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プランタジネット朝
プランタジネット朝 出典: ウィキペディア プランタジネット朝(プランタジネットちょう、Plantagenet dynasty, 1154 年 - 1399 年) は、中世イングランドの王朝。フランスの貴族であったアンジュー伯アンリが初代国王ヘ ンリー 2 世となり、1399 年にリチャード 2 世が廃されるまで続いた。ただし、その後に続 くランカスター朝、ヨーク朝ともプランタジネット家の傍系(それも最末期になって分岐 した家系)であり、広義のプランタジネット朝は 1485 年にヨーク朝のリチャード 3 世がボ ズワースの戦いで敗死するまで続いたことになる。アンジュー伯家から興ったことからア ンジュー朝とも呼ばれる。 概要 プランタジネット家の前身 はガティネ家といい、北フラ ン スの ガテ ィネ (Gâtinais) の伯爵家であったが、10 世紀 に一族のフルク 1 世 (en) が アンジュー伯となり、その家 系は以後アンジュー家とも呼 ばれるようになった。 「プラン タジネット」とはマメ科の植 物 エ ニ シ ダ の 木 ( planta genesta:日本名は「金雀枝」 ) のことで、エニシダをガティ ネ家の紋章としていたことか ら、後に家名となった。 12 世紀にはヘンリー 2 世の 祖父フルク 5 世がエルサレム 王となった。フルク 5 世はア ンジュー伯を長男ジョフロワ 4 世(または 5 世)に譲り、 エルサレム王位は女王メリザ ンド (en) との間に生まれた ジョフロワの異母弟ボードゥアン 3 世 (en) 、その弟アモーリー 1 世へと継承されたが、ア モーリーの子の代で断絶した。その後、第 3 回十字軍に出征したリチャード 1 世(ジョフ ロワの孫)はエルサレム王即位を要請されたが、これを断わっている。 1 王朝の成立まで ノルマン朝最後のイングランド王となったヘンリー 1 世は、1120 年に嫡男ウィリアムをホ ワイトシップの遭難で失った。他に正嫡の男子を持たなかったヘンリー 1 世は、ウィリア ムの姉マティルダを後継者に指名し、アンジュー伯ジョフロワ 4 世と結婚させた。しかし ヘンリー 1 世の死後、その姉アデルを母とするエティエンヌ・ド・ブロワがロンドンを押 さえ、イングランド王スティーヴンとして戴冠した。その後、スティーヴンとマティルダ およびそれぞれの支持勢力の間で 20 年近くにわたり内戦状態が続いた(無政府時代と呼ば れる) 。スティーヴンが継承者としていた息子ウスタ シュが 1153 年に急死すると、マティルダの息子アン ジュー伯アンリとの間で和平協定を結び、自身の王 位の承認と引き換えにアンリを王位継承者とするこ と、またウスタシュの弟ギヨームは王位請求権を放 棄することとした。 1154 年にスティーヴンが死去すると、 協定通りアン リがヘンリー 2 世としてイングランド王に即位し、 プランタジネット朝が成立した。 ヘンリー 2 世はフランスに広大な所領を持ったまま イングランド国王に即位し、アンジュー帝国と呼ば れる一大領邦群を形成した。プランタジネット家はまた、フランス王侯諸家との血縁関係 も強かった。そのため、フランス王室(カペー朝、ヴァロワ朝)との領地・王位を巡る争 いが絶えることなく、百年戦争を招く結果となった。 歴代国王に失政が多かったと言われるのも、こうした「対フランス政策」に忙殺されざ るを得ないという、同王朝特有の事情が引き起こした現象であるといわれている。ヘンリ ー 2 世以外の歴代の国王はフランス人としての意識も強く、特にヘンリーの息子であるリ チャード 1 世は、本来は兄若ヘンリーが王位を継ぐべき身で自身は母方のアキテーヌにも っとも執着したこともあり、イングランド統治への関心が低かったともいわれている。 アイルランド統治 ヘンリー 2 世はまたアイルランド卿の称号を有し、1171 年にイングランド王として初め てアイルランド島へ上陸して、アイルランドの諸王に服属を誓わせた。この称号は末子ジ ョンに与えられ、ジョンの王位継承後は歴代イングランド王の称号の一つとなった。ただ し、プランタジネット朝(またランカスター朝、ヨーク朝)期を通じて、アイルランドの 支配は限定的なものであった。 2