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広 島 県 医 師 会 朝鮮民主主義人民共和国訪問団報告

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広 島 県 医 師 会 朝鮮民主主義人民共和国訪問団報告
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広 島 県 医 師 会
朝鮮民主主義人民共和国訪問団報告
— 近 く て 遠 い 国 に 被 爆 者 を 訪 ね て —
去る 月 日昌から 日松の 日間、碓井静照広島県医師会長を団長とする広島県医師会
役職員 名に、リ・シルグン在日本朝鮮人被爆者連絡協議会長を加えた 名の訪朝団が、在
朝被爆者の実態を調査する目的で、朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)の首都ピョンヤン
を訪問した。実質 日間の短い滞在ではあったが、 名の被爆者のお話を拝聴するとともに、
反核平和のための朝鮮被爆者協会役員との懇談会、医学科学院放射線医学研究所関係者との
懇談会、被爆者を診療しているキム・マンユ病院の見学、核戦争防止国際医師会議(IPP
NW)のDPRK支部である朝鮮反核平和医師協会(KANPP)の表敬訪問など、過密な
スケジュールをこなし、多くの成果を得た。今後、広島に持ち帰った情報を元に、在朝被爆
者への支援が進展するように働きかけていければと考えている。
訪問団団長報告
広島県医師会北朝鮮(朝鮮民主
主義人民共和国、DPRK)訪問
団は「被爆者はどこにいても同じ
被爆者、どこの被爆者にも同じ医
療支援を」という人道的観点に
碓井 静照 立って平成 年 月 日から 日
広島県医師会長
間にわたって北朝鮮を訪問、在北
(団長)
朝鮮被爆者の代表、被爆者協会役
員と懇談し、医療施設キム・マンユ病院の視察
を行い、病院幹部と情報交換の機会をもった。
朝鮮半島には在日朝鮮人として広島、長崎で
被爆し、その後帰国した人が数千人いたといわ
れるが、中には日本の炭鉱や工場で働くために
強制的に日本に連れてこられ、たまたま被爆し
た人も多い。 北朝鮮についていえば、帰国したあと、被爆
者協会に登録された被爆者は , 人、現在生存
している被爆者は広島
人、長崎
人で、平
均年齢は 〜 歳である。これらの被爆者は日
本の被爆者と同じく高齢であり、おおかたの人
は下痢、腹痛などの胃腸症状や、めまい、脱力
感などの貧血症などの障害に日々悩まされてい
る。
今回の広島県医師会医師団のピョンヤン訪問
は近い将来における北朝鮮被爆者の「原爆健診」
などの医療支援の可能性を念頭においたもので、
現存する被爆者の数、健康状況の概要を把握し、
医療施設利用、その他協力団体などの協力の可
能性について模索するため、率直に意見を交換
しようとするものであった。
私たちは短い滞在ではあったが、対外文化連
絡協会の協力を得て精力的に活動し、かなり手
ごたえのある成果を得ることができた。
わが国は北朝鮮とは今のところ、国交はない
が、在外被爆者について「被爆者はどこにいて
も同じ被爆者、どこの被爆者にも同じ医療支援
を」という広島県医師会の考え方に立って国境
を越えて、北朝鮮被爆者に原爆健診などの医療
支援を行おうとするものである。この医療支援
は純粋に人道的立場、医学的立場からのもので
ある。また被爆者は高齢で後がないということ
も考えて、できるだけ早い時期に被爆者健診を
含めた支援を展開していこうとするものである。
今回の訪朝では被爆者、被爆者協会役員との
懇談、支援医療機関との情報交換のほかに、医
学科学院放射線医学研究所関係者との懇談、朝
大マスゲームと芸術公演「アリラン」
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
号)
年(平成
年) 月
日( )
在北朝鮮被爆者および反核平和のた
めの朝鮮被爆者協会役員との懇談会
月 日昭午前 時半より 時
までの 時間半にわたり、ピョン
ヤン市高麗ホテルの会議室にて標
記懇談会を行った。出席者は、標
記被爆者協会のパク・ムンスク副
松村 誠 会 長( 歳 女 性・長 崎 被 爆)
、
広島県医師会 リ・ケェソンさん( 歳女性・広
常任理事
島被爆)
、リ・トクイムさん(
歳女性・被爆 世)、そしてパク・ジョンゴンさ
ん( 歳男性・広島胎内被爆)の 名の被爆者
と反核平和朝鮮被爆者協会のケ・ソンフン書記
長( 歳男性)と訪朝団の 名である。
人民大学堂(図書室・コンピュータ室)風景
鮮反核平和医師協会(KPPNW)との懇談を
精力的に行い、人民大学習堂(国立図書館)を
視察、北朝鮮が人文、教育に力を入れているこ
とが分かった。中でも、建国 周年を祝って行
われた「アリラン祭」
、大マスゲームは北朝鮮の
過去、現在、未来を現した壮大な芸術祭で北朝
鮮の若い人の明るさと意気込みを強く感じた。
ピョンヤン空港では写真の撮影が自由であるの
に驚かされたが、写真はどこでも撮ってよく、
警察官、軍人にカメラを向けても問題なかった。
ホテルから日本への電話も自由にかけられたし、
朝のNHKテレビもチャンネルを回せば見られ
た。そのテレビで金正日総書記の重病説や脳卒
中説を訪朝中に知ることができた。まさに百聞は
一見に如かずである。食糧事情については国とし
ては米を買う外貨が不足しているが、国民一致
して、食料の増産に励んでおり、今年は何とか
収穫はよいということだった。タクシー料金は
高いが、地下鉄料金 円、レストランでは食べた
いものは何でもいくらでも食べることができ、平
成 年、ソ連崩壊時の食糧不足の折、モスクワ
の食料事情を考えると驚くほどであった。
私たちは拉致問題、補償問題、原爆投下の問題
等々、民間レベルであることもあって、何でも自由
闊達に語りあった。以下各常任理事者が報告する。
被爆者協会役員、被爆者とともに
まず、パク・ムンスク副会長より、家族とと
もに強制連行された長崎市で被爆した模様につ
き詳細に説明があった。親類を含め 人家族全
員が被爆し、父母は心臓病とがんで既に死亡し
ており、兄もがんで失った。家族では、現存者
はパクさん一人のみで、在朝被爆者では、日本
の被爆者手帳の唯一の所持者でもある。パクさ
んは、現在も小児期よりの貧血と下痢などの胃
腸症状がつづいており、難治性である。北朝鮮
において、被爆者証明書の発給を平成 年に受
けており、それ以後は無料の医療制度下で、さ
らに優先的に西洋薬と漢方薬の治療を受けてお
り、かなり良くなっている。日本政府へ謝罪と
補償を長年にわたって要求し続けてきたが、い
まだ実現していないことに強い失望と不満を表
明した。そして、日本政府が、これら植民地支
配による犠牲について放置し続けていることに
対し、怒りを禁じ得ないとのことであった。
次いで、 歳で被爆をした、リ・ケェソンさ
んが被爆について両親より知らされていなかっ
たこと、そして広島出身であるということだけ
で縁談も断られたことや、自分が被爆者である
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年(平成
年) 月
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広島県医師会速報(第
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
被爆者との懇談会風景
ことを 歳を過ぎて知ったこと、そして今なお
貧血と下痢が続き血圧も低下しており、証明書
により優先的に無料の治療を受けていることな
どを述べた。
被爆 世のリ・トクイムさんは、父親の被爆
について述べた。すなわち昭和 年 月に富山
県のダム建設現場に強制連行され、過酷な労働
を強いられた後、広島に移り被爆した。被爆当
時、父親の衣服は知らないうちに焼け落ち、地
下足袋の底だけが残っていたほどの惨状であっ
たとのことで、その父親は肺がんで亡くなった。
本人は子どもの頃より病弱であり、被爆 世の
健康への影響を心配している。
そして、昭和 年 月生まれのパク・ジョン
ゴンさんは、両親とも被爆し、当時母親の胎内
で被爆したとのことである。母親はパクさんが
月生まれなのに、胎内被爆者であることを隠
すため 月生まれに出生日を変更した。その母
親は胃がんと白血病で死亡し、本人は 年前に
肝臓がんに罹患し、現在も漢方等で治療中であ
る。
以上、 人の被爆者より被爆当時の状況および
その後の健康状態等について話を聞くことができ
た。 人が異口同音に望んでいることは、日本政
府の謝罪と補償であり、少なくとも韓国被爆者と
同等の支援を要望している。厳しい政治状況の
中、両国に国交がないことから在朝被爆者には、
援助の手が差し伸べられておらず、今後、人道的
立場から「被爆者はどこにいても同じ被爆者」
「どこの被爆者へも同じ医療支援を」を基本的方
向性として、在朝被爆者へも何らかの医療支援を
行っていきたいと考える。その方向性としては、
在朝被爆者が望めば現地での被爆者健診を行える
準備を行うことと、現地での医療支援として、医
薬品の提供や諸検査の実施および医療・医学情
報、特に最新の文献や医学雑誌を提供すること等
を検討していく方針である。
次いで、反核平和のための朝鮮被爆者協会
(平成 年設立)のケ・ソンフン書記長より在朝
被爆者の調査報告が以下のようになされた。
調査により、被爆者 , 人を確認して、登
録したとのことである。うち、死亡者は , 人
( %)で生存者は
人( %)である。長崎
での被爆者は , 人( .%)、広島は
人
( .%)で、男性は , 人( .%)、女性
は
人( .%)である。生存者の内訳は、
男性が
人、女性は
人である。男性の生存
率が低く、生存者の年齢構成は、 歳〜 歳が
人( .%)、 歳〜 歳が 人( .%)、
歳〜 歳が 人( .%)、 歳〜 歳が
人( .%)、 歳以上が 人( .%)であ
る。問題点としては次の 点が挙げられる。陰
生存者が急激に減っていること。そして、生存
者のほとんどが高齢であり、適切な治療対策を
早急に講じる必要がある。隠高齢の被爆者に対
し、専門的治療の対策を速やかに講じる必要が
ある。また、被爆 世・ 世に対しても影響が
懸念され、対策を講じる必要がある。韻未登録
の被爆者が多数存在することが考えられ、現在
登録の被爆者は、広島に比べ長崎が 人以上も
多く、実際には広島の方が長崎よりも被爆者は
被爆者との懇談会風景
昭和
年
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日 第
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広島県医師会速報(第
号)
年(平成
年) 月
日( )
〜 倍多いということを考慮すると広島の被爆
者の未登録者が多いことが考えられる。少なくと
も 〜 千人の被爆者が未登録と予測される。
したがって、在朝被爆者にとっては援護法が
改正されても全く無縁であり、被爆者手帳も全
く無意味である。諸手当についても申請の術が
なく、日本政府は何の措置も講じていない。ま
ず日本政府が唯一取り残されている在朝被爆者
に対し、何らかの解決策を意思表示するよう要
望があった。
KANPP(朝鮮反核平和医師協会)
を表敬訪問 月 日昭 時 分からKAN
PPを表敬訪問した。KANPP
側 か ら は、ペ ク・ヨ ン ホ 副 委 員
長、キム・イルボン常任理事、カ
ン・ムンリョル事務局長が応対し
柳田 実郎 た。
広島県医師会
まずペク副委員長がKANPP
常任理事
を代表して、「広島県医師会の訪
朝団を心から歓迎する。現在わが国は、建国
周年を輝かしい勝利の年にしようと、全人民を
あげてまい進している。偉大なるキム・イルソ
ン主席が創建されたわが共和国は、長年にわた
り差別・抑圧されてきた朝鮮人民を解放し、親
愛なるキム・ジョンイル総書記のご指導による
専軍主義で、自ら選択した道を進んできた。偉
大なるキム・イルソン主席の生誕 年にあたる
平成 年までに、全人民が生活に不自由しない
国である強盛大国になることを目指している。
しかしながら、日本政府によるわが国に対する
敵視政策と経済制裁のため、大変苦しい状況に
おかれている。
このような時に、広島県医師会が人道的な見
地で、わが国の被爆者に手を差し伸べようと訪
朝されたことを高く評価する。医師会の力で、
朝鮮反核平和協会(I
PPNW・DPRK支部)表敬訪問
朝鮮反核平和協会(I
PPNW・DPRK支部)表敬訪問
日本政府が在朝被爆者に医療支援をするように
働きかけて欲しい。
長年にわたりJPPNW(IPPNW日本支
部)とKANPPの交流が続けられてきた。朝日
関係に紆余曲折はあるものの、この交流がさらに
発展していくことを祈念する。また、世界各国の
IPPNW関係者から、医薬品、医療設備、医療
情報などを提供していただいており、感謝に堪え
ない。今回の訪朝が実りあるものとなるように期
待している」と歓迎の挨拶を述べた。
これに対して、碓井静照広島県医師会長が訪
朝団を代表して、
「今回、建国 周年という大変
繁忙な時期に、われわれ訪朝団を受け入れてい
ただき、キム・ジョンイル総書記をはじめ、対
文協やKANPPの皆さまに大変感謝している。
昨年モンゴルのウランバートルで行われたIP
PNW北アジア地域会議や、本年インドのデ
リーで行われたIPPNW世界大会の席で、K
ANPPの方々に、
『広島県医師会として、DP
RKの被爆者に何ができるか検討するために、
ぜひとも訪朝したい』と希望をお伝えしたとこ
ろ、積極的に支援していただき心からお礼申し
上げたい。日朝関係は厳しい状況にはあるもの
の、IPPNWに関しては、両国支部は常に親
密な関係を維持しており、この関係が続いてい
くことを願う。
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年(平成
年) 月
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広島県医師会速報(第
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昭和
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月
日 第
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赤十字病院
広島県医師会は、
『被爆者はどこにいても被爆
者』だというスタンスで、 年以上前から北米
や南米の被爆者を支援してきており、この事業
は現在、日本政府の支援事業となっている。し
かしながら、国交がないことが災いし、DPR
Kの被爆者に対する支援は全く行われていない
のが現状である。本日 名の被爆者の方々のお
話を拝聴し、お気持ちの一端を窺い知ることが
できたので、これを持ち帰り、今後の支援に発
展するよう働きかけていきたい。
ところで、IPPNW関連について言えば、
来年の 月に広島での開催が予定されている第
回IPPNW北アジア地域会議には、KAN
PPからも多数参加していただきたい。
また今回は、明日訪問予定のキム・マンユ病
院に寄贈するため、最新の医学雑誌を持参し、
重量制限で持参できなかったものについては、
近々別便で届ける手はずになっていることをご
披露させていただく」と返礼の辞を述べた。
この投げかけに対してペク副委員長が、
「日本
への入国に支障がなければ、ぜひ代表団を送り
たい。また、わが国の病院にとって、医学書や
医学雑誌の提供は、大きな助けになる。今後も
KANPPが窓口になって、このような支援が
続けられるように努める」と答え、しばしの歓
談の後、表敬訪問は終了した。
キム・マンユ病院(金満有病院)見学風景
に分けられている)、それに専門的診療を行う全
国区の総合病院がある。総合病院は全国から患
者を集め、赤十字病院、キム・マンユ病院、医
学大学病院、市立第一、第二、第三病院、ピョ
ンヤン産院があり、いずれも , 床以上の病院
である。区域病院も総合病院であるが、クリ
ニックと連携していて個々の医師はその区域の
世帯分を受け持っている。病状によりクリ
ニック、区域病院、専門病院へと患者は搬送さ
れるが、区域病院をパスし直接総合病院を受診
する事もできる。診療費は入院・外来にかかわ
らずすべて無料(クリニック以外は院内薬局を
持っているが、クリニックで処方されると街の
薬局で調剤されるので有料)である。
ところで、義務教育は 歳からの 年間で、
卒業すると大学進学か兵役を選ぶ。学部選択は、
成績にもよるが現在はコンピュータ関係の人気
が高いらしい。医学部は 年間の卒前教育で、
実習は大学病院以外でも受け入れられる。クリ
キム・マンユ(金萬有)病院訪問
月 日晶の午後に病院を訪問
した。まず、ピョンヤンの医療事
情を反核平和朝鮮被爆者協会の桂
成訓書記長から聞いたので報告す
る。
伊藤 勝陽 ピョンヤンにはいわゆるかかり
広島県医師会
つけ医とも言えるクリニックと
常任理事
の区域病院(ピョンヤンは 区域
ホ・インハク科学副院長に医学雑誌を寄贈
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
ニックから総合病院まですべて国営なので、基
本的に医師は全員勤務医である。どこに派遣・
配置されるか本人の希望と成績で決まるそうで
ある。医師の男女比構成は不明であるが、クリ
ニックはほとんど女医で、定年は 歳、一方男
性の定年は 歳で、男性のみ定年延長可能との
こと。救急病棟は区域病院にあり 時間体制を
敷いており、医師不足はないそうである。ピョ
ンヤンには 泊したが、患者が少ないのか、救
急車などのサイレンを全く聞くことはなかった。
病院が決まっていて探し回らなくても良いため
かもしれない。確認はしていないが、専門領域
の学会はないらしく、全国区の総合病院で専門
領域をブラシュアップしているようである。
私たちが訪問したキム・マンユ病院は、昭和
年に在日朝鮮人のキム・マンユ氏により建立
された , 床の総合病院で、職員 , 名(う
ち医師
名)、外来患者は平均 , 名、外来
棟は 階建て、入院棟は 階建ての脳外科、循
環器を専門とする最新設備と装備の整っている
病院と聞いていた。
金満有病院全景
ホ・インハク科学副院長、キム・ウク循環器
内科科長、ソン・サムソン対外事業科(広報担
当)科長に出迎えられ外来棟を案内してもらっ
た。 階には中央ホール、外来受付、漢方薬局
と西洋医学薬局が両側に対座し、放射線部など
があった。放射線部にはシングルスキャンの日
立製CT装置、透視撮影装置、一般撮影装置が
あった。 階にはエコー室(心臓と腹部別々に
室を持つ)、内視鏡室、リハビリ室、外来診察室
が、 階には英文、和文などの蔵書を持つ図書
室があった。今回持参した雑誌と今月 日に持
ち込む事になった広島大学病院の 診療科から
寄贈された雑誌の目録が碓井会長からホ副院長
に手渡された。医師は、日本語を読む事は可能
で、今回初めて日本の医師会が訪朝した記念と
して和文雑誌を希望されたそうで、この施設に
号)
年(平成
年) 月
日( )
医学科学院放射線医学研究所関係者との懇談会
は小児科と産婦人科はないが、今後は全診療科
の和文書が欲しいと要望があった。 階には手
術室、ICU、血管造影室があるとのことであ
るが、血管造影室は見学できなかった。
窓に面した部屋や廊下は明るいが、面さない
場所は暗く、X線装置や多くの内視鏡装置は古
かった。しかしUS装置 台のうち 台は新し
いものであった。全般的に
年代の日本の病
院を思い浮かべてもらって構わない。
日は祭日明けであったが、外来は閑散とし
ていた。午後は機器の消毒のため、外来は午前
優先とのことであったためかもしれない。裏庭
には羊が草を食み、のどかな風景であったが、
動物実験設備を持つ施設なので、飼育されてい
るのかも知れない。
診療内容については前回訪朝した柳田先生の
レポート(広島県医師会速報:第
号/ 月
日)を参照いただきたい。
歓迎会・答礼会
月 日昌予定されていた歓迎
会は、当日アリラン祭に招待され
たため 月 日昭に延期された。
会場はピョンヤンホテルのレスト
ランで、主催者はファン氏(対外
天野 國幹 文化連絡協会・日本局長)でわれ
広島県医師会
われの入場時、一人ずつ握手して
常任理事
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
歓迎会
迎えてくださった。会場のテーブルは直径
メートルはあるかと思える大きな円卓で、まず
ファン氏より朝鮮語での歓迎の挨拶があった。
その後碓井静照団長より挨拶があり、通訳の
ケー氏(反核平和朝鮮被爆者協会書記長)より
翻訳され会食が始まった。ファン氏からは国交
のない中でも広島県医師会が北朝鮮の被爆者に
光を当て「被爆者はどこにいても被爆者」とい
う概念で何かできることを考えての訪朝に感謝
と期待の念をお話しになった。それに対し碓井
団長からは広島県医師会としてもまず現状の視
察と把握が必要で今後できることの可能性を考
慮したいということであった。
その後日本語で団員の自己紹介があったが、
ファン氏は日本語が非常に堪能でこの時は通訳
を使わなかったが公的な歓迎会のためか、返事
はすべて朝鮮語で通訳を通された。料理は朝鮮
料理で大変素晴らしいものであった。
歓迎会
月 日松すべての公式行事を終え、答礼会を
開催した。アリラン食堂にて焼き肉を中心の料理
にした。マツタケが非常に安く堪能できた。ファ
ン氏の挨拶は朝鮮語で始まったが、会食になると
すべて日本語で対応され、会は和やかな雰囲気
で、
話題はいろいろなことに及んだが、
大事なこと
は人と人の直接の対話であることが実感された。
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
答礼会ファン対外文化連絡協会日本局長あいさつ
答礼会碓井団長あいさつ
訪朝寸記
医療のこと、被爆者のことは、
伊藤教授やほかの常任理事の方々
にお願いし、私は、 月 日昭の
歓迎会とその主催者である黄局長
のことについて、私感を交えて文
檜谷 義美 とする。
広島県医師会 対外文化連絡協会・日本局長・
副会長
黄 虎 男(フ ァ ン・ホ ナ ム)。キ
ム・ジョンイル・小泉純一郎会談で通訳として、
キム・ジョンイル総書記の言葉を、小泉首相に
伝えた方だ。帰国後、キム総書記の健康問題が
いわれ、 年前のキム・小泉会議の映像が再映
される中に総書記に寄り添うファン氏の姿が確
認できた。
歓迎会に招かれたのだが、その朝の、朝食バ
イキングをした食堂に案内され、ああここです
るのかと思ったら、その食堂には舞台があり、
舞台の真中にドアがあり、そのドアの奥に案内
された。そこは小室になっており、 数名が大
きな円卓を囲むように席が用意されていた。
ファン局長の日本の政治情勢・歴史政治家につ
いての詳細な評論、そしてまた今の日朝間の課
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
題や、日本や日本人への不満・要望・歴史認識
の問題点などの話を聴きながらも、なごやかに
フランス料理のフルコースをいただいた。
食事のあと、アリランの歌に合わせて、全員
でフォークダンスを踊り、会を終えた。
ファン局長と対話をしながら、日本のあり方、
私自身の生き方、また、北東アジアの平和の問
題について、改めて深く考えさせられた。彼の
言葉の中で、本質的には自国の利益のことしか
考えない米国と、小さな国ながら力を振り絞っ
て真正面から戦っているのは、われわれ北朝鮮
共和国だけだという言葉が、印象に残った。
北朝鮮訪問印象記
リーマン・ブラザーズの身売り
による金融不安や自民党総裁選の
行方を気にしながらピョンヤン国
際空港に降り立った。が、そんな
問題は瞬く間に消えてしまった。
槙坪 毅 ホテルまでの道のりで、おそらく
広島県医師会
年前の日本(私は知らないが)
常任理事
の風景が目に映った。閑散とした
のどかな田園、ひなびた光景、夕方に着いたの
号)
年(平成
年) 月
日( )
で哀愁さえ感じた。とにかく人がいない、ピョ
ンヤン市民
万人といわれているのにである。
後で分かったことだが昨日から 日間祝日だそ
うである。今回の通訳兼世話役をしてくれた
ケーさんが「この道は幅
メートルあります。
そして キロも続いているんですよ」と完璧な
日本語で話してくれたが、ほとんど車を見かけ
ないのだ。もう少しで「無用の長物!」と言う
ところだったが、今の日本に置き換えれば「足
らないぐらい」だろう。その夜のアリラン祭で
は観客 万人、出演者 万人と呉市民総出の規
模の祭典に度肝を抜かれた。
翌日はなんと . ではないか、緊張の中、公
務をこなし「百聞は一見に如かず」見るもの全
て驚きであった。全国民が公務員なので出産、
育児、教育、医療、住宅、水道光熱費が一切無
料という理想の国なのではあるが、われわれが
移動するバス(日産)の中から見ていると街角
の人やトロリーバスにすし詰めに乗っている人
たちからの視線がやけに胸に刺さった。到底
日や 日で分かるはずはないが、この国を一言
で表現すると「規律と秩序のある美しい国では
あるが、夢と自由のない国」といった印象で
あった。
朝鮮民主主義人民共和国訪問団
団 長 碓 井 静 照 (広島県医師会会長)
副 団 長 檜 谷 義 美 (広島県医師会副会長)
団 員 伊 藤 勝 陽 (広島県医師会常任理事)
団 員 柳 田 実 郎 (広島県医師会常任理事)
団 員 松 村 誠 (広島県医師会常任理事)
団 員 天 野 國 幹 (広島県医師会常任理事)
団 員 槙 坪 毅 (広島県医師会常任理事)
団 員 空 本 栄 二 (広島県医師会事務局長)
随 行 者 李 実 根 (在日本朝鮮人被爆者連絡協議会会長)
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