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30 年を超える兵庫県市島町の有機農業運動の変遷と 有機を志す新規

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30 年を超える兵庫県市島町の有機農業運動の変遷と 有機を志す新規
30 年を超える兵庫県市島町の有機農業運動の変遷と
有機を志す新規就農者が市島を選ぶわけ
池上 甲一(近畿大学農学部)
1.はじめに:
本報告の課題は、次の2点である。ひとつめは、日本における初期の有機農業がどのよ
うな特質を持っていたのかを再確認するとともに、提携型の有機農業が内包していた基本
的問題は何だったのかについても考察することである。提携(”Teikei“)は CSA や AMAP
の源流ともいわれているが、本家筋の提携は今や沈滞していると評価されることが多い。
しかし、提携の意義が失われたわけではない。そこで、いま一度原点に立ち返ることで、
新しい可能性への道筋を探してみたいというのがひとつめの目的の趣旨である。
もうひとつの課題は、有機農業への I ターン新規参入を促すための条件を検討することで
ある。そのために、兵庫県市島町(2004 年に市島町を含む氷上郡内 6 町が合併して丹波市
となっている)
の I ターン有機農業者 2 名に対する聞き取り調査の結果を利用する。市島は、
組織的な提携をもっとも早くに始めたパイオニアである。生産者の組織である市島町有機
農業研究会には、地付きの農家以外にも、I ターン有機農業者がメンバーとして加わってい
た。現在もほかの地区と比べて、比較的多数の I ターン有機農業者が存在する。その理由を
考察することで、I ターンの新規参入促進条件を明らかにしたい。ただし現段階では十分な
調査ができておらず、本報告はあくまでも中間報告として位置づけられる。
2.日本における有機農業運動の誕生
日本における有機農業運動の展開過程は、大きく 4 段階に分けることができる。すなわ
ち、有機農業の草創期である 1970 年代から 80 年代初めの第 1 期、有機農産物流通が多様
化してくる 1980 年代半ばから 1992 年の表示ガイドライン制度の導入に至る第 2 期、ガイ
ドライン制度の下で有機農産物が市場でもそれなりの地位を獲得する 90 年代の第 3 期、有
機農産物の表示と認証がさらに精緻化され厳格化されていく 2000 年代の第 4 期、の 4 つで
ある。以下では、有機農業研究の中で軽視されたり、忘れられたりしてきたと、報告者が
考えている点をいくつか指摘しておきたい。
第 1 の点は、日本における有機農業運動を生み出した推進力に関する問題である。日本
では有機農業の歴史を語るとき、1971 年の日本有機農業研究会の結成から論を起こすこと
が多い。だが言うまでもなく、この研究会ができるにはそれだけの前史的な取り組みが蓄
積されていたはずである。それらの動きは、食品の安全性を求める消費者運動だけでなく、
農法の問い直しを行う農民運動や農民たちの健康を向上させようという農村医学運動など
も含めて実に広範囲にわたっていた。そのことは、協同組合主義者の一楽照雄、自然農法
実践家の福岡正信、農村医学を主導した若月俊一、農薬害に立ち向かった医師の梁瀬義亮
1
など多彩な顔ぶれが日本有機農業研究会に集まったことにもっともよく示されている。
ここで強調しておきたいことは、近代農法が農民の健康に及ぼす悪影響に対する医者や
研究者の危機感が有機農業を生み出すうえで非常に重要な役割を果たしたということであ
る。全体としてみれば、日本における有機農業の展開が食品の安全性を求める消費者運動
にリードされていった側面は否めないにしても、農薬中毒事故の体験や目撃がきっかけと
なって始まった農法転換の必要性に対する農民自身の自覚や、医者・研究者の鋭い危機意
識が初期の有機農業運動を性格づけていたことは間違いない。このことが、有機農業研究
でいつの間にか抜け落ちてきた第 2 の点である。
第 1 と第 2 の点は要するに、消費者運動、農法転換、農村医学という 3 つの側面の合力
として捉えることができる有機農業誕生のモメンタムをその後の展開の中で、単純化させ
てきたのではないかということである。そのことは図 1 に示すように、この 3 側面の合力
という理解が次第に薄まり、逆に高付加価値の有機農産物という商品的性格あるいは低負
荷という環境的性格に収れんされていく過程として捉えることができる。
初期の有機農業運動
現在の有機農業
現在の有機農業
図1 有機農業運動におけるモメンタムの変化
3.提携の理念型とそこに潜んでいた基本的課題
日本における有機農業のパイオニア地域は、おおむね提携と呼ばれる形態を採用してき
た。その内容は図 2 のように、生産、消費、両者の協同という 3 つの側面を持っていた。
以下、少しだけ詳しく述べてみたい。
①有機農業者は決められた配達日に、自分たちのグループの生産物を集荷し、自ら消費
者グループの配送先に届ける。配送先は個人の家の庭先やガレージで、固定されている場
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合もあれば当番制で交代することもある。集荷と配送は、生産者の負担となる。
②消費者は、決められた配送日・時間に配送先へ集まり、そこで生産物を小分けして自
分の家へ持ち帰る。このときに一度に決済をしてしまう場合と、記録だけ取って月に 1 回
程度まとめて決済する場合とがある。分荷と会計計算は消費者の負担となる。
③価格については平均的な市場価格を参考にしながら、有機農業者の再生産費用をカバ
ーできるように協議して決める方式が採用されていた。この価格決めは有機農業者の生活
を支えるという視点に基づいていた。そのため、生産されたものはすべて買うという全量
購入の原則が取り入れられ、またあわせて有機農業者が経営計画を立てやすいように固定
価格制を取り入れ、実情に応じて数年に一度くらいの頻度で価格水準を見直すという方法
が多かった。
図2
提携の基本的な諸側面
④有機農産物の生産は、非常に多くの品目を少しずつ作付けするという方法で行われた。
この多品目少量生産という方法は、消費者の希望にこたえるためにも、また虫や病気の被
害を最小化するためにも、欠くことができないものだった。つまり、多品目少量生産は需
要への対応と栽培技術上の必要性という 2 つの側面を持っていたのである。
⑤消費者が有機農業者のところへ実際に出向き、一緒に農作業をする援農が称揚された。
むろん実際に消費者のできる農作業は限られているので、援農自身はイベント的な性格を
帯びることになった。有機農業者は農業生産の実情を消費者に感じてもらうことができる
という期待から援農を受け入れてきたし、消費者は援農を農業生産にかかわろうとする自
らの「姿勢」を伝える手段として位置づけたのである。つまり、援農は労力の補給よりも、
消費者と有機農業者との相互理解を高めることに力点があったとみる方がよい。
⑥台風や冷害などによる有機農業者の被害を補填するために、消費者と有機農業者がそ
れぞれ資金を出し合って、災害対策基金を積み立てることもあった。経常的に基金を積み
立てるまでの対応が可能となったのは、援農や交流会などの場を通じて、消費者と有機農
業者が直接顔を突き合わせ、親密な付き合い関係を形成してきたからだと考えられる。
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以上で述べたような基本型は、1978 年に日本有機農業研究会が取りまとめた「提携の 10
カ条」に盛り込まれていく。この 10 カ条は、消費者の責任、生産者の責任、相互の絶えざ
る働きかけ、すなわち消費者と生産者の関係性をめぐる基本的な倫理を示したものだとい
える1。もちろん、10 カ条を実態として成立させることはかなりの困難を伴う。そうである
からこそ、10 カ条は絶えず自らの生産のあり方、消費のあり方、あるいは生き方や社会の
あり方を捉え治すための規範基準として作用した。
だが、このような積極的な意義を持つ提携型有機農業は、1980 年代初めごろにピークを
迎えた後、提携グループの消費者メンバーの減少やメンバーの世代交代の遅れ、購入金額
の減少といったかたちで停滞・後退期を迎える。そのことは、以下のような提携そのもの
に内在する基本的な課題と社会経済的条件の変化に対する適応能力の弱さとに由来すると
考えられる。
第 1 に、提携におけるパワー・ポリティクスの存在を軽視してきた。日本の提携は消費
者の働きかけで始まり、広がっていったという理解が定説化している。確かに初期の段階
では、消費者が農家に頼み込んで有機農産物を提供してもらったという経緯がある。だか
ら、消費者の側には一種の負い目があったし、逆に有機農業者の側には頼まれて作ってあ
げているという意識がついて回るきらいがあった。とくに全量買い取りの原則は、有機農
業者の優位性を表現するものだったといってよい。それなのに、平等互恵という理念が現
実に存在する力関係を覆い隠してしまった。そのために、有機農産物流通の多様化に伴っ
て、消費者の選択肢が広がり、消費者と有機農業者の間の力関係が変化していることへの
感度が鈍ってしまった。
第 2 に、1 番目の課題と関連して、消費者に提供される有機農産物の過剰と不足を調整す
る仕組みの必要性が強く意識されてこなかった。いくら少量多品目の栽培とはいえ、季節
的な過不足は避けられず、夏にはナスやシシトウばかりが、冬にはダイコンやハクサイば
かりが大量に届くことも珍しくなかったし、反対にほとんど何も届かないということもあ
った。これに起因する消費者の不満がだんだんと蓄積していった。この問題は有機農業に
おける計画生産の現実的な難しさだけでなく、過不足の調整策として考えられる広範囲の
グループ間連携の難しさをも示唆していた。提携はおおよそ、1 つの消費者集団と 1 つの有
機農業実践者集団の関係を想定しており、1対多数とか多数対多数とかいう関係を明確に
視野に入れていなかった。このことは、それぞれの提携グループが独自性にこだわる傾向
を持っていることとも関連している。
第 3 に、有機農業は消費者の呼びかけにこたえるものだという受け身的な捉え方が一般
化しすぎた。このような認識はたやすく、有機農産物とは需要にけん引される高付加価値
商品だという理解につながる。高価格で取り引きされる理由は、有機農産物の「安全性」
にある。とすれば「安全性」は、食が本来備えているべき基本的属性ではなく、経済的評
この点については、報告者の論文が収録されているフランス語の本が間もなく刊行される
予定である。
1
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価の対象に転換してしまう。また、有機農業が地力の向上・充実と農作物・家畜の生命力
強化を目指す持続的な農法であり、同時にそのような農法転換が農民自身や家族の健康を
向上させるという積極的な意味を見失ってしまう。
4.兵庫県市島町に新規参入した有機農業者たちの現在
市島では、1975 年に「市島町有機農業研究会」が結成された。その直接のきっかけは、
「兵庫県有機農業研究会」
(73 年 11 月に発足)が 75 年の 2 月に市島で地域集会を開き、こ
の集会に参加した消費者グループの「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」2(74 年
4 月に発足。以下、「求める会」
)が提携のパートナーとして組織化を要請したことにある。
そのメンバーとなった農民たちは、研究会の結成に先だってすでに有機農業を始めていた。
というのは、「大量生産され、市場で商品化された農産物ではなく、食べ物としての生産へ
の転換が必要だ」という愛農会の近藤正氏の呼び掛けに賛同したからであり、さらに同研
究会の初代代表となった一色作朗氏が経験した農薬中毒に示されるように、その危険性に
対する認識が深まっていたからでもある3。
この間の事情が示すように、市島町有機農業研究会は、まさに提携型有機農業を生み出
した3つのモメンタム、すなわち消費者運動、農法変革運動、農民の健康確保運動(農村
医学運動)が結びついた典型例であった。だが市島の有機農業でも、日本全体の有機農業
と同様に、消費者との関係性だけが前面に打ち出されるようになり、それが有機農業のあ
り方を左右するという方向に展開してきた。現在でも市島の有機農産物は神戸を中心とす
る兵庫県内への販売にほぼ限定されているし、固定された消費者グループとの強い結びつ
きが維持されている。
しかし有機農業者の数は、初期の提携をリードした第1世代の高齢化とリタイア、さら
に町内で起こったゴルフ場開発への対応に起因する同研究会の分裂によって、ピーク時の
35 人から 90 年の 27 人、2010 年現在の 5 人へと大幅に減少した。また主要な提携先であっ
た「求める会」の会員数も 300 人くらいで、1300 人を数えたピーク時に比べると大きく減
少している。
こうした数字だけ取り上げると、市島の有機農業は沈滞しているようにしか見えない。
ところが、市島全体の有機農業者は 30 人くらいで、かつてと大きく違うわけではない。し
かもその半分以上の 17 人が新規参入者で、1 つの地域にこれだけ多数の新規参入有機農業
者が集中している例は珍しい。有機農業者は市島町有機農業研究会のほか、丹波みのり会、
「有機の里」協議会、「有機農業による生産物をひろめる会」出荷者、有機米部会などのグ
ループに分かれて活動している。このうち、有機米部会を除く 4 グループにはそれぞれ I
ターンの新規参入就農者がいる。これらのグループはグループとして統一的な活動を行っ
「求める会」を組織したのは、神戸学生青年センターの「食品公害セミナー」
(73 年から)
で学んだ女性たちだった(朴 淳用、2002、146 頁~147 頁)。
3 橋本慎司、2009。
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ているわけではなく、出荷先による区分といった方がよいかもしれない。基本的には、い
ずれも個人で生産し、提携と提携以外の販売ルートを開拓している。
ここで、聞き取りをすることができた新規参入有機農業者 2 人の参入経路と基本的な考
え方を紹介したい。
まず、A さんは 40 歳代後半で、市島の新規参入有機農業者の草分的存在である。高校時
代はブラジルで学び、国際基督教大学在学中に福岡正信氏の思想と出会い、また卒業研究
で取り上げたマハトマ・ガンディーに傾倒し、さらにサルボダヤ運動にも関心を寄せる中
で、日本自身の農業・農村のあり方を考えなおす必要を痛感するようになった。大学卒業
後しばらく生協に勤めた後、市島に移住して有機農業を始めた。有機農業を始めた当時は
それだけで生活できず、農業以外の副業に依存していた。現在、10a の水田と 70a の畑で、
40 品目程度の野菜をローテーションさせて栽培している。また平飼いで 400 羽位の採卵鶏
を飼育している。生産物は市島町有機農業研究会に出荷し、そこから「求める会」、「グル
ープ 90」、
「生協つどいの会」の消費者に届けられる。
A さんの有機農業に関する基本的な考え方は、福岡氏やガンディー流の東洋的ホーリズム
に基づいており、この点では有機農業運動の原理原則を重視する「第 1 世代」に属してい
るといってよいが、他方で「科学する有機農業」の重要性も強調している。というのは、
2004 年に京都府丹波町で発生した鳥インフルエンザの際に、近接地域で養鶏をしていると
いうことで多大な影響を受けたからである。いくら安全だということを強調しても、そこ
に科学的データに基づく裏付けがないと消費者は納得してくれないことを痛感したという。
「経験と勘に頼る有機農業」では広がりを持たないし、消費者の支持も得にくい。東洋的
な理解で消費者を「煙に巻く」のではなく、アカデミックな農学とタイアップしたり、自
らも科学的データを蓄積したりすることが重要になっていると強調する。
その一環として、Aさんは土壌分析ソフト「ドクターソイル」を利用して、8 種類のミネ
ラルを分析し、パソコン上で処理できるようにしている。そこから、収穫量や害虫の発生
状況などとの関連性を解析することができる。こうした科学的な手法によって、理念論だ
けではなく、有機農業の技術体系を部分的でも科学的に確定していこうとしている。この
手法を市島全体に広げていけば、農業経験のない新規参入有機農業者でも有機農業の技術
を体系として理解できるし、減農薬を行っている地元の農家も数字を通じて納得し、有機
農業へと転換するかもしれない。「経験と勘に頼る有機農業」から「科学する有機農業」へ
の移行によって、有機農業者をもっと増やしたいというのが A さんの希望である。
有機農業者が増えてくると、販売の方法についても新しい仕組みが必要になる。市島で
は新規参入有機農業者が増えた結果、提携ではその生産物を吸収しきれないという事態が
生まれている。だから、販売先は個人で開拓しなければならないが、参入したばかりの有
機農業者にとっては、生産のほかに販売先の開拓まで行わなければならないというのはか
なりきつい仕事となる。
そこで、A さんは多数の生産者グループが乱立するのではなく、共同販売組合のような組
6
織化が必要だと考えている。生産者がまとまれば、ある程度の量が安定的に供給されるこ
とを求める「提携型生協」との連携を視野に入れることも可能となる。この条件が整えば、
新規参入者にとっても販売のめどが立ち、有機農業の促進条件になるのではないかという
のである。
ただ販売共同化は、配送業務の委託が拡大している現在、ただでさえ縮小している、配
送時に消費者とおしゃべりして直接意見のやり取りをする機会をさらに減らす。だから、
違う形で消費者との直接的関係を保つ努力が必要になってくる。B さんの所属する丹波みの
り会は、神戸の「愛農人」というオーガニックレストラン兼ショップに農産物を自ら運び
込み、販売も行っている。そこで得られる消費者の反応や励ましが販売ルートの開拓にと
どまらない重要性を持っている。こうしたアンテナショップ的な対応も新しい提携のパタ
ーンとして考慮する価値があるだろう。
次に、B さんの参入経路や有機農業に対する基本的な考え方について紹介しよう。B さん
は兵庫県三田市の出身で、2000 年に市島に移住して有機農業を始めた。大学卒業と同時に
有機農業に参入するつもりで兵庫県農業会議を訪ねたところ、農業会議による紹介先の兵
庫県有機農業研究会を経由して、市島町有機農業研究会の A さんのところで研修をするこ
とになった。有機農業を始めたいと考えるようになった理由は、大学時代に大阪でレスト
ランのアルバイトをしていたときに生ごみが大量に排出されることに強い危機感を抱き、
その生ごみをコンポスト化して農業に使えないかと発想したことだという。
A さんにたどりつくまでには淡路島のタマネギ農家で研修していたが、半年後に市島に移
ることにしたという。約 1 年半の研修期間中は、IFOAM の新規就農支援基金(実際は日本有
機農業研究会とポランの広場という有機農産物流通事業体の基金、及び研修受け入れ先の A
さんの謝金)からの助成金(1 か月 6 万円)と研修期間中に始めた自己経営の農産物販売で
暮らしを立てていた。市島の研修は週 3 日間で、残りは借用した農地を使って実際の栽培
と経営、及び販売先開拓に従事するという仕組みだった。
「求める会」には新しい有機農業実践者の生産物を引き取る余裕はなく、自分で販売先
を探す必要があった。B さんは実家周辺の 4 戸から始めたが、次に 10 戸へと拡大し、現在
のように B さんの個人ブランドによる野菜の「おまかせセット」の形で 50 戸ほどの提携先
(個別世帯)に販売したり、「愛農人」に持ち込んだりする形式を確立してきた。丹波みの
り会として共同出荷したこともあるが、メンバーの方針が食い違ったために、結局個人対
応に戻っている。
B さんは新規参入当時、30a の畑を借りて経営を始めたが、今は購入分や新しく借りてほ
しいという申し出で引き受けている畑を合わせて 5 箇所の圃場、合計で 70 アールほどの面
積で 40 種類から 50 種類の野菜を栽培している。野菜の「おまかせセット」には常時 8 品
目ぐらいの野菜を入れることを目標としているので、多品目栽培は必須である。価格は 1
箱 2000 円から 2500 円である。
多品目栽培は同時に、
「畑の中で小さな生態系を作る」という意図に基づいている。この
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発想は、新規就農の動機とも関連する農法の組み換えを意味しているということができる
だろう。そこからは、単に農薬や化学肥料を使わないという否定型の有機農業の理解では
なく、生態系に依存する農業という明確な意図を読み取ることができる。生態系に依存す
る農業によって、季節性を持っている「畑の風景をそのまま消費者の家庭に」届けたいと
いうのが B さんの基本的アイデアである4。このようなややロマンティックなアイデアは、
自然志向が強い「第 2 世代」の有機農業実践者の特質のように思われる。
報告者がここで注目したいことは、少量多品種栽培の持っている意味である。それは消
費者の食生活を豊かにするだけでなく、生産者にとってもかなり重要な意味を持っている
のではないか。従来も、少量多品種の栽培体系はリスク分散的で、生産の安定化に貢献す
るするといわれながらも、その農法論的検討は十分なされてこなかった。かつての有機農
業運動では、虫の捕食とか土壌生態系とかいった農法論にかかわる議論がかなり盛んに行
われたけれども、有機農業研究が有機農産物の流通に重点が移っていく中で、だんだんと
抜け落ちていってしまったように思われる。ところが、有機農業への新規参入者にとって
はその技術習得が第 1 歩である。それなのに、消費者との関係性が強調されることで技術
の問題があまり議論されなくなってしまった。ここにひとつの問題があるように思われる。
5.新規参入の促進条件と政策的な課題
A さんと B さんの経験と意見を踏まえ、市島に新規参入有機農業実践者が集まってくる
要因を以下に整理しておこう。さしあたり、重要な要因だと考えられるのは以下の通りで
ある。
①「科学する有機農業」への転換と定着が図られている。
「経験と勘に頼る」第 1 世代の
有機農業では消費者の支持を得にくいだけではなく、新規参入者にとっても「徒弟」のよ
うな研修を長年受けないと技術が身につかない。それに比べ、「科学する有機農業」で蓄積
されたデータがあれば、普遍的な判断基準となるので対応しやすいという利点がある。問
題はその先に、地域の固有性を理念ではなく数字として示し、それぞれの地域ごとに最適
な「基準」を導入するようなあたらしい認証・表示制度を提示することである。
②行政と連携を取りながら、研修を支援する制度が割合に早い時期から導入されていた。
B さんの参入経路に示されるように、就農希望者が最初に訪れる可能性の高い農業会議でも
有機農業と聞くだけで門前払いをするのではなく、キチンと兵庫県有機農業研究会につな
ぐ対応が採られている。こうした姿勢を窓口レベルで徹底している地方自治体はまだ少数
にとどまっている。現在は、有機農業推進法に基づくモデルタウン事業が市島で行われて
いることもあり、かなり恵まれた研修制度が整えられている。
③住居とほ場は、段階的な対応でないと確保できない可能性が高い。そこで、「お試し居
住」や「研修時居住」ができる安い宿泊施設が必要となる。市島では、地元農家の有機農
業推進協議会を引き継いで作られた NPO 法人「いちじま丹波太郎」がこの点で重要な役割
4
「地域が支える食と農」神戸大会実行委員会(2010)。
8
を果たしている。「いちじま丹波太郎」には安い価格で宿泊できる施設があり、B さんのと
ころで研修を受けている I ターン者もここから通っている。
「いちじま丹波太郎」はほかに
も、新規参入有機農業者にトラック便の配送などの兼業機会を提供して、初期の有機農業
では不足する収入を補完する機能も担っている。
④販売先の確保については自前で努力するしかない。ただ、市島には新規参入有機農業
実践者の先輩がたくさんいるので、いろいろと経験や情報を集めやすいし、市島という地
名が兵庫県内の消費者には「ブランド」的感覚で受け入れられているので、市島で生産さ
れた有機野菜というとそれだけで信用してもらいやすいという利点もある。また多数の仲
間が身近にいるという安心感は孤立感をなくし、何物にも変えがたい精神的支援条件とな
っている。
最後に、有機農業の推進とそのための新規参入者の確保を図る上で重要な政策的課題 2
点について簡単に言及しておきたい。
ひとつは表示と認証をめぐる問題である。日本では長らく有機農業は政策の対象ではな
かったし、最初に政策対象になったのも有機農産物の表示規制だった。その展開過程は、
有機農業運動が出発点において持っていた豊かなモメンタムを削ぎ落とすように作用した。
その過程は、まさに有機農業における「喪失の歴史」に他ならない5。表示規制は 1992 年の
「有機農産物等特別表示ガイドライン」から始まって、2000 年制定の「有機農産物に関す
る日本農林規格」(いわゆる有機 JAS)、2005 年の JAS 法改正による規格認証の厳格化とい
う過程をたどったが、それは有機農産物を一定の枠の中に押し込めるという役割を果たし
た6。そもそも、多様な条件のもとで編み出されてきた農民の工夫は単純な規格認証と表示
になじみにくいという問題もある。どうしても消費者への情報提供が必要だというのであ
れば、地域ごとの条件に応じた基準の設定が考えられるべきである。
もうひとつは、有機農業推進法の政策理念に関する問題である。同法は、日本において
有機農業がようやく政策上の推進対象となったという点で、大きな意義を持っている。だ
が、同法における有機農業の位置づけは、環境への負荷を減らす環境保全型農業であり、
安全な農産物の提供や農法の組み換え、さらに進んで流通システムや社会経済のあり方の
変更を目指すものではない。有機農業推進法は、多様な意味を持つ有機農業を実質的に、
環境保全型農業推進法に換骨奪胎してしまったといえば言い過ぎだろうか。今後は政策理
念を、その名称通りに有機農業の推進へと切り替えていくことが求められる。
参考文献
地域が支える食と農」神戸大会実行委員会『
「地域が支える食と農」 神戸大会 2010 年 2
月』報告書。
5
6
原山浩介、2008。
中島紀一、2009。
9
中島紀一、2009、「有機農業推進法制定の意義と今後への政策課題」『転換点に立つ有機農
業』(『農業と経済』臨時増刊号)
橋本慎司、2009、
「消費者と生産者がともに歩んだ、市島、有機農業 30 年の歩み」
『転換点
に立つ有機農業』(『農業と経済』臨時増刊号)
原山浩介、2008、「喪失の歴史としての有機農業―『逡巡の可能性』を考える―」、池上甲
一・岩崎正弥・原山浩介・藤原辰史『食の共同体』ナカニシヤ出版
朴淳用、2002、「提携活動の転機と課題―兵庫県有機農業研究会を事例として―」『有機農
業研究年報』Vol.2
10
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