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能郷白山の女人禁制

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能郷白山の女人禁制
068
能郷白山の女人禁制
加賀白山を開山した泰澄大師が奥美濃能郷にやってきた。村に伊弉冉尊を祀った熊野白山権現
社を建立したとき、前の山の峰続きに恰好の山があるのに気ずき、村民の協力を得てこの能郷白
山 1617m の頂上に奥宮を建立し白山の祭神を勧請した。養老2年(712)のことである。このと
き泰澄大師の母が、息子の開いた山へ登れないはずは無いと云って、土の中をすいて登った。今
頃は頂上かと土の中から出てみると、まだ半里も登っていない。口惜しがって乳を傍らの石にし
ぼりつけた。石はいまも石徹臼の白山道口にある。ほかにも女人禁制の山はあるが、女性は不浄
と考えられたのが理由らしい。能郷白山もそれが大師の母であっても許さなかったのだ。以来、
千二百余年もの間、能郷の女性でも女人禁制で登れなかったし、登ろうとする女性もいなかった。
昭和29年春、この山を登ろうと決意した勇気ある女性が出現した。岐阜みどり植物同好会の
後藤宮子さんである。能郷集落はそれを知らされると大騒ぎになった。
『女性が登ると神の怒りにふれ山が荒れる。』
『いや、いまは男女同権の新時代である。迷信にこだわる必要はない』
村の長老や若者たちは集会所に集まり、議論がくがく相談する。その結果が
『この機会に女人禁制を止めて解放する』
と決定した。彼女の父と岐阜登高会から後藤会長ほか山の猛者がサポートする。4月11日、一
行は能郷へ入った。この能郷は元は橘村と称されたが、天正元年に美濃左近太夫という
能役者が、奈良の春日大社から能面を受けて帰り、能郷と改めたといわれる。
このとき伝えられた能狂言は古代の猿楽の伝統を守っており、岐阜県の無形文化財に指定され
ている。
能郷集落はこの登山をを全面的に協力することにした。一行は旧家の羽田邸にはいった。
主の甚逸氏は前年に亡くなられたが、登山者には非常に理解がある人だった。そのご子息は
父の意志を継いで協力を申し出た。そしてガイドに後藤栄一氏を推薦した。前夜の羽田邸は大賑
わいとなる。
『これは開山以来の出来事だ。
さあ前祝いだ』
と感激、鶏をひねって飲めや
唄えやの大変な騒ぎになって
しまった。翌朝も
『浄めの盆だ』
との御神酒に一行は閉口して
出発した。道の傍らにはキケマ
ン、イチリンソウ、カタクリ、
エイザンスミレが咲く。稜線に
近づくと残雪が現れる。渾身の
【能郷白山山頂 1617m】
【山頂の奥宮】
力をしぼって奮い立つ。そして
出発してから7時間、午後1時半に山頂の社殿に額ずき、敬虔な祈りを捧げたのである。
後藤宮子さんの述懐
『…もう無我夢中でした。お社を仰いで登るとき、何か目に見えぬ糸のよう
なもので、私の身体を神様が引き上げて下さるようなものでした。
私は知らぬ間に社殿の前で手を合わせていたのです………
昭和29年4月12日、能郷白山は千二百有余年の女人禁制の幕を下ろしたのである。
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