...

能 「葵上」について

by user

on
Category: Documents
57

views

Report

Comments

Transcript

能 「葵上」について
能 「葵上」について
源氏物語を題材とした見どころ聞きどころの多い人気曲です。前半は動きが少なく、謡によって物語が進行します。し
かしただ静かなだけではなく、嫉妬の怒りをプライドで辛うじて抑えている状態で、時折鋭い光を発します。それが枕ノ
段で一気に爆発し、葵上に襲い掛かります。後半祈祷に現われた横川の小聖(よかわのこひじり)に鬼の姿となって襲
い掛かる場面は、橋掛りまでをフルに使い見どころではないかと思います。
ちなみに現在の演出では、シテはただ歩いて出てくるだけですが、かつては詞章のとおり破れ車(荒れてしまった牛
車)に乗り、青女房とともに登場していたようです。現在でもほとんど見えない部分ですが、名残が残っています。
なお上演時間は70分ほどの予定です。
○舞台展開
後見、葵上に見立てた装束を正先に出す→ツレ照日の巫女ワキ座に着座→ワキツレ朱雀院の臣下登場し、照日の巫女
に梓の弓を引かせる→囃子一声により、前シテ六条御息所の生霊が現われ、身の上を嘆く→嫉妬の怒りを抑えきれず葵
上に襲い掛かり(枕ノ段)、破れ車に乗せて連れ去ろうとし姿を消す(中入)→ワキツレ、アイ家人を呼び、ワキ横川の小聖
を呼びに行かせる→ワキ登場、祈祷を始める→後シテ六条後息所、恐ろしい鬼の姿となり、ワキと対峙(祈リ)→なおも小
聖に抗うが、やがて法華経に心を和らげ成仏する(キリ)
「葵上」(あおいのうえ)について
① 能面
前シテは泥眼(でいがん)、後シテは般若(はんにゃ)を掛けます(能面はかぶるといわず、掛けるまたはつけるといい
ます)。
泥眼は、目に金泥を施したことに由来する女性の面です。目に金が入ると人間離れした者を表し、神を表す小飛出、
大飛出といった面は大きく金環が嵌めれています。そのほか泥眼の特徴としては、髪の乱れが見られ、他の女面と異な
り何か恐ろしい言葉を発しようとする口元が挙げられます。夫の浮気に怒り百度参りをする「鉄輪」の前シテや、竜女とな
って現われる「海人」の後シテにも用いられます。
般若は、非常に知られた面で、テレビゲームのドラゴンクエストにまで出たほどです(ゲームと違って呪いはかけられ
てませんが)。名前の由来は般若坊という人が作ったことに由来し、細かくは赤般若、白般若と分類されます(更に黒般
若という分類もあるそうです)。赤般若は「黒塚」「紅葉狩」といった所謂鬼に、白般若は本曲専用面といってよく、その名
の通り色が白く、高貴な女性の面影を残します。ただし赤般若を本曲に用いることもあります。どちらにするかは当日ま
でじっくり考えたいと思います。
② 装束
前シテは壷折腰巻姿といい、旅姿のような出で立ちです。この姿は非常にお腹周りが苦しく、座って長い謡を謡う場
面は相当しんどいそうです。また、ブラウス的に下に着込む箔や、頭部にあるリボン状の鬘帯、胴を締める腰帯には三
角形の模様が施されていますが、これは鱗紋様といい、鬼女の姿となる曲には必ずこの模様があります。なお、前半の
最後に装束をばっと脱ぐシーンがあります。能は装束を全て着けたリハーサルというのは行いません。充分にイメージト
レーニングをして臨みますが、上手くいくかどうかは…当日ご注目ください。
後シテは装束は前シテの装束を一枚脱ぎ、能面を掛け変えただけです。細かい点をいえば、鬘という髪の部分にほ
んの少しだけ変化があります。当日見つけてみてください。
手に持つ小道具として前半は扇、後半は打杖を持ち、終わり際にまた扇に持ち替えます。扇は丸尽しといわれる模
様が描かれ、金春流では鬼の持つ扇とされています。打杖は 70cmほどの棒に綺麗な布が張られ、先端とその手前に
飾りのようなものがついています。これも鬼が持つ道具ですが、何がもとになっているのかははっきりわかりません。
③謡
この曲のシテが謡う部分は、数ある能の曲の中でも技術的に1、2を争う難しいものとされています。謡い方には音階
のある和吟(わぎん)と、ない強吟(ごうぎん)がありますが、理性と感情のせめぎ合いで吟が変化し、これが非常に難し
いです。またこの部分の長い謡は謡っていると本当に倒れそうなくらいに辛く、謡曲作者が御息所の心の辛さを思い知
らせるようにわざとそうしたように思えてなりません。
謡はすべて古語である上、独特の節回しで謡うため一度耳で聞いただけで意味を理解するというのは至難の業で
す。全詞章を添付してみましたのでご参照いただければと思います。なおこれに関してひとつお願いが。出来ましたら
「葵上」をご覧になる上でのポイント
先に目を通しておいていただいて上演中は確認程度にしていただければと思います。
ご覧になった方から謡の意味がよくわからないと言われることがしばしばあります。確かに詞章をご覧いただくと、序
詞・掛詞といった古典の授業で習った技法が多く含まれ難解な部分が多いかと思います。しかし能のストーリーというの
は至極簡単で、筋の展開を楽しむというより、動き、音、間といった僅かなものの積み重ねを流れとして体感していただ
けることが、能を「楽しむ」近道なのではないかと私は思っています。能にはここは必ずこう意味するとか、こう感じなくて
はいけない、というような制約は全くありません。例えば絵画を見るように、ご自身の感覚を目一杯に開いてご覧いただ
いて、終わったあとに何かが心に残りましたら、演者としては嬉しい限りです。
④ 所作
前半の最初は動きがほとんどありません。退屈に思えるかもしれませんが、聞きどころですので謡にお耳を傾けてい
ただければと思います。途中何度か左手の指先を伸ばし、額のそばへ持ってくる動作があります。これをシオリといい、
泣くことを表す所作です。
前半の山場、枕ノ段では一転して激しい動きになります。ただそのなかでもやはりどこか高貴さがなければならず、演
じるのに苦労する箇所でもあります。そして葵上を連れ去ろうとする場面では着ていた装束を脱ぎ被く動作があります。
これもなかなか難しい箇所です。
後半は調伏しようとするワキとの一騎打ちになります。説明抜きで楽しんでいただけるかと思います。一番最後に扇を
持った手を 2 回ほど回す型がありますが、これをユウケンといい、嬉しいときなど感情が昂ぶったときに多く見られる型
です(例外もあります)。
⑤ 囃子
能の囃子は笛・小鼓・大鼓3つの楽器が必ず入り、太鼓が入ることもあります。本曲では太鼓が入り、後半の戦いの場面
では大活躍します。
謡と囃子は一見するとそれぞれ勝手にやっているように見えるかもしれませんが、実は拍数などがかなりキッチリ決まっ
ていて、ヨーとかホーといった掛け声は音楽的な要素以外にその拍数をお互いに確認し合うためでもあるのです。その
中でさながらジャズのように、それぞれが自分の主張を出しつつ、また相手の想いを感じながら舞台は出来上がっていき
ます。
ツレが祈祷を行う際に、大鼓、小鼓が規則的な手を演奏します。これを梓(アズサ)といいます。また後半ワキが加持す
るときには祝詞(ノット)演奏されます。実は小鼓の手組はほとんど同じなのでですが、テンポや掛声の掛け方でだいぶ違
う印象に聞こえるかと思います。
その後シテは最初一声(いっせい)という囃子でゆっくりと登場し、橋掛りで少し謡ったあと次第という囃子で舞台に入り
ます。多くの場合、次第か一声かどちらかになりますが、このように両方演奏されるのは極めて珍しい例です。
後半戦いの際に演奏されるのが祈リで、非常にメリハリの有る激しい演奏となります。祈リは本曲のほか「黒塚」「道成
寺」でも演奏されますが、3曲中最もゆったりしたテンポになります。
⑥ 葵上役は?
番組をご覧いただくと、曲名にありながら葵上役の人物が記載されていません。実は人間が演じるのではなく、舞台正
面に置かれた着物がその役を担います。これを出し小袖といい、病床に伏しているという格好です。地謡・囃子方が着座
すると、後見が幕から折りたたんだ着物を持って、舞台上で開きます。たたみ方、広げ方にも決まりがあって、私もさせて
いただいたことがありますが、シーンとしたなか、お客さまの視線を一身に浴び手際よくかつ何気なく行うのはなかなか難
しいことなのです。
* * *
難曲です。技術的にも体力的にもしっかりした状態で臨まなければ、おとなしいだけか、なんだかごちゃっとしただけ
のものに終わってしまいます。高貴さを保ちつつ、生霊となって現われるほどの凄まじい怨みを感じさせなくてはならない
という難題に、稽古のなかでもがき苦しんでいる日々を送っています。
能楽師の登竜門である「道成寺」という曲がありますが、金春流では特に決まりはないものの、先輩方を見ていると、必
ず「葵上」を舞ってからという順序になっています。来年秋に同じように「邯鄲」も舞わせていただく予定です。まだ「道成
寺」は全くの白紙ですが、いつでも出来る準備はしておきたいと思っています。そのためにも今回は自分の今までの力を
全てぶつけた舞台にしたいと思っています。
シテ方金春流能楽師
中村 昌弘
Fly UP