
屠蘇福岡●銀、行
福岡市上川端町12番18号
電話大代表③2131
電 話 ⑭ 7 3 3 5
福岡市警固沖田町9の1
西部瓦斯株式会社
電気のご相談はおきがるに
サービスセンター︵福岡市天神ビル内︶
、
電話大代表⑯3031
福岡市渡辺通ご丁目一街区82号
九州電力株式会社
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聖ミ⋮ーー陶・Sヒミぎ美’∼し孕、∼馳噛2∼’一、㌧♂∼躍ーミ∼3題、 卓㌔⋮
リ ロ の
, ’
〃者望月が工場労働者の賃
粛殺に見合う程度の金額と
〃いう意味である・政府は
この要求に対して、二万
一六一六円で折り合いた
い意向のようである。
∼きε㌔ーー
四
四
二
六
円
、
その欠損
一万六三七五円字
三九年、一万口〇〇〇円
四〇年、
している人間とは、立場に
夢は実現したけれど
新任校長の嘆き
葦し膏h、一
そして日通にはかたられ の内一i一・五ヘクター の所得補償を、政府に黒
柳川では転炉業名に大量 ル耕作している農家は、 聾する権利があるはずだ㌔
の米を盗まれるふしだら 二五%にすぎない。七五 日本経済の悪循環が依〃
消費者価格は一万九千 %は兼業農家で売るほど 然・して米︵・言力でハ
ない︶によって左右され%
六円であるが、諸経費差 の米は耕作していない。
生産者価格か上れば消 ているのを見ると、経済〃
噺価、一五〇・。二二三一酬い米を経費をかけて貯蔵書記長もいずれ劣らぬ大者価格に所得補憤がある耀
声を発してるところをテ ように、高米価の雇接の〆
”O円、これば﹃生産費・ し、油気がぬけてパサ、
鰯所得補償﹄という価格で パサになってから国民に レビで祖聴した一が、 被害者は、高い米を買う蛎
儲所得補償とは、米の生産 喰わせようという寸法。 農家総戸数五五〇万戸 のにさし支えのない程度〃
μ国農業会議所︶の要求半獣がうなっている。うま断言した。社会党の山本なる。このことは、生産︵
吻大幅にあがる。農業二叩いての大豊作である。政をはって挨拶し﹁みなさを脅かされるのは幾千万媚
〃体︵全国農協中央会、全府の倉庫には半年分の古んの要望に必ず添う﹂とかの貧乏人ということに”
”四三年下生馨米価が・の間米作はひきつつ国農協袋者会議に、歯し粂の値上りで、生活︵
ノ ガ
〃 四三年、二万一六一六円自民党の福田幹事長は全七万五千年目富農が生産〃
て立見席 哩難筋批鍋繭臓畠幅レ編馬齢硝臨調鷲識 てのことと思う。しかし限
界点に達した政権の補強策
としてこのエリ:トが得意
顔でうち出したスジ論はあ
まりに政治性がなさすぎた
のキャリアを、一挙に奪取
福岡県の教組がもつ二十年
題は労働組合の意見を聞い
た上でなければ決定しない
のに、法を盾にして、入事
に組合が干渉する権限はな
いと、組合の存在を全く無
の非民主的な独善があやま
ちの最大である。
善が教育の場を舞台にして
しかも、その非民主的独
して黙視しがたい点がある
行われたところに、県民と
彼は、おそらく、東京で
そのような使命をおわされ
実現可能な案を出す﹂とい 愚を犯してもらいたくない
ていると想像すれば、彼の 岡県で新任教育長の一存で
偏
向
政
策
に
、
真
正
面
か
ら
政
った。小骨を抜き、脊骨を 結腹切れというのでなく反
逸る気持ちも満更分らない 教組のキャリアが廃棄でき 府に対抗して正しい教育の
﹁着任さいすれば、それ ではないが、それにして ると思っていたら、随分お ために挺身している教組に 抜き、じゃまになるものは 省せよというのだ。時の氏
から後はどうにでもなる﹂ も、教組にたいしてああま 粗末なドン・キホーテだ。 出世第一主義の地方官僚が 筋まで抜いてしまった法案 神の出現もありそうにない
と、だが、新任校長は、い で露骨に挑戦しなくてもよ 自分の手にすべての実権を 才器にまかせて突っぱしっ は国民の期待とは正反対だ 紛争だけに、当事者が善処
まもって立往生の体である かっただろうにと思う。
﹁黒い霧﹂発生当時の自民 して解決方法を見出すより
掌握したい下心ばかり先行 たのだ。こんな場合人間に
吉久教育長はたいへん認識 スジ論をぶったり、着任 して、独善的採配をふるえ とっていちばん肝心なのは 党の神妙さとはまったく興 ほかに術はないだろう。
っている。現状に即したも それには順序というもの
不足をしていたようだ。
したら話し合ってもよいな ばよい吉久教育長と違って 誠意であるが、それがみじ
んもありはしなかった。あ のでないと実現の可能性か がある。しかけた側がまず
知らぬエ リート
周辺に及ぼす影響がきわめ ではない。エリートの計算 ってよいと思うのか。
国民に対して誠実でなから
て大きい。ことに、学校関 には大きな誤謬があった。
ねばならぬ。でないと地方
係は生徒の感情についても 夢と現実の間はあまりに隔
の豆官僚が中央に認めても
意をそそがないと、︺方的 たりがありすぎた。
らいたさの一念から、この
に押しの一手でやろうとす 教組にとって、二十年の
上また、どんな無責任なこ
ると収拾がつかなくなる。 キャリアは既得権である。 佐藤首相が﹁政治資金規 とをひき起すかもしれない
過去二十年間、話し合い
既
得
権
を
踏
み
に
じ
ら
れ
て
教
正
法案は次の議会に提出す 自分の失敗を隠蔽するため
る。現下の状勢に適合した にさらにあやまちを重ねる
さりとて読物としては単純 でもするという意志にも通
大きな相違がある。
は
許
さ
ぬ
﹂
。
そ
れ
が
福
岡
県
である。それにしても新校
すぎて、かえって、歴史の する。まことに低劣な智能
それが、就任を拒否され
教
育
長
の
今
回
の
大
英
断
の
根
長の心境はいとど哀れをも
真価をおとすことになる。
て、警官につき添われてむ よおす。しかし、教組が健
であると魯、口うほかはない。 拠となっている。
但し、それは、いま科学 自己及び自派に有利な条
教育に関する一切の権限 りやり、校長のイスに腰を 在である以上、対立除去は
的教育をうけたものの感情 件を獲得するために、話し
を組合からはく恋せねばな おろしては見たものの、そ 困難である。かといって第
で、これから産れてくる者 合いという最良の慣習を、
らぬ。それが、このエリー のかけ心地は釧の隔以上に 二組合の陰謀も、鵜崎知事
はどんな歴史感をもつやら 法にはそんなことを規定し トのバック・ボーンである 校長の神経に突き奪った。
の頃からありたが、なかな
いま日本国民は戦前、戦中 ていないといって、スジ論 その強引な所業が今日の混 頼みの綱は教育長の手腕で
か対抗勢力にまでは成長し
戦後と、観念の上に大きな だけを押しとおそうとした 乱を招来している。
あっただろうが、福岡県高 ないようである。大切な教
ズレがあるが、神話の復活 エリート意識の、自信過剰 人事は慎重に扱わないと 教組はそんなるい弱な組織
育問題をこんな風に取り扱
に、緊急必須の点において いのだから科学的に教育さ た。法にないから参与させ
いちばん関心を高めなくて れた人間には、非科学的な ないという考え方は、法に
はならない。物価は、値上 点がこっけいに思われて、 抵触しなければどんなこと ﹁人事問題に組合の干渉
あり子弟の問題であるが故 ちあげさしたつくり話が多 視して校長の移動を行っ
一一問題は自分たちの生活で めに都合のよいようにでっ
く口に出されるはずがない
株式会社などでさえ人事問
筆者がいま一蕃関心をも た社会体制に変えようとし 言いそうな言葉を二面もな
I﹂などと、不動産屋の
﹁話し合う﹂ということ てこの推論を否定しようと に達しているガタガタ政権
真
実彼が、教育のことを
は人間の社会が共同体であ しても無駄であることを念 が、小学校の歴史教育に神
考
え
ているのであったら、
話を加えて、愛国教育に偏
﹁着任しさいしたら、後は
向し、再び天皇を中心とし
しようとはりきった勇気の
ていないことはあるまいが
実体は、自身の出世街道を
効果はまったく現われない ばく進ずるための手段では
そんな、政権担当の限界 なかったのか。
鳥 久
本構編響鴨
、
由に意見を表明できる社会 問題である。ベトナムや沖 神話の類は、人間がまだ
を民主講義という。民主々 縄の問題もわれわれが率先 未開であった頃の幻想が伝
義政治は議会によって代表 してやらねばならない重大 説として国民に親しまれて
されている。だから、議会 問題であることは十分認識 いるものであるが、日本の
しているが、教育と物価の 神話は、権力者が自分のた
てはならない。そんなこと
は多数派横暴などのそしり
をうけるようなことがあっ
の中にあくらをかいていら
があれば非民主的議会とい
うことになる。そして議員 屋台骨が揺らめくと、そ
とに論議を進める。そして 吉久教育長によっ一て行われ
本論はかような前提のも 棒を加えねばならぬ。先般
そんな国家は民主々義国家 れなくなる。だから、建造
も
ではないという決論になる 物の弱った部分に突つかい
を選挙するのは国民だから
、
,
神話が復活する
’
る以上、お互いの生活をも のために申し添えておく。
っとも安全にするためにと
社㎜
’
ないと弁解している態度は 先に反省して誠意を示すこ
るのはただ権道だけ。
その結果、生徒まで被害 国民に豹する詐欺である。 とだ。くだらぬ意地っばり
者にしてしまった。強制着 国民は、もっとも峻厳な法 はよした方がよい。
㌧
ノ
、
置留
この論議はあくまで筆者の た、福岡県高校長の着任事 彼はかって、岐阜県かど どと人を喰った言い分は、 校長は現場に居って教職員
推論、別の言葉でいうと邪 件はその支柱としてであっ こかで、教育問題の紛争に 福岡県教育の支配者の立場 と、毎日接触しなければ職
た。彼はその際スジ論を押 抜群の功績をあげたことが にある人の言語としては重 務は果されない。教育庁の
他に、どんよ正論が現われ しとおそうとして豪語した あるそうだが、今回の福岡 厚さが足りなさすぎる。
奥に胡座︵こぎ︶して指令
/、
、
〆
覧
推であるかもしれないから
、
簡
、
吉久福岡県教育長
脇 〃 肋〃 肋泌
毎月20日発行
的
治
口
政
ρ
﹂
(昭和41年4月1日第三種郵便物認可)
昭和43年6月20日
第45号
(1)
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、
ワ
樹
南筑農村を行く
聞いていたのかもしれない 危殆に瀕し、危険の度は、
一口臼㍑,1 ﹁﹁﹂賎’漣ρρ’一
村井林平
ヘ ヘ
N/
♂
副会長
〆
石実
常務理事 三江八
エ
〃 3 i 4604
夜間413125
難懸螺総評議会
佐賀市千代町労働会館内
TEL四−三〇二五
長泣 崎
事務局長野 ロ 昌 敏
三光株式会社
電話代表②6351
久留米市通町3の88
藤岡市下川欝・番・号墨袋②③銘署
西日本相互銀行
禽
東平雄
佐賀市赤松町農業会館
佐賀413111︵大代︶
源
佐賀県経済農業
協同組合連合会
しだしているのはダイナマ
イトである。しかも、導火
線を短く切りつめた一触即
玉垂多5ノ﹂⋮r臣一﹂⋮幽⋮..塗ーズ
ろもの。
堀立
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’
塾r
重
の道は多難なわけ。残念だ ず身を潜めたが、村井が臭 げて、同志たちをふりかえ
悪材料ばかり思いうかべる
竺八
が冷酷無常な権力に抵抗す いとのんきな声をだして、 り、および腰で前進しはじ
そこで考えた。そしてこ
る以上、そうした弾圧は当 少しさきの古井戸の側に行 めたが、ガラの上の歩行が
の道一途と思いつめたのは
ひどく気がかりになった。
ってしゃがんだ。
責任回避の行為ではあるが 打ち壊しが勃発したとき 初から覚悟のうえである。
土地仮処分を許した判事に どの炭鉱も、きわめてもの 村井は資性明朗でこのよ 有機質の沈澱していそう やっとの思いでくだんの
家にたどりつき、戸のすき
暴力を振ってしばらく蒸発 わかりのよい経営者であっ うに険悪な道に立っても悲 な風雅な井戸は、暗くて穏
へ
しよう。懲役に行ってしま たが、軍靴の音がきこえた 壮な表現は、言葉のはしに れるのにもつとも屈強の場 間からのぞくと、中では、
えば憎まれもすまいと思っ とたんに、たちまち態度が も態度にも微じんもない。 所だった。しばらく様子を 花ふだとばくをやっている
一変して、坑夫たちの要求 彼こそ行動派のチャンピオ うかがっていたが、まず、 最中であった。室の片隅に
て鳥栖に帰った。
吉田が飛び出した。彼は、 手もちぶさたでいるのは戦
理屈ぬきの即戦即決、本 には全然耳を傾けないよう ンで、事に当たって即座に
居
鳥
かって、この納屋にいたこ 斗力を失ったやつ。
〆
部に居合せた吉田藤三を現 になった。ことに峰地二言 下す判断が誠に正確である
﹁ほツ⋮来たか〃チョウ”
とがあるので、今夜は先導
の発砲事件で死傷者をだし だから十八日には、もう、
って新ちゃんが支部長で、門 して、村長の奮起を要請し 場証入としてついてきても
の役割りである。
さん、待ってたホイだ﹂
ろうことにし、阜朝、久留 さらに、騒動のあと始未の より以上混乱の渦中に止る
﹁鳥居さん﹂、1。
ヘ へ
た
。
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の
結
果
、
こ
こ
数
日
の
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な
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さ
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こ
に
結
め
き
ことは無意義、ことに暴動 村井は吉田の姿を凝視し ﹁あーツ!いけねえ、イノ
米市篠山町、福岡地方裁判 ため二十日から三日間盆休 ノ
と言って、おばさんはまだ りで、こんなに熱心にやっ 間、即ち私の留守中におい
みということになり、午後 の首魁と目される連中は対 ていた。星影がさえかえっ シカ手持ちで、今度こそ間
所久留米支部の監督判事、
涙をうかべていた。おばさ ていられるのに、立入禁止 て不祥事は起こさないこと
ている。吉田が前進を始め 違いねえと思うとったの
安藤芋︵しげる︶の官舎に 十一時頃、峰地一画の男女 象を異にしている人間で、
んとは中尾のおじさんの妻 をうけて、組合員はもちろ を村長は責任をもって約束
おしかけ面会を求めた。彼 坑夫五、六十名が盆踊りを 彼の目には争乱の中で無秩 たのを見てビラまきの二人 に、ついてねえ一﹂
で、大きな家に一入息子の ん、部落の人たちにも面目 した。そして、一部には村 ヤストロイモ
しているのを、巡査が解散 序に暴走する徒にすぎない が除々に行動を開始した。 と言ってほたんのカスを
長不信の声があるにはあっ は陰では、安藤芋と呼ばれ
善ちゃんと二人きりなので がござい窪せん﹂
を命じたのに対して不服で そんな者の道づれになって 新聞配辻のように、二戸 二枚座布団にたたきつけた
たが、まあよかろ、という た。本人はこのニソク・ネ
中尾夫婦が同居を要嘔され ﹁⋮⋮⋮⋮﹂
一戸家の中に差し入れて行 彼も昔はこんな仲間の一人
あった前田庄太郎を逮捕添 逮捕されることは、階級斗
そこへ中尾の姉さんが哲ち ﹁ところがなんにもおっ ことになって私は鳥栖へ帰 ームを非常に気にしていた
争
の裏切りも同然である。 く。石炭のたきガラを家こ だった。背懐かしくなった
りた。そのとたんに土地の ということであるが、その
ゃんという子をつれて加わ しゃらず、両手をついて、
だから彼は、まず、数少 とにまき散らしてあるので わけではないが、っいっい
〃やすとういも〃がどうか
〃すみません”と、あやま 仮処分が断行された。
り、善ちゃんも哲ちゃんも
い大切な同志を退散させて 地下タビをはいているけれ うっかり覗いていると警備
要するにだまされたやつ すると、実に名判決を下す
小学校の一年生ぐらいだっ んなすったですものネ﹂
その後で、自分も一応県外 ども、足を運ぶたびにかす 係りが三人、まったく偶然
がばかだ。研ぎすました槍 こともあると、農民組合の
た。このほかに、田中二七 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂
に
難
を
避
け
た
の
で
あ
る
。
かな音ではあるがザク、注 であるが、吉田の背後に迫
顧問弁護士大石栄は言って
の姪︵一六才位︶とその三 これは組合が村長に、い の穂先のように寝た間も神
ってきた。
しかし、星野のところで 意すればするほど、・ガラを
っぱいくわされたときの情 経をとがらして、ここから いた。その〃安遭いも〃の
三ちゃんたちより学校は一
﹁誰だ一し
政吉の話をきいて村井は、 踏みしめる音は自分の耳に
一歩も動かれないでいるこ住宅に聖慮無用と悲壮な決
級上のようだった。実に復 況である。村長は内田とい
﹁あーツ﹂
少年を助けてやりたいと思 ひびく。ようやく西側の一
意をして乗り込んだのであ
合体の家庭である。中尾の う人だった。その頃私は鳥 とは、時が時だけに人力消
った。そして、も少しの 列をまき終ったとき、村井 吉田はちゅうちょなく懐
る。年は二八、さわらばな
葬式に行ったとき、このお 栖と東山村の間を駆けめぐ 耗の不経済と遭え、村長の
間、様子を見てからにした は、ほっとひと息ついた。 中電灯をぱっと光らして、
まふじでも蹴切ろう勢い。
ばさんも来ていたが、−善ち り身も心も休まる日は片時 政治手腕に期待しようとし
ほうがよくはないかと心配 そして吉田がーーピラ配 礫のごとく駆けだした。不
﹁役所で会う。先に行って
ゃんは大東亜戦で戦死した もなかった。基山争議では たのが、そもそもの思い違
する星野の好意を謝して福 りの二人がーー。
意の引き上げの合図にビラ
待っていてくれ﹂との口上
そうである。おばさんは孤 立入禁止の唄をスツトント いであった。
岡市の森宗知のところに帰 次の棟に働きかけるとき、 係りもいっさんに走った。
そんなあまつちよろい信
独にたえかねたのであろう ン節や鴨三江節に合うよう こんな事情に基づいて立
った。そして、政吉の件に 彼も大急ぎに前進し四辻に 村井が同志を気づかって万
じやないそとばかり、玄関
実家に帰っているとのこと 作詞し、ガリ判ズりしたま 人禁止処分をうけたのだか
ついては宗知師が、すべて 立って、左右と後方に気を
一の場合に備えていると、
ではよかったが、生れつい ら、おかしな弁解をしたら に座り込んで石のように固
であった。
引き受けてくれると言うの 配らなければならなかった 警笛がひびいて、怒声があ
何しろ三十数年ぶり、絶 ての音痴で児童に歌わせる 私自身の人格をさげすまれ くなっていた。この光景に
で彼は頑ちに、田川郡の川 こうしてようやく納屋の中 がり、手ンでに棒を携えて
えて久しき対面である。お のにとても苦労したq盟休 る。だから、なんにも言わ さしもの判事も折れたと見
崎
町
に
潜
行
し
て
数
名
の
同
志
央
に達したのであるが、吉 バクチ場から押しだしてき
ばさんの現在の境遇は知る 事件では福田と私が検挙さ ないであやまったのである え、遂に私共を客間にとお
と対策を協議した。
田が先行しつつある納屋の た。量︵あに︶はからんや
した。待つ間もなく現われ
.ーミー、ーーミ 由もないが、一入息子の戦 れ即決で掬留二十五日に処 低頭したら涙が急にわいて
それからの結果が、次の 左端の戸がガラリと開いた 吉田が覗いていた家は、人
死は、この婦人の人生観に せられたので、正式裁判の きて、こらえようとすると た判事は、どうして〃やす
ように行動派の本領を発揮 ハットした瞬間、吉田はバ 事係りを中心にした飯場の
大きな転機をもたらしただ 手続きをしたが出庭するヒ かえってとどまらない。集 とういも”どころか、面長 田町警部派出所へ連行の途
乱暴者の一団であった。
ってる人たちもつられて鼻 の顔で鼻下にヒゲをたくわ 中逃走しようとしたのを北 するにいたった。
ラばいになり、全神経を一 マがおしく、控訴、上告の
ろうと想像する。
点に集中して前方をうかが 四人は四辻でひとかたま
えた長身の、堂々たる風格 方歩兵第四七連隊第三中隊
このおばさんは信仰が厚 手続きをするばかりで、裁 をすすりはじめた。厳粛な
った。ここで発見きれたん りになって、撰力団とにら
一等卒矢野村造が銃剣で刺 原始的建造物を有刺鉄線
く縞染上人の礼賛者だった 判はまったくほうりっぱな ふんい気に一座はおおわれ の年配の男だった。
判事が座につくと私はず し殺した。こんな軍の常軌 で囲んである。そして、要 では袋の中の鼠も同然、と みあった。
当時の農村には、こんな風 しだった。この問題には渡 て誰も発言する者はいな
考えて固唾を呑み地に伏し
﹁貴様ら一。なんだツ﹂
辺政之輔に関する後日談が い。信心深いおばさんに いと身をすすめて彼との間 を逸した圧力に、さしもの 害の場所には大きな電幻を
の信心家が多かったので 、
ていると、恐怖の対象は降 ﹁なんだというンだツ﹂
隔を縮めた。黙って彼の顔 荒くれ男たちも抵抗のしょ 新設してあった。それは、
私は座談会ではよく親旧の あるが、それは上告︵今の は、私の自信を失ったあわ
米騒動以来、外部との接触 るような星くずの下で、大 ﹁どろ棒か、夜ながに人の
事蹟を例にとって、農民運 最高裁、当時の大審院︶が れな姿が、敬謙な求道者の を見つめている。私は飛び うがなかった。そのうえ検
かかる機会ばかり考えて、 挙の手はぞくぞくひろげら を恐れるようになりた炭鉱 気を吸いながら両足をふん 家を覗く奴アー﹂
動の蝉屈にこじつけて話を 棄却になったときのことで ように美しく映じたのかも
自分の方からは口をきかな れていくのである。
が、あわてて坑夫納屋に ばって、一人ごとを言い言 なんとか言わねえかツL
したものである。筆者が便 昭和二年のできことである しれぬ。
﹁なくれーツ﹂
かった。
こうなると組織のない悲 施した臨機の処置であった い前をまくった。
法として話したことを、こ いずれ後で詳述するつもり さて、この失敗はいかに
﹁ばか野郎。これ見ろツ﹂
しさ、権力をバックにする 村井らはなるだけ暗い場 ガラの上にほとばしる音
して取りもどすべきか。な ﹁どんな用件ですか﹂
のおばさんは、お上人様と でいる。
と、ライターをパチリ、
鳥居をならべて首を傾けて 客観的状勢は一触即発の んといっても先方には、坂 じり、じり、判事の方にに 暴力に屈服せざるを得なか 所を目ざして納屋の近くに がじゆう、じゆう一。し
った。しかし、まいた種の 忍びよって、一入がペンチ こたま溜っていたらしくな そして敵の真つただ中に突
田という大地主の、しかも じりよって、膝と膝との間
っこんだ。村井が右手にさ
(41)
﹁今夜こそ、あなツさん いずれとも野土をつけがた 有力な弁護士がひかえてい 隔がほとんどなくなろうと 全部が踏みにじられて根だ を鉄線にあてて、力をこめ んとじゆう、じゆうのなが
の真意がうかがえると思っ い。かかる状態のもとで東 る。味方は三反百姓の小人 するところまで身を進めて やしになったわけではない るとプツンと音をたてた。 いこと。
ていました。あなたがもし 山村にばかり、釘付けにな 数、いかに考えても敗北感 ﹁山門郡東山村の立入禁 いったんまいた種はどこに 独立家屋になっている便所 ﹃あ一あーツ﹄とさも気持
も、言訳がましいことをお っていることは愚かしい至 が募るばかりで画策のたて 止の件について﹂というと か残っている。ただ雌伏の の電知が煤けた傘の下で鈍 ちよさそうな声をだして長
言いだりたら、だまってい りと考えて、役場に村長を ようがない。あせった。し ﹁どうかしたのですか﹂態 期間が長くつづくのはやむ いだいだい色に輝いている 小便の男が家に入ると、吉
を得ない。それだけ先駆者 彼らは、そこに、とりあえ 田はおもむろに頭をもちあ
ないつもりでいました。だ 訪簡して自分の真意を三三 かし、あせればあせるほど 塵が丁寧ある。
1西日本最大のネットサービス
ま
雪
、、
(2)
昭和43年6月20日
、
十一月二十日正午木山座
三崎君のイデオロギーが組
腹切り男
フ者、忠君愛国ニモユル ⋮⋮L負けることを知りな
つた。間もなく稲村君がや
のピラニ通、 ﹁傲﹂﹁告﹂
その当時の﹁農民大会﹂
違いない。
同窓で無二の親友であった 日本農民組合三養基郡連合 安泰等の文句が当時の社会
相で、武田慰や三宅君とは 会が創立されたということ 感情への追従や官憲の弾圧
イデオロギー抜でその時代 は、鳥栖、基山地方の地主 を避くる便宜かと割引して
からの知己であり、約半世 小作はもとより社会一般に 考えても一寸ひど過ぎるし
紀ぶりの対面ということだ も大事件であったことには 尚、燃ゆるような反逆心と
って来て、料亭﹁なごや﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
’
期的に行われ、左翼運動は 会社法を公布した。
たが、なかなか、当方の申
以上のような経緯を前提 し入れを聞いてくれないL
に物語りはつづけられる。
のだ参か−一﹂
六円しかしていなかった頃 というので数日後、支店
﹁何か一よい智恵はないも
それは石炭がまだ屯五−
東邦電力名島発電所は貯炭 長に会って交渉したら、旧
の山の処置に苦しんでいた 領は記憶していないけれど
も三分の二くらいにまけて
自然発火を恐れて量を制限
しようと占心したが、炭鉱 くれることになった。そこ
の方では不況時になると支 で筆者は得々としてこの旨
払いの確凱なところに、て 大山に伝えたところへ動力
きるだけ沢山捻ち込もうと 設備はやめにしたという。
、嘱,鑛 歪
話⑯4431∼9
岡市大名二丁目12番1号
金相互銀行
議院議員
谷治嘉
長坂井哲夫
話鳥−栖2310
務所 鳥栖市鎗田町
栖青果株式会社
﹁動力よりボイラーの方が
をみつめていたら、彼、
する。そんなことでいかほ これはまた、なんという
ことをと思って、やつの顔
ど制限しても、貯炭の山は
だから発竃所も自衛手段と
大きくなるばかりだった。
﹁これが名古屋だったら、
えて黙っていたら、
人間の心理というものは、
して、約束以外のものはど 安くつく一﹂どぬかす。
おもしろいもので〃主任は んなささいなことでも厳重 じゃ、なぜ、会社に動力の
不公平である。右翼ばかり に取り締った。
ことを申し込んだのかと考
入した石炭の上に猫の死骸
大切にして、左翼は無視し たとえば、ある炭鉱が納
ている”と奮慨しながら、
〃しかし、あんたは、いま かのっていたということで 海東をよく知っているから
さら、右翼に追随するよう 炭鉱主を呼びつけて始末書 手数はいらないが、ここ
︵東邦福岡支店︶には知っ
なことはしなさるなよ”と を取った話など、まったく
てるものがいないので困っ
筆者を慰めるかたわら自ら 驚異に値する珍談である。
もうっ奮をはらしていた。
このようなある時、筆者 ていたんだ。そのところへ
自分の意見を発表するこ は何かの用件で東邦電力福 あんたと出会った﹂
とのできない世の中ほとみ 岡支店に行き処要をすまし 頼むからひとはだ脱いでく
じめなものはない。かくの て帰る際、ばったり出会っ れないかと、どうやら電力
ごとき客観的状勢、つまり たのが大山鉄之助である。 聞題とは関係がないらしい
﹁脱くも脱がぬも俺の出る
日支事変から大東亜戦、大 彼は大正十二年、八幡製鉄
幕はないじゃないか﹂
平洋戦争へと発展し国民の 所を首になった男。
﹁いや、そこだテ、あんた
前には暗い断屈が屹立し 北九州でしばらく労働運
た。核兵器の何たるものか 動をしていたが、いつの間 にひとはだ脱いでもらいた
意識せず、竹槍や、バケツ にか右翼に投じ、東京−名 いのは、ホイラーは二、三
リレーの訓練、天弁板除去 古屋あたりをうろついてい 日中に届く。据え叩けの準
の指令一天井板があると焼 たらしい。その間の消息は 備は整ってるから炭はすぐ
》
本治一郎後継者
式会社松本組社長
A鋼峨照久原忠夫
かし陽痕は鮮かに残ってい の横山通夫氏、導入は現在
た。そのときの写真入りの 中部電力KKの社長である
新聞を人に見せては得京に 年は若かったが、東邦福岡
りでやったのではない。し
わり込んで腹を切った。が になり、ころあいを見はか
もとより、本気で死ぬつも らつて交渉を開始したが、
このときの相手は営業課長
邸を訪れ、首相に面会を求 信は蟹かったが〃行くとこ
めたが拒絶され、玄関にす ろまで行け〃という気持ち
夷弾が屋根裏に止る。それ もちろんわれわれには分ら 出る。出炭したら名島発電
は火事を起す元に勘る。だ なかった。一九二七年四月 所に納められるように尽力
から除去せよというのだっ 二〇日から、一九二九年七 してくれないか﹂
たpそして、二十年八月十 月二日までは田中義一内閣 随分虫のよい得手勝手な
三日午前十時?頃、久留米 である。そのいずれの日に 計算をしていると思ったが
かであるが、大山は首相官 乗りかかった船である。自
我等の骨の髄までしゃぶる り治安維持法に死刑、無期 天井板に支えられる道理が
悪魔である。オー恐ろしい 刑を追加、七月三日には内 ない。爆弾は地上を焼き払
我等兄弟よ醒めよ。奮然立
務
省に特別高等警察三鼎野 う目的で投下するのた。そ
って左記事項を断行せん
芝四日憲兵隊に居想係設置 れを原始的方法︵バケツリ
﹁月隈で炭鉱を始めようと は辛いと定評はあったが開
て十三年四月六日、電力国
管家隷法、日本発送電株式 思い、動力の事を相談にき きが余りにありすぎた。
支店の実力者だった。
十月六日、日本共産党首脳 レー︶で対抗せよと指令し なっている男だった。
共に、一方こんな低俗な理 決議
°}に争議を解決する 渡辺政之輔が台湾キールン た蟹−の心境は哀れである。 縫紋の羽織、袴で、草履 炭価を決定するのはカロ
念の底流があったかと思う
恵め協力一致悪魔の甘言 で刑事を射殺して自殺す。 昭和十一年三月十七日政 ばきの姿は根っからの県力 リー。大山は若松で、会社
と、騨然たるものがある。
府は電力国営に関する内閣 団らしくもなく、かといっ は名島で検査をしたが結果
調査局原案発表、六月九日 て労働運動の前歴がある者 はこ千カロリー以上の開き
電力国家管理案発表、そし とはなおさら思われない。 がある。若松は甘く、名島
十二月二十八日労働農民党
の表題を以てした宣伝文が それは兎も角、大日本農 を排す
二、争議調停者に佐賀県警 の結成大会、二十四日結社
二枚残っているが、内容は 民組合九州中央本部とは、
禁止、二十八日政治的自由
察部長を推薦す
同巧異曲である。それに対 日農福岡県連合会︵九州連
して地主側の小作人に訴え 合会︶の高崎正戸君に対抗 これも亦長たらしい悪文で 獲得労農同盟準備会創立宣
言等々、革新運動弾圧が画
ある。 伊藤光次
る宣伝文がある。如何には した態度である。たとえ、
に案内され、優雅な昼食の
御馳走になって、いろいろ
昔の話がはずんだ。
私はその三三らしく早目
を持って来るのを忘れて、
に発刊した﹁風雪﹂四四号
︵
一、
瓢馳
蝸糟
一多毫髪一2多言ーク老多宅多’霧.多毛多妻,多’多冤,多’宅,6多象吻蓑,多ら弓.2多象、多多写,6多’多選.多’多3多宅8多’毛嚢乏多’塗多’弓多妻彰ゑ多妻脅多≧
九州農民運動家列伝
て、日本航空KKに入り、
間もなく農民戦線を離脱し
全農三佐連合会
会長重松愛三郎
十七
再三余談で恐れ入るが、
去る五月二十日東京宝塚劇
場で開催された、全国共済
農協連の表彰式に私も関係
者の一人として出席したが
当日来賓として臨席してい
た先輩三宅正一代議士に、
ヘ ヤ へ ゐ
一方地主側の宣伝文は、
﹁目醒めよ小作人兄弟よ﹂
の橡語と反対に、争議を解
ヘ ヘ ヘ へ
ぬ へ ゐ ヤ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヵ へ
帝国臣民ハ来レ、横暴ノ がら弁護士を紹介し、永続
地主モ聞ケ、ソシテ国家 しないことを知りながら共
心 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
宅君の部屋を訪れると三宅 に農民運動に返り咲いて、
君はショウジ氏と第二衆議 当初県会議員になったりし
社会ヲ正視セヨ買
者、社会国家ノ安定ヲ希 動化を待つのみと言明す⋮
たが、農民運動の凋落と共
に皆と同じように不遇のよ
廊下でパソタリ出会った。
迎えた。 、
三宅君はいきなり﹁君は明 大連支店長やシンガポール
日十一時僕の所に来れない 支店長を歴任し、丁度社用
ヘ ヘ へ う
で帰国している時に終戦を
︶か﹂と言って、ショウジ君
り取ラルルが三二益々貧 民組合という全国的組織が
乏スル。何故絞リ取ラレ 何処にあるかと。
何故貧乏スルカ?貧乏人 それでも鳥居君の言葉を
ノ社会的地位如何?貧乏 以てすれば、まだ四月まで
人ノ権利果シテ如何?小 その看板がか∼っていたと
いうから、初期の重松会長
テ如何ナル権利ヲ有スル の﹁明治﹂に対するノスタ
作人、借地借家人三瀬シ
弁主事石田樹心
ったのであろうか。
三 一緒に行かないかというこ
︵
とだった。武田君とは上京 私の獄中での拙詠があるが
前東京で会って中村霜とい 終戦後彼が再び日航に帰っ
会長距松愛三郎
ルジャーの執拗なものがあ
ていたら、恐らく彼も今頃
士 総本部弁護士法学士 と題して7・:・::彼等はそ
小岩井浄
へ ヘ ヘ ヵ ヘ ヵ
時代二目ザメ、自己ノ生 決する怠志は毛頭ない。只
活ノ安定ト充実ヲ希フ 農民組合は彼等小作人の感
うである。 ︵勿諭、世俗的
同耕作をさせる。この巧妙
院会館の稲村隆一沼に電話
をしていたが、早速クルマ
ヘ ヘ へ ゐ
十八
4所は、何と専売公社総裁室 筆者は菰で重松君の病気
ヘ ヘ ヘ へ り
第
で、ショウジ君とは専売公 の報告をしなければならな
社総裁東海林武雄氏であ いが、別項に﹁救援﹂を訴
5 面識もなかりたが、着いた
号
以上誰が原稿を書いたか で得た僅な金をまき上げて 即日禁止、同十九日第二次 は爆撃された。焼夷弾が落
えているし、尚現在重症と
る。
な
い が 、 まるで右翼暴 或は久留米市に塩妓を買い 山東出兵、五月三日済南事 下するときは、サーソ、ザ
東海林氏は旧建設者同盟 いう程でもないので割愛す 知ら
/
の同志故田所輝明君と小樽 ることとして本題に帰る。 力団のビラのような悪文で 或は組合本部二階で芸妓を 件、六月四日関東軍参謀河 ーソと暴風雨のような音を
中学から早稲田大学に至る 大正十三年︵一九二四︶ ある。忠君愛国とか皇国の あげる⋮⋮⋮彼等は我等の 本大作ら張作罧を爆殺、同 感じる。そんな勢いの爆弾
生血を吸うて尚あき足らず 月二十九日、緊急勅命によ が屋根を突破していまさり、
三養基郡連合会
で出掛けることにした。
起雲天兵
意味に於てであるが︶
東邦・九鉄時代(6)
ショウジ氏なる人と私は一
だと思ってよろしいと返事 るかも知れぬ。昔忘れぬキ
をした。翌日十一時きっか ネヅカというのか、郷里に
り私が第一衆議院会館に三 居座った彼は、我々と一緒
テドンナモノヵ?
う共通の友人を訪れる約束
は空のオエラ方になってい
カ?地主家主ノ権利果シ
をしていたので、丁度幸い
その当時︵一九二七年︶
るから来てくれというので 心憎めぬ男なるかな ・
物 兵衛君が上京していて、明 逃避せし奴なれど
便
郵日正午会うことになってい 唯なんとなく万兵衛は
三 から電話があって、武田万
ノ
合主義以上でないとしても
理屈ぬきに地下にもぐりこ
へ り
運動の先達であめ、更に三
まざるを得なくなった。
電力問題は、昭和三年か
養基郡連合会創立に多大の
そして、軍の野望たけが
ら十年頃まで散発的になさ
援助を受けたものである。
際限なく展開し、欲求を果
れ、世人の興味をそそった
それを単に俗物化して、自
すためには天皇の名を用い
が組織だった盛り上がりは
らをその上に置かんとする
国民を飢餓戦線に追いこみ
一度も見ることができなか
のは正に不遜極まることで った。強いて効果を言いた それをこまかすのに民族の
ある。
優越感をあおり、犠牲的観
てるならば、消費者に対す
筆者が帰郷して間もなく
念を義務づけて、一切の権
しまったと思っていたが、 げしい宣伝合戦が行われて
るサービス精神の反省資料
丁度小岩井氏が訴訟で見え
限を軍は掌握した。
︵ 郵 送 料 も 助 か る の で ︶ 何 いた か が 想 像 さ れ る が 、 そ の
としての役割りは果したと
しろ武田君の悪口を書いて 簡単なものを一つ宛紹介し ていたとき、大日本農民組 思う。たとえば、電気事業 政治も経済も軍と関係な
合の看板を下すよう二人で
しにはなりたたなかった。
いるので、東海林氏の手前 て、その当時の熱っぽい雰
法の著しい違反が少くなっ
かような傾向は当然右翼
重松君を説いた。 ﹁大﹂の
もあり、結局は忘れてよか 囲気の一半を覗いて見よう
たことなどは、その影響だ
字は帝国主義を意味する。
の台頭を促し、当時、筆渚
ったと思った。
聴ケー1.大講演早
と確認してもよいと思う。
グレ小ト・ブリテン。グレ
のところにも特高係りが毎
来レ ” ・ 全 九 州 ノ 小 作 人
武田君は戦前の運動では
昭和三年三月十五日、共
日一回は顔を見せていたが
イト・ヂャパン即ち我々の
産党員大検挙、四月十日労
貧乏人ハ絞り取ラル、絞 敵の名称だ。而も大日本農
(六)
而シテ相愛扶助挙国一致 な手段を以て小作人をだま
して争議を永びかせる。争
皇国ノ安泰ヲ計レH
大日本農民組合 議継続中は飯の喰いはずし 農党、評議会、無産青年同
主催九州中央本部 はない⋮⋮⋮馬鹿らしいの 盟に解散命令、四月十二日
は小作人だ。吾等が汗と油 労農党再建新党準備会結成
四
風
司
三種
’
の
、
〆
’
、
雪
鳥
裁判所書記官広瀬 達男 調停委員 野村福次郎
金拾万円
列席の上調停委員会を開い 調停委員 主計貞二
貼用印紙代 六百円
\
右は正本である。
たところ、
申立の趣旨
昭和三三年十月一六日
久留米市天神町二三九番地 申立人稟原治作
・相手方 鳥居重樹
ノ一、家屋番号第七七番
リ造瓦苺平屋建居宅一 各出頭した。 本調書が私の手許に届い
右期日において明確にす たのは十月二十三日である
棟建坪十九坪
申立人が相手方に賃貸した る条項は左の通りである。 本調停の経緯について簡
る前記家屋に対する昭和三 調停委員等とともに種々 単に説明を試みておく必要
がある。
十二年十月以降の賃料を金 調停を試みたところ
千百四拾円と変更し旦存続 当事者間に左のとおり調停 建坪一六坪︵実測=五坪
[合=勺︶とあるのは、家
期間を昭和三十四年十二月 が成立した。
主が建てたのは一六坪で、
までとする旨の調停を求む 調停条項
¥立人は相手方に対し 九坪一合二勺は鳥居が建増
争議の実情
申立人は相手方に対し昭 久留米市天神町二三九番地 ししたものという意味。
和十二年中本件家屋を賃貸 ノ一、家屋番号同町六〇番 それについて判事は、家
リ造瓦葺平家建居宅一 を明けるときは建増し分は
したるにより、公定の賃料
を月金千百四拾円に変更す 棟建坪一六坪︵実測二五坪 そのままにしてもらえない
一合二勺︶を左の条件で引 かと言ったが私は拒絶した
べく相手方に要望したるも
久商号外
②四十坪③二九三円。
鳥居重樹①十九坪、六六円 分けてあるのに床面積が十
この通牒に多少疑問を生 くいい加島のものである
坪と、十六坪になってるな
んて市役所の調査もまった
昭和二五年九月ニニ日
久留米市長岡幸三郎
通町二五七番地
栗原治作殿
じたので私は、念のため市
地代家賃の値上について 役所に行き台帳を閲覧した
ところ鳥居︵税務署家番号
貴殿貸与中の借地借家の統
救援を訴う
重松老入院施療中
古賀町古賀医院︵電話三四五七︶に入院施療中であり
九州農民運動の長老重松愛三郎君が現在、鳥栖市原
ます。往年の斗士も既に高齢︵七六︶であり、脳軟化
症が最近いささか高進したものと考えられますが、た
山中 一郎
稲田に黄金の波が打つ⋮・:
風が吹き雨が降って
﹁詩﹂峠の母
さ ぷ
三郎よ
救援運動を起こしているのです。そのことについて
の報告も早く申し上げたいと考えて七月七日に決定
鳥栖の同志たちは別項のように、彼の身を案じて
が、重松君が入院しました。
すぎる条件故、決定しかねていたのです。ところ
ました。地域的にも、交通の便も、そして環境のよ
いところで経費は旧来の程度でと、あまりに虫のよ
合っていましたがいつも場所の選定に行き悩んで今
日まで遷延して、またまた、農繁期を迎えてしまい
れています。去年はとうとうやれなかったので、本
年は三月頃からできるだけ農閑期にやりたいと話し
四日も、急に事情ができて繰り合わせがっかないと
の電話がかかってきましたので、まったく途方にく
印刷に回していましたところ十七日夜九時半頃にな
ってかねて交渉を依頼していた会場が、七日も、十
一応七月七日と決定して新聞にもその旨記載して
風雪の会総会
開催について
︵おわり︶
り
米ん
留
久け
\
17㈲24㈲
● ●
月
O ●
616㈲23㈲
15ω22㈹
新 治
電話③3202
久留米市国分町八三五
読者会事務所’
﹃翻身のソ連邦﹄
雑誌、図書類の紹介
経済、文化、学術の交流
/
電話⑯6631・⑯466
福岡市天神町12の1福岡ビル内
西日本鉄道株式会社
マッチ箱ほどに見えるぞな
三郎よこの峠から見下すと
と
お前を奪った警察が
さ ふ
やれやれこれからは楽な下
り坂
とを吹きぬける
実体調査をしているならこ この峠から見おろすと
百姓の秋、稔りの秋がきた
んな間違いは起こらない。 みり
お前を奪った警察の屋根が
すると百姓衆の眼の色がか
それより備えつけの台帳は
遠く小さく見えるぞな
わってくる
ちゃんと正しい数字になっ
四里の山道こえて始めて
﹁また旦那共に ごっそり
ているのに、どうしてこん
さ ぷ
警察に会いに行った日に
持って行かれるぞ 三郎や
な間違いが起こるのだろう
わしは泣いてお前に頼んだ
んがおったらなあ﹂
そしても一つ、開いた口 さ ぶ
コニ郎よ これからこれば
が塞がらないのは、固定資
き ぷ
かりは思い止まって⋮⋮﹂ 三
郎よ 百姓の秋じゃ
産税の課税対象としての敷 こわ
すると お前はみるも恐い 今朝もうちを出て来る途中
地四〇坪が六五・七七坪に
顔をして
思いもかけず
なっている。但しこれは市
﹁お母あ うじょうやみあ 穂波の中から声がする
役所の落度でなく家主が道
︵くやみごと︶止めてくれ ﹁山田のお母あ
路になっている部分を市に
さ ぷ
三郎やんに面会か
寄付しないであくまで私有 あの頃のつらさ
地としてとどめているから 村中がサーベル、泥靴に踏 みんな首を長こうして
帰りを待つとるちうてな﹂
で、家賃にはこんな余分の み荒され
わしは思はず泣けてきた
負担までが含めてある。
旦那共は急にのさばり出し さ ふ
たか
そうだとも 三郎よ
小作衆は集って言うたぞな
調書の文案は当事者に読 さ ぷ
お前の言う事に嘘はねえ
﹁おれたちア 三郎やんに
百姓の心はみんな一つよ
みきかして確認を求めてか
だまされた ひでえ目にあ
あ∼ 気持のええ風が胸も
ら作成するのが当然だから
わされた:⋮⋮﹂
とえ、急変はなくとも果して再起の希望がありゃ否や
も一度呼び出しをうけるだ
誰一人の加勢ものうて
そんなことはなく調書は十 としは
わしと年端もゆかぬ清とが
月二十三日突然家に届けら
れた。しかも、九月十八日 死にものぐるいで働いて
にできあがったものを十月 やっとその日を送ってきた
に捧げて、得る所牢獄と赤貧と老残とのみであるこ ろうと期待していたのに、
二十三日裁判所から持参し
と、みな人の知るところです。
ここにわたしたち相計って、この不遇の二言士の救
援について、旧来の同志諸君に訴えることとしました
願わくば最後の病床にある重松老のために、わたし
たのだから、私は不審と不
モ任者大石克己
いことになっているという
あれから半とし
いたします。
たちの発議に御賛同下さいますよう、幾重にもお願い
麦刈にも田植にも
案ぜざるを得ないものがあります。同入は一生を人民
制額は昭和二五年八月一日 六〇、市役所番号五九︶は
調停事件につき昭和三三年 之を承諾した。
貸家調停申立
以
降左記の通り改正になり 床面緒⋮十六坪、賃貸価格六
久留米市通町二五六番地 九月一八日午後一時久留米 昭和三三年九月一八日
ましたので承知下さい。尚 八円である。
簡易裁判所民事調停室にて 久留米市簡易裁判所
申立人 栗原治作
通牒は借主に見せて下さい 次に矢島政雄十坪、三二
宅地建物調停委員会
調停主任裁判官松尾伝次
同市天神町二三九審地
借家所在地天神町二三九 円四五銭、二十坪、市川秀
相手方鳥居重樹 調僻委員 野村福次郎 裁判所書記官広瀬達男 賃貸価格、①が家、②が 雄十六坪、六八円、ご十坪
調停委員 主計 貞ご 調停主任裁判官松尾伝次 敷地である。敷地の賃貸 は、税務署家屋番号七七、
調停を求むる目的物価格
価格は全部坪当り八八銭 市役所霧号六三−六四、床
樹
一室増設し、建具を新造、
安とが同時に起こった。急
之を容認する模様なく尚敷 続き賃貸すること。
鳥栖市長 安原 謙市 鳥栖市議 伊東光次
いで調書に目をとおすと末
地内に植込みたる樹令三十 ω期間昭和四三年九月 天井を張り︵戦時中軍の命 佐賀県議松隈いかる 鳥栖市議 大石克己
令ではがされたもの︶家を
尾に、 ﹁右調査は前同所に
年の梅桜等を自由にコ伐採 し 一 七 日 ま で 、
総評三地協議長 平塚 常雄
於て関係人に読聞かせたる
常識を逸したる行動を敢て ㈲賃料 昭和三三年九月 洗って、住宅の面目を一新
救援申込について
ところ之を承認した﹂とし
し而かも昭和三十三年六月 一日以降月額一三〇〇円 したが約四〇万円を要し
へ
煌z 一口 五〇〇円
た
ためてある。インチキも
四日、金六千四百円︵月金 ㈹価料支払方法 毎月末 た。その他、屋根瓦のさし
但し、便蝦上の設定につき多少を問わない
いいところだ。そして、あ
八百円の割︶昭和三十二年 日相手方往所で支払う。 替え畳の表替え、襖張り、
¥込場所鳥栖市東町総評三曲協内電294一 ほど念を押しておいたの
れ
月
以
降
昭
和
三
十
三
年
五 十
月 二、相手方が昭和三四年以 塀など一切を当方でやって
に〃更新”という文字は遂
賃
料
を
相
手
方
は
福
岡
降前項の曽料を引続きニケ おり家主は家賃をとるだけ
ま での
に穿つからなかりた。察す
務
局
久
留
米
支
局
に
供
託
し
月以上怠った時は、何等の だった 水道設備もこちら
法
面積一九坪、六六円だった るに調停官は、更新を押入
立
人
は
、
右
公
定
賃
催告を要せず当然本賃貸借 がやった。
③は地代家賃統制︵月額︶
た の で申
円②二十坪③二四八円、
﹁ではなぜ、読聞かせたと
い
代表理事 島
/
e
重
矢島、市川の家は鳥居宅の すれば家主が、入れなけれ
は解除となり、並に本件建 家賃の件については元小 借家人名
料
に
改
定
し
存
続
期
間
を
定
め
倉警察署長大塚己代作氏を 江崎誠一 ①十一坪、四四 裏で二軒長屋である。それ ば鳥居が承知しないだろう
た
い
の
で
本
申
立
に 及 び た る物を明渡すこと。
次
第
で
あ
り
ま
す 。 三、当事者双方は第一項記 介して、値上げに目をつむ 円五五銭②十九坪五合、坪 が市長通牒にはそれぞれ独 と考えて、こんな処置に出
付
属
書
類
載家屋の昭和三三年六月以 っていてくれたら、君のと 当り八八銭︵以下は省暑︶ 立家屋として取り扱いを受 たのであろう。
けているうえ市川と鳥居の 故に私は早速裁判所に行
証
明
書
降同年八月までの賃料を月 ころはただでよいがどうだ ③一七九円
ったら丁度、広瀬書記がい
矢島政雄、①十坪、三二円 家が入れ替っている。した
四五銭②二十坪③一四五円 がって市川、矢島では十九 たので前述の点を追求した
市川秀雄、①十六坪、六八 坪六六円、敷地二十坪で、 ら読んで聞かせなくてもよ
地代家賃統制額月二四八円
を矢島、市川で分担すれば
してたい\んな失敗をしました。
いずれ可及的すみやかに会場を確約して連絡いた
のか、読んで聞かせなくと
よいのをどこでどう間違え ころ之を琢諾したと書いた
たのか、前記の憶想になっ
すことにします。重松君のことについてもその際、
みなさんと相談したいと思っております。
てしまっていた。第一に二 もよいのなら、この項を削
軒の棟割り長屋は真半分に 除してくれ﹂と要求した。
、
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居
本調停の結果は左記調書は送金して支払うこと。
たので鳥居宅を合わせて六 古賀松太郎①十七坪五合
のとおりである。 四、調停費用は各自弁のこ 軒は、戦後の家貰値上げの 八七円②二十七坪五合③三
押せ押せムードに乗ずるこ 二二円、
調 書 と。
右当事者聞の昭和三三年右調停書は前岡所に隔て関 とができなかった。
内山重行①十九坪、一三九
円②三十坪五合⑥四八二円
ω第二〇号賃料値上等請求箇係人に読聞かせたるところ 資料︵家賃に関する︶
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発売開始12時
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額一一四〇円に改定するこ ろうとの相談があったが、
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と鴎合意し、相手方は右三 自分だけよけりや人のこと
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ケ月分の賃料を同年九月末 は知らないという気分には
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日までに申立人方に持参又 なりきれないで、がんばっ
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(4)
昭和43年6月20日
風
(第三種郵便物認可)
第45号
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