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Dr Ralph John DiLibero 講演会 - 一般社団法人広島県医師会
(23)2009年(平成21年) 11月5日 広島県医師会速報(第2064号) 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 Dr phJo Li bero講演 JohnDi Di Ral 講演会 DrRa 平成2 1年10月6日昇ANAクラウンプラザ広島にて標記講演会が開催された。 「米国版国民 皆保険制度~その紆余曲折の道のり~」の演題のもと、前半部は米国で20世紀初頭に始まっ た国民医療保険制度がどのような道をたどって現在に至っているかに焦点をあて、後半部は オバマ政権下での医療保険制度改革を巡り米国内で起こっている議論を中心に講演が行われた。 なお、Drディリベロは平成18年11月に広島県医師会とロサンゼルス郡医師会との姉妹縁組 30周年記念事業に出席のため来広されており、このたびは2度目となり旧交を温められた。 講演会参加者は34名(常任理事・理事20名、事務局職員14名−うち2名は通訳を担当)であった。 「米国版国民皆保険制度 ~その紆余曲折の道のり~」 米国カリフォルニア州 医療制度審議官 前ロサンゼルス郡医師会長 ラルフ・ジョン・ディリベロ 政治的主張と個人のモラル、進歩主義と保守 主義を巡って果てしない議論が展開されてきた (スライド2)。 文化的道徳慣習は医療倫理を生み、医療倫理 は医療生態を生み、医療生態は医療経済を生み、 医療経済は保健医療提供システムを生み出して きた。これが、 「医療生態経済学」である(スラ イド3)。 国民皆保険制度への長い道のりは20世紀前半 に始まった。常に文化は経済を動かし、経済に 応じて保健医療は提供される(スライド1)。 スライド3 スライド1 アメリカ合衆国における政府の国民健康保険に 対する最初の政策案は、1900年代初期の社会党の 綱領だった。しかし、社会党は選挙に敗北 [1]。 スライド2 スライド4 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 広島県医師会速報(第2064号) 1912年、セオドア・ルーズベルトの進歩党は 大統領選の綱領に国民健康保険を大きく掲げた。 しかし、大統領になるや国民健康保険の約束は 忘れられてしまった。恵まれない人たちに皆が 税金を払うということは時代の経済状況や文化 的道徳慣習に合わなかった(スライド4)。 1927年、医療費に関する委員会(ウィルバー 委員会)ができて、3つのことが提案された。 ・利潤追求のための出来高払いは終わらせなけ ればならない。 ・企業保険モデルまたは連邦政府保険モデルは 個人診療に変える。 ・コメディカルによるプライマリケア診療施設 のある優良施設としてのアカデミック・ス タッフ・モデル。 大恐慌が起こると国民医療保険への関心が次 第に薄れていった。1939年、フランクリン・ ルーズベルト政権はワグナーの国民健康保険法 案を支持できず、法案は委員会の提案後すぐに 廃案となった。しかし、公民権法案とニュー ディールの理念により社会保障法が可決された (スライド5)。 2009年(平成21年) 11月5日(24) 米国議会に提出された国民健康保険法案を正式 に承認する最初の大統領となった。文化的道徳 慣習は変化しており、新たな倫理生態が医療生 態経済を再び突き動かした(スライド6)。 1961年ハンサムでカリスマ性を備えたジョ ン・F・ケネディが大統領に就任。 “医療が必要な高齢者に”任意の医療保険を提 供―公的援助を受けるほどではないが、医療費 を払えない人々のための医療保険が提案された。 “子どもたちは不必要な支払いをさせられ、政府 は患者と医師の板挟みになるだろう。結局、国 民は不必要な政府の保険料を負担させられた上 に、民間保険に入るようになるだろう”という ようなことがさかんに言われた。これは、今ま さにアメリカ中で議論されていることと同じで ある(スライド7)。 スライド7 1965年、ジョンソン大統領はメディケアとメ ディケイドを正式に連邦法とした。医療生態経 済が保健医療提供を変えたのである。進歩主義 が前進した(スライド8)。 スライド5 1945年、トルーマン大統領は国民健康保険の ために社会保障制度を拡大する Wa gne r Mur r yDi ngl e法案を支持した。しかし、法案は否決された。 トルーマンはアメリカの多くの大統領の中で、 スライド8 1970年、ニクソンは選挙戦で次のような公約 を掲げた。 “健康保険に手が届かない数百万のア メリカ人に包括的な健康保険を提供するような 画期的な新しいプログラムを提案する。それは 高額な医療費から患者を守るために改善された スライド6 (25)2009年(平成21年) 11月5日 広島県医師会速報(第2064号) 制度である”。 1971年、ニクソン政権は企業が従業員とその 家族のために支払うという国民健康保険プラン を提案した。ニクソンは、彼の遺産となること を願った国民健康保険法案は成立すると思って いた [2]。 医療生態経済は時宜を得ていたかもし れないが、議会の支持不足とベトナム戦争で法 案は暗礁に乗り上げ、結局、大統領の辞任で廃 案となった。ニクソン政権が提案したこのプラ ンは将来のクリントン政権の医療プランの基礎 となった。 197 3年、ニクソン大統領は多くの患者を管理 する前払い式保険組合に政府の保護と強大な市 場競争力を与える連邦資金と連邦法を承認した。 ニクソン大統領は全ての米国人が保健医療提供 にアクセスできないことを真に憂慮していた。 しかし、この法案にはニクソン大統領が願った ような、給付と保険料が十分に開示される年次 会計検査つきの企業保険を基盤とする国民皆保 険のようなものは含まれていなかった [3](スラ イド9)。 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 り「管理された競争」という概念が導入された が、米議会は保健医療提供において競争を管理 できるとは思わなかった(スライド1 0)。 レーガン政権は消費者により責任を負わせ小 企業がより生き残れるように、雇用者医療提供 控除を通常の医療保険料よりも低い金額に制限 することを提案した。しかし提案は議会で審議 されることはなかった(スライド1 1)。 スライド11 縦横に統合された健康維持組織(HKO)が 第3の医療エコロノミック時代に台頭してくる (1 990~2 010)。全国的に数多くの議論が行わ れ、所得税を財源とする広範囲な全国医療プラ ンが描かれた(スライド1 2)。 スライド9 1976年、カーター大統領は国民健康保健を提 供する公約を掲げ選挙戦に勝利した。しかし、 カーター政権は病院費抑制法案を提出したにす ぎなかった。。1977年、アラン・エンソベンによ スライド10 スライド12 1 993年、クリントン政権は国民健康クレジッ トカードという考えを導入した。個人と雇用者 の強制加入と低所得者と無職の者の補助付きの 強制加入を組み合わせたものだった。支持者は、 “医師を自由に選べること、保険を自由に選択で きること、転職したり失業したりしても保険加 入を自由に継続できること、管理費が2 5%削減 できること”を誇らしげに語った。HKOは医 療の質の評価を基にした患者の負担金を求めた。 「管理された競争」は国民には有効で実際的な考 えとしては受け入れられなかった。貧弱な政策 だった(スライド1 3)。 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 広島県医師会速報(第2064号) 2009年(平成21年) 11月5日(26) マックスとなりえるか?」 物語はこれからも続く…(スライド15)。 スライド13 「患者の権利章典」は便利なじゅうたんであっ た。持ち上げて改革の汚い部分を掃き入れて、 上から被せて隠すのに便利だ。患者はHKOを 相手取って訴訟を起こす制限された権利を与え られたが、弁護士は150万ドルに制限された。 9月11日同時多発テロ後、財源は防衛に向け られた。処方薬の補助は2006年まで保留された。 一方メディケア・メディケイドサービスセン ターは医師への支払いを5. 7%削減した。多く の医師がメディケア・メディケイドサービスプ ログラムからの脱退を選んだ。専門科の開業と プライマリ診療がより利益が上がるものとなっ た(スライド14)。 スライド14 2009年、オバマ政権は新しい医療保険包括法 案を導入した。政府主導の公的オプションまた は共済オプションを含むものだ。 医療が制限される可能性があるという理由で 国民皆保険に反対する複数の超党派の法案が出 され、熱い議論が繰り広げられた。 “若く、ハンサムで、ダイナミックな話し方を するオバマ大統領”。 「変化と慎重さのバランスをとって改革を可能 にすることができるか?」 「国民皆保険は進歩主義の壮大な物語のクライ スライド15 保健医療に関する様々な議論 −医療改革の前に理解すべきこと− 歴史から学ばなければ歴史は繰り返される。 保健医療議論に関しても同様である。クリント ン政権下での包括的改革プランは議会で否決さ れたが、このことから学ぶべきことが2つある。 草案は密室で策定せず関係者全員の参加を得て 行うこと。包括的プランを議会に突然提示せず、 前もってじっくりと考える時間をつくること。 そこでオバマ政権はまず議会に医療改革案を 策定させることにした。しかし、残念なことに、 やはり改革案は関係者全員に早い段階で知らさ れることはなかった。また、大統領は草案の作 成に直接関わることがなかったために、国民に 向けての演説では、この包括的プランこそアメ リカが必要としているものだということを詳細 かつ具体的に説明できず不利な立場に立たされ ることになった。 今、アメリカでは保健医療をめぐって混乱が おきている。ホットに行われている議論に中絶 の問題がある。米国では1976年以来、レイプや 母体に重篤な影響がある場合を除いては、公的 資金を人工中絶には使わないことが一般的な申 し合わせとなっている。中絶についてはそれぞ れが異なった強い信念をもっているため、いか なる政党の包括的医療改革案でもってしても、 うまく折り合いを付けることは容易ではない。 また、死ぬ権利と生きる権利の問題が持ち上 がっている。この問題は州法で扱うことが一般 的となっている。しかし、これを連邦医療改革 法案に盛り込むことで問題が州法から国へ移る ことになる。ここでも「正しい」か「間違って (27)2009年(平成21年) 11月5日 広島県医師会速報(第2064号) いる」かという考えはない。“われわれ医師は、 倫理観から思いやりとオープンな意志決定のも とに、患者の自主性を尊重し、全ての患者を平 等に治療するものである”とすると、判断能力 のある末期症状の患者の場合、治療を拒否する ことで自らの死を早めることが許されるのかも しれない。 オレゴン州では医師の自殺ほう助を正式に認 めているが、隣のワシントン州では「生よりも 死」を選ぶという主張は認められなかった。 度を過ぎたヘムロック協会というのがある。 協会設立者の一人ヘレク・ハンフリー医師は著 書「Fi nalExi t 」で、カップルの中には健康不 健康に関係なく共に逝くことで愛の絆が強まる と考えて心中することを選ぶカップルもいる、 と述べている(※訳者注:heml oc k=毒にんじ んから取った毒)。 ニューヨーク州でティモシー・クゥイル医師 と三人の末期患者が、アメリカ憲法修正第14条 に基づいて医師の自殺ほう助の権利を主張する 裁判を起こした(Va c c o vs Qui l l)。しかし、 9対0という画期的な判決でクゥイル医師は敗 訴した。 このような状況下、医師が定期的に高齢者に 終末期の選択をさせることに対して報酬が支払 われるという案がアメリカ議会の医療改革法案 に盛り込まれたので、国民の多くが感情的に論 争を始めたのである。 では、 “どのくらい死に近ければ死といえるの か?”オレゴン州での事例であるが、致死量よ り少ない量の薬が間違って投与されたために目 がさめてしまった患者がいた。すると患者は本 当は死にたくなかったといって喜んだという報 告がある。 問題の両サイドから聞かれる恐ろしい言葉が マスコミ、TV、ネットなどで取り上げられた。 「政府の死の委員会」「管理運営者が神のように 振る舞う」「道徳規範の欠如」「政府役人が神の パートナーと名乗る」といった報道があった。 もう一方からは自分勝手な差別、事実の歪曲、 組織化された混乱、無政府状態、暴民政治と いった非難が聞かれた。 多くのアメリカ国民はQALY(生活の質を 調整した生存年)やDALY(障害調整生命年) の議論を全く受け入れなかった。公的オプショ ン、公的プラン、公的買い付けプログラム、政 府支援プラン、共済保険の購入などは悪者扱い され、あらゆる包括健康保険改革案において恐 れるべき要素となった。 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 検察はケヴォーキアン医師の行為は医師によ る自殺ほう助から安楽死へのラインを越え、殺 人にあたると訴えた。ケヴォーキアン医師は第 2級殺人の罪で懲役10年~25年の判決を受けた (現在仮釈放中)。 保険業者による契約更新拒否の不可と既往症 の保険適用は超党派で意見が一致している。州 を越えての保険販売、保険補償範囲の制限排除 に反論はほとんどない。両党ともに小企業が大 企業と同じ料金で保険を購入できること、保険 会社が自らの行動に責任を持つことを望んでい る。そして不正の改善で劇的に経費を削減でき ると両党は少なくとも認めている。 医療提供が資金難で国庫を破たんさせつつあ ると皆が認めている。ほとんどの人が医療費を 本当に払えない人のために支払う道徳的義務が あると認めている。多くの人が負担を共有しな ければいけないと認めている。そして個人的給 付が増えなくても、たとえ減ったとしても、公 益のために個人の負担が増える可能性を受け入 れることに同意する人もいる。 大多数のアメリカ人が新しい時代の進歩的論 法は行き過ぎであると結論付けている。連邦政 府が義務付けたメディケイドプログラム拡大に 対応する資金がないと州政府は不満を言ってい る。首都への行進、タウンホールミーティン グ、手紙、ファックス、Eメールを通じて多く のアメリカ人が州選出の議員に答えを求めてい る。 “良く考え抜いたステップを一歩ずつ踏み出す ように現行の医療提供システムを建て直したら よいのではないか” “無駄を是正し、その資金を 現行のシステムを建て直すのに使ったらよいの ではないか” “立法府の人間は何を待っていたの か、何を今でも待っているのか”。 アーノルド・シュワルツェネッガー・カリフォ ルニア州知事は米国議会に書簡を送り、カリ フォルニア州はメディケイドシステム拡大の費 用を負担することはできないと訴えた。 “政府主導の国民皆保険を民間の保険と平等に 競合させることはできるのか” “限られた予算は難しいバランスを生みだす” “個人の医療を重んじるのか、グループの医療 を重んじるのか” そして国民は税金と給付のバランスを注意深 く見守っている。 保険支払人の経費、患者のアクセス、質の高 い医療という3本脚の椅子のバランスを取らな ければならない(スライド16)。 昭和26年8月27日 第3種郵便物承認 広島県医師会速報(第2064号) スライド16 国民皆保険の問題は、国民には税金の心配を かけ、大統領にとっては非常に骨の折れる仕事 である。 最後に一言。医師と患者の関係に関する指針 はこれまでたくさんあった。これらすべての倫 理的指針は素晴らしい医療倫理規定に発展し、 4つの要素に凝縮された。 正義:社会的理想の違い、社会的地位、人種、 宗教、民族、性別、支払能力にかかわらず、 2009年(平成21年) 11月5日(28) 全ての患者を公平に扱い、自らの最善の力 を尽くす。 自律性:患者にとって最善のことを決定し、 患者の人生の大きな決定に敬意を払いそれ を変えようとしない。 誠 意:古 代 ロ ー マ の 信 条 “Pr i mum Non No c e r e (まず害を与えない)”を尊ぶ。 善意:われわれ医師はすべての医療を必要と する人、そして医療費を払えない人の心に そっている。 この医師と患者の神聖な関係、そして歴史上 重要な医療倫理指針はないがしろにはできない。 これらは私たちの具現化した魂であり、これ らにより私たちは質の高い医療を提供できる。 私たちに誇りを与え、私たちに名誉を与え、 私たちが医師と名乗る権利を与える。 [1] Whi t e,E. E.TheDevel opmentoft heSoci al Se c ur i t yAc t , p. 1 3 5 [2] [3] Aut hor ' s opi ni on f r om per s onal c o nve r s a t i o ni nt e r vi e w, J une , 1 9 6 7 . 日本医師会最高優功賞 在任六年都道府県医師会長 碓 井 静 照 氏 ・碓井内科胃腸科医院(広島市東区) ・広島県医師会長 日本医師会最高優功賞 地域医療体制の整備・充実に貢献した功労者 岸 明 宏 氏 ・安芸太田病院(山県郡安芸太田町) (11月1日 日本医師会設立記念医学大会にて表彰) おめでとうございます。今後ますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。