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『植物研究雑誌』の創刊と発展を支えた人々
J. Jpn. Bot. 91 Suppl.: 24–41 (2016) 『植物研究雑誌』の創刊と発展を支えた人々 大場秀章 東京大学総合研究博物館 The people who supported The Journal of Japanese Botany launched by Tomitaro Makino Hideaki Ohba Department of Botany, the University Museum, the University of Tokyo, 7-3-1, Hongo, Tokyo, 113-0033 JAPAN E-mail: [email protected] (Accepted on July 18, 2016) The Journal of Japanese Botany was launched by Tomitaro (often as Tomitarô or Tomitarō) Makino in 1916. Tomitaro Makino (1862–1957), a self-taught botanist, was born in Tosa Province (now Kochi Prefecture) as the elder son of a locally established merchant. He began research on the Japanese flora at the Botanical Institute, the University of Tokyo. Throughout his life he described many new species of vascular plants. At 54 years of age he shifted his focus toward encouraging and supporting amateur and semi-professional botanists in various areas throughout Japan. Not only in western countries, but also in Japan, botany developed from herbal studies that were based on the use of plants as medicine. In Japan, traditional medical studies extended to the fauna, but they were particularly focused on the flora. Even at the time Makino launched his Journal, the influence of herbal studies was still widespread. Makino provided various news and topics for his readers, not only on botany, but also on herbals. Many of the subscribers were interested in both fields. Makino also targeted and encouraged school teachers, particularly those who were due to take the examination for approval by the Ministry of Education. Makino was reduced to extreme poverty when he prepared the first issue of the Journal, but he received financial aid from several persons, including Tomoo Oikawa, Hajime Ikenaga, Haruji Nakamura, and Jusha Tsumura. The financial and other support from Jusha Tsumura 1st (1871–1941), the founder of Tsumura Juntendo Inc., was especially important. It was also within the Tsumura Laboratory that Yushiro Kimura established a publishing department to produce the Journal. Through the interests and involvement of Jusha Tsumura the Journal has been able to survive to the present. Early in the history of the Journal, Jusha Tsumura requested Yasuhiko Asahina (1881– 1975), Professor of the Faculty of Medicine of Tokyo Imperial University (now the University of Tokyo), to take part in editing the Journal. Although supporting financial matters, Jusha and his successors at Tsumura Juntendo Inc. never meddled in the academic affairs of the Journal. Professor Asahina’s acceptance of the offer began with volume 4 of the Journal. He moved up to editor of the Journal from volume 9 issued in 1933. Asahina received assistance from Kiyotaka Hisauchi (1884–1981) and Totaro Shimizu (1886–1976). Hisauchi had learned botany from Tomitaro Makino. He was also an expert in English and worked as the local —24— December 2016 大場:『植物研究雑誌』の創刊と発展 25 editor of the Japan Times, Yokohama, and possessed an encyclopedic knowledge of natural history and Japanese and western culture. Hisauchi’s support in various matters, not only for the Journal, but also in his academic pursuits, was quite important for Asahina’s continuation as editor-in-chief of the Journal. Totaro Shimizu cooperated with Asahina in the matters of pharmacopoeia and Latin medical ‘rezepts.’ Takenoshin Nakai (1882–1952), Professor of the Faculty of Science of Tokyo Imperial University (now the University of Tokyo), switched submitting his papers on taxonomy from the Botanical Magazine, Tokyo, to The Journal of Japanese Botany edited by Asahina in 1934. Nakai had a considerable number of students, and most of them published their papers in The Journal of Japanese Botany. They, including Yosio Kobayasi (also Yoshio Kobayashi) (fungi), Hiroshi Ito (pteridophytes), Fumio Maekawa, Hiroshi Hara, Takasi Tuyama, and Yojiro Kimura, working mainly on flowering plants, together with Kiyotaka Hisauchi (often as Hisauti), and also Michiichi Fujita and Ichiro Sasaki of pharmacology, became members of the newly established editorial board of the Journal in 1952. Journals devoted to a single discipline is a present-day fashion in natural science, but studies (also education) in biodiversity and also ethnobotany are fundamentally multidisciplinary sciences that cover several disciplines. It is convenient, therefore, to have a journal in which appear papers and topics covering a wide range of species-based research and interests. The Journal of Japanese Botany achieves that function well. Key words: Amateur botanist, botanical history of Japan, Kiyotaka Hisauchi, Jusha Tsumura, semi-professional botanist, Takenoshin Nakai, teacher’s license examination, Tomitaro Makino, Totaro Shimizu, Yasuhiko Asahina, Yushiro Kimura. 『植物研究雑誌』は牧野富太郎により,牧野を 主筆とする個人雑誌として 1916(大正 5)年に創 刊された (Fig. 1).牧野は編集者兼発行者であり, 発行所は東京市本郷区森川町 30 番地を所在地に する植物研究雑誌社だった.当時牧野は同区森川 町 1 番地橋下 464 に居住しており,植物研究雑誌 社は一応,牧野の住居とは別になっている. 同誌刊行の目的は,専門家に限ることなく広く 植物愛好者を対象に,植物ならびに植物学の新知 見の提供と研究等の活動状況を紹介することにあ った.誌面は欧文による研究論文が和文による部 分とは別立てで組まれ,ページ数は多くはないも のの,カッコ無しで,通巻で振られた.和文部分 は縦書きで,枠囲いされ,ページはカッコ付きで 表示された.毎号,号頭には当代を中心に植物学 者や『植物研究雑誌』の支援者等を紹介する肖像 写真と珍奇あるいは話題とした植物の写真が掲げ られた.記事は順不同だが,最初に植物学に関係 する動向紹介とそれらにたいしての牧野の見解, 科や属などの分類群の解説,形態やそれを表す用 語の説明や牧野による解釈,新発見の植物,新産 地,新和名の提唱,各地の同好会や個人の消息等 が載った.第 1 巻第 1 号から,久内清孝ら牧野以 外の執筆によった記事も載った. 牧野が主筆であった 8 巻まで,牧野以外で最も 多くの記事を書いたのは, 「杜仲軒赭鞭夜話」や「採 摭余禄」の題での連載もした久内清孝である.ま た,久内は牧野主筆時代だけでなく,その後の朝 比奈主幹時代以降も『植物研究雑誌』の内容面の 支援者として多大な貢献をした.『植物研究雑誌』 が,研究論文発表の媒体として機能する一方で, 牧野が本誌創刊に掲げた植物ならびに植物学の新 知見の提供と研究等の活動状況を紹介する雑誌と しての役割を継続できたのは久内に負っていると ころが大きい. 創刊者牧野富太郎を支え,本誌の経済上の窮状 を朝比奈泰彦に伝えた久内清孝(おそらく清水藤 太郎),牧野を継いで主筆,主幹を務めた朝比奈 泰彦,津村重舎の支援を現実のものとした木村雄 四郎,内容面で朝比奈に助力した中井猛之進は, 本誌の継続と発展に重要な役割を果した.牧野を 加え,以下に上記の諸氏の事跡と本誌への関わり を紹介する. 40 The Journal of Japanese Botany Vol. 91 Centennial Memorial Issue 創設期の東京大学についてはこれを記述する文 献も多く,詳細についての紹介は他書に譲りたい. 2) 自叙伝を含め,多くの伝記は牧野が植物学雑誌 の創刊に関与または推進したように書くが,その 可能性は低い.第 1 巻第 1 号に牧野のヒルムシロ 属の解説が掲載されたのは,他に種属誌に類する 原稿がなかったことが大きい.日本植物学会役員 一覧表(林・石川 1982)を通覧しても牧野富太 郎の名はどこにも見出せない. 3) とはいえ植物学雑誌でも文検に出題された博物 の問題が掲載されている.30 巻 358 号 (1916) では, 「第 30 回文検植物科予備試験問題及解義」として 岡村周諦が解説と回答を記している.横書きとな ってからも問題掲載はしばらく続いたらしく,私 が確認できた最後は 66 巻 551 号で,委員名藤井 健次郎,中井猛之進,山羽儀兵の名を上げ,出題 された 29 問を羅列して提示している. 4) 種々の牧野の伝記は,牧野が大学から冷遇さ れたことを記すが,独自の研究室をもち,さらに 助手になる直前には標本整理や採集等への手当を 支給され,助手に採用後は 1897 年までは台湾を 含む各地の植物調査のために出張を命ぜられてい る.1907(明治 40)年には東京帝室博物館の嘱 託兼任が認められている. 5) 東京大学における最古の建物として小石川植物 園北側に移設され,総合研究博物館小石川分館と して現存している. 6) 1917(大正 6)年 12 月 31 日に嘱託となり,遺 伝学の保井コノが牧野と同時に辞職したとする伝 記があるが,その事実はなく職階も異なる. 7) 県立第一中学校教諭松野重太郎を幹事とし,牧 野富太郎を教師とした.発起人は松野の他,原 虎 之助,岡 太郎,笠間忠一郎,福島亀太郎,鈴木 長治郎の 5 名であった.また,当初の会員には久 内の他,澤田武太郎,宮代周輔,籾山泰一,朝比 奈貞一,舘脇 操,岡田要之助が名を連ねた(横 浜植物会 2009). 8) 木村陽二郎 (1985) は中井猛之進が中心となっ て設立した草木研究会を紹介している.この会の 趣旨は一般社会の植物に関する知識の涵養及普及 を図り,併せて東京帝国大学理学部植物学教室所 蔵標品の充実を図ることを目的としていた.会員 を募集し,会員は不明植物の標本を鑑定料ととも に東京帝国大学植物学教室に送れば鑑定を受ける ことができた.あたかも医者が診断書を書くに似 たことを行う会であるが,これを当時の教室の助手 や大学院生に振り向け,生活の支援に役立てること が考えられていた.会長は中井猛之進,顧問に東 京帝国大学講師牧野富太郎,同助教授小倉 謙, 法制局参事官佐藤達夫,幹事には東京帝国大学助 教授本田正次,同助手前川文夫,文部省科学博物 館蒐集委員久内清孝がなり,鑑定員には松崎直枝, 小林義雄,佐竹義輔,原 寛,北川政夫,伊藤 洋, 佐藤正巳,津山 尚,木村陽二郎,石川茂雄,籾 山泰一の名が列記されている. この種の事業に中井はよく久内をメンバーに加 え,協力体制を取っており,東京大学の植物標本 室に久内の出入りを禁じた先任教授の早田文藏と は大ちがいである. 摘 要 『植物研究雑誌』は 1916 年に牧野富太郎によっ て創刊された.全国各地の植物学のセミプロやア マチュア,学校教員,とくに文部省が実施する教 員検定試験,通称文検,の受験志望者が想定され た読者だった.当初,財政基盤は脆弱だったが津 村順天堂の創設者,初代津村重舎からの支援を得 て,財政基盤は安定し刊行を今日まで維持できる ようになった. 津村重舎は本誌の編集に干渉することはなかっ たが,東京帝国大学医学部教授朝比奈泰彦に本誌 への協力を依頼した.朝比奈はこれを受諾し,牧 野富太郎に替って 9 巻から編集主幹を引き受け [27 巻(1952 年)に編集委員制度に変わる],亡 くなる年の 50 巻 8 号(1975 年)までその地位に あった. 久内清孝と清水藤太郎は植物学や薬学の分野で 積極的に朝比奈を支援した.とくに久内は語学に 堪能で,自然史や日欧文化に該博な知識をもち, 本誌の編集を多方面から支援した.朝比奈が本誌 の編集主幹・代表を長年続け得たのも久内の協力 なしには考えられない. 東京帝国大学理学部教授中井猛之進は,朝比奈 が編集主幹となった『植物研究雑誌』を支援した. また,彼が指導した,小林義雄,伊藤 洋,前川 文夫,原 寛,津山 尚,木村陽二郎は,後に編 集員となり,薬学の藤田路一,佐々木一郎らと共 に本誌の発展に尽力した.植物学と薬学という異 分野間の交流に大きな役割を果したのも久内であ る. December 2016 大場:『植物研究雑誌』の創刊と発展 多様性の解明に関る自然史や民俗植物学(生薬 学)は本質的に複数の研究分野を跨ぐ,分野横断 的な性格をもつ研究領域であり,現在進行しつつ ある学術誌の過度の細分化にはなじまない.‘種’ を基盤とする多分野の研究成果や研究紹介を与る 学術雑誌は,自然史にとって欠かせないものがあ り,『植物研究雑誌』はその役割を今日に果し続 けている. 引用文献 朝比奈泰彦 1902.蘚苔類採集に就いて.博物之友 2: 1–3; 2: 1–5. 朝比奈泰彦 1949a. 私乃たどった道.南江堂,東京. 朝比奈泰彦 1949b. 巻頭の辞.植物研究雑誌 24: 1. 林 孝三 1982. 日本植物学会の百年.日本植物学会百周 年記念事業実行委員会編,日本の植物学百年の歩み ―日本植物学会百年史,7–36. 日本植物学会. 林 孝三,石川光絵(編)1982. 日本植物学会役員一覧表. 日本植物学会百周年記念事業実行委員会編,日本の 植物学百年の歩み―日本植物学会百年史,37–46. 日 本植物学会. 久 内 清 孝 1929. ガ ロ ア ム シ 採 集 の 昔 話. 採 集 と 飼 育 2(2): 48–50. 久内清孝 1933. 植物妖異記.植物研究雑誌 9: 255–256. 久 内 清 孝 1953. 中 井 さ ん の 思 い 出. 採 集 と 飼 育 15: 100–102, 107. 幾瀬マサ編集(1982 年)「久内清孝名 誉教授追悼集」廣川書店 (pp. 57–60) に再録. Hisauchi K. and Hara H. 1957. Tomitaro Makino. Taxon 6: 125–127. 池長 孟 1918. 本誌第二巻の巻頭に懐を述ぶ.植物研究 雑誌 2: (1)–(6). 帰山信順 1901. 講話.いねニ就キテ.博物之友 1: (1)– (2). 加 藤 僖 重 2008–2009.「 植 物 研 究 雑 誌 」 に 掲 載 さ れ た 牧野富太郎博士の報告文 (1), (2). 獨協大学国際教 養学部マテシス・ウニウェルサリス 10(1): 85–143 (2008); (2): 19–55 (2009). 木村陽二郎 1985.「草木研究会」について.植物研究雑 誌 60: 91–96. 木村陽二郎 1991.横浜植物会と東京植物同好会.植物 研究雑誌 66: 189. 木村雄四郎 1975. 本会々長 朝比奈泰彦先生の御逝去を 悼む.薬史学雑誌 10: 1–2. 木村雄四郎 1981.久内清孝先生の思い出.植物研究雑 誌 56: 237. Kurokawa S. 1976. Obituary Yasuhiko Asahina 1881– 1975. 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