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高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について (pp. 63-77)

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高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について (pp. 63-77)
Journal of International and Advanced Japanese Studies
Vol. 7, March 2015, pp. 63–77
Doctoral Program in International and Advanced Japanese Studies
Graduate School of Humanities and Social Sciences
University of Tsukuba
http://japan.tsukuba.ac.jp/research/
論文
高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について
The Appearance of Bushido of Silla in the Joseon Dynasty
西中 研二(Kenji NISHINAKA)
大邱韓医大学校花郎精神文化研究所 客員研究員
国のために死ぬことを恐れない新羅時代の武士道精神が『三国史記』『三国遺事』『東國通鑑』
『破閑集』『芝峰類説』などによって書きつながれて、現在まで伝えられているということは周知
の事実である。しかし韓国の朴正熙元大統領は、文禄慶長の役時に活躍した李舜臣将軍や西山大
師を民衆の中から突然現れた新羅武士の再来であり、花郎の再来であると国内外で語っている。
しかし一般民衆が武士道精神を継承することは不可能であり、朴正熙の説には若干疑義がある。
本論文は、朝鮮半島の仏教が国を救う護国仏教であるという観点から、新羅時代の武士道精神が
高麗時代の仏教文化の中でどのように継承され、また崇儒抑仏政策の朝鮮時代を文禄慶長の役ま
でどのように生き残ったかを詳細に調べ、朴正熙のいう「西山大師花郎説」を検証しようするも
のである。
It is a well-known fact that Bushido of Silla is a brave and faithful sprit who is not afraid to die for the
sake of country, and it has been reported up to now by being handed down in the Samguk sagi, Samguk
yusa, Dongguku tonggam, Pahanjip, and Jibong yusekl. President Park Chung-hee said domestically and
abroad that Admiral Yi Sun-sin and Saint Seosan were the reincarnation of samurai in Silla and that the
Hwarang appeared suddenly from among the people. However it is impossible that the people inherited the
Bushido. There are some questions as to the logic of President Park. From the viewpoint of Buddhism in
the Korean Peninsula as a way to save the country, this paper tries to validate the “Seosan Hwarang logic”
of President Park by examining in detail how Silla Bushido was inherited in the Goryeo Buddhist culture
and how Silla Bushido survived until the war of Bunroku and Keityo in the Joseon Dynasty to maintain a
policy of oppression Buddhism to protect Confucianism.
キーワード:朴正熙 西山大師 新羅武士道 花郎
Keywords: Pak Chung-hee, Saint Seosan, Silla Bushido, Hwarang
はじめに
朴正熙は、
「国力とは、国防力・経済力・精神力の三要素が総合されたものであり、経済力の発展だ
けでは国力の向上は得られない」1という。また「人間の精神力が究極的には物理的な力を支配すると
いう平凡な真理は、今に於いても不動の真理である。苦難と試練は人間を玉にする」2と述べている。
そして朴正熙は、この精神力の根源は、新羅時代に圓光法師が作った尽忠報国・勇壮義烈な戦士の基
本的精神である花郎道精神にあると考えている。しかしここで問題となる点は、この花郎道精神が
「李朝に入って支配層の束手無策にも関わらず、国難のたびに民衆の中から忽然と湧き出してきた。
(中略)西山大師と四溟堂が僧兵を指揮したといわれるが、その時訓示した内容が花郎五戒であるとこ
ろからみて、僧兵も恐らくは花郎国仙であったことがわかる」3といっていることである。
この点について鄭在景は「西山大師、四溟堂が僧兵を指揮したときの訓示内容が花郎五戒であるこ
1 1979年第35期陸軍士官学校諭示。
2 1969年第25期陸軍士官学校諭示。
3 朴正熙『
』
(東亞出版社、1962年)103-104頁。
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第7号(2015年)
とは再論の余地がない」4と言いきっている。しかし新羅時代の花郎道精神が、文禄慶長の役時に忽然
と湧き出てきたとか、あるいは西山大師の訓示内容が圓光法師の世俗五戒であったとかいうことが、
再論の余地のないほど、確証があるとするならば、筆者がこれから考察しようとすることの意味はな
いのである。しかし浅学非才な筆者の努力が足りないためか、西山大師が各寺院に出したという“檄
文”や自願してきた僧兵に言ったという“訓示内容”を未だ発見することができず、またそれらを発
見したという先行論文にも接することができていないのが現状である。
本稿は、
「韓半島の仏教は護国仏教であった」という観点に立って、新羅の圓光法師が作った花郎道
精神がどのようにして朝鮮 西山大師まで継承されたかを追究しようとするものである。
蠢.花郎徒と彌勒信仰
1.彌勒経典
彌勒三十七経典といわれる中で中心をなす経典が以下の「彌勒六部経」である。
漓「仏説観彌勒菩薩上生兜率天経」北涼・沮渠京声訳(455年)
滷「仏説彌勒下生経」西晋・竺法護訳
澆「彌勒下生経」後秦・鳩摩羅什訳(401年)
潺「仏説彌勒下生成仏経」唐・義浄訳(703年)
潸「彌勒成仏経」後秦・鳩摩羅什訳(401年)
澁「仏説彌勒來時経」(略して「來時経」)失訳人名
松本文三郎は、
「竺法護訳の『仏説彌勒下生経』は、竺法護訳とは疑わしく、義浄訳の『仏説彌勒下
生成仏経』と『仏説彌勒來時経』は、鳩摩羅什の『彌勒下生経』と同じ本であり除外する。鳩摩羅什
の『彌勒下生経』は、『彌勒成仏経』の要点を取り出した抄本である。したがって重要なものは、『仏
説観彌勒菩薩上生兜率天経』
(以下『彌勒上生経』と略す)と『彌勒成仏経』及びその抄本である『彌
勒下生経』であり、これらを彌勒三部経という」5と解説している。
2.彌勒信仰
(1)彌勒下生
彌勒は、妙梵と梵摩波提というバラモンの夫婦を父母としてこの世に生を受ける。成長した彌勒は、
世間の人々が五欲の憂いに悩んでいるのを見て出家し、道を学び龍華菩提樹の下に坐し悟りを開いた。
彌勒は、大勢の人々で溢れている華林園にお出でになる。最初の説法で九十六億人が阿羅漢の悟りを
得、第二回目の説法で九十四億人、第三回目の説法で九十二億人が悟りを得た。
彌勒信仰における浄土には、『彌勒上生経』に描かれている兜率天という天上の浄土と、『彌勒下生
経』に描かれている彌勒が下生するとき出現する閻浮堤の浄土とがある。ただし彌勒の下生は、釈迦
入寂後56億余年という未来である。しかし56億年という時間的観念を無視して「今こそ彌勒下生のと
き」とするならば、彌勒信仰は、死後の往生を待たずとも、この地上に現世の浄土を実現できるとい
う極めて現世的な信仰となる。また死後においても、彌勒が下生するとき彌勒と共に閻浮堤、すなわ
ち現世に再び立ち戻れるということも彌勒信仰の魅力となっている。
(2)花郎徒と彌勒信仰
『三國史記』『三國遺事』に記載のある花郎及び花郎徒の彌勒説話を国王別・在位別に一覧性を持た
せたのが表1である。特徴的なことは、眞智王から眞徳王まで各代必ず花郎の彌勒説話があるが、眞
徳王から景徳王まで、6代100年に亘り彌勒説話がないことである。花郎の彌勒説話も三国統一後の
平和な時代の到来と共に衰退していった尽忠報国・勇壮義烈な戦士養成機関である花郎制度と同じよ
うな傾向を辿っていることがわかる。
表2は、彌勒経典の年代別註釈書一覧である。八百谷孝保によれば「彌勒経典に関する末疏は、支
那において多く見出される所であるが、朝鮮新羅においてもまた相當に存する。元曉(617-686)の
『彌勒上生経宗要』一巻、義寂(625-702)の『彌勒上生経料簡』一巻、太賢の『彌勒上生経古述記』
『彌勒経逐義
一巻、
『彌勒下生古述記』一巻、
『彌勒成仏経古述記』一巻、x興の『彌勒経述賛』三巻、
述文』四巻等がある」としている6。新羅時代の彌勒経研究の一端を窺い知ることができる。特に元曉
4 鄭在景『朴正熙思想序説』(集文堂、1997年)304頁。
5 松本文三郎『彌勒浄土論・極楽浄土論』(平凡社、2006年)30-53頁。
6 八百谷孝保「新羅社会と浄土教」(大塚史學會『史潮』35号、1937年)148頁。
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西中 研二 [高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について」
Kenji NISHINAKA, The Appearance of Bushido of Silla in the Joseon Dynasty
表1.国王別彌勒説話
表2.彌勒経典の注釈書
と義寂、x興は、三国統一時期前後に活躍しており、彌勒経の布教に寄与したと思われる。
3.新羅の護国仏教
新羅の護国仏教の象徴は、隣国の外寇が絶えないことを懸念した善徳王が、百済より工匠を呼んで
645年に創建した皇龍寺の九層塔であろう。
『三国遺事』巻三塔像 第四皇龍寺九層塔によれば「一階は
日本、二階は中華、三階は呉越、四階は托羅、五階は鷹遊、六階は靺鞨、七階は丹國、八階は女狄、
九階は穢貊である」とある。しかし645年時点では存在しない国も記載されているが、
『三国遺事』は、
13世紀末に執筆されており、若干の誤謬は致し方ないことであろう。
また『仁王経』が護国安民の最勝法文として偏重され、仁王会が行われるようになった。仁王会は、
百の仏像・百の羅漢・百の菩薩像・百の獅子座を置いて、百人の法師が『仁王経』を誦経し内乱・外
敵の排除、国家の安泰、病気快癒、消災などを祈願するものである。仁王会は、仁王道場・百座会・
百高座・百座仁王道場などとも称されている。新羅時代の仁王会は「眞興王12年、はじめて百座講会
、善徳王5
と八関会を設置した」
7とあるように551年に始まる。以後、眞平王35年(613)秋7月(説教)
年(636)3月(王の病)
、惠恭王15年(779)春3月(地震)
、憲康王2年(876)春2月(説教)
、憲康王12
、定康王2年(887)春正月(説教)
、眞聖王元年(887)
(説教)など病気快癒祈願
年(886)6月(王の病)
及び経文講義で開催されており、外敵排除・国家安泰などでは行われていない。
以上新羅における仏教、就中彌勒信仰と花郎制度の関係について概観してきたが、次節からは花郎
制度を基盤とする新羅の護国仏教の精神が、高麗時代以降どのような形で軍制に取り入れられたかに
ついて見ていきたい。
蠡.高麗時代の軍制と僧軍
1.高麗の軍編成
高麗軍制史は、
『高麗史』兵志の序に「高麗の太祖が三韓を統一してはじめて六衞を置いた。衞には
三十八領があり、員数は各々千人。これは唐の府兵制度を擬したものである。また肅宗代(1095-1105)
に至り、東女真が侵入したので別武班を設置し、散官胥吏から商人・賤隷・僧侶に至るまで全て召募
した。これは十分に成果があった。毅宗(1146-1170)・明宗(1170-1197)以後は、権臣たちが国命を握っ
たので兵権が下に移され、優秀な将と勇敢な士卒が私家に所属し、国に寇賊が蔓延っても朝廷には一
旅の軍士もなかった」8と記載されている。これによれば高麗の軍制史は、府兵時代・召募時代・私兵
時代の三時代に区分されている。
(1)府兵時代
『高麗史』百官志に「太祖2年に六衞を設置し、穆宗五年に六衞職員を置き、その後鷹揚軍・龍虎軍
の二軍を六衞の上に置いた」
9とある。この完成された組織図は、
『高麗史』兵志に以下の通り記載され
ている10。
太祖・王建は、建国後まず自分の兵士に田柴科軍人田を支給して六衞として、のちに二軍を造り宮
城の警備と王室の警護を担当させた。
4代光宗(949-975)は、956年奴婢になっていた良民農民を、元の身分に戻す「奴婢按検法」を制定
7 『三国史記』巻四十四、居y夫の条。
8 『高麗史』巻81志巻第三十五、兵一、序。
9 『高麗史』巻77巻第三十一、百官志二、西班。
10『高麗史』巻81志巻第三十五、兵一、兵制。
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表3.二軍六衛組織図
( )内は筆者注
し、地方豪族の経済基盤の脆弱化を企図した。また958年には「科挙制度」を制定し、国王中心の専
制政治の確立を図った。6代成宗(981-997)は、12牧の設置など地方行政組織改正に着手し地方への中
央行政権限の浸透を図った。成宗は、豪族の私兵を国家の公兵として転換させるために六衛制度を再
編定着させた。すなわち各州県の農民軍の中から優秀な軍人を選び、王京へ3年交代で番上させ王京
の保勝・精勇に配属した。王京の保勝・精勇の任務は、扈駕儀衛・外国使臣送迎・都城巡検であった。
彼らの軍人田は、田柴科軍人田とは異なり、自らが所有する民田を軍人田として認定し、そこに設定
された租税で軍役に必要な経費を自弁する方式であった。
二軍六衛、各州縣軍の規模を『高麗史』より整理すれば、表4及び表5の通りである。各州縣軍の
保勝精勇は、都城の保勝精勇の番上交代要員である。一品は、軍役義務はあるが、それを果す経済力
を有さず、力役で貢役を果たす農民である。州縣軍の戦力は、約5万人である。
辺境を守備する州鎭軍の兵力については『高麗史』巻83巻第三十七兵三 北界及び東界に詳細記載さ
れている。その員数を単純に計算すると北界39,870人、東界11,521人、合計51,391人である。城外の近
隣部落に居住する屯田兵と推定される白丁は、2,240隊と隊のみの記載である。これについては洪元基
が詳細な検討を行い、両界と白丁を合わせて88,000人と推定している11。これを可とするならば、高麗
の総合兵力は、大略14万人程度と推定される。
(2)召募時代(別武班)
府兵制度は、11代文宗代(1046-1083)の頃から崩壊の兆しを見せ始めた。『高麗史』兵志に「最近、
権勢を有する者が兵役を逃れ、兵役は、貧窮の者に限られている。また役人は、軍人が衣食に窮乏し
ても労役を課す。そのために逃亡する軍人が多い」12とある。
表4.都城警備の員数
『高麗史』巻77巻第三十一 百官二西班(志巻第三十五、兵一、靖宗11年5月、参照)
11 洪元基『高麗前期軍制研究』(
)141頁。
12『高麗史』巻81志巻第三十五、兵一、文宗25年6月の条。
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Kenji NISHINAKA, The Appearance of Bushido of Silla in the Joseon Dynasty
表5.各州縣軍の員数
『高麗史』巻83志巻三十七 兵三 州縣軍
寺田は、免税であるため、貴族は、自分の土地を寺田とすることで課税を逃れ、一般農民は、過酷
な課税や労役を避けるために、あるいは負債や生活窮乏などのために、自分の田を権勢家や寺院に寄
托し、自らは小作人や奴婢となるものが多かった。
民田の収租権を前提に自弁で兵役義務を果たす高麗の府兵制度においては、兵役義務を全うできる
経済力が必須要件である。その経済力を国家が担保できないということは、府兵制度を維持できない
ということである。この府兵制度の崩壊が進む過程で、北辺において女真族の侵略が盛んとなり、高
麗軍がしばしば敗戦の憂き目を見たのである。そこで朝廷は、国民総動員制を実施し女真征伐軍(別
武班)の編成を行った13。
(3)私兵時代
12代明宗代(1170-1197)以後は、権臣たちが国命を握ったので、兵権が下に移され、優秀な将と勇敢
な士卒が私家に所属し、国に寇賊が蔓延っても朝廷には一旅の兵士もいなかったという状況であった。
私兵の最たるものは都房である。都房は、武人の首領が自衛の必要上設けたものである。明宗を廃し
て政権を握った崔忠献は、文武官・閑良軍卒を招致して六番の都房を造り自宅に宿衛させていた14と
表6.女眞征伐軍(別武班)の編成
13『高麗史』巻96列伝、尹z。
14 内藤雋輔『朝鮮史研究』「高麗兵制管見」(東洋史研究会、1961年)203頁。
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いう。私兵発生の背景をみると次の通りである。
漓麗初以来の秩序が、土地制度の紊乱や瓦解及び豪族と寺院による土地併合が拡大していく中で、土
地から遊離した農民は、生計の窮乏打開のため権門への投択、奴婢身分への転落、草賊化、随院僧
徒化せざるを得なかった。
滷武人執権のような混乱した社会秩序の中で、僥倖を願う悪少輩や門客が多数発生、さらに家僮まで
跋扈し、自身の身辺警護を目的とする権門と投合せざるを得なかった15。
澆僧兵の構成要員である隨院僧徒の多くは、実質的には寺院に寄宿している農民であった。彼らは寺
院の所有土地を耕作して収穫量の中から一定分量を寺院に納め、残りは自分の財産として蓄積する
ことができる佃戸のような存在であった16。
潺僧兵は、降魔軍の如く一朝事あれば戦場へ出て行く場合もあるが、豪族の私兵同様、寺院自身の勢
力維持発展と財産保全を図るために必要な私兵的存在でもあった17。
2.僧侶の軍事活動と寺院勢力
(1)僧侶の軍事活動
高麗は、936年の後三国統一後、993年の第一次、1010年の第二次、1018年の第三次と契丹の侵略に
悩まされた。また1107年以降の女真族との戦い、1232年から1259年までの蒙古との戦いなど北狄との
争いが絶えなかった。その間文宗代(1046-1083)以降、公田制度が瓦解しはじめ、これに伴って府兵制
度が崩壊をはじめ、高麗王朝にとっては、僧兵が貴重な戦力となってきた。以下僧侶の軍事活動を
『高麗史』から見てみたい。
漓巻94列伝巻第七 智蔡文(1011年)
智蔡文は、思政と僧・法言及び兵士九千を引き連れ、林原駅南方で契丹軍と遭遇し、三千余を斬首
したが、法言は戦死した。
滷巻81志巻第三十五兵1兵制 肅宗9年(1104)12月の条
女真征伐のために別武班が設置された。別武班の構成員は、文武散官と胥吏、商人、奴婢、一般州
府郡縣民、僧徒であった。別武班の中で僧徒によって編成された軍を降魔軍と称した。爾後国家が
軍事を起こすたびに、諸寺の随院僧徒を徴発して諸軍へ配置し、常備的な性格となった。
澆世家19明宗4年(1174)12月の条
明宗4年1月、重興寺の僧侶二千名が起兵し、李義方を殺そうとしたが撃退された。同年12月、鄭
pが僧侶・宗Aなどを密誘して李義方を斬り、その一党を捕虜あるいは殺害して普濟寺に集まって
いた。翌日明宗は、知奏事・李光挺、副承宣・文克謙を送り、僧徒達を慰諭した。
潺巻81志巻第三十五兵1兵制 高宗3年(1215)10月の条
鄭叔膽を行榮元帥として丹賊を防ごうとし、僧徒を選んで兵士としたが数百名になった。
潸巻127列伝巻四十叛逆一 李資謙
僧 義荘が玄化寺の僧三百餘人を引き連れて宮城の門外に至る。
澁世家22高宗4年(1216)3月の条
丹賊6名が國清寺へ乱入したが、僧侶達が1名を殺害した。
澀世家22高宗4年(1216)5月の条
大将軍 池允深を忠清道防禦使に任命して、道内兵と僧軍を動員して丹賊に備えた。
潯列伝巻第十六 金允侯(1232)
蒙古の撒禮塔が處仁城を攻撃したとき、白B院の僧 金允侯がこれを射殺した。
⑨世家24高宗41年(1254)10月の条
蒙古の将軍 車大羅が尚州山城を包囲し攻撃したとき、黄嶺寺の僧 洪之が敵の第四官人を射殺した。
士卒の過半が戦死したが、敵は包囲を解いて撤退した。
⑩世家39恭愍王8年(1359)12月の条
紅賊が渡江して義州・静州・麟州を攻撃し西京を陥落させた。前僉議賛成事・權適が僧兵を率いて
出陣した。
⑪巻133列伝 王巻第四十六 王元年(1375)9月の条
15『韓國史論7』林英正「麗末鮮初 私兵」(國史編纂委員会、1980年)32-34頁。
16『金載元博士回甲記念論叢』李基白「高麗別武班考」(乙酉文化社、1969年)45-46頁。
17『史学雑誌』第43編、旗田巍「高麗朝に於ける寺院経済」(史学會、1932年)5ノ27頁。
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諸寺院から戦馬各一匹ずつを徴発すると共に、田租を取り立てて軍費に充当した。
⑫巻81志巻第三十五兵1兵制 辛C3年(1377)3月の条
戦艦を造る僧徒を京山及び各道から徴発した。楊廣道は千人、交州・西海・平壌道は各五百人、京
山は三百人であった。また万一僧徒で逃避する者があれば、必ず軍法に掛けることを命じた。
⑬巻81志巻第三十五兵1兵制 辛C4年(1378)4月の条
火桶放射軍を京外各寺に置くことを定め、大寺には3名、中寺には2名、小寺には1名を配置した。
⑭巻133列伝巻第四十六 C王3年(1377)10月の条に「崔茂宣の建議で火桶都監を設置する」とある。
また許善道によれば「崔茂宣が焔硝煮取術を習得し、火薬製造所をつくり“火桶都監”を設置し、
自ら都監となった。黒色火薬の三要素は、焔硝・木炭・硫黄であり、焔硝の製法が一番の鍵であっ
た。
(中略)設置半年で火器発射の専門部隊と思われる火桶放射軍が、京外の各寺に編成された。こ
れが火器実用化の端緒である」18という。
⑮巻137列伝巻第五十 辛C14年(1388)4月の条
中外の僧徒を徴発して兵と為し、京畿兵を東西江に駐屯させ、倭寇に対備させた。
以上を要するに、女真族来襲時の僧徒による降魔軍の編成、高宗代の契丹や蒙古侵入への僧兵動員、
武臣乱時の僧兵起兵、寺院からの戦馬・軍費の徴発、火器実用化に伴う火桶放射軍の寺院への設置
など、契丹撃退以降、農民の忌避逃亡による国軍の崩壊は、僧兵の国軍化を齎したといえるであろ
う。
(2)寺院勢力
漓度牒制度
『高麗史』世家靖宗2年(1036)5月の条に「四子ある者は一子の出家を許す」とあり、また世家文
宗13年(1059)8月の条は「一家に三子ある者は、一子を十五歳で僧にすることを許す」と出家条件を
緩めている。当時の出家数は、世家顯宗9年(1018)閏4月の条に「是月、僧三千二百餘人を度す」と
あり、月当たりかなりの数が出家している。
高麗初期における僧侶は、国家管理下に置かれていたが、既述のとおり土地制度の崩壊に伴う農民
の寺院流入が止まず、『高麗史』刑法志 忠肅王12年(1325)2月の条に「三子ある者は、剃髪して僧に
なすことを得ず。多子と雖も須らく官より度牒を得るべし」と文宗の定めた規定を廃止し、度牒を得
ることを義務付けたことが記されている。さらに刑法志 恭愍王5年(1356)6月の条にも「自今度牒を
受けずして私剃を得ず」と度牒を得ないで出家することを禁じている。
滷飯僧から見る僧侶の数
飯僧とは、
『仁王般若経』護国品に「頂生王が千人の王の頭を取り祀れば、天羅国の王になれるとい
う占い師の言葉を信じ、千人目の王・普明王を捕らえようとした。普明王は“沙門に飯食をしたいの
で一日の余裕をくれ”といって百の法師を招き百の高座を敷いて仁王経を読誦し難を逃れた」
19とあり、
仁王道場や百高座などの後に、僧侶達に食事を供することである。
『高麗史』に「飯僧及び齋僧」と記
載されている箇所を調べてみると、世家顯宗9年5月17日の条に「戊寅飯僧十萬」とあるのが初見で
ある。以下恭讓王まで調べ簡単な表にしたものが表7である。
表7.飯僧の回数と員数
王
と
在
位
年
顯
徳
靖
文
順
宣
肅
睿
仁
毅
明
高
宗
宗
宗
宗
宗
宗
宗
宗
宗
宗
宗
宗
忠
烈
宗
34
年
忠
宣
王
5
年
忠
肅
王
20
年
忠
穆
王
5
年
恭
愍
王
23
年
22
3
12
37
1
11
19
17
24
18
27
46
年
年
年
年
年
年
年
年
年
年
年
年
回数
2
1
2
5
1
3
6
12
13
7
7
4
4
3
5
1
12
1
員数
11
3
2
11
3
9
7.3
32
36.2
15.3
17
6.2
0.5
1.5
0.8
0.4
1.2
0.1
回当
5.5
3
1
2.2
3
3
1.2
2.7
2.8
2.2
2.4
1.6
0.1
0.5
0.2
0.4
0.1
0.1
数無
0
0
0
4
0
3
1
3
2
13
3
0
3
3
2
0
8
0
計回
2
1
2
9
1
6
7
15
15
20
10
4
7
6
7
1
20
1
*員数単位は万人。数無は員数の記載がないもの。回当は1回当り平均員数。計回=合計回数
」(歴史學会、1964年、所収)14-17頁。
18『歴史學報』第24輯、許善道「
19『昭和新纂 國譯大蔵經』經典部第四巻(東方書院、1928年)251頁。
69
恭
讓
王
3
年
筑波大学大学院人文社会科学研究科『国際日本研究』
第7号(2015年)
表7によれば、漓飯僧の起源は、顯宗9年(1018)であり、その時の規模は10万人であった。それ以
降は3万人規模が大多数である。しかし3万人の食事費用は膨大なものであったと推察される。滷飯
僧の回数・員数ともに睿宗・仁宗・毅宗三代がピークであり、睿宗と毅宗が毎年一回、仁宗が2年に
一回の割合で百座道場の後に食事を供している。これは、契丹や女真族など北狄の侵入に対する撃退
祈願の百座道場の回数増が影響したと考えられる。澆1232年江華島に遷都した高宗以降からは激減し
ている。
3.僧侶の非軍事活動
高麗は、その地政学的立地から、継続的に契丹・女真・蒙古など北方民族の侵略を受け、戦争の止
む時がなかった。そのようなとき高麗の僧侶達が、国を守るために武器を取って戦った軍事活動につ
いては、既に概観してきた通りであるが、諸法会道場を通した護国活動も積極的に行われた。徐閏吉
によれば、『高麗史』に記載された諸法会道場は、83種類1038回で、主たるものは、燃燈会157回、消
災道場147回、八関会115回、仁王道場(百高座)121回、消災道場93回、般若道場63回などとなって
いる20。
表8は、北狄・倭寇の侵略が盛んであった国王時代の法会道場の設行実績の詳細である。徐閏吉に
よれば、摩利支天道場・帝釈道場・神衆道場・談禪法会は、契丹撃退のため、四天王道場・薬師道
場・文豆婁道場は、女真族撃退のため、華厳法会は、蒙古撃退のため、仁王道場・金光明経道場は、
外敵退治のために設行されたという。またその思想的根拠は、仁王道場は『仏説仁王般若波羅密経』
の護国品、金光明経道場は『金光明経』の四天王思想、帝釈道場・功徳天道場・四天王道場は、天帝
表8.国王別仏事一覧
『仏教学報』第十四輯 徐閏吉「
ものである。
」(東國大学校佛教文化研究所 1977年)3-14頁のデーターを整理作表した
20『仏教学報』第十四輯、徐閏吉「
」(東國大学校佛教文化研究所、1977年、所収)
91-102頁。
70
西中 研二 [高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について」
Kenji NISHINAKA, The Appearance of Bushido of Silla in the Joseon Dynasty
釋思想、華厳法会は、華厳経である21。
以上高麗時代の軍制について見て来たが、これを要するに、高麗の六衛制度は、農民所有の民田の
収租権を農民に還元し、その還元税で兵役義務に必要な経費を自弁させることを前提としている。す
なわち国家が農民の経済力を担保する反対給付として自弁による兵役義務を要求しているわけである。
したがって兵役義務を遂行できる経済力の担保がなくなると、必然的に六衛制度は崩壞することとな
る。この六衛制度の崩壊の兆しは、文宗朝に現れ始めた。そのため女真族の侵入に際しては、別武班
を編成し国家総動員体制で対応した。明宗以後は、権臣たちが国命を握ったので兵権が下に移され、
優秀な将と勇敢な士卒が私家に所属し、国に寇賊が蔓延っても朝廷には一旅の兵士もいなかったとい
う状況になった。一方寺院については、王族貴族から田地を喜捨され、また一般農民は、過酷な課税
や労役、あるいは負債や生活窮乏のため、自分の田を寺院に寄贈し自らは小作人や奴婢となるものが
多かった。このようにして寺院が所有する土地は増大し、そこから得られる厖大な農作物は、寺院経
済の拡大を齎し寺院富裕化の要因となった。富裕化に伴い寺院は、寺院自身の勢力維持発展や財産保
全のために僧兵の増強を図った。しかしこの僧軍は、降魔軍の如く一朝事あれば、木魚を剱に持ち替
えて戦場へ出て行く国軍でもあった。
次章では、高麗の僧軍に受け継がれた新羅の護国仏教精神は、どのようにして朝鮮時代に伝承され
たかを検証してみたい。
蠱.朝鮮前期の軍制と僧軍
1.朝鮮前期の軍制
(1)朝鮮初期の中央軍編成
朝鮮初期の軍制は、中央軍と地方軍に区分される。中央軍は、国王の侍衛と首都の警備・防衛を担
当し、時によっては辺境防衛の任務も遂行する精鋭であった。地方軍は、一定地域の警備・防衛を受
け持つ農民兵であった。
『朝鮮実録』太祖元年7月28日の条に「下記の10衞を置く。1衞毎に、中領・左領・右領・前領・
後領の5領を置く。各領は、将軍1、中郎将3、郎将6、別将6、散員8、尉20、正40をもって構成
する」とある。これを表にまとめたのが表9である。朝鮮王朝開創当時の府兵総数は、高麗時代の府
兵総数3,457名より693名増加して4,150名である。これは朝鮮初期の文武班全体4690人22の85%に該当
する。
表9.中央軍組織
21 徐閏吉、前掲書、107-111頁。
71
筑波大学大学院人文社会科学研究科『国際日本研究』
第7号(2015年)
(2)私兵の廃止
漓家別抄の廃止
高麗の王建が、建国当初まず手掛けたことは、豪族の私兵の処置であったように、李成桂にとって
も宗親・勳臣及び各地豪族の私兵を如何に帰属せしめるかが大きな課題であった。性急に私兵の公兵
化を図った鄭道傳は、第一次、第二次王子の乱によって失脚した。しかし王権を握った三代太宗は、
自ら即座に私兵革罷を実施した。權近が上疏し「留京する各道の節制使を悉く罷免し、京外の軍馬を
全て三軍府へ移管し公家の兵とし、国権を重くして人心の安寧を図るべきである。両殿の宿衛を除い
て私門の宿直を禁止し、出仕時の兵器帯同を禁止し、家に兵器を隠し持たないこと」を請うた23。当
時の代表的な私兵は、太祖の親軍、王子・勳臣の侍衛軍である家別抄であった。州郡から番上宿衛す
る家別抄は、宗親・勳臣が任命されていた留京節制使の統率下にあった。太宗は、留京節制使を革罷
し家別抄の壊滅を図ったのである。
滷宮中甲士の廃止
定宗が東宮に抱えていた甲士及び武器を三軍府へ移管することが決定された24。さらに太宗の即位
年(1400)12月に甲士2,000人を復活し、1,000人を諸衛の職に充当し、一年交代で勤務する正式府兵
とした25。これらの改編は、甲士の私兵的性格をなくすることを試図したが、甲士は、外甲士と王宮
で輪番する内甲士とがあり、内甲士の府兵化には若干時間を要した。太宗10年5月、「甲士宿衛下番
之法」が制定され26、漓3,000人の定員のうち、2,000人を留京し、1,000人を帰郷させた。すなわち「居
常宿衛之士」から「番上兵」へ変更し、私田分給対象外とした。滷「軍士取才方式」すなわち試験を
実施し、自願者の門戸開放を行い、工商賤隷にも機会を与えた。澆主業務は、中門外での把守とした。
(3)宮中警備の強化
漓別司禁の設置
『朝鮮実録』太祖3年(1394)7月11日の条に「改車沙兀 爲司禁」とある。また太宗元年(1401)6月
に「始め、別司禁の黄禄などが朱杖で群衆を排除していた時、誤って左政丞・金士衡を打ってしまっ
た。別司禁・黄禄などの罪を請う」27とある。別司禁は、太宗元年には既に設置されており、国王の外
出時の扈従を勤めていたことがわかる。
滷別侍衛の設置
太宗は、定宗2年(1400)12月に即位するや、宮官業務と宿衛業務を兼ねていた司楯・司衣1,300人を
廃止した。宮官業務については、司楯の業務を別牌朝士で代替させ、司衣の業務を内侍向上で代替さ
せた。また三軍府内に新しく「別侍衛」を創設し、残る宿衛業務を移管した。別侍衛には閑良子弟の
中から武才の優れた者を選び3組に分けて宿直させ、王の左右を警護させた28。
澆鷹揚衛の設置
『朝鮮実録』太宗4年(1404)8月28日の条に「始置鷹揚衛四番」とある。また太宗6年2月に司憲
府からの冗官合理化上疏の中に「宮中宿衞を担当する成衆愛馬29としては、別侍衛と別司禁があり、鷹
揚衛は、革罷可能である」30と鷹揚衛の廃止を要請している。
潺内禁衛及び内侍衛の設置
『朝鮮実録』太宗7年(1407)10月21日の条に「改内上直 爲内禁衛」とある。太宗9年(1409)6月に
「40人/番の内侍衛を3番、三軍府に設置した」31とある。また「扈従の法を見直せ」という王の指示に
は、兵曹から「内禁衛・内侍衛・別侍衛の入直する者は大駕の前に立ち、出直する者は大駕の後に立
22『朝鮮実録』定宗2年4月6日の条。
23『朝鮮実録』定宗2年4月6日の条。
24『朝鮮実録』定宗2年6月20日の条。
25『朝鮮実録』定宗2年12月1日の条。
26『朝鮮実録』太宗10年5月12日の条。
27『朝鮮実録』太宗元年6月14日の条。
28『朝鮮実録』太宗即位年12月19日の条。
29「愛馬」は蒙古語で「部隊」の意味である。高麗時代に「宿衛近侍の任に従事する者」の意で使用された。
成衆・愛馬と夫々単独で使用されることもある。内藤雋輔『朝鮮史研究』(東洋史研究会、1961年)243255頁、参照。
30『朝鮮実録』太宗6年2月5日の条。
31『朝鮮実録』太宗9年6月9日の条。
72
西中 研二 [高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について」
Kenji NISHINAKA, The Appearance of Bushido of Silla in the Joseon Dynasty
つようにする」と定めたとある32。これから察するに、内禁衛及び内侍衛は、別侍衛と同じく国王警
護の職であると思われる。
以上を要するに、王宮の緊急事態への対応体制という課題に対して、太宗は、別侍衛・鷹揚衛・別
司禁など成衆愛馬と内禁衛・内侍衛の5隊体制からなる国王警護体制を構築した。これら国王警護班
は、漓閑良子弟の中から武芸に優れて強壮な者を選抜した少数精鋭部隊であったこと 滷中軍に所属し
て甲士とは指揮命令系統を異にしていたこと33 澆給料兵であったことなど身分上及び指揮命令系統に
おいて、甲士とは区別された存在であった。
(4)国軍常備体制の崩壊
漓八道の軍籍作成
太祖は、高麗末期に戸籍が毀損し不公平な徴発が行われ、その結果良民の忌避逃亡が激しかったこ
とに鑑み34、八道の正確な軍籍を製作した35。また太宗は、地方の宿衛軍を放還して農業に専念させる
ようにし、有事にはこれらを臨時徴発して武芸の優れた者は、府兵とし国王の侍衛に万全を期するこ
とを命じている36。すなわち番上農民兵の番上を停止して国王の侍衛は府兵に専任させようとした。こ
れ以外にも朝鮮初期には、各道の侍衛軍士を放還営農させようとする官僚達の主張が多く上奏され
た37。
しかし世祖代(1455-1468)に入り農民壮丁の全てが軍役者として登録された結果、軍額が顕著に増加
するようになった。しかし軍役は、各郡縣別に一定額が割り当てられたため、社会分化が激しくなる
ほど現地に残っている農民が二重三重の負担を強いられることとなった。農民の役事忌避逃亡が始ま
った時期である。
滷受田制の崩壊
5品以下の武官で軍田を付与され、京城に番上して宮廷の宿衛に当る府兵が次第に変貌してきた。
太宗9年(1409)7月、議政府が「軍田を受けた者は、皆、年老いて役に立たず、軍人として任務に就
いている者は、全て田地を貰っていない者である。願はくば、各道の軍田を全部軍資に当て、国でそ
の租税を取り立て水軍に給してほしい」38と上奏している。まさに「軍田は存するが、兵士は存せず」
という状況が露呈されている。
世宗7年(1425)6月、議政府が「受田者は、百日に一度上京し宿直する以外は、それぞれ京城や地
方で生業を営みのんびりと生活している。それに引き換え田地を貰っていない者達は、毎月一日に上
京し宿直しているため生業に支障を来している。今後は四ヶ月に一度にしたい」39と建議している。こ
のように受田散官の居京侍衛は形骸化され、収租地分給を前提とした軍役制度は事実上解体した。
澆貢納制度の弊害
貢納制度とは、その地方の特産物を納める制度である。しかしその地方に産しない物品を特産物と
して指定されることもあった。そのため胥吏や商人に貢物を先納させ、のちにその代価を農民から受
け取る防納が流行した。その結果貢物防納商人と胥吏とが結託して不正を働き数倍の価格を農民から
徴収する構造が平常化した。
『朝鮮実録』明宗元年(1546)12月9日の条に「臣が全羅道にいた時、鵜鴣の肉を薬にしているので、
全羅道の海辺の七村が順番で進上していると聞きました。当初鵜鴣が獲れたか否かは不明であります
が今は獲れません。一年に一羽進上するとしても、この地方では獲れないので価格が高いのです。進
上する番になると、お金を徴収して平安道の産地へ行って買います。また京の商人が持っていれば、
先に納めて村でお金を徴収します。平安道は、この鳥をたくさん産し毎年進上しています。京の商人
は、先納して利を得るといいます」と記載されている40。貢納制度を利用して、中央の権勢家と商人
が各地の守令と結託し不正を働き、農民を苦しめている事実が明らかにされている。
32『朝鮮実録』太宗9年6月9日の条。
33『朝鮮実録』太宗14年6月27日の条。
34『朝鮮実録』太祖3年8月2日の条。
35『朝鮮実録』太祖2年5月26日の条。
36『朝鮮実録』太宗2年2月28日の条。
37『朝鮮実録』太宗6年5月28日の条。
38『朝鮮実録』太宗9年7月19日の条。
39『朝鮮実録』世宗7年6月23日の条。
40『朝鮮実録』明宗元年12月9日の条。
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筑波大学大学院人文社会科学研究科『国際日本研究』
第7号(2015年)
潺放軍収布
『朝鮮実録』で「放軍収布」の語が初見されるのは、成宗5年(1474)10月3日の条である41。すなわ
ち「萬戸達が軍布を取り立て、軍事を免除して自分の利益にしているので官員を派遣し糾弾したい」
とある。成宗代初には、早くも放軍収布による代立、本人の役事免除が行われていたことがわかる。
放軍収布が一般化すると共に、国家常備体制は次第に形骸化していくこととなる。
潸姜奘が見た国軍
当時の国軍の状態がどのようであったかを、文禄慶長の役で藤堂高虎軍の捕虜となった正三品・姜
奘が『看羊録』に次のように記載している。「臣此に伏して見るに我國は士を素養せず、民を素教せ
ず、壬辰以來急に農民を驅り集めて戰陣に赴かしめ、而かも稍材力あり恒産あるものは賄賂を以て免
かるるを得、貧民の聊岼する所なきもの獨り征伐に從はしめらる。加之に將に常卒なく、卒に常帥な
きを以て、一邑の民は、一半は巡察使に屬し、一半は節度使に屬し、一卒の身にして朝は巡察使に屬
し、暮は都元帥に隷し、將卒は陷々易はりて軍紀を嚴にする暇なく、統制ならず、体裁治らず。是の
如き制度を以て如何に死地に馳驟せしめて敵人の死命を制するを得むや」
42と。まさに姜奘が言う通り、
このような国軍の兵士が命を賭して国を守るであろうか。
次に高麗時代に活躍した僧軍の動向について検証して見たい。
2.僧侶の非軍事活動
表10は、『朝鮮実録』から摘出した工事別の僧徒動員実態である。太宗代までは役丁不足の補充と
して、食糧自弁で僧軍を動員した。世宗代中半からは食糧を給付し、後半からは役事した無度牒僧に
度牒を付与している。それ以後は、度牒付与を前提として動員している。成宗23年2月3日に、度牒
発給停止となると、号牌と名称を変更して僧侶身分を付与している。
太宗代は、崇儒抑仏策が取られていたとはいえ、国家の管理のもとで、僧試は実施され、僧録司に
よる教団と僧侶管理が徹底されていたため、僧徒は、行賞がなくても自弁で労役に従事したと思われ
る。しかし次第に抑仏政策が強化されると共に、僧徒は、労役忌避を行い、朝廷も僧徒数の把握が困
難となり、行賞を付与しないと動員が難しくなってきたことは、成宗14年10月4日の条で「僧徒は山
谷深く隠れ住んでいるが、守令が探し出せるのか」と成宗が下問していることからも明らかである。
3.僧侶の軍事活動
(1)乙卯倭変
国軍常備体制の崩壊が進行していた明宗10年(1555)5月、国軍常備体制の形骸化を露呈し、儒臣を
驚愕させる乙卯倭変が勃発した。国軍常備体制が崩壊したことを熟知していた儒臣達は、僧を総動員
する僧軍推刷定軍を企図した。
明宗10年(1555)5月16日、駆啓で「5月11日に倭船70隻が達梁浦及び梨津浦に来冦した」との報が
表10.朝鮮前期僧軍の主要労役
41『朝鮮実録』成宗5年10月3日の条。
42 姜奘著『看羊録』(朝鮮研究会、1911年)15頁。
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西中 研二 [高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について」
Kenji NISHINAKA, The Appearance of Bushido of Silla in the Joseon Dynasty
朝廷に届いた43。引き続き5月18日に「5月13日に達梁城が落城し、節度使・元積と長興府使・韓蘊
が戦死し、靈岩郡守が捕虜となった」旨の駆啓が到着した44。司諌院は、18日急ぎ対策案として「食
料と軍隊を充分に整えることが最上であるが、各村の倉庫はすでに枯渇し、若い農民は、すべて僧に
なってしまった。僅に残っている軍卒は、飢餓に疲れ優秀な将帥でもどうすることも出来ない。諸山
の強壮な僧を選んで僧軍を造りたい」と僧侶の推刷定軍を上疏した45。これに対して明宗は「僧達が
逃亡離散してしまう」と許可しなかったが、5月20日に「司諌院の意見に従い、全羅道と清洪道から
まず選び、他の道は、成り行きをみてから実施しなさい。但し陵寢寺の僧は選んではならない」と妥
協案を提示し46、僧軍推刷定軍が決定した。無度牒僧に対する度牒停止は、成宗23年2月3日に行わ
れており、無度牒僧は、すでに還俗し軍へ編入されている。今回はじめて全羅道清洪道二道ではある
が、度牒僧についても動員を実施することとしたのである。
(2)壬辰倭乱(文禄慶長の役)
朝鮮初期の国軍常備体制が崩壊し、乙卯倭乱で外敵に抗する手段を有さず成すがままであった朝鮮
朝は、時を経ずして起きた壬乱(文禄の役)において、豊臣軍によって上陸後僅か3週間で京城を占
領されてしまった。この国難時の義僧活動を『朝鮮実録』から摘出整理してみたい。
漓休静(西山大師・清虚大師)
(ア)朝廷が、休静を呼び僧兵を募集させたところ数千余名が集まった。休静の弟子の義嚴を毀攝と
し、僧兵を統率させ元帥傘下に配属した。
(イ)休静が、檄文を全国に送り僧に決起を促すと、弟子である関東の惟政と湖南の處英は、夫々僧
兵を集め數千名とした。(以上宣祖修正実録 25.7.1)
(ウ)敵の首級を挙げた者には禅科を給することを条件に休静に僧兵を集めさせた。(宣祖 26.7.20)
(エ)休静に命じて年齢の若い僧兵数百人を城内に集め火砲を教えることとした。黄海道・平安道・
江原道の僧兵が夫々数十名ずつ食糧持参で到着し、銃や刀槍などの技芸を学んでいる。(宣祖
27.3.28)
休静決起の様相については、
『再造藩邦志』に次のように記載されている。
「清虚禪師 休静は、妙香
山中で義僧軍を決起した。大師は、僧尼達が西山大師と尊称する人であった。行実が高く、律法が厳
しく、釈典に通暁して、詩翰に才能があり、朝廷の士大夫とも親密で、高弟とその弟子達が全国に多
く存した。ここに至り大師は、剣を取り門徒千五百人を引き連れて行在地に赴き王に謁見した。王が
“国難がかくの如くであるのに、未だ救うものがいない”というと、大師は涙しながら“臣は既に、国
内にいる仏徒の中で老いた者や病気で動けない者には、彼らがいる所で香を焚き、仏の助力を祈祷す
るように命じました。また元気な者は、全て召募し連れて参りました。臣達は、例え俗人ではなくて
も、この国で生れ、王の恩育を受けております。どうして国のため、君のために死を惜しむでしょう
か。赤誠忠節を尽そうと思います”と奉答した。この言葉を聞いた王は、大いに嘉賞し“一國都大禪
師 八道禪教都總攝 扶宗樹教普濟登階尊者”の号を下賜した。大師は、僧軍を順安の法興寺に進め、檄
文を八道寺刹に送ったので、勇猛な僧侶は皆決起した。」47。
滷惟政(四溟堂・松雲大師)
惟政についての記述箇所は、100を超えているが、その中から若干取り上げてみたい。
(ア)惟政は、胆力と知恵があり、何度も倭人の陣地へ使者として赴いた。(修正実録 25.7.1)
(イ)惟政の軍は、他と比較できないほど勇敢である。
(ウ)倭敵の首級を挙げ、船を奪ったので、功労に従い厚く賞された。(以上宣祖 26.9.8)
(エ)惟政の軍で首級を挙げた者には、すぐ禅科の度牒を与えること。(宣祖 26.9.9)
(オ)惟政は、宣寧に駐屯しながら近所に麦を蒔き軍糧に備えた。(宣祖 27.2.20)
(カ)惟政は、長い間軍列にいて、倭陣にも2度出入りした。彼の功労に報いるために、正三品武官
の僉知を除受したい。(宣祖 27.11.1)
(キ)惟政は、将帥として使える男である。
43『朝鮮実録』明宗10年5月16日の条。
44『朝鮮実録』明宗10年5月18日の条。
45『朝鮮実録』明宗10年5月18日の条。
46『朝鮮実録』明宗10年5月20日の条。
47 申娉用『再造藩邦志』巻2(国立晋州博物館、2002年)216-218頁。
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筑波大学大学院人文社会科学研究科『国際日本研究』
第7号(2015年)
(ク)惟政は、嶺南出身なので嶺南に派遣し、元帥の指揮下に入れて、僧軍を担当させることがよ
い。
(ケ)禅科の帖を惟政から与えるようにすれば、部下は惟政の言うことを聞くであろう。
(コ)惟政は国事に忠実なので手厚く処遇しなければならない。(以上宣祖 29.12.5)
(サ)惟政が去る8月20日に対馬へ渡ったが、消息がない。(宣祖 37.12.13)
惟政の逸話は多々あるが、その中から 漓休静の檄文を読んで呼応したこと 滷加藤清正陣に出向い
たこと 澆日本へ渡り徳川家康と会見したことなどの逸話を紹介しておく。
まず『再造藩邦志』に「休静の檄文が山中に届くや惟政は、これを仏卓の上に広げ僧侶達を呼び、
読んで聞かせると、血涙が流れ落ちてやまなかった。惟政が促すと山中にいる僧侶七百余名が決起し
西へ向い、平壌に着くころにはその数が千余名になっていた」48と書かれている。
次に『芝峰類説』には「惟政は、壬辰倭乱の後に義僧の将帥になって、嶺南に陣を構えた。加藤清
正が惟政に会うことを要求した。惟政が倭兵の陣へ入って行くと、敵兵が数里の道に並び、槍と刀を
襖のように立てていた。しかし惟政は、恐れる気配もなく清正と会い静かに話をして笑った。清正が
惟政をみて“貴国には宝物があるのか”と聞いた。惟政は“我国には財宝はなく、ただ貴殿の首を財
宝としている”と答えた。清正は“何を言っているのか”というと、惟政は“我国では貴殿の首が千
斤の金と万戸の村に値する。それが財宝でなくしてなんであろうか”といった。清正は、大笑いした」49
とある。
慶長9年(1604)、惟政(松雲大師)が日本の和睦の意思を確認するため来日したとき、徳川家康と
面会した経緯が『通航一覧』に記載されている。
「慶長9年、朝鮮の松雲大師が対馬に来て宗義智に逢い、日本に和睦の意思があれば江戸へ行き朝鮮
王の趣を述べたい。またその意思がないのであれば、対馬から即刻帰国すると伝えてきた。宗義智は、
彼を対馬に滞在させ、江戸へその旨を伝えると、徳川家康から“来年秀忠と共に上洛するので、その
とき京都で朝鮮の使者と会おう”という返事があった。宗義智は、松雲大師を同道して12月27日上洛
し本法寺で越年、翌慶長10年3月4日伏見城で徳川家康と面会した」50とあり、惟政の活躍ぶりが窺え
る。
澆靈圭
(ア)公州牧使が義僧・靈圭とその僧軍を引き連れ、趙憲を助けに来たので、趙憲は兵力を合せて清
州城西門へ肉薄した。
(イ)靈圭が、趙憲と共に錦山城で玉砕する。(以上修正実録 25.8.1)
潺信悦
(ア)慶尚右道の毀攝・信悦は、各寺院の位田に麦を蒔いて兵糧とした。
(イ)信悦の僧兵は、皆壯丁で耕種した余暇に火砲を練習した。(以上宣祖 27.2.20)
潸處英
(ア)處英の僧軍に要衝である南原城の修築を任せた。(宣祖 27.7.19)
澁見牛
(ア)月渓山城の城下に毀攝・見牛を居住させ、屯田官・李貞吉と共に農作物を栽培させ兵糧とし、
城を少しずつ修理することとした。(宣祖 28.6.12)
澀義嚴
(ア)婆娑山城内に都毀攝・義嚴が家を建て城下に屯田を開拓した。また農作物を栽培しながら城壁
の修築を行っている。(宣祖 28.6.12)
(イ)婆娑城は、義嚴に守らせているが、軍糧武器兵士を多数準備して支給しなさい。
(ウ)禅科の帖を義嚴から与えるようにすれば、部下は義嚴の言うことを聞くであろう。
(エ)義嚴は、国事に忠実なので手厚く処遇しなければならない。(以上宣祖 29.12.5)
潯義能
『朝鮮実録』には記載がないが、李舜臣水軍の義僧・義能について、梁銀容が次のように論じてい
る。
「僧軍が果たした功績は、李舜臣の効率的な作戦と僧将を軸とした僧軍自体の充実した綱紀が合致
48 前掲書、218頁。
49『世界思想教養全集・續10』南晩星訳「芝峰類説・下」外道部(乙酉文化社、1982年)391-392頁。
50 林D『通航一覧』巻27(清文堂出版社、1967年、復刻)316-317頁。
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西中 研二 [高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について」
Kenji NISHINAKA, The Appearance of Bushido of Silla in the Joseon Dynasty
したために可能であったのであろう。護国を最善の護法とみるとき死は義である。そして死を超越し
た修行僧で編成された突撃隊の役割は、李舜臣戦史の神話を創出する大きな要因となった」51。都将・
義能が率いる突撃義僧水軍は、李舜臣の直轄部隊であった。
以上を要するに、朝鮮初期の軍制は、中央軍と地方軍に区分される。中央軍は、府兵と呼ばれる5品
以下の精鋭で編成され、国王の侍衛と首都の警備・防衛を主担当とし、時によっては辺方防衛の任務
も遂行する軍隊であった。地方軍は、農民兵を主体とし、両界を含めた一定地域の警備・防衛を受け
持つ軍隊であった。朝鮮初期には、八道の正確な軍籍を造ることによって、不公平な軍役徴発とそれ
に伴う忌避逃亡を防止し、軍人を放還して農業に専念させるなど富国中心の政策が取られた。
しかし時が経つに連れて戸籍及び土地台帳による定額徴発や、貢納制度の弊害などによる農民の忌
避逃亡が日常茶飯事となったこと並びに受田散官の居京侍衛の形骸化及び放軍収布による代立制度の
普及などによって、朝鮮王朝の国軍常備体制は、明宗代以前に崩壊してしまった。
明宗10年に乙卯倭変が勃発し、軍備の疏虚化を露呈した儒臣は、征討軍の編成に着手したが、軍籍
は有名無実であり、倉庫には軍糧がない状況であった。儒臣は、蔑視していた僧軍の力を利用せざる
を得なかった。ここに無度牒僧、度牒僧関係なくすべての僧を動員する推刷定軍を実施した。時を経
ずして起きた壬辰倭乱においても国難を救ったのは義僧軍であった。
結び
576年に結成された新羅の花郎制度が、軌道に乗っていないことを懸念した真平王は、中国留学か
ら帰国した圓光法師に花郎制度の再建を命じた。圓光法師は、花郎を彌勒の下生とし花郎徒を龍華香
徒と準えて、花郎を通じて尽忠報国・勇壮義烈の戦士を養成し三国統一を果たした。しかし平和な時
代の到来と共に護国的仏教は後退し、干天降雨・病気快癒などの消災祈願や極楽浄土祈願などが前面
に出て、王族・貴族の寺院に対する喜捨が増え新羅滅亡の原因ともなった。
高麗時代に入ると、太祖・王建の「国家統一は、諸仏の護衛の力によって達成された」という国家
裨補説が高麗全期に亘って存在し、仏教は、国家によって保護され隆盛を極めた。高麗仏教活動は、
本来の仏教活動と軍事活動の両面にわたって活発に行われた。僧侶本来の役目である非軍事的活動で
は、王朝が護国安民の最勝法文として偏重していた『仁王般若波羅密経』の護国品の教えの如く、仁
王道場をはじめとする護国安民・外敵撃退祈願の法会を活発に行った。一方僧侶の軍事活動面では、
当初寺院の勢力維持拡大および財産保全が主目的で作られた私兵としての僧軍が、女真族来襲時の僧
徒による降魔軍の編成、契丹蒙古侵入への僧軍動員、武臣乱時の僧兵起兵、さらには寺院からの戦
馬・軍費の徴発、火薬実用化に伴う火桶放射軍の寺院への設置など、国軍の崩壊以降国軍化傾向が顕
著となった。
朝鮮時代の仏教は「仏教衰退の歴史」であった。しかし禅教両宗を完全に廃止し、僧科制度も破棄
した中宗までの100年は、緩やかな仏教規制であった。さらに中宗後の明宗代には生母・文定大妃の
摂政時代の15年間、再び両宗及び僧科の復活がなされ、一時的ではあるが仏教中興期を迎えた。その
中興期に現れたのが西山大師であった。韓半島では、新羅時代から壬辰乱(文禄の役)開戦前夜まで
護国仏教が生き続けていたのであった。平常時には護国安民を願って祈祷し、国に一朝ことあれば、
木魚を剱に持ち替えて出陣し、国のために命を賭して戦うという新羅護国仏教の教えが脈々として韓
半島において継承され、「護国を最善の護法とみるとき、死は義である」といって戦場に散った義僧
は、まさしく新羅武士と言わずして何であったろうか。朴正熙は、新羅武士道を継承した韓半島の護
国仏教の真髄を西山大師に見たのであった。
51『韓国宗教』19輯 梁銀容「
」(円光大学校研究所、1994年)4-11頁。
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