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09No330
09_No330.jtd 鈴 木 の世 界 史 B講 義 録 330 第二次世界大戦勃発 ⅠⅡⅢⅣの時期区分は授業者独自のもの Ⅰ 大戦前夜 最大の問題点は? 1)1938 年 3 月 ナチス・ドイツは【1:オ ーストリア 】を併合した。さらに、 チェコスロバキアに対し【2:ズデーテン 地方 】の割譲を要求した。チェコス ロバキアはこれを拒否した。 2)イギリス首相【3:ネヴィル=チェンバレ ン 】職 1937-40 は、フランス首相とと もに、1938 年 9 月、【4:ミュンヘン会談 】を開く。会談の相手はヒトラーと ムッソリーニ。 参加国:英・仏・独・伊 チェコスロヴァキア や隣接国のソ連はこの会議に招かれなかった 結論:「これ以上の領土要求をしない」と いう条件をつけたうえで、ヒトラーの 要求を容認した。 宥和政策とは:決定的な対決(=戦争) を回避するため相手に譲歩すること。 ミュンヘン会談においてイギリスは、 ドイツの無法な要求に屈し、チェコス ロヴァキアを犠牲にして戦争を回避し た。フランスもこれに引き込まれた。 ☆英仏ともに外国の犠牲は顧みない、 ナチス=ドイツの侵略の矛先がソ連に向くことはむしろ歓迎。 アメリカは物資の輸出以外には無関心。ソ連は英仏の宥和政策に反発し反ファシズムになりきれない。 世界の大国、英仏米のこのような情けない姿勢が、ヒトラーを大いに鼓舞し利するものであったことは 言うまでもない。「連合国」などというものは、1939 年の時点では影も形も話もないのだ。 3)1939 年 3 月 やはり、ヒトラーはミュンヘン会談での取り決めを破った。 ①【5:チェコスロヴァキア 】を解体した。 ②ボヘミア(ベーメン)、メーレン(モラヴィア)を併合(保護領)した。 チェコスロヴァキアの西半分 ③スロヴァキアを保護国とした。 チェコスロヴァキアの東半分 更にヒトラーは、ポーランドに対し、①ダンツィヒ市(現グダニスク)の返還と ②ポーランド回廊を横 断する陸上交通路 を要求した。英仏はようやくポーランド支援を決断した! ソ連ともポーランド問題で交渉開始 ☆イタリアも 1939 年 4 月、アルバニアを併合。 4)英仏国内世論は宥和政策を批判、ソ連は依然として英仏に強い不信感をもつ。 【私ならここを出題する】ソ連の強い不信感はソ連のどんな行動となって現れたか、100 字以内で述べよ。 5)1939 年 8 月 ソ連は突如、【6:独ソ不可侵条約 】を締結して、世界中の反ファシズム運動の人びと を驚かせた。ドイツとしては2正面作戦を避けたい。ソ連は真っ先に侵攻されない安全性を優先した。 Ⅱ 第二次世界大戦勃発 1939年9月1日 ドイツ軍、ポーランドに侵入 9月3日 英仏は独に宣戦布告。第二次世界大戦はこの時に開始された。 1)ドイツ軍はポーランド軍を粉砕し、西半分を占領した。 ところが、【7:ソ連軍 】もポーランドの東半分を占領した(独ソ不可侵条約の秘密議定書による)。 ソ連軍はさらに領土交換要求を拒否したフィンランドに侵攻し、レニングラード周辺の国境地帯を奪い 取った。フィンランドからの訴えで、ソ連は国際連盟から除名された。 ソ連は、1939 年、【8:エストニア、ラトヴィア、リトアニア 】のバルト3国を占領し、1940 年併 合。ルーマニアからベッサラヴィアを割譲させた。 スターリン指導下のソ連は、社会主義の大義をうち捨てた。この時点でも反ファシズムとは言えない。 2)1940 年 ヒトラーは西部戦線への攻撃に転じた。→ 4 月 デンマーク・ノルウェー、5月 オランダ、 ベルギーを占領。イギリス軍はダンケルクから撤退。 下線部は中立国 ドイツ軍の優勢を見てムッソリーニ率いるイタリアは、1940年6月10日、イギリスとフランスに宣戦布告、 地中海への軍事侵略に乗り出したが、イタリア軍は概して弱く軍事的役割は小さかった。 1940 年 6 月 14 日 ドイツ軍、パリを占領。フランス南部にはドイツに協力する政権(【9:ヴィシー政府 】、国家主席=ペタン)ができた。しかし、ド=ゴール将軍を中心とする抗戦派はロンドンに自由フラ 09_No330.jtd http://sekaishi.info http://www.geocities.jp/sekaishi_suzuki/ ンス政府をつくり、国民に抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけた。ドイツ軍はイギリスを狙った。 3)イギリスでは、1940 年4月、かねて宥和政策に反対してきた【10:チャーチル 】が首相に就任、徹底 抗戦を呼びかけ、制空権を確保したため、1941年、ヒトラーは矛先をバルカン半島に向けた。→ハンガ リー、ルーマニア、ブルガリアを枢軸側に引き入れ、ユーゴスラヴィア、ギリシアを制圧した。 Ⅲ 1941年6月 独ソ戦開始 41 年春、西欧ではイギリスのみが抵抗! ドイツの侵攻を予感したソ連は、1941年4月13日、日ソ中立条約を締結。東西2正面での戦争を回避した い意図は分かるが、これで日本は安心して「南進」でき、日本の東南アジア侵略に手を貸した。 1941 年 6 月、ヒトラーは宣戦布告なしに【11:ソ連 】に侵攻、モスクワに迫ったが、持ちこたえた。 これ以降、ソ連は反ファシズムの立場に立つ。最も強力だった時期のドイツ軍の侵攻を、ソ連1国の 力で受け止め膨大な犠牲を出した。(1941 年 9 月から米英はソ連を支援) ○レニングラード攻防戦(包囲戦)は有名である。 (レニングラード=現ペテルブルク) 1941 年 9 月 8 日~ 1944 年 1 月 18 日 「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」 現在(1991 ~)は「サンクト=ペテルブルク」または単にペテルブルクと呼ぶ。ロシア帝国の首都だった。1914 ~ 24 年はペトログラード(旧称サンクト=ペテルブルクはドイツ風なので)、1924 ~ 91 年はレニングラードとよばれた。 なお、1918 年 3 月、首都はモスクワに移った。/ドイツ軍はレニングラードを 900 日近くにわたって包囲したが、レ ニングラードは耐え抜いた。飢餓や砲爆撃によって、ソ連政府の発表によれば 67 万人、一説によれば 100 万人以上 の市民が死亡した。これはわが国本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む 全て)を上回る。家族全員を失った当時 12 歳の女子、ターニャの日記が絵本としてわが国でも出版されている。た った一人残ったターニャはその後施設に入ったが赤痢で死亡した。 ドイツ軍はモスクワ攻防戦で消耗し進撃は止まった。 1)アメリカは、フランスの敗北(1940 年 6 月 21 日)を契機に戦時体制に入る。 1941 年 3 月 11 日、【12:武器貸与法 】成立をもって、アメリカは連合国支援に踏み切る。 アメリカとしても、ドイツがヨーロッパを支配し尽くす事態となれば、自らの覇権も危うくなる! 2)独ソ戦の開始(1941 年 6 月 22 日)以降は、米ソ関係も改善された。 3)1941.7.21 イギリスのはたらきかけで、ソ連・イギリスの相互援助協定成立。 08R 4)1941 年 8 月 【13:大西洋憲章 】発表 ローズヴェル・チャーチル会談 5)1941 年 9 月 米英ソ 三カ国首脳会議 ソ連支援を決定 ☆ここで、真珠湾攻撃(1941 年 12 月 8 日)を見る(=日本の参戦) アジア・太平洋戦争勃発 後続プリントで取り扱う。 Ⅲ 1942年1月 反ファシズム連合国の正式発足 1942 年 1 月に 【14:連合国共同宣言 】発表 アンネ=フランク一家が隠れ家に入ったのは 1942 年 世界の26カ国が大西洋憲章を了承して連合国に結集、ファシズムと戦うことを約した。 ソ連もコミンテルンを解散してこれに応えた。 1942 年 ようやく成立した連合国の協力で、世界中でナチス・ドイツに対する反攻が行われた。 Ⅳ 1943年2月 1943 年2月 連合国の大反攻開始 スターリングラード攻防戦、ガダルカナル島攻防戦 以降、体勢を整えた連合国軍は、猛烈 な反攻作戦を実行する。 後続プリントで地域ごとに取り扱う。 抵抗運動 1)占領下で行われた地下抵抗運動をフランス語で「【15:レジスタンス 】」と呼ぶ。ロンドンに亡命したド =ゴールは自由フランス政府をつくり、短波放送を通じてレジスタンスを励ました。 2)ユーゴスラヴィアでは、【16:ティトー 】が、労働者・農民の非正規軍を組織して抵抗した。遊撃隊を 編成しての武装抵抗を特に「 【17:パルチザン 】」と呼ぶ。 3)ドイツ・イタリアにも地下抵抗組織があり、根強い抵抗運動が展開された。→ 映画「非武装都市」 4)アウシュヴィッツ収容所の内部にまで地下抵抗組織は存在した。日常的に起こる大量虐殺の一部は下手 人の氏名とともに具体的に通報され、イギリスからの短波放送で世界中に報道されていた。 少しずつ持ち込んだ爆薬で焼却炉爆破まで実行している。当然、そのたびに凄惨な拷問と更なる大量処刑の報復が行われ たが、抵抗組織は世代交代しながら生き続けた。 ユダヤ人迫害全般についてはNo327のB面を参照せよ。 5)地下抵抗運動の共通点 ①貧弱な武装でよく戦い多数の犠牲を出した。被逮捕者や捕虜には激しい拷問が加えられた。② 普段は全く普通の市民。③無関心を装いながら協力する市民多数の支援に支えられていた。④思想・信条・信教・民族の 相異を棚上げにして戦った。≪重要≫ 自分たちの手でファシストを打ち破った歴史的体験は、今も子孫に引き継がれ、 現代のEU結成の精神を醸成した。日本人にはこのような歴史的経験は、「60 年安保」の一時期を除けば、ほぼない。 【 1:オーストリア 2:ズデーテン地方 3:ネヴィル=チェンバレン 4:ミュンヘン会談 5:チェコスロヴァキア 6:独ソ不可侵条約 7:ソ連軍 8:エストニア、ラトヴィア、リトアニア 9:ヴィシー政府 10:チャーチル 11:ソ連 12:武器貸与法 13:大西洋憲章 14:連合国共同宣言 15:レジスタンス 16:ティトー 17:パルチザン 】記入例