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写真集 『成城学園初年の歩み』
交 遊 三 十 年 橋本長四郎名誉教授のこと 中 村 英 雄 写真集 ﹃成城学園70年の歩み﹄ ﹃成城学園70年の歩み﹄という銀の背文字、濃紺の布表紙に覆われ、瀟洒でがっしりしたA4判二二六ページ の写真集が手元にある。 成城学園は二九八七年に創立七十周年を迎えたが、これまでにすでに﹃成城学園五十年﹄および﹃成城学園六 十年﹄の二つの年史によって学園の詳細な歴史が明らかにされているので、今回は写真によって学園の生い立ち を記録することが企てられた。 そのための編集員会が組織され、橋本長四郎教授がその委員長に就任して、最初の会合をもったのは一九八六 年七月のことであった。翌年五月はじめの記念式典・祝賀会にはこの写真集が配布されたのだから、正味の期間 は九か月しかなかったことになる。この短時日にこれだけのものを作り上げたという事実を前にして、関係の 方々の辛労におのずと頭がさがる。 交 遊 三 十 年 − 1 − 交 遊 三 十 年 写真による七〇年史を作るにあたって、橋本委員長は次のような編集方針を示した。 I 牛込原町時代を中心に、古い時代の写真や資料を重点的に蒐集して載せる。 2 教育史的に、成城学園が公教育に果たした役割を終戦直後の時代を含めて考慮する。 3 単に昔懐かしい写真というのではなく、今日から明日への教育に役立つものにする。 この方針に基づいて、写真集は七〇年にわたる学園の足跡を通史的に概観しながらヴィジュアルに分かりやす く描きだしている。 編集方針の2に述べられている﹁成城学園が公教育に果たした役割﹂については、後に触れる﹁澤柳先生と成 城大学﹂という橋本教授の講演の中で詳細に語られている。 にする。︺ ︹これ以後は橋本教授というよそ行きの呼び方はやめにして、いつもの通り橋本さんと呼ばせていただくこと ﹃成城学園70年の歩み﹄がこれまでの二つの年史と異なるのは、︿小原国芳先生﹀と︿﹁成城﹂事件︵一九三三 年︶﹀という、学園の中で従来いささかタブー視されてきた問題がさらりと取り上げられている点である。これは おそらく橋本さんの判断によるものと推察され、この点にかれの識見と人柄を見る思いがする。かれがタブーに 挑戦するなどという身構えた姿勢ではなく、実にさりげなく良識を行動に移すことを多年の交遊を通じて再三見 てきたからである。 写真によるこの七〇年史の編集責任者として橋本さんは最適任であった。一九三二年に成城小学校に入学し、 成城高等学校尋常科を経て、四五年に高等科を卒業するまでのいわば成長期の十三年を成城学園ですごした。四 −2− 八年に東京大学理学部動物学科を卒業して再び学園に戻って中学校の教壇に立ち、五八年からは経済学部に移っ た。九一年三月に定年退職を迎えるまでの六十五年余の歳月のうち、じつに五十六年を、生徒としてあるいは教 師として成城学園とともにすごしてきたことになる。そして今も非常勤講師として教壇に立っている。 橋本さん自身、経済学部のフレレシュマン・キャンプの講演の中で、﹁成城小学校の一年生になったのが昭和 七年、それから今日まで成城で育って成城で今なお生活している珍しい人間です。前々学部長の中村英雄教授 が、父兄に私を紹介するのに、成城漬けになって成城で育つと、こんな人間になりますという見本みたいな人だ と紹介されたことがありましたけれど、成城は個性尊重でありまして、私が決して見本ではなくて、成城の卒業 生にはいろいろな人がいます。﹂と述べられたことがある。筆者の品のよくない紹介の仕方は許していただくこ とにして、﹃成城学園70年の歩み﹄の編集責任者として橋本さんが最も適任であることは、衆目の認めるところで ある。 この写真集では、個々のテーマの取り上げ方やそれらに対するスペースの配分などに、橋本さんならではの絶 妙なバランス感覚が窺われる。それだけにその作業にあたっては無意識のうちに、編集委員長の責任感というよ うなものとは別に、多年にわたって体内につちかわれてきた成城学園との一体感に促されて、精神的にも肉体的 にも無理を重ねたのではないかと推察している。 おびただしい数の写真の中で筆者の目を引いたのは、︿成城第二中学校の創設﹀のページに見られる一枚の絵 である。それには﹁子供たちに成城大学学園都市の夢を語る小原先生﹂というキャプションが付されているが、 筆者にはそこで耳を傾けている子供の一人が橋本さんであり、同時にまた語っている人も橋本さんであるように − 3 − 思えてならない。 ︿学園紛争の嵐﹀とフレツシュマン・キャンプ 写真集﹃成城学園70年の歩み﹄には︿学園紛争の嵐﹀というページがある。一本の竹竿に﹁成城大学﹂と書か れた旗と並んで﹁中核﹂と白く染めぬいた旗が結わえつけられた写真が、当時の状況をまざまざと思い出させ る。そこには次のような﹁解説﹂がついている。 一九六八年、全国的に学生運動の嵐が吹き荒れていた。一二月一八目、学生部発行の﹁学生生活﹂の編集 後記には﹁週刊文春一二月ハ日号の。おとなしい大学〃に出て来た存在価値、お読みになりましたか? さ わぎを起さず、あたりまえにやっている大学がニュース・ヴァリューを持つ、何と奇妙な現象ではなかろう か⋮⋮︱後略−﹂とある。/しかし、成城大学も絶海の孤島にあるのではなかった。・⋮⋮/当初は学費値上 げ問題であったが、⋮⋮。/その後、二九六九年一〇月一六日高垣学長が﹁臨時大学問題審議会﹂委員に就 任されたことも問題となり⋮⋮。/⋮⋮一〇月二九日には、文芸学部のストライキ宣言が出された。これに 対し文芸学部長は、これを認めず、平常通り授業を行うことを告示し、一部学生の妨害と闘いながら、授業 、が行われた。一一月ニハ目、文芸学部学生大会でストライキ解除の決議が行われているが、経済学部一部学 生の集会におけるストライキ宣言や、内ゲバ乱闘事件、ハンスト等々、成城大学にも紛争の嵐が吹き抜け た。⋮⋮しかし、砂利敷きの中庭に面したガラスばりの学生部のガラスは二枚も割られなかった。 橋本さんは一九五八年四月、筆者といっしょに成城大学経済学部専任講師になって以来、学生課長を兼務して −4− いたので、いやおうなしにこの嵐に初めから終わりまで立ち向かうことになった。それまですでに﹁六〇年安 保﹂運動の大きな波乱を乗り越えて来たが、今回の状況はそれとは異質のもので、橋本さんにとっても忘れがた い経験であったのではなかろうか。 この嵐の吹きすさぶ中、六九年一〇月に筆者ぱはからずも学生部長を命じられて、学生課長から新設されたば かりの学生部次長のポストに移った橋本さんと当面の事態の処理に当たることになった。それから筆者が退任す るまでの一年半、われわれはほとんど連日、大部分の時間をいっしょに過ごすことになった。この間に経験した いろいろの出来事の印象は強烈で今でも忘れることができない。 生まれ年が同じということもあったのか、それまでも橋本さんが学生と接する態度などについて共感すること が多かったが、学生部でいっしょに仕事をするようになってさらに多くのことを教えられた。 今から振り返ってみると、あの緊迫した雰囲気の中でも、橋本さんは平常心を持ち続けていたように思う。多 くの職員が深夜まで学生部の事務室などに居残って、あわただしい雰囲気の中で味気ない店屋物の夕食を取る 日々が続いた。そういう時に橋本さんは少量のアルコールをゆっくりと嗜み、時には手作りの肴まで用意して食 事の気分を楽しもうとしていた。意識してではなく、普段通りごくあたり前に振る舞っていたのだと思うが、あ の場の殺伐とした緊張感がそれによってどんなに和らげられたことか! 多くの人が異常を異常と感じなくなっていたあの時に、正常と異常を弁別する感覚を失わない人が身近かにい たことの大切さを今さらながら痛感している。 文芸学部、法学部および短期大学では現在も新入生にたいしてフレツシュマン・キャンプが実施されている − 5 − が、それについても橋本さんと共通の思い出がある。このフレッシュマン・キャンプの始まりについて当時経済 学部長であった松坂兵三郎教授は、﹃経済学部創立三十周年記念論文集﹄二九八〇年︶に寄稿した﹁回顧三十年﹂ という所見の中で、次のように述べている。 先の紛争で︹学友会︺経済学部︹会︺執行部はいち早くスト解除にふみ切り、その後の若干の混乱が主と して一年次クラスの分派ストによるものであったことから、⋮⋮。新入生に対し今日のフレッシュマン・ キャンプにあたるガイダンスを読売ランドで一泊二日行った。これは中村英雄学生部長の懲悪により、新経 済学部会の学生発案を先取りした形で開催したものである。⋮⋮昭和四七年度からはこのような経済学部の 試みが全学的な規模で受けいれられることになり、四月入学式後、忍野の富士急ホテルで一泊ニ日のフレッ シュマン・キャンプがもたれるようになった。 事実は松坂教授が語っている通りであったが、次の二点を付け加えたい。それは、﹁学生の発案を先取りした﹂ というよりはむしろ経済学部会執行部の学生だちと共催したという表現の方がより正確であること、また学生側 のガイダンス実施の提案にたいして、学生部内の会議で橋本さんがそれを全面的に信頼するよう強く主張したこ とである。筆者は役目柄それを経済学部長に進言したに過ぎない。こういった慌ただしい動きの中で、七〇年四 月、橋本さんは経済学部教授に昇任した。 経済学部のフレツシュマン・キ申ンプは一九八八年度で終わりになったが、その直前に橋本さんが﹁澤柳先生 と成城大学﹂という演題で新入生に講演をしたことは、この行事の発足にかかわった一人として深い感慨を覚え る。おそらく橋本さんも同じような感想をもっているのではあるまいか。その講演の内容は﹃成城教育﹄創立七 −6− ○周年記念特集号︵第五六号、一九八七年六月二〇日︶に収録されている。 成城池・花・鳥 ﹃成城だより﹄第五八号︵一九七一年六月一六日︶の一面のトベフに﹁文連クラブハウス及び道場竣工間近か﹂と いう見いだしで、橋本さんが文化部連合顧問として﹁⋮⋮学生諸君にとって〃文連クラブハウス〃は全く長いこ とみつづけてきた夢であった。永年文運顧問をしてきた私にとっても同様である。本当に夢にまで見た〃文連ク ラブハウス〃が、おかげさまで池の端旧ヘルスセンター跡に間もなく実現する。﹂と述べている。 当時文連の各部は、三号館と四号館の建築工事に使って用済みになったプレハブの建物をそのまま部室にして いた。それらはすでに老朽化が進んでいて、紛争中も事故がなければよいがと心配されたほどであった。このよ うに文連クラブハウスの建築は急を要する課題で、学生の側からいっても古い卒業生たちの頃からの見果てぬ夢 であり、学園ではようやくそのための予算を準備していた。 そこで学生部では、七〇年春ごろから橋本さんと文連担当の小西光雄氏︵経済学部卒業生、元文運総務︶が中心に なって学生に建築の促進を働きかけた。手元の﹃学生生活﹄第コ百万二九七〇年一二月二二日︶を見ると、七〇年 七月には橋本さんがこの問題について文連の学生たちと正式に話し合っている。しかしそのころ一部の学生の間 では﹁自主管理運営﹂というイデオロギーが絶対視されていて、常識的な判断はまったく通用しなかった。橋本 さんと筆者が何度も文連の会合に出席しててこずっている様子が﹃学生生活﹄の記事から読み取れる。タラブハ ウスの建築が進められている途中で筆者は学生部長を退いた。 −7− ところが成城池のほとりにクラブハウスが完成すると、﹁我々文化部連合は、あくまで自主管理運営に基づく、 学生第三案の実現を目指し、現在工事進行中の文連クラブ・ハウスを認めず、それへの移転を拒否する﹂といっ て、それまで座り込みなどで頑強に抵抗していた連中が、山田俊雄学生部長︵現学長︶の采配に従って整然と入居 した時には、その豹変ぶりに驚きもしたし安心もした。 文連顧問で同時に学生部次長でもあった橋本さんと長く行動を共にしてきた筆者は、上に掲げた﹃成城だよ り﹄の文章を読んで他人事とは思えない喜びを感じた。出来上がった文連クラブ・ハウスのたたずまいは、﹃成城 学園70年の歩み﹄の︿成城大学の建設﹀というページに示されている。 話は変るが、毎年四月のはじめ学園の各学校で入学式が続くころ、校庭を二分して流れる仙川のほとりに見事 な桜のトンネルが出現する。これは学園紛争の嵐が吹き荒れていた一九六八−六九年ごろ、当時高等学校や大学 に在学していた心ある人たちが自分の手で資金を捻出し、苗木を植え、育てたものである。若い人たちのこの仕 事を橋本さんが学生課長という職務を超えて陰に陽に支援したことは言うまでもない。 筆者はあちこちでこれを植えた卒業生たちに出会って、桜の木の消息を尋ねられ、その度に強い感動を覚え た。﹃成城学園70年の歩み﹄にこの桜のトンネルも紹介してもらいたかったと思っている。 ﹃成城学園70年の歩み﹄には︿学園の野鳥﹀というページがあって、﹁帰ってきた鳥、帰ってきてほしい鳥﹂と いサブタイトルがついている。可愛らしい小鳥たちの写真を眺め、それに添えられた優しい文章を読みながら、 いつか橋本さんが成城池を中心に野鳥のサンクチャリを作ろうと努力している人の話をしていたことを思い出し た。﹁カワセミが何十年ぶりかで成城池に戻って来てこの前の冬の三か月を過ごした。まだ定住するまでには至 − 8 − らないようだが、うれしいニュースであった。﹂というこのページの結びの言葉はそのまま橋本さんの胸の内を 語っているように思われる。 ﹁特別講義︵自然科学︶﹂ ﹁特別講義︵自然科学︶﹂という学科目が経済学部に一つ、文芸学部と法学部に共通にもう一つ、都合二こま開設 されている。これは二九七九年度から経済学部で始められた。自然科学系列の学科目を強化することは経済学部 の多年の懸案であった。この﹁特別講義﹂は鈴木尚教授が中心になって編み出したもので、一つのテーマについ て年間四人の講師が分担して講義を進めるユニークな方式で、新しい教育方法の試みとして文部省の助成の対象 にもなった。 その年度の﹃講義要項﹄には次のように記載されている。 特別講義︵自然科学︶ 鈴 木 尚 本年度は、生物学の先端的トピックスにつき学界の第一線で活躍される4人の学外研究者によって平易に 解説される。 I 卵発生 の神秘 三菱化成生命科学研究所室長 加 藤 淑 裕 2癌制圧へ の道 防衛医科大学校教授 高谷 治 3 力学的にみた人間 東 京 大 学 助 教 授 遠 藤 萬 里 4 分子レベルで見た人種 東 京 大 学 助 教 授 尾 本 恵 市 交 遊 三 十 年 −9− 開講の時に鈴木先生のお供をして、加藤博士の講義に引き込まれるように聞き入ったのはついこの間のことの ような気がする。 この錚々たる講師陣は鈴木先生と橋本さんの見事な協力によって初めて実現を見ることができた。いまも鈴 木、遠藤、尾本の諸先生をはじめ多くの講師の方々のご協力を得、杉ノ原保夫、松江広文両教授が責任者になっ て、三学部で二つの﹁特別講義﹂が引き続き開設されていることに橋本さんも満足しているだろう。 惜しんでも余りあるのは、橋本さんの大学以来の親友で、この講義の推進役であった加藤博士が一九八八年に 病没されたことである。ここで謹んでご冥福を祈り感謝を捧げることを許していただきたい。 闘病・復帰・名誉教授 ﹃成城学園70年の歩み﹄が配布されて、われわれがそれを眺めたり読んだりして楽しんでいた頃、橋本さんは この写真集を作るための無理が引き金になったかのように体調を崩し始めた。いろいろ検査を重ねた結果、左肺 に癌が発生していることが判明した。 ただちに、高等学校以来の親友で、﹁特別講義︵自然科学︶﹂で﹁癌制圧への道﹂の話をした高谷教授が病院長を 勤めていた防衛医科大学校付属病院に入院して、左肺切除の大手術を受けた。八七年暮れのことである。手術そ のものは順調にすんだが、予後は困難をきわめた。今までの半分の肺活量で日常生活をすることがどんなに難し いか、しかしそれは可能なのだということを、橋本さんはいかにも人間らしくわれわれに見せてくれた。 橋本さんは超人ではない。弱さも脆さも包み隠さずに見せる普通の人である。傍のものには理解できないいろ −10− いろの苦しみを乗り越えて、あるいは乗り越えきれずにそれと戦いながらであったかもしれないが、教壇に帰っ て来たことを本当に嬉しく思っている。 中休みを設けた独特の講義を受けた人たち、夜を徹して成城教育を語り合った人たち、桜を植えた人たち、文 運で時には逆らいながらも心服していた人たち、生物部で接した人たち、こういった多くの卒業生たちがそれぞ れに橋本さんの病気を心の底から心配し、それだけにこの復帰をどんなに喜んだことか! それを見てつくづく 橋本さんは幸せな人だと思った。 一九九一年三月、橋本さんは定年を迎えて退職した。四月には、教授として多年勤務し特に功績のあったこと が認められて、成城大学名誉教授の称号を授与された。かれの学園生活のうち三十数年を身近かで見てきた友人 としてまことに慶びにたえない。この上は、いっそう体調を整えて、創設に尽力した﹁特別講義︵自然科学︶﹂の責 任者にもう一度なられることを望んでいる。 学生部に学生相談室が設けられたことや、学園に放火事件があいついだときのことなど、共通の思い出や話題 はまだまだたくさんあるが、互いの専門分野が違い過ぎたので、﹁特別講義︵自然科学︶﹂を開設した時や、﹃経済学 部創立三十周年記念論文集﹄への寄稿論文﹁個の意識から種の意識へ⋮⋮文科系学生のための生物学的人間論﹂ ︵︼九八〇年︶に接した時ぐらいしか、橋本さんの専門が動物学であることをとくに意識しないまま過ごして来て しまった。長い間このようにわがままなつきあいを許してくださったことに心から感謝する。 学園紛争に明け暮れていたある日、橋本さんが﹁いまの僕の年で父は亡くなった﹂とぽつりともらしたことを 覚えている。また、﹁水のように飲める酒がよい酒﹂と言って特別講義の仲間だちと楽しそうに酌み交わしていた 一員− 橋本さんの姿が懐かしく思い出される。 自重自愛をかさねてぜひ父上の分まで長生きし、学園で蓄積した貴重な経験を役立てて、いつまでも進んで成 城教育に参画されることを祈るや切である。 二九九二・七・一七︶ −12−