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2 総説1-3(PDF:1853KB)
2 総 説 1.本 市 の 沿 革 ここ四街道の地に人が暮らし始めたの きゅうせっきじだい は、今からおよそ3万年前の旧石器時代の いけ はな みなみ ことで、「池花 南 遺跡」(現バードヒル わ ら び お やま 池花)や「和 良 比 遺跡」(現美しが丘)、「御 山 遺 跡」(現もねの里)など市内各所で、火山灰土層の赤 土(関東ローム層)中から当時使われた多数の石器が 出土している。 約1万2千年前、世界的に見ても最古級であるやき ど き じょうもん じ だい ものとしての「土器」が発明され、縄文時代が開幕す る。「煮炊き」という調理方法を獲得し、食糧資源の 幅が広がった結果、定住が進むなど、縄文時代はその 後1万年間の長きにわたって安定した社会を形づくっ ていった。市内でも、縄文時代前期(約7千年前)の ど こう ぼ き ど さき 土 坑 墓 が大量にみつかった「木 戸 先 遺跡」(現鷹の 台)や、中期(約5千年前)の大きな集落の跡である みなみ さく 南作遺跡(成山地区)、後期~晩期(約3千年前)に ち よ だ や ぎ はら かけての集落跡や貝塚である千代田遺跡・八木原貝塚 はっ くつ (現千代田団地)などをはじめ、多数の遺跡が発 掘 調査されている。この時代は地球規模で温暖化が進み、 両極の氷が溶け出して海水面が現在よりもかなり上昇 していたため、内陸部の奥深くまで海水が入り込む状 況であった。縄文人がこの海の恩恵や、温暖な気候に よる豊かな植物資源などを最大限に活用していたこと が、遺跡や貝塚の出土品などによって知られる。八木 原貝塚で出土した貝は、ハマグリやオキアサリなどの 砂浜で生息する貝類が主体であり、古印旛沼沿岸の地 元産(ヤマトシジミなど)のものではなく、東京湾沿 岸からはるばる運ばれてきた貝であったことが近年の 研究により明らかにされている。また、各地の遺跡か ど ぐう らは、土偶や多彩な装身具(首飾りや耳飾りなど)が 出土し、それらにより縄文時代の人々が豊かで独特の 精神世界を展開していたことがわかっている。 北部九州を窓口に大陸から伝わった稲作農耕の開 や よい じ だい 始をもって、弥 生 時 代 の幕開けとなる。水田に囲ま れた里山の景観という日本の原風景はこのころに形づ くられている。稲作農耕により食糧資源を人間がコン トロールできるようになったことが、社会に劇的な変 化を生み出した。すなわち、格差の出現とそれにとも なう戦争の発生である。一見のどかで平和な時代に見 える弥生時代のイメージであるが、実は人間を対象と する武器・武具の出現やムラのまわりに防御用の深い ほり かんごうしゅうらく 濠をめぐらす環濠集落の出現など、「戦乱の時代」で い こう あったのである。市内では水田そのものの遺構は未発 見であるが、市内各所で小規模ながら弥生時代のムラ たてあなじゅうきょあと が営まれていたことが、竪穴住居跡の発掘や弥生土器 の出土などによって知られる。 原始 古代 総 説 10 紀元3世紀ころ(約1,700年前)、近畿地方を中心 ぜんぽうこうえんふん ふん ぼ に前方後円墳と呼ばれる巨大な墳墓が造られるように なる。土を盛り上げて作られたモニュメントとしての こ ふん じ だい 墓造りが流行した時代を古 墳 時 代 と呼ぶ。市内でも 200か所以上の古墳がこれまでに確認されている。古 ひ そうしゃ 墳の規模の大小は、被葬者の地位にほぼ比例する。の ちに近畿地方で成立するヤマト王権(のちの大和朝 廷)に関わる墳墓はいずれも100mを優に超える巨大 な墳墓である。市内では20~30m級のものが主体であ り、小地域の支配者層の墓である。とくに市域東側の、 物井地区~千代田地区にかけては、多数の古墳が集中 的に造られており、現在そのほとんどが消滅している こんどうそう た ち まがたま くだたま ふくそう ものの、金銅装の太刀や大量の勾玉や管玉などの副葬 ひん 品を出土した古墳も存在する。 りつりょう いわゆる大化の改新(645年)前後に成立した律令 こっか へんきょう 国家は、当時の辺境であった東北地方以北を除き、全 国的に古代の中央集権的な国家体制を浸透させてゆ そ く。この律令国家の諸施策は、戸籍の作成、税(租・ ちょう よう 調・庸)の徴収、地方行政区画の成立(国・郡・里ま たは郷)、交通路の整備(東海道・東山道など)、官僚制 度の創設など、現在の国家体制の基礎ができあがった あすか 時代ともいえる。中央政府の都は、飛鳥の諸宮・奈良 へいじょうきょう へいあんきょう せん と の平城京・京都の平安京と遷都したが、古代を通じて、 しもうさのくに ち ば ぐん ここ四街道の地は下 総国千 葉 郡 に属しており、古代 いん ば ぐん の印旛郡とは鹿島川が郡境であったと考えられている。 わみょうるいじょうしょう 平安時代(10世紀)に編さんされた『和名類聚抄』と いう書物の記載から、当時の四街道地域は、千葉郡の もののべごう やまなしごう 中の物部郷と山梨郷に所属していたと考えられる。物 部郷は市北東部の物井周辺に、山梨郷は市の南部にそ れぞれ中心部をもつことが、これまでの発掘調査の成 果によって明らかになっている。数百軒にも及ぶ多数 の竪穴住居跡がみつかった大集落の跡や、当時の食器 すみ が に墨書きされた「山梨」の文字などがそれである。 また、当時整備された交通路のうち東海道は、現在の 神奈川県横須賀市から東京湾を渡り、木更津周辺で上 ひ たちこく ふ 陸したのちに香取神宮・鹿島神宮を経由して常陸国府 のある茨城県石岡市を終点とするルートであった。こ の古東海道の支線の一部が、本市域の南部を通過する ものと推定されており、現国道51号線とほぼ重複する ルートが有力視されている。実際に国道51号線沿いに は、奈良・平安時代の集落跡が連続して営まれており、 当市域でも、吉岡地区や総合公園周辺、成山地区など で古代の集落跡が相次いで発掘調査されている。 平安時代に起きた、ここ房総の地を舞台 たいらのまさかど たいらのただつね 中世 とする平 将門や平 忠常の反乱などを契機 として、中世、武士の時代への幕開けとな る。鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立した源頼朝(み なもとのよりとも)は、平家打倒の兵を挙げた際に助 ち ば つねたね けられたのをきっかけに、千葉常胤を守護に任じて以 来、下総は千葉氏の領国となる。四街道市域は当時下 うすいのしょう うす い し 総国臼井庄に属し、千葉氏の一族である臼井氏の支配 下にあった。中世まで遡る古文書等の文献記録は現在 までほとんど確認されていないため、鎌倉・室町・戦 国と続く時代の詳細は不明な部分が多く、各地に遺さ じょうかんあと れた城館跡などがわずかに往時の姿を伝えるにとどま る。臼井氏は佐倉市臼井に所在する臼井城を本拠とし たが、戦国時代の半ば、千葉氏の重臣である原氏が実 おゆ み 質的な千葉氏内部での実権を掌握し、臼井城・生実城 (小弓城・現千葉市)の両城を本拠地とする。市域は この原氏の二つの本拠地を結ぶ街道(生実街道)沿い の中間点にあたり、交通の要衝に位置する。市内では これまでに20か所あまりの戦国期の城館跡が確認され ているが、いずれも臼井城の原氏を中心とする防御の ネットワークに組み込まれたものである。 戦国時代のここ房総の地も例外なく動乱の時代であ か ずさ たけ だ し あ わ さと み し り、千葉氏は上総の武田氏、安房の里見氏と三つども えの争いに巻き込まれていく。やがて戦国時代の後半 には、千葉氏をはじめとする下総の諸豪は、関東の雄、 ごほうじょうし 小田原の北条氏(後北条氏)の傘下へと組み込まれ、 下総は実質的に後北条氏の領国と化していた。天正18 (1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が 滅亡し、千葉氏の一門もこの時に運命を共にする。下 総の諸城はほとんど落城し(実際には無血開城)、そ のためか古文書などの記録はほとんど残されていない。 ほりごめじょうあと 和良比の堀込城跡は、全面発掘調査が行われた城跡で あるが、数少ない古文書の中に、一時期安房の大名里 見氏により占拠された時期があることが記されており、 戦国の攻防戦の最前線にあたっていたことがわかって ど るい からぼり いる。市内の城館跡の中で、現在も土塁や空堀などの ししわたじょう 構造が当時のまま遺っているものに、鹿 渡城跡(鹿 ふくじょうじやかた きでじょう こやじょう 渡)、福星寺館跡・木出城跡(吉岡)、古屋城跡(物 井)などがある。 しるべを兼ねて造立されたものが多く、それらの地 名を辿っていくと、当時の街道が見えてくる。市域に は、佐倉城(現在の佐倉市歴史民俗博物館)から佐倉 ねん ぐ みなと 藩の年貢倉庫のあった寒川(千葉市)の湊までの街道、 さ くらみち 「佐倉道」が通っていた。南北2つの路線があり、通 きたねん ぐ みち 称北年貢道が亀崎・栗山・現四街道十字路を通って千 み な み ね ん ぐ み ち ごうど 葉市に抜けるルート、南年貢道が佐倉市神門から現在 の国道51号線を通るルートである。このほか、銚子 ほしか や九十九里方面からの鮮魚・干鰯(主として肥料用) ま などの運搬に使われた街道(東金・八街から佐倉市馬 わたし 渡・山梨・鹿渡を通り、船橋方面に抜けるルート)も あり、こうした街道筋には、道しるべのほか運送の労 を担った馬の供養のための馬頭観音などが多数造立さ れている。 各地区の旧家、とくに江戸時代に名主をつとめた家 に伝わる古文書などにより、具体的な村の様子が明ら かになってきているが、その中でも長岡地区の井岡家 いえ よし 文書の中には、嘉永2(1849)年に第12代将軍家慶に こ がねなか の まき よって開催された下総国小金中野牧(現松戸市付近) お ししがり の御鹿狩の際に、農民が動員された様子のわかる詳細 な文書が多量に残されており、特色ある貴重な歴史資 料である。 江戸時代を通じ、幕府は鎖国政策をとってきたが、 幕末の「黒船」の来航により状況は一変する。外国か らの脅威に対抗するため、江戸近在の諸藩に大砲・砲 術整備の命令を下し、東京湾沿岸に砲台(台場)を築 かせるなどの諸策をとった。佐倉藩もこのとき、市域 かぎょうば の六方野に砲術練習場である「下志津火業場」を天保 11(1840)年に開設するが、このことが、次の明治以 降、四街道の近代史を決定付ける出来事となった。な おお ど て お、文化センターわきにそびえる人工の山「大 土 手 やま 山」はこのときに大砲の標的として築かれたものであ る。 総 説 明治維新後の新政府は、藩籍奉還・廃藩 近代 置県などの諸改革を行った。下総では、明 治2(1869)年佐倉藩が藩籍を奉還、さら に明治4(1871)年7月には、廃藩置県によって佐倉藩 は印旛県となり、2年後の明治6(1873)年6月には 木更津県と合併し、ここに千葉県が誕生した。また、 せいいたいしょうぐん 下総台地は、明治新政府の殖産興業によって開墾事業 慶長8(1603)年、徳川家康が征夷大将軍 が進められたが、本市の北方に拡がる下志津原・六方 近世 に任ぜられ、江戸に幕府を開く。市域では、 はたもと ちぎょうち 野は例外であった。佐倉藩の火業場が置かれていたこ 江戸時代初期には多数の旗本の知行地が存 さくらはんりょう の地を訪れた大村益次郎が、明治3(1870)年に陸軍 在していたが、のちに市域のほぼ全域が佐倉藩領とな こ そん 演習場の設置を進言し、下志津原は陸軍の演習場に決 る。現在でも古村と呼ばれる地域はそのほとんどが江 定する。以来、本市は続々と設置されていく軍事諸施 戸時代の村の名前がそのまま大字になっているものが 設と切り離せない歴史をたどることとなった。明治19 多い。そのほか、市域西側の千葉市にかけての地域に ろっぽう の (1886)年には、砲術伝授のためフランスの砲兵士官 は「六方野」と呼ばれた原野が広がり、近在の村々の いりあい ち き ど ルボンが招かれ、下志津原の北端(現在の佐倉市木戸 入会地になっていた。 こう しん とう ば 江戸時代に造られた庚 申 塔 などの石造物には、道 場)に陸軍砲兵射的学校(のちに陸軍野戦砲兵射撃学 11 総 説 12 校、さらに陸軍野戦砲兵学校と改称)が置かれ、大砲 の射撃演習が行われた。この大砲の着弾目標として増 築されたのが大土手山で、別名ルボン山とも呼ばれた 理由である。明治27(1894)年には、千葉県初の鉄道 として私鉄総武鉄道が市川~佐倉間で開通し(明治40 (1907)年に国有化)、佐倉連隊をはじめとする沿線 各駅の陸軍関連施設との輸送手段が増強されるととも に、本市内の軍事施設はさらに拡大していった。また、 新しく設置された四街道駅の周辺は旅館や飲食店など が立ち並び、「軍都」としての賑わいが形成され、昭 和20年の敗戦まで続く。 駅から少し西へ行ったところにある通称「四街道十 字路」のガソリンスタンドの傍らに石の道標が建って いる。この十字路が「四街道」の地名発祥の地であり、 石塔の建てられる前年(明治13年)にこの付近に開設 された私設郵便局に付けられた「四街道」という名称 が、公式な地名の誕生となる。 昭和20(1945)年8月15日、終戦ととも 現代 に明治・大正・昭和と長く続いた軍都とし ての歴史も幕を閉じる。残された広大な演 習場とさまざまな軍隊の施設、これらがどのように転 用されていくのかが、四街道の戦後史の出発点となる。 戦後の疲弊した国民生活を救うため、食糧増産を目的 として各地で緊急開拓が国策として実施された。ここ 下志津原・六方野に広がる演習場でも、復員軍人や引 き揚げ者などを中心に下志津原開拓団が結成され、開 墾の鍬が入れられた。特に鹿放ヶ丘地区には援農の目 まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐんうち 的で開拓団から招請された、満蒙開拓青少年義勇軍内 はらくんれんじょきかんがっこう 原 訓練所基幹学校(現茨城県水戸市)の学生たち約 170人が入植し、集団生活をしながら開拓に従事する という特異な道を歩む。やがて大日開拓農協と鹿放ヶ 丘農苑開拓農協が生まれ(後に幾度かの合併を経て現 在ではいんば農業協同組合)、開拓は成功し、荒れ果 てた原野はまばゆいばかりの緑の農地に生まれ変わり、 近郊農村都市としての発展を遂げる。 数多く集まっていた陸軍関係の施設も、はじめは開 拓者たちの宿舎として利用され、のちに各種の学校や 市役所、病院などの公共施設、あるいは精密機器メー カーの大工場、そして現在では大型ショッピングセン ターなどへと姿を変えている。現在でも、愛国学園の 正門・四街道公民館脇の煉瓦門(旧陸軍野戦重砲兵第 4連隊の門)などに軍都としての面影を垣間見ること ができる。 明治22(1889)年の町村制施行によって、江戸時 代以来の村々が合併し、千代田村(亀崎・物井・長 岡・栗山・内黒田・下志津新田・羽鳥・飯重・吉見・ 生ヶ谷・畔田の各村)と旭村(成山・中台・中野・山 梨・和田・上野・南波佐間・和良比・小名木・鹿渡・ 吉岡・馬渡の各村)が生まれた。千代田村は、昭和15 (1940)年町制を施き千代田町となる。 昭和28(1953)年に制定された町村合併促進法に 基づき、昭和30(1955)年3月、千代田町と旭村が合 併し、四街道町が誕生する。新町誕生時の人口は約 18,000人であった。 昭和30年代から全国的に人口と産業の都市集中が急 速に進んだ時期であり、さらに昭和40年代前半は、昭 和30年代後半からの高度経済成長に沿った都市化・工 業化が一層進み、本市においても、昭和40年代前半か ら各地で住宅団地の造成や各種交通網などの都市基盤 の整備が始まり、首都圏近郊のベッドタウンとして急 速に人口が増加していった。 戦前の「軍都」としての歴史、戦後の「開拓」の苦 難の歴史と「農村」としての発展、昭和後半期からの 「首都圏近郊の住宅都市」、というように四街道はそ の近現代史の中で急速に都市としての顔を変えてきた。 昭和56(1981)年には千葉県で28番目の市制を施行し、 各種の公共施設を整備しつつ近代的な都市として着実 な歩みを遂げた。 平成15年には、「平成の大合併」の中で、千葉市と の合併について大いに議論が交わされたが、住民投票 の結果、市民は「自立」の道を選択した。 2.行 政 区 域 の 変 遷 年 月 日 内 容 変 更 内 容 移 動 人 口 総 面 積 (人 口) S30.3.10 旧印旛郡千代田町・同郡旭村が合併し 四街道町が誕生 S30.10. 1 (国勢調査) S32. 1. 1 旧四街道町の一部(羽鳥・飯重・吉見・生谷・畔田)が 佐倉市へ △7.4 △2,002人 S34. 2. 1 旧四街道町の一部(大日字栄)が千葉市へ △0.9 △165人 S35.10. 1 (国勢調査) S35.11.1 旧佐倉市の一部が四街道町へ 0.050707㎡ ― S35.11.1 旧四街道町の一部が佐倉市へ △0.040889㎡ ― S39.4.10 旧四街道町の一部(羽鳥)が佐倉市へ △0.01526㎡ ― S40.10. 1 (国勢調査) S40.12.1 旧四街道町吉岡の一部が千葉市へ S45.10.1 (国勢調査) 36.06 (26,375人) S50.10.1 (国勢調査) 36.06 (37.401人) S52.2.1 千葉市との境界変更 S55.10.1 (国勢調査) S56.4.1 旧印旛郡四街道町が四街道市になる(市制施行) S60.6.1 佐倉市の一部が四街道市へ S60.10.1 (国勢調査) S63.6.1 旧四街道町の一部が佐倉市へ H元.11.10 建設大臣公告 H2.6.1 四街道市山梨の一部が佐倉市へ △0.0008456 ― H2.6.1 四街道市吉岡の一部が千葉市へ △0.05087245 ― H2.6.1 佐倉市大篠塚の一部が四街道市へ 0.01624059 ― H2.6.1 千葉市谷当町及び下田町の各一部が四街道市へ 0.05082956 ― H2.10.1 (国勢調査) 34.70 (72,157人) H7.10.1 (国勢調査) 34.70 (79,495人) H12.10.1 (国勢調査) 34.70 (82,552人) H17.10.1 (国勢調査) 34.70 (84,770人) H18.12.1 千葉市若葉区谷当町の一部が四街道市へ H22.10.1 (国勢調査) 36.08 (16,623人) 36.07 (19,778人) △0.0094 0.0 ― △47人 36.04 (59,236人) 0.00080923 ― 36.04 (67,008人) △0.00001628 ― 34.68 0.000042 総 ― 34.70 (86,726人) 説 資 料:管財契約課、総務省統計局「国勢調査報告」 45.99 (18,014人) 13 3.位 置 及 び 広 ぼ う 四街道市は、首都圏40㎞圏内に位置し、新東京国際 空港に近接するという地理的条件に加え、広域幹線道 路の国道51号線、東関東自動車道が縦断し、千葉市、 総 説 14 佐倉市に隣接している。広ぼうは、東西約7㎞、南北 約9㎞、面積34.70である。 市役所の位置 東経 140度10分16秒 北緯 35度40分00秒 市 の 東 端 140度13分05秒 35度39分35秒 成山と佐倉市並木の境付近 西 端 140度08分23秒 35度40分02秒 鹿放ヶ丘と千葉市稲毛区長沼原町の境付近 南 端 140度11分35秒 35度37分20秒 吉岡新開と千葉市若葉区千城台北3丁目の境付近 北 端 140度12分30秒 35度42分15秒 亀崎と佐倉市羽鳥の境付近 市 の 標 高 海抜最高地域 市の南部吉岡新開~春日神社付近35~36m程度 海抜最低地域 市の北部亀崎地域で県道佐倉停車場千代田線の羽鳥橋付近4m程度 (注)市の標高地域及び東西南北端の地域については、国土地理院、2.5万分の1地形図上で推定した地域である。 資 料:市役所の位置(国土地理院)