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呂 赫 若 の 音 楽 活 動 一台中師範 ー 東宝声楽隊との関係を中心と して

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呂 赫 若 の 音 楽 活 動 一台中師範 ー 東宝声楽隊との関係を中心と して
日
若
航
の
音
楽
活
動
一台中師範・ 東宝声楽隊との 関係を中心として 一
垂水
干恵
ロキーワードコ
台中師範学校、 東京音楽学校、 呂衆生書簡、 東宝声楽隊、
台湾文化 協 追金
はじめに
戦前の台湾を 代表する文学者であ る日柄 若 (1914 ∼ 1951) が、 声楽家として
も 精力的な活動を
究は文学研究の
続けたことは、 周知の事実であ る。 しかし、 従来の呂 赫若 研
側面に偏り、
彼の音楽活動については 顧みられることが 少なか
ったように 居、 う 。
ところが 1996 年 12月に台北で開催された「日航右文学研計会」において、
の音楽活動に 焦点を当てた 二つの注目すべき 報告がなされた。
であ る 蘇友鵬 による回想「 談 芸術家
学教授藤井省姉に
よ
呂の旧友
り、 もう一つは東京大
る論文発表「日航 若興 東宝国民 劇 」であ る。 特に藤井論文
は 武蔵 野音楽学校卒とされてきた
宝塚劇場
呂 楠君 的 面貌」であ
一 つは
呂
目の年譜上の 誤りを正したこと、 さらに東京
( 以下東宝と表記 )
演劇部としかわからなかった 目の東宝での 活動を 、
東宝声楽隊におけるものであ
ろう、 と特定した点において、 日航 若 研究の進歩
に大きく寄与したものと 言えよう 巾 。
本稿は 、 呂の台中師範時代の 恩師 磯江 清の経歴、 および 呂と 同時期に東宝声
楽隊に所属した 呂衆生の書簡等の 新資料を加え、 さらに呂の音楽活動の 詳細を
解明しょうとするものであ
1
る。
、 台中師範学校における 音楽教育
1939 年 4 月の日本留学以双に 、 呂が台湾において 音楽活動に従事した、 とい
う記録は現在のところ 確認されていない。 1935 年
1
月の「牛車」の 発表以来、
呂の活動は専ら 文学に限られていた。 しかし、 1941年 5 月発行の
一
114
一
F 台湾文学コ
憩 ふ き、に 」には「昨春、 台北で 夜 おそく町を数
に 掲載された呂のエッセイ「
音楽をやるか、
人で歩いて ゐた 時に」 龍瑛 宗から「邑君あ なたはこれから
をやるか。 」と尋ねられたという
意志を持っていたことは、
記述があ るので、 呂が音楽活動に 従事したい
かなり知られていたのかもしれない
(2)。
呂は同エッセイで、
F 文学をやるか、 音楽をやるか」と
狭い考へ方だと 思ふ。 文学の勉強はすべての 勉強だ、文学だけ
その動機について
いふ問題は心の
文学
「
出来て 、 他の文化部門が 全然無知であ るとすればその 文学は文学として 成立し
ないと思ふ。 」と述べている。
つまりは音楽活動も 広い意味での 文学修行とと
らえ、 音楽と文学の 両立を図ろう、 ということであ ろう。
しかし、
音楽があ る種の技術を 伴うものであ
発して、 すぐに音楽と
るからには、
文学の両立が 図れるものでもあ
全くのゼロから 出
るまい。 ましてや、
留学時代には 東宝声楽隊としてプロ 活動にも従事しているのであ
日本
るから、 やは
りどこかで基礎的な 訓練を受けていた、 と考えるのが 自然であ る。 そして、
の 経歴から見て、
呂
その可能性があ るのは台中師範学校時代をおいて 他にはない。
そもそも日本統治時代の 台湾における 西洋音楽の受容には、 主として二つの
経路が存在したと
言える。 一つは教会音楽であ り、
楽教育であ る。 初等教育において 音楽
等 教育担当の教師養成を
( 昌歌 )
Ⅱ
もう一つは学校における 音
は必修科目であ り、 従って 、 初
目的とした師範学校においても、
であ った。 師範学校における 音楽教育は時間こそ 各学年
であ
ったが、
「普通の音楽科の
範囲を超え、
留学させた」というもので、 その結果、
」となり、
∼ 2 時間という程度
ったという。 具体的には「
学校側は良質の 教師を迎え、 学生の課覚芸術活動を 奨励
揺 蕃地 ( 発祥地 )
1
学生の資質に 応じては師範学校が
専門音楽教育への 橋渡し的役割を 果たす」こともあ
持って日本へ
音楽教育は必修科目
し、
優秀者には公費を
師範学校は音楽活動の「
師範学校を拠点として 西洋音楽は発展していった
とされている (3)0
事情は台中師範においても
肩
まで台中師範に
同様であ ったろう。 日掛 928 年
4
月から 1934 年 3
在籍している。 その間、 台中師範の音楽教育を
一
115
一
担当したのは
磯江清 という教師であ った。 台中師範には 磯 江を指揮者とする 管弦楽のバンド
があ り、 部員は磯 江 による課外指導を 受けていたという。 また、 ピアノや声楽
の レッスンを受けていた 者もおり、 演奏会も開かれたという。 呂は管弦楽団に
は所属していなかったようだが、
一ジ 写真が
F
ピアノは習っていたようでピアノ
連弾の ステ
日航 若 小説全集コ に 収録されている (4) 。
2 、 磯江 清の経歴
呂が 後年、 この 磯江を モデルとした 人物を小説に 登場させていることについ
てはすでに刈 穂において論じているので 詳細は割愛するが、 その後 磯 江の経歴
に 関し判明した 点があ るので述べておく (5)0
台中師範学校同窓会名簿によれば
1941 年までのことであ
1891 年 3
月 2 日、
る
磯注 が台中師範に 在職したのは 1928 年から
(6) 。 遺族、 および教え子の 話を総合すると、 磯圧 は
宮崎県日南に 生れ、 東京音楽学校を 卒業後、 朝鮮等を経て 、
乗合。 音楽指導の他、 作曲も手掛け、 山田耕作の弟子を 称していたと 言う。
ところが、 東京音楽学校の 後身であ る東京芸術大学に 磯 江の在籍を問い 合わ
せたところ、 東京音楽学校および 東京芸術大学音楽学部の 同窓会組織であ
声 合の会員名簿に 磯江 清の名前は記載されておらず、
る
同
従って在籍していなかっ
たと思われる、 との返答を得た。 そこでさらに 東京芸術大学音楽学部音楽研究
センタ一の協力を 得て 、
同
センタ一所有の 丁東京音楽学校一覧』を 閲覧させて
いただいたところ、 1910 年 6 月から 19m2 年 6 月まで甲種師範 科 に在籍していた
ことが確認できた。 しかし、 その後は在籍者名簿にも 卒業生名簿にも 彼の名前
の 記載はなく、 おそらく甲種師範 科 3 年ないしは 4 年の時に、 東京音楽学校を
中退したものと 考えられる。 同声全会員名簿に 記載のないのは、 そのためであ
ろ う。
卒業はともかく、 東京音楽学校で 学んだことは 確認できたわけだが、 では、
山田耕作の教えを 受けた、 という点についてはどうであ ろうか。 年譜によれば
山田は 1909 年 4 月、 東京音楽学校研究科 2 年進級と同時に、 東京音楽学校分数
場 補助
( 唱歌担当 )
を勤めている (7)。 しかし、 翌年の 2 月 24 日に東京を立ち、
一
116
一
1913 年までドイツに 留学しているので、 19m0 年 4 月東京音楽学校甲種師範神人
学 の 磯 江を教えた可能性は
低い。 ただ、
個人教授等の 可能性も否定できないの
で、 磯江 一山田の関係についてはさらなる 調査が必要であ ろう。
一方、
た。
この調査の過程で 磯江と 長坂 好 子に関する大変興味深い 関係が判明し
長坂托子は呂が 日本留学時代師事したとされている
東京音楽学校卒業後、
二度のイタリア
声楽家であ る。 長坂は
留学を経て、 1929年からは東京音楽学校
教授を勤めている。 またその傍ら、 三浦環、
幸田延子等と 新興音楽会を
結成し、
演奏会を開くなど、 当時の声楽界の 権 威であ ったと言ってよいだろう。
藤井は前掲論文において、
東京音楽学校には
呂の在籍記録はなく、
また呂が
所属した不入 川 圭佑声楽研究所の 教授陣にも長坂の 名はないことから、 おそら
く呂は長坂に 個人的レッスンを 受けたものであ ろう、 と推論している。 後述す
る
巨泉生も筆者宛て 書簡で呂は「長坂 好 子について半年ばかり 声楽を勉強して
居たと云って 居 ました」と証言しているので、 藤井 説 はまず間違いあ るまい。
しかし、 ここで問題となるのは、 呂は如何にして 長坂ほどの権 威にアクセス
したか、 という点であ る。 長坂は 1936 年に台湾を訪れ 独唱会を開いているので、
おそらく呂はこの 時に面識を得たのだろう、
と藤井は推論しているが、 1936 年
0 段階で呂がそれほど 明確な目的意識を 持っていたかどうかは 疑問であ る。
ま
た、 たとえその時に 面識を得たとしても、 そこには紹介者がいたと 考えたほう
が
自然ではないだろうか。
だとすれば、 どの時点で呂が 長坂と面識を 得たかはさておき、 その紹介者は
磯江 をおいて他には 考えられない。 というのも、 磯江と 長坂は甲種師範 科 、 予
科の別にそあ れ共に 1910 年の入学であ り、 当時の東京音楽学校の 規模からして
二人が知り合いであ った可能性が 非常に大きいからであ
る
(8) 。
おそらく呂は 声楽修行を志した 段階で 磯 江の助言を仰ぎ、 磯江 が紹介の労を
取って呂を長坂に
師事させたのではないだろうか。
長坂の存在は 日本留学時代
の目の音楽活動を 知る上で大きな 手掛かりとなるだけに、 さらなる裏 付けが必
要であ るが、 現段階では以上のような 推論を提示しておく。
一
117
一
3 、 東宝声楽隊在籍の 真偽
従来、
「東京宝塚劇場演劇部入社」としか 知られていなかった 目の東宝での
活動が、 藤井論文によって
の 通りであ
東宝声楽隊にまで 絞り込まれた 功績については 前述
る。 ただ藤井も言及しているように、
料 が保存されておらず、 呂が確かに東宝声楽隊に
東宝には当時の 人事関係の資
在籍した、
という確証は 得ら
れるに至っていない。 一部残存している 東宝声楽隊の 参加した公演チラシ 等を
調べても、 隊員名を記載してあ るものは発見できなかった。 溝貝 表 等の掲載さ
れている公演プロバラムでも
発見されない 限り、 東宝側から
呂 在籍の証拠を
挙
げることは不可能であ ろう @9)0
そこで次の方法として、
呂
とほぼ同時期に 東京に滞在した 台湾人留学生を 探
し、 呂に関する記憶を 尋ねる、 という万法を 試みたⅡ 0) 。 その結果、 アメリカ
在住の音楽家巨泉生民
( 以下敬称略 )
から有力な情報を 得た。 少し長くなるが、
貴重な資料であ るので 1997 年 10月 26 日付巨泉 生 書簡の東宝声楽隊に 関する部分
を 引用しておく。
…私が日航 若と 出会ったのは 昭和 W4年私が東洋音楽学校を 卒業して (3
日劇の舞踊隊の 歌手テストにパス
し、
マルコポ ー ロの映画が日本劇場で 封切
され、 ショーとして 伊藤 祐 次の作曲伊藤 祐 次の奥様の振り 付けで「マルコ
一口東洋の一夜」のミュージカルに
私は中国の将軍として 出演し、
都 新聞ではなくもう 一部の演劇新聞
月)
( 名前忘れた )
ポ
( 当時の
に一寸短いが 批評がまし
い 記事があ った (1i) 。 その後目 赫 若君が僕を訪ね、 始めて彼に会った。 当時
彼は奥様と子供姉・ 四人つれて中野に 住んで 居 ました。 東京に来てから 約一
年足らず、 長坂托子について 半年ばかり声楽を 勉強して居たと 云って 居 まし
た。 それから時々私を 訪ねて私の伴奏で 歌って 居 ました、 テナ一で音色は 奇
麗 だが惜しい事には 一寸音程が悪い
月 ?
( 修業が足りない )
翌年
( 昭和
15年 ) 6
に日劇で声楽隊を 設ける 為 隊員を募集すべく 広告が出たので 彼は私を訪
ね、 応募する事を 私に話しました。 彼は私より
一
118
一
2 つ 年上、
マスクは 仲 々美男
手話上手で私も 彼の応募を手伝った、 音程の事で一寸心配。 当時彼は東京で
の生活で経済的一寸トラブルがあ
ると聞かされ 日劇声楽隊の 報酬は月 90 円。
当時のサラリーとしては 悪くない様です。 私は去年の 4 月に出演して 英俊浅
( 常盤 座 )
に移りこの度は 再度日劇に戻る 積り応募しました
( 私の事は当時「東宝」と
云ふ 東宝で出版した 演劇界の雑誌に 一寸書かれて
草の笑ひの王国
居る様にノンテストで 帰隊 しました。
彼は私の推薦で 一寸おくれて 入りました。 声楽隊は全部 43 名
( 男女 ) 当
?
時 内田栄一が声楽隊の 免倒を見て合唱の 練習を担当して 居 ます。
巨泉 生は 「日劇声楽隊」という 名称を使っているが、 これは彼が東宝声楽隊
が正式に発足する 以前、 日劇ダンシング・チームの 時代から所属していたため
であ ろう。 日劇ダンシング・チームは 1940 年 9 月に東宝舞踊 隊 と改称、 その姉
妹団体としての 東宝声楽隊が 組織されたのは 翌年の
この 日 粟生書簡の証言によって、
1
月であ る t.l2
」。
日航 君 が東宝声楽隊に 所属していたことは
確定的となった。
4 、 東宝声楽隊の 活動
さて、 年譜では 呂赫若は 1940 年 ¥2月から 1942 年 5 月まで東宝に 在籍していた
ことになっている。 だから、 その間の目の 音楽活動を調べるには 東宝声楽隊の
足取りを追っていけば 良いはずであ る。 ところが、 東宝社史『東宝十年史上に
は東宝舞踊 隊は ついては詳細な 公演 表 が掲載されているものの、 姉妹団体であ
る 声楽隊についての
独立した記述はない (W 。 つまり、 東宝舞踊 隊 公演のどの
公演に声楽隊も 参加したかは 確定できないのであ る。 ただ、 雑誌
T 東宝』には
,「東宝舞踊 隊 日誌」をはじめ、 ときおり東宝声楽隊に 関する記事が 掲載されて
いるので、 それらを総合して 判断するならば、 呂の在籍当時の 東宝声楽隊は 主
に 以下の 6 種類の活動を 行っていたと 言ってよいだろう (@4)0
1
1941年 3 月の「雪国」などに 代表される東宝舞踊 隊 との共演
一
119
一
2 、 1941 年 3 月の「エノケン 龍宮 へ行く」
はビ に代表される 東京宝塚劇場に
おける東宝国民劇への 出演
3 、 1941 年 2 月の「 歌ふ李香蘭 」などに代表される 歌謡ショウへの 出演
4 、 1941 年胡の第 11回
目
名曲オーケストラや 1941 年 6 月の歌
への出演などに 代表される声楽隊本来のコーラス
活動
5 、 東宝声楽隊独自の 研究会活動
6 、 1941 年 4 月の「アリランと 佐渡民謡」などに 代表される東京中央放送局
からの海外放送
以下、 簡単に解説しておこ
つ。
そもそも声楽隊が 舞踊隊の姉妹団体として 組織されるに 至ったのは、 郷土 舞
踊や民族舞踊を 積極的に取り 入れていた東宝舞踊 隊が 、 それらの背景となる 民
謡を歌う合唱団を 必要としたためであ
(l5)。 その意味で 1 の東宝舞踊 隊 との
る
共演は声楽隊の 出発点であ ったと言えよう。
東宝舞踊 隊 および 2 の東宝国民 劇 、 3 の 李 香 苗 公演の持つ意味については 別
稿 において論じたので 本稿では触れないが、 1940 年に始まる新体制の 文化政策
への東宝サイドの 積極的な取組を 示す好例として、 これらの公演の 持っ意味は
大きい d6) 。 さらに、 呂が端役ながら 新体制下の最前線の 文化活動に参加して
いたことは、
戦後の台湾文化 協進 会における文化活動との 関連を考える 上で見
逃すことのできないものであ る。 特に自称 君 のみならず台湾文化 協進 合音楽部
門主任委員を 務めた呂衆生もまた 東宝声楽隊に 属していただけに、 彼らの「東
宝経験」が如何に 台湾へ引き継がれていったか、
改めて論じる 必要があ るだ る
さて、 上記の 1 、 2 、 3 の公演が比較的演劇的要素が 強いのに対し、
6 はプロの声楽家集団としての
4 、 5 、
性格を全面に 打ち出した音楽活動であ ると言え
よう。 特に 194V 年 6 月の歌劇「夜明け」への 出演は注目に 値する。
歌劇「夜明け」は 山田耕作が紀元二千六百年奉祝歌劇として
あ
る。 初演は 1940 年 11月 28 日から 12月
一
1
作曲したもので
日の四日間、 東京宝塚劇場で 行われた。
120
一
この時は東宝声楽隊はまだ
結成されておらず、
フォニック合唱団が 合唱を担当した。 6
ヴォーカルフォア 合唱団とュ一
月 26 日から
28 日の再演に際しては、 ュ
一 フォニック・コーラスと 東宝声楽隊がそれに 代わった (l7ゎ
参加し、 山田耕作の面識を 得、
名乗りを挙げた、 という図は呂 赫若研
呂赫君 が東宝声楽隊の 一員として「夜明け」に
ことによっては 磯江 清を挟んで孫弟子の
究 者をひどく興奮させるものであ
るが、 実は残俳なことに、
に出演していない (l8)。 前述の呂長生書簡によれ ば 、
日本人は「夜明け」
「夜明け」への 出演に関
しては声楽隊内部で 選考があ り、 日航 君 はそれに漏れたとのことであ
しかし、 たとえ「夜明け」への 出演がかなれなかったとしても、
もあ
り、
る。
磯 江の関係
呂にとって山田は 無視できない 存在であ ったはずであ る。 山田が提唱
していた「国民音楽」という 問題を 、 呂は如何に理解していたのだろうか。
前
述の台湾文化 協 退会の音楽活動は、 1940 年代の日本の 音楽活動をモデルとして
い
る節があ るだけに、 興味深い点であ る。 この点に関しては 今後さらに巨泉 生
と
連絡を取り合うことで、
より詳しい事情が 明らかになってくることであ ろう。
「東宝経験」と 併せ 、 稿を改めて論じたい。
おわりに
以上、
異称若の音楽活動を
きた。 依然不明な点は 多く、
台中師範、 東宝声楽隊との
今後いっそ
う
関係を中心に 考察して
の資料の発掘、 および関係者からの
聞き取り調査が 必要とされることは 言うまでもない。
しかし、 呂は東宝を通して 1940 年代の日本の 演劇・音楽活動と 深く関係して
いただけに、 彼の軌跡を迫
ぅ
ことが当時の 文化活動の実態解明に 繋がる可能性
もあ る。 そこが日航 若 という作家の 持っおもしろさでもあ
るわけだが、 特に戦
後の台湾文化 協 退会における 文化活動との 関連は、 日本・台湾のポスト・コロ
二 アリズムを考察する 上での重要な 切り口となるであ ろう。
今後は呂の帰国後の 活動を中心に、 上記の問題を 考察していく 予定であ る。
一
121
一
註
1. 年譜に関しては
F
7 台湾作家全集
日航 若 小説全集 J
日航若菜』
(聯合文学、
( 前衛出版社、
1995年 ) 、 施議琳他
十県文学発展更田野調査報告書』
1991年 ) 、
「日柄 若 小伝」
( 台中県立文化中心、
ぽ合
1993 年 ) を参考と
した。 以下、 特に断りのない 限り、 年譜に関する 記述は上記の 文献を参考
としたものであ る。
Z.
F 台湾文学』創刊号、
3. 陳 惇氏
4,
F
丁
1941年 5 月、 109頁
台中幕音楽発展 史 山台中県立文化中心、 1989 年、 46 頁
台湾作家全集
を 掲載している。
日航若葉』
『日航 若 小説全集』
lL
註 l) ともにこの写真
なお台中師範出身者の 証言については 拙稿「 呂赫 右下台
湾の女佳山をめぐる
諸問題」
F 横浜国立大学留学生センタ
一紀要
団
4 号、
1997 年 3 月、 を参照のこと。
5. 垂水千恵「
6.
呂 林君『台湾の
女性
山
をめぐる諸問題」
『台中師範学校同窓会名簿山台中師範学校同窓会、
に関する問い 合わせにはご 遺族
( 池井幹子
(註
4)
1984 年。 なお 磯江清氏
様 、 磯 江浩様 ) 、 台中師範学校
関係者の方々の 協力を い ただいた。
7.
『山田耕作年譜』日本近代音楽館、 1996 年
8. 長坂の在籍についても
ァ
東京音楽学校一覧
コ
1910年度版、 を参照した。
お 、 調査の過程で 音楽研究センタ 一の橋本久美子氏から、
9
な
ご 助言をいただ
いた。
え公演プロバラムが 残存していたとしても、 東宝声楽隊の 個々の隊員
た
と
名
が掲載されている 可能性は低い。 というのも、 東宝声楽隊およびその 母
体であ る日劇ダンシングチームを 作った 秦 畳音には、 「集団そのものが ス
タ
一であ る」という考えがあ ったからであ る。
秦は
F 劇場二十年
Jl
( 朝日新聞社、
1955 年 ) の中で日劇ダンシングチーム
は ニューヨークの「ラジオ・シティ・ミュージックホール」のステージ・
ショウを手本として 作ったものだと 回想すると同時に、 そのステージ・ シ
ョウ について次のように 述べている。
一- 122
一一
このミュージックホールのステージ・ショウこそ、
が生んだ、
全く新しい芸術であ る。
このロケットには、
いない。 個人のスタブは 現れないが、
の 精神は、
第一次大戦後に 米国
一人のスタブも
二十余年後まで、 一貫して守られているから、
ホールのプロバラムには、
っていない。
ロケット組もバレ
( n 劇場二十年
コ
る。
集団そのものがスタブであ
こ
ミュージック
一組も、 一人の名双すら
載
、 58頁 )
おそらく秦はこうした「ラジオ・シティ・ミュージックホール」のステー
、、ジ 、ンョウ の精神に習い、 東宝声楽隊の 個々の隊員名をプロバラム 等に意
図 的に掲載しなかった
10.
可能性が高いのではないだろうか。
呂泉 生民以外にも 周遊 覧 女史 ( 武蔵 野音楽学校卒 )
、
陳暖 玉女史
( 東洋 昔
楽 学校卒 ) に、 書簡、 インタビュ一等でご 協力いただいた。
1
l
これは 1939 年 3
コポー
月
21 日に封切られたゲーリー・クーパー 主演の映画「マル
ロの冒険」に 付随して行われた 日劇ステージ・ショウ「東洋の
一夜」
のことを指すものと
思われる。
1939年 3
都 新聞』朝刊 5 面の「演芸 欄 」には「東洋の 一夜」の
月 22 日の『
配役 表 が掲載されている。
と 誤記 )
り、
それに拠れば、
作 ・演出は伊藤祐司
るが、
( 呂は祐 次
、 振り付けはテイコ・イトウであ る。 なお将軍は菅井となって
呂の名はその
に関する短い 劇評
と
呂の言う演劇新聞については 未見であ
他の役にもない。 しかし、 28日の同 欄 には「東洋の
「お」の一字署名 ) があ
(
り、 そこには「歌手で
お」
一夜
新人目
青ふ人が出てみたが、 彼の声の質はい、。 」という記載があ る。 菅井 と
ダブル・キャストだったのだろうか。
12. 大森八二「 歌ふ 東宝声楽隊」
れば、 男声歌手の
があ り、
1
( 『東宝』
86号、 1941年 3 月、 112頁 )
次審査は 1940 年 12月 30 日、 翌年の
1 月 7
に拠
日に二次審査
18名が合格。 その後 22 日に二次募集の 再審査を行い、 7 名が合格。
それに秋の臨時募集の 入社者 2 名
(
佐藤雄二郎、
津田雄姉
)
を加え、 合計
27 名。 それに女声歌手 10名を加え、 37 名でスタートしたようであ る。
13.
f 東宝
10年央
コ
株式会社東京宝塚劇場、 1943年、 13 一 21頁
14. 1940 年 10月 28 日 分 (
F 東宝』
84 号、 1941年 1 月、 73 頁 ) から 1941年 9
一
123
一
月
17
自分
( n 東宝』
93 号、 1941 年 10 月、 131 頁 ) までの「東宝舞踊 隊 日誌」お
よび「 歌ふ 東宝声楽隊」
(
(註
12) 、
「東宝舞踊隊の 歴史
(一 )
(二 )
」
93 号、 1941 年 10 月、 132 頁Ⅰ『東宝』 95 号、 1941 年 12 月、 109
ぽ東宝』
頁 ) 等を参照した。
15. 註 14 に同じ。
16. 垂水干 恵
「
17.
F 音楽新潮
18.
「
呂と
呂と
呼ばれた
男」
Ⅱ中国 2Ud
Jl 1940 年 12月、 95 頁 /1941 年
呼ばれた
明しておらず、
男」
(註
第 2 号、 1997 年 12 月
7 月、
( 刊行予定 )
100 頁
16) 執筆の段階では 日航若の選考落ちの 事実が判
「夜明け」の 舞台に立った、 という記載があ るが、 ここで
訂正しておく。
一-
124
一
Fly UP