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三度目の正直: 日本ブーム
ニ ッ ポ ン の 行 方 三度目の正直: 日本ブーム 東京大学大学院 教授 浜野保樹氏 現在、戦後三度目の日本ブームがきているかもしれない。 このブームをブームとして終わらせないためには、過去に学ぶ必要がある。 では一年遅れで始まったようである。こ 第一次日本ブーム ういった事実を、古い雑誌記事を見るま では私は知らなかったが、いまこの文章 「パリはいま日本ブームで賑わってい を読まれている方も同じであろう。とい る。 (略)この現象に対して日本大使館な うことは、田村が危惧したとおりになっ どはもっと積極的な手をうてないもの たということだろう。 か?」 この時期に日本ブームが起こった理由 この文章は、いまからちょうど 50 年前 は、ヨーロッパの国際映画祭でグランプ の 1957 年『中央公論』7 月号に掲載さ リをとり、アカデミー賞も受賞した『羅 れた記事のリード文である。パリに滞在 生門』や『地獄門』などの日本映画が、 していた作家の田村泰次郎は、パリが日 欧米のインテリに関心をよんでいたとこ 本ブームであるのに、手をこまねいてい ろに、日本の舞踊団であるアズマ・カブ る日本大使館に対してはがゆい思いをし キが 1954 年と 1955 年の二度に渡り、欧 て、この「パリの日本ブーム」を書き、 米公演をしたためであろう。このブーム 嘆いてみせた。 にのって、日本を舞台にした『八月十五 「日本の大使館はのほほんとしている。 夜の茶屋』 『サヨナラ』 『黒船』といった 日本ブームに対処するなんの方策もあり ハリウッド映画の大作が次々公開されて そうにない。日本宣伝のための折角の好 いる。それほど、このときのブームは大 機を、手を拱いて、第三者みたいに暢気 きなものだった。 に傍観しているだけだ」。 1950 年代後半の雑誌には、 「日本ブー ム」という言葉がよく登場する。それら 近代国家の恥 を整理してみると、 「日本ブーム」はアメ リカで 1954 年頃に始まり、ヨーロッパ 22 200706 ニッポンの行方 この日本ブームによって、1955 年あ たりから、日本雑貨の対米輸出が急増し、 日本ブームなのかもしれない。しかしこ 1957 年には対米総輸出額の 6 割を占める れまでのブームと質的に、大きな違いが に至っている。田村の記事と同じ時期の ある。第一次ブームは高学歴者の海外へ 「日本調ブーム解剖学」 (『 中 央 公 論 』 の関心の延長上にあり、第二次は経済人 1958 年 1 月号)によると、日本国内では が中心で、日本に関心があるというより、 西洋に対する根深い劣等感があったため、 日本の金に関心があったにすぎないと 「手作りの民芸品や雑貨が、日本の代表 言っても過言ではない。今回のブームは、 的輸出品として海外でもてはやされるこ 日本のアニメーション、漫画、ゲーム、 とは近代国家として恥ずかしいことであ J- POP といったコンテンツが、海外の家 る」とか「近代国家として恥だ」という、 庭にまで入り込んだ結果として出てきた ブームを歓迎しない雰囲気が日本国内に もので、ブランドとか伝統にこだわらな 新領域創成科学研究科教授。 あったという。またブームに乗って「フ い若い層が中心だ。第二次のときも日本 工学博士。コンテンツ産業や ジヤマ、ゲイシャ」調の際物的な粗悪な 語を学ぼうとする外国人が急増したが、 和風商品も少なくなかったし、そういっ いま再び急増している。この現象を調べ おもな著書として、 『模倣さ たものがアメリカで好まれるという事情 た調査では、かつては日本関係の仕事を 『東京の忘れもの 黒澤映画の もあった。貧しかった当時の日本では外 得るために日本語を学んだが、いまはア 美術監督が描いた昭和』、 『極 貨獲得がなによりも優先され、ヨーロッ ニメーションや漫画を日本語で鑑賞した 史』 『メディアの世紀』など パのように文化への関心を国家ブラン いからだという。 はまの・やすき● 1951(昭和 26)年生まれ。国際基督教大 学教養学部卒業。新潟大学教 育学部、メディア教育開発セ ンターを経て、東京大学大学院 制作に関する研究開発に従事 する。 れる日本』 『表現のビジネス』、 ディングに高める余裕などなかったので あろう。 端に短いインターネットの歴 がある。財団法人黒澤明文化 振興財団理事、財団法人徳間 しかしこれまでのブームはブームで終 わっている。ブームをブームとして終わ らせないためには、過去に学ぶ必要があ 記念アニメーション文化財団 評議員、財団法人日本映像国 際振興協会監事、社団法人日 本料理研究会理事、など。 る。朝日新聞の記者がフランスの外交官 第二次、第三次ブーム に日本ブームについて聞いたとき、こう 答えたという。さすがに、永い文化戦略 国際的な痕跡を残すことなく終わって の歴史をもつ国の外交官の発言だ。 しまった第一次ブームはエキゾティシティ 「日本は真実の姿を隠している。文化 ズムがもとになっていたが、次の日本ブー 交流というとやたらに古い文化財を持ち ムはまったく違っていた。日本経済力の 出そうとする。ジョコンダと鑑真像との 向上とともに、日本ブームが欧米で 1980 交換も結構だが、大切なのはそうしたパ 年代に起こる。この時は、経済力と伝統 ターンの交流ではなく現実の近代化した の格差が日本への関心を呼ぶが、好意的 日本の真の姿を、矛盾を含めてヨーロッ なものばかりでなく、否定的な関心の方 パに知らせることだ」 (『公明』1979 年 2 が強かった。低賃金で奴隷のように働く 月号)。 エコノミック・アニマルのイメージが、 世界中に広まった。 そして、たぶん現在が、戦後三度目の ニッポンの行方 200706 23