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山田稔
Hosei University Repository
紙の月/埴谷雄高と西田幾多郎2
紙の月/埴谷雄高と西田幾多郎2
捉える想像力」Sリトルピープルの時代』幻冬舎)を我々が失
「わたし/あなた」という大調和の夢I
くしてしまったのか。すべては振り出しに戻るしかないように
山田稔
てくれたなら/すべてが本物になる
をもう一度読み直す。
いう存在について、考えざるを得なかった。そうして「死霊」
私には思えた。振り出しに戻って今一度、命について、人間と
lここは見せ物の世界/何から何までつくりもの/でも私を信じ
(『ペーパームーン』の歌詞『1Q84」国。。【己
一一○一一年三月十一日金曜日、東日本大震災は発生した。地
せ物の、何から何までつくりものの世界のことのようだったが、
のの多くを飲み込んでしまった。そして、それらは、まるで見
人間の、知識の、歴史の、思惟の、存在の、築き上げてきたも
もない隣にぱっくりと開いた虚無の口は、私たち日本人の、否
い、そして多くの人々の命を今も損ない続ける。日常の瞬く隙
ようと努力するかたちをとる。感性や思考のありようなど
い。さらに、|度提示した考えを、つぎには否定・超出し
る。もとより単純な二元論的な思考法の否定や逸脱ではな
の両極の機微を斜酌しながら、高度に融合させるものであ
の、架空と現実、極大と極小、無限と零、永遠と瞬間など
に自己と反・自己にはじまり、生と死、有るものと無いも
埴谷雄高の発想法・思考法を端的にまずいえば、基本的
立石伯が述べるように、「死霊」は〈成長する物語〉である。
時間の経過と共に、すべてが本当のことであるのを、まざまざ
が、無限判断の枠組みと永遠の時間の領域のなかに投げこ
な人為災害をいくつも重ね、多くの街を壊し、多くの土地を失
震、津波、そして原発事故、一つの自然災害から発生し、複雑
たのか。あるいは、宇野常寛が言うように「「大きなもの』を
と私たちに実感させる。そこに、〈記憶/経験〉のリレーはあっ
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まれ、その混沌のなかでさらに一つの窮極、最高存在にむ
てみたい。
ついて、前回同様、西田幾多郎と比較検討しつつ、思考を進め
この「死霊」が先ほど述べたような〈物語的身体〉を持った
|「一永遠の大調和」という夢想l悪の自覚と津
田夫人について
かってひたひたと押し迫っていこうとする意志と精神の努
力のゆえにほかならないのである。そのとき、内面におい
て生じる違和感や矛盾などの触知が、導きの原動力となる
(「小説の封印」立石伯「星雲別埴谷雄高追悼特集号」)
であろう。
「個別的」な存在としての〈成長する物語〉だとして、その基
図式化すると、「|章纐狂院にて」で自我と自同律、「二章
調をなすのが「死霊I』である。それを誤解を恐れずに分析・
代文藝研究」)でも述べたように、そもそも埴谷は、「戦争」や
〈死の理論〉」で〈自同律の不快〉の運動性と方向性、「三章
前回の論(拙稿「幽霊の誕生/埴谷雄高と西田幾多郎」「現
「革命」、それによる「疎外」といった現実の「存在」に対する
るだろうか。その中で、「二章〈死の理論》」は、この〈成長
屋根裏部屋」で、不快から〈虚体〉への予告、と言うことにな
する物語〉という構造、それは「自同律の不快」という概念の
に考え、〈社会革命〉を一旦退け、根源的なく存在の革命〉に
至るために「死霊」を書いている。そして、この〈成長する物
「僅か十三歳の少女の古風な恋患い」(三章〈死の理論〉」「死
構造でもあり、その原初的性質とその意味を、三輪家の家系と
問題を超克するために、存在の根源の底の底まで遡って、考え
〈統合/統覚〉された〈物語的身体〉を持った「個別的」(木村
い限り「二章」)を語りつつ、明かしていく。そこで今回は、
霊I」『埴谷雄高全集3」※以下引用は、特別な指摘がな
語〉という構造こそ、主体の分裂として表現されていたものを、
の可能性、あるいは「人間の存在自体」の可能性、ひいては「小
ける「自覚」が、「極めて近い成り立ちと運動作用をもってい
前回の拙論の課題でもあった〈自同律の不快〉と西田哲学にお
敏)な存在として書き始められた『死霊』の、「人間の思惟」
説」の可能性をも示していると思われる。そして、この物語の
たのではないか」というその質と方向性について、この「二章
〈物語的身体〉によって自己発展していく構造それ自体が、〈自
同律の不快〉初期形態の「不断の自己差異化」(小林敏明「西
「二章〈死の理論〉」は、まず三輪家と津田家の関係の歴史
から書き起こされている。この両家の三百年にわたる歴史の中
《死の理論とを中心に、いくつかの思考を重ねてみようと思う。
で、幾度かの縁組みがなされたとされる。しかし、両家の現代
田幾多郎の憂鯵」岩波書店)という運動性を示し、それは、西
のことと『死霊」二章」との関係について、前回いささか性
史を物語るここでは、それ以上の過去への遡及は避けられる。
田幾多郎のいう「自覚」に極めて類似していると思われる。こ
しつつ、埴谷雄高のその独特な「自同律の不快」という思考に
急に、そしてややもすると煩雑に述べたが、ここでは少し整理
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いことを考えていたって、寶貴方の息子でlつまり、
ちっちゃな豚の子だわ。…(略)…。この私が肥ってゆく
子じゃありませんか。そう、そうですよ。いくら途方もな
だけしか能もないばかげた母豚にせよ、子豚はやはりあり
(「近代文学」初出時には、両家の歴史はそれなりに描かれたが、
上ここでは考えない)それは、この両家の関係に三つの結末
きたりの子豚ですよ。いくら偉そうな……ええと、考えて
単行本化の時点で削除されている。これについては紙幅の都合
な恋患い」の正当性を裏付けるためのもの以外ではない。
をつける異常な結合」の機縁となる「僅か十三歳の少女の古風
らさがらなければどうしても一人前になれもしない豚の子
はならないようなことを考えたところで、小さな乳房にぶ
で単色の暗く沈んだ『死霊』の世界に、〈現実性〉と〈動き〉、
で、甘酸っぱい乳の匂いがまだその襟っ首についているん
しかし、この両家の関係を明らかにすることによって、まる
を呼び戻すように、安寿子の母である生き生きとした津田夫人
だわ。……。
この作品世界では、津田夫人一人だけ「現実密着型思考」の、
(「二章死の理論」『死霊I」「埴谷雄高全集3」)
が登場する。津田夫人はこの作品の〈物語的身体〉を補償する
〈現実性〉と〈動き〉を持った、つまりは〈実在性〉を補償す
る人物として登場する。これにより、ほとんど骨格だけで作ら
れた「一章」に比べ、「二章」はより意識的に、物語性を強め
徹底した「自己肯定型」の人物で、この作品に於いて他の登場
の兄弟を「乳の匂い」のする子豚と言い切るこの婦人は、後に
人物とは違う現実味のある色を描き出す。三輪家の高志と与志
ながら語られることとなる。
この津田夫人は、人々を問い詰める。「二章」冒頭は、この
て語る、まさにその体現者のようで、『死霊」の世界での最重
首猛夫が夫の津田康造に「大地に密着した農夫の思考」につい
津田夫人を中心にした現実的な会話で展開していく。まずは娘
と与志とのデートを心配して安寿子を問い詰め、その様子に不
要課題である、男達の「形而上学」などものともしない。きわ
安を感じ、夫の康造を問い詰める。あげく、真夜中近くに三輪
家に乗り込み、対照的で腺病質な三輪夫人をやりこめる。この
い思考」を体現する、「不快」などということは薬にしたくと
めて現実的な「自我」の安定した、まさに。Ⅱ一のゆるぎな
霊』の世界は、〈形而下〉と〈形而上〉がまがりなりにも共存
もできない〈母性〉の代表のような彼女の登場によって、『死
せるが、決定的な違いは彼女の徹底した「現実密着型」の思考
である。例えば、津田夫人は三輪夫人に生き生きと次のように
あたりの行動力は、この後、好対照を見せる首猛夫を祐佛とさ
語る。
…。どうして自分の息子など怖がっているの。たとえあの
朽佛とさせるようで興味深い。が、それはひとまず措くとして、
うな男と女の現実世界での関係性は、埴谷の家での人間関係を
する、〈現実的/動的物語世界〉に変貌する。おそらくこのよ
ひと達がどんなに奇妙に薄笑いしたって、たかが貴方の息
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動的かつ揺るがない実在性と、思考の出発点を示している。そ
この津田夫人の存在が、男ばかりの形而上的世界に、ある種の
葉を換えれば、現実の〈形而下/存在世界〉の〈思惟形式/自
同律〉では、「同一瞬間に同一空間を二物が占有し得る」とい
ぴと」と共有しなければならないという意志である。それは言
の世界で生きようとするのだ、ということである。そしてこの
下〉の〈存在世界〉を飛び超え、ひたすら思索する〈形而上〉
首猛夫が言う「一種の自我喪失症」の与志たちだから、〈形而
詰めれば自己即他であり、「意識」と「存在」がぴったりと重
と他者が一つの場で存在できるということであり、それを突き
「同一瞬間に同一空間を二物が占有し得る」というのは、自己
う「永遠の大調和」はやってこないという認識の表現でもある。
、、
れは、この物語にも〈形而下〉という〈存在世界〉は存在し、
段階でもまだ、〈形而下〉には日本的な「自我」は確かに存在
時間の〈形而下/存在世界〉を舞台に物語は作られているので
るということである。「二章」は、実はいまだ、「現在」という
つまり、広志は確実に〈形而下/存在世界〉に足場をおいてい
なる安定した「自我」世界ということにもなるのではないか。
たち四兄弟の「父」である悪徳政治家三輪広志をも問い詰める。
ある。そうだとすれば、この「永遠の大調和」は、やはり述語
ところで、この母性の代表たる津田夫人は⑯ついには、与志
しているのだ。
そして広志は、この津田夫人を相手に一種風変わりな持論を展
的問題でもあり、後に詳しく述べる西田幾多郎の動的発展作用
開する。
としての「自覚」から「場所の論理」へ至る問題と重なってい
ともかくも、夏目漱石もその文学的営為のすべてをかけて考
まず、先の引用のように「母」であることの自明性を疑わな
え続けた「一一個の者がの四日のの冨吊ヲ・円巨ニスル訳には行か
くのではないか。
ぬ」(「断片」)という人間関係における根源的問題に対し、小
い津田夫人に対して、「僕達の精神の限りもない健全な発達を
にはまったく無関係」だと言い放つ。そこから話は広志の.
くまで気づかいつづける母親の精神」だと言い、子供は「貴方
笠原賢二が指摘しているように、「つまり三輪広志は、『永遠の
阻害する蹟きの石は、愛らしきとかいわれる子供達の将来を飽
日一悪」という「悪徳論」に進んでいく。与志たちの先行者で
大調和』という過激な理念にかつて懸かれていたが、そのドン
・キホーテ的な夢が地上では実現不可能であることに絶望した
目覚めたと言い、「ぴしりと音をたてる平手敵ち」が必要だと
果てに、言わば居直り風に百八十度の方向転換を計った転向
ある広志は、「ひとぴとに不幸を自覚せしむべき重大使命」に
いう。ここで注意すべきは、これが広志の〈自同律の不快〉の
そしてこの「過激な理念」の追求が、四人の息子達に思索的に
者」(「共有された主題」『時代を超える意志』作品社)なのだ。
引き継がれていく。
が「ひとぴと」に「灰色の位置」、つまり「自同律」の不安定
さを自覚させることが必要だと言っている点である。広志が言
獲得過程である、ということである。そして同時に、広志だけ
う「不幸の自覚」とは、〈自同律の不快〉を持つ契機を「ひと
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||変容l「自同律の不快」の運動性、自己とい
て語られるのは、実はこの後に引用する、最もよく知られた部
分の前後数ページである。そしてこの時点で与志は、「俺は俺
単なことでは許されないことであるのを「不快」の感覚のうち
た父広志と同様、「永遠の大調和」を夢見て、しかしそれが簡
だと荒々しくいい切りたい」と思っている。つまり、与志もま
ここであらためて、「自同律」とは、言俺はI》と眩きはじ
う形について
めた彼」が三l俺である》と咳きつづけること」である。こ
に悟り、この「不快」の意味をさまざまに思考しているのだ。
のの獲得過程について、「二章」に即して見ていくこととする。
ここであらためて、埴谷が「自同律の不快」と呼んでいるも
のような自己の捉え方は、精神病理学の木村敏の言を借りれば
「個別化」ということになるだろう。
つまり周囲の〈物体/存在/他我〉の眼が開かれて彼を見つめ
「無限の寂蓼感」に包まれながら、彼を取り囲む墓石や家々、
まず、「自身の手は自己ではない」と考えた少年期の与志は、
個別として成立すること、つまり自己が「一般」に含まれ
ているような気がする。その夜の気配の中で、その物体達が「隣
…。ここで「個別化」旨曰く一s昌自というのは、自己が
る交換可能な「特殊」としてではなく、他から絶対的に区
から隣へ畷き交わしている」さだかならぬ「単音」を聞く。そ
の「単音」の職きは、「涯てもない無限の空間」へ拡がりつづ
れは、「彼とともに移動する謂わば一つの空間」であった。こ
している。
(「個別性のジレンマー記憶と自己」
別された交換不可能な「単独者」として成立することを指
「講座生命2002』河合文化教育研究所)
して「無限小の微粒子と化すと同時に」、彼が「心の底から叫
け、彼は彼自身の「無限の拡大感覚/縮小感覚」を味わう。そ
びたく」なる「僅かの一語」は、「《俺だ!》との一語」である。
本来「自同律」というのは、木村が言うように「単独者」と
し得なかった」という。そして与志は「物静かな瞑想的な少年」
して「個別化」し、「他」から自己を区別し、自己を唯一存在
に育っていく。成長した彼は、この気配を追い索め、「その異
しかし、彼を締めつけるこの気配について、彼は何事をも説明
しかし、中学時代急に食事をしなくなった与志が、至りつい
常感覚は次第に論理的な形をとってきた」という。
として存立させ、支える論理のはずである。
た考えは「自身の手は自己ではない」という意見だった。兄高
きつづけることがどうしてもできなかった。敢えてそう咳
….《俺はl》と咳きはじめた彼は、《l俺である》と咳
志は「古い哲学の繰返し」と相手にしない風であったが、少年
期からこのような「異様な感覚」に襲われつづける与志は、「自
「自同律の不快」について、かなり具体的なその変遷も含め
同律」に対して特殊な感覚を持つようになる。
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くことは名状しがたい不快なのであった。誰からも離れた
間の形に直して見ることである。…(略)…。自覚に於て
之を見た意識である。ベルグソンの語をかりて言えば、純
は、自己が自己の作用を対象として、之を反省すると共に、
粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空
かく反省すると言うことが直に自己発展の作用である、
はないlそういくら自分に思いきかせても、敢えて眩き
つづけることは彼に不可能であった。主辞と賓辞の間に跨
かくして無限に進むのである。…(略)…。而してかく自
孤独のなかで、胸の裡にそう咳くことは何ら困難なことで
その不快の感覚は少年期に彼を襲ってきた異常な気配への
己が自己を反省すると言うこと、すなわち自己が自己を写
ぎ越せぬほどの怖ろしい不快の深淵が亀裂を拡げていて、
怯えに似ていた。それは同一の性質を持っていて、同一の
に無限なる統一的発展の意義を蔵している居るのである。
すと言うことは、単にそれまでのことではなくして、此中
(「こ「自覚に於ける直観と反省』
るためには、彼の肉体のある部分をがむしゃらにひつつか
「西田幾多郎全集第二巻』岩波書店)
本源から発するものと思われた。彼が敢えてそれを為し得
んで他の部分へくっつけられるほどの粗暴な力を備えるか、
命名された感覚の運動作用の繰り返しによって、「自己が自己
て叫ぶことができないという与志は、この「自同律の不快」と
の一語」を叫びたいと思いながら、「名状しがたい不快」によっ
とともに移動する諸わば一つの空間」に包まれ、云俺だ!》と
だろう。そして、「物体」に見つめられ「単音」の畷きの「彼
であるので、それは西田の表現で言えば「直覚的事実」となる
常感覚」は、青年期に入った与志にとっては、「実体的感覚」
れて彼を見つめているような気がする少年期の三輪与志の「異
様、埴谷にとっても、周囲の〈物体/存在/他我〉の眼が開か
「直観」という主客未分の「純粋経験」から出発した西田同
それとも、或いは、不意にそれがそうなってしまったよう
な、そんな風にできあがってしまう異常な瞬間かが必要で
俺は俺だと荒々しくいい切りたいのだ。そしていいきっ
あった。
てしまえば、この責苦。
(「二章死の理論」『死霊I」「埴谷雄高全集3』)
この「自同律の不快」という概念について、西田幾多郎と比
例えば、西田はその序論で「自覚」の意義について次のよう
較検討しながら、少し詳述してみたい。
に述べる。
「無限に向かって「無限定」になりうる」「自ら働く自我」とい
を写す」という「反省」による「無限なる統一的発展」と同じ、
う運動作用を持つこととなる。つまり、この「反省」の契機が、
直観というのは、主客の未だ分かれない、知るものと知
である。反省というのは、この進行の外に立って、翻って
られるものと一つである、現実その儘な、不断進行の意識
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埴谷にとっては「不快」なのである。
めて、歯を噛みしめたまま、身動きもせずに樽っている。
しい繋辞の一つの橋と他の橋に足を架けて、悲痛な陣きを
岬きつづけているのだ。誰がこの叩きを破って、見事な、
あっは!存在と不快と同義語であるこの世界は、忌まわ
美しい、力強い発言をなし得るのだろう。》
「自覚に於ける直観と反省」に進んだ西田が、「直観」と「反
ように、埴谷もまた、「自同律の不快」を自己の思惟の立脚地
省」の統一としての「自覚」を自己という思惟の立脚地とした
としたのは言うまでもないが、そこで示される自己像は共に、
《あの窓の外に灰かに見える細かくしなやかな梢、目に
見えぬ微風に自身を軽やかに揺すっている梢の尖端、あっ
は!風と樹、俺が毎夜見つづけていた自然は常にあのよ
それ自体がある運動性を有する。たえば埴谷は次のようにいう。
…。一つ一つの物体がそれぞれ悩んでいる。自身の変貌を
いか。あっは、そうではないのか。太初から週末へ至る存
うに身を処して、やがて一つの力強い発言をするのではな
在の変容lマグネシウム、ゾヂウム、ヘリウムへと辿る
いるIそんな切実な、いい知れぬ悩ましさが、眠りから
さめかけた瞬間の彼を捉えるのであった。それは、確かに
な秘密な力ではないのか.そうだ.ぷふい‐俺はl悪
見事な、美しい変容を重ねる力は、宇宙を動かす最も単純
許し得る或る粗暴な力をそれぞれ索めて、自身を揺すって
異常な交換であった。一つの想念というより、若し再びそ
ていることだろう!この私とその私の間に開いた深淵は、
という表白は、如何に怖ろしく忌まわしい不快に支えられ
自身を揺すっている」状態であり、,それを保証する原理が「不
己は、「自身の変貌を許し得る或る粗暴な力をそれぞれ索めて、
長々引用したが、この「自同律の不快」に支えられている自
(「二章死の理論」「死霊I』「埴谷雄高全集3」)
ないんだ!》
魔、といって好いどころか、敢えてそういわなければなら
ういって好ければ、一種論理的な感覚だったのである。
《不快が、俺の原理だ》と、深夜まで起きつづけている
彼は絶えず自身に眩きつづけた。《他の領域に於ける原理
が何であれ、自身を自身といいきってしまいたい思惟に関
如何に目眩むような深さと拡がりを持っていることだろ
即ち「不断の自己差異化」(小林敏明)であり、その「見事な、
快」である。そしてそこに共通する運動性は、「存在の変容」
する限り、この原理に誤りはない。おお、私は私である、
う!その裂目を跨ぎ、跳躍する力は、宇宙を動かす槙杵
ではないのかという。しかし、現実の〈形而下/存在世界〉は、
美しい変容を重ねる力は、宇宙を動かす最も単純な秘密な力」
日々「ひっそりと怖ろしいばかりに静まりかえった、身動きも
《このひっそりと怖ろしいばかりに静まりかえった、身
を手にとるほどの力を要するのだ》…(略)…。
てしまう世界は、〈ある》という忌まわしい繋辞を抱きし
動きもせぬ世界、毛筋ほども身動きすれば自身の形が崩れ
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じて主辞と賓辞に「足を架けて」「自身の形が崩れて」しまわ
ずに樽っている」という。この「忌まわしい繋辞」は、かろう
まわしい繋辞を抱きしめて、歯を噛みしめたまま、身動きもせ
世界であり、そのために〈存在/自己〉はスある〉という忌
せぬ世界、毛筋ほども身動きすれば自身の形が崩れてしまう」
である。真の自己同一は静的同一ではなく、動的発展であ
加えるのである、自己の知識であると共に自己発展の作用
は自己の中の事実である、自己は之に因って自己に或物を
を写すのではない、自己の中に自己を写すのである。反省
経験を概念の形に於て写すという様に、自己を離れて自己
…。自己が自己を反省する即ち之を写すというのは、所謂
(。」「自覚に於ける直観と反省』
いる「不快」の意味と、〈自同律の不快〉という概念の根源と
れによって「自己に或物を加え」「自己発展」する。「真の自己
「反省」を促す「不快」もまた「自己の中の事実」であり、そ
「自覚」の立場で考えた場合、「自己の中に自己を写す」時、
「西田幾多郎全集第二巻」岩波書店)
なる本性である。そして、この〈自同律の不快〉による「無限
同二は、「動的発展である」と規定するとき、「自同律の不快」
る、…
ないように保っているが、しかしそこで「存在」は、「悲痛な
れがいわゆる「自同律」という自己の存在形式なのだ。
叩きを陣きつづけている」のだ、「自身の変貌」を索めて。そ
これが、埴谷雄高がこの〈成長する物語〉の〈物語的身体〉
の遁走」、そこにのみ彼三輪与志の「自由」があるのだ。そし
の基調に置いた、「自同律」という存在形式が宿命的に持って
て、この「名状しがたい不快」は、「思惟の法則自体に潜んで
に内在する「見事な、美しい変容を重ねる力は、宇宙を動かす
の物語的形容や、物語を喚起する想像力が駆使されているが、
きわめて「論理的な感覚」なのだ。なぜ、近代的自我意識の超
根源的な「不快」を用意したのだ。その意味でこの「不快」は、
という形式を揺るがす強い「反省」に至るための動機として、
らく埴谷の場合、近代的自我意識の超克のためには、「自同律」
最も単純な秘密な力」に比すことができるだろう。そしておそ
いる或る避けがたい宿命」だとも考えられている。
ここには、〈形而下/存在世界〉では本来的には現実性を保
しかし、それらの意匠を一旦留保し、西田の思考した「自覚」
克が必要なのかといえば、勿論、父広志が言うように「同一瞬
証できない〈形而上/想像世界〉を、形而下の世界に繋ぐため
の概念の本性と運動性とを並べてみると、この両者の〈自我/
我々人類が持つことが現状では不可能だからだ。宇宙的な「大
間に同一空間を二物が占有し得る」という「永遠の大調和」を、
調和」と存在の「自由」、この二つの追求のための基調となる
ここでもう一度、「自覚の於ける直観と反省」に進んだ西田
幾多郎の「自覚」について、さらに簡単に素描すると、次のよ
自同律〉に対する思考の質や指向性の類似がよくわかると思う。
うにその思考は進められる。
思惟が、「一一章」のテーマである。そこでは、「Hg+閂&Ⅱ庁三&
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律の不快」をめぐる想念は、「果てもない、侘びしい、引きこ
べての知識は自覚によって成立する。自覚はあらゆる実在
は〈我〉の創造的作用によって存立するものと考えた。す
…。フィヒテはカントの物自体を除き去り、すべての実在
IHSⅡ□四日目」などとノートにあり、引用・前述した「自同
まれるような感覚」であり、「無限の遁走、そこにのみ彼の自
の中心になった。自覚というのは我が我を反省することで
由がある」とされる。そして、津田夫人はこの頃の与志を「謂
わば《俺はl》という主辞がまったく喪失しているかのどと
る。我が我に働くのはすなわち我の存在であると考えられ
ある。我が我を反省するのは我が我に対して働くことであ
るにいたった。知るというのは単に知覚することではない、
る直観と反省」を経て、「働くものから見るものへ」で「場所
知るというのは働くことである。働くことは同時に存在す
く」だと表する。これなども、西田幾多郎がこの「自覚に於け
の論理」を確立していく、その道筋にもつながっていくように
(「現代における理想主義の哲学」
が世界の中心となったのである。
ることである。すなわちタートハンドルング(働き即実在)
読めるのではないだろうか。
ところで、この〈自我/自同律〉をめぐる埴谷雄高と西田幾
源的に思索を進めるとき、ある種の人々が同じような思考の方
多郎の同質性だが、例えば人が現在の状況に対し、深く深く根
『西田幾多郎全集第十四巻壱
もしそうだとすれば、自己が「私を信じ」た瞬間に、または
ン、フィヒテと進んできた自己に対する根源的思考の変遷は、
向性を示すということがあるのだろうか。カントからベルグソ
西田幾多郎、埴谷雄高から木村敏、または、宮沢賢治から前掲
ついての考察は、今回はひとまず措くとして、西田がここで言
の月」も「私を信じてくれたなら」「本物になる」。村上春樹に
う「タートハンドルング」とは、フィヒテの「事行」のことで
その「自覚」によって、すべては「本物」として実在する。「紙
体系と見るべきもので、その中心が自己であり、これによりて
した「1Q84」の村上春樹まで、人が「自己」を考え、「存
統一してゆくのが生命である。…(略)…人心はその真の中心
田幾多郎」中央公論社)から借りて「事行」の概念にも触れて
ある。この際、上山春平「絶対無の探究」(「日本の名著灯西
在」について思いをめぐらせるとき、「人心は無限なる欲求の
を求めねばならぬようになる。ここにおいて生命そのものを反
おく。フィヒテ「全知識学の基礎」によると、「自己」は「自
省する、さらに大なる統一を求める」(「純粋経験に関する断
章」西田幾多郎「西田幾多郎全集第十六巻」)というような
己」は「自己の存在を定立する」とも言える。つまり「自己」
える。それは逆に、ただ「自己が存在する」というだけで、「自
己自身で自己を定立」し、それだけで「自己は存在する」と考
そして、その哲学的一帰結をなすのが、西田幾多郎の次の言
思考の筋道が拓かれていくように思える。
葉である。
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つまり埴谷は「《俺はl》と眩きはじめた彼は三-俺であ
る》と眩きつづけることがどうしてもでき」ない自己に、カン
トと出会うことによって正当性を持つことができたのであり、
は、「働くもの」であると同時に、「働きの所産」であり、「働
き(国四目一目、)」と「働きの成果(目呉)」は全く同じものなの
である。したがって「私が存在する」ということは、一つの「事
かつ、この感覚にある種の論理化の可能性を見いだすのである。
たとき、「自同律の不快」という思惟の可能性を、「宇宙を動か
そして、「自同律」に「不快」を感じる自己を自明・正当化し
す最も単純な秘密な力ではないのか」と基礎づけたのだろうと
「善の研究」で、「純粋経験」という「直感」の立場から出発
行(目鼻宮口巳目、)」の表現である、ということになる。
した西田幾多郎は「自覚における直感と反省』に至り、「直感」
思われる。そして繰り返しになるが、この運動作用は、この段
階では「直観」と「反省」の統一という「自覚」の立場に立ち、
と「反省」の統一として、フィヒテの「事行」の概念に近い「自
では、埴谷はどうなのか。勿論、埴谷本人があらゆる場所で
のと考えられるのである。
「真の自己同こを「動的発展」と考えた西田の立場に近いも
覚」の立場へ歩を進めたのだ。
デアを得たのは、カントの「純粋悟性の誤謬推理」からである。
述べているように、「自同律」に対し、「不快」を対置するアイ
しかし、カントからベルグソンを経てフィヒテと禅に至る西
の二つの日本近代の知は、ここから東洋的人生論と西洋的形而
田幾多郎と、カントから再びシュテルナーに至る埴谷雄高、こ
上学にその道を踏み分けたが、言うまでもなくこの二つの知性
…。「いったい思惟するところの此のわれ即ちかれ即ちそ
が目指したものは、言ってみれば共に〈近代〉の〈超克〉であっ
れ(もの)によって現されるものは思考の先験的主体即ち
Xにほかならぬ、これはその述語である思考に由らなけれ
て踏み入った。東北の、いや世界の、慎ましく暮らす人々、農
た。そして、同様の地平に、もう一つの知性が全く別の道を辿っ
民の幸福を自身の一切をかけて願った宮沢賢治である。これに
の概念をも有つことはできぬ、…(略)…。」
これもだめ、あれもだめ、という自我の誤謬推理の建築
ば認識せられない、単独にそれ自身については我々は何等
はなんというきびしく魅惑的な論証のかたちであろう。宇
ついては別稿に譲るが、その同質性だけ指摘しておきたい。
ら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/
風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しなが
とつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/
わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひ
宙論の二律背反、最高存在の証明不可能、とつづくそれら
の仮象の論理学の推論は、いってみれば、自同律の不快に
悩みつづけてきた私の暗い気質の論理化された世界のよう
に思いなされるのであった。
(「カントとの出会い」「カント全集」「月報」)
46
Hosei University Repository
紙の月/埴谷雄高と西田幾多郎2
ひとつの青い照明です/(ひかりはたもちその電燈は
失はれ)
二心象スケッチ春と修羅第一集」の「序」冒頭)
ところで、この〈自同律の不快〉の構造同様に、『死霊」と
いう〈成長する物語〉は何度となく「自己」に立ち帰る。実在
を理解するため「形なきものの形を見、声なきものの声を聴く」
つめられ、その夜の気配の中で、その物体達が「隣から隣へ畷
と西田はいう。周囲の〈物体/存在/他我〉の眼が開かれて見
三月十一日以降、私たちは、人間に、生命に、存在自体に、何
き交わしている」さだかならぬ「単音」を聞くと埴谷はいう。
を見、何を聞く、のだろうか。
(やまだみのる.本学兼任講師)
日本文學誌要第85号
47
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