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洪武帝期 の対外政策考 -済交トーに焦点を当てて一

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洪武帝期 の対外政策考 -済交トーに焦点を当てて一
洪武帝期の対外政策考
一’済州島に焦点を当てて一
蔭木 原洋
序 論
済州島は、朝鮮半島、全羅南道木甫の対岸約14キロ、面積約1840平方キロメートルの火
たんら
山島である。中央に漢千山があり、山麓の原野は放牧にも適する。古くから耽羅として、
中国、日本の文献にもその名を知られている。r東国輿地勝馬』やr高麗史』地理志の伝
説では、三人の神人が、日本から渡来した三王女と署して始祖となり、のち新羅に貢した
ことになっている。r三国史記』地理志によれば、この島はもともと百済の附庸下にあっ
たらしく、爆音県と称していたが、景徳王代(742∼64)新羅に帰附し耽津と改めたという。
高麗王朝になって、粛宗十年(1105)に、毛羅を改めて郡となし、毅宗の時、縣に降し
たほ〉。元宗の時には三別抄の反乱軍が、この島に拠って大きな脅威を与え、元宗はこれ
を平定できず、元軍の力をかりて鎮圧した。以後、元の支配下に置かれ、牧場として軍馬
供給の機能を果たした。
その済州島について、元の世祖フビライは済州島を支配下に入れる以前より、次のよう
に指摘している。
世祖、既に高麗を臣服す。馬鐸を以て南宋・日本の衝要と為し、亦た意を注ぐ。
(『元史』群群百八・列伝第九十五)
即ち、世祖は済州島が南宋攻略、対日遠征上の重要な拠点であると考えていたのである。
このことについて、末松保和氏は「元が撃手達残花赤(ダルガチ)を設置した忠烈王二年が・
所謂元冠の文永の役の翌々年、南宋覆滅の四年前であり、高麗予予を許した二十年が、東
征の議の罷められたのと殆ど時を同じくしていることからみても、元のこの島の経営が、
日本及び南下経略と至大の関係あることは肯定される」(2)と述べている。
筆=者は、済州島の役割は、元を漠北に追い、明を建国した洪武帝にとり、元朝同様に外
交上重要な拠点であることには変わりはなかったと考える。即ち、倭冠対策上でも、北元、
特に納恰出(ナガチ・)(3)討伐の馬を獲得する上でも、また、海.上に逃れた方國珍・張士
誠の残党を倒すためにも重要な島であった(4)。
小稿では、済州島に対ずる明や高麗の政策、また倭冠の動きから、洪武帝の倭竃に対す
る考えや、ひいては対外政策を見ていきたい。
一18一
(一)済州島と高麗の関係
済州島と高麗との関係を年を追ってまとめると次のようになる。
○太祖八年(925)十一月己丑
耽白方物を貢す。
○太祖二十一年(938>十二月
耽羅国太幽魂老来朝す。
○粛宗十年(llO5)
耽羅郡となす。
○元首十四年(1273)
元帥金雲切によって応益抄、鎮定。
0忠烈王二年(1276・至元13)
耽伊達魯花赤を設置。馬百六十匹を持ち入り、牧馬場
とする。
○忠烈王二十年(1294>五月
高麗に帰属することを奏請し、許される。
○忠烈王二十一年閏四月
済州牧と改称。
○忠烈王二十六年(13㏄D
元の皇太后が無駄を放牧。
○忠烈王二十七年(大徳5>三月元は再び直轄地として耽羅軍民万戸を設置。
○ 〃 五月 .
高麗は使者を送りこれを中止するよう奏請。
○忠烈王三十一年(1305>
高麗に還付される。
○忠粛王五年(1318>二∼六月
元は島民士用・金成・厳朴等の叛乱に際して、その叛状
○慕う聖王五年(1356)六月
前賛成事サ時遇を済州都巡間使として派遣。
を責問慰接せしめる。
○ ・・ 十月
血栓赤忽古曲(忽忽達思〉等叛して、サ時遇及び牧使奴
凶年・判官李陽吉を殺す。
○恭慾王六年二月
加乙赤忽古托(忽忽達思)の乱、鎮圧される。
このように済州島は、粛宗十年(1105)に、高麗の支配下に入ったものの、元宗十一年
(1270)に三別面の乱が起こり、翌年五月、珍島を追われた三別抄によって済州島を占拠
されてしまった。元宗十四年〈1273)に高麗は、金味慶が元山の析都等の援助を受けてよ
うやくこの乱を平定した(5)。
三別電の乱平定後、美童七洋討尋(二年後に達魯花赤総説府と名称変更〉が設置されて
元の直轄領に入り、兵千七百人が置かれた(6)。この駐屯兵の後も、臼本遠征に備えて、
モンゴル兵は増加していった(7)。また、三千艘の船の用材の供出や役夫を命じられたり
して、元朝直轄下の済州島の土着民の負担は非常に大きかった(8)。
その後、高麗に還属されたり、再度元の支配下に入ったりしたが、忠烈王三十一年(13
05>以後は、高麗の支配下にあった。しかし、高麗が済州島を完全に服属させていたわけ
ではなかった。
r高麗史』巻三十九・世家三十九、恭懸王五年九月庚辰には、“
一19一
使を楊廣・全羅道に遣し、官爵人及び禾尺・才人を了して、西北面の戌卒に充つ。
とある。この済州入とは土着民であろう。高麗が済州人を、賎民である短尺・才人(g)と
同列で、楊廣・全羅道の西北面の戌卒したことに、済州島土着民の不満は相当なものであ
ったと考えられる。
また、済州島のモンゴルの遺民も、済州島が高麗に転属されたことを喜んではいなかっ
たと推測される。
済州島には、元が直轄する以前から牧場があったが、本格的な馬の放牧はフビライの命
によって始められた。その牧養には済州島が高麗に還属されても、モンゴル遺民があたっ
た。その結果、済州島の土着民から牧養の仕事を取り上げることになり、土着民とモンゴ
ル遺民との関係は良好ではなかったと推測される。
恭懸王五(1356)年六月、前賛成事ヂ蒔遇が済州都巡間使として派遣された。この派遣
について、末松保和氏は「それに先立つこと二十余日に既に着手していた印瑞・柳並製等
の東北面及び西北面攻略の挙と併せ考うべき重大事であって、前者を兵馬使、後者を都巡
間使とした相違あるのみ、これは南北相応ずるところの元勢力の駆逐、国土開拓の企図と
解さねばならぬ」と論じている(10)。
筆者も末松氏の論に立ち、高麗が済州島から元の勢力を払拭し、済州島の直轄化を図ろ
うとした動きに対する不満から、この年十月モンゴル遺民の加乙赤総見托(忽忽豪富)等
の叛乱が起こったと考える。
(二)済州島の特異性
高麗王朝において、倭窪の侵攻が始まったのは、忠定離二年(1350)年二月からであっ
た。r高麗史』には、日本人が朝鮮半島南部の固城・竹林・巨済・合浦安に侵入し、崔禅
らがこれをむかえ撃って破り、三〇〇余人を斬獲した、と書いてあり、「倭冠の侵」はこ
こに始まったとしている。また『高麗史節要』も、「倭冠の興」はここに始まったとして
いる(11)。
そのような中で、従来倭冠の根拠地となったのは「三島」とよばれる、対馬・壱岐・松
浦とされてきたが、高橋公明氏・田中健夫氏・村井章介並等によって、済州島も恩寵の重
要な拠点でなかったかということが提唱された(12)。,
済州島の住民の倭竃的特徴を表している史料として次のようなものがある。
(1)r朝鮮成宗実録』三年二月甲午条、全羅南道楽安の海賊
或いは詐りて倭人と為り、或いは済州人と為る。諸島に依凄し、採海の人を劫掠す。
(2)r朝鮮成宗実録』八年八月己亥条、済州島の海底「豆禿也只」
一20一
衣服は倭人に混じり、言語は漢に非ず倭に非ず。
(3>r朝鮮成心実録』 十三年閏八月戊寅条
済州の入民、沿海諸臣に流寓し、既に附着することなし。又禁防なく、出入自由なり。
ひょうせつ
或は倭人の言語・衣服を随い、海島に往来し、潜に劉騒を行う。
これらは、高橋・田中・村井三氏もあげている。李朝期の史料で高麗期とは時期を少し後
にしているが、筆者も済州島の住民の特異性を非常によく表している考える。即ち、済州
島民は、一応は朝鮮半島に帰属しているものの、その実体は、朝鮮半島と日本との境界線
上でどちらにも出入りできる特異な民族であり、済州島民の行為は、倭冠の行為そのもの
であったと考えられるのである。
r高麗史』巻四十一、真魚王十六年二月癸亥には、
癸亥、元面高大悲、済州より來たる。帝、王に繰畠・無期五百五十匹を賜い、宰櫃に
も亦た差有り。時に帝、済州に齪を避けんと欲し、拓ち御府の金倉を輸せしむ。乃ち
詔して済州を以て復た高麗に属せしむ。時に牧胡1ば籔國家の遣わす所の牧使萬戸を殺
して、以て叛す。金庚の討ずるに及びて、牧胡、元に訴えて萬戸府を置かんことを請
う。王奏すに、金塵は實に済州を講ずるに非ず、倭を捕えるに因りて、追いて州境に
至りしに、難壁の牧胡、妄りに疑惑を生じ、遂に與に相戦えるのみ。請う、本圃をし
て自ら華年・萬戸を遣し、牧胡養なう所の馬を揮び、以て獄ずること故事の如くせん
と。帝、之に奪う。
とあり、元の順帝は、紅巾の乱を避けるために済州島に避難しようとしている。順帝は幼
少の頃、高麗の大青島に流されていたことがあり、その影響から高麗出身の女性奇民を愛
した(13)。また、恭慰王によって奇氏が滅ぼされた後も、高麗国内には、なお元を宗主
国として仰いでいこうとする(後の向元派)勢力は根強く存在していたことから、済州島
への避難を考えたのかもしれない。しかし、それだけではなく、済州島の重要性、即ち、
(1>モンゴルの遺民が多くいること、(2)三舞抄の乱で証明されたように、済州島は
要害堅固な島であること、そして何よりも、(3)その海上軍事力に期待したのではない
か。また、一時的にせよ、元朝についた方國珍、張士誠の海上勢力との提携を考えたので
はないかと筆者は考える。
また、金塵が倭冠を追ってきた結果として、倭竈が済州島に逃げ込んだと考えられる。
済州島のモンゴル遺民が、金庚と戦ったというのは、倭竃とモンゴル遺民との間に何らか
の関係があったのではないか。少なくとも、前述したように済州島と倭竃との関係が非常
に深かったということを示す史料ではないか。
ここで、もう一点筆者が気になるのは、高麗が元に対して、馬の管理の役人を送ってく
れるのを望んでいることである。即ち、モンゴル遺民と済州馬を切り離しをはかっている
一21一
ことである。それは、モンゴル遺民と済州馬がセットになることが問題であるからではな
かろうか。
(三)済二巴をめぐる明麗関係と倭冠
高麗は恭慰王(1330∼74・在位1352∼74)の治世から、断固たる三元政策をとり、恭慈
王五(爲56)年には、征東行中書省理問所を廃し、元朝の外戚の奇氏を二二、さらに軍隊
を派遣して鴨緑江以西の元の要塞を攻撃し、讐城総監府を回収した。恭慰王十七(元至正
二十八、明洪武元・1368)年八月、二軍によって大都が陥落し、上帝は上都に逃れて、元
朝は滅亡した。丁丁帝は十一月に、符二郎僕斯を高麗に遣わし建国を告げさせた。恭慰王
は反元政策をとりながらも、元に対して事大の礼を失うことなく、恭二王十八年の三月ま
で使聰の使者を派遣していた。
しかし、恭慰王十八年目四月に、符寳郎二丁が再度至るや、王は百官を率いてこれを迎
えた。そして懊斯が五月に帰国するに及んで元の「至正」の年号をやめ、謝恩の使節を金
陵に派遣した。洪二丁は恭二王を高麗國王に封じ、儀制服用を全て高麗の風に従うことを
許した。また、高麗はこの年七月目り「洪武」の年号を用いた。こうして高麗は明の朋封
体制下に入ったのである。
恭慰王十九(1370・洪武三)年七月十八日、高麗は三司左使姜師賛を明に遣し、朋命及
び二二を謝し、並びに元朝の降した金印を納めて、耽羅のことを計稟し、楽工を請うた。
耽羅の計稟:表には、
耽羅の島は、即ち吊れ高麗の入、三二以来、州を置き牧と為す。近代通燕の後より、
さきには
前朝の二二有り。其の中、但だ水草の饒を資り、其の封彊に在ること菖の如し。乃者、
せめる
奇氏兄弟、齪を謀りて謙に伏す。群に、二二四達牧子・忽忽達思(加二三忽古言)に
連なる。人を葦して下問するに、宰相サ時言二二く殺す所と為る。其の後、前侍中サ
桓の家奴金長老、前賊に黛附し、本丁を害せんと謀り、倶に各庁に服す。島喚、二丁
なりと云うと難も、人民、屡騒然たるに至る。病根苛くも二二を存するも敷き難し。
伏して望むらくは、容光の日月を農し、二二の二二を辮じ、前朝の太二二・宣二院・
中政院・資政院の放つ所の馬匹螺子等を将いて、三州官吏をして元籍に二二し、土人
に責付して牧養し、時節に進献せしめ、其の達達牧子等も亦た本國をして撫して良民
と為さしめば、則ち二二馬丁の官に於いて、豊に小補無からんや。而して小國民生の
業も亦た将に稻安からんとす。(『高麗史』巻四十二、丁丁王十九年七月甲辰)
ここでも、前述の元への要求と同様のことを高麗は洪武帝に請願しており、よほど高麗は、
済州島のモンゴル遺民から馬を取り上げたかったに違いない。その.ために済州馬の牧養は、
済州島の土着民に任せ、モンゴル遺民を済州島から中国本土に移してもらおうとしたので
あろう。
一22一
恭型置二十一(洪武五・1372)年三月甲寅、明への貢馬を獲得するために、禮部尚書呉
季南、秘書監劉三元を済州島に派遣した。しかし、済州島は叛乱を起こし、三景元及び牧
使兼萬戸一隅藏を殺し、呉甲南は済州島に入島できずに帰った。この年六月戊戌、済州人
によって叛賊は鎮圧され、彼等は判官文瑞鳳を権知牧使に担ぎ、’ ュ使して献馬の命を請う
た。
かかる最中に、民部尚書張子温が明に派遣され、済州島の討伐を洪武帝に請願した。
遣民部尚書張子温如京師。請討耽羅。表日。海邦難隈。唯知事上之心。島並敢
阻路。薙琿愚懇。仰涜下聞。伏念、町回於為國野方。尚 讐 養
鐡匿。尋奉詔書。示今山幹 訓。欽遵平等。遂其按下之生。第貢獄門稽期。
早年告之本意。於本年三月。差陪臣禮部尚書今季南。前往耽羅。粧載馬匹。予予進献。
以倭賊在海一送。不期 靱牧子等将先差去秘書監劉景元及濟州
牧使李用藏・判官文端鳳・権萬戸安邦彦等鑑殺之及。季南至又将弓兵。又将弓兵先上
野者三百粉雪。亦皆殺之。以此季南不能前進。廻還。(『高麗史』巻四十三、恭懲王
二十一年四月壬寅)
済野馬を獲得するためには「島夷平ならず、敢えて路を阻む」とあるように、高麗は済州
島民、特に済州馬を管理するモンゴル遺民との抗争は避けられなかった。そして、「嘗て
脛情の請有り。謂へらく、耽羅の野業に致るは、 靱の移居に如くはなし」とあるのは、
前述した、恭照照十九(1370・洪武三)年七月の三司左使姜下野の計下表をさしている。
しかし、群群帝の解答は「示すに烹鮮の訓を以てす」というものであった。そして、呉季
南が貢馬を獲得するため済州島に向かった際に、倭冠から済州馬を守るために、弓兵四百
二十五入を派遣している。そして、モンゴル遺民の叛乱が起こったことを報告し、洪武帝
に済州島への注意を喚起させている。このことは、『太祖実録上巻七十五、下戸五年七月
庚午にも記されており、
高麗王額、其の刑部尚書呉三等・民部尚書張子温等を遣し、表を奉り黒馬及び方物す。
表に言う。耽羅三等の険遠なるを待み、朝貢を奉ぜず。及び多くの蒙古人其の國に留
明するもの有り。宜しく之を徒すべし。蘭秀山の通逃し干る所となる。潤た恐らく遥
拝を為さん。兵を発し之を討たんことを乞う。
というもので、今度は、蘭秀山の事件(14)を持ち出して明の出兵を乞うている。しかし
洪武帝の命は、
男運、既に終わる。耽羅胡人の部落有りと難も、已に高麗に聴命す。又、劉に誓い誘
うの手無し。何ぞ之を疑聴することの深きや。(r太祖実録』巻七十五、洪武五年七
,月庚午)
一23一
というものであった。しかし、恭慰王二十一年九月壬戌にある洪武帝の親諭には、済州島
平定の兵を起こし、叛乱を起こしたモンゴル遺民を尽く勤捕せよとあり、また、
焦那地面裏。倭賊縦横劫掠。浜出入民。避雷逃窟。不能鎮邊。致幽々賊過海仕来作料
身上頭。長句裏。震幅沿海心礎官。乱獲到前賊船一十三隻有。萱耽羅雌皇些笠
一。(r高麗史』巻四十三、恭山王二二十一年九月壬戌〉
とあった。即ち、洪武帝は、済州島が甘辛によって縦横劫掠され、浜海の人民は避底幅良
して、倭冠を鎮圧することは不可能であり、済州島の牧子等(モンゴル遺民)が倭冠と一
緒になれば、勒唆することはもっと困難になる、と言っているのである。
親諭と同時に出された、手詔には、
又手虚日。七月二十五日。張子温至。表言耽羅牧子密送。官吏軍兵。立面非命。深可
恨怒。春秋遺法。乱臣賊子。人人得而諜。今牧子藤壷。所当諌討。然国無大小。蜂
有毒。縦彼窒素滅。在此亦必有所傷。蓋往者之失。因小事而構大禍。翁島。豊非烹鮮
之急。猜忌至甚而致然歎。事既如是。王・ロ z 妖 王 “ 。
(『高麗史』巻四十三、恭懲王二十一年九月壬戌〉
とあり、『立偏実録』の記載とほぼ同じであるが、「王、因循し侮らるべからず。然れど
も事機の緩急、王、其れ審らかに之を図れ」というように、済州島出兵のことを恭慰王の
判断に任せている。このように洪武帝の決断を躊躇させているのは、倭憲とモンゴル遺民
との提携に対する不安であろう。
しかし、ここまで高麗が済州島に関して洪武帝の注意を喚起しているにもかかわらず、
また、洪武豊自身も済州島のモンゴル遺民と倭竃の提携を恐れていながら、高麗に済州島
のことを任せようとしているのは、洪武帝にモンゴル遺民を禁圧しようとする積極的な意
志がないこと、そして倭憲禁圧の意志のないことを物語っているのではないか。
(四)高麗の済州島平定
恭心止二十二(洪並塩・1373)年七月壬子に、賛成事莞細身等が、紬縞帝の宣諭を持ち
帰った。その宣諭(15)には、恭慰王二十一年五月に洪武帝より派遣された、延達麻失里、
孫内侍の死に関する疑惑、高麗のスパイ行為に対する非難。納輩出の牛家荘襲撃事:件に対
する高麗の関与(16)、済縞馬の貢馬印の不足に対する非難等が書かれていた。
この年十一月壬申には、大細砂金甲雨が済海馬五十匹を献上し、翌年七月甲辰には、判
繕工寺事周英賛を京師に派遣してチ秋節を祝賀させ、濟州牧胡・肖古禿不花よりの済州馬
十九匹と駿馬二匹を洪武帝に献上した。
一24一
一挙王二十三(洪武七)年、洪武帝は禮部主事林密・華牧大使墨黒を遣して、次のよう
なことを高麗に命令してきた。
已前征進砂漠。導因墨壷活躍馬匹多有損壊。如今大軍又征進。我想高麗國已先元朝曾
有馬二三萬藩王耽蟻蜂総髭生玉多。中書省差人将文書去與高麗國王説得知道教他蟹玉
馬謹選二千匹送來。於是遣門下評三韓邦彦往事羅取馬。(『高麗史』巻四十四、恭慰
王二十三年四月戊申〉
高麗も洪武帝に尊墨馬のことをアピールしたものの、せいぜい、金甲雨が献上したぐらい
の済州馬五十匹、もしくは肖古禿不花の献した済州馬十九匹ぐらいの数を考えていたのが、
一度に二千匹の馬を要求されてとても応じられるものではなかっただろう。それはr高麗
史』巻四十四、恭帝王二十三年七月乙亥に、
韓邦彦濟州に至る。吟赤・石迭里必思、癖毛禿不花、観音保等曰く、吾等何ぞ敢へて
世祖皇帝放畜の馬を以て諸を大明に獄ぜんやと。只だ馬三百匹を送る。
とあり、モンゴル遺民にとっても、三百匹の貢馬が限度であったと考えられる。
恭慰五十九(洪武三)年・恭漫筆二十一年と、高麗がモンゴル遺民の危険性や済州馬の
貢馬のことをあげて、洪武帝に済州島に着目させようとした時には、見向きもしなかった
のが、この恭為楽二十三(洪武七)年に入って、洪武帝が済州馬二千匹を要求してきたの
は何故か。それは、洪武五年十一月の牛家荘襲撃にはじまる納恰出の攻勢に対する洪武帝
の反撃政策であると考えられる(17)。
また、塵藻七年に高麗に対して火薬の頒降が、中書省の強い反対にもかかわらず、洪武
帝によってなされた(18}。火薬の頒降は、高麗の倭竃討伐政策上のたっての願いであっ
た。洪図帝には、火薬の十三により、済州馬を獲得しようとする思惑があったと、筆者は
考える。
しかし、明使林密等が三百匹の耳糸で満足するはずがなかった。『高麗史』巻四十四、
恭懲王二十三年七月戊子には、
林密等王に白して曰く、濟州の馬堀チ数に満たざれば、則ち帝必ず吾輩を干せん。請
う、今日罪を王に受けんと。王以て封うる無し。遂に濟州を伐たんことを議し、己丑、
さいえい
命ずるに門下賛成事崔螢を楊廣全磯草尚道都統使と為す。(中略〉戦艦三百葦葺艘一
@二 六 。教して曰く、耽羅國回申に於いて、世職貢を修すること五百
載に垂んとす。近く墨筆・石迭里必思、肖古禿不花、観音保等、我が使臣を殺鐵し、
、’
我が百姓を奴脾にし、罪悪貫聾す。今爾に節鍼を固く。往きて諸軍を督し期を剋して
一25一
蓋幽せよと。又た以て門下評雪柳淵を楊廣道都駐屯使と為し、知嚢直司宝鑑師禺を全
羅道都巡回使と為す。鎮に留まり以て不虞に備えしむ。
とあり、恭慰王は明書林密等に迫られ、単独で済州島平定を敢行しなければならなくなっ
た(1g)。戦艦314艘、鋭卒25605人という数は、済州島討伐に非常な軍事力を必要とした
ことを物語る(20)。高麗としては、これだけの軍事力使用は避けたかったに違いなく、
洪三盛にモンゴル遺民の幽居を要請し、済州馬を餌に高麗の済州島経略に協力させようと
したのであろう。しかし、これが逆手に取られることになった。即ち、洪武帝の要求する
馬匹の数は高麗の能力を超えたものであったのである。
困難が予想された済州島の平定であるが、r高麗史』巻四十四、恭患王二十三年八月辛
酉には、
転宅、諸軍を領し耽羅に至る。奮燃し大いに之を敗る。遂に賊魁三人を斬り.首を京に
傳う。耽羅平ぐ。
とあり、高麗が予想したよりは簡単に平定に成功した。その理由は、済州島鎮圧軍の総司
令官である雀螢の策謀にあった。r高麗史』巻百十三・列伝巻二十六・崔螢伝に、
賊魁を除くに、星ま1玉王の土官軍民を外し、宜しく悉く按堵すること、故の如くすべ
し。(中略)萬戸安平使星羅玉算、馬は諸州卒に分養す。
とある。星主氏は済州島の名族であり(21)、星主氏らとモンゴル遺民とは仲が悪いと考
えられ、そこに目をつけた崔螢が、済州島の土着民を味方につけて反乱軍の離間策をはか
ったのである。そして、この離間策の成功が、思ったより早く済州島のモンゴル遺民を討
伐できた要因になったと考えられる。
しんぐう
しかしながら、翌辛禍元年十一月には、早くも反乱が起こっている。
濟州の人車玄有畑、官癖を焚き、安撫使無意、牧使翼々清、馬身使金桂生等を殺し噛
以て叛す。州人文臣輔、星主峯實囲、鎮撫林彦、千戸高徳羽等、兵を起して導く澄す。
(『高麗史』巻一三三、辛禍元年十一月〉
この事は、高麗の支配下にはいることを不満とする勢力がまだ一掃されていないことを示
す(22)。反乱を押さえるのに星主氏等が活躍しているのは、崔螢の離間策が効を奏した
といえる。
しかし倭冠も、適業によって平定された済州島をもう一度自分の勢力範囲とすべく、す
一26一
ぐに攻撃をしている。『高麗史』巻一一三三、辛乖禺:三年六月には、
倭学二百絵艘、濟州に竃す。全羅道水軍都萬戸鄭龍・サ仁祐等兵を率いて之を伐つ。
一船を獲て之を繊す。
とある。倭寵にとって済州島は非常に重要な根拠地であり、何よりも済州馬が欲しかった
のであろう。
倭竃集団の大量の馬匹は、対馬・壱岐・松浦のいわゆる「三島」から即下に載せてくる
にはあまりにも多すぎる数である。田中健夫氏は、辛二王期の平冠の特徴として、大規模
な騎馬隊の集団があったこと、南朝鮮の全羅、慶尚の地方では奥地まで倭窟が入りこんで
いることをあげられているが(23)、このことは、倭冠にとっても既に沿岸部だけの侵攻
では充分な成果が上げられず、内陸部への侵攻のために馬が必要であった、と考えられる。
また、田中健夫氏は、倭竃集団の大量の馬匹には、済州牧のものも多く混じっていたに相
違ないと論じている(24)。そのことを裏付ける次のような史料がある。
馬に二種有り。胡馬と日う者は北方従り來たる者なり。郷馬と日う者は國中の所出な
り。國馬は駿の如く従いて良を得ること無く、胡馬は百の一二に居る。亦た中國の知
る所なり。近ごろ倭冠に因りて損傷し殆ど蓋く。(r高麗史』巻一三四、辛禧五年
十月〉
これは明徳太后(25)の上表文であるが、この胡馬とは済州馬のことであり、済州馬が倭
竃によってほとんど略奪されて、良馬を引馬として遣することができないことを弁解して
いる。
筆者は、前述したように、三冠が済州馬を略奪した場合もあったが、高麗の済州島直轄
化政策で圧迫されたモンゴル遺民の中には、済門馬を使って平野を騙り、笹野に混じって
倭趨行為をはたらく者があったのではないかと推測する。それは洪平野も恐れていたこと
である。そしてそのことに高麗は相当手こずって、モンゴル遺民と済州馬を切り離そうと
しての洪武帝に対するアピールではなかったのか。また、洪武帝に済州馬を献上するため
に、高麗が済州島のモンゴル遺民にかけた圧力が、倭冠侵入の増加の呼び水になったので
はないかと、筆者は推測する。
あ き ば つ
辛二六(1380)年の南原山城の戦いで李成桂と戦った倭冠の中に、阿只抜都と呼ばれた
容姿端麗、駐勇無比の十五∼六歳の大将がいた。
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一27一
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豊里一毛之。太祖惜其勇鋭。命豆蘭曲砂嵐。豆蘭日。若欲生檎。必傷人。
阿其皇都。着甲冑。護譜面。甲立隙可射。(中略)豆蔦便射殺之。於是認挫気。太祖
挺身奮撃。賊衆披靡。鋭鋒鑑発。賊痛笑壷如萬牛。棄馬登山。官軍乗勝報上山。歓呼
鼓諜。震天地。四面崩之。遂大破之。川流壼赤。六七日。色藻塩。人不得飲。皆盛器
候澄。久乃得飲。 酬一 六 、匹。兵侯無等。(中略)時被擦者。自賊中還言。阿
其抜都。望見太祖置陣整齊。謂其薄日。量販毛起。殊非往日諸将之比。今日之事。爾
輩宜各慎之。一欲丞塞。衆賊服其勇鋭。固請而來。諸三三。毎進
見。必盛夏。軍書號令。悉主之。(『朝鮮太祖実録』巻一辛 六年庚申八月)
この人物のニックネームである阿只抜都の「阿只」は朝鮮語で「幼児」を意味し、「抜都」
は蒙古語で「勇敢無敵の士」を意味している(26)。
従来、阿只抜都は日本人であるとされてきたが、筆者は彼が本当に日本人であったのか
どうか疑問に思える。即ち、高麗軍が付けたのであるから、朝鮮語だけのニックネームを
付ければよいものを、朝鮮語とモンゴル語の造語にしたことに疑問を持つのである。筆者
は、ヒのニカ国語からなる造語のニッグネームにふさわしいのは、高麗に属し、モンゴル
系である人物、即ち、済州島のモンゴル遺民ではないかと考える。李成桂は彼を討ち取っ
た後、16㏄徐匹もの倭憲の馬獲得したというが、このような数の馬を調達できるのは、済
州島のモンゴル遺民である可能性が高いと筆者は考える。
しかし、洪武帝の高麗に対する強圧的外交は変わらず、特に貢馬に関しては少しの譲歩
の余地もなかった。その中で高麗の済州島直轄化政策は続行された。r高麗史』巻一三六、
辛隅十二年七月には、
典馨副行李行、大護軍陳汝義を耽羅に遣す。時に朝廷耽羅の馬を取らんと欲す。且つ
漸漸、屡叛す。故に行等を遣し子弟を招面せしむ。明年四月に至り、行乃ち星主高臣
傑の子露座を率いて以て還す。耽羅の蹄順、此より始まる。
とあり、前述した崔螢の離間策の成功を見た高麗が、館主氏の子弟を連れ帰り、彼らを撫
順しょうとしたのである。即ち、済州島の土着民の名門を味方につけ、モンゴル遺民や済
州土着民を押さえ、高麗勢力の浸透をはかろうとしたのであろう。
辛繭十三年五月に、喫長祷が明より帰国するが、その時の良材帝の宣諭には、
耽羅我也本舗買些細用來。再尋思案中庸必買了。為甚歴假如我這裏海船到那裏有些細
直書低生起驚喜。又不得不理論可也。不必買了。砂嚢原属元朝。重盗馬齢我魎慮。.我
却不肯。我若面取勘呵頭血便使人臆面。我若取勘了又少不的教宝印管。既人去管便有
高高低低又生出事事。我決然不肯那。耽可也慧地面。重合:態管肖似早取勘。(中略)
一28一
耽羅我也想教些割去不要。一時抱在那里。只離野里二十或三十里往來周回槍着。遂一
箇批者買今際回來。我又尋思不便當。四一。此不買去了。元
朝放來的馬只:態管。我不差人。我要差人時一頭得了。大都便差人管去了。大業人不才
的多。若差一箇不才的人到。那里那廊椅著朝廷的勢力崎持著朝廷的兵威無所不為。起
電便早撃的不好了。我決然不差人却也。地面近慧那里。和羅州廊封。著従來慧管。只
合慧管。(『高麗史』巻一三六、辛禍十三年五月)
とあり、済州島は元来元朝に属していたのであるから、済州馬は明が処分すべきであるが、
直接済野馬を明が獲得しようとしたら、必ず事件が起こり、兵を動かすことになりかねな
い。それで済州馬は高麗の所管とし、適任者を役人として送るべきである、と言うのであ
る。
結局、洪武帝は済州島について、直接明がタッチする意志のないことを明言し続けたの
である。
結 語
済州島は、恭慰王時代に高麗の直轄化が図られたが、元のフビライ以来、兵士や馬の管
理人として移住してきたモンゴル遺民の不満、また、高麗の偏見から来る済州島の土着民
の不満、こういつたことが重なって、厳しい状況にあった。
そこで高麗は、済州島のモンゴル遺民や、弓馬を倭憲によって阻害されることを洪武甲
にアピールすることで、洪武甲に済州島に着目させ、明の出兵を請願した。また、高麗が
済州島に関して、洪武帝の関心を引こうとしたのは、済州島を直轄化したいというほかに、
済州島が倭琴の重要な拠点として考えていたからではないかと筆者は考える。特にモンゴ
ル遺民は高麗の済州島直轄化の圧迫の下で、倭賊を騙り、倭憲に混じって倭冠行為をはた
らく者も多かったのではないかと考えられる。
しかし洪武帝は、済州島が反明の温床になる可能性のある島であり、対倭冠、対日本政
策上重要な拠点にもかかわらず、納恰出鎮圧の為に必要な済州馬にのみ関心があり、・高麗
の思惑を通り越えた数の貢馬を要求し、済州島の問題には直接関係しようとはしなかった。
思惑のはずれた高麗は、済州島の土着民とモンゴル遺民との対立関係を利用して、星野
氏等の済州土着民の名門を味方に引き入れて、済州島の平定をはかった。
そのような洪武帝の対済州島政策をみると、やはり洪武帝にとっては、納蛤出対策が最
重要視され、倭冠問題は二の次であり、ひいては洪武帝の消極的な対外政策を象徴してい
ると考えられる。
(註)
(1)rアジア歴史辞典』巻4(平凡社・1960>「済州島」の項、
解版一』上巻(臨川書店・1986)「済州島」の項参照。
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『東洋歴史大事典一縮
(2>末松保和r高麗朝史と朝鮮朝史』(吉川弘文館・1996)144頁。
(3)納碧羅はチンギス=ハーンの功臣であった日華黎(ムカリ)の子孫で、代々遼東地方を
支配していた。元末に明将常日春の捕虜になったが、放たれて帰国すると、藩陽を
根拠地にして勢力を拡大し、元朝マンジュリアにおける最高指導者として、北元二
代目の脱古思帖木筆(トクスチムール)にも期待されていたdその納吟出と高麗の接触は、
馬脳王十一(元至正二十二・1362)年二月に始まる。納吟出は、前生城選管趙小生
の手引きで高麗に入冠したが、李聯碁によって撃退されてしまった。その後、納恰
出は和親政策に転じ、元朝滅亡の前年の恭懲王十六(元至正二十七・1367)年より
高麗に使者を派遣し方物を献じた。この納訳出の行動は洪胴震の警戒するところと
なり、しばしば使者を派遣し招諭したが失敗に終わった
(4)時國珍生馴士誠蝕衆。塗樽島填問。勾倭為竃。 (r明史』巻九十一・兵三)
(5)旗田魏氏はr元冠一蒙古帝国の内部事情一』(中公新書・1965>で「三別抄が蒙古
・高麗両国の軍隊を相手に約三年間も戦えたのは、農民はじめ広範な民衆の支持を
得ていたからである。外敵に結びついた内敵との闘争でもあった」(106頁〉と論じ
たが、筆者もその論にたった上で、済州島の土着民もその歴史的・民族的な問題か
らも、高麗王朝に対する敵憔心から三別抄に協力して戦ったのではないかと推測す
る。
(6)十年正月。命経略使析都・史橿及洪茶丘等率兵船大小百有八艘。討耽羅賊窯。六丹
平之。於其脚立耽羅國理財司。屯鎮邊千七百人。〈r元史』巻二百八・列伝第九十
五〉
(7)(至元十八年)九月癸亥朔(中略)益耽羅戌兵、鋤命高麗國給戦具。(『元史』巻
十一。本塗己第十一・)
(8)〈至元二十二年〉二月乙巳(略)増濟州漕舟三チ艘。役夫萬二千人。〈r元史』巻
十三・本紀第十三〉
(9)回章は水尺ともかかれ、牛馬の屠殺、皮皮の加工、柳器の製作などに従う集団であ
り、才人は仮面芝居や軽業を職とした集団である。朝鮮人から異種族とみられてお
り、いずれも伝統的に蔑視されてきた。辛禍王期にはこの両者が倭冠と偽って高麗
の官庫を襲っている。
(10)末松保和r高麗朝史と朝鮮朝野』(吉川弘文館・1996)145頁。
(11)田中健夫r倭冠一海の歴史一』(教育社・1982),22頁。
(12)高橋公明「中世東アジア海域における軍民と交流一済州島を中心として一」
(r名古屋大学文学部研究論集』〈史学>33号・1987)、田中健夫「倭織と東アジ
ア通交圏」(『日本の社会史』1・列島内外の交通と国家、岩波書店・1987、のち
r東アジア通交圏と国際認識』吉川弘文館・1997に所収)、村井章介rアジアのな
かの中世日本』(校倉書房・1988)328頁、大隅和雄・村井章介編『中世後期にお
ける東アジアの国際関係』(山川出版社・1997)38∼42頁。
(13)皇太子アユルシルダラ、後に北元の初代皇帝となる昭宗を生んだ。
一30一
(14>末松保和氏はr高麗朝史と朝鮮朝史』(吉川弘文館・1996)で「蘭山の葉演三、
長塗の王元帥、秀山の陳元帥等を指し、それらの賊が古阜逃入に至る経路をみる
に、耽羅を経由している。高麗がこの事件をとって、明の耽羅に下する注意を喚
起する一助たらしめんとしたことは肯けるであろう」と論じている(148頁)。
(15)『高麗史』巻四十四・世家四十四、恭牛王二十二年七月壬子。
(16)和田清「明初の満州経略」(r満鮮地理歴史研究報告』第十四冊・1934)、参照。
(17)洪武帝は済州馬だけでなく、琉球からも大量の数の馬を購入している。
命刑部侍郎李浩及通事深子名。使琉球国。賜其半平右文綺二十匹・陶器一千事・鉄
釜十口。価令浩以文綺百匹・特等各五十匹・陶器六万九千五百事・鉄平九百九十口。
開運国市馬。(『太祖実録』巻九十五、洪武七年十二月乙卯条〉
内官梁眠。方今右往琉球。易馬還。竹馬九百八十三匹。(『太祖実録』巻百五十六、
洪武十六年己未明〉
また、高麗からも引き続き貢馬がなされた。
○辛輯十年(洪武十七・1385)五月
馬一チ門
馬ニチ匹
○
〃
六月
○
〃
七月
○
〃
八月
馬一千匹
○
〃
閏十月
馬一千匹
?
(18)有井智徳「十四・五世紀の倭憲をめぐる三韓関係」(『高麗李朝史の研究』国書
刊行会・1985に所収)、参照。
(19)林密等以濟州貢馬不満請殺韓邦彦。乃杖流之。(『高麗史』巻四十四、恭慰王二
十三年八月壬子〉とあり、貢馬不足により、関係者は処罰された。
(20>至元九(1272)年済州島の三別抄征討には、13000人が動員された。
〈21>新羅の時に高下那の後の高厚は弟二人と共に渡海朝貢した。新羅王は喜び、三人
に夫々三主・王子・都内なる名を与え、国号門門を賜った。(r東洋歴史大事典一
縮野州一』上巻・臨川書店・1986、「済州島」の項)。
(22>濟州萬戸金仲光捕斬逆賊吟赤・姜伯顔等十三人。分配妻子子光羅二州。(r高麗
史』巻一三三、辛禍二年五月〉
(23>田中健夫『倭憲一海の歴史一』(教育社・1982)35頁。
(24)田中健夫『東アジア通交圏と国際認識』(吉川弘文館・1997)14頁。
(25)恭慰王の母◎
(26)『国史大事典』第一巻(吉川弘文館・1979)「阿只抜都」の項参照。
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