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「愛」
Ⅰ キーワードによるキリスト教概論-8 「愛」 芦田 序 道夫 論 マ タ イ 22:34 さ て 、 パ リ サ イ 人 た ち は 、 イ エ ス が サ ド カ イ 人 た ち を 言 い こ め ら れ た と 聞 い て 、 一緒に集まった。そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして 質問した、 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなた の神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 ロ マ 5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖 霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのた めに死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであ ろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人 であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、 神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 ヨ ハ ネ 13:34 わ た し は 、 新 し い い ま し め を あ な た が た に 与 え る 、 互 に 愛 し 合 い な さ い 。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 ここに揚げたのは、共観福音書・パウロ・ヨハネにおける「愛」の表現です。 ☆共観福音書では、主イエスが旧約聖書全体の中心が「愛」であると教えられ たことを示し。 ☆ パ ウ ロ は 主 イ エ ス の 十 字 架 の 死 に よ っ て 、神 は 人 類 へ の 愛 を し め さ れ た の だ 、 と宣言しました。 ☆ヨハネは、それゆえにキリストの弟子は十字架に示された愛をもって、互い に愛し合うべきであると主は命じられたと伝えました。 よくキリスト教は「愛の宗教」であると言われます。事実、聖書には、特に新 約聖書では「愛」という言葉が多く出てきます。 口語訳 :旧約聖書 277回 新約聖書 360回 新共同訳 :旧約聖書 252回 新約聖書 354回 しかし、大切な問題は「愛」という言葉そのものではなく、それが示している 内容であると思われます。同じように日本語で「愛」と訳されていても、その内 容がまったく異なる意味をもつ場合も多いからです。新約聖書で「愛」と訳され て い る 原 語 ( ギ リ シ ャ 語 ) は よ く 知 ら れ て い る よ う に 、「 ア ガ ペ ー 」 と い う 語 が 圧倒的に多いのですが、その他の原語が使われていないわけではありません。 また旧約聖書では「愛」の使用頻度からもわかるように、頁数では新約聖書の 三倍ほどある旧約聖書の方が少ないのですが、これをもって旧約聖書では「愛」 への関心が低いとはかならずしも言えないのです。それは別の訳語が使われてい る と い う こ と も あ り ま す が 、そ れ 以 上 に「 愛 」と い う こ と が 単 語 と し て で は な く 、 「行為」としてあらわれていると考えられるからです。その意味では「愛」とい -1- う言葉によって表現されるようになった、新約聖書の背景をなす旧約聖書におけ る神の「行為」としての「愛」の深さを知ることも重要です。 1.新約聖書における「愛」 (1)用語 ≪アガペー≫と≪フィリア≫ 「 愛 す る 」 ア ガ パ オ ー ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 4 3 回 ( 動 詞 ) 「愛」 ア ガ ペ ー ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 1 6 回 ( 名 詞 ) 「 愛 す る 」 ア ガ ペ ー ト ス ・ ・ ・ ・ 61回(形容詞他) 「 我 が 愛 す る 子 」 旧 約 聖 書 の ギ リ シ ャ 語 訳 で あ る LXX ( 七 十 人 訳 ) で は 主 と し て 無 条 件 的 愛 を hb'h]a; 表す アハバーの訳語として使われています。しかし古典ギリシャ語では 普 通 、性 的 愛 情 ま た は 聖 な る も の へ の 憧 憬 を あ ら わ す ερωσ エ ロ ス や 、兄 弟 愛 、 友 愛 、 人 類 愛 な ど を 表 す フ ィ レ オ ー 「 愛 す る 」 と そ の 派 生 語 が 用 い ら れ 、 アガペーは「気に入る、満足する」というような意味で、ごくまれに使われただ け で し た 。( 新 約 聖 書 に は エ ロ ス や エ ラ オ ー は 使 わ れ て い ま せ ん ) 新約聖書でもフィレオーの派生語は10種類以上、回数で70回以上使われてい ますから、この時代も一般的にはフィレオー系列の語が愛を表す最も普通の語で あったことがわかります。 初代のクリスチャンたちは、ギリシャ的なさまざまな意味合いをもって使われ てきたエロスやフィレオーという語に代えて、語の持つ意味としてはほとんど無 色 透 明 な 、 そ し て LXX で ア ハ バ ー の 訳 語 と し て 使 わ れ た だ け の 「 ア ガ ペ ー 」 を 、 クリスチャンの神-人、人-神、人-人関係の「キリスト教的愛」を表す語とし て使ったのです。その使い方から、ある辞書では「エロスは満足を求める愛であ り 、 ア ガ ペ ー は 相 手 を 区 別 し 、 選 び 、 保 と う と す る 愛 で あ る 」( TDNT ) と 言 っ て います。 もっとも一般的な愛を示す語フィレオーの主な系列語 フィレオー 愛する フィラガソス 善への愛 フィラデルフィア 兄弟愛 フィランスローピア 人類愛 フィラルグピア金銭愛 フィラウトス 自己愛 φιλια フィリア 愛 (2)主イエスの愛への要求 主 イ エ ス は 愛 を 観 念 で は な く 、「 意 志 と 行 動 」 と 見 ら れ ま し た 。 マタイ7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、 人々にもそのとおりにせよ。 旧約聖書の中心思想である神への愛と隣人への愛の問答のとき、主イエスは、 「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られ る 」、ま た よ き サ マ リ ヤ 人 の た と え の 後 で「 あ な た も 行 っ て 同 じ よ う に し な さ い 」 ( ル カ 1 0 : 2 5 ~ 3 7 )と 命 じ て 、愛 が 意 志 と 行 動 で あ る こ と を 示 さ れ ま し た 。 -2- (3)パウロの理解 パウロは「神の愛」と「救い」を明確に結びつけて理解しました。 ○神の愛は希望の根元である そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ロマ5:5) ○神の愛はキリストの身代わりの死に示された しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、 神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ロマ5:8) ○神の愛は選びと摂理に示される 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益 ○律法の成就としての愛 互 に 愛 し 合 うこ と の 外 は、 何 人 に も借 り が あ っ て はな ら な い。 人 を愛 す る者 は 、 律 法を 全 う す る のである。(ロマ13:8) 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。(ロマ13:10) ○人にとって最も中心的なものとしての愛 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も 大いなるものは、愛である。(1コリント13:13) (4)ヨハネの「愛」 ○神の愛としての十字架 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひと り も 滅 び な い で 、 永 遠 の 命 を 得 る た め で あ る。 ( ヨ ハ ネ3 ; 1 6) ○三位一体における「愛」の関係(ここでは御父と御子) 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。(ヨハネ3:35) 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。(ヨハネ10:17) ○キリストの弟子たちへの愛 過越の祭の前に 、イエスは、 この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、 世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。(ヨハネ13:1) ○新しい戒め(律法)としての愛 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを 愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(ヨハネ13:34) ○最大の愛としての自己犠牲 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネ15:13) 《アガペーの四つの特徴》 ニ ー グ レ ン 「 ア ガ ペ ー と エ ロ ー ス 」 第 1 巻 P44 以 下 (1)アガペーは自発的で、誘発されないものである。 愛の対象として値しない者をさがしだす愛。 (2)アガペーは人の功績にかかわりがない。 (3)アガペーは創造的である。 我々は神の愛の対象であるが故に価値を得る。 (4)アガペーは神との交わりの道を開く。 人間の側から神に近づくことは不可能であり、神のアガペーによって はじめて人は神との交わりをもつことが出来る。 -3- 2.旧約聖書における「愛」 新約聖書の用語や思想は旧約聖書の土台の上に形づくられていますから、旧約 聖書にそのルーツを尋ねることなしに理解することは出来ません。 bh;a' 動 詞 」 と 「 い つ く し み 」 ds,x, 名 詞 」( 動 詞 ハ ー サ ド ds;x' は ほ と ん ど な い ) 旧 約 聖 書 に お け る 愛 に 関 す る 重 要 な 語 は「 ア ー ハ ブ と 訳 さ れ る こ と の 多 い「 ヘ セ ド で す 。・ ・ ・ も ち ろ ん 他 に も あ り ま す が ・ ・ ・ 旧約聖書中 アーハブは219回 名詞形のアハバーは31回 ヘセド は252回 こ の 使 用 頻 度 は 「 契 約 ( ベ リ ー ト )」 が 2 8 4 回 で あ る こ と を 考 え る と 、 旧 約 聖 書における「愛」という概念がいかに重要であるかがわかります。 (1)選びの「愛」・・・・アーハブ イスラエルが神の民として選ばれたのは、まったく神の自由な愛によることが 記されている重要な個所があります。 あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもての すべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたが たを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国よりも数が多かっ たからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないもので あった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを 守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エ ジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。 申 命 記 7 : 6 ~ 8( 2 6 : 5 以 下 の 信 仰 告 白 も 参 照 ) ここでは主が無条件的にイスラエルを神の民として選ばれたことが神の愛であ ると言われています。マラキ書1:2では兄であるエサウをしりぞけ、ヤコブを 選んだことが「わたしはあなたがたを愛した」ということである、とされます。 もっとも根本的には「愛」とは無条件的選びとして現れることが旧約聖書に示唆 されていると見ることが出来るでしょう。 (2)契約の「愛」・・・・・ヘセド ヘ セ ド は 通 常 「 い つ く し み 」 と 訳 さ れ た り 、「 真 実 」「 あ わ れ み 」「 純 情 」「 親 切 」「 忠 誠 」「 恵 み 」 な ど さ ま ざ ま に 訳 さ れ て い ま す 。 し か し そ の 意 味 す る と こ ろは「契約の愛」と解すべきであると言われます。 N.H. ス ネ イ ス に よ れ ば 、「 ア ハ バ ー は 契 約 の 原 因 で あ り 、 ヘ セ ド は そ れ を 存 続 さ せる手段である。こうしてアハバーは神の選びの愛であり、他方ヘセドはその契 約 の 愛 で あ る 」 と 言 い ま す 。( N.H. ス ネ イ ス 「 旧 約 宗 教 の 特 質 」 P128 ) 「 契 約 の 愛 」 で 表 さ れ て い る の は 「 誠 実 」「 忠 誠 」 あ る い は 「 確 か な 愛 」 と も 言うべきもので、契約の背景を抜きにしてヘセドが使われることはほとんどあり ません。常に契約に対する誠実であり、契約に対する忠誠の意味で使われるので す 。( ア ハ バ ー と ヘ セ ド の 関 係 が よ く あ ら わ れ て い る 以 下 の 個 所 を 参 照 ) エレミヤ31:3 私は限りなき「アハバー」をもってあなたを「アーハブ」し ている。それゆえ、私は絶えずあなたに「ヘセド」をつくしてきた。 【課題】 十字架に示されたアガペーをアハバーとヘセドで説明してください。 次回 6月12日3時 「聖霊」 -4-