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蘭学史に於ける人文科学の立場
Hosei University Repository 蘭学史に於げる人文科学の立場 いて日本人が研究発展させた西洋の学問、技術、思想等をひっく 蘭学とはオランダ人及びオラゾダ語を通じて受容し、日本にお な仕事であると共に、明治文化との関聯において是非とも顧みな を軽視してはならない。それは関学史のプラゾグを塊める 学問的 われは鎖国体制下の日本における人文科学への関心とその芽生え 術系統の学問、六は物理学、化学系統の学問で、所謂人文学系統 津田真一郎と西周助の二人である。との一行がロッテルダムに到 た。そのうち今日特に問題にしたいのは蛮 書調所から派遣さ れた の機会に海軍に関する諸技術の伝習のために一団のん員を派遣し 今から九O年前徳川幕府はオラン〆に二世耳の軍艦を注文し、そ のことはキリスト教の禁制を中核とした鎖国政策の下にあっては 西洋の人文科学にふれることがタプーであったこと・すべて新 し m E 遣することを契約した。これについてわが蛮書調所国臣官民 船を建造することと、それがためにわが海津士官等を和闘へ派 当局が日本駐剖和蘭総領事との聞に、オランダにおいて一隻の 下名は、とこに以下の陳述をなす自由を有する。前年わが海軍 UM 間家に残っている'。とれを全文左に訳出する。 L - 4zgHl の書簡がとの二人の直接の教授となったプィセリ y グm 学の日本学教授であったホブマバ J J 儒教的な悶隠さと・そこから発する思想の抑圧、前岡学者自身の教 いものを危険視する封建政治理念と機構、物質支明においては西 したのでは 、一八六三年六月四日 ( 文久三年四月十八日 )で る 周 一 曲 ったが、到着後八日に西周助が彼等の財閥学の世話掛でライデン大 ﹃ ・旬・出。民同E HE に宛てた闘文 の学問は殆ん ど木格的な研究がなされなかったといってよい。こ 学系統の学問、四は地理学、歴史学系統の学問、五は兵学造兵技 るめて呼ぶ名称で、その内容から大別すれば、一は研究の基礎と 雄 ければならない国史学上の一問題であると思う。 武 なったオ ラゾ 〆語学、こは医学本草学系統の学問、三は天文学暦 沢 洋の優越を 認めながら精神文明においては東洋の優越を信奉する 養の基盤が儒教的東洋的で西洋の人文科学を受容するまでに自覚 成熟を遂げていなかったこと、貿易の実利に専念 して国際的紛争 を極度に警戒したオラリ ダ人が日本の鎖国政策を神経質に遵守順 ったこと等いろいろな事情を考えることが出来よう、しかしわれ 応したから危険と恩われる学問の輸入などいう冒険を敢てしなか 一 - 3 板 Hosei University Repository これも学びたいと思う。私は既に英語を学び読んだり浬解する れを流暢に話するものは避だ稀れである。私は時間の許す限り ‘ ιな甚だ困難で、こ ことが出来るが、会話は出来ない。 巳 冊 。 k F 2 e C H a w H C含・歴史学 C窓口} 25 及び閥、独、英、仏の 長 含 て、なお幾多の不備欠陥を有し、 学問も物理学 J mE } 邑 }220 H R E o - 地理学 口宏-化学 mロ 申・植物学切C 数学 主 を教授させている。けれどもその学校の設備及び教授法にお い ロッパの学術を移入することの必要を感じて江戸に学校を設立 し 、 諸議より教師を選任 して その教師となし、いろいろな学問 忠告によるにあらざれば自分で何も決することが出来ないこと 私はヨーロッパの習慣については全く知らないから、好意ある たいと思う。 ととて恐らくはむずかしいであろうが、この一端なりとも学び 化の向上に役立つところ少なくないと思うから、 短 い期間のこ うが、しかし私考えるに、これ等の学問の研究は、わが国の文 と思うからこれ等も学びたいと思う。この仕事は困難ではあろ 演じているが、これを話すことはわれわれ その日的はわが国政府は帝国とヨーロッパ諸国との聞には唯一 ]538 にお いても我々一一 ロ 出口さ宮白色 曲者。窓口市口 口 出 名の者を海軍司令官内田恒次郎に配属せしめることとなった。 右の外哲学︼V E F C m C H品回目。と称せられる方面の学問の領域も修 w つのオランダ東印度会社との関係があるばかりであったが 、七 } g -E 通商の いよいよ増加するに従って、日本政府も亦わが国にヨー 年前より欧洲の若干の国々と修好条約を締結するに至り、外交 めたいと思う。わが国法の禁じている宗教思想は、ロ白gZ2・ } FO 口 同mwu 回目向。--同ハ伊ロ酔位一寸の唱道 した ところとは相違して いる 四外国語をたど宇読んだり理解する有様である o ヨー ロッパ諸国 ZSE E との関係において、また内政及び施設の改良を行うために、よ でらる。 を自ち承知している。切に貴下の思慮ある助言を希望する次第 部重と敬意とを以って w w - 法律 H 寄 付r 0 0 3 a白 り必要な学問及び統計 mg vgpE5・経 H OF 外 交 ロqHogg目。等の学聞は全 ロ 済問ロC O CロW -政治 F EF 然されて いない。 武下 の 下 僕 西 周 助 何なる内容と 程度の も のであっ たか 、またおぼろげながら人文科 この西周助の害翰は、当時 日本人のもっていた 所謂闘学とは如 宮町四日 m z o m D O昨由 それ故にわれわれの目的は、とれ等一切の学問を学ぶにある。 事柄を全部学ぶ ことは 実は不 可能な ことで あるから 、こ れ等の 学について、どの濃度の関 心または憧憶をもっ ていた か、または 僅かな滞在中に、このように多くの、そ してその ように大切な れる若い学生にやらせることと して、私の計 画はそれ等の要領 どの稜・皮にその方面 の学問の必要を感じて いた かを知ることが出 諸学科を一章一章順序たてて学ぶことは、今後第二回に派遣さ をかいつまんで学ぼうと思う。私の貴下に希 望することは、以 0 7 ラ yス誇は各種の学問上非常に大きな役割を 来る。兎に角日本人が正式に西洋の人文科学を学んだのは、 '一八 六三年六 月以 降オラゾ〆のラ イデゾにおいてフィセリゾグ 博士に いことである 上のことを諒承せられて、私に一人の良師を選んでいただきた . - 4- Hosei University Repository 就いて学んだ西周助と津田真一郎二氏にはじまることは正しい。 の西洋哲学史を比較的要領よくまとめている。これによって、わ O F F g か ら りg 史の大綱といってよかろうO F a g - 司♀ロまで 録が、日本人の手による恐ら︿最も亭︿最もまとまった西洋哲学 れわれはおぼろげではあるが西洋人文科学受容の程度を知るこ己 さて西、津田の以前に西洋の人文科学がどんな風に 日本人に 影 然科学のみが受容されたのであるが、それによって合理性を向 が出来る。 響したか、または管見 されたか。思うに直接且つ公には西洋の自 ぴ、実験実証を尊長ずる学風が関学者やそれにつながる少数な日 西洋の人文科学受容を阻止した決定的条件であった。そしてこの しかし何といってもキリスト教の禁制という徳川政権の国策は 夜守啓発した それから宇田川格庵の霊感原(茶話)に 黙多徳 B色 5旨の一節があり、同誓学原の章には学問の体係が つぶした。蘭学者の中でも第一級に位置ずけられる梅星杉田成卿 制約が蘭学者の精神と学問の自由沿発展を公の権威をもって押し o 説いてある。また同じ︿熔庵の舎密閉宗(恨糊)には化学史の大 は酒を飲むと﹁プレイへイトJ¥﹂と連呼したという。プレイへ イ ト 手 とES は自由である。封建制下に自由を抑圧されて いた を知ったことは自然科学方面ばかりでなく、人文科学方面にも日 本人を啓発し関心を喚起したに相違ない。殊に天文学警にはその と伊豆並山にいた江川太郎定衛門も嘆ぜざるをえなかった。 関学者の悲痛な叫びを聞く。﹁皇はまだ夜深し富士の朝ぼらけ﹂ - ! ' i- 綱が記されている。このようにして、西洋の学問の方法体系学史 きな流れは、天文学警に親んだ人には一通り知られていたに相違 附る人文科学の立場を理解しなければならないのである。 以上のような諸条件、情勢のもとに、われわれは関学史上にお 学問の性質上、また発達上哲学との関係が深いので西洋哲学の大 ない。 私の管見によれば天保六年(一一 一 臥)に 草した滝野長英の間見漫 ¥