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平成24年4月143号 - ネットメディアこうべ

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平成24年4月143号 - ネットメディアこうべ
行
第 143 号
雲
平 成 24 年 4 月 1 日 刊
1
伝 説 と 歴史 散歩 ( 4 )
神戸史学会会員
吉永
正直
押部谷周辺の山々
押 部 谷 は 現 在 で は 神 戸 市 で す が 、昔 は 明 石 藩 松 平 家 の 領 地 で あ っ た 。キ
リ シ タ ン 大 名 で 有 名 な 高 山 右 近 も 一 時 こ の 地 方 の 殿 様 を 勤 め た 。さ ら に 昔
に さ か の ぼ る と 平 家 物 語 で 知 ら れ る 平 清 盛(
盛( 播 磨 守 )が お さ め る 播 磨 国 で
あった。
神 鉄 栄 駅 よ り 踏 切 を 渡 り 、右 手 に シ ブ レ 山 を 望 み な が ら 2 キ ロ ほ ど 歩 く
と、呑吐どんとダム(衝原つくはら湖)に出る。この道路に今も「これより
摂 津 国 、播 磨 国 」と 記 し た 道 標 が 立 っ て い る 。こ の 国 境 に あ る 山 が 宝 の 山
と呼ばれる丹生たんじょう山です。
桜 が 丘 か ら は シ ブ レ 山 の か げ に な り 見 え ま せ ん が 、箱 木 千 年 家 の 裏 側 に
そ び え る 山 で 、日 本 仏 教 発 祥 の 地 と い わ れ る 。何 故 、こ の 山 が 日 本 仏 教 発
祥の地といえるのか?
こ の 丹 生 山 を 開 い た 百 済 の 聖 明 せ い め い 王 の 子 、恵
けい(童男どうなん行者)は法相宗の霊場として丹生山明要寺みょうようじを
開き、朱塗りの荘厳、華麗な七堂伽藍を建立されたと言う。
日 本 へ 仏 教 が 伝 来 し た の は 欽 明 天 皇 の 頃 ( 552 年 ) と 日 本 書 紀 に 記 さ れ
て い る 。王 子 恵 は わ が 国 へ の 仏 教 公 伝 の 何 年 か 後 に こ の 丹 生 山 に や っ て 来
た。彼が引き連 れて来 た百済人は、治 水、鍛 冶、木工 、医薬師 、彫 刻、絵
画 、紡 績 と 大 陸 か ら 高 度 の 技 術 、文 化 を も つ 人 総 数 千 人 と も い わ れ て い る 。
この当時、日本の中央でも仏教公伝は、神道を守ろうとする物部氏と、
仏 教 を 導 入 し よ う と す る 蘇 我 氏 と の 宗 教 戦 争 を ひ き 起 し た 。同 様 に 丹 生 山
で も 在 来 神 の 勢 力 圏 内 に 百 済 仏 教 が 闖 入 ち ん に ゅ う し て き た こ と で 、相 当 激
しい争いがあったことを伝えている。
こ の 頃 に 聖 徳 太 子 が 誕 生 し た 。山 奥 の こ の 地 に 何 故 争 い を お こ し て ま で
百済の人が入山したのか?
それはこの山が先に記した様に宝の山だっ
た か ら で す 。丹 生 山 は 朱 土 を 産 し た 。朱 土 は 水 銀 の 原 鉱 で あ り 、縄 文 時 代
2
以 来 、砂 金 と 水 銀 は 人 間 の 生 活 に 密 着 し た 最 初 の 貴 金 属 で あ っ た と 学 者 の
間で言われている。
純 粋 な 金 を 採 取 す る た め に 砂 金 を 水 銀 に 溶 か す 。こ の 際 不 純 物 は 溶 け こ
ま ず 除 去 さ れ る 。そ の 後 水 銀 が 蒸 発 す る と 、金 の み が 残 る 。そ の 金 を 仏 像
に 塗 布 し 渡 金 に し た り 中 央 に 献 じ た 。ま た 、朱 土( 水 銀 )は 古 代 人 に と っ
て も 貴 重 な 存 在 で あ っ た 。「 風 土 記 」 の な か に 神 功 皇 后 は そ の 朱 を 祭 祀 儀
礼 に 使 う 逆 鉾 に 塗 り 、皇 后 の 船 の 上 に 立 て 、兵 士 た ち の 衣 料 を 染 め 、軍 船
を赤く塗り、新羅国を征せられたと伝えられる。
そ の 朱 土 は 播 磨 の 国 造 く に の み や つ こ の 石 坂 比 売 命 い わ ざ か ひ め に よ り 、献 ぜ
ら れ た と 伝 え て い る の で 、こ の 丹 生 山 の 朱 土 で あ っ た で あ ろ う 。今 も 鉱 山
のあとが残っている。
こ の 山 に 建 立 さ れ た 明 要 寺 は そ の 後 、平 安 時 代 末( 1180 年 )平 清 盛 の「 福
原 遷 都 」に 際 し 、丹 生 山 を 福 原 京 の 比 叡 山 に 擬 し て 、明 要 寺 を 復 興 し 、
(神
戸市博物館に見られる)壮大な伽藍が建ち並びました。この当時は僧侶、
僧 兵 、多 数 居 住 し 街 と い っ て も 過 言 で は な か っ た 。し か し 、隆 盛 を 誇 っ た
丹 生 文 化 の 明 要 寺 も 、先 回 お 話 し た 三 木 城 の 戦 い の 兵 火 で 全 焼 し て し ま い
ます。
◇
歴 史 を 秘 め た 丹 生 山 も 、ま も な く 何 事 も な か っ た 様 に 山 桜 が 咲 き 始 め ま
す。その麓にある箱木千年家も含めてハイキングには最高のコースです。
歴 史 は 今 の 時 代 に も 生 き 続 け て い ま す 。地 域 の 時 代 と い わ れ る 今 日 、こ ん
な古い歴史と文化の多い周辺は神戸市内でも少ないのではと考えていま
す。
―
完
―
*
「 伝 説 と 歴 史 散 歩 」は 押 部 谷 友 の 会 が 発 行 さ れ て い る 広 報 誌「
誌「 郷 土 の 友 」
第 1 号から第 4 号に連載されたものを転載させていただいたものです。
同 会 は 、平 成 3 年 2 月 に「 私 達 が 生 ま れ 育 っ た ふ る 里 の 発 展 」を 念 願 す
る 有 志 の 集 い と し て 結 成 さ れ 、 現 在 会 員 は 140 余 名 で す 。
3
く たび れ ズ ボン
松阪
昭
去 る 雨 の 日 の こ と 、銀 行 に 用 が あ っ て 常 用 の ズ ボ ン で 出 か け た 。銀 行 奥
手 の 相 談 窓 口 の 席 に 坐 る と 、担 当 は や ゝ 年 か さ の 女 性 で 、仕 事 に 熟 達 し て
いて、たちまち用はおわった。
で は 帰 ろ う と 立 ち 上 が り 、ズ ボ ン の ポ ケ ッ ト に 手 を や る と 、手 ご た え が
軽い。何故だろうと見ると、なんと、ズボンの縫い糸が長く切れていて、
我が足がポッカリ開口部から見えている。
こ れ は 困 っ た こ と だ 。ど の よ う に し て 人 目 を 避 け 帰 ろ う か と 当 惑 し て い
る と 、 く だ ん の 行 員 が 「 ど う さ れ ま し た か 」 と 問 う 。「 い え い え 、 何 で も
無 い ん で す 」と 体 裁 悪 く 悪 く な り 小 声 で こ た え た の だ が 、彼 女 は と っ く に 、
私の小異変を知っているようだ。
糸 を 針 に 通 し て 、 カ ウ ン タ ー の 中 か ら 出 て 来 て 、「 向 こ う の ブ ー ス に 入
っ て 下 さ い 」と 言 う 。衣 服 を 破 り 叱 ら れ な が ら 母 親 の 前 に 立 っ た 子 供 の 気
分である。
彼 女 は 常 に や っ て い る と 思 わ せ る ほ ど 、す い す い 掬 い 縫 い の 技 法 で 縫 い
あ げ 、 最 後 の 糸 を カ チ ン と 切 る と 、「 終 り ま し た 」 の 一 言 で す た す た カ ウ
ンターの中へ帰っていった。
そ の 仕 事 の 早 さ 、見 事 さ 、そ し て 何 よ り も こ の 事 情 を 一 瞬 に 、的 確 に 判
断し、直ちに行動する、その人間力の強さ、厚さを感じた。
今 日 は 、女 性 で も 糸 、針 は 外 出 に 持 ち 歩 か な い だ ろ う 。裁 縫 も 女 性 の た
し な み と 思 っ て い な い 人 も 多 か ろ う が 、彼 女 は 自 分 の 衣 服 の 補 修 の た め で
はあろうが、職場の中にも持ち、非常に備えていたのである。
私 は 受 け た 好 意 に ど の よ う に 礼 の 言 葉 を 伝 え よ う か と 迷 っ た 。心 温 ま る
行 為 へ の 礼 。そ れ も ブ ー ス の 中 で 私 一 人 だ け が 秘 か に 助 け て い た だ い た 礼 。
こ れ ら を 合 計 す れ ば 、普 通 の「 有 難 う 」の 礼 の 言 葉 で は 私 の 心 は 伝 え ら れ
ない。
し か し 、彼 女 が 在 籍 す る 銀 行 の 行 風 。そ し て 行 員 の 気 品 と 品 格 は 分 厚 く
4
私に伝わってきて心満つるものを感じた。
帰路はそぼ降る春雨の中だったが、足は軽く、少し足早であった。
倭 国 ( 委国 ) ・ 日本 の 黎 明期 はどう あっ たの か ? ( そ の 3 )
亀井
實
あ の 漢 委 奴 国 王 の 金 印 で 有 名 な 建 武 中 元 2 年 ( 紀 元 57 年 ) 委 奴 国 ( 倭 奴
国 )が 謹 ん で 貢 献 し て 朝 貢 し た 。と の 記事 が 日 本の 歴 史 書 にも 出 て く るよ
うになり、これより卑弥呼の時代に入る。
( 200 年 ~ 300 年 頃 ま で )・・ 三 国 志 時 代
曹 操 の 魏 、劉 備 の 蜀 、孫 権 の 呉
魏 は 220~
220 ~ 265 年 ま で で 晋 へ
* 232 年
倭人が新羅の金城(慶州市)を包囲。
倭兵が新羅の東辺を責める。
* 238 年
(三国史記)
(三国史記)
景初 2 年 6 月(魏の明帝の治世、3 番目の元号)
(以下魏誌倭人伝)
倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡(朝鮮。今の韓国郡山市・
ソウル近辺)に詣で天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。
大守の劉夏は官史を遣わし、送史を率いて京都(洛陽)に詣でる。
そ の 年 の 十 二 月 、詔 書 を 以 て 倭 の 女 王 に 報 い て 曰 く 親 魏 倭 王 卑 弥 呼 に 制 詔
す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛
利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉
じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してき
た、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れに思う。
今、汝を親魏倭王と為し、仮の金印紫綬を包装して帯方太守に付託し、
汝 に 仮 授 せ し む 。そ の 種 族 の 人 々 を 鎮 撫( 鎮 め な だ め る )し 、努 め て 孝
順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中の労に勤める。今、
難 升 米 を 率 善 中 郎 将 、牛 利 を 率 善 校 尉 (い ず れ も 准 将 軍 )と 為 し 、銀 印 青
綬を仮授し、引見して慰労を賜い、遣わして還す。
(いわゆる親魏倭王の金印紫綬である)
5
耶馬台国の国情、暮らし等について詳しく記載されているが
広く知られているので、ここでは省略する。
* 240 年 ( 魏 の 斉 王 : 曹 芳 239~
239 ~ 254 年 )
正 始 元 年 ( 240 年 ) 、 帯 方 郡 太 守 の 弓 遵 は 建 中 校 尉 の 梯 雋 ら を 派 遣 し 、
詔 書 、印 綬 を 奉 じ て 倭 国 を 訪 れ 、倭 王 に 拝 受 さ せ 、并わ せ て 詔 に よ って
齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色
彩 鮮 や か な )物 を 賜 り 、 倭 王 は 使 者 に 上 表 文 を 渡 し て 、 詔 勅 に 対 す る 謝
恩の答礼を上表した。
* 243 年 ( 正 始 4 年 )
そ の 4 年 ( 243 年 ) 、 倭 王 は 再 び 大 夫 の 伊 聲 耆 、 掖 邪 狗 ら 八 人 を 遣 使 と
して奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、
木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗 らは一同に率善中郎将 の印
綬を拝受した。
* 245 年 ( 正 始 6 年 )
そ の 6 年 ( 245 年 ) 、 詔 を 以 て 倭 の 難 升 米 に 黄 幢 (黄 旗 。 高 官 の 証 )を 賜
り、帯方郡に付託して仮授せしめた。
* 247 年 ( 正 始 8 年 )
そ の 8 年( 247 年 )、( 帯 方 郡 )太 守 の 王 頎 が( 洛 陽 の )官 府 に 到 着 し た 。
倭 の 女 王「 卑 弥 呼 」と 狗 奴 国 の 男 王「 卑 弥 弓 呼 」は 元 よ り 不 和 。倭 は 載 斯 、
烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方
郡 は )長 城 守 備 隊 の 曹 掾 史 で あ る 張 政 ら を 派 遣 し 、詔 書 、黄 幢 を も た ら し 、
難 升 米 に 拝 仮 さ せ 、檄 文 を 為 し て( 戦 い を 止 め る よ う に )こ れ を 告 諭 し た 。
卑 弥 呼 は 既 に 死 去 し て お り 、大
大 き な 墓 を 作 る 。直 径 は 百 余 歩 、殉 葬 す る 奴
婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺
しあい、当時は千余人を殺した。再び卑 弥呼 の宗女「壹與」を立て る。十
三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭
し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを
送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を
献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二
十匹を貢献した。
6
* 248 年 ( 正 始 9 年 )
卑 弥 呼 没 す 。( 三 国 志 )・ ・ 日 本 書 紀 で は 神 功 皇 后 摂 政 の 時 代
* 266 年 ( 泰 始 2 年 西 晋 、 司 馬 氏 の 時 代 に 入 る )
倭 国 が 西 晋 に 使 節 団 を 派 遣 ( 壹 與 ?)、
?) 、 張 政 帰 国 。
(晋書倭人伝)
( 265 年 、 魏 の 武 将 ・ 司 馬 炎 が 魏 か ら 政 権 を 奪 い 晋 : 西 晋 を 建 国 )
晋書には
宣 帝 (晋 の 祖 、 魏 の 武 将 司 馬 仲 達 へ の 追 諡 )が 公 孫 氏 を 平 定
すると、その女王は遣使を帯方郡に送って朝見。
その後貢献は絶えなかった。
文 帝 ( 晋 の 3 代 目 255~
255 ~ 265 年 司 馬 炎 の
父 ) が 相 と な る と 、 ま た 数 回 や っ て 来 た 。 前 泰 ( 十 六 国 の 一 つ 351~
351 ~ 394
年)の初め、遣使が重ねて入貢した・・とある。
* 北 史 に は 正 始 中 ( 240~
240 ~ 249 年 ) 卑 弥 呼 が 死 に 。 改 め て 男 王 を 立 て た が
国中が服さず、益々互いに誅殺しあったので、再び卑弥呼の宗女(壹
與)を立てて王とした。その後再び男の王が立ち、それぞれ中国から
爵位を拝命した。
後の晋、宋、斉、梁を経て朝貢は絶えなかった。との記事がある。
238 年 : 景 初 2 年 6 月 と い え ば 、 魏 の 国 は 燕 国 の 公 孫 氏 (遼 東 地 方 を 領 す )
と 交 戦 中 で あ っ た (司 馬 仲 達 が 総 司 令 官:諸 葛 孔 明 と 戦 っ た 人 )。こ の 当 時 、
東夷諸国は反魏の公孫氏に従属していたといわれるので、倭は公孫氏から
脱し、魏軍に参軍したのではないか?
それゆえわずかの朝献品に対して
魏は返礼に多くのもの下賜したのではないか?
魏が公孫氏を滅ぼしたの
は 8 月である。平定戦が終了した後であれば、こんな優遇はないのではな
いか?
梁 書 で は 239 年 ( 景 初 3 年 ) だ と い い 、 こ れ が 通 説 と な っ て い
る 。 理 由 は 戦 乱 の 最 中 に 遣 使 す る わ け が な い と い っ て い る 。 梁 書 は 400 年
後の 7 世紀に完成したものであり、景初 3 年元日に明帝が崩御しているこ
と か ら 魏 誌 倭 人 伝 の 238 年 が 正 し い と 思 わ れ る 。( 明 帝 は 34 歳 か 36 歳 で
崩御・・毒殺との説もある・・曹操の子孫と魏の武将司馬氏:晋王朝との
確執・・複雑)
倭 国 か ら の 遣 使 は 30 年 間 で 10 回 程 度 、魏 国 か ら 2 回 と 親 密 で あ っ た よ う
だ 。こ れ は 後 世 の 遣 唐 使 の 例 と 比 較 し て も 異 常 に 頻 繁 で あ る 。
ま た 、卑
弥 呼 は 金 印 紫 綬 、難 升 米 、牛 利 、掖 邪 狗 ら 10 人 に 銀 印 青 綬 を し て い る(
る こ
7
れ は 帯 方 郡 の 太 守 並 み ) こ と も 他 に 類 例 を 見 な い こ と と (そ の 2)で 記 述 し
た 字 磚 (ジ セ ン :金 石 文 )な ど か ら 当 時 、 魏 と 倭 は 軍 事 同 盟 を 結 ん で い た の
ではないかとの説さえ出始めている。(もっと研究してみるべきである)
卑 弥 呼 が 死 ん だ の は 248 年 ( 三 国 志 、 魏 誌 倭 人 伝 ) と さ れ る が 、 女 王 に な
ったのはいつか?
三 国 史 記 で は 173 年 に 新 羅 に 倭 の 女 王 卑 弥 呼 の 使 者 が
訪 れ る と の 記 事 が あ る こ と か ら 、少
少 な く と も 173 年 に は 女 王 と な っ て い た
可能性がある。
そ う す る と 75 年 の 長 き に 亘 っ て 頂 点 に あ っ た こ と に な る 。( 魏 誌 に 年 已 長
大とあり)
倭王は使者に上表文を渡してとあることから、すでに文字の
あったことを示す。・・・・決して文字がなかったわけではない。
* 2 87 年
倭人が新羅の一礼部を襲う。
* 292 年
倭兵が新羅の沙道城(浦項市)を攻め落とす。
* 294 年
倭兵が新羅の長峯城を攻めてくる。
(以 上 三 国 史 記 )
紀 元 100~ 300 年 間 に 於 い て 、耶 馬 台 国 や 倭 国 内 の 長 期 に わ た る 大 乱 だ け か
と思っていたが、一方で朝鮮半島の新羅とは友好関係を持つかと思えば、
攻撃を繰り返したりと活発な海外遠征があったことが見える。
これが
300 年 代 に も 引 き 継 が れ 、 高 句 麗 の 好 太 王 や 倭 の 五 王 の 時 代 に 突 入 し て ゆ
く様子が見て取れる。
そ ん な 大 昔 で 、 狩 猟 採 集 時 代 (? )に 外 洋 を 渡 る こ と が で き る の か と も 思 う
が 、 長 崎 県 の 伊 木 力 遺 跡 か ら 約 5,000 年 前 の 丸 木 舟 (長 さ 7 メ ー ト ル )が 、
ま た 大 阪 府 八 尾 市 の 九 宝 寺 遺 跡 か ら 約 1,700 年 前 の 準 構 造 船 が 出 土 し て い
る 。 こ の 準 構 造 船 は 長 さ が 12 メ ー ト ル で 20 名 ぐ ら い を 乗 せ る こ と が で き
る外洋船である。
富山県桜町遺跡の出土品等から、もっと大きい外洋船
を持っていたと推測される。これらのことから紀元前に倭国から朝鮮半島
や 中 国 に 出 て ゆ く と の 記 事 や 107 年 安 帝 永 初 元 年 の 倭 国 王 師 升 ら が 奴 隷
( 生 口 ) 160 人 を 献 上 の 記 事 も あ な が ち デ タ ラ メ と は 言 い 難 く 当 時 、 遣 使
8
護 衛 兵 士 を 含 め 少 な く と も 1,000 人 以 上 の 規 模 で 、 大 船 団 を 組 ん で 大 海 を
渡ったと推測される。
多くの学者さん達は、昔の人たちを程度が低かったと思って、デタラメと
判断しているが、後述する出雲大社、法隆寺の五重塔などの建築物を見て
も現代人以上の技術を持っていたと推測される。侮るなかれ!
三内丸山
遺跡にしてもしかりである。
紀 元 前 1,000 年 、 紀 元 300 年 の 大 昔 、 盛 ん に 大 海 を 渡 り 、 交 易 を 行 っ て い
る様子が見えるが、我々の知識ではなかなか想像しがたい。
想像しがたいということは我々の考え方に何かが間違っているか、決定的
なものが不足しているのではないかと思わざるを得ない。
2,000 年 以 上 前 の 古 代 ギ リ シ ャ や 古 代 ロ ー マ 、 ポ ン ペ イ の 遺 跡 を 見 る に つ
け、これらの建物を修復して、現代のヨーロッパの街にはめ込んでも、何
の違和感を覚えないほど立派である。
我々の知識では、人間はサルから
だんだん進化して、知恵が付き、文明の利器を発明、発見して、現代社会
に 至 っ た と 理 解 し て い る つ も り な の だ が・・・・・ど う も し っ く り 来 な い 。
古代の方が進化している?
そもそもダーウィンの進化論なるものは正
しいのか?
サ ル か ら 人 間 に 進 化 し た の な ら 、今 で も そ の 過 程 に あ る も の が 見 え る は ず 。
し か し 、誰 一 人 、そ の 過 程 を 見 た 人 は い な い 。サ ル は あ く ま で サ ル で あ り 、
人間は最初から人間なのではないか?
電 気 の 発 明 や 交 通 機 関・通 信 の 発 達 、ラ ジ オ 、TV 等 々 を 除 く と 2,000 年 経
っても大して進化していないのではないか思ってしまう。むしろ近代まで
古代の財産を食いつぶしていたのではないか?
重機も無しにどうのようにしてあの巨大な建物を建築できるのか、想像す
ら出来ない、知恵という点においては、現代は逆におおいに劣っている所
さえある。それと同じで、古代の人々が大海を堂々と渡った形跡を、学者
さんも含め、我々はすぐに(そんなバカな、昔の日本人に出来るわけがな
い 、こ れ は 嘘 だ 、従 っ て 、無 視 す る )・・・・そ ん な こ と で 良 い の だ ろ う か
とつい思ってしまう。
9
きさらぎ会
藤満
靖子
夕やけに遠き昔をなつかしむ幸せですか夫の背に聞く
雪の中ふと見やれればそこかしこ球根の芽いまだ寒しと
この戦さきっと負けると云いたまい非国民なる母はおわせむ
食足りて暖をもとれたり何願う粉雪の舞う被災地思へば
逢えぬ友便りも出さずいかなごが元気のしるし送るよろこび
友人の孫嬢の栄冠に捧ぐ
よしおかひろこ
初志貫徹めでたさきわむ佳き日なり生涯背負う重き栄光
吉田山医学部受験サクラサク生命の重み知り初む日となせ
選びしは真理とイノチ求む道眉あげ畏れ忘るな初心
データーに頼りヒト見ぬ医師多し流るな狎れず理知と血潮を
体力と気力能力天与多し奉仕は栄誉ぞエリートなれば
久保
成行
めしを炊くかぐわしき匂い家中に湯気のたつ間にさあお前にも
朝昼はなんとかなるが晩正餐差し入れいただき一汁一菜
親をのみ子をものみし大津波春の陽の半旗を見て知るエゴ
汝なれに逢う旅立ち切符手に入れり茹で玉子酒買うて乗らむか
寝る前のナイトキャップにスコッチを哀しかりけりアテのないのが
久米
裕子
アレンジの花かご見つめ春感じ夢みる心地になりました
小林多加子
この春の寒さに墓も冷えており温めるようにやさしく拭う
数本のカラフルな酒供えられ兄の墓前は賑やかなりし
覚めてなお戻りたくなる夢の中毀さぬように瞼を閉じる
廻し抱きされて不安顔勝手な大人頬ずりもする
10
亡き母の娘時代の筆の跡「生け花」の図を墨で記せり
津田
聞こえない右耳おさえ中空の蒼しみじみと
貞子
しみじみと聴く
春の夜の灯しやわらに揺れる影身の内にある悲歌エレジーのごと
せつ
せつと日は移ろいぬ引き抜きしはこべは根づき白い花咲く
曲がり来る小指さすりつこの生の今一度弾かむ小犬のワルツ
昭和の子塩糠のみのタクアンを漬けて哀しむ親の味ならば
川
柳
大嵯峨
「旨すぎる」と帰省の子ら母の味
発句ほっくには上かみ五を百遍唱えてる
スカイツリー見上げたものと通天閣
松の下橋の下から民意沸く
防犯はSECOMとバラと猫一尾
さくらが丘句会
梅ふふむ弱視のまなこ近寄せて
神原
甫
津田
貞子
わざわざとこの一本の梅見かな
背の高き巫女の神楽や梅の花
故郷の絵に斑雪残りおり
縁側の客へ駄菓子や沈丁花
タンポポのポポと咲き出す陽の光り
木瓜ぼけの鉢買うてもすこし生きるつもり
啓蟄や腹の虫まだ出てゆかぬ
11
仁
南大門仁王の臍ほぞも動く春
スイトピーの甘さ下さい女神様
旅立ちや捨て去りゆくか北帰行
富士
敬
八木
静子
久保
成行
一年は何の区切りぞ三陸地
春撒きやただ二筋の貧し土
九州に雪ダルマの図雛のころ
ゆらゆるり春光はるひにからむ綿ぼこり
いかなごの顔を見に行く解禁日
早春のくずれては引く須磨の波
慣れぬ歳迎えて今日は古希の春
春浅き紫紺の空も昏くなり
本を手に遠きに春雷昼下がり
ぬくいですね猫が背伸びの冬の朝
ちらし寿司ふるまう亡妻つまがひな祭り
やぶ椿蕾のままの長きこと
炊事場を片付け終えし寒夜かな
ひざ病みて己が天下も冬となる
梅の香に聞く石庭の波の音
岡野多江子
巣籠りの鳥に川波音堪え
靴の泥拭う古草明りかな
石庭の波に一茎草萌える
まなうらの五重塔と朝寝かな
てっぺんの一等席に寒鴉
小林多加子
水仙郷斜に線引く人の列
陽を入れて胸ふくらます春の鳩
12
草餅を上り框で勧められ
電話の声ますます似たり卒業子
あれこれを ( お じ ん 的 に ) 18
久保
成行
嗤われる民主党
小沢、鳩山、菅の三人トリオがカンバンの民主党が、成し得た成果は皆
さんご存知のように、期待を裏切るというよりサンザンな成果だ。
なぜかくも無惨な結果におわったのか。理由を三つあげてみよう。
1
敗戦後体制
「平和憲法」
「アメリカニズム」
「 経 済 成 長 」、こ の 三 つ が 戦 後 日 本 を 支 え
た価値でした。そしてその背後には、戦前を断罪し、戦後民主主義を礼賛
す る と い う「 東 京 裁 判 史 観 」が あ り ま し た 。だ か ら 、
「うまくいっていない」
理 由 を 質 す な ら 、こ の 価 値 観 、歴 史 観 を 見 直 さ な け れ ば な ら な い で し ょ う 。
『 反 ・ 幸 福 論 』( 佐 伯 啓 思 京 大 教 授 著 )
◇
1951 年 ( 昭 和 26) 9 月 8 日 サ ン フ ラ ン シ ス コ 講 和 条 約 調 印 か ら 今 年 は
61 年 に な る 。同 時 に 生 れ た「 平 和 憲 法 」
「日米安保体制」
「 経 済 成 長 」に な
んの見直しも異論もなく、日本人の精神構造として受け継がれてきた。し
か し 、そ れ を「 安 定 」と い う べ き か 、
「 異 状 」と い う べ き か ?
今はそれが
問題にされるべきなのである。
日本は戦争を放棄しましたと、憲法に宣言しておきさえすれば、国土と
平和は世界が保障してくれるのか?
竹島は、尖閣は、北方四島は守るべ
き国土ではないのか。
日本の平和と国土は、日本人が守るものであって、守ってくれるもので
はない。
「 日 米 安 保 」の 絶 対 性 は 保 障 さ れ な い 。そ の 発 動 は つ ね に ア メ リ カ
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の国益に適うか、否かによる。
「経済成長」戦後の日本は全てアメリカを手本とし、ヤミクモに追いつ
き追い越せ、努力した。お蔭で国土はアメリカの何分の一でしかない小さ
な国が、かっては世界第 2 の経済大国になり、生活は豊かに、モノは有り
余るほど、そして随分便利になった。
しかし、衣食たり礼節を知りえたか?
モノの豊かさがすべてか?
ど
うもそうではない気がする。昔は足らないがゆえに、それを皆で負担しよ
う。おぎなう術として、向こう三軒両隣お互いに助け合う連帯感。季節の
料理を配り合うのはごく自然であった。いまそれはない。あるのは見えな
い壁、不干渉、無関心の心の砂漠である。
「不足に耐え、分かち合う」の心が再びもとめられている。
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政治主導
自民党から民主党に替わった。自民党と官僚体制によって進められてき
た政治を、民主党は党による「政治主導」をと、しかし、国民にその効果
を示されないまま、首相二人の首をすげかえ三人目にいたっている。
そ の「 政 治 主 導 」を 実 現 す る た め 、所 属 議 員 の 半 数 200 人 近 く を あ つ め
て「消費増税法案事前審査会」が、延べ 8 日間かけて続けられた。いつま
で た っ て も 反 対 の た め の 反 対 で 、満 場 一 致 に い た ら ず 、28 日 未 明 時 間 切 れ
目前にして進行役前原政調会長の一方的打ち切りで、同じ党員同士の乱闘
さわぎまでおこして、やっと閣議に持込めたようである。
公然と反対を表明している小沢派をふくめての公開審議とはいえ、何故
かくも紛糾したのか。前原の見通しの甘さと、終盤にはいって首相が前原
に代わってでもに、前原は意地を張り通したのも原因の一つかもしれない
が、根本的に、民主党の政治家には左翼リベラル色を持った、学歴エリー
トで、知的能力に秀でた理想家もしくは野望家が多いのが特色。だから、
密 室 よ り 公 開 と な る の で あ ろ う が 、 常 識 か ら 考 え て 、 反 対 派 も 含 め た 200
人近くの意見を集約することは絶対に不可能。必ず賛否両論になる。そん
な会合に「言い出し番長」の前原では党内調整ができるはずがない。なの
にあえて。そこいらへんがおじん的には理解ができない。
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「民主党の議員は頭が良く攻撃精神の旺盛なのが多い。これは野党に適
しているが、与党には適さない」藤井裕久税制調査会長のなげき節だ。
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てんでばらばらの党内
首相が政治生命を賭けるとまで言いきった消費税増で、党内ではひとも
ん ち ゃ く し て い る さ な か 、政 治 主 導 の 一 環 な の だ ろ う か 、
「 民 主 党 外 交 」と
称 し て 、23 日 輿 石 幹 事 長 、仙 石 政 調 会 長 代 行 、樽 床 幹 事 長 代 行 、城 島 国 対
委 員 長 ら 国 会 議 員 10 人 が 訪 中 し た 。 目 的 は 習 次 期 国 家 主 席 と の 会 談 の た
めに。成果は?
軽くあしらわれ、向こうの方が役者が上を、内外にしめ
すお助けをしただけ。さらに、これが日本を代表する政府与党の民主党で
すと、世界にアピールし、世界の顰蹙をかっただけ。
さらに、それを補足するかのように、同じ日に時間をずらして党最高顧
問鳩山は、習副首席を通じ胡主席に渡してもらう、小沢の親書をたずさえ
て習副主席と会談。その小沢は消費増税法案事前審査会の対応指揮のため
鳩山との同行は見送った。格を重んじる中国では、鳩山は単なるメッセン
ジャーボーイ。だが本人は成果があったと言っておる。
◇
小沢も鳩山も賞味期限はきれ、異臭をさえ放ちつつあるのに、当の本人
た ち は 国 士 気 取 り で お る 。こ の 二 人 を 切 れ な い 民 主 党 の 体 質 が 、
「決められ
ない」民主党が抱える根本的問題なのだ。
最 後 に 余 談 で は あ る が 、 小 沢 に は 4 月 26 日 司 法 の 鉄 槌 が く だ る と 、 わ
たしは確信していることを、あえて付言したい。
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余
白
若 い こ ろ は 100 歩 あ る け た ら 、110 歩 を 、さ ら に 120 歩 を と 、さ ら に さ
らにの足し算だったが、老いぼれると引き算だ。なんぼ引かねばの加減が
分らず、つい無理をする。
◇
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