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「帝政ロシア古都の旅」

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「帝政ロシア古都の旅」
「帝政ロシア古都の旅」
ロシアの二大都市モスクワ・サンクトペテルブルグと“黄
第二次世界大戦を経てゴルバチョフが体制の危機を乗り
金の環”と呼ばれるモスクワ郊外に広がる古都を巡る旅を
越える為にペレストロイカ(改革)の活動を展開したのが
してきた。思い立ったのは二つの目的である。一つはロシ
1986年からの15年間だった。その間1989年にはベルリンの
アの歴史が繰り広げられた“赤の広場”に佇むことと、も
壁が崩壊し旧ソ連が解体し、独立国家共同体であるロシア
う一つはエルミタージュ美術館でゆっくり絵画鑑賞をする
になりエリツィン政権が1991年に誕生した。
ことだった。
ロシアの歴史
ロシアの歴史を復習してみよう
訪問した二大都市を中心にこの国の歴史を整理してみる
と第1図の様になる。ロシアの歴史は現在のサンクトペテ
ルブルグの南南東180㎞に位置するノヴゴロドから始まった
と言われている。ここはバルト海からカスピ海への交易路
の拠点で、ロシア語の「ノヴ」
(新しい)と「ゴロド」(都
市)の合成語である。862年にノルマン系バイキングのリュー
リックが乱れたこの地を治める為に招かれロシアの先進で
あるルーシが建国されたと言われている。
モスクワの建都はスーズタリ公であったユーリ・ドルゴルー
クワがノヴゴロド公と会談した1147年とされている。その後
1480年に単一国家が誕生しモスクワが首都となった。1547年
にイワン雷帝(4世)が即位して国家建設に邁進し、1613年
にはロマノフ朝が誕生しロシア革命迄の300年近く支配した。
一方、サンクトペテルブルグはピョートル大帝がロシア
近代化の夢を託し、バルト海のフィンランド湾に注ぎ込む
(サンクトペテルブルグ)
西暦
リューリックの統治がノヴゴロドで始まる
1547 イワン雷帝(4世)が即位(1530-84)
1613 ロマノフ朝が誕生
1700 北方戦争(スウェーデンを破る)
ペテルブルグを建設(ピョートル大帝) 1703
モスクワからペテルブルグへ遷都 1712
女帝エカテリーナ2世が即位(1762-96) 1762
大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見 1792
1812 祖国戦争(ナポレオンを打ち破る)
1904 日露戦争(1904-05)
1914 第一次世界大戦(1914-18)
ロシア革命が開始(オーロラ号から発砲) 1917
1918 ペテルブルグからモスクワへ遷都
1922 ソビエト連邦が誕生
レーニンの死後、レニングラードと改称 1924
1941 第二次世界大戦(1941-45)
1980 モスクワオリンピック
1986 ペレストロイカ改革(1986-2001)
1989 (ベルリンの壁が崩壊)
サンクトペテルブルグと改称 1991 独立国家共同体ロシアが誕生
建都300年祭 2003
サミット開催 2006
ネヴァ川の河口の湿地帯を埋め立てて1703年に建設が開始
された。そして1712年に首都をモスクワから移しペテルブ
ルグと呼ばれるようになった。1754年にはエリザヴェータ
女帝の命で冬の宮殿(冬宮)の建設が開始された。1762年
姉エカテリーナ2世が即位し多くの西洋絵画が収集され「エ
ルミタージュ」
(隠れ家)と命名された。
ヨーロッパ全土を制覇したナポレオンはロシアにも戦力
を拡大したが、厳しい冬の寒さには勝てず退却したのが
1812年であった。尚、極東で日本に負けた日露戦争は1904
年から05年に掛けてのことだった。
そして1917年2月、第一次世界大戦の最中、ペテルブルグ
のネヴァ川に停泊していた巡洋艦オーロラ号から冬宮に発し
た号砲によりロシア革命が開始された。翌年1918年に首都は
モスクワに戻されペテルブルグは1924年レーニンの死去に伴
いレニングラードと名前が変わった。1922年にはソビエト連
邦が誕生し、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフの時代
が続き詳細は赤いカーテンに覆われてしまった。
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(モスクワ)
862
1147 モスクワの建都始まる
1480 単一国家誕生(モスクワが首都となる)
ロシアの地図
「帝政ロシア古都の旅」
成田から10時間でモスクワに直行
そうだ。メーデーや革命記念日に開かれた軍事パレードの
アエロフロートロシア航空 SU584便で成田を離陸したの
模様が放映されたテレビ画面だけの知識で誤解していた。
は12時半であった。機材はアメリカボーイング社製の最新
五つのねぎ坊主の丸屋根を有するカラフルな聖ワシリー寺
鋭機B767型でほっとした。それというのも大昔にモスク
院に見とれていたら、当日は日柄が良いと見えて何組かの
ワ経由でヨーロッパに出張した時に乗ったアエロフロート
花嫁花婿が記念写真を撮っているのどかな景色に巡り逢え
航空のソ連製機材は機内の圧力調整が悪く耳がキンキン痛
た。ところがこのロシアでは、若くして結婚するが離婚率
かった苦い思い出が蘇ってきたからだ。夕暮れ迫るモスク
が60%もあるとの話を聞いて複雑な思いをした。更に女性
ワの第二空港に降り立ったのは丁度10時間後の午後5時半
は若い時には節食して太らない努力をしているが、結婚し
だった。早速、ドルの一部をルーブルに両替してみた。200
たら安心して沢山食べてしまうために太ってしまうらしい。
ドルで5,110ルーブルだったので1ルーブル約4.5円に相当す
る。高額紙幣を避け10,50,100P札にしてもらったら財布に
入りきらない分厚い札束になったのにはびっくりした。尚、
単位のPはルーブルを意味しロシア語のアルファベットで
Pは英語でRだからである。
今夜だけは空港近くの Novotel ホテル泊まりである。そ
れというのも航空会社か旅行会社の都合で出発日が1日早
まった。11日間の日程が12日間になり、モスクワ滞在が1
日増えた。旅費は追加されずに逆に迷惑料を貰ってしまっ
た。ホテルは内側が吹き抜けの広い空間がありサンフラン
シスコ空港近くのホテルを思い浮かべる。機内での軽食だ
けではお腹が空いたのでホテルのレストランで食事をする
ことにした。ビールを飲もうとしたらロシア製と輸入品で
は大きな価格差があった。試みにロシア製を飲んだが結構
おいしかった。
聖ワシリー寺院
モスクワ市内観光で念願の “赤の広場” に佇む
一夜明け本日と翌日の2日間はゆっくりモスクワの市内
午後はクレムリンの内部を見学した。赤レンガに被われ
観光である。先ずは空港近くのホテルからモスクワ市内へ
た外壁は周囲2,235mで大小20の望楼が立っている。その内
の移動だが予想通りの大渋滞を体験することになった。総
6カ所の塔の尖塔には大きなルビー色に輝く星が風に吹か
延長11㎞のリングロードに辿り着くのにかなり時間が掛
れて向きを変えていた。内部の面積は28万㎢で、ドーム球
かった。途中には HUNDAI、NOKIA そして SONY の看板
場がすっぽり9個も入ってしまう広さである。幾つかの大
が目に付く。このリングロードの内側がモスクワ市内で人
聖堂を見た後、武器庫内部の見学をした。物騒な名前が付
口が1991年に500万人だったのが15年後の現在は2倍以上の
いているが実際には歴代皇帝の収集品が並べられていた。
1,100万人が住んでいる。豊かになり人と車が都市に集中し
モノマフの帽子やエカテリーナ2世の黄金の馬車等、当時
始めたのが渋滞の原因であることが理解できた。市内の中
の隆盛が思い浮かべられる。そして圧巻はダイヤモンド庫
心部に入る前にモスクワ川越しに市内を一望できる“ヴァ
のオルロフ伯爵からエカテリーナ2世に贈られた190カラッ
ラビョーヴィの丘”
(雀の丘)に辿り着くのに2時間以上も
トのダイヤモンドであった。
掛かった。川の向こう側にオリンピックスタジアムが見え
翌日はプーシキン記念美術館の見学で、ギリシャ・イタ
五輪のマークをした噴水が見えた。1980年に開催されたが
リア等の古典芸術のレプリカに出会った。ここでイタリア
西側はボイコットした暗い思い出が蘇った。振り向くとス
のフィレンツェで見たダビデ像を見るとは思わなかった。
ターリン・クラシック様式最大の建築物であるモスクワ大
美術史学習を目的として開設した美術館であった為に多く
学の美しいビルがそびえ立っていた。
のレプリカが作成されたそうだ。それよりも“トロイの財宝”
ノヴォデヴィッチ修道院ではチェーホフ、ゴーゴリ、ショ
に出会ったのには感激した。トルコのトロイ遺跡はドイツ
スターコビッチ、フルシチョフ更にはゴルバチョフのライ
人シュリーマンの発掘により殆どがドイツに持ち去られた
サ夫人らのお墓参りをしてから、いよいよ今回の旅の第一
が、はるか彼方のモスクワに財宝の一部である首飾りや水
目的である“赤の広場”に到着した。赤は共産党を意味す
晶玉が飾ってあるのには驚いた。競売で購入したとの説明
る色かと思っていたらロシア語で“美しい”という意味だ
であったが真偽の程を知りたい。
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ばれている。我々がモスクワから“黄金の環”に向かった
のは幸い日曜日だったので渋滞は全くなかった。モスクワ
到着の翌日、空港近くのホテルから市内に向かった時の大
渋滞が嘘のようだ。すんなりとモスクワ市内を抜け約3時
間で185㎞東北東の古都ウラジーミルに到着した。市内では
丁度マラソン大会が始まったばかりで交通規制をしていた
ので迂回等してレストランには遅れて到着した。1108年、
ウラジーミル・モノマフ公が河畔の小高い丘の上に要塞を
作り自分の名を与えたのが始まりというが、現地ガイドの
説明では“世界を支配する”という意味があるそうだ。12
世紀半ばにはウラジーミル・スーズタリ公国の首都になり
ウスペンスキー大聖堂が建設された。内部にはフレスコ画
の“最後の審判”があり、世界遺産に登録されている。モ
スクワにある同名の大聖堂はここが手本になっている。街
赤の広場に佇む
を囲む城壁の一つである“黄金の門”を通過して次の古都
スーズタリに向かった。
午後の自由時間は個人で好きなところを勝手に回ろうと
まっ赤な実を沢山付けたナナカマドの並木を通り30分程で
思ったが、添乗員が心配して付いて来ることになった。スリ・
スーズタリに到着し、ゆったり2泊した。人口36万人のウラ
タカリ等未だ物騒な場所があるらしい。再び赤の広場にタク
ジーミルと比較するとここスーズタリは人口1万1千人のこ
シーで戻り、大きなデパート“グム百貨店”をしばし散策し
ぢんまりした古都である。12世紀、ユーリー・ドルゴスキー
た。古い工場を大改装し、内部は吹き抜けになった3階建て
公が公国の首都を置きやがてウラジーミルに遷都した後も商
でアーケードが並んでいる。次にモスクワ川をクルーズする
業や文化の中心として栄えた。高さ8m、長さ1,160mにも及
ことにした。赤の広場から橋を渡りモスクワ川の対岸からク
ぶ城壁に囲まれたスパソ・エフフィミエフ修道院を見学して
レムリンの赤い外壁を眺めた。暫く写真を撮りながら川沿い
いたら運良く鐘のコンサートが聞こえてきた。塔の上を見た
を歩き船着き場に到着した。既に“MOCKBA”と書かれた
ら一人の男が両手に沢山の紐を操り、片足も使って鐘を鳴ら
船が待っていた。木馬? ここでロシア語を学んだ。CはS、
しているのが見えた。翌朝、日の出前に近くを散歩した。ホ
BはVであるので英語流には“MOSKVA”即ちモスクワと
テルの裏側に小さな小川が流れていて木造の橋を渡ると今は
いう意味であった。モスクワ川が蛇行しているのに沿って船
住んでいないこぢんまりした家が数軒並んでいた。聞くとこ
の上からのんびりと市街を見ていたら左側に“雀の丘”
、右
ろによると一部のロシア人は郊外に別荘を持ち週末に家庭菜
側にオリンピックスタジアムが見えてきた。そして1時間位
園をしたりして過ごすそうだ。昨日鐘のコンサートを聞いた
乗船していたらキエフ駅に到着した。ここはキエフ方面に行
修道院の外壁まで歩き彼方に見える教会の方から昇ってくる
くターミナル鉄道駅であるが地下鉄の駅もあることがガイド
日の出を眺めてホテルに戻った。本日の観光は木造建築博物
ブックで解った。しかも我々が宿泊しているホテルには2駅
館とクレムリンと教会だった。
“クレムリン”や“赤の広場”
で行かれる。モスクワの地下鉄は時代がかったシャンデリア
は一般名称で幾つかの街に存在する。夕食はロシアの一般家
や壁画が素敵だと書いてある。治安が悪いと添乗員は心配顔
庭の生活を体験する為の民家訪問だった。応接間にテーブル
であったが是非貴重な体験をしてみたいと思いデイバックを
が三つ並べられ総勢19人が座れた。お正月にロシアでは必ず
前に抱え乗り込むことにした。全線共通料金で15P
(約67円)
、
食べるギョウザの様な“ペリメン”やスープ、ピロシキ等全
ロシアの地下鉄はどこも地下深く走っているそうだ。最大
て手作り料理を味わった。裏の畑には家庭菜園があり離れに
100m(因みに、日本の地下鉄で最深は千代田線国会議事堂
サウナもあった。
駅で約60mとのこと)
、ここキエフスカヤ駅は80m。自動改
黄金の環の一角でロシア伝統の工芸品であるマトリョー
札を過ぎ、長いエスカレーターを下るとホームに辿り着く。
シカの産地でもあるセスギエフ・ポサードという街にも立ち
丸天井には立派なシャンデリア、壁にはウクライナをモチー
寄った後“宮廷街道”をまっしぐらサンクトペテルブルグ
フにしたモザイク画が埋め込まれていた。
に向かった。
“宮廷街道”はモスクワからサンクトペテルブ
ルグ迄の700㎞を北西方向に真っ直ぐ走るメイン道路(M10)
モスクワ郊外に広がる古都 “黄金の環”
であるが殆どが平面交差で中央分離帯が無いところも沢山あ
モスクワの北東部に首飾りが円を描くようにいくつかの
るのには驚いた。中央分離帯がない箇所は大部分が3車線で
古い都が点在することから、この地域は“黄金の環”と呼
中央がどちらかの追い越し専用レーンになっている。両側は
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「帝政ロシア古都の旅」
白樺と杉の林で時々ナナカマドが植えられている。フランス
トル大帝の妻であるエカテリーナ1世の為に先ず小宮殿の
の田舎道で良く見受けられる風景で、追い越す時には必ず前
建設が1708年に開始された。その後ピョートル大帝の娘エ
照灯を点けて注意を促すのを思い出した。ここロシアはどち
リザヴェータ女帝が宮殿の建設を命じ1756年にエカテリー
らかが追い越し専用なのでルールさえ守れば正面衝突は避け
ナ宮殿は完成した。母エカテリーナ1世に因んで名付けた
られる。それにしても大型トレーラーが数多く行き交う大動
宮殿であるが実際に使用したのは甥ピョートル3世の妻で
脈であるのに道路事情は貧弱な気がした。
あるエカテリーナ2世であった。
エカテリーナ宮殿は第二次世界大戦でドイツ軍の侵攻に
あい全焼したがサンクトペテルブルグ建都300年祭に会わせ
2003年に見事修復された。全長310mもあるロシア・バロッ
ク調の豪華な宮殿が往時の繁栄を偲ばせてくれる。正面階
段を上がると美しい天井画とシャンデリアが目に付く大広
間に入る。ロシア領カムチャッカに嵐の為に漂流した江戸
時代の船乗り大黒屋光大夫が1791年に日本への帰国許可を
得る為にシベリアからここまで長旅をして時の女帝エカテ
リーナ2世に謁見した場所でもある。帝政時代の秘宝“琥
珀の間”の琥珀は全て解体されドイツ軍に持ち去られてし
まった。ロシアでは戦後直ちに復旧工事を始めたが、ここ
の琥珀は依然行方不明で謎に包まれている。古い資料を頼
りに約6トンの琥珀原石を用い復元がなされた。三方の壁
と天井の全面には薄く加工された琥珀が細かくモザイク模
様に張られ輝いていた。残念ながらこの部屋だけは写真撮
“黄金の環”での修道院
影が禁止されていたので復旧の歴史が詳しく書かれている
本を買って帰り、細部に渡る写真を帰国後じっくり眺めた。
中世の面影を残す古都 “ノヴゴロド” を訪問
サンクトペテルブルグの手前180㎞に位置し、人口約24万
人の古都ノヴゴロドは「新しい街」の意味を持っている。
バルト海からボルガ川を経由してカスピ海に行き交う交易
路の拠点となり12世紀にはハンザ同盟との貿易が盛んに行
われた。中世ロシアのイコン制作の中心にもなった。1478
年にモスクワの支配下に入り、18世紀サンクトペテルブル
グ建設後は静かな地方都市となった。
ここのクレムリンは現存するロシア最古で世界遺産に登
録されている。高さ11m、長さ1,385mの城壁の内部には
1862年に作られたロシア1000年記念碑があった。建国した
とされるリューリックやピュートル大帝を始め合計128本の
像が組み込まれていた。街を二分するヴォルボフ川を夕方
クルーズし午前中に見学した木造建築博物館と聖ユーリエ
フ修道院を船の上から眺めた。
豪華絢爛な“エカテリーナ宮殿”
近代化の夢を托して建設されたサンクトペテルブルグ
18世紀ピョートル大帝はロシアの近代化の夢を託してネ
サンクトペテルブルグの市内観光
ヴァ川の湿地帯に幾多の歳月と人的犠牲を伴い国の権威を
色鮮やかなタマネギ型の屋根が美しい“血の上の教会”
懸けて大事業を展開した。街の名前はペテルブルグからペ
を外から眺めた。1881年に皇帝アレキサンドル1世が暗殺
テログラード、レニングラードそしてサンクトペテルブル
された場所に建設された為にこの様な物騒な名前になった
グと歴史の変わり目毎に変わった。最初に訪問したのが市
らしい。建物は隅々まで細かい装飾が施され素材もモザイ
内の手前50㎞のプーシキンと呼ばれる町に残されている“エ
クや彩色タイル、七宝タイル、大理石等様々でとても美し
カテリーナ宮殿”であった。ペテルブルグを建設したピョー
かった。内部にはもっと細かいモザイク画が在るとのこと
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で帰国日の午前中に急いで見学に行ったが、生憎開門が11
ドストエフスキー 「罪と罰」 の場面を文学散歩
時とのことで見学する時間が無く見ることが出来なかった。
今回の目的の一つであるエルミタージュ美術館を鑑賞する
次に見学したのが“イサク聖堂”
。高さ101.5mで30階建
日がやっと巡ってきた。しかし開門が10時半なのでそれまで
てのビルに相当するので、遠くからでも輝いたドームを見
の時間を利用して、1時間近く現地ガイドが“文学散歩”に
ることが出来た。地盤が軟弱な土地なので1万1千本もの
連れていってくれた。ドストエフスキーは医師の子で将校に
松の杭を打ち込み花崗岩や石灰岩を敷き基礎工事だけで5
なるが退役し1845年に24歳で作家デビューを果たした。しか
年の歳月を要したそうだ。そして教会全体は112本の花崗岩
し社会主義者の事件に連座し死刑宣告を受けるが、執行直前
の太い円柱で支えられている。一部道路側の柱にはドイツ
に恩赦でシベリア懲役となった。その後サンクトペテルブル
軍からの銃撃で傷ついた跡が今でもそのまま残されている。
グに移り住みこの街を舞台に多くの作品を著した。代表作
「罪
内部は角大理石、孔雀石、ラピスラズリ等が豊富に使われ、
と罰」に関連する場所を幾つか訪れた。スタートはホテルか
モザイク画の手法で描かれたイコンが多く見られた。
ら歩いて10分の“セーンナヤ広場”
、直訳すると“乾草広場”
午後はピョートル大帝の“夏の宮殿”を見る為にネヴァ
である。主人公ラスコーリニコフが自らの罪を告白し土に接
川から水中翼船に乗り、フィンランド湾に出てから30分で
吻した場所であるが、今は24時間営業のスーパーがある近代
約15㎞離れたペテルゴフに着岸した。フィンランドとエス
的ショッピングセンター等が並ぶコンクリートの広場になっ
トニアを挟みバルト海に通ずるフィンランド湾の最も奥
てしまった。次に運河沿いに歩き彼が住んだとされるアパー
まった処だが、対岸ははるか彼方に見えるほどの広さだっ
トを2カ所見学した。建物の1階部分にはドストエフスキー
た。大宮殿に真っ直ぐ向かう運河の周りには“いたずらの
のプレートが刻まれていた。更に道を進むと、一つの罪は自
噴水”
、
“傘の噴水”
、
“ローマの噴水”等色々趣向を凝らし
らの無数の善行によって贖われるという論理から金貸し老婆
た噴水があって楽しめた。圧巻は大宮殿の正面にある噴水
を殺害したという現場の家も訪れた。
群で、中央にサムソン像がライオンの口から空高く20mも
吹き上げ、両サイドの階段に沿って配置されている噴水群
世界四大美術館の一つ “エルミタージュ美術館” を遂に見学
は頂上が水平にぴったり揃っていた。驚くべきことにこれ
ロシア皇帝の住まいだった宮殿に300万点を越える収蔵品
らの噴水は全て22㎞離れた水源から上の宮殿に先ず水を引
が“冬宮”、
“小”、
“大(旧)”そして“新”の四つの棟に地域・
き込み、次にパイプを通して16m下に落ちる水力を利用し
年代別に展示されている。10時半の開門と同時に、美術館
て吹き出ていることであった。
内部のガイド資格も有する現地ガイドユーリさんの案内で
夜はマリインスキー劇場でのバレエ鑑賞がオプションで
効率良く有名な作品を次々と見学することが出来た。レオ
組まれていた。出し物は有名なバレエ
“ジゼル”
とのことだっ
ナルド・ダヴィンチの「リッタの聖母」、エル・グレコの
たが自分は聞いたことがないのでパスをした。その代わり
「聖ペトロと聖パウロ」、レンブラントの「放蕩息子の帰還」
、
観光客向けだがロシア伝統のフォークショーを見に行った。
マティスの「ダンス」――――。ヨーロッパ絵画のオンパ
民族衣装を着た男女が次々とコサックダンスを踊ったり、
レードだ。これらの絵画を見るだけであっという間に昼食
ロシア民謡を声高らかに歌ったり結構楽しめた。
時間になってしまった。館内のカフェで軽食を取り午後は
ピョートル大帝の“夏の宮殿”
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憧れの“エルミタージュ美術館”
「帝政ロシア古都の旅」
自由時間になったが未だ見足りないので、午後も引き続き
が問題になっている中国同様に、ロシアも色々な問題を抱
ユーリさんに案内して貰った。彼は空手を習っている内に
えている筈である。日本とは北方領土の問題が解決してい
日本に興味を持つようになり5年間大学で日本文学を学び、
ないし、チェチェン共和国とは時々問題を起こしている。
卒業論文は「今昔物語」だったそうだ。日本語会話も身に
しかしながらトヨタがサンクトペテルブルグの郊外に進出
つけ8年間ガイドをしている。次に古代ローマ・ギリシャ
したのを始め、多くの日本企業がビジネスを展開し始めて
の彫刻やエジプトのミイラなどを見学した。更にスペイン・
いる。今回の旅行でロシア語のアルファベットを覚えたこ
イタリアの絵画を見たが館内はこれら美術品だけでなく“玉
とや二大都市を見学した折りにロシア市民の生活を垣間見
座の間”
、
“ピョートル大帝の間”
、
“黄金の間”そして“孔
たことは大変有意義であった。
雀の間”等の室内装飾品や調度品等ロマノフ王朝の栄華の
おく つ
かずひさ
(元広報部 部長 奥津 和久)
結晶が至る所に有り、目を見張るばかりだった。
参考資料
まとめ
BRICs の一角であるロシアは今後の発展が期待される国
であるが、かつて赤いカーテンに被われ容易に行き来する
のは出来なかった。今回訪問した地域はロシアの二大都市
と古都のみで、世界最大の領地を有するロシアのほんの一
部である。都市部と農村部で大きな違いがあり、その矛盾
「るるぶ情報誌 ロシア(モスクワ・サンクトペテルブルグ)」JTB パ
ブリッシング発行
「地球の歩き方 ロシア‘06~‘07」 ダイヤモンド・ビッグ社発行
「地図と地名で読む世界史」宮崎正勝著 日本実業出版社発行
「THE AMBER ROOM」Victoria Plaude 著 Ivan Fiodorov Art
Publishers 発行
(こぼれ話)
ロシアのアルファベットを推測する方法
NやRの反転文字であるИやЯがあったり、英語にはない
文字ПやДがあったり皆目見当が付かなかったが街の看板を
色々見ている内に推測するコツを覚えてきた。
街のあちこちに「KA Ф E」の看板が目に付き喫茶店らしい
ので「KAFE」であることから「
“Ф”が“F”なんだな!」と
解り、
「ФOTO」が「FOTO」
(フォト)あることが推測できる。
交差点には必ず「CTO П」のサインがある。
「STOP」であると
想像できるので“C”が“S”
“
、П”が“P”であるに違いない。
電気屋に貼ってあるサイン「BИAEO」は何だろう? “B”
が“V”
“
、И”が“I”
“
、A”
が“D”なので、
「VIDEO」
だ! そしてレストランの
看 板 に は「PECTOPAH」
と 書 い て あ る こ と か ら、
“ P ” が“ R ”
、
“C”が
“S”そして“H”
“N”で
あることを覚える。即ち、
「RESTORAN」である。
おなじみのマークが
あるお店の看板には
「Maкдоналдс」 と 書
い て あ っ た。 日 本 に 帰 っ
てから改めて店の看板
を 見 た ら「McDonald's」
と な っ て い た。 マ ク ド
ナルドと発音するので
「MAKDONALDO」 と 綴
るのだと思っていた。
ロシア文字
皆さん、
「MOCKBA」が
木馬でないことが解りまし
たね!
さめたロシア料理
ロシア料理と言えば渋谷の「ロゴスキー」で食べた熱いボ
ルシチと中身の豊富なピロシキが美味しかったのを思い出す。
今回も期待していたが見事裏切られてしまった。
ビートルズ関連の写真が沢山張ってあるイギリス風レスト
ランでの事だった。配られたスープがどうもボルシチらしい。
一同期待して食べ始めたがぬるい上に具が少なくがっかりし
ていた。その時店の奥から湯気が立っているスープが一つ添
乗員のところに運ばれてき
た。どうも一つだけ配膳が
遅れたらしい。ぬるい、ぬ
るいと皆で不満を言ったら
添乗員が見るに見兼ねて店
に文句を言いに行った。そ
うしたらお詫びにフリード
リンクとしてウォッカを各
自に一杯ずつ出してきた。
それにしても具が少なくぬ
るいボルシチにはがっかり
してしまった。
それから民家で出された
パンはピロシキらしかった
が中身には期待した程の具
が入ってなく、単なるジャ
ムパンのような気がした。
どうも日本で食べるロシ
ア料理と現地では違うよう
だ。本格的なロシア料理店
に行かないと解らないのか
典型的なロシア料理“ボルシチ”
も知れないがーーー。
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Fly UP