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附6 - 東京大学学術機関リポジトリ

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附6 - 東京大学学術機関リポジトリ
買
5
凶主主
望遠鏡と精密観測
フック、レンとオズーのマイクロメーター
前章で論じたように、オズ
とフックは、
1
665年 、 フ ッ ク が 『ミ ク ロ グ ラ フ
i
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i装 置 を め ぐ っ て 論 争 を 展 開 し た 。 彼 ら は そ の 数 年 後 、
ィア 』 で 従 来 し た レ ン ズ 研 l
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今度は接眼マイクロメーターの先取俗に関してやりとりを行なった。 t
ロメーターは、望遠鏡に組み込んで惑星の直径や天体同士の角 ~B 般を測る装置で
あり、精密な天文飢iJl
l
)に 不 可 欠 と な る も の で あ る ( 第 3
9図 ) 。 以 下 で は 、 フ ッ
クの精密天文観測への関心を迎解するために、彼らのこのやりとりと、その後の
これに関するイギリスでの議論を分析してみたい。
オズーが綬初に接眼マイクロメーターの工夫に言及したのは、先の 1
6
6
5年 の
論 争 の 時 だ っ た 。 彼 は 、 フ ッ ク を 批 判 す る 論 考 の 中 で 、 惑 星 の 直 径 を 剖1
)定 す る 方
法を扱った著作をいずれ出版することを予告した
オズーは、
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1
6
6
6年 末 の オ ル デ ン バ ー グ 宛 の 曾 簡 で 、 惑 星 の 径 の 測 定 に 再 び 触
れた 。 こ の 手 紙 の 数 枠 は 、 翌 年 1月 の 王 立 協 会 の 会 合 で 読 み 上 げ ら れ 、
ソフイカル ・ ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ Jに 収 め ら れ た
20
『フィロ
その f
l
i1Wの中でオズーは、
次のように述べた。
私 に つ い て い え ば 、 先 友 は 、 太 陽 、 月 や 他 の 惑 星 の 直 径 を 、 ピ カ ー ル 氏 σean
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廿)と私の方法で捌)
1っ て ば か り い ま し た 。 私 は 、 こ の 方 法 が 、 こ れ ま で に 使
われたものの中で最高であると信じます。というのは、
∞
17ィートを 29000、 あ る
いは 3 00の 部 分 に 1単 位 の 間 違 い も な く 分 自lで き る の で 、 秒 の 単 位 ま で 出)
1る
ことができるからです九
こ こ で は 装 置 の 具 体 的 な 締 jiIは与えられていないが、これは切らかに接眼マイク
ロ メ ー タ ー に 言 及 し た も の で あ る 。 そ の 装 置 は 、 オ ズ ー の 他 の 著 作 か ら 、 ヨ , 40
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p 3.pp.293& 297・ オ ル デ ン ハ ー グ は 、 フ ラ ノ ス 語 の 版 文 を 炎 訳
する際に、間 i
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lって 29000を 24000と 転 記 し て い る 。 こ こ で は 、 原 文 に よ り 訂 正
した 。
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図のようなものであったと考えられている
40
オ ズ ー の 手 紙 が 会 合 で 読 み 上 げ ら れ た 時 、 そ の 記 述 に つ い て 異 議 が 1日えられた 。
その円の王立 協会の記録には、次のような記述がある。
jか ら 知 っ て い た 惑 庄 の 直 径 を 砂 ま て'
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J
レン 同 士 と フ ヅ ク 氏 は 、 彼 ら が ず っ と J 1i
る方法を協会に対していくつか述べたので、それらの方法を短く記述し、イギ
リスでは、そ れ はまったく新しいものではないことを){リの哲学者[オズー]
に 示 す よ う に 求 め ら れ た 5。
レンが接眼マイクロメーターをそれ以前から使用していたことは、保々な史料
から裏付けることができる。例えば、
1
656年 ご ろ の ウ ィ リ ア ム ・ペ テ ィ ー 宛 と
思 わ れ る 替 簡 で レ ン は 、 自 分 逮 が 367ィ ー ト ま で の 長 さ の 望 遠 鏡 を 持 っ て い る こ と
に触れた後、次のように鈴いた。
私達は、望.ii:l鏡を秒まで観測できる天文器具にして、これで木星の衛星や土星
の月の運動を調べました。そしてへヴェリウスのように月の図を愉くだけでな
く、月を測量し、その正確な地図を作り 、 その様々な斜面を正確に見つけ、へ
ヴェリウスのそれに関する誤りを発見しました
80
これは、レンがオクスフォード時代に、接眼マイクロメーターを使用したこと
を示唆するものである。
ロンドン移動後も、彼は望遠鏡に祭服マイクロメータ
を取り付けて観測を行
な っ た 。 そ の こ と は 、 グ レ シ ャ ム ・カ レ ッ ジ の 3
67{ 寸 望 遠 鏡 を 記 録 し た 先 の フ
ッ ク の 手 稿 か ら 分 か る 。 こ れ に 添 付 さ れ た 図 ( 第 34図 ) に は 、 二 種 類 の 簸 限 マ
イ ク ロ メ ー タ ー が 描 か れ て お り 、 本 文 に は 、 そ れ ら の 説 明 が あ る 7。
図の左下の部分の原図番号 f
i
g.3は 、 フ ッ ク が 「 網 (
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)J と 呼 ぶ タ イ プ の 接 眼
マイクロメ
タ ー で あ る 。 こ れ は 、 真 鈴 の 仮 に 丸 L、 孔 を あ け て 、 裳 の 毛 を 網 状 に
張ったものである。この絡子を目盛り代わりに使って対象を観測すれば、角度の
精密測定ができる。その右隣の f
ig
. 5は 、 真 ん 中 に 四 角 い 孔 を 開 け た 37ィート程の定
の中には、対j
l
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方向に二本の!!tの毛が張られている。記号
規 状 の 測 定 器 具 で 、 子L
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eが 示 す の は 、 望 遠 鏡 に は め 込 む た め の ソ ケ ッ ト 部 分 で あ る 。 こ の ソ ケ 吋 卜
を望遠鏡に固定し、定規全体をソケツトに対してスライドさせると、望遠山中
に見える二本の~の毛の間隔が :i1l 統的に変化する。両方の髪の毛を観 m'J 対象に重
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が分かる。この[i継は非常に細かく振る
e期t全 体 を 千 に 分 割 す る こ と も 可 能 で あ る 九
ことができるから 、 M
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li!?イクロメ
これとは 5
1
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1の フ ッ ク の 泣 揃 (1
ーターは、レイタが発明してレノが完成させたものであるという九フックは、
匂 5に あ た る 定 規 状 の 装 慣 に つ い て は 発 明 者 を 但 し て は い な し 、 。 だ が 興 味 深 い こ
とに、そのどちらもが、 1
6
65年 の 『
ミ ク ロ ク ラ フ ィ ア 』 に現れた。
fミ ク ロ グ ラ フ ィ ア 』 に は 、 惑 星 の 視 差 を 笠 遠 鏡 を 1
止って容易に見いだす方法
且差や径のiJ
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を議論した部分がある。その中でフックは、惑昼のf
郷 、 あるし、は目 盛り をつけ た 定規を装着し、 jU~ レ ンズの内制1I の、それがはっ
きりと見えるような距維にほえ付けるべきである。これによって、分、秒の測
定 が な さ れ る 10
と白いた。フックはまた、
「目盛り付きの定規を装 着 した非常に良好な望遠鏡で」
太陽などの径を観測したとも述べている
i10
このように、レンもフックも、彼ら
況に使用
のオズーに対する主張の 通 り、接眼マイクロメーターに 精 通 し
、 それ を i
していたのであった。
ガス コ イ ン の 先 取 権
1
667年 の 3月 、 オ ズ ー に 対 し て 、 イ / グ ラ ン ド 北 西 部 に 住 む リ チ ヤー ド ・タウ
ノ リ ー か ら も 異 議 の 申 し立てがあった。 彼 の 申 し 立 て の 替 簡 は 、 ク レ シ ャ ム ・カ
レ ツ ゾ の 修 辞 学 の 教 授 ク ル ー ン に よ っ て 王 立 協 会 に もた ら さ れ た
抜粋は、
120
『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ トラ ン ザ ク シ ョ ン ズ 』 に 収 め ら れ た
その替簡の
。それは 、
13
オ ズ ー に 先 だ っ て 、 ウィ リア ム・ ガ ス コ イ ン が 接 眼 マ イ ク ロ メ ー タ ー を 発 明 して
い た こ と を 主 張 す る ものだった。
前 々 主 主 で 述 べ た よ う に 、 ウ ィ リ ア ム ・ガ ス コ イ ン は 、 イ ン ク ラ ン ド北 西 部 の 天
文愛好家グループの一人であった。彼は 、 1
6
4
0年 ご ろ に 、 望 遠 照 準 と 接 眼 マ イ
クロメ
タ ー を 考 案 し た 。 ガ ス コ イ ン の 手 稿は、 近 郊 の 友 人 チャ
ル ズ ・タ ウ ノ
リ ー の 手 を 経 て 、 そ の 甥 の リ チ ヤ ー ド ・タ ウ ン リ ー の 元 に 伝 わ っ て い た 。 タ ウ ン
リーは 、 『フィ ロ ソ フ イ カ ル ・ ト ラ ン ザ ク ゾ ヨ ン ズ 』 に 掲 紋 さ れ た オ ズ ー の 記 事
-これと同じ装 f
置は、
1674年 出 版 の フ ッ ク の カ トラー 秘 義 (An Attemptt
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円 noftheEo叫 、 後 述 )に も 収 め ら れ て い る 。 こ れ も 酬 。
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57-458.
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に驚いて;t}簡を送ったのであった 。 タウンリーの手元に.iliされた手前によれば、
ガ ス コ イ ン は 内 戦 以 前 にオズーと問機の発!リl
をしており、惑星の直径の i
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j定 も 行
な っ て い た l九
タ ウ ン リーは、ガスコインの手偏Jil'
i
だけではなく、彼の袋町の実物をいくつか
を
持 っ て い た 。 そ れ は 二 本 の 量i
mい た も の で 、 こ の 方 法 に よ っ て 、
17j→ を 4万
以 と の 部 分 に 分 け るこ と が で き る と い う 。 ガ ス コ イ ン の 袋 i
泣は王立協会に送られ、
こ れ に 対 す る 吟 味 が な され た
150
この装置の仕組みは、フ
γクによって『フィロ
ソ フ イ カ ル ・ トラン ザ クレノヨンズ Jに 記 事 と し て 記 録 さ れ た " 。 こ れ に 添 付 さ れ
1図 ) か ら も 容 易 に 分 か る よ う に 、 ガ ス コ イ ン の 装 ほ の 原 理 は 基 本 的
た図(第 4
にオズーのものと同じである。 :
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!い は 、 オ ズ ー が ス リ ッ ト を 使 用 し た の に 対 し て 、
ガスコインがナイフの刃のような J~ の指針を m いたことにあった '7 。
こ の よ う に ガ ス コ イ ン の 装 置 が論じられた時、 7
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Jクは、彼がこれとは
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恩のものをかつて発明したこと、それが定規と二本の糸から j
点り、X'
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J縦 方 向 に
分割l
を行なうものであることを述べた
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7'
Jク は 翌 年 、 そ の 工 夫 を へ ヴ ェ リ ウ ス に 書 き 送 る よ う に 求 め ら れ た 。 フ ッ ク
の遺稿 集 の 中 に は 、 こ れ に 該 当 す る と 推 定 さ れ る も の が あ る
'
0。 こ れ に よ る と 、
7γ ク の 装 置 は 第 4
2図 の よ う な ものだった。 そ の 原 理 は 定 規 状 の 接 1
1
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メータ
l
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Jく の で は な く 、 糸 の 方 が 円 に 沿
と同じであるが、 この 場 合 に は 定 規 が j
って動くようになっていた。フックの著作や手稿に現れる接収マイクロメ
ター
は 、 い ず れ も こ の よ う に 観 測対 象 に 糸 を 重 ね て 使用 す る と こ ろ に 特 徴 が あ っ た。
先 の 第 39図 で は 、 フ ッ ク の タイ プ の 接 収 マ イ ク ロ メ ー タ ー を C 、 ガ ス コイ ン
の タ イ プ の も の を A と し て い る。 こ の 図 に は 、 こ の 他 に も う 一 つ の 方 式 と し て タ
イプ B が 挙 げ ら れ て い る 。 こ れ は 、 ホ イ へ ン ス に 婦 さ れ る も の で 、 1
6
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6年 の 彼
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17
いる。こ れ は 、 協 会 で 「 何 人 か の 才 能 あ る 人 々 が よ り 使 利 な も の で あ ろ う 」 と 述
? た の で 追 加 さ れ た 工夫だった。
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こ れ に 関 係 す る 記 事 と し て 、 。 Mor
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フックのマイクロメーター
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の 『上 庄 の 体 系 』 に 現 れ た 。 ホ イ ヘ ノ ス の
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iマ イ ク ロ メ ー タ
は、彼型の金属
の内山鋭のぞ点に入れたもので、その剖同制を制州象に重ねて角酬を
測るものだった Z 。
このように、接1
1
日マイクロメーターは隙々の人によって工犬され、{正月1された 内
だ が 、 現 存 す る 史 料 か ら れ る 限 り 、 ガ ス コ イ ン の も の が 時J
9
J(J~J
に最も早いも二
で あ る こ と は 鈍 い な い 。 フックの次の佐代に、イギリスにおいては、カ胸スコイン
ー
の 先 取 怖 が 改 め て 磁 認 さ れ た 。 フックのil't怖の
mlj;者でもあるウィリアム
W
i
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D帥 肌 附 -1
7
3
5
)は
、 山 年の『フィロソフイカル
ム(
ンス 』 の 記 官 で 、 こ の こ と を 明 確 に 指 摘 し た の で あ っ た れ 。
・デラ
トランザクシミ
ー
フ ッ クと望~照準
それと同じ記事でデラムは、ガスコインがもう一つの粉密徽測装置である望i
且
照準の発向であることも宣言した。デラムは、リチヤード
夕ウンリ一の保
していた刀ス一一インの手稿糊類をこの時までに全て入手していた。彼は、その手稲
の中にあった刀スコインやその友人の書簡を基践に、このことを立証したのであ
る。その告簡には 、 天 体 の 成 す 角 度 を 測 る 工 夫 が 轡 き 留 め ら れ て い た " 。 そ れ は 、
照準人りの二つの望遠鏡を、六分 儀 に取り付けたものだった。デラムにとっては、
前節の接眼マイクロメーターより、望i
畠!照準の先取梅の磁保の方が、この記事を
寄稿した本来の目的であった。
第 E部 第 二 章 で も 触 れ た が 、 ガ ス コ イ ン の 発 明 した 接 収 マ イ ク ロ メ ー タ ー と
車照準という こ つ の 材 密 観 測 装 置 は 、 オ ー ト リ ッ ド な ど の 手 を 経 て 、
望i
1
6
5
0年
代までにオクスフォードの自然:学者逮に伝えられたと惣像される"。レノの接眼
マイクロメーターについては本章で既に言及したが、レンの手稿の中には、望遠
照準を記録したものがあったと伝えられている"。これはガスコイン同様に二本
の望遠鏡を使ったもので、二重望遠鏡 (
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りこの即こも、リチヤード
タウンリ ー を 経 て 友 人 の ブ ラ ム ス チ ー ド へ と い う 経
路も苛えられる。こ れ に つ い て の 研 究 は 見 あ た ら な い が 、 こ の 経 路 が 仮 に 存 在 す
るとしても、そ れ が 機 能 し た の は 、 オ ー ト リ ッ ド 経 由 よ り ず っ と 後 の 時 代 の こ と
となる。
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べきものである。
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6
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4年 に フ ッ ク は 、 彼 の カ ト ラ 一 治 義 、
『へヴェリウスの 者 替 、 天 文 機 械 の
第ー :¥1lに対するいくつかの批判)
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)J (以下『批判 J と 時 す ) " を ロ ン ド ン で :
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仮した。この本
り
jし た 二
の 出 版 の 終 仰 に つ い て は 次 節 で 述 べ る が、その'1'でフックは、レノの発 I
重'11i
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買に苫及し、
と狂言した。
「払はこの装 l
世を使って、
1
6
6
5年 に 醤 必 の 迎 '
Mを 訓 べ た 」
mい ら れ た の は 67i-トの長さの望.i!:li
f
lで 、 こ れ を 二 台 ゾ ヨ イ ン ト で
つないだものであったという日。
誌の中には、これを記述したと忠われるものがある
フックのil'tf
4
3図 の よ う な 装 置 で 、
2 70
それは第
67ィートの長さの方形の望.i!:li.売を二つつないだものであり、
レンの発明したものと!日j記されている。その使用訟は、二つの盟.i!:li
J
:
l
で二つの天
体を観測し、その際に望.i!:lI
J
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ll'日互の成す角度を i
J
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I定 す る と い う も の で あ る 。 1
J
1J
互
の大きさをJ
i
iIJ定するための i
宜具は、装置の右に柿かれた定規である。これで接眼
1る こ と に よ っ て 、 天 体 の 角 距 離 を 算 出 す る こ と が で き る 。
節分の距離を胡)
このように、フックはレンの望遠l
照準を使用した。その一方で彼は、独自の望
遠照準を試みた。フックが簸初に望遠照準に取り組んだのは、
1
6
6
4年 末 の こ と
1月 2
3日 に 、 フ ッ ク は 『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア Jの 出 版 許
と考えられる。この年の 1
可を王立協会から得た。その同じ会合で、
「フック氏は望遠鏡によって分、秒ま
でを見つける方法に言及し、それを実行するように命じられた
フックがこれを実際に王立協会に提示したのは、
J"。
1
6
6
5年 2月 2
2日 で あ り 、 ペ
ストの流行で王立協会の会合が中断される数カ月前のことであった
290
この日に、
フック氏は、彼が工夫した新しい小さな四分儀を提出した。これによって、
これまでに一般に知られている最も大きな装置よりも、より正確に天体や地上
7イ:
;
fで 、 そ
の観測をすることができるようになる。この四分儀は半径わずか 1
の円周を却Jく 小 さ な ロ ー ラ ー の 工 夫 に よ っ て 、 非 常 に 正 磁 な も の と な っ て い る 。
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四 的eι8
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.37-114所収 。
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山 的eι8
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8 同 替 の p.5
4で 言 及 さ れ て い る レ ン の 望 遠 鏡 は 、これと悶 ー の
ものと恩われる。
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,s pp.502-503・ こ の 本 の 編 者 の デ ラ ム に よ れ ば 、 こ の 手 稿 に は 、 へ ヴ
エリウスのために執筆したことが記録されているという。フックも、
重望 i
畠鋭]を数年前にへヴエリウスに知らせたと思う
「これ[二
J と 1674年に.iAべた
(
G
回的町 8
.p
.5
仏しかし、フックの手部時際にヘヴエリウスに送られた同は
叫
L
、。なお、王立協会に保存されたフックの手術にも、二重宝i.
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克の記述がある。
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の 6月 2
8 日 の 例 会 か ら 翌 年 2月 21日 の 幹 事 会 ωcil
川 町b
ng ) ま で の こ と で あ っ た 。 例 会 の 河 聞 は 、
3月 1
4 日である。
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レンの二重望~鋭
(Pos的 Ufl10U
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a
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1よ り )
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可司F
そ の た め 、 各 々 の 角 度 は 災 際 に 60分 に 区 分 さ れ 、
その各々は現実に六分割されて、
1イ'
1f
の三 分の 一 段 の 長 さ の
1
0秒 が 分 か る よ う に な っ て い る
7 .;;クがこの l
時に提出したと思われる装置は、
3 00
『批 判 』 の 中 で 詳 し く 述 べ ら れ
た 3 10 それは、第 44図 で t
i
g
. 1と 記 号 を ふ ら れ た 裟 f
Eで あ る 。 こ れ は 、 四 分 儀 に 一
本の日鋭を装着したもので、
a
pは 回 定 さ れ た 望 遠 鏡 、
c
cは 可 動 の 望 遠 鏡 を 示
している 。 どちらの望遠鋭にも、納釧l い糸で作つた十字型の JI(帥が i焦住~
.
I!J保机『
れている 。 両 者 は 、 金 属 反 射 鏡 を 利 用 し た f
i
g
. 1
2の よ う な 工 夫 に よ り 、 四 分 慌 の 扇
の付け恨の部分に開けた孔から、観測者 一 人で同時に覗けるようになってい Z
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.
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可動の望遠鏡ι リムに取り付けた f
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. 1
1(
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)装{置によって、不 ジ仕 掛 で ? 占 密 に ぷ
される 。 四 分 儀 の 目 盛 り の と こ ろ に 熔 え 付 け ら れ た ネ ゾ の 回 転 数 か ら 、 阻 止
m
の成す角度が細かく分かる。 二 つ の 望 遠 鋭 で 兵 な る 天 体 を 飢 i
J
l
l
jす れ ば 、 こ ら ら ぷ
角 度 は 、 両 者 の 角 距 離 と な る 。 また、
apを 底 辺 に し て 四 分 儀 全 体 を 垂 直 に i
居え、
Iす れ ば 、 そ の R . の 高 度 が 測 定 さ れ る 。 こ れ と ほ ぼ 同 じ 装 置 は 、
民 で 天 体 を 飢 捌j
二年後の『太陽望遠鏡について』にも再び現れた
320
フックの装紅はレンのもの
とは多少異なるが、いずれもガスコイン以来の望遠照準の伝統を汲むものであっ
フ コク と へヴヱ リウス の 論 争
フックとへヴエリウスは、
畠照準の是非をめぐって論争を展
1
6
6
8年 か ら 、 望 i
開した 。 当 時 ま で 、 天 文 観 測 に は 第 45図 の よ う な 通 常 の 照 準 ( pl
a
i
n s
i
g
ht
)が 用 い ら
れ、スリットなどを過 して肉眼で星の位置が同定されていた。それはテイコ以来
のもので:当時一般的な器機だった
330
フックが望遠照準を精密観測に不可欠の
ものと考えたのに対して 、 ヘヴエリウスは、むしろ伝統的なこの通常の照準によ
る観測を弁護した。
フックの最初の伝記作者であるウォラーは、
「ロパ ー ト ・ フ ッ ク 博 士 伝 」 の 中
で、 フ ッ ク と へ ヴ ェ リ ウ ス の 論 争 の 始 ま り を 1
673年 ご ろ 、 す な わ ち フ ァ ク と ニ
ュー ト ン が 有 名 な 光 学 論 争 を 開 始 し た 後 の こ と と し て い る
340
しかし実際には、
フックとへヴエリウスの論争は、ニュートンが学界に登湯する以前に始まり、ニ
ュートンの『プリンキピア』が出版される 1
680年 代 半 ば ま で 続 い た 。 フ
γ
クと
へヴェリウスの論争は、世代の異なる天文研究者が、精密観測*'被に対してどの
ような対応をしたのかを考える上で興味深い。
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えて、ワイヤーをリムに@
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つけて可州分を取り付けた工夫も述べられた。
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3.
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畠鋭と 精 密 置Ud
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第
フッヲの望遺照準
(r批 判 J、 Table1よ り)
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計の照準
lを 使 用 し た 六 分 1
担
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s問'Spnorより 】
7'
1 ク と ?ヴ エ リ ウ ス の 論 争 の き っ か け と な っ た の は 、 先 に 論 じ た 長 大 叫 鐙
を め く る 似 bの や り と り だ っ た 。
1
6
6
9年、
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l叩 州 人 コ ッ ク の 作 製 し た 50Y?
ートの長火山 鋭 がヘヴエリウスに送られ L
これに先だってフックは、附年
月2
幻7円
、 長大望i
迷
畠 鋭 の患殺t
l
ぽ世方 r
法去についてへヴエリウスに i
l
tき i
迭苫つた。 そ の 7
・紙
で 7 ,ノクは、 ffi の直径や彼&、昼間士の~[!献を測定する便利な方法として、 '1li且
照準に附Ijlに 言 及 し た
380
これに対する返信で、ヘヴエリウスは盟j
且
1
/
(
1敢 に 興 味
を ど し 、 制1
1に 役 立 つ か も 何lれ な い と 、 そ れ に つ い て 詳 し く 制 送 る よ う に 求 め
た"。だが、この時期フックは、ロンドン大火後の街の再建に忙殺されていた
JT
7'
1クがオルデンバーグを介して望遠!照准の詳しい説明をへヴエリウスに送っ
1日 の こ と で あ っ た " 。 そ の 中 で フ ッ ク は 、 二 つ の 望 i
且仰
た の は 、 翌 年 の 5月 1
昆や六分儀 に 取 り 付 け て 作 っ た 叫 附 を 凶 し た 。 そ の 制 鋭 の J
引
を四分 1
l
H
;
ンズは 、 腐 の 中 心 仰l
に置 か れ 、 対 物 レ ン ズ は 周 の 方 向 に 向 け ら れ て い た 。 取 り 付
けられたこつの望遠 鏡のうち、一方は国定され、他方は装位のリムにそって i
f
V
Jく
ー
このような悩は、前節で取り上げたフックの望遠照準(山図)に類似し
J
いる。だが、 精 密 観 測 に と っ て 重 要 な リ ム の ネ ジ 仕 鉛 の 部 分 の 記 述 は 、こ の 手 紙
には見あたらない。また、使用されているこ台の望遠 鏡は、二つの四角い筒を入
れ子にして
f
r
l紛 可 能 と し た も の で 、 前 節 の も の と は や や 異 なっている。
望i
且鋭 の
長さが 67fートである点から考えると 、 こ れ は レ ン の 二 重 望 遠 鏡 と 、 フ ッ ク の 盟 j
g
j
・
照 準 の 中 間 的 な 形 態 の も の と も 考 え ら れ る 3。
装置の基本椛造を述べた後 、 フックは手紙の後半部分を 、角度目鐙りを正磁に
lI<る方法に充てた。例えば四分 儀 の 場 合 、 正 し い 目 盛 り を 与 え る た め に は 、 最 初
に厳密な直角を作ってから 角 度 の 分 割を 行なう必要があるの
0度 で あ る か ど うか は 、 次 の よ う と し て 知 る こ と が で き
四分 儀 の 扇 が 正 し く 9
0
1
まず二つの問を適当に固定して、第 4
6図 の aと bの 方 向 に あ る 泣 くの 2
】 を 見 る 。 次 に 、 照 準 を 水 平 に 保 っ た ま ま 回 転 し て 、 aの 方 向 に 向 い て い た 照 準
を bに 向 け る 。 こ う す る と 、
bを 見 て い た も う 一 つ の 照 準 は 、
C方向
を 指 す。 二
つの照準が正取 l
こ 直 角 を 成 し て い れ ば 、 こ の よ う な 操 作 を 3回 繰 り返 す と 、 最 初
bf見 て い た 附 は 、 悩 に は 正
し く aを 向 い て い る は ず で あ る
n
こ の よ う な キ ャリ プ レ ー シ ョ ン の 詳 しい 記 述 は 、 フ ッ ク が こ ゐ 磁 の 器 具 の 抜 い
で
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一つの望 i
且鋭 は 、 レ ン の 二 重 望 i
且鋭 の 場 ム 「 は 叫 物 レ ン ズ の 剖i
分で、フックの
望退照 準 の 場 合 に は 接 収 レ ン ズ の 郎 分 で ぶ
J
れてい る点 に 問 。
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1-4 望 遠 鏡 と特密搬出│
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( OldenburgC
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.
p 4,
p
.394よ り )
クの図
に通じていたことを示している 。 だが、初めて守~ ~且/lH ~牲を知l るヘヴェリウスにと
って:この説明がふさわしいものであったのかどうかは疑問である。むしろへヴ
ェリワスは、フックがこの装置を j
f
H
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1
1
1に 興 味 を 持 っ て い た は ず だ か ら で
ある 。 しかし、
こ れについてフックは、史述/1(¥喰を持つ 1Aハリ(約 2
3セ ン チ )
の半径のものが、 6
07{ート(約 1
8メ ー ト ル ) の 通 常 用l準 の 装 置 の 精 度 を 後 ぐ と た
だ 断 言 す る の み で あ っ た 40。
7
y
f
の こ の 主 張 に 対 して 、 翌 月 の 手 紙 で 、 へ ヴ エ リ ウ ス は 当 然 の ご と く 災 を
唱えた・
o
彼 は 、 望 遠1
)
日単を十分竪聞に固定することは悶縦であり、ズレる恐れ
が あ る こ と を 指 摘する。
1^ハ・
y で 60 7 ィートの迎',:;:;の装置を凌ぐことは、 llll~命的に
は可能でも、現実 に は難 し い 。 も し も そ の よ う な こ と が 本 当 に で き る な ら ば ‘ い
く つ か の 星 の 距 離 を 実 際 に 測 定 し て 結 果 を 知 ら せ て 欲 し い と へ ゥ・ェ リ ウ ス は 古 い
た。 そ し て 、 デ ー タ を と る べ き 星 を 8組 具 体 的 に 指 定 し た 。
へヴェリウスのこの手紙は 、 フックへの批判を含んではいるが、大変友好的な
内容のものだった。以前に引用したように、同じ手紙の中でへヴエリウスは、望
畠銭の選択にフックの助言を求め
遠鏡に 「非 常 に 熟 達 し た 」 人 物 と し て 、 長 大 望 i
たのであった 。 へ ヴ ェリウスのフックに対する敬意は、
1
6
7
4年 にフ ッ ク が 『 批
判Jを 出 版 す る ま で 、 一 貫 して変 わ ら な か った。
ヘ ヴ エ リ ウ ス の こ の 異 論 に対 し て 、 フ ッ ク は オ ル デ ン パ ー ク を 介 し て 再 度 書簡
を送り、望遠照準がなぜ正確なのかを説明した.,。そこでフックは、望遠I
!
日準を
正しく装着すること は 、 i血 1~' の照機同様に可 能 である こ と、また 、 精密な ìlll) 定の
ために、ネジ仕掛の駆動 装 置 がリムの部分 にあ る こ と な ど を 述 べ た 。 し か し 、 こ
の駆動装置の解説は 、 図 を 添 付 しておらず、分かりや す い も の と は い え な か っ た n
フ ッ ク は こ の 魯簡 で、 こ れ ら の 説 明 に 加 え て 、 こ の 後 の 議 論 の 展 開 に と っ て 主
要 な 次 の よ う な 論 点を 提 出 した 。そ れ は 、 肉 眼 の 限 界 に 関 わる 問 題 で ある。
望遠鏡によって、私たちは通常の照準よりはるかに精密かつ正磁に対象の詳細
を 見 分 け ら れ る よ う に な り ま す 。 と い う の は 、 線 眼 で は 1分 を 確 か に 見 分 け る
のがやっとなのに 、 望i
且鋭を使 え ば、 楽 に 秒 の 単 位 まで、 あ る い は 1秒ま でも
目で見分 け る こ と が で き る か ら で す " 。
1ツクのこの主 張 は 、 実 は こ の 時 初 め て 現 れ た も の で は なかっ た。 彼 は 、 印
年ιマイクロメ 一 夕 一 に 関 し て オ ズ 一 と や り と り を した が 、 こ の 時 に 、 ほ と ん ど
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日は、
l分 以 下 の 角 度 を 見 分 け ら れ な い こ と を 指 摘 し て い た
スと 7 .~クの論争は、このように、
っていた。
オルデンバーグは、
440
へヴェリウ
1,1 ¥'1';観測をめぐるオズーとの椛論と関.iiliを持
1
6
6
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'
1の へ ヴ ェ リ ウ ス 宛 の 手 紙 で 、 フ ッ ク が 肉 │ 恨 の
1~ JI({t性が、通常の J
I
(
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¥
I
l
限界を丙ぴ 問題にしたことを白き送った"。フックは、5'
より 6
0{汗以上正確であると述べたという。
nに
このようなフックの主般に対してへヴェリウスは、この年の 1
1月 か ら 1
2
かけて、二迎の手紙の中で反論を展 1
mした
460
そこでへヴエリウスは、小さな望i
且
照準は正確に観測対 象に向けることができないこと、大きな盟i
畠鋭をもe.った望 i
畠
照準は小さな六分 儀 などには使
mで き ず 、 ま た 安 定 し て 取 り 付 け る こ と も で き な
いことを主張した。さらに彼は、望遠鏡が寒冷な土地では 曇 り易いというポ
弓
は
ン ドに 固 有 の 占 も 問 題 に し た 打 。 へ ウ'エ リ ウ ス は 、 望 遠 照 準 で は 秒 単 位 叩 剖l
できないとする一方で、通常の)/({t
V!ならばそれが可能なこともあるとしている川
l
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彼 は 、 て ' き れ ば フ ッ ク と 直 に 顔 を 合 わ せ て 話 し 合 っ て み た い と 希 望 し 、 制 限ー
を装備した小さな 観 測 装 置 を 自 分 の た め に 作 る よ う に 依 頼 し た 。 加 え て、 接 眼 マ
イ ク ロ メ ー タ ー に 関 す る 情 報 を 知 ら せ る よ う に オ ル デ ンパ ー ク に 求 め た 4 人
へ?エリウスは 、 その後の 刊
した
500
で も望 削 刊 の 笑 物 を 送 る よ う に 繰 り返 し 制
だが、 そ れ は 先 延 ば し に さ れ る ば か り で " 、 結 局 フ ッ ク は 、 へ ヴ ェ リ ウ
スに実物を送ることはなかったと 思 われる。フックとへヴェリウスのやりとりも、
これとともにしばらくは立ち消えとなったのだった。
『天 文 機 械 』 の 出 版
彼 ら の 論 争 に 再 び 火 を 活 け た の は、 へ ヴ エ リ ウ ス が 1
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3年 に 出 版 し た 『天文
俊彼 ・前 編 J だった。
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その説明は、 基 本 的 にそ れ ま で の フ ッ ク と の 議 論 の 繰 り 返 し で あ り 、 理 論 上 う ま
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た"。へヴェ リウ ス は 、 一 般 の 天 体 観 測 に 裂 i
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た。だが、 S'l~ 鋭 を 11日 単 に 使 用 す る こ と に は 懐 疑 的 で あ り 、 通 '
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る理由はないとした"。彼は、
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5-10秒 ま で の 飢 測 が 通 7
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へ ヴ ェ リ ウ ス の 著 書 は 、 出 版 さ れ る と 、 さ っ そ く 本 人 の 手 で イ ギ リス へ 送 ら れ
た570 フ ッ ク は 、 へ ヴ ェ リ ウ ス の 望 遠 照 準 批 判 に 対 し て 、
1
6
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3年 1
2月 1
1日 、 王
立 協 会 の 会 合 で 1時 間 弱 に 及 ぶ 反 論 を 展 開 し た S九 し か し 、 そ の 内 容 は 残 念 な が
ら伝わっていない。
5目 、 自 ら の 主 張 を 正 当 化 す る 実 験 を 行 な っ た 。 そ れ は
フ ッ ク は 翌 年 の 1月 1
肉眼では 1分 以 下 を 区 分 で き な い こ と を 立 証 す る 実 験 だ っ た 。 フ ッ ク は 、 あ る 距
離から見て 1分 に 相 当 す る よ う に 目 盛 り を つ け た 定 規 を 用 意 し 、 会 合 の 参 加 者 全
そ の 距 離 治、らは 、 誰 一 人 と し て そ れ ら の 部 分 を 区 別 で き る
早にこれを見せた。 r
も の は い な い よ う に 思 わ れ た J 5110 こ の 実 験 は 、 翌 週 の 会 合 で も 繰 り 返 さ れ た 6 0 0
この月のオルデノパーグの手紙によると 、王立協会で望遠照準に対するへヴェ
リウスの 態 度 に 架 を 唱え た の は フック だ け で は な か っ た " 。 だ が 、そ の 記 述 か ら
は 、 そ れ が 具 体 的 に誰だったのかは分からなし、。
ヘヴェリウスの通常の j
照準への固執を批判する者は、王立協会の会員外にも存
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3年 7月 の カ ツ ン ー ニ 宛 の 手 紙 の 中 で 、 ブ ラ ム ス チ ー ド は 、 次 の
ように普いた。
か の ヨ ハ ン ネ ス ・へ ヴェリ ウ ス は 、 実 際 に 恒 星 の 表 の 作 成 を 行 な っ て い る と い
うことですが、 伐 念 な が ら 彼 は 、 ガ ラ ス [レ ン ズ ] を
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望 遠 照 ヂ に 対 す る フ ラ ム ス チ ー ド の 慨 は 、 一 時 的 な も の で は な か った。 後 に
論じるよっに、彼は皇i
皐 照 準 の 付 い た 六 分 儀 を 用 い て、
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6年 か ら グ リ ニ ッ ジ
天 文 台 で さ か ん に 観 測 を 行 な ったのである。
6
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4年 の 3月 の オ ル デ ン パ ー グ 宛 の 手 紙 で 、 自 分 の 経 験 を
ヘ ヴ エリウスは 、 1
恨 犯 と し て 、 フ ッ ク や フ ラ ム ス チ ー ド に 対 す る 名 指 し の 批 判 を 皮 肉 した"。 そ の
主たる部分は、彼枠されて、
された 6 60
『フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ ト ラ ン ザ ク ゾ ヨ ンズ J に 収 録
そ こ で へ ヴ ェ リウ ス は 、 望 遠 照 準 が 優 れ て い る こと を 立 証 す る た め に は 、 そ れ
を 使 っ た 長 年 の 観 測 が 必 要 で あ る と 述 べ た 。 彼 は 通 常 の 照 準 に よ る 自分の 観 測 が
優れ た も の と 認 め ら れ て い る こ と を 引 き 、 望 遠 照 準 に よ っ て 同 様 の 星 の カ タ ロ ク
を 作 っ て 比 較 し て み る よ う に 求 め た。
け れ ど も 、 も し そ の 仕 事 を 全 て 望 遠 照 準 で行 な っ て い た と し た ら 、 私 は 観 測 に
多くーの年月を 浪 費 し、 様 々 の 理 由 から 、 疑 い な く希 望 を 失 っ て い た と実 際 に 考
えさるを 得 ま せ ん 日 。
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フ ラ ム ス チ ー ド は、
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7年 2月 8 日 に 王 立 協 会 の 会 貝 に 選 出 さ れ た o 意 外 什
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め る 二 と が で き な い と 彼 は 附 品 し た 。 し か し 、 こ の へ ゥ ・ ェ リ ウ ス の 手 紙 の 1削 1
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)
ほど後、オルデンノ〈ーグは、フックとフラムスチードが、ヘヴェリウスに批判的
で あ る こ と を 再 び 伝 え た aso
フッ クの 『 批 判 』
フ ッ ク が 、 ク レ シ ャ ム ・カ レ ッ ジ で 行 な っ た カ ト ラ 一 統 義 を ま と め た 若 也 、
『へ ヴ エ リ ウ ス の 若 昔 、 天 文 機 械 の 第 一 部 に 対 す る い く つ か の 批 判 』 の 執 筆 を 終
えたのは、
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2月 1
0日 の こ と だ っ た 6 九 そ れ は 出 版 さ れ る と 、 翌 年 の 4丹、
オルデンパーグの手で、ヘヴェリウスに送付された"。
比例の要点は、ヘヴェリウスの観測の 精度が、百年
フックの J
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処としてフックは、ヘヴ
ーエの観測精度を越えないということにあった。その摂i
エリウスの観測装位とテイコの観測装置の大きさが同じであること、彼ら双方が
ともに通常の照準を使用していることを挙げた。ヘヴェリウスは装置の目袋り付
け に 新 し い 方 法 を 提 案 し て い る が 、 そ れ は 困 難 な 方 法 で あ る 。 だ が 、そ れ以上に、
肉眼の持つ限界が妨げとなるという
710
こ こ で フ ッ ク は 、 肉 眼 で 識 別 で き る 限 界 が 角 度 で 1分 で あ る こ と を 示 す た め の
実 験 を 説 明 し た 。 そ れ は 、 備 状 に よEく 塗 っ た 白 い 紙 を 使 う も の で あ っ た ( 第 4
7
図中の i
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8と あ る も の ) 。 こ れ を 笠 に 張 っ て 後 ろ に 下 が り な が ら 眺 め 、 分 割 が
見えなくなる距離で衡の歯を見込む角度を計算すれば、個々人の限の限界が定め
られるけ 。
フックは、へヴェリウスが使用 した四分儀や六分儀を吟味し、それらの精度が
3
0秒 以 上 と な る こ と は あ り 得 な い と し て い る
730
彼は、ヘヴェリウスの望遠照
準 矩 否 を 先 入 般 に よ る も の と 述 べ 、 望i
畠l
照準の方が取m.いが楽であるとした。フ
ックは、
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且鋭のタイプの望遠照準で、
観測が可能であり、
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65年 に 実 際 に 主 主 星 の 観 測
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が優れていることを知るのには 、長 い 時 間 は要さない,.。へヴェリウスはしばし
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の 浜 り を 正 した 。 だ か 、 フ ッ ク は 炊 の よ う に 言う。
。へヴエ リ ウ ス は 、 テ イ コ
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ねはなお、世間がそれを人間の努力の限界、すなわちそれより上のないものと
見なして欲しくはないし、望i
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・ 7γ クは 、 望 遠 1(1単について
知らせたのにも関わらずそれを採用しようとしないへヴエリウスを郷徐し、
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機 の 改 良 が 、 何 を 生 み 出 す の か を 見 ょ う で は な い か 」 と 読 者 に 呼 び か け た "。
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フックは、装置の具体的な事例として、リムに不ジ仕掛で測定者告を留めた望遠
丘 三 日 江 戸 に わ た っ て 詳 し く 記 述 し た 置 o 彼はその最
一九 こ の 説 明 が 具 体 的 で あ る こ と か ら も 分 か る
ように、フックは、殺しい職人のトンビオンに実際にこれを作らせてい← H
ド
が、図 を用いた分かりやすい形て'フ γ クが望遠照準をへヴエリウスに提ぷし;こぶ
は、実はこれが初めてのことであった。
以上のようなフ γ ク の 議 論 に 対 し て 、 ヘ ヴ エ リ ウ ス は 怒 り を あ ら わ に し た 。 フ
ックの「 批判 Jが 出 版 さ れ た 直 後 の オ ル デ ン ハ
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書簡には、それまでのや
りとりには見られない激情の現れが見られる..。それは、 30年 以 上 に も わ た る
天文観測の多大な努力を、精度の低いものと一蹴されたものの償りであった。
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努力するが、 優 劣 の 判 定 は 他 の 人 々 に 任 せ た い 。 ヘ ヴ エ リ ウ ス は 、 こ の よ う な 内
容 を 、 彼 の 長 い 手 紙 の 中 で 述 べ た 。 こ の 住 附 は 、 彼 の 存 命 中 の 最 後 の 著 替 、 『晩
年(
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羽田 d
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フックは、その時もまた王立協会でへヴ
エ リ ウ ス に 対 し て 望 遠 照 準 の 優 位 を 主 張 し 、 彼 に 対 す る 不 満 を 述 べ た の だ っ た ・ 6。
ハレー の へ ヴ ェ リ ウ ス 訪 問
この よ う に 、フ ッ ク と へ ヴ ヱ リ ウ ス の 論 争 は 、 平 行 線 を た ど る ま ま で あ っ た 。
だが 、 歴 史 的 に は、 望 遠 州 そ 通 常 照 準 の 優 劣 の 決 着 は 川 的 早 く つ い た 。 山
照準 に よる 刊
の 精 度 は 、 フ フ ム ス チ ー ド の 段 階 で 附 程度となり、 へ ヴヱリ
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ウス を 凌 い だ t 。 フ ラ ム ス チ ー ドがグ リニ ツ ジ 天 文 台 で 観 測 を 開 始 し た の は 1
ー 立 川
紀 初 頭 の こ と で あり 、 ち ょ う ど フ ッ ク の 没 す る
しかし、へヴエ リウ ス の 肉 眼に よる 観 測 は 、 フ ッ ク が 考え た の と は 追 っ て、 ニ
ィ コ の 水 準 に 留 ま る も の で は な か っ た。 テ イ コ の 観 測の 精 度 は 1サ
程度 と ;
われるが、これに対「 て
、 へ ヴ エ リウ ス の 精 度 は 川 一 1分 程 度 で あ り 、 か な
りの向上が見ら れたー 。
?ヴエリウスの 観 測 府 度 が 予 惣 を 上 回 る こ と は、彼 の 天 文 台 を 訪 問 し た エ ド モ
ノト ・ハ レ ー に よっ てイ ギ リス に 伝 え られ た 。 ハ レ ー が ダ ン ツ ィ ヒ に へ ヴ エ リウ
スを 訪 ね た の は 、 1
679年 の こ とであ っ た
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5年 の こ の 著 書 までの
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聞のフックとへヴエ リウ ス の や り と り に つ い て は 、そ の 存 否 も 含 め て 綱 引
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かっ た。こ れ は 、 今 放 の 課 題 とし たい 。
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ヘヴエリウスが若いハレーの観測に関心を持ったのは、ちょうどこの頃のこと
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だった 。 一 方 の ハ レ ー も 、 こ の 前 後 に 、 当 時 肢 も 有 名 な 学 者 の 一 人 で あ っ た へ ヴ エ
1-'5ために、タン Y ィ ヒ 訪 問 問 し た の だ っ た
リウスの制問機や飢測法を1<
ハレーがタノツィヒに着いたのは、
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f5月 26 日 ( 新 酌 で あ っ た 川 内 二
ヴエリウスは、雨天観測の経験のあるハレーの到 ~t に非常に則、彼を歓待 Uこ
ハ レ ー は 7月 1
8日 ( 新 暦 ) ま で タ ン ツ ィ ヒ に 留 ま り 、 へ ウ ' エ リ ウ ス と 共 同 の ー
測を行なった。
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<散 を 比 般 す る た め に 、 ダ ン ツ ィ ヒ に 盟 i
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tを 持 参 し た ー
ハレーは、二躯類の 1
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へレナ島の制聞の際に望遠附のついた大きな六分儀(刊
ート)を用いており、二つの l
照準を比較するのに適した人物であった
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彼らの観測は、ハレーが到着した日にさっそく開始されんそのすく'釦こ、ハ
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s Moore,1617-1679)に 替 簡 を 送 り 、 へ ヴ ェ リ ウ ス の
レ は ジ ョ ナ ス ・ム ー ア Q
観 測 に つ い て コ メ ン 卜 し た 。 そ の 内 容 は 、 6月 5 日 ( 旧 暦 ) の 王 立 協 会 の 会 合 で 、
フックによって発表された。それによると 、
ハレ一氏は、へヴヱリウス氏の観測と器綴を見た。それらは、非常に素附らし
いものであったが、全て通常の照準を装着していた。彼は、へヴエリウス氏が
これらの装置を用いて二つの恒星の距般を観測するのを見た。それらは、
1分
の 半 分 ま で 測 定 が で き た が 、 [ 星 と 星 の 距 離 が 1 1分 以 下 の 場 合 に 、 彼 は そ れ
をすることができなかった"。
こ の こ と は 、 人 間 の 眼 の 分 解 能 が I分 で あ る と い う フ ッ ク の 主 張 を 裏 付 け て い た 。
だ が 、 こ れ は 同 時 に 、 た と え 隣 媛 す る 対 象 に つ い て 肉 眼 の 分 解 能 が 1分 し か な く
とも、これより大きく綴れた観測対象であれば、
1分 以 下 の 精 度 ま で 測 定 す る こ
とが可能であることを意味していた。これは、フックの立論の弱点であったn
ハレーは、
7月 1
7日 ( 新 暦 ) 、 ヘ ヴ ェ リ ウ ス の 観 測 に つ い て フ ラ ム ス テ 二 ド
に も 書 簡 を 送 っ た 。 そ こ で ハ レ ー は 、 次 の よ う に 容 L、た。
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4-85.'7 γ ク バ イ ク は 、 ハ レ ー の 訪 問lが 、 へ ヴ エ リ ウ ス と 文
通のあったフフムスチードの勧めによる可能性があるとしている 。 なお、フラム
?チードの 釧
類はケンフリッジに、ヘヴエリウスの手稲類はパリにある。;れ
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の分析には、多年にわたる国際共同研究が必袈と思われる
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て 、 私 は 本 当 に 大 変 篤き ました 。 も し 白 分 で 日 に し て い な か っ た ら 、 そ う い う
話 を 日 じ る こ と は ま ず で き な か っ た て'しよう 。 実 際 、 仰 向 じ 削tを 何 度 か 繰
り必してiJl
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主したのですが、
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0砂 と 誤 差 が あ る こ と は あ り ま せ ん で し た 日 。
へヴエリウスはハレーの持ってきた望泌JI({1\~
を使った飢測も行なったが、通常
の照準以上の測定 をするこ とはできなかった'
ハ レ ー は 、 セ ン ト ・へ レ ナ 島 時 代 か ら 後 年 の グ リ ニ
γジに至るまで、望i
且!照準
を使用した天文学者である。しかし、ハレーは、へヴェリウスの飢測に対して上
のような好意的な報告を行なった。ハレーは、ダンツィヒを発つ際に、へヴエリ
ウ ス へ の 感 謝 と 、彼の在Q測 が 信 頼 で き る こ と を 保 証 す る 手 紙 を 3き 伐 し た 内
一ヴェリウスが火事の不幸に見舞われたのは、ハレーが去って間もなくらこと
6
7
9年 9月 2
6 日 、 ダ ン ツ ィ ヒ の へ ヴ ェ リ ウ ス の 館 は 火 災 に 襲 わ れ、
でめった 。 1
彼 の 天 文 台 は 破 峻 さ れ た ・ 50 幸 い に も 、 貴 重 な 手 稿 類 と 製 本 さ れ た 白 籍 類 は 焼 失
を免れたが、未製本のものは失われた。そのため、出版されたばかりの『天文機
械 ・ 後 編 Jは 、 わ ず か な 昔 日 数 を 除 き 、 現 在 に 伝 わ る こ と が な い 。 ヘ ヴ ェ リ ウ ス は
数年のうちに天文台を再怨したが、それは元の水準に戻らなかった。ヘヴエリウ
スは、そのような不幸な状態の中で、
1
6
8
7年 、 生 涯 を 閉 じ た 。
水準器と赤道儀
これ ま で 論 じ た よ う に 、 フ ッ ク の 『批 判 』 は 、 望 i
車照準をめ ぐるへヴェリウス
との論争の一環として出版されたものだった。だが、そこには、望遠照準以外の
フックの天文器機も収められた。その一つは新しい水準器であり、四分儀などを
7図 中 の 原 図 番 号 f
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4) 。
正しく垂直に据えるのに使用されるものである(第 4
これ は 、 7 ) ( を 詰 め た 容 器 に 空 気 の 泡 を 入 れ た 、 現 在 も お 馴 染 み の 装 位 で あ る "
封入された水の中には闘などが浪人され、不凍液の役割を果たしている。こ
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装置を観測器機に取り付けることによって、将密に水平を得ることが可能で、そ
こから鉛直を得ることもできる。この鉛直は、おもりと糸を使った通常の仕加で
は作ることのできない正確さを持つものであるという。
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3 彼が火災にあったことについては、王立協会で 1
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「批判 J の 赤 道 儀を 論 じた部 分 で 、 フ ッ ク は 、 ユ ニ
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例を述べた。
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『 太 陽 制 鋭 に つ い て Jで 図 示 し た よ う に ( 第
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8図)句。凶、ユニバーサル ・ジ ョ イ ノ ト は 、 元 来 は 時 計 の 針 を 日 時 計 の 彬 に 重 ね
駆 動 す る た め の 工 夫 と し て 考 架 さ れ た 。 そ れ は 、 地 球 の 附 円 相Li
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こす太陽迎 i
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ジョイントは、水準器や赤道俄問機に、フックの天文研究と深い関係を持つ存在
であった。
フ ッ ク は 、 彼 の 「 批 判 Jを 、 こ れ ら の 諸 装 I
I
Iを 使 用 す る 目 的 に つ い て 記 し て 結
んだ。彼によれば、それらの工夫は、
「地理学、天文学、航海術、哲学、白日
等の改善」に役立つもの である。もっと具体的にいえば、大気による光の屈折が
天文観測に与える彰 響を見いだし、恒星や惑星の位置を決定し、いろいろな場所
の純度を定め、惑星と地味の相互作用を調べ、地上のニ夜間の角度をsJ
j
lり 、 そ の
二点問の距般を測定し、星の直径を定め、さらにiJ
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立を 行 な う の に 用 い ら れ る の
だった 1 0 8 0
恒星の年周 視 差 の 測 定
以 上 の よ う ? フ ッ ク の 天 文 器 機 は 、 当 時 の イ ギ リス の 天 文 学 の 伝 統 の 延 長 線 上
にあったといえる。例えば、フックの長大望遠鏡への取り組み、あるいはそれを
短 縮 す る 試 み は 、 ま さ に イ ギ リ ス に お け る 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 の 上 に あ っ
た。フックは、接収マイクロメーターや望遠照準に取り組んだ。これらはともに、
カ ス コ イ ン 子 よ っ て 発 明 さ れ 、 前 者 は タ ウ ン リー の 手 で 、 後 者 は レ ン を 媒 介にー
フックに仇られたものと考えられる。それらはフックによって改良され、ぁよ
いは周辺にそれを使い易くするための新しい器機がつけ加えられた n
だが、フ
γ
クの天文研究は 、単に他人の行なったことの繰り返しふ改良に尽き
る も の で は な か っ た 。 フ ッ ク は 自 ら 天 文 観 測 を 展 開 したが、以下に述べるように、
伎の恒星の年周視差倹出の試みは、精密な観測装置が登場し始めたこの時期にな
って、ょうやく現実に視野に入ってきた 問 題 であった。その課題自体は、レン に よ
っても認 識 されたが、 そ の 観 測 が 実 行 さ れ る こ と は な か っ た , " 。 フ ッ ク の 年 周
視差の 観 測 は 、 イ ギ リ ス に お け る 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 に と っ て 新 し い 問 題
だった。
フックの年周視差の飢iJ
l
jに 閲 す る 記 録 は 、 1666年 6月 20 日 の 王 立 協 会 の 記 録
ナ:-ーー一ーー一ーー
;日『太 陽 望 遠 鏡 に つ い て 』 の 本 文 に は 、 ユ ニ バ ー サ ル
ジ ョ イ ン 卜の 詳 しい 説
明があ る。
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ー サ ル ・ジ ョ イ ン トと い う 呼 び 名 は 、 発 明 者 フ ッ ク 自 身 が 与 え
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I-4 望 退 鏡 と精 密 1
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第
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8図
日時計に使用されたユニバーサル・ジョイン卜
(r太 陽 望 遠 鏡 に つ い て J、 Table1よ り )
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に級相Jに J
)
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.れ る 。 そ こ に は 、 次 の よ う な 記 述 が あ る 。
彼 [フ ッ ク ] は 、 地 球 の 軌 道 に よ る 悦 差 を 砂 1
1
1位 ま で 御 測 す る こ と に 乗 り 出 し
た。 そしてまた、筒を使用しない長い明i.!:!$克による観測も始めた
ttoo
翌年 1 刀 9 日の会合でフックは、会長からこれを早急に進 II~ させるように勧めを
受けた
1110
年問削iJ)Ijのためにフックの装置が設 l
uされたことは、
王立協会の会合の記録に現れる
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附年 1
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J 22 日の
。 そ の 剣 山l
裟 位 や 、 こ れ を mい て フ ッ ク が 行
112
なった観測は、彼のカトラ
柿義、
『試み J と 略 す ) に ま と め ら れ た 。
『地球の連盟リ~ .を証明する試み J
(以下再び
f試 み Jの 最 初 で フ ッ ク は 、 合 理 的 な 思 考 を す る 人 々 に 、 J
也
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)
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見の 1
正使l
として、
年周視差の観測を提供することが重要であることを強調した。テイコやリッチ司
ーリは、 f
見差を見つけることがで'きなかった。だが、彼らの制問度は 3
0秒 ミ
越えることはなかった。だから 、 それは「決定実験」たり得なかったとフックは
主 張 し た t 13 0
彼が言うには、観測精度は 3
0秒 ど こ ろ か 1分 を 越 え る こ と も 実 は 困 難 で ある《
j
観測装置は師、湿度の仰を受け、自主でゆがみ、目盛り付けも難しい。し 、
し、母大の困難は肉眼の限界であり、
1分 以 下 を 識 別 す る こ と は で き な い " .
そ干ゆえにフックは 、 望 遠 照 準 を 使 用 し 、 装 置 の 歪 み を さ け る た め に 、 全 体 を
レソャム
J
カ レ ッ ジ の 彼 の 部 屋 に 組 み 込 ん だ の だ っ た ( 第 49図 の f
i)
!.4) '
"
内
,望退鋭の対物レンズは 、 屋 棋 に埋め込んだ筒の中に入れられてお‘り 、 接 眼 レ ン
ス は 、 階 下 に 置 か れ た ス ツ ー ルの子Lg
gに 組 み 込 ま れ た 。 観 測 は こ の ス ツ ー ル の
下に横たわって行なわれる。天頂部分を鮫測対象とするのは、大気の屈折の影響
を避けるためである
U60
天頂方向からの光は、大気に垂直に入射して来るので、
屈 街 を 受 け な い 。 屋 根 の 対 物 レ ン ズ の 焦 点 距 離 は 367{ ト で あ り 、 視 差 の 検 出 に
用いられた接眼 7 イクロメーターは、図中の原図番号 百
巴 7で 示 さ れ て い る も の だ
った。これは、
9イ ン チ の 其 銭 の 丸 い 枠 に 髪 の 毛 を 張 っ た ものである。
c
d上 の 角 距
離 は 、 こ れ に 斜 め に 交 わ る こ 本 の 糸 を 媒 介 に 、 右 織 の 定 規 opで 定 め ら れ る 。 こ
110
Bi
見,
h 2,p.9
8
111
B町九 2,
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.1
39
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.2,p.315.
113
G叩 凶e
r
;8,pp.3-4・当 然 の こ と な が ら 、 テ イ コ と リ ッ チ ョ ー リ は 、 コペ ル ニ ク
見差を考えた。
ス説に反対する立場から 4
‘
" G凶 的 何 8,pp.8-9.
"c
四 的e
r
;8
,p
p.1
6
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115
G四 凶e
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;8,p.1
5
- 191 -
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I-4 望 i
畠銭 と精 密 級榔l
可司r
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﹄
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第
4
9図
恒星の年周 1
見差を検出するためのフ
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クの装置
策 置 は グ レ シ ャ ム ー カ レ " ) :/の彼の 日1
I尽 に 設 ( 世 さ れ た 。
(r
地球の運動を,fII:I
Y
Iす る 試 み J よ り )
うして、足の位置がHil'l'.'に測定されるのだった
2170
フックがこのような天1]1慌を使って制iJl
J
lを I
)
I
J始 し た の は 、
ことであった
I180
1
6
6
9年 7月 6 日の
観 測 の 対 象 と な っ た の は 、 天 頂 に 近 い 星 座 で あ る 可L
I
Mの
'
1
'の
と 1
0月 2
0日の飢iJl
J
l
結 果 を 比 i険
一 日 ? 明 る い 星 (" 星 ) だ っ た , ・
,0 彼 は こ の 御 山l
0抄 の 角 度 の 変 化 を 見 い だ し た 。 こ の こ と か ら フ ッ ク は 、 次 の よ う に 結
し、約 2
論した 。
7
Eの切の昔s分 に あ る 恒 星 に は 、 地 球 の 軌 道 に よ る 視 差 が 認 め ら れ る 内 し た が 「
てこれ?;プトレマイオスやテイコのものに対してコペルニクスのふ系の叩
となる" 。
l
l
l
*
古来は、学界で正しいものと認められたわけではないけ人
だが、フックの 徽 J
i
例 山、ホイへンスはフックの研究を讃えたが、同時になお一層の観測ふ必要
考えていた
1220
J
また、望遠鏡や顕微鏡を詳しく論じたウィリアム・モリニ守一
(
W
山 am M叩 叫 l
師 一1
6
悶の『新しい屈好光学』も、フックの観測につい二の
態度を保留した
。一方フラムスチードは、
1%3
1
69
4年 1月 に 観 測 デ ー タ を 整 理 し
ている際に、北極星に年周干見差がある こ と を 見 つ け た
四年、フ
l240
7ク と 同 じ 竜 座 の 7星 を 観 測 し て そ の 運 動 の 不 整 を 発 見 し た の は 、
ソ ェ ー ム ズ フ ラ ッ ド レ -Uam
e
s B四 d
ley
,1
6
9
3-1762
)だ っ た 。 彼 は 当 時 オ ク ス フ ォ
- r:のサヴィル天文学教俊であり、後にはグリニッジ天文台長を勤めた., ,
.
. . -'1
7ラ ッ ド レ ー は 、 年 周 視 差 の 制 に 、 裕 備 な ア マ チ ュ ア 天 文 研 究 家 の ふ ミ ュ エ
6
69年 1
2月 2日 に 王 立 協 会 で 紹 介 さ れ た も の に 該
," こ の マ イ ク ロ メ ー タ ー は 、 1
当すると恩われる。
B
i
r
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九2,p.409・ フ ッ ク は 『 試 み 』 で 、 測 定 器 具 の 工 夫 と し て 、
4
9図 f
i
g
.8と し て 現 れ る よ う な マ イ ク ロ メ ー タ ー も 述 べ た (
G叩 的e
;
r8,p
p
.2
0-2
1)
。
第
? は 既 に 論 じた フ ッ ク の 手 稿 に も 現 れ て い た も の で あ る ( 第 叫 ) 0
也
G叩 的e
町ι 8,p
.幻
2
3
フ ツ ク と レ ン は、 ち よ う ど こ の こ ろ 、 ロ ン ドン 去 火 記 念 塔
(
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巾
叫
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…
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一ent)の 設 計 を 行 な つ て お りi、これを中空に吋作つて、天頂附儀とすることを
子えたと
c,い、つ九。 ].AB町
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7星 エ ル 夕 ニ ン ( あ た ま ) 2
時の巨星。グリニッジにおける天頂星。
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37
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. マックパイクの 議論からも分かるように 、 この時J
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に は 、 カ ツ ン ー ニもij:
p
.2
周 促 差 が 待 つ べ き 性 質 に つ い て 論 じ て い た 。 こ れ γ対 す る フ ラ ム ス チ ー ド の 批 判
的反応の例として、彼のレン宛の轡帆
W川
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17
m p加 ー2
54f
こある。
一 192 日-4 望 i
且鋭 と綿 密 観 測
.
.
.
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.
.
.
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6
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7
2
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日した。彼らの似 i
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に よ れ ば 、 也 庄 の 1i
.
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は
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大
で 2
0抄 の 変 { 立 を 見 せ た 。 だ が 奇 妙 な こ と に 、 そ の
方向は、 5
1'周悦差で生ずるべき変{立と i
並'
;
;
1き だ っ た 。 こ の ア ノ マ リ ー か ら 出 発 し 、
1
"i~
観測を縦続してブラッドレーが有名な光 1
とであった』 250
の発見 に 至ったのは 、 1728
i
r:のこ
このことから分かるように、遡及 n~J に見れば、フック自身は 1jô f,~ 視差の制。JIJ に
失 敗 し た 。 年 周 視 差 の 程M測 に は 、 実 は ブ ラ ッ ド レ ー も 成 功 せ ず 、 そ れ が 限 忽 さ れ
たのは、ょうやく 1
8
3
0年 代 の こ と で あ っ た 。 と は い え 、 フ ッ ク の 観 測 は 、 そ の
"。
後の ー 述 の 年 周 視 差 の 観 測 の 導 火 線 と な っ た 可 能 性 が 高 い 1
7 '1 ク と 空 中 望 遺 鏡
立銭 (
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)
フックが年周視差の観測のために用いた天頂儀は、空中望i
の一極と見なすことができる。空中望遠鏡とは、対物レンズと *nl~ レンズの 1m を
結ぶ長い筒を省いた長大望i
阜鋭のことであるけ
o
長大望遠鏡は、その大きさ放
!
I
D
.の 影 響 で 歪 み が 生 じ や す い 。 こ れ を 避 け る た め に 、
に設置が困難であり、自主やJ
筒を用いない望遠鏡が作製されたのだった。
空中望遠鏡のうち現在最も良〈知られているのは、ホイへンスによるものであ
ろっ(第 5
0図 ) 。 こ れ は 、 ハ ー グ で 1
6
8
4年 に 出 版 さ れ た 彼 の 著 谷 、
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体 望 遠 鏡 (Asl
『簡 便 な 天
1280
フ ッ ク は 、 そ の 年 の 6月 2
5日 に 、 ホ イ へ ン ス の 著 書 に つ い て 説 明 を 与 え た n
その冒頭で彼は、自分がかなり以前に空中望遠鏡の発明を王立↑協窃会に知らせた
とを申し立てた け
12g。
司事I実 、 フ ツ ク が 上 述 の 天 頂 儀 を 使 周 し た の は 、
1"氾ng(
l9
5
5
),
p
.1
1
2
;広 瀬 秀雄、
『 天 文 学 史 の 試 み J (誠 文 堂 新 光 社 、
1
6
6
9年 で あ
1
9
8
1年)、
2
4
0ペ ー ジ 以 下 。 光 行差は地球の速iJil
Jに 伴 っ て 生 じ る た め 、 年 周 視 差 に 代 わ っ て
地涼の迩却Jを証明する証l:l1lとなった。
1"フ ッ ク の 著 替 の う ち 、 ラ テ ン 語 訳 の あ る も の は こ つ し か な い 。
その一つである 。 C
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四回 a
dmotum t
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sproband
四
仮の毛細管現象論の著作である 。
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試み』は、
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叫 附 ) もう一つは:
1
"空 中 望 遠 鏡 と 長 大 望 遠 鋭 は 、 混 同 さ れ る こ と が あ る 。 例 え ば 、 5
釦M
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空主中 E
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銭貫と呼ぱれている。
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0-231;K
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5
),p.54
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フックはここで、空中
主 遠 鏡 の 散 乱 光 の 処 理 の 問 題 な ど に 触 れ た 。 また、球面収差にX't
するホイへンス
の対応を批判し、非 球面レンズに期待をかけている 。 フ ッ ク は 空 中 望 遠 鏡 の 先 取
JH.、彼の泣稿て'も展開し h
?の主 l
それによると、彼の叫鋭は、ホイヘンス
九2
0年 以 上 先 立 つ も の だ っ た と い う 。 P
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った 。 そ れ だ け で は な く 、
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6
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ド2刀 に も 、 彼 は 筒 の な い 四 銭 に つ い て 王 f
協会で発表した o それは、対物レンズを仮に取り付けたものを作り、これと接H
R
レンズ入り?セルの/1日に総を波した制で、ホイへンスの望遠鏡と似たものを旬、
像させるけ 。 フックのこの望遠鋭に対しては、ジヨナス・ムーアらから、
る 理 論 上 の も の に 過 言 な い と い う 州 が あ っ た 。 だが、
1
1
1な
「フ ッ ク 氏 は 、 実 際 に そ
れを実行したことを断言した 」のだった。彼がそれに使ったレンズの中には、ヘ
ヴェリウスに送付した長焦点のレンズもあった
l310
しかし災は、フックのこれらの試みに先だっ 1
6
6
3年 に 、 ホ イ へ ン ス は 、 筒 の
ない望遠鏡のマウントに成功したことをマレーに舎き送っていた
1320
しかも、
f簡 に 対 し て 、 空 中 望 遠 鏡 の ア イ デ ィ ア が そ の 10年 前
こ の 時 に 、 ホ イ へ ン ス の 干l
にあったこ?がイギリスから伝えられた。 それは、ニールとレンが視差を倹出す
るために考えた天頂儀であった
1330
フックの空中望遠鏡と、これらの空中望遠
鏡の相互の関係は、現在のところ分からない。しかし、空中望遠鏡の工夫は、視
差の観測にとどまらず、
1
6
8
4年 の カ ツ ゾ ー ニ の 土 星 の 衛 星 観 測 に 利 用 さ れ る な
ど、様々な人の手で現実の天文観測に奉仕したことは確かなのである
,
.
。
J
グリ ニ ッ ジ 天 文 台 の 設 立
フックがこ?ような天文研究に取り組んでいる時、天文学を含む数学的制唱
を支えるグレゾヤム
カレッジは、衰退の途上にあった。しかし、一方で、専門
的な天文学研究のための機関が新たに創設された。それが、
たグリニッジ天文台である。
1
6
7
5年 に 設 立 さ れ
その設置の目的は、国王チャールズ二世の命令 (
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n
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)が 示 す と お り 、
術と天文学の完成のために、諸地点の経度を見いだす」ことにあった
「航海
1350
経度
決定の問題は、 1
7世 紀 の 最 も 重 要 な 技 術 的 問 題 だ っ た 。 そ の 解 決 に は 、 天 文 学
のための制度が必要だった。
周知のように、ある場所の経度を決定する方法としては、磁針の偏角などの表
を作ること、原準時とその地点の地方自寺の差を利用することなどが考えられた。
標準時を知るには、正l
i
l
iな 時 計 を 用 い る 方 法 、 木 星 の 衛 星 が 本 体 に よ っ て 掩 蔽 さ
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・ピュグリーズは、ホイへンスがここで言及している望遠鏡を
純粋な空中望i
畠鏡と見なすことに災論を唱え、その発明を 1
6
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3年 以 降 と し た o
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一空中望述鏡は、アイディアにとどまった。
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1な ど が 匁lら れ て い た l3 6 0
主立協会では、
1
6
6
2年 に 、 航 海 神i
教 師 の へ ン リ ー ・ボ ン ド (
Henr
y sond)の 提 1[
1
し?法が委只会で検討されていた。 これは、磁針の偏向などを用いるものだっ
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1
66
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J
'
. 4月には、王立協会で、武道':;::の
mを サ ー ヴ ェ ー す る こ と が 定 め
られた 。 こ れ も ま た 、 経 度 決 定 に 奉 行 ー す る 可 能 悩 の あ る プ ロ フ ェ ク ト だ っ た ' " 内
ロノドン大火後の 附
年、ボンドは、磁石の偏角と伏角の詳細川表日出
L
た 。 国王チャールズ二世は、これを検討するための委員会を設けた 1300 その~
員会が検討を進めているちょうどその時、王と王の愛人の仰を受けていたあ反
J
J
T
Jし て 経 度 を 見 つ け る 方 法 が あ る と 述 べ た 。 こ れ に 関 心 を
フ ラ ン ス 人 が 、 月 を 手I
持ったチャールズは、このフランス人の求めに応じて観測データを与えるように
通達を出し、そのために新たな委員会が組織された。
67
5年 2月 の 会 合 に は 、 ジ ョ ン ・ ペ ル 、 フ ッ ク ら の 他 に 、 陵 地
この委只会の 1
測量却の将軍:ノョナス・ムーア、天文観測家ブラムスチードなどが出席したとい
う。ブラムスチードは独学の天文鍛測家として知られており、パトロンのムーア
の紹介でこの会合に出席したのだった。彼は、この場でフランス人の提案を非難
した。だが、委員会はフランス人にデータを与えることに決定し、そのデータは、
フラムスチードによって提出された。聞のフランス人は、そのデータが古すぎ
ることに不満を表明した。
J
lデ ー タ が
こ の や り と り を 見 て 、 チ ャ ー ル ズ 二 世 は 、 航 海 に 必要な天文基礎観iJl
不 足 し て い る こ と に 驚 い た 。 そこ で 彼 は 、 3月 4 目 、 フ ラ ム ス チ ー ド を 「 天 体 の
運行と時の位置の表を作成するため」の天文観測者に任命し、
100ポ ン ド の 年
俸 を 与 え る こ と と し た 。 さ ら に 6月 に は 、 レ ン の 推 薦 に 基 づ い て 選 定 さ れ た グ リ
ニ ッ ジ の 地 に 、 天 文 台 が 匙 設 さ れ る こ と に な っ た 。 磁 石 は 8月 に 泣 か れ 、 翌 年 の
9月 1
9日 、 フ ラ ム ス チ ー ド は グ リ ニ ッ ジ 天 文 台 に お け る 観 測 を 開 始 し た
1
4
'。
フ ラ ム ス チ ー ド と 精 密 観 測l
フラムスチードは、
1
67
6年 か ら 1
68
9年 に か け て 、 グ リ ニ ッ ジ 天 文 台 で 約 2万
7
2
5年に、
回の観測を行なった。その観測は、彼の没後の 1
『英国天文史 J とし
て出版された。これは、三千にのぼる恒星の正確な表であり、約刊の仰を
珂った。
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彼 が こ の 程Ui
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日した総織は、第 5
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のようなものであった
半径 77ィートの六分 儀 で あ り 、 ロ ン ド ン の 職 人 、
ド
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これは、
トーマス ・ ト ン ビ オ ン と エ ド ワ ー
Edward Sy
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)の 別 作 し た も の だ っ た 。 国 王 チ ャ ー ル ズ ニ l
止
シルベスター (
は 、 フ ラ ム ス チ ー ド の 給 与 は 文 払 っ た が 、 担U制 球 機 の た め の 1
4
1mを融制iJしなかっ
むだから、この六分俄は、ムーアがフラムスチードに制したものだった川;
六分 儀 に は 二 台 の 長 い 叫 仰 が 飢 え 付 け ら れ 、 ネ ジ で 動 く よ う に な っ て い た :
両者の成す角川、ネジの回転数とf
叩 目 盛 り か ら 読 み と る こ と が で き る n こー
aマ イ ク ロ メ ー タ ー と 刊 の 効 果 川 ら
で、レン?二重望遠鏡同線 、災質的に接 n
れた。フフムスチードの六分儀は、通常の!I({tl~ に対する望遠JI({t\島の優位をいかん
な く 示 す 装 置 で あ っ た 1430
ブ ラ ム ス チ ー ドが グリ ニ ッ ジ で 使 用 し た * ; ; 織 の 中 に は 、 フ ッ ク が 作 製 し た も の
もあった。フッ クは 、 フ ラ ム ス チ ー ド の 庇 護 者 で あ る ム ー ア か ら 、 安 価 な 主 主 四 分
儀(
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)を 作 る こ と を う │ き 受 け た (?
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2図 )
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この装置は径が 1
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ートで 、 ロ ン ド ン の ト ム ソ ン (ηloms
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)と い う 臓 人 に よ っ て 作 製 さ れ 、
1
67
6if-に天
文台に設置された。しかしこれは、子午線上で星の高さを定めるという目的に耐
えなかっただけで は な く 、 操 作 の 際 に けが を し か ね な い 代 物 だ っ た
1"
グ リ ニ ッ ジ 天 文 台 に は 、 フ ッ ク の 不 ジ 式 の 37ィート
四 分 儀も あった。とちらは、
J
I
I
J
J
Eな ど に 実 際 に 使 用 さ れ た 1" 。 こ の 四 分 儀 は
時間の決定や大気による周折の i
フ ッ ク の 設 計 に 基 づ い て ト ン ピ オ ン が 作 製 し 、 グ レシヤム
収 め ら れ て い た も の で あ る o そ れ は、
カレッジの収蔵庫に
1
677年 1月 の 王 立 協 会 の 命 に よ っ て、 フ
ラムスチードに貸出された 1 4 70 その 締 ~は、フックが『 批 判』で記述し た 四分
儀と同じで、二本の望遠鏡とネジ式 駆 動 装 置 が付 い て い た と考えら れている
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London,1975)
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). な お 、 フ ラ ム ス チ ー ドの 訪 問 に つ い て は 、
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. WiUmo出)に よ っ
現在ケノブ リ ッ ジ 大 学 図 命 館 にお い て 、
ゥ ィルモス 女史 (
て替 問 u!の 編 纂 が 進 め ら れ て い る 。 同 女 史 の ご 厚 意 で 、 編 纂 中 の 原 典 の ト ラ ンス
クリプ トも著書 照 す る こ とができた。
1
"Forbes(l975),pp. 31 & 36; Howse(l975),pp.111-112; Puglies,e pp. 587-589; F凶 nsteed
,2
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印 刷 。 ピ ュ グ リーズは、 7
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四 分 儀 を 混 同 して い る。
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1・ f批 判 Jの 四 分 儀 に つ い て は 、 第 五 軍 参 )
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o8刀 、 ム ー ア が 死 ぬ と 、 フ ッ ク は こ れ を 天 文 台 か ら 間 収 し た 。 フ ッ ク は 、
自分の四分協がムーアの所持品と誤解されるのを恐れたのである 。 フラムスチー
ドは、フックが四分儀を留守中に無断で持ちだしたことに動転したといわれる,., 。
ブ ラ ム ス チ ー ド が 数 多 く の 天 文 観 測 に 佼 mし た 六 分 儀 は 、 可Ui
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(1.\~を使っていた。フ
のだった。また、フックが作ったグリニッジの装世も望i<:lJ
ラムスチードは、クリニッジ天文台発足の II~ に、 二 本の3'i i且鋭と、 jtllR マイクロ
メーターを持参していた
1500
彼は、ロンドンに移る以 n
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iの 1
67
1年 、 ム ー ア か ら
接限マイクロメーターをプレゼン卜された。ム ーアは、これをリチヤード・タウ
ノリーから得たのだった
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'。 フ ラ ム ス チ ー ド は 、 盟 i
且I
照準や l
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Rマ イ ク ロ メ ー
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:観 測 務 機 に 、 早 い 時 期 か ら 馴 耳 石 ん で い た 。
ターという ,
このことから当然予測されることだが、フラムスチードは、 i血 'r:i~' の!照準による
へ ヴ エ リ ウ ス の 餓 測 に 対 し て 批 判 的 な 態 度 を と っ た 。 先 に 引 日 lしたように、
『フ
ト ランザクションズ j に焔~されたカッシーニ宛の 1673 年の
ィロソフイカル
書簡の中で、フラムスチードは、へヴエリウスの観測データへの疑 1
:
]
を表明した。
0年 ほ ど 経 っ た 1
6
86年 に も 、 へ ヴ ェ リ ウ ス に
フラムスチードは、それから約 1
批判的な態度を表明した。
L
ノヨン
・ウ ォ リ ス が へ ヴ ェ リウ ス を 弁 護 し た こ と に 対
し、 プ ラ ム ス チ ー ド は タ ウ ン リ ー 宛 の 手 紙 の 中 で 、 次 の よ う に 述 べ た 。
あなたはへヴェリウスの本についてのウォ リ スI!~ 士の説明を気:ii1う必要はあり
ません 。 彼 は 、 た だ 旧 友 を 喜 ば せ よ う と し て 、 彼 [ へ ヴ ェ リ ウ ス ] の こ と を 良
〈言っているだけです。というのは、世間の他の人たちが、 フック氏がどうし
よ う も な い 自 慢 屋 と 思 っ て い る と 彼 は感 じ て い る か ら で す 。 加 え て 、彼 は 大 き
い 器 畿 を 一 度 も 使 っ た こ と が な く 、 そ れ 放に、 通 常 の 照 準 よ り 望 遠 照 準 が 優 れ
ていることを分かっていないからなのです
エドモ
J
ド ・ハ レ ー は 、 フ ラ ム ス チ
h520
ドを継いでグリニッジ天文台の台長とな
っ た 。 知 り 合 っ た 当 初 の 2人 の 協 力 と 、 そ の 後 の {
中たが L、 は 良 く 知 ら れ て い る こ
とで ある。だが、 ハ レ ー も ま た 、 ヘ ヴ ェ リ ウ ス の 通 常 の !
照 準 弁 務 に 対 して は 同 級
に 批 判 的 だ っ た 。 艇 か に ハ レ ー は 、 ダ ン ツ ィ ヒ訪 問 の 際 に 、 ヘ ヴ ェ リ ウ ス の 通 常
の照準による微調印予怨を必えて正確である こ と を イ ギ リ ス に 制 送 っ た 。 し か
・
"Howse(1975),p. 112; PugJies,e pp.578-579. 天 文 台 か ら い く つ か の 初 日 I
J
I]
器具 を 撤
去 す る こ と が 王 立 協 会 で 決 定 さ れ た の は 、 そ の 後 の 9月 22 日だった。
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しそのことは、彼が 通常 の照準の使 m を文持したことを ~P-lとするものではなかっ
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の 中でハレー は 、 へ ヴ ェ リ ウ ス の 『 晩 年 』 を め ぐ る や り と り
に 触 れ て 、 次 の よ う に 轡 L、た。
あ な た も 良 く ご 存 知l
のように、ヘヴェリウス氏とフック氏の論争は、へヴェリ
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)者 に 影 響 を 与 え る も の で
ウス氏のやり方からみて、望j
す。私 白 身 特 に そ う で す が 、 真 理 を 気 む ず か し い ご 老 体 か ら 守 ろ う と い う の は 、
共 通 し た 関 心 事 で す 。 ご 老 体 は 、 彼 が し て き た よ り も [ 在l
J測 が ] 上 手 く で き る
ということを、信じさせようとはしてくれないのです
I530
7 .,クの天文研究の位置
前子主と本意では、フックの天文研究を論じてきた 。 1
I1'liiではフックの観測の内
容や長大望 i
卓鋭との関 わりに触れ、 本主主では接限マイクロメーターと望辿!照準を
通じて、フ
γ
クの精密天文観測への l
則わりを論じた 。 フックの天文学への関与は、
研究者によって全く無視されてきたわけではない。へヴェリウスをオランダ人と
!
I
J
誤解したピュグリーズがフックの天文学に深い関心を寄せていなかったことは I
らかだが,..、それでも彼 は 、 彼 の 長 大 な 博 士 論 文 の 約 4パ ー セ ン ト を こ れ に 充
て、へヴェリウスとフックのやりとりも取り上げている。
7 ックの天文研究自体にテ
?を絞った論文としては、
フ ッ ク 新 研 究 Jに 、 ベ ネ ッ ト と
1
9
8
9年 の 『 ロ パ ー ト
νン プ ソ ン の 二 篤 の 論 文 が 現 れ た 。 し か し 両 者
とも、本論文の議論から見るならば、満足なものとは言えない。
例えば、ベネットの論文、
「天文学 や航海帥iの た め の フ ッ ク の 器 機 (
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)Jは 1"、 フ ッ ク の 接 眼 マ イ ク ロ メ ー タ ー や
装置がヘヴエリウスに
望 遠 照 準 を 扱 っ た 。 こ の 論 文 は 、 フ ッ ク や レ ン の 将 密 観 測l
対抗するものであったことを指摘しており、その点で、従来の研究水準を越えて
いる。 しかしベネ
γ
トは、フックの天文器機を当時の天文学全体の文脈に位置づ
けることができなかった。ベネットは、フックが長大望遠鏡に関わったことに言
及 し て お ら ず 、 彼 の 惑 星 縦 割)
1に つ い て も 論 じ て い な い 。 ま た 、 筏 O
!
!マ イ ク ロ メ ー
ターをめぐるオズ
と の 論 争 も、ベネ ッ ト は 扱 わ な か っ た 。 そ れ は 、 フ ッ ク の 器
織への貢献を、天文学ではなく、器機作製 (
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)と い う 枠 組 み の 中 で 促
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.Puglies,e p. 567.
1
版
、
日本でフックを取り倣った数少ない好著の 一 つである島尾永
『ニュー トン J (岩波 新替、
1
9
7
9年 )も 、 へ ヴ ェ リ ウ ス の 名 前 を 「 へ ル ベ
ア イ ウ ス 」 と 記 述 (81
.
ペ ー ジ 〉 す る な ど 、 フ ッ ク と 天 文 学 の 悦l
わりについては
十分な級いをしていない 。
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p.20-32.
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シノプケの論文、「ロパート
フ ッ ク と 引1
光 学 偽 印 刷<
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i題 点 を 抱 え て い る 。 こ の 論 文 は 、
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白)J ,."もまた、同仰のJ:
リーヴやコック
Yクの光
などの光学総機峨人と、フックの関係を詳しく倣っている。しかし、 7 '
J
;股 が 、 実 際 に ど の よ う な 研 究 の 流 れ の
学t
r
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'で 要 請 さ れ た の か に つ い て 、 ー ン プ
Yク 山 一
ソンの論文から読みとることはで きない。例えば、ゾノプソ/は 7 '
F
短紛の試みに言及しているが、それは 1
1
1に 技 術 的 な 改 良 の 問 題 と し て 奴 わ れ て ト
る
。
1
7世 紀 中 葉 に 長 大 望 遠 鏡 が 占 め て い た 地 位 と 、 そ の 他 え て い た 問 題 内 を 天
リ
!
な
文学のコンテクストの中で勘案しない限り、フックの研究の歴史的意味は不 l
ままである 。 シ ノ プ ソ ン は 、 オ ズ 一 、 ヘ ヴ ェ リ ウ ス な ど の 他 の 自 然 留 学 者 と フ ・ ソ
クの関係も分析し て おらず、精密観測という当時の主要泌足立もまた見務とした ;
ベ不 y 卜 も シ ン プ ソ ン も 、 科 学 州 制 門 と す る 博 物 館 の
C旧
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or
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から、彼らのこのような限界は、必ずしも非難されるべきことではないのだがも
実験問という観点を絞れ、科学史研究としてフックを級う場合、彼らら研究,;t
不十分であり、当時の天文研究の文脈を考慮することが必須であることは強調さ
れなければならない。
こ れ ま で 本 論 文 で 論 じ て き た よ う に 、 フ ッ ク の 天 文 関係 の 研 究 は 、 筆 者 が 「 ガ
g
Jに 対 応 す る と 考 え れ ば 段 も 良 く 理
リレオ ・パ ラ ダ イ ム 」 と 名 付 け た も の の 第 二 j
解できる 。 フ ッ ク は 惑 星 の 細 部 の 観 測 を 行 な い 、 そ れ は 長 大 望 遠 鏡 に よ っ て 滋 汗
f
こ
;
されむ彼は、長大望遠鏡を扱い易くするために、その酬にも関心を持つ
7 ツクは、精密観測という、この第二期の新しい流れにも関与した。フックはー
オ ズ ー と 接 眼 マ イ ク ロ メ ー タ ー の 問 題 を 論 じ 、 へ ヴ エリウスに望退!照準を I
J
U尽 し
、
自らその改良に取り去[!んだ。ヘルデンが指嫡したように、フ
の論争は、
γ クとへヴエリウス
「 位 置 天 文 学 の 分 水 鎖 」 で あ り , " 、 半世紀近く!日にアンドレー ドが
指摘したように、その差異は、
「精度の限界」に対する態度の;gいにあった,
内
"
べ不ツトは、精密観測へのフックとへヴェリウスの対立を、イギリスのグル二
プとへヴエリウスの対立というより広い枠組みから見た, "。イギリスのクルー
プ に は 、 ベネッ ト の挙げたレン、フック 、 フラムスチードに加えて、ハレ-~~ト
めることができよう。これらの天文研究者は、望遠照準と接収マイクロメー;:
という「近代的」な装置の将来性を予見し、自らそれを使用した。これに対して、
彼 ら よ り 一 世 代 以 上 年 長 の へ ヴ エ リ ウ ス に は 、 新 し い 鮫 仰12
i
t織 の 可 能 性 を 追 求 す
る 若 さ は も は や な か っ た 。 イ ギ リ ス で は 、 フ ラ ム ス チ ー ド が 、 フックの直後に、
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1~1,!御前IJ 装置を駆使して、職業天文学弁にふさわしい 'lr'iJß' の天文去を完成する
。
史i
且鋭による側首I
Jは 、 こ う し て テ イ コ や へ ヴ エ リ ウ ス ら の 水 準 を 凌 い だ ' " ー
興味深いことに、フック、フラムスチード、ハレーらの人々は、今日の…て'
の 「科 学 在
iに 近 い 立 場 に あ っ た 。 す な わ ち 、 フ ッ ク は 王 立 協 会 の 実 験 主 任 で あ
り、またフフムステードとハレーはグリニッジ天文台の台長だった。 彼らは、自
然の保求を生業(なりわしっとして生活に足りる賃金を 1
!
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ように与えると、 M
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私制的
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が
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訓
H附
立を、アマチュア対プロフェッショナルの対立と解釈することもできるのではな
いかと思われる。
と こ ろ で 、 フ ッ ク を 天 文 学 に お け る 「ガ リ レ オ ・ パ ラ ダ イ ム J の 歴 史 的 な 流 れ
1
1で 示 し た フ ッ ク と ニ ュ ー ト ン の 光 学 論 争 の 解 釈 は 、
の 中 で 与 え た 場 合 、 第 I昔
分なものだったのであろうか。次章では、
ト
a 天文在u 測に ~j'i 通したフック l という
新しい徹占からこ彼らの論争を従えなおしてみたい。この制点から見ると、両者
?論争は、先に不したものとはかなり巡った様相を呈することになる。それは
i
た、ニュートノの望遠鏡の歴史的な位置づけの再解釈をも袈請するものなのであ
る。
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第五章
フックとニュートンの光学論争
ニ ュー トン の 望 遼 鏡 の 登 場
第 I部第六主主で論じたように、ニ
一トンが段初に学界にその名を知られたの
は、彼?反射式望遠鏡の発切によるものであった。これまでの議論で切らかにな
ったょっに、
「ガリレオ ・パ ラ ダ イ ム 」 の 内 容 は 、 イ ギ リ ス で も 関 心 の 的 に な
ていた 。 制 加 、 ニ ュ ー ト ン 登 場 直 前 の 王 立 協 会 で も し ば し ば 話 題 と な っ 二
例えば、フックの長大笠遠鏡がへヴエリウスに送付されたのは、 1
6
6
9年 8月の
6
7
1年の 6月には、フー、
ことだった。 1
フノンス・スメズイツク (
Fr
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sSme出 wick)が、
王 立 協 会 で 彼 の 望 遠 鏡 を 示 し た l。 こ の よ う な 流 れ を 考 え れ ば 、 ほ と ん ど 無 名 の
;ぷ;ロ???の噌が王立協会まで伝わったのは、偶然ではない。王立協会
67
1年の 1
2月 ご ろ
一トンの望遠鏡は、 1
ンドンにもたらされた。王立協会に残されたツョ
、ハローの手でロ
簡 の 草 稿 に 比 ニ ュ ー lン の 望 遠 鏡 の 具 体 的 な 記 ふ
で目にしたその望遠鏡は、
;
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2
1
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?う
5-67ィ ト の 屈 折 式 望 遠 鏡 に 匹 敵 す る 倍 率 を 持 つ も の
だった。像は I
J!A取りの色がなくクリアーだったが、屈折式に比べると暗かった。
ニュートンが会員に選出された 1
6
7
2年 1月 1
1日 の 協 会 の 記 録 は 、 彼 の 望 遠 鏡
が提出された直後の状況を、 簡 潔に伝えている。
ニュートノ氏の望遠鏡の短縮の改良が取り上げられた。また、彼が王立協会に
送付したそー遠鏡が吟味され、それが国王の下に持って行かれたこと、さら
:、会長[フフンカー]、ロパート
マ レ ー 卿 、 ポ ール
ニール卿、クリスト
ー ・レ ノ 博 士 、 フ ッ ク 氏 に よ っ て ホ ワ イ ト ホ ー ル で そ れ が 検 討 さ れ 、 彼 ら
が こ れ を 日 <f
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平 価 し た こ と が 論 じ ら れ た 3。
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この記録から、いくつかのことが分かる。第一に、ニュートンの望遠鏡が、当
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寺の王宮であったホワイ トホ ー ル 宮 内 I
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201 -
I
I-5 7ヲ?とニ rf:;の 光 学 論 争
『司r
初王立協会で、ヨ i阜鋭を ~iï 利ii する試みと促えられた占である。 !)HE でも天文'u. 好
家の川?あるように、反射式問鋭は、川本が加折式に比べて短い。自い就で
論じたょっに、フックは 1
665年 に 、 液 体 を 上I
入することで長大'1
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且鋭の短納を
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jし て 鋭 筒 を 短 く 折 り
試 み 、 さ ら に 翌 年 に は 、 反 射 鏡 を 不J
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.~I~ の万法と解釈されたことは、ごく自然の
かり、ニュートンの装置が望泌鋭の t
帰結であった。そしてフック自身、ニュートンの望遠鏡が発表されると、望i
且鋭
短 縮 の 先 取 怖 を 磁 保 し よ う と し た 形 跡 が あ る 4。
第二に分かることは、ニュートンの望遠鏡を検討したのが、Rl~鋭に~,','通した
人々であったことである。繰り返し論じてきたように、ニール、レン、フックは、
いずれも自ら望遠鏡作製に取り組んだ経験があった。また、マレーは、ホイヘシ
スにイギーリスの望遠鏡について書き送った人物である。彼らには、ニュートノの
望遠鏡を評価する 能 力が十分にあった。
第三に、これらの人々によるニュートノの望j
皐銭の吟味は、王立協会における
報告に先だって、ホワイトホール宮殿で行なわれていた。王立協会でニュ
の望遠銭の実物が会員に示されたのは、協会での上の報告よりさらに後の
トノ
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月
一 日の会合だった九ホワイトホール宮殿では、ニュ ー トンの望述鋭は国王にも
不された。
望遠鏡に関心を持ったからといって、こ
付 言 す る な ら ば 、 国 王 が ニ ュ ート ンの E
れを過大評価すべきではない。我々は、王の関心を彼惚に、ニュートノの望遠符
が非常に高い社会的評価を受けたと解釈しがちて'ある。しかし、国王チヤール;
二世は、フランス亡命時代から自然哲学の愛好家であった九
ンに月のモデルの提出を求めた。チャ
1
661年 に 彼 は 、 レ
ルズは、自ら長大望遠鏡を所持していた n
1
6
61年 に ホ イ へ ン ス が 国 王 を 訪 問 し た 際 、 彼 ら は 土 星 を 論 じ 、 木 星 と そ の 術 主
の観測を行なった。国王がニュートンの望遠鏡に示した興味は、彼の科学への広
い関心の一つに過ぎなかった。その関心は、チャールズが拡声装置 (
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品位 1
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)に 示 し た も の と さ し て 変 わ ら な い も の と 理 解 さ れ る べ き な の で あ る に
もちろん、ニュー卜
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の望遠鏡は、 王立協会で低く評価されたわけではーいー
オ ル デ ン バ ー グ が ニ ュ ー卜 ン に 宛 て て 省 い た よ う に 、 観 測 対 象 を 見 つ け に く い
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クはこれをアナグラムで示した。フックのこの望遠鏡は、屈折を用いた工
夫であったという。
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時の社会的気風も備えていた。
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- 202 -
日-5 7,)とニュート Yの 光 学 論 争
いう批判はあったものの、それは「光学の ~11 ,1品と実践に肢も通じた何人かの人々
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の評価の3t ~は後に論じるにしても、 ニュートンの宝 i且鋭は、とりあえずは学界
に良好なものとして受け人れられた。
フッヲの反射式望遠鏡批判と ニュートンの 反 応
このような王立協会の反応に気を良くしたニュートンは、
1672年 に
「光と色についての新理論」を協会に送り、反射式望遠鏡の背景理論を切ら
ま'fiì~
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した。それは光の変容説を批判し、白色光が屈折性のw:なる徐々な色の光線から
成ることを主張するものであった。
フックは、この論考が王立協会で発表された一週間後に、ニュートンの理論に
対する辛然な批判を展開した。フックによれば、ニュートンの主張する現象は、
自 分 の 光 の 理 論 で も 説 明 で き る と い う 。 第 I部 の 議 論 で 切 ら か に し た よ う に 、 フ
J説 ( 変 容 説 の 一 種 ) の 立 場 か ら 、 ニ ュ ー ト ン の 粒 子 説 を 批 判l
し
ックは、光の校i!
た。光線が微々?屈折性を持つというニュートンの発見は、波動税とも融合し得
るとフックは考えた。
7"クは、ニュートンの反射式望遠鏡にも批判を加えた。彼は、屈折式望遠鏡
の像に生じる虹の限取りを取り除くのは不可能ではないと主張した
。フックは?
10
自分が『ミクログラフィア』で反射式の望遠鏡と顕微鏡に言及したこと、だがー
凹面による焦点が一点ではなく線であり、また、凹面鏡の反射による光の焦点ふ
らの狂いが凸面による屈折の場合より大きいことを知って、反射式望遠鏡を諦め
たと普いている
いう。
。ただし彼は、顕微鏡については、反射式を長い間使用したと
II
フックは、王立協会の報告の中で、反射鏡の望遠鏡への利用について、自分の
失敗の経験も引いた。
私は、実際、
67ィートの半径の 一 つ で 、 そ の い か な る 効 果 を 見 い だ す こ と も で き
ませんでした。それは、
7-8年 前 に 、 リ ー ヴ 氏 が グ レ ゴ リ 一 氏 の た め に 作 っ
たもので、1;1..はそれで何度か試してみましたけ。
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)、
反射式望遠鏡に触れた部分は尖際には見あたらない。フ
!?た反射式顕微鏡は、ウォラーによって、
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クの遺品の中から発見
年 4月 5日 の 王 立 協 会 の 会 合
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- 203
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1Pとニュートンの光学論争
州以下で詳しく手じるように、 7
を 行 な っ た の は 事 実たった。
'~クがグレゴリーの反射鏡を利 JTJ して実験
ニュ二トンは 、 フックが王立協会で展開した批判の内容を、
1
67
2年 2月 20 日
にオルアノパーグから受け取った。強口の返信でニュートンは、
「あれだけ厳し
い反対者も、あのいずれかの部分を駄目にできるようなことは何も言わなかった」
と述べ、 「 回 答 は す ぐ に 送 り ま す 」 と 曾 い た
さ れ る ま で に は 、 4カ 月 近 く か か っ た 。
'
J。 し か し 、 そ の 回 答 が 災 際 に 送 付
こ の 回 答 の 一 部 は 6月 1
2日 の 王 立 協 会 会 合 で 読 み 上 げ ら れ 、
カル
トランザ ク シ ョ ン ズ Jに 収 録 さ れ た
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『フィロソフ
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そこでニュートンは、山町反射ー
と、 凸 面 レ ン ス ' の 収 差 の 大 き さ を 比 較 し む 両 在 は 同 一 口 径 で 、 同 -1
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持ち、各々の出l'事半径は 、 6万 単 位 対 l万 単 位 で あ っ た 。 ニ ュ
トンは、色収差
も 勘 案 し て 、 双 方 の 収 差 の 大 き さ を 計 算 し た 。 そ の 結 果 は 、 凸 レ ン ズ の 収 差 が 胆l
而鏡より約 2
0倍 大 き い と い う も の で あ っ た " 。
これに対してフックは、この前後のプランカー宛と 思 われる手紙で、 同一口径
でt
j:なく、同一曲率半径の凸レンズと凹商鏡で比較すべ き で あ る と 異 を 唱 え て い
る 十 。 作 製 の 使 宜 を 考 え る な らば 、 フ ッ ク の 言 う よ う に 、 岬 半 径 を l
t
i僚 に と る
べきだとすることは、必ずしも不合理な主張ではない。
フックとレンは 、ニ ュートンの反論を 検 討 す る よ う に 王 立 協 会 に 求 め ら れ 、 次
9日 の 会 合 で 報 告 を 行 な っ た
の 6月 1
。 さ ら に 6月 2
6日 の 会 合 で フ ッ ク は 、 同
11
一 曲 率 で あ れ ば 、 レ ン ズ は反 射 鏡 よ り 光 を よ り よ く ー 占 に 集 め る と 論 じ た 。 ま た
フ ッ ク は 、 レ ン ズ の 方 が 明 る い 像 を 与 え る こ と を 、そ の 次 の 会 合 で つ け 加 え た は 内
ニュートンは、 彼 が ケ ン ブ リ ツ ジ 大 学 で 行 な っ た 光 学 に 関 す る 講 義 を 出 版 す よ
ために 、 1
6
7
1年 の 終 わ り に 準 備 作 業 を 進 め て い た
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し か し ニ ュ ー トンは 、 フ
ックの 厳 しい 批 判 を 前 に し て 、こ の 出 版 の 作 業 を 断 念 した こ と を コリ ン ズ に 書 き
送った"。
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p,5084ー 5103, ニ ュ ー ト ン が 光 の 粒 子 に 随 伴 す る エ ー テ ル
の 波 の 考 え を 提 唱 した の も 、 こ の 手 紙 で あ っ た 。 第 I剖l
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- 204 -
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I-5 171と 二 三 り の 光 学 論 争
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フックとニュートンの光をめぐる論争は、
一 ト ン が £ 立 協 会 に 制 し た 二 つの論考、
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1'に再燃した 。 そ れ は 、 二 、
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6日 に 、 後
年の lよJ20日から 2月 1
0日にかけて、 王 立 協 会 の 例 会 で 読 み 上 げ ら れ た の
者は子E
「光 の 聞 を 説 明 す る た め の 仮 説 」 の 中 で ニ ュ
トンは、宇臼満たすエ一二
ル を 似 し 、 い わ ゆ る ニ ュ ー ト ン リ ン ク や 刷 、 反 舟 射I
同蜘
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fの 界 面 で 、 光 が 浪 い エ
屈折は、物 f
テルから汚いエーテルに押し込まれるため
に 起 こ る も の と ミ れ た 。 光 線 は 、 エ ー テ ル の 刷Jを 引 き 起 こ し 、 こ れ に よ っ て 舟
膜の色の現象が説明される。回折現象は、物質の周囲のエーテル が 引き起こす照
jJf現象の 一 般 で あ る と い う 。 こ の 論 考 で ニ ュ ー ト ン は 、 全 て の 物 質 は エ ー テ ル が
凝縮して生じたものと考えており、地上に降下するエーテルの流れが主力の原因
であるという議論も展開した。
「観察についての講話」は、ニュ
トンリンクの現象を数量的に分析して空気
の厚さを算出したり、物質表面の色の原因を光の選択的な反射によって説明する
も の だ っ た 。 こ れ は 、 後 の 『 光 学 (o
p白血:)J (London, 1
7
0
4
)の 第 二 箔 第 一 部 か ら 第
E匂 の 若 干 の 変 更 を 除 け ば 、 両 者 は ほ と ん ど 同
三部の前半までにあたる部分で、 Z
である 。
この時の彼らの論争は、フックが、ニュートンの述べてい る内容の「主たる部
分は 『ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア J に含ま れ て お り 、 ニ ュ
トンはい く つ か の 点 を 先 に 進
めたに過ぎなし、 J " と 協 会 の 会 合 で 批 判 し た こ と に 始 ま った 。 こ れ に 対 し て ニ 司
:トンは、フソクが光の媒質などの点で大きくデカルトに負っていることをオ;
アンハーク宛の手紙で強調した。ニュートンは、光自体を媒質の t
辰野Jと 見 な さ な
い点で 、 自 分 の 説 は フ
y
ク の も の と 異 な ると い う 。 ま た 、 「 ミ ク ロ ク ラ フ ィ ァ }
のいくつかの観察を利用したのは事実だが、日『肢の特定の厚さをある色彩に対応
させたのは、自分が段初だとニュ
トンは 主 張 した
240
フックは、一月ほど経って、ニュートンに直接手紙を普いた
250
それ は 突 然 の
和解の申し山の手紙であり、ニュートンが自分より先へと進んだことを認めてい
る。フックは、舎簡のやりとりの仲介者オルデンハークが、自分とニュートンと
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加をめぐる問題によって、このころひど
バーグの 関係は、ハネ付きテンプの先 1
〈 思 く な っ て い た の だ っ た 280
ニュートンはフックの手紙に対して、
「巨人の厨に乗って」という表現を合む
有名な返 1~t を送った。ニュートンは、フックも自分も共に先人に tl っているとし
て、フックの 和解 の
q
lし出 を 受 け 入 れ た の で あ っ た 21。 こ う し て 両 者 の 光 学 論 争
は 、 そ れ 以 上 は もつ れ る こ と な く 収 束 し た
280
グレコリーと 反 射 式 望遺 鏡
前節の引用に現れたように、フックはニュートン批判の報告で、
r7-8年 前
に、 リーヴ氏がグレゴリ一氏のために作った」反射鋭を使って望.i1rl鋭の実験を行
なったことがあると述べた。これからも分かるように、反射式望i
皐鋭のアイデイ
7は 、 ニ ュ ー ト ン の か な り 以 前 に 遡 る も の で あ っ た 。
例えば、カヴ
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632年 に 論 じ た 。 そ の 4年 後 に は 、 メ ル セ ン ヌ (
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た望遠鏡について 1
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)が 、 音 の 反 射 の 拡 張 と し て 反 射 式 望 遠 鏡 を 考 察 し た 。 デ カ ル ト は f
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でメル セ ン ヌ に 批 判 的 な 見 解 を 述 べ 、 む し ろ 屈 折 式 望 遠 鏡 を 地 奨した"。
イ ギ リ ス に お い て は 、 ジ ェ ー ム ズ ・グレ ゴ リ -(
J
ames Gregory
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63
8-167
5
)が 、 ニ
ュ ー ト ン に 先 だ っ て 、 反 射 式 望 遠 鏡 を 考 案 し た 。 彼 はそ の 作 製 に 失 敗 し た が 、 彼
の望遠鏡の機i
告はグレゴリ一式と呼ばれ、カセグラン式、ニュートン式に並ぶ方
法として現在知られている。大陸の反射式の伝統は散発的なものだったが、イギ
リスでは、グレ ゴリー 以 降反 射 式 望 遠 鏡の 伝統の 連 鎖 が 生 ま れ 、 そ れ は 1
8世 紀
に も 続 い て 行 っ た J O。
"第 I部 第 七 主 主 「 フ ッ ク の 時 計 研 究 」 の 節 を 参 照 。
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2年 の フ ッ ク と の 最 初 の 論 争 か ら 1
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5年 の 論 争 再 燃 ま で の
聞に
、 他 の 人 々 と も光 学 論 争 を 行 な っ た 。 ニ ュ ー トン の 光 の 理 論 に は 、 ホ イ へ ン
ス、イグナス ・ギ ャ ス トン ・パ ル デ ィ ー ス (
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6-1673)、リヌス
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lの ラ テ ン 名 〕 な ど か ら も 批 判 が 寄 せ ら れ た 内
ホ イ へ ン ス の 批 判 叫 に 取 り 上 げ る が 、 ニ ュ ー トンは学界デビュー直後のこれ
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の 論 争 に 疲 れ 、 凶7
4年 初 め ご ろ には、 王 立 協 会 を や め る と 言 い 山 す ぽ ど だ っ と
(B町九
問、
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. 1
7
8) 。 ニ ュ ー トン と パ ノ レ デ ィ ー ス ら と の 論 争 の 詳 細 については、
「ニュー ト/の光学理論形成とその背景」、第二章を参1I¥ldれたい向
、
刊これらについては 、 P
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教会の牧師の,臥子として生まれた
ク レ コ リ ー の ー 肢 は 、 ジ ェ ー ム ズ な ど を 可E
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頭に、六位代以上にわたって 2
0人以上の')':-{",.をスコットラ/ドの諸大学やオク
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t、 同 か ら 初 州 内 受 け た 。彼は、
スフ ォー ド 大 空 に 送 り 出 し た 。 ジ エ ー ム ス
父の死後アハアィ
ンに送られ、アパデ
ーン大学で学んだ。早くから数学の才
能を発l1liし た ジ ェ ー ム ズ は 、 兄 の デ イ ヴ イ ツ ド (
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)J Zの 勧 め で 研 究 を 続
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Jの 研 究 を ま と め た 級 相Jの_p,丹、
『光学の進ti-'(0白
を 出 版 し ?。ク レ ゴ リ ー は 、 こ の 出 版 の 手 は ず を 、 イ タ リ ア 鮮 の 立 立 公
ったロン1';.,-で l
仰 やこ愁えた。パリでホイへンスと而会を計町した彼は、わ
ずか な タ イ ミ ン ク の ス レ で そ れ を 果 た せ ず 、 そ の ま ま パ ド ヴ ア (
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)に向 かっ
た。 パ ド ヴ ァ 大 学 で 彼 は 、 カ ヴ ァ リ エ リ の 初 予 か ら 教 え を 受 け た 。 そ の 地 で グ レ
ゴリーは、
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e問 ) 大 学 の 初 代 の 数 学 教 佼 と な っ た 。 そ れ は 、 ス コ ッ ト ラ ン ド 出 身 で 、 王 立
2
句会と国王の{はちを刷、ホイへンスとも文通していたロパート
マレーの {
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よ る ? の と 言 わ れ て い る 。 グ レ ゴ リ ー は そ の 職 務 を 6年 側 め 、 間 年 に
ハラ 大 干 の 初 代 数 学 教 授 に 転 じ た 。 彼 が 時 と い う 若 さ で 没 し た の は 、
又
その翌 年 の こ と た っ た 。 そ の 時 ま で 、 北 の 果 て に 孤 立 し た 彼 と ロ ン ド ン を つ な い
でいたのは、コリンズとの手紙のやりとりのみであったの
タレゴリーの最初の問、
「光学の進歩 Jは 、 彼 の 初 期 の 幾 何 光 学 研 究 を 5
9
の 命 題 に ま と め た も の で あ る 。 こ れ は 、 イ ブ ン ・アル = ハ イ サ ム や ウ ィ テ ロ を 下
敷 き に し た も の だ っ た a・ 。 彼 は そ こ で 像 の 形 成 を 論 じ 、 さ ら に 反 射 と 屈 折 の 並 行
性 を 論 じ た 。 そ れに続けて、
3
1の 天 文 学 の 命 題 が 加 え ら れ た n
彼の望遠鏡は、光学の役後の部分にあたる命題 5
9の エ ピ
4
ーグに現れる(第
5
3図 ・ 上 )。 こ れ は 、 焦 点 を 共 有 す る 二 枚 の 凹 而 鏡 を 組 み 合 わ せ た も の で あ り 、
上方から来た光は、二回の反射の後、第一の鋭の中央に聞けた孔から接眼レンズ
に導かれる H 。
グレゴリーは、この望遠鏡を推奨するにあたって、三極類の方式の望遠鏡を比
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う。 そ れ が 、 彼 の 望 遠 鏡 だ っ た 。 グ レ ゴ リ ー は 、 非 球 而 の レ ン ズ や 反 射 而 を l
的なものとしたが、実際には球而でも差し支えないという。
クレゴリーは、
1
6
6
2年 に ロ ン ド ン で 、
『光学:の進歩』の出版の手はずを被え
た。 こ の 時 ク レ ゴ リ ー は 、 こ の 本 で 提 唱 し た 宅 i
且鋭を実際に作ることを試みた。
彼は、当時段も名のjjJjった職人であったリチヤード・リーヴを応った 。 マ レ ー は
クレゴリーの本の出版をJl/jカしたから、彼にリーヴを紹介したのも、マレーでは
な か っ た か と 推 定 さ れ て い る 360
グレゴリーは後になって、この望i
且鋭の試みについてコリンズに次のように1!1
き送った 。
私のリーヴ氏との実験について言えば、彼は道具上で大きな凹面を磨くことが
できませんでした。そして私は、
(反射式の屈折式に対する長所といえば、そ
れが短いことと、円と放物線の方が円と双山線よりも似ていることしか知りま
せんでしたから)、この大きな欠点が、このような二つのわずかな長所と簡単
に相殺してしまうのではないかと考えました。そう思うと、海外に行こうとし
ているところでしたので、これ以上苦労する価値はないと感じられ、そのため
望 遠 鏡 は 決 し て で き な か っ た の で す 370
この証言 か ら 、 グ レ ゴ リ ー が 、 反 射 式 望 遠 鏡 を 望 遠 鏡 を 短 縮 す る 試 み と 捉 え て
いたことが分かる。さらに彼は 、球菌反射鏡の方が、球函レンズより収差が小さ
いと考えていたのだった。
フックの反射式望遺鏡
グレゴリーがイタリアに出発したとき、彼の反射鏡はリーヴのもとに残された n
そう考えれば、反射鏡で望i
畠鋭を試したというフックの説明は理解できる。
6
6
0年 代 に 、 ニ ュ
こうしてフックはタレゴリーの影響を被ったが、同じ 1
ト
ノもグレゴリーの影響を受けていた。ニュートンは、反射式望遠鏡を作製するに
あたって、グレゴリーの望遠鏡を検討したのである。だがニュートンは、グレゴ
リーのように筒の後ろ側に孔を聞けるより、績から覗き込む方が便利と考えたの
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を展開している。彼によれば、グレコリーと
っ通説に対して、二ノンプソンは批判l
コリンズの文通は 1
6
6
8年 に 始 ま る も の で 、 そ れ は グ レ ゴ リ ー が 望 . i S ! 銭 を 作 製 し
た 後 だ っ た と い う 。 な お 、 リ ー ヴ に つ い て は 本 論 文 ! l iI
I部 第 二 軍 「 望 遠 鏡 職 人
リーヴ」の節を参 m~ 。
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グ レ ゴ リ 一 式 望 遠 鏡 は、王立協会で自圧倒されたわけではない。ニュートンのな
且鋭を組み立て、それを 1
674年 2月 5 [
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に
場の後、フックはグレゴリ一式の望i
且鋭は、
王立協会の会合で発表した。彼が作製した望 i
メルセンヌが提 唱し、グレゴリ一氏の光学で繰り返された方法でi
韮行されたも
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jに実 際 に 作 ら れ た と は 考 え ら れ な い 円 。
のだが、以 )
この盟.i";H貨のもっと具体 的 な記述と思われるものが、フックの i世稿集の '~I' に 91
さ れ て い る ( 第 54図)日。これはタレゴリ一式の望遠鏡の-.r.
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Iで 、 制 艮 レ ン ぷ
を第一の反射鏡の中に担!め込んだものである。フ
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クは、この望遠鏡が対象を
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広大 して」見せたという。
フックが組み立てた反射式望遠鏡は、グレゴリ一式のものだけではないのニ守
67
2年 1月 1
1 日の協会の議事録によれば、
一トンが王立協会に 選 出された 1
実験主任[フック]は、
[ニュートンの] そ の望 遠 鏡 を 自分でも作り、 曇 り易
くない金 属 を 見 い だ す よ う に 努 力 する と述 べた ,
.。
このようにフック は、 ニュ ー トン式 望 遠 鏡 の反 射 鏡 の ため の 良 好 な 合 金 を 見 つ け
ることにも言及したのだった。
フ ッ ク に よ る ニ ュ ー トン式望 遠 鏡 の 作 製は、 光 学 器 機 職 人 コ ッ ク を 指 卸 して行
なわれたと思われる
き留めたメモには、
42 0
コ リ ンズが この 年 の 2月 にニュ ー トンの 替 簡 の 写 し に 岱
「王立 協 会 が 同 じやり 方 で 47ィートの長さのもの をコ ック に作
るように命 じ た」と記されている。 それは 径が 4-5 イ ~f のもので 、 14 7 , ー トの球の
一部として磨かれた4J。リーヴがグレ ゴ リーの望遠 鏡 を 試 み た と き 、 コックはリ
ー ヴ の 弟 子 と し て こ れ に 関 与 し た 。 リ ー ヴ 亡 き 後 、コ ッ ク は ロ ン ド ン 有 数 の 職 人
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号簡
とメモ は
、 コ リ ン ズ が ジ ェ ー ム ズ ・グレ ゴリ ー に 宛 て た 1672年 2月 23
日付けの 鈴簡 に同 封 され ていたことが分かる。 な お 、 球 面 反 射 鋭 の 焦 点 距離は、
出Ji事単径の半 分 で あ る。 こ の こ とから 、
く、直 径 を 示 してい る こ と が 判 明 する。
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フ ッ ク と コ ッ ク は 、 約 1年 に わ た っ て 、 大 型 の ニ ュ ー ト ン 式 望 遠 鏡 を 刊 し よ
う と 努 力 し た 。 最 初 の 成 果 は 、 早 く も 1月 2
5日に王立協会に提示された。
ニュートン氏の[方式による
1 47i→の宅i!;li.立が作られた。金属の凹面は然る
べく l
孫かれてはいなかったが、それでもかなり良好であった。とはいえ、十分
なものでヤかった。次の会合までに、それを完全なものにするように彼は命
ぜられた‘。
フックは、それを次の会合に提示した。3'/.;阜鋭は i
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r回 よ り は 改 普 さ れ て い た が
一廓の努力を求められた
のため、
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そ の 試 み はl
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[i1測には展開しなかったと思われる。そ
3月 1
4日の会合で、恐らくはこの'31i
畠鋭とは別に、
「コック氏は
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ュ ー ; ン 氏 の 発 明 し た 4-5川 の 長 さ の 四 銭 を 協 会 用 に 作 る こ と を 命 じ ら れ
たJ
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彼は そ れを 2週 間 以 内 に 作 る と 約 束 し た が 、 実 際 に コ ッ ク が 反 射 鏡 を 協
会に示したのは、
1カ 月 以 上 経 っ た 4月 1
8日 の こ と だ っ た 。 そ れ は 鋼 で 作 ら れ
た反 射 鏡で、liIfIsは良好ではなく、色のムラがあった。その鋭は 、 5月 8臼に、
再 び 会 合 に 提 示 さ れ た 。 フ ッ ク は 、 こ の 鋭 で望 遠 鏡 を 試 し て み る よ う に 求 め ら れ
た 。 し か し 彼 は 、 そ れ が 正 し く 研 磨 さ れ て い な い と 指 摘 した..。
オ ル デ ン パ ー ク は ニ ュ ー ト ノ に 、 コ ックが 47ィ→の反 射 鏡 を 作 製 し て い る こ と
を 知 ら せ て い た 円 。 ニ ュ ート ンは、
コック?望遠鏡の進捗状況を尋ねた
7月 8 日に オ ル デ ン バ ー グ に 宛 て た 手 紙 で ヰ
H
。 そ の 2 日後 、 王 立 協 会 は 、 夏 の 休 会 に 入
る に 先 た : て 、 コ ッ ク に 望 遠 鏡 を 督 促 し た " 。 ニ ュ ート ンは、
7月 1
3日の 手 紙
で 、 オ ル ア ン バ ー グ に 再 び コ ックの望 遠 鏡 に つ い て 知 ら せ る よ う に 促 し
、 同時に
鋼の反射鏡に興味を示した"
一トンはそれを鋼とアンチモンの合金と推定
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コ ッ ク が グ レ ゴ リ ー の 望 速 鋭 に関 与 し た こ と は 、 S
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1年 に コ ッ ク の 名 声 が 磁 立 し て い た こ と は、 オ ル デ ン バ ー グ が ラ イ プ ニ
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5日の会合でフックは、「ニュ ー トンの発明した 67
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鏡を 念 頭 に 世 く よ う に」 求 め ら れ たが 、 こ れ は 何 を 指 す か不明である。
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した 。 ニ ュ ー ト ン に よ る と 、 こ の タ イ プ の 合 金 は 回 く て j
岱き易し、が、反射が十分
ではないという。彼は、できればその断片をi
基るように求めた n
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そ の 返 信 で オ ル デ ン バ ー グ は 、 コ ッ ク の 反 射 鏡 を 説 明lした 。 ぞ れ は 47f ートの
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I,~出j 般を持つ直径が 6 イけのもので、 14-57 ィートの球の - :\J!として府かれたという n
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そ の 内 容 は 、 先 に 引 月 ] し た コ リ ノ ズ の 同 年 2月 の メ モ と 本 質 的 に 問 ー で あ 人
の鏡は、鋼、錫、錫ガラス、アンチモンと小量の枇素の合金だっ
f oそ
をはっきりと見せたが、他のものはぼんやりとしか写らなかった。オルデンバー
タは、これとは別にコックの鋼の反射鏡について触れた 。 それは、直径 3 イ ~f でー
ゥ・ェネチアの鋼 附
かった 。
フックは、
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)だ け で て'き て い た 。 そ の 慨 は 、 余 り 良 好 て'は ー
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2年 の 8月 の 中 ご ろ か ら 、 約 97f-ト の 反 射 鏡 に 取 り 組 ん だ と 推
0日 に 始 ま る が 、 現 在 山 j
仮されている
定 さ れ る 。 フ ッ ク の 日 記 は こ の 年 の 3月 1
のは 8月 1日 の 部 分 か ら で あ る 。 そ の ロ 切 の ペ ー ジ に も 、 反 問 へ の 言 及 が あ る ;
反射鏡の研磨について何回か言及があった後、
8月 23 日の部分には、
97fー ト の 反 射 鏡 を 良 好 に 磨 く 。 夜 そ れ で 月 を 大 き く は っ き り と 見 た
と初めて径の大きさを示して反射鏡が話題とされた。
54
8月 2
3日 に 彼 は 、 い ず れ
かの反射鏡で火星を眺めた。だが、それは余りうまく行かなかった
の 反 射 鏡 が 王 立 協 会 の 会 合 に 提 示 さ れたのは、
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0月 初 日 の こ と だ っ た 。
ニュートン氏の反射式望遠鏡の改良についてどんな試みがなされたか説明が求
められたのに対して 、フック氏は、これまで彼は、自分 が設計した直径 15 イ ~f
長さ 1
07f ト の 望 述 鏡 の た め の 反 射 鏡 を 磨 く こ と の で き る 十 分 な 大 き さ の 鋳 型
を持っていなかったが、
1-2週 間 の う ち に 入 手 で き る で あ ろ う と 述 べ た
H
。
この記述から、フックが新たに反射鏡を鋳造しようとしていたことが分かる。フ
1月 1
9日の こ と だ っ た
ックが必要な装置をコックから入手したのは 、 1
クは翌日にそれを王立協会に報告しむ
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フ川
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J 27日 に は 、 こ の 装 置 で 作 一 一
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9・ 鋭 の 径 に つ い て は 、 物
引な直径なのか、反射に有効な実効径なのかによって変動が生じやすい。なお、
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択した。
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7とニ zートンの光学論争
ていることに触れた
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1週 間 ほ ど 終 っ て 彼 は 、 反 射 鋭 が /
1
0も な く 完 成 す る こ と
を子告した"。しかし、それは鋭の歪みなどの I
l
l題 を 抱 え て い た ら し く " 、 フ ッ
ク は 、 翌 間 年 の 1月 2
2日 に な っ て 、 ょ う や く こ れ に つ い て 小 論 を 発 表 し ん
d
、べた。
そこでフックは、次のように j
367;-トの球の断而である対物反射鏡[焦点~[!隊
ば
、
97 ィート]は、完壁に 83 かれれ
1
0
07ィートの望遠鏡の対物レンズと同程度に働くのではないかと思うい。
フックは、
2月 5日 の 王 立 協 会 の 会 合 で 、 彼 の 反 射 鋭 を 示 し た
620
しかしその
日の彼の日記には、アルンデルハウス(当時の例会の会場)では「上手く行かず」
と記されている
630
この後、フックの望 i
畠銭への取り組みは半年ほど見られない内
そ れ が 再 開 さ れ る の は 、 8月 の こ と で あ っ f
。
フ
γ クが翌年
2月 に 先 述 の
7v
コリー式の望 i
皐鏡を発表したことを考えるなら、これはグレゴリ一式を作る努力
であって、ニュートン式の望遠鏡に対する取り組みの続きではないと思われる"
7 ジクによるニュートン式望遠鏡作製の試みは、彼のニュートンへの批判とギ
行して行なわれた。フックは、単にニュートンを非難しただけではなく、自らニ
ュートン式望遠鏡の可能性を追求していたのだった。ニュートンは、自分の望遠鏡をプロトタイプと考えていた。彼は、自分の第一
0-1007,-トの
号 望 遠 鏡 は 3-47ィ ー ト の 屈 折 式 に あ た る も の に 過 ぎ な い が 、 い ず れ 6
屈折式望遠鏡に匹敵するものができると考えていた"。その主張は、上のフック
からの引用と奇妙に類似している。しかし 、 フックは結局、当時の通常の長大望
遠 鏡 並 の 能 力 を 持 つ ニ ュ ー トン の 望 遠 鏡 を 実 用 化 す る こ と が で き な か っ た n
7.
,クやコックがその努力をしていたちょうどその叱コリンズはグレーリ
に宛てて、次のように普いた。
γ
fク 氏 は 、 結 後 に か か っ て お り 、 治 る 見 込 み は あ り そ う に は 思 え ま せ ん の ガ
フス研磨職人のコ
γクは、彼の装置も、この新しい[ニュートン式の]吋鏡
も、金 属 が 突 然 曇 る の で 、 世 の 名 声 を l
勝ち取ることはないであろうと考えてい
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日のことと 思 われる。
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ま す 6 70
王立協会で当 初高い評価を受けたニュートンの望遠鏡は、実用化の困難がI
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かになるにつれて、その将来性を疑われ始めたのであった。
ニュートン式望~鏡の問題点
ニュ二トンの望遠鏡に対しては、制3
M対象を>,1.っけにくいという批判が当初な
された 曹、 し か し ニ ュ ー ト ン が 述 べ た よ う に 、 そ れ は 慣 れ の 問 題 で あ り 、 必 要 が
あれば補助のI
J
日 準 を 取 り 付 け る こ と な ど で 解 決 で き る も の だ っ た 60n
J
、
より深刻だったのは、反射鏡が抱える問だった。ニュートン が印 し た 反 射
鏡 の 合 金 は 、 鋼 6に 対 し て 錫 2を 含 む 銀 色 の ベ ル ・ メ タ ル (
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)と 呼 ば れ る
ものを基本としていた
。彼は、それに枇紫を加えて微小な孔ができるのを防よ
70
だ。 ロ ン ド ン に 送 っ た 望 遠 鏡 の 場 合 に は 、 f
t
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t素 の 代 わ り に 銀 が 使 用 さ れ た
0川
が、この銭は入射光の 2
Yト 程 度 し か 反 射 し な か っ た
7 20
。だ
71
レンス'を使用した
場予の透過光より、この鋭による反射光の方が査が少ないことは避けられなか「
f
こ 。 しかも、鋼を多く含む合金は、 曇 り 易 い と い う 欠 陥 を 持 っ て い た 。 後 知 ミ
で 見 る な ら 、 ニ ュ ー ト ン の 望 遠 鏡 は 、 そ の ま ま で は 実 用 に 耐 え な い も の だ っ た nー
ニュートンの方式の望遠鏡にとって反射鏡が問題であることは、発明者自身よ
気づいていた 。反射式望遠鏡を最初に試みたとき、ニュートンは十分な光の反射
を得るのに苦労していた ?4 0 ニュ ート ンは、・~り の問題も知っていた。王立協会
に望遠鏡を送ってしばらくしてから 、ニ
一ト ンは 、 「 凹 面 鏡 が 水 蒸 気 か 他 の 原
因で 曇 ったら 、 皮 で 拭 い て 」 欲 し い と オ ル デ ン ハ ー タ に 轡 き 送 っ た 7 5 0 フ ッ ク も
また、この問題に気づいていた。ニ
一 トン の 望 遠 鏡 が 発 表 さ れ た 1
6
7
2年 1月
1
1 8の 会 合 で 、 先 に 引 用 し た よ う に 、 フ ッ ク は 「 曇 り 易 く な い 金 属 を 見 い だ す
ょっに努力すると遊べた 」 のだった。反射鏡に 金属以外の物質を使用することは、
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2年 3月 4 日 、 ォ ル デ ン パ ー グ は 、 リ エ ー ジ ュ の 数 学 者 で あ る ス } ュ ー ズ
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)に 宛 て て
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ンの 「長 い 叫 鏡 を 短 く す る 」 工 夫 、 す な わ ち 反 射 式 四 銭 に 触 れ た 。 彼 l
ク が 矧 大 の 反 射 鋭 を 作 製 し て い る こ と に つ い て も ま 川 せ た が 、 こ れ が 507i-f
の屈折式笠i
卓j
Jlを越えるには、 「そ れ [加折式笠i!;lj
J
l] と 同 じ だ け 光 を 反 射 」 し
な け れ ば な ら な い と 述 べ た 770
ニュートンは、同じころにオズ
からも批判を受けた。オズーの手紙は失われ
て お り 、 内 容 は 正 磁 に は 分 か ら な L、 。 だ が 、 ニ ュ ー ト ノ の 回 答 か ら 、 オ ズ ー の 論
占を推定することができる 。 問題となったのは、鋭の反射の扱の少なさと、曇り
の問題であったと思われる?九ニュ
トノはオズーへの回答の中で、
「金 属 の 新
しい研lfIi法 が 見 つ か る か も 知 れ な い 」 と 将 来 の 可 能 性 を 示 唆 し 、 も し そ れ が 見 つ
かったなら、水蒸気中の般の初気 (
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)に よ る 腐 食 を 避 け る た め に 、
「乾 燥
さす空気から遮断する 」 こ と で 曇 り を 長 い 附 止 す る こ と が で き る と 述 べ た。 一
りにニュートンは、反射光を横方向に取り出すのに、平面鏡に代わって直角プリ
ズ ム の 全 反 射 を 使 用 す る こ と を 提 案 し た 7。
・
このようにニュートンは、実際に作製された反射式望遠鏡の実用性ではなく、
その将来の可能性に訴えた。しかし、このころオルデンパ
グからニュートノに
送られた手紙は、ニュートンの望遠鏡が既に曇っていることを伝えていた
'
0
前 節 で 述 べ た よ う に 、 フ ッ ク は ニ ュ ー ト ン の 望 遠 鏡 が 登 場 し て か ら 約 1年同』こ
わたって、実用レベルのニュートン式望遠鏡の作製に努力した。筆者が調べた限
りでは、
1
7世 紀 の 間 に 良 好 な 反 射 鏡 が イ ギ リ ス で 登 場 し た と い う 鉦 拠 は な い 内
?のことは、ニュートンの望遠鏡が、鏡の反射率の低さと曇りという実用上霊ー
な二つの問題を克服できなかったのではないかという疑いを強めるのであるの
シンプ、ノンが示唆したように、ニュートンの望遠鏡は、初期に歴史的な役討を
" 1月 2
5日 に 、 ボ イ ル の 作 っ た 不 透 明 ガ ラ ス と 、
ト ー マ ス ・ブ ラ ウ ン (
τnomas
Brown)宛 に 送 付 さ れ て き た ア イ ス ラ ン ド の 黒 い 石 を 反 射 鏡 に 使 う こ と が 検 討 さ れ
た
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迷畠鋭を提示した。
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6日 付 の こ の 手 紙 自 体 は 失 わ れ た が 、 そ の 内 容 に 言 及 し て い る も の と し
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tの 提 示 に と ど ま り 、 そ の 実 m化は、
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8世 紀 を 待 た な け れ ば な ら な か っ た 。
グレゴリーとこュ一トンの論争
グレゴリーは、
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2年 2月 2
3日 、 コ リ ン ズ か ら ニ ュ ー ト ン の 望 辿 鋭 に つ い て
記した手紙を受け取った"。コリンズはさらに、
ニュー卜/のやりとりに簡単に触れた
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3月 1
4日 の 手 紙 で 、 フ ッ ク と
4月 9日の返信で、グレゴリーは、
私はニュートン氏の実験に非常に驚きました。それは、自然哲学全体の大きな
変 化 を 生 み 出 す か も まr
Jれません・ 4
とニュートノの光に関する実験を賞賛した。彼はまた、フックとニュートンの論
争にも興味を示した。
グレゴリーがニュートンの望遠鏡にコメン卜したのは、
8月 6日 の コ リ ン ズ 宛
の書簡が段初であった。そこでグレゴリーは、次のように述べた。
筏限レンズと平面鏡の距離が近いので、ニュートノ氏の望遠鏡の方が、私が
『光学の進歩』で言及したものより優れているかも知れない H 。
ニュートンとグレゴリーがコリノズを仲介にやりとりを始めたのは、カセグラ
ン(
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)の 望 遠 鏡 が 登 場 し て か ら で あ る 。 ニ ュ ー ト ン の 望 遠 鏡 の 情 報 は フ
ランスにも伝わったが、これに対して、フランスから先取椛の申し立てがあった..。
そ れ に よ れ ば 、 ニ ュ ー ト ン の も の と ほ と ん ど 同 じ 望 遠 鏡 が 、 約 3カ 月 前 に 、 カ セ
グ ラ ン に よ っ て 公 に さ れ た と い う の で あ る ・ 7。 そ の 望 遠 鏡 は 、 む し ろ グ レ ゴ リ ー
のものに類似していた。両者の速いは、第二反射鏡が凹面ではなく、凸面鏡とな
っている売だけだった(第 5
3図 ・ 下 ) 。 こ の 方 式 の 長 所 は 、 口 径 を 大 き く と れ
ること、反射が軸方向に起こるため自然であること、筒の後ろ側から観測するの
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..詳しい経過については、
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2を参照されたい。
"カセクランがどのような人物なのかは、ほとんど知られていない。一説による
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s. の 自 然 学 の 教 皮 で あ り 、 あ る い は ま た 、 ル イ
な ら ば 、 彼 は .C01
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分からない。
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ニ r トンの光学論争
で 周 聞 の 余 分 な 光 が入 り 込 ま ず 、 対 象 を 見 つ け 易 い こ と で あ る と さ れ た n
オ ゴ デ ン バ ー グ は、 1
67
2年 5月 2日 に 、 ニ ュ ー ト ン に こ の 制 鏡 に ー い て 伝
え た 也 、 ニ ュ ー トンは 2 日 後 に こ れ に 回 舎 を 与 え た が 、 彼 は カ セ グ ラ ン の 盟 i
且絡
に対して州的だった
H
。ニュートンは、自分はグレゴリ一式の仰を検討し;
上で J
喪服レンズを横に付けることを選んだと述べた。さらに彼は、カセグランの
E
t
Zは、)¥';は垂直より斜め方向により艮〈反射
方式の欠占を七項目挙げた。その2
されること、カ セ クランの使った凸
r
m鋭 に 比 べ て 平 面 鋭 の 方 が 作 り や す い こ と
カセグラン式の場合には凹而と凸面の狂いが強め合い、しかも凸而~I!分で光が分
散 し て 像 が 暗 く な る こ と て ' あ っ た 。 ニ ュ ー ト ン は さ ら に 、 な ぜ 刊l
方向の反射均一
然なのかという疑問も投げかけた。
グ レ ゴ リ ー は 、 9月 ご ろ に な っ て よ う や く ニ ュ ー 卜 ン の こ の 批 判 を 入 手 し 、 カ
セ グ ラ ン の 望 遠 鏡 に 好 意 的 な コ メ ン ト を コ リ ン ズ に 送 っ た 旬 。。グレゴリーは、カ
セクラノ式の長所として、凹面鏡と凸面鏡を近づけることができるので誤差を小
さくできること、同じ効果を得るのにニュートン式に比べて望).gi.置の長さを半分
以下にできること、凸面鏡を移動して倍率を変化させられることを挙げた。さふ
に、光線の反射は 、 ボ ー ル と 同 じ で 、 斜 め よ り 垂 直 に 入 射 し た 方 が 良 好 で ム
述べた。
ニュートンはこれを知って、
その内容はグレゴリ
J
1
2月 1
0 日に コリ ン ズ に 宛 て て 疑 問 を 書き送り、
に転送された
@10
ニュートンはまず、球面反射鏡では凸面
より凹面の方が幾何学的に収差が小さいことを指嫡し、 カセ グラノ式よりもグレ
コリー式の方が優れているとした。 その 上 で 、 両 方 式 双 方 に 当 て は ま る 批 判 を 述
べた。それは、第二反射 鏡を自分のように平面とした方が、それを曲面で作るよ
り 反 射 が 良 好 で あ る と す る 主 張 だ っ た 。 ニ ュ ー トン に よ れ ば 、 光 の 反 射 は 物 質 の
固い部分で起こるのではなく、二つの媒質の境界で起こる。だから、それはボー
ルの反射というよりは、水面における石の反射のようなものである。水面の湯合、
垂直に入射した石は水の中に入り込んで反射されない。だから、鋭でも、光が斜
めに入 射 し た 方 が 反 射 は 良 好 で あ る と い う 。 ニ ュ ー ト ン は 加 え て 、 I
出面の場合に
は、 倍 率 を 低 く す る と 第 二 銭 の l
助 率 が 大 き く な り 、 入 射 し て く る 光 を 邪魔 するこ
と も 指 摘 し た 。 ニ ュ ー トン は 、 グ レ ゴ リ 一 式 で は 、 直 径 を 大 き く し よ う と す る と
第二鏡が相対的に大きくなるという問題もあるという。ニュートンによるなふ
光 に よる問題は同じて'あ
接 眼 レ ン ズ が 績 に あ っ て も 底 に あ っ て も 、 周 囲 の 削L
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ニュートンの主張は、一部に手を加えて、
1ン ズ 』 に 収 め ら れ た 。
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fの 主 張
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42 グレゴリーは、
:の手 紙 に 、 事 故 に よ る ロ ン ド ン か ら の 郵 便 の 遅 れ を 記 し て い る 。
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216 -
ロ
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77~ とニェート y の光学論争
『司 「
し か し 、 反 射 鋭 の真ん中にイし を あ け て 研 I
防 す る こ と は 、 技 術 的 に 囚 縦 で あ る 一ー
ュ一トンは、カセクラン式の光州差に関するクレコリーの仰を川し、
E
:雌
な平而反射鋭の場合、それは鋭同士の ~fi 般 EF
ι
ι
(第 53図 ・下 図 を 見 よ ) に よ
いとした。盟遠鏡の筒の長さを短くできる点については、ニュートノはカセク!
ン式の長所を認めている。だが、倍率の変化は、自分の方式でも可能であると述
1
"而 鋭 を 使 J
T
Iす る と 視 野 が 狭 く な る (
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)可
べた 。 こ こ で 彼 は 、 第 二 銭に 1
能 性 が あ る こ と を 指 摘 し た 。ニ ュ
トンは、カセグランの 方 式 に レ ン ズ
M
l
;
て
、
正立像を得ることにも考察をめぐらせた。手紙の終わり近くでニュートンは、グ
レゴリ
-mに リ ー ヴ が 作 っ た 反 射 鏡 を 使 っ て フ ッ ク が 行 な っ た 実 験 に 言 及 し た
R
ニュートンは、ファクの反射式望遠鏡の試みが失敗したのは、'1
1に 鋭 が 良 好 て 々
かっただけに過ぎないという。
ニ ュ ー ト ン の こ の 手 紙 に 対 し て 、 3カ 月 ほ ど 経 っ た 翌 年 の 3月 7日 に 、 グ レ ゴ
リ一日紙を送った
@ 20
そこでグレゴリ
は、光は斜め入射の方が反射が大きい
克
といっニュートノの批判を受け入れた。だが、斜めに光が入射する場合には、 t
の 表 面 の 傷 が 引 き 起 こ す 像 の 吉L
れの問題があると述べた。彼はまた、光路の誤差
に関する自 分の 考 え は 誤 り だ っ た こ と を 認 め
h
しかし、平面鋭を位奨するニ
J
一トンが反射式顕微鏡では曲面鏡を考えたことの矛盾に触れ、腕川批判制];
た。ま た 、 自 分 と リ ー ヴ ら の 試 み は 、 や っ て み た う ち に 入 ら な い ほ ど の も の だ と
害 い た 。 手 紙 の 追 伸 で グ レ ゴ リ ー は 、 自 分 の 方 式 の 67ィート望遠鏡を理論的に考察
i
t
し、実験に待つべきだとは断りながらも、銭面の胞がりによって失われる光の i
は余り多くないことを示そうとした。
こ れ に 対 し て 、 ニ ュ ー ト ン は 4月 9 日 に 再 び 手 紙 を 送 っ た " 。 そ の 冒 頭 で ニ ー
一トンは、表面に凸凹があっても斜めの反射が垂直反射より良好であるという言
論 を 難 解 な 表 現 で 展 開 し た 。/j(に 、 ニ ュ ー ト ン 式 で 倍 率 を ど の よ う に し て 変 化 さ
せるのかというグレゴリーの疑問に答えて、図入りで自分の工夫を説明した。こ
れは、第 二 銭 と し て 、 直 角 プ リ ズ ム を 使 用 す る も の だ っ た 。 そ の 表 面 は 少 し 丸 く
してあり、レンズの役割をするようになっている。その位置の変化で、倍率を変
動させることができる。ニュートンは、グレゴリーが先の手紙で触れた望遠鏡の
具体例も引きながら、グレゴリ一式の観測視野の狭さを問題にした。先の手紙で
グ レ ゴ リ ー は 、 ニ ュ ー ト ン が こ の 点 を 批 判 し た の に 答 え て 、 出li
l
i
J
第
二J
Jlを用いた
望遠鏡で視野が狭くなることはないと反論していた 。ニ ュ ー ト ン は 、 自 分 が 顕 微
t
l
liliJの第二銭を使用しなかったのかについても触れている 。 し か し 、 グ
鏡でなぜ I
レ ゴ リ ー は 、 ニ ュ ー トンが 顕 微 鏡 に 平 田 鋭 を 使 用 し な か っ た 耳 目 由 を 問 題 に し た の
で あ り 、 ニ ュ ー トン は ク レ ゴ リ ー の 論 点 を 誤 解 し て い る 。
グレゴリーは、
5月 1
3日 に 、 ニ ュ ー ト ン 宛 の 返 信 を コ リ ン ズ に 送 っ た
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て
で
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217 -
日-5 719とニュート Yの 光 学 論 争
のi
ヨi] j で グ レ ゴ リ ー は 、 傷 が あ っ て も 斜 め の 反 射 の 方 が 良 好 と い う ニ ュ ー ト ン の
議論は理解しがたいとした。さらに、 I
l
l
l聞 プ リ ズ ム を 使 用 す る こ と は 、 光 路 の 逸
れを起きやすくするものであり、ニュートノが見つけた光の分散も起こると I
l
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J
した。これに続く議論は理解しやすいものとはいえないが、不安な光の混入を泣
けながら悦野を磁保する方法を論じているように思われる。グレゴリーは、ニュ
l
lに 納 得 を 示 さ な か っ た 。 思 後 に グ レ
ー ト ン が 反 射 式 顕 微鏡て'第二鋭を省いた辺 r
ゴリーは、回折に 関係する一つの現象に言及して、彼の手紙を結んた。
グレゴリーは、この手紙を送った後にロンドンを訪問した。ニュートンとのや
りとりは、出発に先立つ彼のこの手紙で途絶えた。それは彼が、ロンドノからの
帰途にケンブリッジに立ち寄り、ニュートンと面会したためとも言われる
H
。
こ の よ う に 、 グ レ ゴ リ ー と ニ ュ ー ト ン は 、 約 1年 間 に わ た っ て 、 コ リ ン ズ を 仲
介者として論争 を 行なった。この論争では、反射式望il:!~売の他えている鋭の合金
の困難は問題とならなかった。その代わりに論争の的になったのは、ニュートン
式、グレゴリ一式、カセグラン式という三種類の反射式望遠鏡の優劣の問題であ
っf
こ。
興味深いことに、クレコリーはニ斗一トンの光の理論を批判しなかった。ガラ
ス に よ る 光 の 分 散 の 現 象 は 、 当 然 の 前 提 と さ れ て い た。 フ ッ ク も プ リ ズ ム に よ る
光の分散の存在は認めているから、色彩による光線の屈折性のj1I;いというニュー
トンの斬新な考えは、学界に容易に受容された ことがうかがわれる。だが、ニュ
ー ト ン の 光 の モ デ ル に 批 判 を 浴 び せ た 点 で は 、 フ ッ ク は グ レ ゴ リーとよ主っていた。
ニ ュ ー ト ン は 、 ホ イ ヘ ン ス と も 望 遠 鏡を め ぐ る や り と り を 行 な っ た 。 次 節 で 見
るように 、 ホ イ へ ン ス も ニ ュ ー トン の 光 の 分 散 の 発 見 を 受 け 入 れ た 。 し か し ホ イ
へ ン ス は 、 フ ッ ク 同 様 に 、 ニ ュ ー トン の 光 の 粒 子 説 と 、 そ れ に 付 随 す る 色 彩 発 生
メカニズムを批判した。
ホイへンスとニュート ンの論争
n
本 論 文 の 買3 部 第 一 意 で 述 べ た よ う に 、 王 立 協 会 で は 、 会 合 で 話 題 に な った
重要 な 事 項 を 、 ホ イ へ ン ス に 知 ら せ る の を常 と し て い た 。 オ ル デ ン パ ー グ が ニ ュ
ー トン の 反 射 式 望 遠 鏡 の 発 明 を ホ イ へ ン ス に 知 ら せ た の は 、
1
6
7
2年 1月 1日
(旧暦)のことだった"。オルデンパーグはニュ ー トンの望遠鏡について 簡 単に
書き記し、詳細を後伎で送ると述べた。
「長い望 遠 鏡 を 相 当 に 続 く す る 」 と い う 文 言 を タ イ トル に 含 む そ の 詳 細 な 解 説
は、 ニ ュ ー トン の 点 検 を 受 け た 後に、
封された
970
1
5 日付 け の ホ イ へ ン ス 宛 の 短 い 手 紙 に 同
ホ イへンスは、 こ れ ら の 二 つ の 手 紙 に 対 し て 2月 3 日 ( 旧 暦 ) に 返
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の光学論争
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。 そ こ で ホ イ へ ン ス は 、 ニ ュ ー トンの望 i
且鋭が、
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1
1に 長 さ を 短 く す
収 差 の 方 が 凸 而 ガ ラ ス に よ る 周 折 よ り も 小 さ い こ とを
るためではなく、凹町鋭の l
計算で宅 慮 し た 上 の も の で あ る こ と が 分 か っ た と 述 べ た 。 ホイへンスは、)'(:;を良
〈反射する金属を手に入れるのが主要であること、主主物而鋭の方が鋭の)~状とし
て理士目的であることに触れた 。
当然のことながら、ホイへンスはまだ、ニュートンの色彩輸については知らさ
れていなかった。ニュートンの理論が王立協会で発表されたのは、ホイへンスに
手 紙 が 送 ら れ た 5日 後 の こ と だ っ た の で あ る 。 オルデンパーグは、
てニュートンの光の理論の仰妥を 簡単にホイへンスに
1月 ほ ど 経 っ
mき送 った 旬。。
にl
則して最初のコメントを送ったのは、
ホ イ へ ン ス が ニ ュ ー ト ン の 理 論 的 側 面1
3月 3
0日 (旧 暦 ) だ っ た 。 そ こ で ホ イ へ ン ス は 、 次 の よ う に 曾 い た 。
i
k新 の も の を
私は、ニュートン氏が望遠鏡のレンズと鋭の効果について笹いた l
見て大変にうれしく思いました 。彼は、私と同じように、その二つの表面の傾
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ゅのために、 .
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1物 凸 レ ン ズ の 厨 折 が 欠 陥 を 持 っ て い る こ と に 気 づ い
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たと分かりました 。 彼の新しい色彩の理論については、非常に素晴らしいもの
と は 思 い ま す が 、 全 て の 実 験 と合致 す るか見 てみる 必 要 が あ り ま す
looo
こ こ か ら は 、 ホ イ へ ン ス が ニ ュ ート ンの 色彩 論 に必 ずし も賛 成 し て い な い こ と 、
また 、 ホ イ へ ン ス が ニ ュ ー トンの望 遠 鏡 の 長 所 を 、自 分 と 同 様 に 「 レ ン ズ 表 面 白
傾き Jを 避 け た 点 に あ る と 考 え た こ とが 分 か る。 つ まり 彼 は 、 ニ ュ
トンの反 射
式 望 遠 鏡 が 新 し い 色 彩 論 に基 づ い て い るこ とを 理 解 せ ず 、 続 何 学 的 な 収 差 を 避 け
る 工 夫 と 捉 え て い た。
ホイへンスとニュ
トンが本 格 的 な 議 論 を 開 始 した の は 、 ホ イ へ ン ス の 6月
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ンノプソンは 、こ の 時 ホ イ ヘ ノ ス は 別 の 経 路 を 通 じてニュー トン の 理 論 の 内 容 を
知 っ て い た と 街 嫡 している。しかし、 その 仮 処 と し て シ ン プ ソ ン が 挙 げ た ホ イ へ ン
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スの論考の中に は、これ に当たる ものは見あたらない。 5
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原 文 の フ ラ ンス語の
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含意 は ないこ と に 注 意 。 後 者 に は
大辞 典』 、 白 水社、
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1年、
Jの意味であり、
「性 質 」 の
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n・ が 使 用 さ れ る ( 例 え ば 、 『仏手1
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1
316-1317ページを見よ)。 な お 、 ニ ュ ー トンはこ
のコメン トを オ ル デ ノ パ ー グ か ら 仏 語 の ま ま知ら された が 、 そ れ は 文 章 の 順 番 を
変えるなど、ホイヘノスの表現に手を加えたものだった。
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日-5 717と
ニ 2ー
ト Yの 光 学 論争
21日 の 聞 か ら で あ る
1010
そこて'ホイへンスは、ニュートノがもっと大きな刑
法鋭を向ことを望んだ。これは、ホイへンスが訓レベルの望泌鋭を疋似し七
いるものと解釈できる。続いて彼は、反射鏡の金属が重要であるという先の手紙
の主張を繰り返した。ホイへンスは、自分も段近ブロンズで鋭を作ってみたが、
べた。ホイへンスは、ニュートノの
金 属 が 柔 ら か す き ' て う ま く 行 か な か っ た と 主s
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e)と し な が ら
光の型論にも触れた。彼は、それが正しい可能性が高い (
も、レンズの収差については、ニュートンの見解を受け入れていない。彼は、ニ
;
2
5の 大 き さ に な る が 、 そ れ ほ ど の
ュートンに従えば色収差はレンズの口径の 1
収差は実験では認められないと指摘した。
この手紙の主要な部分は、ニュートンに転送された
lO20
オルデ ンバーグは手
紙 の 終 わ り で 、 ニ ュ ー トン に 返 信 を 笹 く よ う に そ れ と な く 勧 め て い る 。 ニ ュ ー 卜
ンの返舎は、
7月 8 日に オ ル デ ン パ ー ク に 送 付 さ れ た
。そこでニュ
103
トノは、
;
25と な る と い う ホ イ へ ン ス の 主 張 に 対 し て 、 図 を 示
色収差の大きさが口径の 1
して自分の計算を説明した。ニュ
β0程 度 で あ る
トンによれば、収差は高々 1
0日 程 た っ て 、 若 干 字 句 を 改 め て 英 語 の ま ま ホ イ へ ン ス に
という 。 こ の 手 紙 は 1
転 送 さ れ た 1040
ホイへンスは、
9月 1
7日 に 、 簡 単 に 前 の 手 紙 に コメ ン卜した
。彼はそこで、
105
自分の収差の計算が間違いであったことを認めた。しかし一方で、ニュートンの
色彩論については、なおも可能性の高い仮説としてのみ受け取るべきであるとし
た。 なぜなら、
「事 態 は 十 分 に 他 で も 有 り 得 る か ら 」 で あ る 。 ホ イ へ ン ス は 、 ニ
ュ 一 ト ン の 理 論 を 唯 一 の 説 明 方 法 と は 考 え な かった。
ホ イ へ ン ス が 『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ J の 記 事 な ど を 見 て 再
び ニ ュ ー ト ン の 理 論 を 論 じた の は 、 翌 1
6
7
3年 1月 4 日 の お 附 だ っ た 。 こ の 手 紙
で 初 め て 、 ホ イ へ ン ス は 自 分 の 光 の 理 論 を 切 ら か に し て ニ ュ ー ト / を 批 判lした。
私には、黄色と背色を機械論的に運動の性質から説明する仮説で、全てを説明
するのに十分であると思えます。他の色彩につい て言えば、より深く力を与え
た も の が ( フ ッ ク 氏 の プ リズ ム で 現 れ た よ う に ) 暗 〈 深 い 赤 と 背 と な り、 こ れ
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08 先 の 場 合 同 様 、
オ ル デ ン パ ー グ は 原 文 に 若干手を加えている。
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らの四つから 、 他 の 全 ての 色 彩 が 合 成 さ れ ま す
I0 60
第 I部 第 六 章 で 見 た よ う に 、 フ ッ ク は 色 彩 を 、 光 の 強iい パ ル ス と 弱 い パ ル ス の
附?組み合 わ せに 還 元 し た 。 彼はその両極~,I を赤と î't として、仙の 色 彩は、両
者の合成によって作られるものと与えた 。 ホイへンスはフック同級に、光は i
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V、
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J
iで あ る と 促 え た 。 ホ イ へ ン ス は 原 色 を 貨 色 と f
j
-色 と し た が 、
すなわち 一 般 の 仮 i
i
)
Vの 4本 の セ ッ ト と す る フ ッ ク の 理 論 の 締 法 は 類 似 し て
彼のEl1論と、赤と 育 を 仮 f
いる 。 ホイへンスは 、 光線の屈折性が色彩によって異なることを重袈な I~J JIIjと見
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)的 な も の で あ る と い う 。 ホ イ へ ン ス
なしたが、しかし それは所詮偶然 (
は 、 ニ ュ ー ト ン は結 局 色 彩 の 差 具 に つ い て は 説 明 を 与 え て い な い と 批 判 し た 内 そ
して、白色を黄色と音色から合成することは、試すに値するものであると述
JL
ホイヘノスは色 収 差の 問題に 触 れ、 1
27ィ 斗 の 対 物 レ ン ズ で 作 っ た 倣 は 、 口 径 一
l
β0と い う 計 算 上 予 測 さ れ る 収 差 に 比 べ て 鮮 明 で あ る こ と を 指 摘 し て い る 。 だ か
ら、 「実 験 は ニ ュ ー トン 氏 が 考 え て い る こ と と 合 致 し な い J という。
こ れ に 対 す る ニ ュ ー トンの返事は、
4月 3 日 に オ ル デ ン パ ー グ に 送 付 さ れ 、 ほ
ぼ そ の ま ま 『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ 』 に も 収 録 さ れ た ,
内そ
OT
の前半て'ニ ュー トン は 、 ホ イ へ ン ス の 二 原 色 体 系 を 酬 し 、 全 て の 色 を 貨 と ら の
2色 か ら 作 る こ と は で き な い と 述 べ た 。 I
f
i
jの波は1llf限の多線性を持つのであり、
2種 類 し か 波 が な い と し た ら か え っ て 奇 異 で あ る 。 だ か ら 、 仮 に 光 が エ ー テ ル 振
動 で あ っ て も 、 二 原 色 説 は 受 け入 れる こ と の で き な い も の で あ る。 ニ ュ ー ト ン は
自分の理論は仮説ではなく事実であると糊した上で、光線の屈仰の差呉を再
び 庄 ベ ヂ 。 ニ ュ ー トンは 、 こ れ に 続 け て 、 2種 類 の 光 か ら 白 色 を 何 こ と が でき
る と 一 一 見 矛 盾 し た 主 張 を過去 に述 べ た こ と が あ る こ と を 認 め た 川 。 そ れ は 、
これ b の 2色 が 、 多 数 の 他 の 色 の 複 合 で あ る か ら だ と い う 。
2色 か ら の 白 色 の 合
成 を 述 べ た 際 に 、 ニ ュ ー トン は 、 原 色 と 複 合 光 の 差 異 も 説 明 し て い た 。 だ が 、 原
色とlJ1:合光の区別はさほど 単 純 な も の で は な く 、 白 色 光 を 全 て の 光 線 の 集 ま り と
す る ニ ュ ー トノ の 理 論 と 全 く 矛 盾 し て 感 じ ら れ る こ と は 間 違 い な か っ た n ニ 『一
トンは手 紙 の 後 半 で 、 実 際 の 色 収 差 の 寄 与 が 理 論 よ り 小 さ い 型 自 を 説 明 … : 彼
によれば、 口径の 1
β0の 収 差 を 持 つ 光 は 、 レ ン ズ に よ っ て 最 大 に 逃 ら さ れ た も
のであるという。大部分の光は、口径の 1
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10
0以 下 の 収 差 し か 持 た な い 。 し か も 、
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トン に 転 送 し た も の は 、 O
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7 ホ イ ヘ ン ス の 手 紙 の 一 部 は 英 訳 さ れ て 、 Ph
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086-6087に 収 め られた 。
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2と 同 時 に ホ イ へ ン ス に 転 送
ケ た と 思 わ れ る 。 ま た 、 PJu.
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- 221 日 5
77~ とニ, -f:; の光学論 争
『 司「
収差の大きい光は 、分散した分だけ 1
1
f
tに 与 え る 印 象 が 少 な い か ら 、 色 収 & は 小 さ
〈見えるという。
こ の ニ ュ ー ト ン の 主 張 に 対 し て 、 ホ イ へ ン ス は 5月 31日 に 手 紙 を 送 っ た
10 園 内
こ の 短 い コ メ ン トで ホ イ へ ン ス は 、 白 色 は 二 つ の 色 か ら 合 成 で き る と い い な が ら :
ーれ白色を何には全ての原色が必要というニュートンの主恨の矛盾を取ー
げて、
11
庄は熱心に自分の主狼を守っている」と皮肉った。その一方で、色収差
一
の大きさについては、ホイヘノスはニュートンの説明を受け入れた。
し か し そ う だ と す る と、 望 遠 鏡 を 完 全 な も の に す る 唯 一 の 方 法 は 凹 面 反 射 i
J
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.
ご
と提案した時に私たちに信じさせようとしたような光学:ガラス[レンズ]の光
リ
l
は
の収差が、それほどの欠点ではないと彼は認めたことになります。彼の発l
確かに良いものです。しかし、私の経験によれば、素材の欠陥のために、それ
は笑行が困難です。そのことは、デカルト氏が、 J~ が難しいので双山線を使え
なかったようなものです。だから、私たちは球面ガラスに頼るべきだと思いま
す
1私 た ち は そ の お か げ を す で に 十 分 被 っ て お り 、 望 遠 鏡 の 長 さ を 長 く し た り 、
ガフス自体の性質を改善することによって、まだ一層完鐙なものにすることが
できます。
色収差の影響が大部分の光についてレンズの径の 1
/
10
日以 内 で あ る と い う ニ ュ
ートンの説明からは、色収差の問題はさして重要ではなく、ガラスレンズを拒否
す る 必 要 は な い と い う 結 論 が 導 出可能だった。
ホ イ へ ン ス は ニ ュ ー ト ン の 一 方 的 な 態 度 に 業 を 煮 や したらしく 、 その 2週 間 ほ
ど 後 に オ ル デ / パ ー ク に 送 っ た 手 紙 の 中で、 ニ ュ ー トン と は 「 こ れ 以 上 論 争 し た
く な い 」 と 論 争 打 ち 切 り を 宣 言 し た "0。
そ れ を 知 ら な い ニ ュ ー トンは、
6月 23日 に 先 の ホ イ へ ン ス の 手 紙 に 返 事 を 送
り、 2色 で 作 ら れ る 白 と 太 陽 光 の 自 を 区 別 す る 方 法 を 説 明 し た
。彼は反射式
111
望遠鏡を実際に作るのが縦しいことは認めたが、自分の方法で大きいものも作る
ことが可能であるとしている。
だが 、 こ れ ら の 反 論 に 、 当 然 の こ と な が ら ホ イ へ ン ス か ら の 返 事 は な か っ た 。
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に収められた。
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ものは、
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- 222 -
1
I-5 77~ とニュ ー いの 光 学論 争
~
ニュートンの望遠鏡の運命
ニュートンは、望遠鏡や光の迎論をめぐって、以上のような論争を皮/J
J
iした の
ニ ュ ー ト ン は こ の 他 に も 、 川 の よ う に 、 ノ fル デ ィ ー ス 、 リ ヌ ス な ど か ら も …
を受
t
た。 従 来 の 科 学 史 で は 、 彼 ら と の 論 争 に 大 き な 比 重 を 充 て て き た 。 し か し 、
パルァィースやリヌスの批判は、ニュートンの実験に対する単なる事実誤認に基
づくものであって、重要ではない
。我々がi
l
l制 す べ き な の は 、 フ ッ ク や ホ イ
11 2
N泊 し た 人 々 の 批 判 で あ り 、 グ レ ゴ リ ー の よ
へンスのように望遠鋭や光の辿!論に t
うに、自ら望遠鏡を鎚唱した人物の考察であるはずである 。
これまでに論じてきたこれらの人々のニュートンへの対応を単純化して捻理す
ると、次の表のようになる。
第5
表 ・ニ ュ ー ト ン へ の 対 応
(0 E
P :ニ ュ ー ト ン の 主 張 を 認 め た
フック
ホイへンス
。
色による光線の
認めなかった)
×印
グレゴリー
。
。
屈折性の差異
光のモデル(色彩の
×
×
×
×
言及せず
発生 I
hニλ'ι を含む〉
ニュートノの望
遠鏡の是非
ム
(他の反射式と比較)
このように、色彩による光線の屈折性の差異についてのニュートノの発見と、
それによる白色光の分散の現象は、正しいものとして認知された。しかし、その
現象に対するニュート
J
の説明と、その現象が屈折式望遠鏡の改良の妨げになる
一
例 え ば 、ニュ ー ト ン の 替 簡 や 論 文 の 選 集 で あ る 、
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であるが、重要でない論 敵で あったパルディースやリヌスとニュートンとのやり
とりを多 数 収 め る 一 方 で 、 極 め て 重 要 な 論 敵 で あ る ホ イ へ ン ス の 書 簡 は わ ず か 2
過とか収めず、クレゴリーと の論争に歪つて は全 く取り上げていない。なお、パ
)~
ア ィ ー ス は ニ ュ ー トンの実験装置を誤解し、
リヌ ス は 実 験 条 件 を 誤 解 し た 。
- 223 -
,
I
I
5 7 pとニュートンの光学論争
司司「
ほど重大であるという彼の主恨を、フックとホイへンスは認めなかった n ニ守一
lとして、
ト ン と は 見 な る タ イ プ の 反 射 式 叫 鋭 の 可 能 性 を 考 察 し た グ レ ゴ リ ー は l JJ
l
の改良を考えていた 。 彼らにとって;
フックとホイヘンスは、屈折式望遠鏡の ー J
f
i
反射式望 i
畠鏡の鏡の合金の他える問題もまた、それを避けるl1l11
I1だった
、
n
フ ッ ク も ホ イ へ ン ス も 、 論争の後に臼分の)¥';の波動説を政棄することーはな〈、
屈 折 式 問 銭 に 対 す る 期 待 も 変 わ ら な か っ た o 例えばフックは、
月
ご
附
年5
ろ に 行 な っ た と 思 わ れ る 緋 義 の取締で、次のように述べた。
光とは発光する物休の部分の独特 (
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)な 速 i
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Jに 他 な ら ず 、 そ れ が 発 光 物 体
を 取 り 囲 む 流 体 に 影 響 す るのである 。 そ の 抗 体 は 、 完 全 に 流 動 的 で 完 全 に 濃 密
な た め に 、 そ れ 以 上 圧 納 さ れ る こ と が な い 。 しかし、発光休に隣接するその古I!
分は動かされ、その流体の広がり全休が問機に動かされる。
・・・(中略) ・
f
U
Jの 伝 婚 を 、 我 々 は 媒 質 の 中 の 光 と 呼 ぶ
・周 囲 の 媒 質 へ の こ の 速 i
光を物体の運動が引き起こす媒質中の運動と見なすその説明は、
。
I IJ
『ミクログラフ
ィア Jの 光 の モ デ ル と 基 本 的 に 同 ー で あ る 。
ニュートンと論争した後も、フックが屈折式望遠鏡を使用し続けたことは疑い
ない 。 な ぜ な ら 、 ニ ュ
ト ン と 論 争 を 始 め て 2年 後 の 1
6
7
4i
f
.1
:
:、 フ ッ ク は 若 替
『試み j で 長 大 屈 折 式 望 遠 鏡 に よ る 恒 星 の 年 周 視 差 の 検 出 を 論 じ た の で あ る 。 ま
た
、 『太陽望遠鏡 Jの 中 で フ ッ ク が 長 大 望 遠 鏡 の 短 縮 を 考 察 し た の は 、 さ ら に そ
の 2年 後 の こ と だ っ た 。
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J論 者 の 立 場 を 変 え な か っ た こ と は 、 彼 が 1
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0年 に ライ
ホイへ/スが光の波j
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)Jか ら 明 白 で あ る
デンで出版した『光についての論考 (
の中で彼は、
I
"。こ
子ユ一トン氏が実験によって見事に示したように、屈折自体の内に光線の完全
な収束を妨げる特性が存在する
と、 屈 折 に よ る 光 の 分 散 の 主 張 を 認 め た 。 だ が 、 ホ イ へ ン ス に と っ て こ れ は 、 光
の 波 動 説 と 矛 盾 す る も のではなかった。
ホイヘノスが屈折式望遠鏡の探求を継続したことは、彼がニュートンとの論争
I1 J
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,
s pp.113-117
114
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町.
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9,p
p
.451-537(
p.5
2
4
)[邦 訳 、 科 学 の 名 著 、 第 2J
p
j10巻、
ス ー 一 光 に つ い て の 論 考 他 j 、朝日出版、
光学理論については、
1
9
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9年、
30
2ペ ー ジ ]
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ホイへンスの
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.134-264,C
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に 詳 し い 。 ま た 彼 の 役 何 光 学 に つ い て は 、 T山 e
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9
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.51-90を見よ。
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ー 5 77~ とニ,- f;; の光学論 争
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の段中の 1
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3年 に 往 き 記 し た本の原案、
「幾 何 光 学 の 内 符 に つ い て の 言 l
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)J から分かる 。 こ の 著 作 に は 八 つ の 就 が a
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iされており、
そ の う ち 第 4-6:l置がレンズの屈折に充てられることになっていた
" 5。
ホイへン
且鋭を述べた『簡便な天体望j
阜鋭』を I
1
¥J仮 し た の は 、 こ れ か ら 10年
スが宅中望i
ほど経った 1
6
8
4年 の こ と で あ っ た 1160
ホ イ へ ン ス が こ の 時 Mに レ ン ズ の 改 良 に 実 際 に 取 り 組 ん で い た こ と は 、
1
6
8
5
年に彼を訪問したウィリアム・モリニューが、ホイへンスに傑々なレンズ1J!き装
置 を 見 せ て も ら っ た こ と か ら 分 か る 1'70
このように、フックとホイへンスは、ニュートンの分散現象発見の寄与を認め
ながらも、彼の光の理論や反射式望遠鏡を受け入れなかった。
長大望遠鏡への関心は、
1
6
8
0年 代 以 降 に な っ て も 王 立 協 会 で 諸 処 に 見 ら れ た の
例えばレンは、彼が設計したクライスト
チャーチのトム
置することにしたが、それに必要な装置として、
タワーに天文台を在
1
6
8
1年に、
「大 き な 望 遠 鏡 を
建て、操るためのポール」を挙げた"・ 。 これは、長大型遠鏡の設置を示唆して
1
7
0
3年 2月 の 王 立 協 会 の 会 合 で 、
いるものと思われる。彼はまた、
ス 氏 が 陥 会 に 寄 贈 さ れ た 望 遠 鏡 を [セント
行 な う こ と を 提 案 し た J II~。
「ホイヘン
]ポール寺院に設置し、天文飢測を
ホ イ へ ン ス の 寄 贈 し た 望 遠 鏡 と は 、 長 大 望 遠 鏡 の た め の 有 名 な 1237ィートのレン
スのことであったロこのレンズは、
テイノが作製したもので、
1
6
8
6年 6月 に ホ イ へ ン ス の 兄 の コ ン ス タ ン
1
6
9
2年 に 王 立 協 会 に 寄 贈 さ れ た , " 。 そ れ は 、 何 人 か
の王立協会の会員に貸し出して使用された'"。例えば、
1
7
1
3年 2月には、 フッ
ク の 遺 稿 集 の 編 者 で あ る ウ ィ リ ア ム ・デラムがこれを借り受け、 5年 後 に 返 却 し
た
。 1
7
1
8年 に は 、 ジ ョ ン ・パウンド(J
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nPound,1
6
6
9-1724)が借用し、
1
7
2
8年に、
彼の協力者である甥のブラッドレーによって返却された。ホイへンスのレンズが
,
s 1
3,p
p
. 731-745 前掲、
'
" Oeuvre
も参照のこと。
『ホイへンス』に収められた解題 (
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羽 E・
)
," 前 章 の 「 フ ッ ク と 空 中 望 遠 鋭 Jの節を参照。
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. これに加えて、望法l
岡地付きの四
分儀も必要なものに挙げられた。
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.4
6,n
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4
) へルデンがここで述べて
いるように 、 こ の レ ン ズ に つ い て は 、 そ の 作 製 年 を 1
6
5
6年 と す る 誤 解 が 散 見 さ
れる。なお、このレンズは現存する。
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- 225 ト Yの 光 学 論 争
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王 立 協 会 に 削目? れ た こ ろ 、 イ ギ リ ス で も 長 大 山 鋭 の レ ン ズ 作 製 の 努 力 は 続 け
ら れ て い た ロ 例えば、
1
692年 の 2月 24 日の 王 立 協会の会合で、
「ハ レ ー は 望 遠
鏡 の た め の 長 大 レ ン ズ を 磨 く エ ン ジ ン を 提 案 し た Jの で あ っ た ' "
こ の よ う に 、 長 大 製法 銭 の探求は 1
7I
世紀後半にも続けられ、
な っ て も そ れ は 実 際 に使 用 さ れ た
で、ニュートンの望遠鏡は、
123 0
「忘 れ ら れ た わ け で は な い が 、
ほとんど附から消えてしまった
1
8世 紀 の 初 卯 に
シンプソン に 従 う な ら ば 、 こ の よ う …
1
8 世紀初切にはー
J I Z4。 な ぜ な ら 、 ニ ュ ー ト ン は 白 色 光 が レ
j
ズの一つの焦点に集まらないことを理由に反射式望遠鏡の優位を主慢したが、ゾ
ンプソンによれば、
ヱ 立 協 会 の [ ニ ュ ー トンの ] そ の 望 遠 鏡 の 長 所 に 対 す る 反 応 に は 、 こ の よ う な
哲学的な基 礎 はなかったのである。そして、
・・
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t略) ・ ・・その発 l
リ
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に
対する王の庇穫を求めていたために、協会はおそらくはモーランドの拡声装置
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5阿 波i
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)に 対 す る の に 何 か 似 た 実 践 的 で 戦 略 的 な 潜 在 的 可 能 性 を 保 し
ていた 。 し か し 、 そ の 潜 在 能 力 を 理 解 す る た め に は 、 原 週 ! と 技 術 を よ り 大 き な
装置を作るために鉱張できることが証明されなければならなかった。そうして
初めて、その発明は成功であると言えたのである
2250
これまでのように光学理論に偏向した歴史記述であれば、ニュートンの望遠錨
は 伶 大 な 発 明 と 考 え ら れ る べ き も の で あ る う 。 光 学 史 と し て 、 そ れ は 間違 っ て よ
る と は い え な い 。 しかし、
「ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 の 流 れ か ら 歴 史 を 追 っ て き
た我々は、。望遠鏡は天文観測に用いるもの'であるという基本的な事実を忘れ
-5,:とはできない。そのことは、ニュートンの望遠鏡が登場した同じ日の協会の
会合で、カッシーニによる新しい土星の衛星の発見が論じられたことが象徴的に
示している
1260
こ の 立 場 か ら ニ ュ ー ト ン の 反 射 式 望 遠 鏡 を 見 直 し て み ると、 こ
れまでとは違った歴史記述が可能となる。
企これまでに本論文で何度か述べてきたように、ニュートンの望遠鏡は 、王立協
会で長大望遠鏡の筒を短縮 す る試みと捉えられた。そして『光学』においてニュ
ー ト ノ 自 身 も 、 自 ら の 望 遠 鏡 を 、 「望 遠 鏡 を 短 く す る こ と 」 と し て 錠 示 し む ;
かし、ニュ
ト ン が 王 立 協 会 に 示 し た プ ロ ト タ イ プ の 望 遠 鏡 は 、 3-47ィートの屈
660年 代 に 607j→ の 周 折
折式望遠鏡程度の能力しかないものだった 。 フックは 1
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見ょ。ただし、ここでも合金の困難が指摘されている。
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- 226 -
ロー5 7
7
7とニ rf;lの光学論 争
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式守~.i.!a J.買を様んに使Jllし、へヴエリウスは 16731f
この『天文機械 的締』で、 1
5
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7
1ートの 望 i
且 鋭 を 論 じ て い た 。 こ れ ら に 比 べ る と 、ニュ
末だった。フックらは
一トンの盟.iSl鋭 の 能 力 は 余
りにもお相l
畠鋭を大きくする努ノJを行
、ニュートン式の笠i
なった 。 だが、それは合金の JilJ :mのために成功しなか っ t~
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昨手ごろ、光学州職人のコ ックに附 して、反問一…:二卜も
るo こ れ は 、 彼 が 反 射 式 望 i
畠 鋭 の 改 良 を 絞 け て い た こ と を 示 す と 思 わ れる
だが、その成功は知]られていないのである
実
1280
1
0
従 っ て 、 ニ ュ ー lン の 制 鋭 は
m化を果たせす、天文観測if.i畿としては失敗だったことになる。それは、当然
のことく叫の「視野から似てしまった」のである。そして
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)が 切 り か に し た よ う γ
、ベックラー(Zcv
、 、 ニ ュ ー ト ン 自 身 も 、 フ ッ ク の 批 判l
を受けた後に、
色iIjしレンズを作って屈折式望遠鏡を改良しようとしていた形跡がある 1200
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これに│刻辿して述べるならば、望遠鏡だけではなく、
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題になつたとき、既にニュートンと近しかったはずのハレーが、ニュートンの理
論を知らなかった形跡が見られるというのである。"内
このように考えると、フックのニ
ー
一トンに対する批判は、望遠鏡の改良に関
心を持つものとしてごく常識的なものであったと考えられる。フックの批判が非
常に辛放なものであったことは、確かに問題かも知れない。しかし彼は、ニュー
トン の光の 作 現 象 の 発 見 を 正 当 に 受 け 入 れ た o 彼 が 批 判 し た の は 、 そ の 背 後 に
ある光のモァルだった。後知恵で考えれば、波動論的な光学理論もまた、粒子論
的な理論同様に榊築可能なものだった。フックは、反射地遠鏡の実用性に疑問
を提示した。そして反射式望退鋭は、事実実用化が困難だった。フックの否定的
な対応は、歴史の展開の中では、ひどく「合理的」な判断であったように思われ
る。フッ クの批判に対して、 「 あ れ だ け 厳 し い 反 対 者 も 、 あ の い ず れ か の 部 分 を
駄目にでき 」 る こ と は な か っ た と 考 え た ニ
一トンの方が、望遠鏡の観測器機と
しての役割を理解していなかったのではなかろうかn
当 時 の 封 鎖 の 水 準 と 、 望 遠 鏡 の 制 問機として ら意味をニュートンが十分に
理解していなかったとするならば、彼は、実用を重んじる数学的諮科学に対して、
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- 227 -
ロー5
7,7
とニ,-ト Yの 光 学 論 争
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フ ック よ り 辿 く に い た こ と に な る
。 司T~ 、ニュ ー トンの 『 光学 j は、反射式'i'l.il;!
鋭 に 触 れ て い る に ? 関 わ ら ず 、 天 文 酬 に は 刊 を 向 け て い な い 。 またニュート
ンは、フックのょっに実際の天文酬に得与することもなかった。
ニュ
ト ン の 探 求 一 般 を 考 え て も 、 守Ji
畠鋭 γ 限 ら ず 、 彼 の f
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測装置が寄与することが少なかったこ
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-で は な か っ た 。 プ リ ズ ム に し て も 、 そ
ノズも仮ガフスも、特に目新しい実験 *
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iIJの成果とは
れ は 同 様 で あ る 。 彼 の 力 学 研 究 の 場 合 に も 、 そ の 理 論 は 彼 の 実 験 世QJ
言い難い 。
これに対して、フックの鮫iJl
J
I装置は、ょ!i空ポンプにしても、顕微鏡にしても、
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ュートンの自然研究は思弁的であり、フックの研究とは性絡を異にしている 。 こ
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のよう?ニュートンが王立協会で支配的になって行ったことは、当叫行してい
と、数学的諸科学からの王立協会の蹴のJ
首大を
ニ ュー トン式望遠 鏡 の 復 活
本主主を結ぶにあたって、
1
8世 紀 に お け る ニ ュ ー ト ン の 望 遠 鏡 の 復 活 、 よ り 正
確に 言 え ば 、 反 射 式 望 遠 鏡 一 般 の 興 隆 に つ い て 簡 単 に ま と め て お き た い
1
確認しておかなければならないのは、川紀において、ニュートン式ーら
ず 、 反 射 式 望 遠 鏡 は 「 重 要 な 存 主Eではなく J13J ーュ一トンの望遠鏡にしても、
「まだ面白いおもちゃに過ぎなかった」ことでら ;1340
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長所といえば、そのプロトタイプが実際に機能するとい二三ぷ
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年ごろのことであった。
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年に王立協会の
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fの 金 属 銭 を
ニ ュ ー ト ン 式 の 望 遠 鏡 を 作 っ た 。 こ れ は 、 焦 点 距 縦 57ィ
用 い た 口 径 6イ:
;
fの 大 型 の 反 射 式 望 遠 鏡 で あ る 。 こ の 装 置 は 約 2
0
0倍 の 倍 率 を 持
777?
で一一一
ーでは、ニュートンの錬金術的探求については除外して考え石弓
7
五亙
プ
時Iの 日 的 も ま た 実 用 で は な か っ た こ と に 注 意 。 詳 し く は 、 自 胤
J、 下 坂 英 他 編 、 『 科 学 と 非 科 学 の あ い だ J (木 鐸社、
錬金持i
ページ所収。
「ニ ュ ー ト ン の
1
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87年)、 27-6
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『
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720年 に 彼 は 、 こ れ で 土 r
kを 制 測 し た 。 彼 が ど の よ う な 金 属 を 用 い
つもので
1
1
1題 を ク リ ア し た か は 知lら れ て い な い が 、 そ れ が 災 J
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J(Jのな談 i
置であ
て鋭の他える 1
ったことは間違いない。この望ii:t鋭は、
1
7
21i
:
f1月 12日 に 王 立 協 会 に 示 さ れ 、
険 汀 の た め に グ リニ ッ ジ 天 文 台 の ハ レ ー に 送 ら れ た 。 ハ レ ー は こ の 望 i
串銭に強い
印象を受け、それがホイへンスの 1
2
37ィートのレンズを凌ぐと省いた, "内 ァ ol.
とは、反射 王
t四 銭 が 、 よ う や く 屈 折 問 削 の レ ベ ル に 追 い つ い た こ
する 。
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反射式盟i
立 鋭 を 商 業 的 な 成 ! } ) に 導 い た の は 、 フ ェ ー ム ズ ・ 二ノョート U
町田
町民, ロ10-1
768
)ア 功 縦 だ っ た 。 シ ョ ー ト は エ デ ィ ン パ ラ の 職 人 で あ っ た が 、 能 力
725年 に エ デ イン ハ
が認められてエァィンパラ大学:に出席するのを許された 。 1
ラ大学の数学のポストを占めたニュ
トン 主 義 者 の コ リ ン ・マ ク ロ
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)は 、1734年 に 書 い た 手 紙 の 中 で 、 シ ョ ー 卜 の 仕 事 を 賃 貸 し た ー
ショートは、
間
年l
こロンドンを訪ねて 王立 協 会 の 人 々 に 強 い 印 れ 与 え 、 五
年 会 員 に 選 出 さ れ た o 彼は、
1
7
3
8年 、 ロ ン ド ン の ス ト ラ ン ド に 股 近 い 場 所 に J
苫
を椛えた 。 当 初 彼 の 望 i
且 鋭 は 、 ガ ラ ス に 銀 を 貼 っ た 鏡 を 使 用 し て い た 。 しかしガ
)
)は 放 物 而 状
ラス自体の欠陥に気づいた彼は、金属鏡へと移って行った。彼の成l
γ 。彼は
の反射鏡によるもので、鏡には鋼と錫が使 用 されていたという "
ヨ
ロ ッ パ 各 地 の 主 要な 天 文 台 に 望 i
立銭を供給した。 ゾヨートは望遠鏡で財をなし、
没 し た と き に は 2万 ポ ン ド の 蓄 え を 持 っ て い た 。 ゾ ヨ ー ト に よ っ て 、
で に 、 反 射 式 望 遠 鏡 は 確 立 し た と 考 え ら れ る l380
1
740年 ま
しか し 、 こ の よ う な シ ョ ー ト の 望 遠 鏡 の 大 部 分 は 、 グ レ ゴ リ 一 式 だ っ た 。 グレ
ー 一 式 は 聞 が た や す く 、 その疋立像が地上での使用にも向いてい t
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ト レ ー の 場 合 も シ ョ ー 卜と 同 様 だ っ た 。 ハ ドレ ー の 作 っ た ニ ュ ー ト ン 式 は
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か知られておらず、その後彼は、グレゴリ一式を作製したのだった '
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3
6年 、
王 立 協 会 は 、 様 々 な 望 遠 鏡 作 製 者 の 反 射 式 望 遠 鏡 の 腕 比 べ を 行 な っ た 。 その 1寺に
も、?力な作製者から、グレゴリ一式やカセグラン式の望遠鏡が提出された。 ヵ
セグフン式は、凹面と凸聞の球面収差が相殺するという長所があり、さらに;レ
ゴリ一式に比べて筒が短い点で優 れていたのだった
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ショー トは 、 ニ ュ ー トン 式 の 望 j
畠鋭 を グ リ ニ ッ ジ 天 文 台 用 に 納 め た 。 だ か 乙
伎 は ニ ュ ー ト ン 式 を 軽 視 し た わ け で は な い 。 だ が 、 ニ ュ ー トン 式 望 遠 鏡 は 、 実 占
化された反 射 式望速鋭の 一 つに過ぎなかったのである。
反 射 式 望 遠 鏡 が 確 立 し た こ と は 、 屈 折 式 望 遠 鏡 が 衰退 したことを意味しはしな
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I-5 777 とニ,- f~ の光学論争
『司r
かった。光学:探後輸入 i
主は、周折式にも注I(を払った
・ ベネットによれば、
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20
グレゴリ一式は主にアマチュアによってJTjいられ、プロフェッショナルの天文学
者は、屈折式を使用していた。
その状況が変化したのは、.
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1)が レ ン ズ
イクロメーターを持し、これを反射時辿鋭に応用してからであ
こ の マ イ ク ロ メ ー タ ー は 、 17
54i~
し皮肉なことに、このドロント‘こそ、その
に王立協会で発表された。しか
4年 後 に 色 i
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¥し レ ン ズ の 特 許 を 取 得 し 、
屈折式曳.iMf.売の像の車r
の限取りの [
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JJIIiを段終的に解決した人物だった。
屈折式望遠鏡は、現在でも反射式望i
且鋭と併用されている。なぜなら、加折式
望i
卓鋭は反射式よりも安定した像を示すので、特に位置天文学に適しているか
Y
である 1440 そして、 1
8世 紀 の 前 半 に は 、 イ ギ リ ス と 大 陸 に お い て 、 ま さ に 位
天 文 学 : の 興 隆 が 見 ら れ た の で あ っ た 1450
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一.
一
一一ーー
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ing(1955),p
.1
4
4.
'"筆 者 と の ケ ノ ブ リ ッ ジ で の 而 会 ( 1
9
9
3年 2月 1
8日 ) の 際 の ベ ネ ッ ト 氏 の 狂
言による。
:
l
広瀬秀雄、
『 天 文 学 史 の 試 み J (誠 文 堂 新 制 、
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i
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(
1
9
5
5
),p
.9
9
1
9
8
1年 ) 、 四 ペ ー ジ 。
- 230 I
I-5 77~ と二五一トンの光学論争
『咽
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結論
本 論 文 で は 、 第 I昔 日 の 前 半 に お い て フ ッ ク の 科 学 活 動 の パ ッ ク グ ラ ウ ン ド を 論
の後半では、これまでの科学史研究が解明してきたフックの科学研キ
じ、第 I笥l
f
L
量は、附鋭観察や地質学ーなど
の仰を切らかにした。そこに現れたフジクの i
優れた i
l
i
iがあるものの、総じて言えば凡百Ifな科学者であるに過ぎなかった 。
本論文の第日部は、このようなフックに対する評価を、彼の天文研究の分析
を通じて改めることを試みた。そこで詳しく論じられたように、フックの天文研
究 は 、 筆 者 が 「 ガ リ げ ・ パ ラ ダ イ ム Jと 名 付 け た 1
7世 紀 の 重 要 な 研 究 伝 統 の
上で皮肉された。
r
カリレオ・パラダイム」は、ガリレオが提起した太陽系天体
の誇現象を解明する研究プログラムであり、試行錯誤の結果発切された長大望遠
r
ガリレオ
鏡を使用して、その研究が取り組まれた。
・パ ラ ダ イ ム 」 は 、 ホ イ ヘ
ノスのような大陸の科学者の興味を引いただけではなく、イギリス革命JtIJから王
立協会初期にかけての科学者によっても盛んに研究された。彼らは、望遠鏡を用
i密 を 解 き
いた観測によって、月面の詳細な地図を作成し、土星の奇妙な形状の f
明 か そ う と し た 。 フ ッ ク の 天 文 研 究 は 、 こ の よ う な イ ギ リ ス の 「 ガ リ レ オ ・パニ
タイう」の延長子現れたものだった。フックは、長大望遠鏡の可能性をめぐ;
て 75ン ス の オ ス ー と 論 争 す る 一 方 で 、 長 大 望 遠 鏡 を 活 用 し て 、 惑 星 の 細 部 な ど
の観測を干Tな っ た 。 フ
γ クの観測の水準は
、 パ リ の 天 文 台 で 活 躍 し た カ ッ シーー
i
L
J
;
f
f
にも匹敵するものであった。当時フックは長大望遠鏡に通じた人物と見己れ、
鋭は、有力な天文飢附であったポーランドのへヴエリウスから賞
7 '1 ク は 「 ガ リ レ オ ・ パ ラ ダ イ ム J の 第 二 期 の 人 物 で あ り 、 こ の 時 期 に こ の パ
ラタイムの主~:m となった天体の精密観測にも関与した。彼は、接収マイクロメー
ターの改良に取り組むとともに、望遠照準の有効性をめぐってへヴエリウスと論
争 を 展 開 し た 。 彼 は ま た 、 精 密 提Q測 装 置 を 用 い て 、 恒 星 の 年 周 視 差 の 検 出 を 試 み
たロ望遠鏡による精密観測は、フラムスチード、ハレ
といった新世代の天文学
者によって、フックの活動の頂点の時期に設立されたグリニッジ天文台で、やが
て大きく花開く新しい潮流であった。
このようにして本論文は、フックが天文学という科学革命の重要な要素におい
て高い地位を占めていたことを明らかにした。このような飢点からは、フックを
平凡な科学者と J~ ることはもはやできない。
トかしながら、筆者のこの結論は、次のような批判を免れないであろう。なア
ほと、フックの天文研究は高水準のものであったかもしれない。だが、そのこと
は、フックが科学革命の主役であったコペルニクス、ガリレォ、ケプラ一、そし
- 231 -
『司「
てニュートンといった一流の科学者と同水池の学者であることを証明するもので
Iな 科 学 者 で な か っ た こ と を 示 す の に 成 功
はない。本論文の議論は、フックが凡Jil
したのかもしれないが、結局のところフックは、ハレーやフラムスチード同仰に、
一流の科学者の傍らに地位を占めたに過ぎないのではないか。
常任はこのような見方を批判するものであるが、筆者の見解を I
f
!
Jら か に す る た
めには、フックの 科 学研究の性格について、改めて考察をめぐらす必要があるの
ス テ ィ ー ブ ン ・九 イ ピ ン は 、
『ロパート ・フ ッ ク 新 研 究 』 に 収 め ら れ た 論 土 、
「フックとは誰だったのか J'において、フックの性絡づけを試みた。シエイピ
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ノは、当時「実験 哲 学 者 (
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)の 社 会 階 層 に 属 す る こ と が 必 要 で あ っ た こ と 、 そ し て フ ッ ク は そ
の 資 格 を 欠 い て い たこ と を 指 摘 し た 2。 そ の 一 方 で シ ェ イ ピ ン は 、 フ ッ ク を 職 人
階層の人物と考えることもできないことも示した
30
フックは職人を指卸したが
日記に現れるフックは 職人 を呼ぴ捨てにしていた。彼は、自分がメカニックと問
列視されないよう に用心し、不当に低い吸いに対しては怒りを露にした。
シェイピンの論文は、否定による消極的なフックの位置づけの試みだが、それに
約 1
0年 先 立 つ 論 文 で ベ ネ ッ ト は 、 シ ェ イ ピ ン よ り 積 極 的 に フ ッ ク を 定 義 し よ う
としむべネットは、フックの糊
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)へ の 貢 献 に 注 目 し た 。 川 、
7
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クの J
支持i
約寄与を科学の副産物に過ぎないとする エスピナスの見解を批判しヘ
次 の よ う に 述 べ た 。 ベ ネ ッ トによ れ ば 、フ ックの仕事は、
[ロパート
] レ コ ー ドや デ イ ツ グ ズ に 遡 る 、 イ ギ リ ス の 数 学 的 諮 科 学 の 研 究
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)の 伝 統 の 延 長 と し て 最
と実践の中の、長〈確立さ れた器機作製 (
も 良 く 理 解 で き る S。
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)と 職 人 (mech
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べ 不 γ トの 「 数 学 的 諸 科 学 」 と い う 用 語 は 、 学 者 (
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伝統を二分して近代科学の形成を考えようとする観去を克服するた
めに導 入 さ れ た 九 ベ ネ ッ ト は 、 学 者 の 科 学 的 営 み と 職 人 の 技 術 的 営 み を 媒 介 す
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『科 学と 社 会 』 、 み す ず 書 房、
1
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7年 、 第 5J
在所収 1
・
- 232 結論
『司F
る領域として、この御念を定立した。 数学的 j
d科 学 は 、 航 海 、 地 図 作 製 、 天 文 時
な どの 応
m虫学的傑求を意味するものであり、航削海附硝稀術jなどの実践と給ひ,ついた
什ヤム
究 だ つ た 。 了レ ν
カレッ川、この研究闘を支えるために設立された制
度 で あ っ た 。 そ し て 、 フ ッ ク や レ ノ は 、 グ レ ン ヤ ム ・カ レ ッ ジ の 縫 何 学 : と 天 文
学という数学的諸科学の学問分野の教授として、この伝統の上にあった・ー
しかしべ子ツトは、フックを州に数学的制学の探求者と見なしたぷでは什
かつむべ不ツトは、川紀仁応月]的な数学的制学とは)
]
I
Jに 、 自 然 世 界
J
因果的、理論的に考察する「自然哲学」の伝統が存在したことを指摘した 人 フ
ンクの特色は、数学的諮科学の伝統を追求しただけではなく、
。 〆
それを、誰にも地して、自然に対する新しい研究の態度に対しても適用したこ
そにある 。 そ の 慨 は 、 イ ギ リ ス で は ウ ィ リ ア ム
ギルハー!とフランシス
へーコンペ源を持ち、初期王立協会の特色であった自然哲学へと発展したもの
であった t 。
つまり、フ
γ
クは数学的諮科学を支えると同時に、その技術的な装置を、科学
実験器機 (
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)と し て 自 然 哲 学 に 応 用 し た の だ っ た m
佐々木は、これと閃述して興味深い主張をしている。彼は、ベーコンの学問思
想の本質を特徴づけて、次のように述べた。ベ
コノの思怨の根幹は、
中世からルネッサンスにかけて特に西ヨーロッパで発展したさまざまな機械的
技芸を意図的に振興し、それを「実験科学」と名づけられるべき新しい形態の
自 然 誌 ・自 然 哲 学 と し て 彫 琢 す る こ と で あ っ た 川 。
佐々木は、科学に基礎をおく技術、すなわち科学技術に対比する形で、このよ
うな後俄的技芸に基づく実験科学を、
このような理念はベ
着したのは、
L
E々 木 の
「テ ク ノ ロ ジ ー 科 学 」 と 名 付 け た " 。 彼 は 、
コ/やガリレオによって唱道されたが、それが本絡的に定
1
660年 の 王 政 復 古 の 後 に 組 織 さ れ た 王 立 協 会 で あ る と し た "
「テ ク ノ ロ ジ
科 学」の概念は、数学的諮科学の自然哲学へのふ
mと
、フベネットの考えを、より明確に言誇化したものと見なすことができる。しか
し、両者の考えの聞には、微妙な差異がある
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2向上替、
47
5ページ。
"向上鈴、
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2年)、
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『司f
う 「テ ク ノ ロ ジ ー 科 学 」 の 背 後 に 数 学 的 ,l
l!科学:の存在を与えたのに対し、佐々木
立U
iと 科 学 の 媒 介 領 域 に つ い て 触 れ な か っ た 。 第 二 に 、 ベ ネ ッ トは
は、この何[の j
数学的訪科学の自然哲学への応
mを 王 立 協 会 の 初 J
V
lま で の 特 色 と し た の に 対 し
佐々木は、 「テ ク ノ ロ ソ ー 科 学 」 を 現 代 に ま で つ ら な る 伝 統 と 凡 な し た 内
j附
実験科仰学の伝統のド
統と尖験的 1
伝云統」において、クーンが興味深い分析を加えている 。 タ ー ン は 、 物
理的訪科学のうち、古代から存在する天文学、静力学、光学、数字、平日声学の五
分 野 に 、 比 較 的 新 し い 位 置 運 動 の 分 野 i -}J[Jえて、
「古 典 的 訪 科 学 」 と除した,.
古 典 的 諮 科 学 は 経 験 的 な 献 を 含 む が 、 そ れ は 附 な 実 験 観 察 の 成 果 と き うよイ
1
;1、日常経験の産物であった 。 ク - / は 古 川 制 学 と 対 比 さ れ る も の と し て 、
! ベ ー コ ン 的 制 学」 というものを考えたけ。 1
7世 紀 に 現 れ た ベ ー コ ン 川 科
子ーは、それが用いた実験の方法や目的の点で古典的諸科学と退っている 。 古典的
諸科学:において、実験は思考実験であったり、既に知られていることを確認する
ためのものであった。しかし、
ギルパート、ボイル、フックのようなその綴式[ベーコン的諮科学]の実践者
たちが実験をするときは、すでに分かっていたことを立証したり、当時の型論
の拡張に必要な細部の決定を目的としたりすることはほとんどなかった。その
f
代 わ り に 彼 ら は 、 そ れ 以 前 に は 観 測 さ れ ず 、 し ば し ば 存 在 す ら し な か っ こ状況
下で、自然がどのように仮舞うかを観察したいと考えた
ベーコン的措科学で実施される実験は、
I60
「人 間 の 強 制 的 な 介 入 な し で は け っ し
て実現されないような条件下において、自然を提示する」ものであり、
「望 i
畠鏡、
顕微鏡、温度計、気圧計、空気ポンプ、電気量言十、その他の新しい実験装置」を
駆使してなされるものであったけ。
しかしクーンは、ベ不ツトや佐々木とは退って、科学革命J
切の「古典的諸科学
の 慨 念 上 の 変 取 に 対 し て は 、 ベ ー コ ン 主 義 の 寄 与 は ご く 小 さ か っ た J ,.と考えたー
倣は、ぺーコノ的諸科学は、化学、電気、熱などの分野で、川紀に附しf
こ
と見なしている 。
ベネッ トが 指 摘 し た 通 り 、 ベ ー コ ン 的 諸 科 学 の 典 型 を 化 学 等 に 求 め る ク ー ン の
見方は問題を含むものである
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0。 な ぜ な ら 、 ク ー ン の い う よ う な 実 験 的 方 法 は 、
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九 『本質的緊刷、上、みすず師、
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7年、
52-57ペ ー ジ ]
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1ペ ー ジ ]
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5[邦訳、
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2ペ ー ジ ]
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(
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,pp.5-6.
- 234 結論
.
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-
それ以前の数字:的諮科学にも 1
1
:<見られるからである。しかし、ターンのJj'察は、
則す
'ーコン 的 訪 科 学 : あ る い は 「テクノロジー 科 学 」と 呼 ば れ る も の の 特 性 に l
る 優 れ た 知 見 を 与 え て く れ る 。 こ の 府Iの科学における実験とは、
t
t織を{史JlJして、
r;泊では見ることのできない現象を観察し、新しい辺!論を与えるものであった。
i
i機 は 、 ベ ネ ッ ト が 述 べ た よ う に 、 技 術 的 な 実 践 か ら 持 ち 込 ま れ た も の で あ
その7i
った。
J
l
Hgの 混 乱 を 避 け る た め に 、 ベ ネ ッ ト 、 佐 々 木 、 ク ー ン ら の 議 論 か ら J
l
J
IU
lされ
た こ の よ う な 科 学 的 営 為 を 、 以 下 で は 「実 験 背 c
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:Jと功、することにしよ「の
佐 々 木 が 附 し た よ う に 、 実 験 哲 学 の 起 源 は 、 少 な く と も ガ リ レ オ に ミ て,
遡る
ことができると恩われる。そのことは、実は本論文の議論にも現れていた。とい
う の は 、 本 論 文 が 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 と 体 す る も の は 、 レ ン ズ 作 製 の i
文芸
の結果発明された望遠鏡を用いて、それまで全く未知だった天体の ~11 現象を解明
する研究伝統だからである。それは、ガリレオに始まり、フックにも引き継がれたー
天文研究に限らず、
E
開目されたフ
刊紀中楽に皮則馴
は 、 実 験 哲 学 に あ て ら れ た 。 第 6表 は 、 フ
γ
クの科学U
研F
先の多く の 部
γクの業績の妓枠資料集であるガノタ
ーの 『オクスフォ ー ド の 初 期 の 科 学 』 の 第 6巻 お よ び 第 7巻 に 添 付 さ れ た 索 引 を
基礎として、フックの主だった仕事をキーワードとして抜き出したものである。
こ こ で は 、 抽 出 さ れ た キ ー ワ ー ド を 、 性 格 別 に 4種 類 に 分 類 し て い る zo
この;
ち bに 分 類 さ れ る も の は 航 海 術 な ど の 応 用 に 結 び っ く も の で あ り 、 フ ッ ; が 数 主
的 諸 科 学 の 伝 統 を 引 い て い る こ と を 示 し て い る 。 こ れ に 対 し て 、 cに 分 類 さ れ 二
ものは、直俊の応用を念頭においたものというよりは、むしろ科学研究のための
ものである。しかもそのほとんどは、:p;空ポンプ、顕微鏡、望遠鏡といった実験
器機によって傑求されるものだった。すなわちそれは、実験哲学に分類されるべ
吉ものである。
ところでこの実験哲学の伝統は、
1
8世 紀 に 向 か つ て 王 立 協 会 に 順 調 に 引 き 継
がれていったのであろうか。ベネットが考えたように 、実験哲学が栄えたのは 、
初期王立協会までと考えるべきではないかと思われる。それを象徴するのが、
1
7世 紀 中 葉 に 活 路 し た フ ッ ク の 科 学 と 、 世 紀 末 に 勢 力 を 地 し た ニ ュ ー ト ン の 科
学の性絡の差 'J~ である。
その差異は、反射式望i
畠鏡に対するフックとニュートンの対応に象徴的に現れ
た。 フ ッ ク は ニ ュ ー ト ン の 望 遠 鏡 に 批 判 を 加 え た が 、 彼 が そ の 可 能 性 を 否 定 し た
卑i
置が実
のは、反射式望i
m化 で き な い と 考 え た か ら で あ っ た 。 事 実 、 反 射 式 望 遠
鏡では木星の衛星程度しか見ることができず、惑星の細部の観測に使用されてい
"キーワードの選択にあたっては、索引における出現頻度だけではなく、本論文
執 筆 の 過 程 で 得 た 知 見 も 考 慮 し た 。 な お 、 こ れ ら の キ ー ワ ー ド を 4項 目 に 赦 然 と
E
分するのは必ずしも容易ではない。市に中間が な 酬 を 持 つ も の が 存 在 す る か
J
bである。しかし、ここで重要なのは、この分類の細部の適・不適をあげつらう
ことではなく、フックの研究のおおよその傾向を知ることである。
/
- 235 結論
γ
『司
第6
表
フ ッ クの研 究 の分 類
(G凹 的e
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r6
,7 に 添 付 さ れ た 索 引 よ り 作 成 〉
a 純粋技術的な色彩の濃いもの
割)
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1 建築
風車
時計
ポンプ
火薬(工 y
γン
〉
フェルト作り
ランプの改良
帆馬車の改良
途 方 と の J~ 1 ニケ
眼鏡メダル作り
~3;;
b 技術と理論の中間的なもの
天 候 気 圧 計 雨 量 計 水 圧 風 力 計 湿 度 計 比 重 明t
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水深由)
1定
測 定 器 具 の 改 良 ( 水 深 ・時 間 )
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ユニ ^-_~JI. γ ョイント
赤道儀
鎮子
空気抵抗
天体観測器機の目盛
弾性
反射鏡
レンズ
途方の知識
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実験哲学の色彩の濃いもの
呼吸真空ポンプ気圧空気の霊さ
水の成り立ち
光の色
毛細管
親和性
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-ル 霊 力
空気の希薄化水中の空気泡
混合による体積変化燃焼光の屈折
惑星の微i
s
l
) 望遠鏡
m休 の カ 太 陽 の 距 離 太 陽 望 遠 鏡 顕 微 鏡
博 物 学 的 観 察 ( 生 物 ・鉱 物 )
化石
結晶
主主星
微生物
地主主史
月蝕
昆虫の羽
土と痘
d その他
天体の運動
直線運動からの逸れ科学の方法
落雷
音楽
普遍言語
r
『司
た?折印刷に比べるとそれはひどく劣っていん新しい現象を見いだすこと
を百とする実験皆学の立場からすれば、ニュートンの望ili!鋭は不満足な装ぼであ
った 。 これに対してニュートンは、)\';についての理論的考察から、反射王~.:型遠鏡
の将来的可能性を唱 i
立 し て 止 ま な か っ た 。 そ の jミ俄 は 、 俄 か に 長 い 日 で f
よれば正
しいものであった。だが、
1
7世 紀 に お い て は 、 長 大 望 i
畠鋭のような後世から見
fの 方 が 、 実 験 留 学 に 買 献 す る も の だ っ た 。
れば 一 見 浸 阿 的 な 装 Z
つまり、フックの科学が実験哲学的なのに対して、二斗一トンの科学は理論的
であり、クーンのいう古典的諸科学の性絡を濃く持っていたのである の ニ「ード
トンんら
/ は 光 学 を 実 験 的 に 探 求 し た 。 だ が 、 ク ー ノ が 述 べ た と お り 、 ニ ュ -ために使用したプリズムは、7J<.を満たした中山の球形容慌の延長線上にある古典
的 な も の で あ っ た " 。 ニュ ート ン は 反 射 式 望 遠 鏡 を 作 製 し た が 、 そ の 望 i
且鋭は友
人が自作できる程度のものだった 。 これに対して、フックの長大望i
畠鋭は、実験
器機職人との協力でようやく作製できる、まさに実験哲学にふさわしいものであ
った 。 そ れ は 、 ニ ュ ー ト ン の 望 遠 鏡 の よ う に 木 星 の 衛 星 の 存 在 を 改 め て 確 認 す る
ために用いるものではなく、天体の未知の現象を発見するための装置であった。
光学に限ら?、ニュートンの科学研究は一般に理論的な色彩が強かった
220
彼
の 「 プ リ ン キ ヒ ア Jは 、 新 し い 実 験 観 測 の 結 果 と し て 作 り 上 げ ら れ た と い う よ り
は、コペルニクス、ケプラ一、ガリレオらの探求を総合した理論的情築物であっ
た。 も ち ろ ん ニ ュ ー ト ン は 天 文 観 測 デ ー タ を 利 用 し た 。 し か し 、 そ れ は 彼 自 身 が
観測したものではなく、フラムスチードのような観測家に依拠したものだったn
ニュ
トンの力学は、まさにクーンの言う古典的諮科学に該当するものであった:
1
7世 紀 の 後 半 、 ベ ネ ァ ト の い う 数 学 的 諮 科 学 の 衰 退 が 見 ら れ た 。 グ レ シ ャ
J
カレッジが没落し、新たに創設された王立協会でも、数学的制学に関述ずる
関心はイ尽くなっ?いった。これに伴って、数学的諮科学と近縁の実験哲学の活動
が低下したと考えることは、不合理ではないと思われる。そしてそれと入れ替わ
るょっに、llIl論的なニュートノ ・パ ラ タ イ ム が 貝l隆 し て い っ た の で は な か ろ う か 内
こ の よ う な 仮 説 の 探 求 は 、 魅 力 あ る 研 究 プ ロ グ ラ ム で あ る と 思 わ れ る 。 "v
.
U
この仮説の是非は J
j
l
jと し て も 、 以 上 の よ う な 議 論 か ら 、
1
7世紀イ.ギリスに、
科学に関わる少なくとも四つの営為が共存していたと結論することができる。そ
の1&初は、職人の伎芸の伝統であり、中世以来発迭を遂げたものであった。その
伝統と科学的な実践を媒介する領域として形成されたのが、べ不ツトのいう数学
的1
歯科学の伝統である。それは、実用 を念頭に位いて展開されるものだった。実
験哲学:の伝統は、この数学的諸科学を、科学的な実験に適用するものであった。
もちろん 、 自 然 世 界 の 探 求 は 、 実 験 的 に の み 行 な わ れ る も の で は な い の ニ
1
ー ト
ノに見られるように 、理 輸 省 学 と で も 除 さ れ る 自 然 の 理 論 的 な 傑 求 が と れ 一 一
に存在した。実験哲学と理論哲学は、ともに自然哲学の領岐を形成するものだが、
一
ーー
ー
ー
一2ペ ー ジ ]・
" Kuhn(
1
9
7
η ,p.45[邦訳、 6
H
ここでは 、 ニ ュ ー ト ン の 錬 金 術 の 探 求 に つ い て は 除 外 し て 考 え て い る 。
- 236 -
『司
r
自然を解!日J9る た め の ア プ ロ ー チ が 見 な っ て い む こ の よ う な 考 え を 制 す る と 、
第 7去 の よ つ に な る 。
第7
表
科学に関わる 1
7世 紀 の 営 為
技芸
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、目llltllι Fι﹃Il4
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干
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山州{子山品凸字 4
哲哲
験論
実理
数学的諸科学
この分類を前提とすると、従来の科学史記述は、理論哲学の歴史に著しく傾い
たものであったことが分かる。例え 1
t、 科 学 革 命 の 中 心 で あ る 天 文 学 の 革 命 を 記
述する際には、コペルニクス、テイコ、ケプラ一、ガリレオ、ニュートンといよ
ような発展史を記述するのが設も普通であろう
230
そして、その延長上には、一
析力学の発展史が加えられるのである。そこでは、主に天文学の力学的発展史に
重点が置かれ、この立場からは、土星の正しいモデルといった、天文学的な発見
は全て見失われてしまう。
実験哲学的な伝統に着目した場合 、我々は天文学の歴史をこれとは異なる J~ で
錨くことができる。その歴史記述では、望遠鏡という装置によって科学者に与え
られた未知の平象の解明、すなわち「ガリレオ
パ ラ ダ イ ム Jが 中 心 的 な 位 置 を
占めるであろっ。その歴史の主な登場人物は、ケプラ
やニュートンではなく、
リッチョーリ、へヴエリウス、ホイへンス、カツゾーニ、レン、フックといった
人?である。また、フック以降の時代であれば、フラムスチード、ハレ一、プラ
ットレ一、ハーシェルなどの人物が視野に入り、天文学の制度としてのグリニ:
ジ天文台にも焦点を当てることができる。このような歴史は、通常の科学史の手
科書には見ることができない。
筆者は、理論哲学を中心とする歴史記述より、実験哲学を中心とした歴史記述
の方が正しいと主張しようとするのではない。重要なことは、理論哲学の歴史と
は別に、科学史を実験哲学の歴史として描くこともできるという事実なのである。
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なるほど、理論哲学の側面で、フックはニュートンにおよぶ科学者ではなかっ
?野では、彼は長大望遠鏡の改良に取り組み、カッ
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凶に迫る酬を仔
ゆった人物であった。フックは間観測聞の重要性を唱え、自らこれを用い
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観測に取り組んだ。フックは、天文学以外の分野でも実験哲学に寄与した。彼は、
"例え I
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- 237 -
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6年]を見ょ。
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顕微鏡によって、それまで未知l だった微小世界を初めて解明した 。ま た、 J~ !主ポ
ンプを実月l化 す る こ と に よ っ て 、 彼 は 、 新 し い 実 験 の た め の 空 間 を 作 り だ し た 。
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7叫 に 、 人 類 は 制 克 、 顕 微 鏡 、 日 ポ ン プ と い う 、 人 間 の 感 党 の 領 域 を 越
え る 世 界 を 幻1る た め の ニ つ の 装 i
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tを 手 に し た 。 フ ッ ク は 、 こ の 装 i
世すべてに関与
した。特にそのうちの二つは、フックの手によって実用的な実験装置となった。
このような叫で、フックの川は、山市哲学におけるニュートノ四散するも
のがあると考えられる。
フ
γ
クの実験哲学への寄与は、彼の数学的諮科学との関与を基礎としていた。
彼 は 実 験 器 機 に 詳 し く 、 職 人 と 協 力 し て そ の 作 製 、 改 良 に 取 り 組 ん だ。 こ の よ う
な彼の活動は、ホイヘノスと共通する側而がある。もちろん、ホイへンスはフ;
ク と は 進 "?l、 理 論 哲 学 に お い て も 優 れ た 仕 事 を 行 な っ た 。 だ が 、 ホ イ ヘ ン ス [ ; 1 :
同時に、回 b レンズを)gき 、 長大な望 i畠鋭を使用して土星の~l'i現象を解明したー
ホイへンスの附の改良への取り組みは、典型的な数学的制学の営為であった:
「フ ッ ク の よ う な 人 々 の i
品 屈 で 汚 れ た 経 験 的 研 究 J" と ホ イ へ ン
マホーニィは、
ー研究を区別したが、実際にはフックもホイへンスも、数学的訪科学と実験哲
?の双方に関与したのだった。その研究のあり方は、実践的な技術的改良と疎遠
怯 ニ ュ ー ト ン と 対 照 的 だ っ た " 。 マ ホ ー ニ ィ の 視 点 は 、 む し ろ ニ ュ ー トンによ り
良く当てはまるものであったのである。
1
7
0
3年 3月 3 目 、 フ ッ ク は 6
7歳 で 没 し た 。 彼 は 、
1
6
97年 に 足 の む く み を 訴 え 、
目舷で階段からi.gちる有り様だった。そのころから眼が見えなくなり、最後には
読み t
!
}き も で き な く な っ た 。 彼 は 寝 た き り と な り 、 死 を 迎 え た " 。 彼 の こ の よ う
な 衰 弱 は 、 糖 尿 病 が 原 因 と も 言 わ れ て い る 270
彼 の 遺 骸 は 、 彼 が 最 期 ま で 住 ん だ グ レ シ ャ ム ・カ レ ッ ジ か ら 、 ビ シ ョ ァ プ ス ゲ
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27ペ ー ジ ]
歴史における数学』、勤草棚、
ーもちろんこりことは、ニュートンの研究が、 当時の社会
為に間接的に影 響 を与えるのである
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実他訳 、 へ
経済開求を反映し
γセンの制点と矛盾するものではない。社会の要求は、I1l
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『ニュートン力学の形成 J (法政大学出版局 、
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6年 ) 、 ロ シ ア 語 か ら の 訳 ]
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られたかは、
現 在 で は 知 ら れ て いない。
フ ッ ク は 、 自 ら の 遺 産を、自然知識の改普のために{J}o_うことを生前日にしてい
た二しかし、 遺 書 を 書 く の を 先 延 ば し に し た た め に 、 そ れ は か な わ ぬ こ と と な っ
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フックの 蔵 書 を含む財産は、オ
彼の吟学研究の酬
のウオフーに預託され、
クションで売却されて 散 逃した
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と日記は、酬の手に伐ったo 手稿類は王立協会ん 己
1
70
5年 に 逃 稿 集 と し て 出 版 さ れ た
310
その後、フック
T日 記 も 叙 狭 か ら ウ ォ ラ ー に 与 え ら れ た 。 フ ッ ク の 手 稲 類 は 、 ウ ォ ラ ー の 没 後 、
アラムに波された。デラムは、
1
7
2
6年 に フ ッ ク の 遺 稿 集 を 新 た に 出 版 し た 。 フ
ックの手市はその後王立協会に戻ったが、 遺稿 集 に 収 め ら れ た も の の 多 く と : フ
γクの?記は、ここで行方が分からなくなった。その日記が再び見いだされたの
は、ょっゃく 1
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1年 の こ と だ っ た " 。
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/は保たれたといわれる
フ ッ ク の 名 声 は 、 彼 の 没 後 約 40年 t
330
しかしフック
の記録は、彼の日記が行方不明となったように、徐々に失われて行った。
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1
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年 に ロ ン ド ン を 訪 問 し た ド イ ツ 人 の 記 録 に よ れ ば 、 グ レ ゾ ヤム・ カ レ ッ ジ の 王 立
協 会 ? 部 屋 に は 会 員 の 肖 像 画 が あ り 、 その 中 で 、 ボ イ ル と フ ッ ク の 絵 が 目 だ っ て
いた 0 ・ 。 し か し 、 現 在 で は そ の 肖 像 画 の 行 方 は 知 ら れ て い な い 日 。
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筆者が本論文のための調査をロンドンで州化させた 1
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へレノ教会は、それ斗一
て甚大な仰を被ったo 原因は何にせよ、放削れれば、歴史の手がかりは、;
のように次々と失われていく。
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方に関わった。 そ の よ う な 研 究 活 動 の あ り 方 は 、 附 附 に 関 わ る 学問Jt
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なわち今日工学と呼ばれるものと通じるものがある。フックの像をより ~F しく知l
ることは、実験科学の歴史についての知見だけではなく、今日の社会の迎命を左
右 し て 九 工 学 の 展 開を理解する鎚を 与えてくれる可能性がある。
だかりこそ、我々は、フックの記録が様々の原因で永久に物理的に ìl~ し去られ
ないうちに、それを再発拐し、フックをよりよく知る必要があると思われる。
.妓後に、本稿が明らかにしたことを改めて結論的に総指するならば、以下のよ
つになる。
本 稿 第 I部 の 前 半 で は 、 こ れ ま で 十 分 に 解 明 さ れ て こ な か っ た フ ッ ク の 前 半 生
にむを当て、フ
γクの父親の制という新史料、フックの出身校であるウエス
トミンスター・スクールで得た新データなどを活用し、その実像を J
描いたーさよ
に、フックの住居て'あり、所属機関て'もあったグレシャム
カレ
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れ、実用を霊視する社会人教育機関というこのカレッジの性格を浮き彫りにした。
第 I部 の 後 半 で は 、 先 行 研 究 を 登 理 す る こ と に よ っ て 、 フ ッ ク の 科 学 研 究 が こ
れまで戸学史研究者によってどのようにとらえられてきたかを示した。そこで論
じたょっに、従来のフック像は、顕微鏡観察、地質学、技術的発明などで部分的
に見るべきものがあったとはいえ、全体としてみればフックは凡府な科学者であ
ったというものであった。
第 H部 で は 、 フ ッ ク の 天 文 研 究 に 着 目 す る こ と に よ っ て 、 こ の よ う な 従 来 の
見方を覆した。その出発占は、フックの光学理論が、波動税として一貫した体系
を待っていたという筆者の発見にある。筆者の発見以前には、フックの色彩論は
混 乱 に 満 ち た も の と 考 え ら れ て き た 。 だ が 、 筆 者 は 、 ニ ュ ー ト ン と フ ッ ク の 日7
2
年の光学論争の分析を通じて、フックの理論が優れたものであったことを解明し
た。本稿では、このようなフックの光学研究についての分析を発展させ、フック
の光学への関心が、光学自体を目的とするものではなく、むしろ天文研究への関
わりに起源を持つものであったことを明らかにした。フックは、
1
7世 紀 後 半 に
大きな意味を持っていた、天文学における「ガリレオ・パラダイム」の主流の研
究者であった。このパラダイムの課題は、ガリレオの望遠鏡による発見を発展さ
せ、太陽系の天体の精級な知識を得ることであった。この自的を達するために、
焦点距離が極めて長い「長大望遠鏡」が使用された。この種の取り組みは、フー
クに限られることなく数々の人の手によって遂行された。本稿では、その伊!と;
強からイギリスに伝矯
て、ホイへンスやレンなどの研究にも触れた。フックは大l
した「ガリレオ ・パ ラ ダ イ ム 」 を 引 き 継 ぐ 人 物 で あ り 、 職 人 と 協 力 し て 長 大 望 遠
- 240 -
鋭の改良に努力し、自ら木星や土星などの太陽系天体の観測を展開した 。 その成
果の 一 部 は 、 彼 の 顕 微 鏡 観 察 替 で あ る 『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア Jに ま で 現 れ た 内 フ吋
川 当 時 の 優 れ た 天 文 制 削J
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き継いだだけではなかった。彼は、望i
強調し、本稿で詳細に論じたように、同的な州法に仰するへヴエリウスと
約2
0年 に 波 っ て 論 争 を 行 な っ た 。 こ の フ ッ ク の 立 場 は 、 Hi¥
宝な位低天文学とい
う新しい課題へとつながるものであり、それはグリニッジ天文台という制度に結
実した 。 こ の よ う な 議 論 か ら 、 フ ッ ク が 当 時 一 流 の 天 文 研 究 者 と し て 活 路 し た こ
とが明らかになり、天文学という科学革命の重要な分野に貿献した人物としてフ
ックの再評価を行なうことができた。
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こ れ が 本 稿 の 得 た 最 も 重 要 な 結 論 で あ る が 、 こ の 結 論 の 重 要 性 を 一 層り
るために、フックを実験観測の重要人物として見るべきことも指摘した。 すなわ
ち、フックの天文学における貢献は、ニュートンのような理論的なものではなく、
む し ろ 実 験 観 察 に お け る も の で あ っ た 。 筆 者 が 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 と 名 付
けた伝統の存在は、
1
7世 紀 に 、 力 学 的 な 理 論 天 文 学 以 外 に 級 副I
1天 文 学 が 重 要 な
宇野であったことを我々に教える。フックは、真空ポンプ、顕微鏡、制鋭とい
7、 17世 紀 の 極 め て 霊 要 な 三 つ の 実 験 装 置 全 て に 深 く 関 与 し た の で あ り 、 理 論
的な科学とは区別される実験的な科学の分野において、フックの歴史的な意味は
考察されなければならない。
(完〕
- 241 -
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付録
付 録 1 ・フックの父 Rev. John Hookeの 遺 書
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綴は現代化し、省略 j~ は本来の J~ に戻した 。
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貫性いものを推定したことを示す 。 以 下 の 転 記 は 、 公 文 書 館 の 許 可 を 得 て な さ れ
たものである 。
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