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11月17日分のレジュメ

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11月17日分のレジュメ
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教育社会学レジュメ 2008.11.17.Mon. 文責:薄葉([email protected])
A. 前回の復習と補足
「制度としての教育」が持つ効果
a. 教育の制度化の過程
b. 教育の制度化がもたらす効果
明治政府は日本の近代化を促進するための中心的な装置として「近代教育」を導入した。導入された近代教育は、西洋
で発達した文化をそのまま取り入れたものであったから(例:西洋建築、様相、石版、etc.)、日本の土着的な教育に馴
染んでいた人々にとって「近代学校」は新奇なもの以外の何ものでもなかった。事実、初等学校への進学率は明治30年代
に立っても50%前後にとどまっていた。
しかし、大正時代以降、小学校への進学率がほぼ100%に到達し、(近代)学校へ行くことが当たり前になる(=制度
化される)と、教育は人々の意識に大きな影響を及ぼすようになる。アメリカの社会学者ジョン・マイヤーは、「制度と
しての教育がもたらす効果」という論文(注)で、近代教育が社会全般に及ぼす影響について以下のように述べている。
注:Meyer,John W. 1977"The Effects of Education as an Institution" American Journal of Sociology,83(1)
「知識の理論」
としての教育
「人材の理論」
としての教育
教育の正当化効果の4類型
エリート(専門)教育
大衆(普通)教育
1.専門化された
3.共通の文化・知識
知識の権威
(標準語・日本史)
2.エリートの定義と
4.成員性の拡大:
認証(資格付与)
国家創設と国民性
制度としての近代教育は、それまで個人的な判断や勘などの領域にあった仕事を、「合理化された知識体系」、つま
り、精神医学や経済学・経営学などに編成する。このように合理化された知識(学問)が制度的なルールとなると、こう
した知識に基づかない処方は非合理・無知・怠惰の証となる。例えば、体調を壊したとき、呪術やまじないで直そうとす
る人は、現代社会では「頭のおかしい人/かわいそうな人」として扱われるだろう。「正当な/権威ある知識」に関する社
会的現実が構成されるわけだ。(注)
注:マイヤーはこんな皮肉を述べている:逆に、もし占星術が社会的に正当な知識とされ、大学で教えられるように
なったら、企業は占星術師を雇用し、国家も彼らに諮問することだろう、と。
これと対応して、この種の権威ある知識を所有する人々のカテゴリーも定義される。合理化された知識を持った人の役
割を構成し、「誰がそのような役割を持っているか」を認定し、それらの地位に社会の成員を配分する。精神科医(精神
医学)やMBA=経営学修士号保持者(経営科学)などがこれである。「正当な人材」をめぐる社会的現実が構成されるわ
けだ。(注)
注:例えば、銀行や財閥系の大企業が「学校出」の採用を行い始めるのは、明治30年代後半からである。それまでは江
戸時代同様、10-11歳で丁稚として入店し、何十年か務めて管理職や支配人になるのが慣行だった。企業が「学校出」
を採用し始めたのは、彼らが専門的な知識を持っていたからではない。「学校出」を採用する企業は「進取的」である
と世間から見なされるようになったからである。
同じ力が「大衆教育」についても作用する。教育は、共通語(標準語)や国家の歴史、国民として知っていなければな
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らないことを提示する。こうして共通文化によって国民性(「日本人」)を作り出し、自明化された集合的現実を一般化
する。国民文化を定義することで人々を国民(日本人)にし、国家の確立に貢献させることになる。
注:江戸時代までは、地域や身分によって文化はバラバラだった。例えば、話し言葉は地域によって大きく異なってい
たし、歴史も武士がならう歴史と口伝えに伝承される「オラが村の歴史」とでは異なっていたことだろう。標準語や共
通の歴史(日本史)が学校で人々に教え込まれることで、「日本人」という類似した存在が作り出されることになる。
重要なのは、こうした知識や人材のカテゴリーに納まらない知識や人材も、同時に「カテゴリー化」されてしまう点
だ。エリート教育が専門的な知識(精神医学)と専門家(精神科医)を、大衆教育が共通文化(日本語や日本史)と国
民・国家(日本人)を創り出すだけではない。同時に、そのネガである非専門的・非合理とされる知識(呪術・妄想)と
それに関与する「愚かな人々」(占い師・精神病患者)、非・共通文化(アイヌ語や民族文化)と非国民(アイヌ人や在
日外国人)も創り出されるのである。
つまり、近代教育システムには「外部」は存在しないわけだ。実際に近代教育を受けていない者も、制度化と共に近代
教育の影響から逃れられなくなっていく。学校へ行く者が「生徒」や「学生」という地位に配分されるように、学校へ行
かない者は「不登校児」「中退者」という劣位なカテゴリーに吸収され、それにふさわしい人物が創り出されてしまう。
また、このようなカテゴリーに属する人々を扱うことを認証された専門的な知識(非行心理学や逸脱の社会学)、その専
門家(カウンセラーや社会福祉士)、施設(~塾やフリースクール)が新たにつくり出される。
このように、教育を中心とする近代の諸制度は、システムの内部に異常や問題を見つけ出しては、それを「正当に」解
決するための理論・人材・機関を創り出すという自己増殖運動を続けているのである。
注:マイヤーが強調するのは、教育の拡大は「実際の教育の効果」とはあまり関係なく進行することである。世の大人
達は、「学校の勉強なんぞ社会に出ても何の役にも立たない」と言う。実際、職業的能力の多くは、仕事をしながら身
につけられるものだ。しかし、いざ自分の子どもが「学校に行ってもやりたいことがないから行かない」と言い出した
ら、彼らは慌てて「学校へは行った方がよい」というだろう。誰もが学校へ行くことが当たり前になっている(=制度
化されている)時代に学校に行かないことは、それだけである種の「劣位のカテゴリー」を付与され、そうしたまなざ
しで判断されてしまうからである。
B. クラス・ルームの社会学(2)
授業の2つの様式
「教える」という行為には二つの意味が含まれている。一つは知識や技能を伝達するという意味の「教える」である。
授業における「教える」という行為は、通常、「伝達」を意味していると考えていいだろう。しかし、「教える」という
行為は「伝達」以外の意味も含まれている。すなわち、「学び手の態度やものの考え方に変容をもたらす」ことがそれで
ある。「○○さんの言葉には教えられることが多い」というような言い回しには、「学習者の変容を促す」という意味が
含まれている。
「教える」という行為に含まれるこの二つの意味について、アメリカの教育学者フィリップ・ジャクソンは「模倣的様
式(mimetic mode)」と「変容的様式(transformative mode)」という二つの概念で特徴づけている。
a. 模倣的様式
「模倣的様式」とは、古代ギリシアの「模倣・再現(ミメシス)」の伝統を起源とする授業の概念であり、知識や技能
の伝達と習得を基本とする授業の様式を意味している。
「模倣的様式」を徹底させたのは、一斉授業という様式を提示した17世紀のボヘミアの教育者コメニウスである。彼は
『大教授学』(Didacticfa Magna,1632)において「あらゆる人にあらゆる事柄を教授する普遍的技法」を提示している
が、その技法は印刷技術のアナロジー(類推)によって構想されている。印刷機が知識を一斉に複製して大量の本を作り
出すように、教育とは教科書の知識(原版)を教師の声(インク)によって一斉に子ども(白紙)に刷り込む技術であ
る、というわけである。
「模倣的様式」の「教える(=伝達)」という概念は、19世紀以降の各国における国民教育の制度化において普及し、
20世紀の産業主義を背景とする生産性と効率性を求める学校教育において、よりいっそう徹底されることとなった。大量
の知識を効率的に伝達する授業の様式の普及であり、大量生産の大工場のアセンブリ・ライン(流れ作業)のような学校
教育が、「模倣的様式」としての「教える」という行為を支配的なものにしていったのである。
b. 変容的様式
他方、「変容的様式」の起源は、古代ギリシアのソクラテスの「産婆術」に求めることができる。彼と同時代のソフィ
ストたちが博識の伝承を教育と見なしたのに対し、ソクラテスは問答による対話の中から、学習者の抱いている知識がい
かに「ドクサ(教条、固定観念)」に縛られているかに気付かせ、「無知の知」を悟らせることを教育の目的としてい
る。彼は、学習者の知ることに対する態度や生き方の変容を求めているわけである。(注)
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注:対話者はソクラテスに導かれて、質問に応えて自己の前提を推し進めていくうちに、出発点とは反対の結論に追い
込まれてしまう。対話者がそれまで自明としてきた世界観や解釈の図式が揺るがされ、彼は「根拠なし」の不安の中に
投げ込まれてしまう。しかし、そうした「不安」がまさに対話者の自己システムの変容を促すわけである。
この「変容的様式」は、中世の修道院と大学において修辞学(レトリック)を中心的内容とするリベラル・アーツの教
育に伝承され、20世紀においては、子ども中心主義の新教育の実践と理論の中に継承されてきた。子ども中心主義の授業
の革新運動においては、知識の伝達の効率性や生産性よりも、学習者の創造的思考や自己表現の価値が重視される。「変
容的様式」は、学習者のアイデンティティーの追求に根ざした「教える」という概念なのである。
c. 2つの様式の特徴(ビデオ参照)
「模倣的様式」
知識や技能の獲得
全ての生徒をコントロール
画一的
一斉授業/個人間の競争
広く浅く
できる(結果)/効率性・正確さ
ゲーム的
2つの授業様式の特徴
特徴
「変容的様式」
教育目的
教育内容の個性的な認識と表現
教師のふるまい
個々の生徒の学びを支援
子ども達の行動
個性的
学習スタイル ディスカッション/グループによる協同学習
カリキュラム
少なく深く
重視されること
わかる(過程)/独創性・多様性
面白さ
意味の発見
d. 地理的対比
「模倣的様式」の授業の典型は、今日、中国・韓国・台湾・日本・シンガポールといった東アジアの旧・儒教圏の国々
の学校において顕著に見ることができる。これら東アジアの国々は、欧米諸国が数百年もかけて達成した近代化のプロセ
スを国家主導の効率と競争を原理とする学校教育によって、わずか百年もしくは数十年で急激に達成してきた。これら東
アジアの国々の学校は、多人数の教室で黒板とチョークと教科書による一斉授業の様式が支配的である。しかも、これら
の国々の学校教育では、「個性」や「創造性」よりも「正解」と「効率」が重視される傾向にある。
もちろん、欧米型の授業が「変容的様式」で、東アジア型の授業が「模倣的様式」であると断定することは単純すぎる
理解である。同じアメリカ国内においても、マイノリティーや低所得者が多数住んでいる地域の学校では、「模倣的様
式」の授業が支配的だ。すなわち、「模倣的様式」と「変容的様式」の対立は、一方ではアジア型(発展途上国型)と欧
米型(先進国型)という地域の差異を表現しているが、もう一方では、階級や階層における教育の差異を表現してもいる
のである。(注)
注:アメリカのマルクス主義経済学者ボールズとギンティスは、全体社会の階級構造と分割支配に対応した社会化(教
育)が学校組織で為されていると主張した。教師は最初の上司であり、成績や点数は労働者のの賃金と同じく外生的報
酬である。学校で個人化された競争を煽られ分断化も為されている。「学校は社会の縮図」というわけだ。
さらに学校組織はこうした職場規律の社会化にとどまらず、階級構造に対応した職場適性の社会化も為している。中
間階級や上流階級の生徒達の学校は自由度が高く、自発的な勉学が期待されるが、これは上級ホワイトカラーが資本家
の目的や価値を内面化して自発的に行動する労働特性と対応している。下層階級の学校は、自由度が低く指示されたこ
とをやり、学校の規則に応じることが要求されるが、これは労働者に要求される資質と対応している。
つまり学校は、潜在的なカリキュラムを通して、階級文化の注入と分業体制の再生産に寄与しているというわけであ
る。
e. 歴史的推移
西欧の社会においても20世紀の中頃までは、一斉授業を中心とする「模倣的様式」が支配的であった。以下の図は1927
年のニューヨークの小学校の風景である。机と椅子はボルトで固定され、約50人の男の子が一人ひとり離れて行儀良く
座っている。ボルトで固定されたこのような机と椅子は、一般の学校では1950年頃までは当たり前の風景だった。
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しかし、20世紀の後半になると、このような一斉授業の様式は西欧社会では次第に姿を消していく。例えば、1960年代
にイギリスで展開されたインフォーマル・スクールの運動では、子どもの学びを中心とする教育の創造が「プラウデン・
リポート」(1967年)において提起され、当時、ロンドンの数パーセントの学校で行われるに過ぎなかった新教育の実践
をイギリス全土へと拡げることとなった。
このインフォーマル・スクールの試みは、1970年代にアメリカに導入され、オープン・エデュケーションの運動を生み
出す。黒板とチョークを中心とする授業から、主題(テーマ)と協同作業を中心とする学習への転換がはかられ、教材と
活動と時間の柔軟性が主張されて、創造的な経験と表現的な学習が組織された。これらの改革は幼稚園から着手され、小
学校へと普及し、現在では中等教育の学校へと拡大している。
西欧諸国におけるこのような授業様式の変化(「模倣的様式」の優位から「変容的様式」の優位へ)の背景には、全体
社会の変化(産業社会からポスト産業社会へ)があるように思われる。20世紀初頭に発展した産業主義社会は、大量の単
純労働者と一部の知的エリートで構成されるピラミッド型の労働市場と、その人材要請に応えるピラミッド型の教育シス
テムを築いた。それと並行して学校のカリキュラムも「アセンブリ・ライン」のように一方向に段階的に並べられたプロ
グラムで組織された。「生産目標」という用語から「教育目標」という用語が生み出され、生産過程の効率化をモデルと
して教育課程の効率化が追求され、「品質管理(quality control)」のための「学力テスト」が開発された。こうした産
業主義モデルのカリキュラムは、1910年代にアメリカに登場し世界に拡がった。
しかし、現在、急速に進行しているポスト産業主義社会への移行は、ピラミッド型の労働市場と教育構造を突き崩しつ
つある。グローバリゼーションの進行により工場が海外へ移転し、単純労働が先進諸国内から消滅していく。これに伴
い、産業主義社会のピラミッド型の労働市場はポスト産業主義社会への移行によって底辺が解体し、上の方が膨らむくさ
び形あるいは逆ピラミッド型の労働市場へと移行しつつある。
こうした変化に対応して、先進諸国では知識の高度化・複合化・流動化に対応させて、教育内容の水準を高め、創造的
思考や批判的思考やコミュニケーションを重視した学びへの転換をはかっている。生涯学び続ける基礎となる教養教育に
力を注ぐようになっている。例えば、OECD(経済開発機構)が15歳の生徒を対象に加盟28ヶ国と非加盟4ヶ国で行った国
際学力比較テスト(PISA:Programme for International Student Assessment)調査で好成績を挙げているフィンランド
では、「プロジェクト型」の学習が重視されている(ビデオ参照)。
現在、西欧社会で「変容的様式」の授業が支配的になっているのも、こうした社会全体の変化に対応したものと見なす
ことができるだろう。
f. 授業改革のジレンマ
とはいえ、欧米の教育現場において、上記のような変容(「模倣的様式」から「変容的様式」へ)がスムーズに進行し
ているわけではない。例えば、アメリカ国内においても、白人の中産階級の子どもが多数通学する学校では「変容的様
式」の授業が支配的であるのに対して、ヒスパニックや黒人の労働者階級の子どもが多数通学する学校では、むしろ「模
倣的様式」の授業が支配的な文化になっている。
1960年代から70年代にかけて「貧困との闘い」の一環として普及した黒人を対象とする補償教育において、学習の個性
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化と個別化による「変容的様式」への授業改革が多くの学校で推進されたが、その試みの大半は失敗に終わったと言われ
ている。その一つの要因として、白人中産階級的な個人主義的な文化は、仲間との協同を尊重する黒人の共同体的な文化
とは異質であった点がある。「模倣的様式」の授業の全面的な否定は決して有効な解決策ではなかったのである。その教
訓をふまえ、今日のアメリカの授業改革では「模倣的様式」から「変容的様式」へという単純な理解は否定されている。
(注)
注:上でも触れたとおり、「変容的様式」の授業はもともと(西欧の)エリートや知識人階級に適合的な文化であっ
た。異なる文化的背景を持つ人々に対して、授業の「様式」だけを変換しても、その効果は限られたものにとどまって
しまうというわけである。
同様のジレンマは日本についても当てはまるだろう。「模倣的様式」の授業は、大量の知識や技能を効率的に大衆に普
及する急速な近代化の要請に応えて普及した開発途上型の教育様式であるが、現在の日本はすでに開発途上型の教育を早
急に克服すべき時代を迎えている。しかし、「変容的様式」の授業と学びを達成しようとしても、我々の意識と身体は深
いところで「模倣的様式」に縛られている。
注:そもそも、このように欧米社会に支配的な「変容的様式」にあこがれ、それを取り入れようという試み自体が相変
わらず「模倣的」であるとさえ言えるのかもしれない。
現在の学校教育の最大の特徴は、この二つの様式の分裂にある。現実の制度や実態における「模倣的様式」と、理想や
憧れとしての「変容的様式」の分裂である。実際、日本の授業や学びを検討すると、中国や韓国に比べれば「変容的様
式」の性格が強く、欧米の国々に比べれば「模倣的様式」の性格が強いという、混合的な特徴を示している。
そもそも、「模倣的様式」と「変容的様式」という2つの概念のどちらが正しいとか、どちらが間違っているという二
分法的な問いの立て方自体が間違っているのだろう。両者は言ってみれば教育という車の両輪のようなもので、どちらか
一方を放棄してしまっては「教育という営み」自体が成り立たなくなってしまう。社会全体の変化や現場の状況に合わせ
て、この2つの授業様式をいかにバランスよく統合していくべきかという困難な舵取りを、今後ますます教育関係者は求
められることになるだろう。
C. レポートについて(3回目)
1. テーマ
先週および今週の授業で触れた内容(「授業の2つの様式」や「隠れたカリキュラム」)について内容をまとめて(要
約)、その議論を踏まえて自分なりに「展開」する。
2. 「展開」のためのヒント
a. 自分の経験から
自分が受けてきた授業が、「模倣的様式」と「変容的様式」のどちらに相当するのか。科目や学年、学校(私立か公立
か、偏差値、地域、etc.)によって違ってくるのか。混合的であるとすれば、どの点が模倣的でどの点が変容的なのか、
記述し分析してみる。
日本人にはとかく理想的に見える「変容的様式」(例えば、フィンランドの授業)の問題点は何か。考えてみる。「隠
れたカリキュラム」と関連づけると、議論を展開しやすいかもしれない。
外国の授業を受けた経験のある人は、その授業と日本での授業とを比較してみる。
自分が受けて強い印象に残っている授業について、「授業の2つの様式」や「隠れたカリキュラム」の観点から分析し
てみる。
塾や予備校などで教えた経験のある人は、「教える側」の立場から授業という営みについて分析してみる。「模倣的様
式」と「変容的様式」のどちらがやりやすいのか。問題点は何か。
b. 他の講義との比較
c. 授業研究に関する文献を読んで、その内容と今回の授業の内用とを比較・検討してみる
少し古いが、参考文献に挙げた恒吉(1992)は、日米の小学校について「かくれたカリキュラム」の視点から比較してい
る(彼女の図書はダム女の図書室に何冊か所蔵されている)。
d. 提出期限
「11月28日(金)」
教務学事課に提出する場合は、「13時10分」(昼休み終了)まで。メールの場合は、28日いっぱい。
D. 参考文献
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1)
2)
3)
4)
佐藤学 1996『教育方法学』岩波書店
佐藤学 2004「授業の様式」『改訂版 教育の方法』放送大学教育振興会、第3章
竹内洋 2001「学校効果というトートロジー」竹内洋・徳岡秀雄編『教育現象の社会学』世界思想社、第1章
恒吉僚子 1992『人間形成の日米比較―かくれたカリキュラム』中公新書
E. 「教育社会学」ホームページ
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Takeshi.Usuba/
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