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創世記22章における地名「モリヤ」 の文学的機能

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創世記22章における地名「モリヤ」 の文学的機能
創世記22章における地名「モリヤ」の文学的機能
創世記22章における地名「モリヤ」
の文学的機能
Literar y Functions of Place-Name “Moriah” in Genesis 22
岩嵜 大悟
Daigo Iwasaki
キーワード
読者、モリヤの地、アブラハム、エルサレム、歴代誌下3章
KEY WORDS
Reader, the Land of Moriah, Abraham, Jerusalem, II Chronicles 3
要旨
創世記22章1-19節において、アブラハムは神から息子イサクを犠牲にささげるよ
うに命じられ、「モリヤの地」へと旅をする。このモリヤという地名は、創世記22:2
以外では歴代誌下3:1に言及されるのみである。本稿では創世記22章の「モリヤ」が
古代語訳においてどのように訳されているかを確認し、次にエルサレムと創世記22章
の関係を、最後に地名モリヤが創世記22章においていかなる機能を有しているのかを
検討する。モリヤは「見る」や「畏れる」との間に巧みな言葉遊びを形成しており、
これらの重要な語句を統合させる機能を有している。さらに、創世記22章の記事を特
別なものにする一方、物語において重要な場面設定であるモリヤの位置や意味が不明
瞭で曖昧なため、結果的に物語の内容にも疑問を抱かせる機能をも有している。この
ように、この物語においてモリヤは重要で多様な文学的機能を有しており、このモリ
ヤという地名によって、現代の読者は創世記22章の読みに大きな影響を受けているの
である。
SUMMARY
In Genesis 22: 1-19, Abraham receives God’s order to offer Isaac his son as a burntoffering, and he thus goes on a journey to “the Land of Moriah.” Other than in
53
基督教研究 第75巻 第1号
Genesis 22, this place-name “Moriah” is mentioned only in II Chronicles 3. This
article observes how “Moriah” of Genesis 22 is translated in the ancient versions,
and it finally examines the kind of function the place-name “Moriah” performs in the
relationship between Jerusalem and Genesis 22. While “Moriah” forms a skillful
wordplay between “to see” and “to fear,” it also has the function of uniting these
important words. Furthermore, since the location and meaning of Moriah, though
important for setting the scene, are ambiguous, it also has the function of making
the reader question the contents of this episode. Therefore, in this narrative, the
word is considered to have three literary functions: (1) it makes a wordplay, (2) it
differentiates this story from other biblical passages, and (3) it makes the reader
question the narrative. Consequently, this place-name Moriah exerts a rich influence
on the present-day reader of Genesis 22.
0.はじめに
0.はじめに
創世記 22 章 1-19 節(以下創世記 22 章)において、アブラハムは神から息子イサ
創世記22章1-19節(以下創世記22章)において、アブラハムは神から息子イサク
アブラハムは神から息子イサクを
全焼の犠牲にささげるように命じられ、
「モリヤの地」へと旅をする。この「モリヤ」
を全焼の犠牲にささげるように命じられ、
「モリヤの地」へと旅をする。この「モリ
と旅をする。この「モリヤ」とい
う地名は、創世記 22:2 以外では歴代誌下 3:1 に言及されるのみである。しかも、創
ヤ」という地名は、創世記22:2以外では歴代誌下3:1に言及されるのみである。し
れるのみである。しかも、創世記
22 章では「モリヤの地(‫)אֶרץ הַמ ִֹּרי ָּה‬
ֶ )
」であり、歴代誌下
3 章では「モリヤ山(‫ַמֹורי ָּה‬
ִ ‫)הַר ה‬
かも、創世記22章では「モリヤの地( 」であり、歴代誌下3章では「モリ
1
1。創世記
章では「モリヤ山(‫ָּה‬
‫ַמֹורי‬
ִ ‫ ה‬なっている
‫)הַר‬
)
」と
22 章と歴代誌下 3 章の関係および歴代誌下 3 章が指し示すエル
ヤ山( 」となっている
。創世記22章と歴代誌下3章の関係および歴代誌下3
歴代誌下 3 章が指し示すエルサレ
ムと創世記 22 章の関係についてさまざまな見解が出されてきた。また、創世記 22 章
章が指し示すエルサレムと創世記22章の関係についてさまざまな見解が出されてき
てきた。また、創世記
22リヤを後代の変更と見做し、モリヤという地名の元来のテクストを探る研究も多くな
章のモ
た。また、創世記22章のモリヤを後代の変更と見做し、モリヤという地名の元来のテ
J.
クストを探る研究も多くなされてきた。たとえば、
「近代聖書学の父」とされる
テクストを探る研究も多くなされ
てきた。たとえば、
「近代聖書学の父」とされる
J.Wellhausen はシリア語訳・ペシッ
Wellhausen はシリア語訳・ペシッタに従って「アモリ人の土地」であると考えた
。
usen はシリア語訳・ペシッタに
22 章が元来
従って「アモリ人の土地」であると考えた 2。また、H.Gunkel は創世記
2
e
3。O.Procksch は本来「モレの樫の
ru’el)」の聖所原因譚であったと
また、H.Gunkel
は創世記22章が元来「エルエル(J
unkel は創世記
22 章が元来「エ
ルエル
(Jeru’el)
」の聖所原因譚であったと主張した
3
4
4。M.Dahood はカナンの史料をもとにモリヤを「私の教師はヤー
主張した
。O.Procksch
は本来「モレの樫の木」であると述べている
。M.Dahood は
rocksch は本来
「モレの樫の木」
であると述べている
5
カナンの史料をもとにモリヤを「私の教師はヤー」だと解釈している
。
にモリヤを「私の教師はヤー」だ
と解釈している 5。
ここで概観したように、創世記22章の地名モリヤについて、元来のテクストおよび
ここで概観したように、創世記 22 章の地名モリヤについて、元来のテクストおよび
モリヤの意味をめぐるさまざまな研究がなされてきた。本稿では、まず創世記22章の
いて、元来のテクストおよびモリ
ヤの意味をめぐるさまざまな研究がなされてきた。本稿では、まず創世記 22 章の「モリ
「モリヤ」が古代語訳においてどのような訳語が採用されているのかを確認し、次に
は、まず創世記
22 章の「モリヤ」
が古代語訳においてどのような訳語が採用されているのかを確認し、次にエルサレム
エルサレムと創世記22章の関係を、最後にモリヤという地名が創世記22章においてど
かを確認し、次にエルサレムと創
世記 22 章の関係を、最後にモリヤという地名が創世記 22 章においてどのような機能
のような機能を有しているのかを検討する。そして、これらの考察をもとに、創世記
2 章においてどのような機能を有
しているのかを検討する。そして、これらの考察をもとに、創世記 22 章において地名
22章において地名モリヤが物語において極めて多様でかつ重要な文学的機能を有して
、創世記 22 章において地名モリ
ヤが物語において極めて多様でかつ重要な文学的機能を有していることを明らかにし
有していることを明らかにしたい。
54
1.古代語訳
創世記22章における地名「モリヤ」の文学的機能
いることを明らかにしたい。
1.古代語訳
まず、創世記22章のモリヤについて、サマリア五書を含む主要な古代語訳におい
て、どのような訳語が採用されているのか、比較・検討を行っていきたい6。この作
業により、サマリア五書をのぞく各々の翻訳において、創世記22章のモリヤがどのよ
うに理解・解釈され、他の言語に置き換えられたのかを考察することができ、また、
サマリア五書についても同時に検討することで、ヘブライ語本文の異なる読みの可能
性についても探ることが可能である。つまり、主要な古代語訳の検討から、「モリヤ」
をめぐる理解の多様性を知ることができる。
マソラ本文および、主要な古代語訳における創世記22章の「モリヤ」の訳語の音写
とその意味を一覧にすると以下の通りである7。
名称(言語)
音写
意味
マソラ本文(ヘブライ語)
hammôrîyāh
モリヤ
サマリア五書(ヘブライ語)
hmwr’h
モリア/見ること
七十人訳(ギリシア語)
tēn hypsēlēn
高い8
アクィラ訳(ギリシア語)
tēs optasias
明らかに見える
シュンマコス訳(ギリシア語)
シュンマコス訳(ギリシア語)tēs kataphanē
tēs
tēs kataphanē
kataphanē
顕現の/幻の
顕現の/幻の
シュンマコス訳(ギリシア語)
顕現の/幻の
tēs kataphanē
シュンマコス訳(ギリシア語)
顕現の/幻の
ウルガタ(ラテン語)
ウルガタ(ラテン語) Visionis Visionis Visionis
Visionis 顕現の/幻の
顕現の/幻の
顕現の/幻の
ē kataphanē
顕現の/幻の顕現の/幻の
ēs
ウルガタ(ラテン語)
ウルガタ(ラテン語)
顕現の/幻の
タルグム・オンケロス(アラム語)
タルグム・オンケロス(アラム語)
pūlḥānā
礼拝の
礼拝の
顕現の/幻の顕現の/幻の
Visionis
タルグム・オンケロス(アラム語)
pūlhānā pūlḥānā pūlḥānā
タルグム・オンケロス(アラム語)
礼拝の 礼拝の
断片タルグム(アラム語)
断片タルグム(アラム語)
mwryh モリヤ(山)
モリヤ(山)
モリヤ(山)
礼拝の
断片タルグム(アラム語)
mwryh mwryh mwryh
断片タルグム(アラム語)
モリヤ(山)
タルグム・ネオフィティ(アラム語)
タルグム・ネオフィティ(アラム語)
mwryh モリヤ(山)
モリヤ(山)
モリヤ(山)
モリヤ(山)モリヤ(山)
mwryh
タルグム・ネオフィティ(アラム語)
mwryh mwryh mwryh
タルグム・ネオフィティ(アラム語)
モリヤ(山)
礼拝の
ūlḥānā
4
タルグム・偽ヨナタン(アラム語)
タルグム・偽ヨナタン(アラム語)
pwlḥn’ 礼拝の 礼拝の
礼拝の
モリヤ(山)モリヤ(山)
mwryh
タルグム・偽ヨナタン(アラム語)
pwlhn’ pwlḥn’ pwlḥn’
タルグム・偽ヨナタン(アラム語)
礼拝の
礼拝の
wlḥn’
4
ペシッタ(シリア語)
ペシッタ(シリア語) ’mwrj’
礼拝の
ペシッタ(シリア語)
ペシッタ(シリア語)
mwrj’アモリ人の アモリ人の
’mwrj’ アモリ人の
アモリ人の
アモリ人の
’mwrj’ ’mwrj’
アモリ人の
この一覧から明らかなように、モリヤという地名について、多くの古代語訳
この一覧から明らかなように、モリヤという地名について、多くの古代語訳
この一覧から明らかなように、モリヤという地名について、多くの古代語訳では音写
この一覧から明らかなように、モリヤという地名について、多くの古代語訳では音
るのではなく、多様な訳語が採用されている。サマリア教団が保持しているヘ
るのではなく、多様な訳語が採用されている。サマリア教団が保持しているヘ
いて、多くの古代語訳では音写す
う地名について、多くの古代語訳では音写す
るのではなく、多様な訳語が採用されている。サマリア教団が保持しているヘブライ語
写するのではなく、多様な訳語が採用されている。サマリア教団が保持しているヘブ
文(サマリア五書)では、マソラ本文から①‫מ‬と‫ר‬の間に‫ו‬が加えられていること
文(サマリア五書)では、マソラ本文から①‫מ‬と‫ר‬の間に‫ו‬が加えられていること
教団が保持しているヘブライ語本
。サマリア教団が保持しているヘブライ語本
文(サマリア五書)では、マソラ本文から①‫מ‬と‫ר‬の間に‫ו‬が加えられていること、②‫ר‬と
ライ語本文(サマリア五書)では、マソラ本文から① と の間に が加えられている
9 99
99。これはマソラ本文のテクスト
。これはマソラ本文の
。これはマソラ本文の
間の‫י‬が‫א‬に変更されている、という二点で異なっている
間の‫י‬が‫א‬に変更されている、という二点で異なっている
が加えられていること、②‫ר‬と‫ה‬の
‫מ‬と‫ר‬の間に‫ו‬が加えられていること、②‫ר‬と‫ה‬の
こと、② と の間の が に変更されている、という二点で異なっている
。これはマ
間の‫י‬が‫א‬に変更されている、という二点で異なっている
9。これはマソラ本文のテクストと
は異なる綴りを保持していると考えられるが、同時に動詞「見る」
は異なる綴りを保持していると考えられるが、同時に動詞「見る」
(√‫)ראה‬の分
(√‫)ראה‬の分
ソラ本文のテクストとは異なる綴りを保持していると考えられるが、同時に動詞「見
。これはマソラ本文のテクストと
なっている
は異なる綴りを保持していると考えられるが、同時に動詞「見る」
(√‫)ראה‬の分詞形であ
る」
( )の分詞形であるとも解することができる。また、断片タルグムとタルグ
とも解することができる。また、断片タルグムとタルグム・ネオフィティが音
とも解することができる。また、断片タルグムとタルグム・ネオフィティが音
「見る」
(√‫)ראה‬の分詞形である
、同時に動詞「見る」
(√‫)ראה‬の分詞形である
とも解することができる。また、断片タルグムとタルグム・ネオフィティが音写を採用
ム・ネオフィティが音写を採用しているが、
「モリヤの地」を「モリヤ山」と変更し
ているが、
ているが、
「モリヤの地」を「モリヤ山」と変更しているため、歴代誌下
「モリヤの地」を「モリヤ山」と変更しているため、歴代誌下
33 章の
章の
ム・ネオフィティが音写を採用し
ムとタルグム・ネオフィティが音写を採用し
ているが、
「モリヤの地」を「モリヤ山」と変更しているため、歴代誌下
3 章のエルサレ
神殿の場所と同定したと考えられる。このように、創世記
神殿の場所と同定したと考えられる。このように、創世記
22
22 章において「モリ
章において「モリ
ため、歴代誌下
3 章のエルサレム
更しているため、歴代誌下
3 章のエルサレム
神殿の場所と同定したと考えられる。このように、創世記
22 章において「モリヤ」をそ
55
まま音写する古代語訳はきわめて少なく、類似のテクストを保持する場合でも
まま音写する古代語訳はきわめて少なく、類似のテクストを保持する場合でも
22 章において「モリヤ」をその
うに、創世記
22 章において「モリヤ」をその
まま音写する古代語訳はきわめて少なく、類似のテクストを保持する場合でも綴りが異
ったり(サマリア五書)
ったり(サマリア五書)
、
、
「地」が「山」へと変更されたりしている(断片タル
「地」が「山」へと変更されたりしている(断片タル
トを保持する場合でも綴りが異な
似のテクストを保持する場合でも綴りが異な
ったり(サマリア五書)
、
「地」が「山」へと変更されたりしている(断片タルグム、タ
るのではなく、多様な訳語が採用されている。サマリア教団が保持しているヘブライ語本
のではなく、多様な訳語が採用されている。サマリア教団が保持しているヘブライ語本
文(サマリア五書)では、マソラ本文から①‫מ‬と‫ר‬の間に‫ו‬が加えられていること、②‫ר‬と‫ה‬
文(サマリア五書)では、マソラ本文から①‫מ‬と‫ר‬の間に‫ו‬が加えられていること、②‫ר‬と‫ה‬の
(サマリア五書)では、マソラ本文から①‫מ‬と‫ר‬の間に‫ו‬が加えられていること、②‫ר‬と‫ה‬の
9。これはマソラ本文のテクスト
間の‫י‬が‫א‬に変更されている、という二点で異なっている
9。これはマソラ本文のテクストと
9。これはマソラ本文のテクストと
間の‫י‬が‫א‬に変更されている、という二点で異なっている
の‫י‬が‫א‬に変更されている、という二点で異なっている
基督教研究 第75巻 第1号
は異なる綴りを保持していると考えられるが、同時に動詞「見る」
(√‫)ראה‬の分詞形であ
は異なる綴りを保持していると考えられるが、同時に動詞「見る」
(√‫)ראה‬の分詞形である
異なる綴りを保持していると考えられるが、同時に動詞「見る」
(√‫)ראה‬の分詞形である
とも解することができる。また、断片タルグムとタルグム・ネオフィティが音写を採用
とも解することができる。また、断片タルグムとタルグム・ネオフィティが音写を採用し
も解することができる。また、断片タルグムとタルグム・ネオフィティが音写を採用し
ているが、
「モリヤの地」を「モリヤ山」と変更しているため、歴代誌下
3 章のエルサレ
ているが、
「モリヤの地」を「モリヤ山」と変更しているため、歴代誌下
いるが、
「モリヤの地」を「モリヤ山」と変更しているため、歴代誌下
3 章のエルサレム 3 章のエルサレム
ているため、歴代誌下3章のエルサレム神殿の場所と同定したと考えられる。このよ
神殿の場所と同定したと考えられる。このように、創世記
22 章において「モリヤ」をそ
神殿の場所と同定したと考えられる。このように、創世記
22 章において「モリヤ」をその
殿の場所と同定したと考えられる。このように、創世記
22 章において「モリヤ」をその
うに、創世記22章において「モリヤ」をそのまま音写する古代語訳はきわめて少な
まま音写する古代語訳はきわめて少なく、類似のテクストを保持する場合でも綴りが異
まま音写する古代語訳はきわめて少なく、類似のテクストを保持する場合でも綴りが異な
ま音写する古代語訳はきわめて少なく、類似のテクストを保持する場合でも綴りが異な
く、類似のテクストを保持する場合でも綴りが異なったり(サマリア五書)
、「地」が
ったり(サマリア五書)
、
「地」が「山」へと変更されたりしている(断片タルグム、タ
ったり(サマリア五書)
、
「地」が「山」へと変更されたりしている(断片タルグム、タル
たり(サマリア五書)
、
「地」が「山」へと変更されたりしている(断片タルグム、タル
「山」へと変更されたりしている(断片タルグム、タルグム・ネオフィティ)
。このよ
グム・ネオフィティ)
。このようなことを総合的に考えれば、一部のタルグムを除く、多
グム・ネオフィティ)
。このようなことを総合的に考えれば、一部のタルグムを除く、多く
ム・ネオフィティ)
。このようなことを総合的に考えれば、一部のタルグムを除く、多く
うなことを総合的に考えれば、一部のタルグムを除く多くの古代語訳では、モリヤを
の古代語訳では、モリヤを地名としてではなく、固有名詞ではない一般の単語として翻
の古代語訳では、モリヤを地名としてではなく、固有名詞ではない一般の単語として翻訳
地名としてではなく、固有名詞ではない一般の単語として翻訳したと考える方がより
古代語訳では、モリヤを地名としてではなく、固有名詞ではない一般の単語として翻訳
10。
10
そして、
これらの古代語訳のうち、
サマリア五書(
したと考える方がより適切であろう
10。
10。
そして、
これらの古代語訳のうち、
したと考える方がより適切であろう
適切であろう
。そして、これらの古代語訳のうち、サマリア五書(意訳だと考える
そして、これらの古代語訳のうち、
サマリア五書(意 サマリア五書(意
たと考える方がより適切であろう
訳だと考える場合)
、ウルガタ、アクィラ、シュンマコスの諸訳はモリヤを「見る」
(√‫אה‬
場合)
、ウルガタ、アクィラ、シュンマコスの諸訳はモリヤを「見る」
( )とし
訳だと考える場合)
、ウルガタ、アクィラ、シュンマコスの諸訳はモリヤを「見る」
(√‫)ראה‬
だと考える場合)
、ウルガタ、アクィラ、シュンマコスの諸訳はモリヤを「見る」
(√‫)ראה‬
11、タルグムのうち、オンケロスと偽ヨナタンは「畏れる
11
として解釈しているようであり
11、タルグムのうち、オンケロスと偽ヨナタンは「畏れる」
11、タルグムのうち、オンケロスと偽ヨナタンは「畏れる」
、タルグムのうち、オンケロスと偽ヨナタンは「畏れ
て解釈しているようであり
として解釈しているようであり
して解釈しているようであり
12。
12
(√‫)ירא‬をもとに訳していると考えられる
12。
る」
( )をもとに訳していると考えられる
。12。
(√‫)ירא‬をもとに訳していると考えられる
√‫)ירא‬をもとに訳していると考えられる
以上みてきたように、
「モリヤ」は多くの古代語訳では固有名詞ではなく一般の単語と
以上みてきたように、
「モリヤ」は多くの古代語訳では固有名詞ではなく一般の単
以上みてきたように、
「モリヤ」は多くの古代語訳では固有名詞ではなく一般の単語とし
以上みてきたように、
「モリヤ」は多くの古代語訳では固有名詞ではなく一般の単語とし
て解釈されていた。また、現在のテクストでは、定冠詞が付いている。ヘブライ語聖書
語として解釈されていた。また、現在のテクストでは、定冠詞が付いている。ヘブラ
て解釈されていた。また、現在のテクストでは、定冠詞が付いている。ヘブライ語聖書に
解釈されていた。また、現在のテクストでは、定冠詞が付いている。ヘブライ語聖書に
1
おいて、
地名に定冠詞を有するものは
「ヨルダン川
(‫ן‬
ֵּ‫」) ַהי ְַרד‬
などごくわずかな例である
イ語聖書において、地名に定冠詞を有するものは「ヨルダン川( )
」などごくわ
13。
13。
おいて、
地名に定冠詞を有するものは
(‫) ַהי ְַרדֵּ ן‬
」などごくわずかな例である
いて、地名に定冠詞を有するものは
「ヨルダン川(‫「י ְַרדֵּ ן‬ヨルダン川
‫) ַה‬
」などごくわずかな例である
13
さらに、創世記
22 章と同様に「モリヤ」という地名が登場する歴代誌下
3 章の古代語訳
。さらに、創世記22章と同様に「モリヤ」という地名が登場する歴
22 章と同様に「モリヤ」という地名が登場する歴代誌下
らに、創世記ずかな例である
22さらに、創世記
章と同様に「モリヤ」という地名が登場する歴代誌下
3 章の古代語訳に 3 章の古代語訳に
14
14。つまり、創世記
22 章の
おいては、創世記
22 章の同一の訳語を採用するものはない
代誌下3章の古代語訳においては、創世記22章の同一の訳語を採用するものはない
14。つまり、創世記
14。つまり、創世記
おいては、創世記
22 章の同一の訳語を採用するものはない
22 章の古 。 22 章の古
いては、創世記
22 章の同一の訳語を採用するものはない
代語訳の理解では、ヘブライ語聖書の原文が示す「モリヤ」という地名は、固有名詞で
つまり、創世記22章の古代語訳の理解では、ヘブライ語聖書の原文が示す「モリヤ」
代語訳の理解では、ヘブライ語聖書の原文が示す「モリヤ」という地名は、固有名詞では
語訳の理解では、ヘブライ語聖書の原文が示す「モリヤ」という地名は、固有名詞では
という地名は、固有名詞ではなく土地を示す名詞ないし修飾語であると考えられる。
なく土地を示す名詞ないし修飾語であると考えられる。
なく土地を示す名詞ないし修飾語であると考えられる。
く土地を示す名詞ないし修飾語であると考えられる。
2.エルサレムとの関係について
2.エルサレムとの関係について
2.エルサレムとの関係について
.エルサレムとの関係について
上述のように、
「モリヤ」が再び登場するのは歴代誌下
3:1 のみである。この歴代誌
上述のように、
「モリヤ」が再び登場するのは歴代誌下
3:1 のみである。この歴代誌の
上述のように、
「モリヤ」が再び登場するのは歴代誌下
3:1 のみである。この歴代誌の
上述のように、
「モリヤ」が再び登場するのは歴代誌下3:1のみである。この歴代
記述では、ソロモンが神殿を建てた場所であり、以前ダビデにヤハウェが顕れたところ
記述では、ソロモンが神殿を建てた場所であり、以前ダビデにヤハウェが顕れたところで
述では、ソロモンが神殿を建てた場所であり、以前ダビデにヤハウェが顕れたところで
誌の記述では、ソロモンが神殿を建てた場所であり、以前ダビデにヤハウェが顕れた
ある。このため、創世記
22 章の地名モリヤがエルサレムと同定されるのかについて、長
ある。このため、創世記
22 章の地名モリヤがエルサレムと同定されるのかについて、長ら
る。このため、創世記
22 章の地名モリヤがエルサレムと同定されるのかについて、長ら
ところである。このため、創世記22章の地名モリヤがエルサレムと同定されるのかに
ついて、長らく関心が払われてきた。エルサレムとの同定には研究者でも意見が分か
4
4
4
れている。ここでは、モリヤをエルサレムと同一視する見解および同一視できないと
する見解について、順に検討していきたい。
2-1.モリヤをエルサレムと同一視する研究
紀元後1世紀のギリシア語著作家ヨセフスをはじめとするユダヤ教の解釈では、創
世記22章の「モリヤ」をエルサレムと同一視することがなされてきた15。このような
見解は、中世のユダヤ教の代表的な聖書注解者の一人で、後代のユダヤ教の聖書解釈
にも多大な影響を及ぼしたラシ(ラビ・シュロモ・ベン・イツハキ)も同様である。
彼は「モリヤ」について「エルサレムのこと」としている16。さらに、ラムバン
(モーゼス・ナフマニデス)は、ラシによる創世記22章の注解やタルグム・オンケロ
56
創世記22章における地名「モリヤ」の文学的機能
ス、創世記ラッバーなどを引用しつつ、「《モリヤの山》は神殿の山のみ呼ばれる名前
のように思われる。多分、モリヤにあるその土地の中に山があり、その山の名前にち
なんで町は呼ばれている」と主張している17。このように、ユダヤ教においては、創
世記22章のモリヤをエルサレムと同一視する解釈もなされてきた。
G.Vermes や B.Chilton など、現代の研究者の中にも、創世記22章の地名を言及す
る際に、「モリヤ山(Mt. Moriah)」とする者も存在する18。つまり、彼らは創世記22
章の「モリヤの地」と歴代誌下3章の「モリヤ山」を同一視しており、創世記22章を
エルサレムだと考えているのであろう19。
また、B. ヴォーターはこのモリヤという地名を「後に、歴下3:1と一致させるた
めに、一書記によって訂正されたのであろう」としている20。つまり、彼はモリヤと
いう現在のテクストでは創世記22章と歴代誌下3章とは一致すると考えているのであ
る。さらにフォン・ラートは「おそらく『モリヤ』という地名は、この物語に古いエ
ルサレム的伝統の口実を与えるために、歴代誌下三章一節の方から二次的にわれわれ
の物語に入れられたのであろう」と述べている21。
このように、創世記22章の記事を歴代誌下3章の記事およびエルサレムと同一視す
る見解も存在するが、それらはユダヤ教の解釈者たち(ヨセフス、ラシ、ラムバ
ン)、創世記22章と歴代誌下3章の「モリヤ」を同一視するもの(Vermes、Chilton)、
さらには「モリヤ」を後代の二次的付加だと考えエルサレムと同定するために変更さ
れたとするもの(ヴォーター、フォン・ラート)であった。
2-2.モリヤとエルサレムを同一視できないとする研究
次に両者を同一視できないとする研究を見ていきたい。ヘブライ語聖書学を専門と
する多くの研究者がこの見解をとっている22。ここでは創世記22章のテクストからの
情報と、研究者の見解について確認しておきたい。
まず、創世記22章のテクストから得られる「モリヤ」についての情報は、①ベエ
ル・シェバから三日間の距離である、②アブラハムがヤハウェ・イルエと名付けた、
③今日でも「ヤハウェの山に、イエラエ」と言われている、という三つの情報だけで
あり、しかもこれらの情報はいずれも不確かなものである23。つまり、これらの情報
からは地理的位置を決定することは不可能である。
次に、現代の研究者の議論を検討したい。V.Hamilton が指摘する通り、歴代誌下3
章ではアブラハムではなくダビデへの神顕現が語られるのみで、創世記22章の出来事
については語られていない24。また、R. デヴィドソンは「もはや後代の信仰の産物以
外のものではない」と述べ、「この物語の書かれた時代にすでにエルサレムだと考え
られていたとするならば、テキストにはその事実を表わすいくつかの痕跡が残ったは
57
これらの情報からは地理的位置を決
のである 23。つまり、
定することは不可能である。
定することは不可能である。
次に、現代の研究者の議論を検討したい。V.Hamilton
次に、現代の研究者の議論を検討したい。V.Hamilton
が指摘する通り、歴代誌下
が指摘する通り、歴代誌下
3 章で 3
基督教研究 第75巻 第1号
討したい。V.Hamilton
が指摘する通り、歴代誌下
3
章で
はアブラハムではなくダビデへの神顕現が語られるのみで、創世記
はアブラハムではなくダビデへの神顕現が語られるのみで、創世記
22 章の出来事について
22 章の出来事につ
神顕現が語られるのみで、創世記
22 章の出来事について
24。また、R.デヴィドソンは「もはや後代の信仰の産物以外のものではな
24。また、R.デヴィドソンは「もはや後代の信仰の産物以外のもので
は語られていない
は語られていない
ヴィドソンは「もはや後代の信仰の産物以外のものではな
い」と述べ、
い」と述べ、
「この物語の書かれた時代にすでにエルサレムだと考えられていたとするなら
「この物語の書かれた時代にすでにエルサレムだと考えられていたとする
25
ずだから」だと指摘する
。さらには、そもそも「神殿の丘(the temple hill)」のこ
時代にすでにエルサレムだと考えられていたとするなら
25。
ば、テキストにはその事実を表わすいくつかの痕跡が残ったはずだから」だと指摘する
ば、テキストにはその事実を表わすいくつかの痕跡が残ったはずだから」だと指摘する
とを本当に「モリヤ(the Moriah)」と呼んでいたのかどうかについても確かではな
25。
すいくつかの痕跡が残ったはずだから」だと指摘する
さらには、
さらには、
そもそも
そもそも
「神殿の丘
「神殿の丘
(the temple
(the temple
hill)」のことを本当に
hill)」のことを本当に
「モリヤ
「モリヤ
(the Moriah)
(the Moriah
」
26
い 。
e temple hill)」のことを本当に
「モリヤ(the Moriah)
」
26。
26。
と呼んでいたのかどうかについても確かではない
と呼んでいたのかどうかについても確かではない
このように、創世記22章にエルサレムについての言及がなく、歴代誌下3章にもア
も確かではない 26。 このように、創世記
このように、創世記
22 章にエルサレムについての言及がなく、歴代誌下
22 章にエルサレムについての言及がなく、歴代誌下
3 章にもアブラ
3 章にもア
ブラハムについての言及がないため、両者の依存関係は極めて不明確である。さら
サレムについての言及がなく、歴代誌下
3 章にもアブラ
ハムについての言及がないため、両者の依存関係は極めて不明確である。さらに、モリヤ
ハムについての言及がないため、両者の依存関係は極めて不明確である。さらに、モ
に、モリヤという場所の地理的位置も不確かなままとなっている。
両者の依存関係は極めて不明確である。さらに、モリヤ
という場所の地理的位置も不確かなままとなっている。
という場所の地理的位置も不確かなままとなっている。
なままとなっている。
2-3.小括
2-3.小括
2-3.小括
以上、創世記22章のモリヤを歴代誌下3章との関連からエルサレムと同定すること
以上、創世記
以上、創世記
22 章のモリヤを歴代誌下
22 章のモリヤを歴代誌下
3 章との関連からエルサレムと同定することにつ
3 章との関連からエルサレムと同定すること
について検討した。聖書学者の多くが両者を同一視できないと判断していた。しかし
代誌下 3 章との関連からエルサレムと同定することにつ
いて検討した。聖書学者の多くが両者を同一視できないと判断していた。しかしながら、
いて検討した。聖書学者の多くが両者を同一視できないと判断していた。しかしなが
ながら、モリヤという地名がヘブライ語聖書に二度しか登場せず、両者から提供され
両者を同一視できないと判断していた。しかしながら、
モリヤという地名がヘブライ語聖書に二度しか登場せず、両者から提供される情報もあま
モリヤという地名がヘブライ語聖書に二度しか登場せず、両者から提供される情報も
る情報もあまりにも少ないため、創世記22章と歴代誌下3章の両者における「モリヤ」
書に二度しか登場せず、両者から提供される情報もあま
りにも少ないため、創世記
りにも少ないため、創世記
22 章と歴代誌下
22 章と歴代誌下
3 章の両者における「モリヤ」がいかなる関係
3 章の両者における「モリヤ」がいかなる
がいかなる関係にあるのかは明らかではなく、また、一方が他方に依拠するのか、あ
歴代誌下 3 章の両者における「モリヤ」がいかなる関係
にあるのかは明らかではなく、また、一方が他方に依拠するのか、あるいはまったく別の
にあるのかは明らかではなく、また、一方が他方に依拠するのか、あるいはまったく
るいはまったく別の伝承を受け継いでいるのかなどについては推測の域を出ない。そ
た、一方が他方に依拠するのか、あるいはまったく別の
伝承を受け継いでいるのかなどについては推測の域を出ない。そのため、創世記
伝承を受け継いでいるのかなどについては推測の域を出ない。そのため、創世記
22 章のモ
22 章
のため、創世記22章のモリヤという地名が歴代誌下3章のモリヤと同一の場所である
ついては推測の域を出ない。そのため、創世記
章のモ
リヤという地名が歴代誌下
リヤという地名が歴代誌下
322
章のモリヤと同一の場所であるかや、歴代誌下
3 章のモリヤと同一の場所であるかや、歴代誌下
3 章で示唆さ
3 章で示
かや、歴代誌下3章で示唆されているエルサレムと創世記22章とが関連するのかとい
モリヤと同一の場所であるかや、歴代誌下
3 章で示唆さ
れているエルサレムと創世記
れているエルサレムと創世記
22 章とが関連するのかということについて、多くの困難に直
22 章とが関連するのかということについて、多くの困難
うことについて、多くの困難に直面せざるをえず、その結果、
「モリヤ」という地名
とが関連するのかということについて、多くの困難に直
面せざるをえず、その結果、
面せざるをえず、その結果、
「モリヤ」という地名の位置も結局不明瞭なものにとどまるの
「モリヤ」という地名の位置も結局不明瞭なものにとどま
の位置も結局不明瞭なものにとどまるのである。
ヤ」という地名の位置も結局不明瞭なものにとどまるの
である。
である。
3.文学的機能
3.文学的機能
3.文学的機能
ここで、創世記
ここで、創世記
22 章における「モリヤ」の文学的機能について検討していきたい。すで
22 章における「モリヤ」の文学的機能について検討していきたい。
ここで、創世記22章における「モリヤ」の文学的機能について検討していきたい。
モリヤ」の文学的機能について検討していきたい。すで
すでに本稿の冒頭で確認した創世記22章の「モリヤ」の元来のテクストを探る議論の
に本稿の冒頭で確認した創世記
に本稿の冒頭で確認した創世記
22 章の「モリヤ」の元来のテクストを探る議論のほか、モ
22 章の「モリヤ」の元来のテクストを探る議論のほか
章の「モリヤ」の元来のテクストを探る議論のほか、モ
ほか、モリヤを語源的に解明しようとする研究も少なくない。たとえば、
の「見
リヤを語源的に解明しようとする研究も少なくない。たとえば、√‫ראה‬の「見る」
リヤを語源的に解明しようとする研究も少なくない。たとえば、√‫ראה‬の「見る」
(8、14
(8、1
節
研究も少なくない。たとえば、√‫ראה‬の「見る」
(8、14 節
る」(8、14節など)という語を語源とする説や、
の「畏れる」
(12節)という語
など)という語を語源とする説や、√‫ירא‬の「畏れる」
など)という語を語源とする説や、√‫ירא‬の「畏れる」
(12 節)という語から説明を行う説が
(12
節)という語から説明を行う
27
、√‫ירא‬の「畏れる」
(12
節)という語から説明を行う説が
27、ヘブライ語の語形変化では「モリヤ」からこれらの説明を行うこ
27、ヘブライ語の語形変化では「モリヤ」からこれらの説明を行
から説明を行う説がしばしば主張されるが
、ヘブライ語の語形変化では「モリヤ」
しばしば主張されるが
しばしば主張されるが
28
イ語の語形変化では「モリヤ」からこれらの説明を行うこ
28。しかしながら、この両者の語と「モリヤ」の間に、発音上の類似や言葉
28。しかしながら、この両者の語と「モリヤ」の間に、発音上の類似や
からこれらの説明を行うことは困難である
。しかしながら、この両者の語と「モリ
とは困難である
とは困難である
、この両者の語と「モリヤ」の間に、発音上の類似や言葉
ヤ」の間に、発音上の類似や言葉遊び、語呂合わせがあることについては認めること
29。しかも、この発音上
29。しかも、この発
遊び、語呂合わせがあることについては認めることができるだろう
遊び、語呂合わせがあることについては認めることができるだろう
29
29。しかも、この発音上
ができるだろう
。しかも、この発音上の類似と言葉遊びは創世記22章において特に
いては認めることができるだろう
の類似と言葉遊びは創世記
の類似と言葉遊びは創世記
22 章において特に重要な役割を果たす二つの語
22 章において特に重要な役割を果たす二つの語
「見る(√‫)ראה‬
「見る(√‫אה‬
」
30
重要な役割を果たす二つの語「見る( )
」と「畏れる( )
」の間で存在する
おいて特に重要な役割を果たす二つの語
「見る(√‫)ראה‬
」と「畏れる(√‫)ירא‬
」の間で存在する。30。さらに、この両
31
30。さらに、この両者の語はテクストにおいて混乱/
。つまり、混同
で存在する さらに、この両者の語はテクストにおいて混乱/混同をなしていた
混同をなしていた
6
6 31。つまり、混同され、もしくは、混
6 され、もしくは、混乱した類音の二つの動詞 と が重要な役割を果たす創世記
まり、混同され、もしくは、混乱した類音の二つの動詞√‫ראה‬と√‫ירא‬
が重要な役割を果たす創世記 22 章の物語において、その
22章の物語において、その場所を「モリヤ」とすることによってこの両者を統合する
世記 22 章の物語において、その場所を「モリヤ」とすることによ
ってこの両者を統合する機能を有している。
機能を有している。
機能を有している。
では、現代の読者にとってはいかなる文学的機能を有
ってはいかなる文学的機能を有しているだろうか? 物語におい
て、アブラハムは神から「モリヤの地」と指示されたと
58
「モリヤの地」と指示されたとき(2 節)
、いかなる質問もしてお
らず、翌朝の準備でも三日の旅路でも目的地については
日の旅路でも目的地については十分認識しているようである。つ
創世記22章における地名「モリヤ」の文学的機能
。さらに、この両者の語はテクストにおいて混乱/
と「畏れる(√‫)ירא‬
と「畏れる(√‫)ירא‬
」の間で存在する
」の間で存在する 3030。さらに、この両者の語はテクストにおいて混乱/
。つまり、混同され、もしくは、混乱した類音の二つの動詞√‫ראה‬と√‫ירא‬
混同をなしていた
混同をなしていた3131。つまり、混同され、もしくは、混乱した類音の二つの動詞√‫ראה‬と√‫ירא‬
が重要な役割を果たす創世記
が重要な役割を果たす創世記22
22章の物語において、その場所を「モリヤ」とすることによ
章の物語において、その場所を「モリヤ」とすることによ
では、現代の読者にとってはいかなる文学的機能を有しているだろうか? 物語に
ってこの両者を統合する機能を有している。
ってこの両者を統合する機能を有している。
おいて、アブラハムは神から「モリヤの地」と指示されたとき(2節)、いかなる質問
では、現代の読者にとってはいかなる文学的機能を有しているだろうか?
では、現代の読者にとってはいかなる文学的機能を有しているだろうか? 物語におい
物語におい
もしておらず、翌朝の準備でも三日の旅路でも目的地については十分認識しているよ
て、アブラハムは神から「モリヤの地」と指示されたとき(2
て、アブラハムは神から「モリヤの地」と指示されたとき(2 節)
節)
、いかなる質問もしてお
、いかなる質問もしてお
うである。つまり、場所を指定した神と指定されたアブラハムの両者にとっては、こ
らず、翌朝の準備でも三日の旅路でも目的地については十分認識しているようである。つ
らず、翌朝の準備でも三日の旅路でも目的地については十分認識しているようである。つ
の地名は自明の場所であるといえるだろう。しかしながら、現代の読者には、2.で
まり、場所を指定した神と指定されたアブラハムの両者にとっては、この地名は自明の場
まり、場所を指定した神と指定されたアブラハムの両者にとっては、この地名は自明の場
行なったエルサレムと創世記22章との関連についての考察からも明らかなように、こ
所であるといえるだろう。しかしながら、現代の読者には、2.で行なったエルサレムと
所であるといえるだろう。しかしながら、現代の読者には、2.で行なったエルサレムと
のモリヤという地名の位置がまったく定かではない。この創世記22章の場面はアブラ
創世記
創世記22
22章との関連についての考察からも明らかなように、このモリヤという地名の位置
章との関連についての考察からも明らかなように、このモリヤという地名の位置
ハム物語(創世記12-25章)において神/ヤハウェとアブラハムの間に最後に対話が
がまったく定かではない。この創世記
がまったく定かではない。この創世記22
22章の場面はアブラハム物語(創世記
章の場面はアブラハム物語(創世記12-25
12-25章)
章)
なされる場面であり、かつ、これまで語られてきたアブラハムへの祝福が再確認され
において神/ヤハウェとアブラハムの間に最後に対話がなされる場面であり、かつ、これ
において神/ヤハウェとアブラハムの間に最後に対話がなされる場面であり、かつ、これ
る場面である(16-18節)。そのため、創世記22章はアブラハムの生涯において最も
まで語られてきたアブラハムへの祝福が再確認される場面である(16-18
まで語られてきたアブラハムへの祝福が再確認される場面である(16-18節)
節)
。そのため、
。そのため、
重要な事件だと考えられてきた32。しかしながら、その重大な場面の位置が全く不明
。しかしな
創世記
創世記22
22章はアブラハムの生涯において最も重要な事件だと考えられてきた
章はアブラハムの生涯において最も重要な事件だと考えられてきた3232。しかしな
になることで、一方では他の聖書の物語では用いられない特別な場所でなされた物語
がら、その重大な場面の位置が全く不明になることで、一方では他の聖書の物語では用い
がら、その重大な場面の位置が全く不明になることで、一方では他の聖書の物語では用い
として、創世記22章の特別性を強調することになる。
33
られない特別な場所でなされた物語として、創世記
られない特別な場所でなされた物語として、創世記22
22章の特別性を強調することになる。
章の特別性を強調することになる。
しかし、他方、創世記22章のモリヤの位置・意味の不明瞭さ
と古代語訳における
と古代語訳における理解
しかし、他方、創世記
しかし、他方、創世記22
22章のモリヤの位置・意味の不明瞭さ
章のモリヤの位置・意味の不明瞭さ と古代語訳における理解
理解の多様性、さらには歴代誌下3章やエルサレムとの関係の曖昧さと不明瞭さが、
33
33
34
の多様性、さらには歴代誌下
の多様性、さらには歴代誌下 33 章やエルサレムとの関係の曖昧さと不明瞭さが、このモリ
章やエルサレムとの関係の曖昧さと不明瞭さが、このモリ
このモリヤなる地名を虚構のものだとも感じさせる
。「その実際の場所が非常に曖
34
34
「
。
「その実際の場所が非常に曖昧であることは、
その実際の場所が非常に曖昧であることは、
ヤなる地名を虚構のものだとも感じさせる
ヤなる地名を虚構のものだとも感じさせる 。
昧であることは、とりわけそれがアブラハムの人生の鍵となる事件に起源があると主
35
とりわけそれがアブラハムの人生の鍵となる事件に起源があると主張される場合、奇妙で
とりわけそれがアブラハムの人生の鍵となる事件に起源があると主張される場合、奇妙で
張される場合、奇妙である
」とデヴィドソンが指摘しているように、重要な記事で
」とデヴィドソンが指摘しているように、重要な記事であるはずの創世記22
22章の場
章の場
ある
ある3535」とデヴィドソンが指摘しているように、重要な記事であるはずの創世記
あるはずの創世記22章の場所が曖昧であることはきわめて奇妙なことだといえる。こ
所が曖昧であることはきわめて奇妙なことだといえる。この奇妙さが、創世記
所が曖昧であることはきわめて奇妙なことだといえる。この奇妙さが、創世記22
22章の内容
章の内容
の奇妙さが、創世記22章の内容に疑問を抱かせ、創世記22章に語られる神ヤハウェに
に疑問を抱かせ、創世記
に疑問を抱かせ、創世記22
22章に語られる神ヤハウェによるアブラハムの祝福をも疑わせる
章に語られる神ヤハウェによるアブラハムの祝福をも疑わせる
よるアブラハムの祝福をも疑わせる機能をも含んでいる。さらに、これまでアブラハ
機能をも含んでいる。さらに、これまでアブラハムに語られてきた祝福に疑問を持たせる
機能をも含んでいる。さらに、これまでアブラハムに語られてきた祝福に疑問を持たせる
ムに語られてきた祝福に疑問を持たせることで、これまで神ヤハウェとアブラハムを
ことで、これまで神ヤハウェとアブラハムを主たる主人公として語られてきたアブラハム
ことで、これまで神ヤハウェとアブラハムを主たる主人公として語られてきたアブラハム
主たる主人公として語られてきたアブラハム物語を再考させ、読者に再度読み返させ
る機能をも有しているのだ。
物語を再考させ、読者に再度読み返させる機能をも有しているのだ。
物語を再考させ、読者に再度読み返させる機能をも有しているのだ。
このように、創世記22章において地名モリヤは、きわめて技巧的な語呂合わせを形
このように、
このように、
創世記
創世記22
22章において地名モリヤは、
章において地名モリヤは、
きわめて技巧的な語呂合わせを形成し、
きわめて技巧的な語呂合わせを形成し、
成し、しかもそれによって創世記22章の「見る( )
」と「畏れる( )
」という
しかもそれによって創世記
しかもそれによって創世記22
22章の「見る(√‫)ראה‬
章の「見る(√‫)ראה‬
」と「畏れる(√‫)ירא‬
」と「畏れる(√‫)ירא‬
」という混乱/混同
」という混乱/混同
混乱/混同をまとめる機能を有している。さらに、アブラハムの生涯においてきわめ
をまとめる機能を有している。さらに、アブラハムの生涯においてきわめて重要な物語を
をまとめる機能を有している。さらに、アブラハムの生涯においてきわめて重要な物語を
て重要な物語を特別な場所で行われたとして創世記22章の記事を特別視させる一方
特別な場所で行われたとして創世記
特別な場所で行われたとして創世記22
22章の記事を特別視させる一方で、この「モリヤ」と
章の記事を特別視させる一方で、この「モリヤ」と
で、この「モリヤ」という地名の意味がまったく不確かであり、場所も不明であるの
いう地名の意味がまったく不確かであり、場所も不明であるので、全く虚構の地名だとも
いう地名の意味がまったく不確かであり、場所も不明であるので、全く虚構の地名だとも
で、全く虚構の地名だとも考えさせ、さらには創世記22章の物語の内容を疑わせると
考えさせ、さらには創世記
考えさせ、さらには創世記22
22章の物語の内容を疑わせると同時に、これまで語られてきた
章の物語の内容を疑わせると同時に、これまで語られてきた
同時に、これまで語られてきたアブラハム物語について再考を促し、読者に再度物語
アブラハム物語について再考を促し、読者に再度物語全体を読み返させるという、文学的
アブラハム物語について再考を促し、読者に再度物語全体を読み返させるという、文学的
全体を読み返させるという、文学的機能を有しているのである。
機能を有しているのである。
機能を有しているのである。
そして、この「モリヤ」という地名によって、創世記22章の記事を特別視させると
そして、この「モリヤ」という地名によって、創世記
そして、この「モリヤ」という地名によって、創世記22
22章の記事を特別視させると同時
章の記事を特別視させると同時
同時に、創世記22章の内容を疑わせ、さらにはアブラハム物語についても再考を促す
に、創世記
に、創世記 22
22 章の内容を疑わせ、さらにはアブラハム物語についても再考を促すことが、
章の内容を疑わせ、さらにはアブラハム物語についても再考を促すことが、
77
59
基督教研究 第75巻 第1号
ことが、アブラハム物語において語られるアブラハムへの祝福と子孫への約束という
神学的意義にも疑問を抱かせることになるのである。
物語において語られるアブラハムへの祝福と子孫への約束という神学的意義に
物語において語られるアブラハムへの祝福と子孫への約束という神学的意義に
かせることになるのである。
かせることになるのである。
4.まとめ
以上、創世記22章に登場する地名「モリヤ」について、文学的機能について考察し
世記
世記22
22章に登場する地名「モリヤ」について、文学的機能について考察してき
章に登場する地名「モリヤ」について、文学的機能について考察してき
てきた。まず1.では、主要な古代語訳を検討し、それらのほとんどが「モリヤ」を
.では、主要な古代語訳を検討し、それらのほとんどが「モリヤ」を音写では
.では、主要な古代語訳を検討し、それらのほとんどが「モリヤ」を音写では
音写ではなく、意訳を行っていることを確認した。そして、このような意訳がされる
を行っていることを確認した。
行っていることを確認した。
そして、
そして、このような意訳がされる場合、
このような意訳がされる場合、
「モリヤ」
「モリヤ」
場合、「モリヤ」が固有名詞としてではなく、一般の単語として解釈されており、多
としてではなく、一般の単語として解釈されており、多様な理解を示している
としてではなく、一般の単語として解釈されており、多様な理解を示している
様な理解を示していることを確認した。次に、2.ではエルサレムと「モリヤ」の関
した。次に、2.ではエルサレムと「モリヤ」の関係について、検討を行った。
した。次に、2.ではエルサレムと「モリヤ」の関係について、検討を行った。
係について、検討を行った。これについては、モリヤを同一視できるとする見解(2
ては、モリヤを同一視できるとする見解(2-1)とできないとする見解(2
ては、モリヤを同一視できるとする見解(2-1)とできないとする見解(2
-1)とできないとする見解(2-2)を検討した。そして、モリヤという地名が聖書
討した。そして、モリヤという地名が聖書に二度しか登場せず、両者から得ら
討した。そして、モリヤという地名が聖書に二度しか登場せず、両者から得ら
に二度しか登場せず、両者から得られる情報も少ないため、両者の関係については推
少ないため、
少ないため、両者の関係については推測の域を出ないことを確認し、
両者の関係については推測の域を出ないことを確認し、
その結果、
その結果、
測の域を出ないことを確認し、その結果、モリヤという地名の位置も不明瞭なものと
う地名の位置も不明瞭なものとなることを論じた。最後に3.で、これらの議
う地名の位置も不明瞭なものとなることを論じた。最後に3.で、これらの議
なることを論じた。最後に3.で、これらの議論をふまえて、創世記22章における文
て、創世記
て、創世記22
22学的機能について考察を行なった。これまでの研究者たちが語源的にモリヤを解明し
章における文学的機能について考察を行なった。これまでの研究
章における文学的機能について考察を行なった。これまでの研究
源的にモリヤを解明しようとしてきたが、それらの試みは文法的・言語学的に
源的にモリヤを解明しようとしてきたが、それらの試みは文法的・言語学的に
ようとしてきたが、それらの試みは文法的・言語学的には困難であった。しかしなが
ら、しばしば語源的な説明として示される創世記22章において重要な動詞である「見
った。しかしながら、しばしば語源的な説明として示される創世記
った。しかしながら、しばしば語源的な説明として示される創世記
22
22章におい
章におい
る( )
」や「畏れる( )」とモリヤとの間に、発音上の類似が存在し、それら
詞である「見る(√‫)ראה‬
詞である「見る(√‫)ראה‬
」や「畏れる(√‫)ירא‬
」や「畏れる(√‫)ירא‬
」とモリヤとの間に、発音上の類似
」とモリヤとの間に、発音上の類似
が巧みな言葉遊びを形成していた。その結果、創世記22章の重要な語句を統合させる
それらが巧みな言葉遊びを形成していた。その結果、創世記
それらが巧みな言葉遊びを形成していた。その結果、創世記
22
22章の重要な語句
章の重要な語句
機能を有していた。
る機能を有していた。
る機能を有していた。
また、物語を特別な場所で行われたものにすることで、創世記22章の記事の特別性
語を特別な場所で行われたものにすることで、創世記
語を特別な場所で行われたものにすることで、創世記
22
22章の記事の特別性を強
章の記事の特別性を強
を強調することになる。しかし他方、創世記22章において重要な場面設定であるはず
になる。しかし他方、創世記
になる。しかし他方、創世記
22
22章において重要な場面設定であるはずのモリヤ
章において重要な場面設定であるはずのモリヤ
のモリヤの位置や意味が不明瞭で曖昧なため、結果的に創世記22章の物語の内容にも
味が不明瞭で曖昧なため、
味が不明瞭で曖昧なため、
結果的に創世記
結果的に創世記22
22章の物語の内容にも疑問を抱かせ、
章の物語の内容にも疑問を抱かせ、
疑問を抱かせ、さらに創世記22章で語られる神ヤハウェによるアブラハムへの祝福を
記
記22
22章で語られる神ヤハウェによるアブラハムへの祝福をも疑わせる機能も有
章で語られる神ヤハウェによるアブラハムへの祝福をも疑わせる機能も有
も疑わせる機能も有している。さらに、アブラハム物語における創世記22章の重要性
さらに、アブラハム物語における創世記
さらに、アブラハム物語における創世記
22
22章の重要性を勘案すれば、創世記
章の重要性を勘案すれば、創世記22
22
を勘案すれば、創世記22章のモリヤの曖昧さがアブラハム物語全体を再考させ、アブ
の曖昧さがアブラハム物語全体を再考させ、アブラハム物語を冒頭から読み返
の曖昧さがアブラハム物語全体を再考させ、アブラハム物語を冒頭から読み返
ラハム物語を冒頭から読み返させるように読者を誘う機能をも有している。そして、
に読者を誘う機能をも有している。そして、このような「モリヤ」が有するこ
に読者を誘う機能をも有している。そして、このような「モリヤ」が有するこ
このような「モリヤ」が有する機能は、文学的なものにとどまらず、神学的にもアブ
は、文学的なものにとどまらず、神学的にもアブラハム物語の意味を再度考え
は、文学的なものにとどまらず、神学的にもアブラハム物語の意味を再度考え
ラハム物語の意味を再度考えさせるという意義を持っている。
う意義を持っている。
う意義を持っている。
このように、創世記22章において地名モリヤはきわめて重要で多様な文学的機能を
に、創世記
に、創世記22
22章において地名モリヤはきわめて重要で多様な文学的機能を有し
章において地名モリヤはきわめて重要で多様な文学的機能を有し
有しており、現代の読者はこの地名「モリヤ」によって、単なる場面設定や位置の確
代の読者はこの地名「モリヤ」によって、単なる場面設定や位置の確定に留ま
代の読者はこの地名「モリヤ」によって、単なる場面設定や位置の確定に留ま
定に留まらない大きな影響を、創世記22章の読み自体に受けているのである。
な影響を、創世記
な影響を、創世記22
22章の読み自体に受けているのである。
章の読み自体に受けているのである。
本稿で論じてきたような意味の不明瞭さや曖昧さは、創世記22章の「モリヤ」に限
じてきたような意味の不明瞭さや曖昧さは、
じてきたような意味の不明瞭さや曖昧さは、
創世記
創世記22
22章の
章の
「モリヤ」
「モリヤ」
に限らず、
に限らず、
聖書の他の物語部分にもしばしば見られるものであると思われる。今後それら
聖書の他の物語部分にもしばしば見られるものであると思われる。今後それら
60
文学的機能の観点から文学的・文芸批評的に考察することで、これまであまり
文学的機能の観点から文学的・文芸批評的に考察することで、これまであまり
創世記22章における地名「モリヤ」の文学的機能
らず、ヘブライ語聖書の他の物語部分にもしばしば見られるものであると思われる。
今後それらについても文学的機能の観点から文学的・文芸批評的に考察することで、
これまであまり顧みられることの少なかったヘブライ語聖書の有する不明瞭さや曖昧
さが読みに与える影響について、明らかにすることが可能になると考えられる。
(付記)
本稿は2012年9月に伊勢・皇學館大学で行われた日本宗教学会第71回学術大会にお
いて、行った発表に加筆・修正を行ったものである。発表時に有益な質問やコメント
をくださった諸先生方に深く感謝する。また、査読者の先生方から多くの有意義な指
摘を受けた。記して感謝したい。
注
1
創世記22章と歴代誌下3章でのモリヤの綴りの違いは、正書法の違いによると考えられる。フォン・
ラートも両者の綴りの違いについて「多少の正書法上の違いはあるが」と述べている(ゲルハルト・
フォン・ラート『創世記(ATD 旧約聖書註解1)』(山我哲雄訳)、ATD・NTD 聖書註解刊行会、1993
年、425頁)。
2
J. Wellhausen, Die Composition des Hexateuchs und der Historischen Bücher des Alten Testamens. 4.
unveränderte Auflage, Berlin: Walter de Gruyter & Co, 1963, S. 19。松田明三郎「創世記」、手塚儀一郎
+浅野順一+左近義慈ほか編『口語 旧約聖書略解』、日本基督教団出版部、1957年、38頁も併せて
参照。Skinner もオリジナルの名称を復元するなら「もっともシンプルなものがアモリ人の土地であ
る 」 と 述 べ て い る(John Skinner, A Critical and Exegetical Commentary on Genesis(ICC).2nd ed.,
Edinburgh: T&T Clark, 1930, p. 329)。また、B. ヴォーターは「本来の文は『アモリ人の地』となっ
ていたのであろう」(B. ヴォーター、「創世記」(浜寛五郎訳)、A. ジンマーマン編『カトリック聖書
新注解』、エンデルレ書店、2版、1980年、224頁)とし、フォン・ラートは「後に入れ替えられた古
い地名が、旧約聖書のシリア語訳に保存されているのかもしれない。そこでは『モリヤ』の代わりに
『アモリ人〔の地〕』と書かれている」と主張している(フォン・ラート、前掲書、426頁)。さらに
C.Westermann も こ の 見 解 を「 あ り 得 る こ と 」 だ と し て い る(Claus Westermann, Genesis 12-36
(BKAT I/2).2. Auflage, Neukirchen-Vluyn: Neukirchen Verlag, 1989, S. 437)。
3
Hermann Gunkel, Genesis(HK).5. unveränderte Auflage, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht. 1922,
S. 241。G. Sauer & 守屋彰夫「モリヤ」、旧約新約聖書大事典編集委員会編『旧約新約聖書大事典』、
教文館、1989年、1195頁も参照。
4
Otto Procksch, Die Genesis(KAT).3. Auflage, Leipzig: Deichertsche Verlagsbuchhandlung Werner
Schol, 1924, S. 315。松田、前掲書、38頁も参照。
61
基督教研究 第75巻 第1号
5
Dahood はカナン語「私の教師は声(mu-rí-gúki)」からの類推で、モリヤについてこのような意味だ
と す る 解 釈 を 示 し て い る(Mitchell Dahood, “The God Yā at Ebla?,” 1981, JBL 100(4): 608, n. 6)。
Mitchell Dahood, “Eblaite and Biblical Hebrew,” 1982, CBQ 44(1): 16も併せて参照。この場合「ヤー」
はヤハウェの短縮形だと考えられる。
6
サマリア五書を含む古代語訳の成立経緯、年代および場所についても、これまで長らく詳細な議論が
なされてきているが、ここで古代語訳を比較・検討するのは創世記22章における「モリヤ」の文学的
機能について考察するためであり、成立をめぐる詳細な議論については本稿の範囲を大きく超えてい
るため割愛したい。
7
以下の古代語訳については、BHS のクリティカル・アパレイタスのほか、以下の諸文献を参照し
た。関根清三「創世記二二章1-19節 翻訳と本文批評」、関根清三編『アブラハムのイサク献供物語
―アケーダー・アンソロジー』、日本キリスト教団出版局、2012年、18頁および西村俊昭「創世記二
二章一-一九節」、『旧約聖書の予言と知恵』、創文社、1981年、259頁、Nahum M. Sarna, Genesis
(JPS Torah Commentary). Philadelphia: The Jewish Publication Society, 1989, p. 391。
8
七 十 人 訳 は 創12:6の モ レ の 樫 の 木 で も 同 じ 訳 を 採 用 し て い る(E. A. Speiser, Genesis: A New
Translation with Introduction and Commentary(AB1). Garden City: Doubleday and Company, 1964, p.
163)。
9
ただ、前者は正書法の違いだと考えられる。マソラ本文の代下3:1を参照。
10
Kenneth A. Mathews, Genesis 11:27-50:26(NAC). Nashville: Broadman & Holman Publishers, 2005, p.
291.
11
C. T. Hayward はアクィラ訳は ’ōr に基づく訳だと主張している(C. T. Hayward, “Commentary,” in: St.
Jerome, Saint Jerome’s Hebrew Questions on Genesis. tr. with Introduction by C. T. R. Hayward, Oxford:
Clarendon Press, 1995, p. 177)。
12
Bruce K. Waltke, Genesis: A Commentary. Grand Rapids: Zondervan, 2001, p. 305.
13
Mathews も地名が定冠詞を伴うことは珍しい(uncommon)と指摘している(Mathews, op. cit. p.
291)。
14
七十人訳では ton Amoreia、ルキアノスの校訂では tō Amoria、ウルガタでは Moria となっている(S.
R. Driver,“Art. Moriah,” in: James Hasting(ed.), A Dictionary of Bible. Vol. 2, New York: Charles
Scribner’s Sons, 1900, p.437)。
15
ヨセフス『ユダヤ古代誌』I:223(フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌Ⅰ-Ⅱ』(秦剛平訳)、山
本書店、1982年、91頁)。
16
ラッシー「ラッシー『創世記注解』」(手島勲矢訳)、関根清三編『アブラハムのイサク献供物語―ア
ケーダー・アンソロジー』、日本キリスト教団出版局、2012年、59頁。
17
モーゼス・ナフマニデス「モーゼス・ナフマニデス『創世記注解』」(手島勲矢訳)、関根清三編『ア
ブラハムのイサク献供物語―アケーダー・アンソロジー』
、日本キリスト教団出版局、2012年、70頁。
62
創世記22章における地名「モリヤ」の文学的機能
18
Geza Vermes, “Redemption and Genesis XXII,” in: idem, Scripture and Tradition in Judaism(StPB 4).
Leiden: E. J. Brill, 1961, p. 193および、Br uce Chilton, “The Hungr y Knife: Towards a Sense of
Sacrifice,” in: M. Daniel Carroll R., David J. A. Clines and Philop R. Davies(eds.), The Bible in Human
19
Society: Essays in Honour of John Rongerson(JSOTSup. 200). Sheffield: Sheffield Academic Press, 1995,
この見解に近い研究者として
M.ノートは「歴代志史家は、彼の用いた底本の記述を越
p. 122。
えて、歴代志下三章一節で、神殿の場所が伝承上のテキストの創世記二二章二節における
19
この見解に近い研究者として
ノートは「歴代志史家は、彼の用いた底本の記述を越えて、歴代志
『モリヤの山』であることを付け加えている。これは、歴代志史家の時代にしばしば行わ
M.
下三章一節で、神殿の場所が伝承上のテキストの創世記二二章二節における『モリヤの山』であるこ
れていた連想であろう」と述べて、歴代誌の記者は「モリヤの地」と「モリヤ山」を混同
とを付け加えている。これは、歴代志史家の時代にしばしば行われていた連想であろう」と述べて、
していたことを示唆する(ノート、前掲書、347 頁、注 15)。
歴代誌の記者は「モリヤの地」と「モリヤ山」を混同していたことを示唆する(ノート、前掲書、
20
ヴォーター、前掲書、224 頁。
21
フォン・ラート、前掲書、425-426 頁。
22
たとえば、Arnold は「聖書において唯一モリヤについての他の例はエルサレムであり、
347頁、注15)。
20
ヴォーター、前掲書、224頁。
21
フォン・ラート、前掲書、425-426頁。
22
たとえば、Arnold は「聖書において唯一モリヤについての他の例はエルサレムであり、そこにソロ
そこにソロモンが神殿を建てた」と述べつつも、
「われわれはこれがアブラハムのモリヤと
同一の場所だとみなす理由はない」と主張している(Bill T. Arnold, Genesis (New
モンが神殿を建てた」と述べつつも、「われわれはこれがアブラハムのモリヤと同一の場所だとみな
Cambridge Bible Commentary). Cambridge: Cambridge University Press, 2009, p. 204)
。
23
す 理 由 は な い 」 と 主 張 し て い る(Bill T. Arnold, Genesis(New Cambridge Bible Commentary).
①の情報の不確かさについて、ノートは、創世記 22 章の場所として E がモリヤの地に
Cambridge: Cambridge University Press, 2009, p. 204)。
ある「ヤハウェ・エレ」の山を選んでいるとし、これが「ベエルシバから三日の距離にあ
23
①の情報の不確かさについて、ノートは、創世記22章の場所として E がモリヤの地にある「ヤハ
るといわれる」が、
「それ自体まったく曖昧で」「何も言っていないに等しい」と指摘し、
ウェ・エレ」の山を選んでいるとし、これが「ベエルシバから三日の距離にあるといわれる」が、
その理由として「ベエルシバからどちらの方角に行くのか述べられていない」ことをあげ
「それ自体まったく曖昧で」「何も言っていないに等しい」と指摘し、その理由として「ベエルシバか
る。そして、この地名について「これ以上詮索してもあまり骨折りがいがない」と述べて
らどちらの方角に行くのか述べられていない」ことをあげる。そして、この地名について「これ以上
いる(ノート、前掲書、175
頁)
。さらに、②と③については、ヘブライ語聖書の他の記事
詮索してもあまり骨折りがいがない」と述べている(ノート、前掲書、175頁)。さらに、②と③につ
にこの「諺」ないし「慣用句」と思われる句が登場しないため、実際にこのような言葉が
いては、ヘブライ語聖書の他の記事にこの「諺」ないし「慣用句」と思われる句が登場しないため、
当時言われていたのか否かについては疑問の余地がある。
実際にこのような言葉が当時言われていたのか否かについては疑問の余地がある。
24
Victor
Hamilton,
Book
of Genesis:
18-50
(NICOT).
Grand
Rapids:
The Book
of Genesis:
ChaptersChapters
18-50(NICOT)
Victor
P. Hamilton,The
. Grand
Rapids: William
B. Eerdmans
24 P.
William B. Eerdmans
Publishing
Company, 1995,
p. 102。また、Davila は歴代誌の記述
Publishing Company,
1995, p. 102。また、Davila
は歴代誌の記述のモリヤ山の言及では、ソロモンと
のモリヤ山の言及では、
ソロモンとダビデを結び付けているだけだと述べている
(James
ABD. 1992,R.
R. Davila, “Art. Moriah(Place),” in:
ダビデを結び付けているだけだと述べている(James
。さらに
Mathews
Davila, “Art.IV:Moriah
in:もABD.
905)
。 さ(Place),”
ら に Mathews
歴 代 誌1992,
が ア ブ IV:
ラ ハ905)
ムの出
来事を言及
し な い こ とも歴代誌がアブ
を指摘している
op. cit. p. 290)。
ラハムの出来事を言及しないことを指摘している(Mathews,
(Mathews, op. cit. p. 290)。
25
R.デヴィドソン『創世記(ケンブリッジ旧約聖書注解)
』(大野惠正訳)
、新教出版社、
R. デヴィドソン『創世記(ケンブリッジ旧約聖書注解)』(大野惠正訳)
25
、新教出版社、1986年、182
1986 年、182
頁。
頁。
26
Genesis(The
W. H. Bennett,
Bible)
. Edinburgh:
T&T Clark, 1904,
238.
W. 26
H. Bennett,
Genesis
(TheCentury
Century
Bible).
Edinburgh:
T&Tp. Clark,
1904, p. 238.
27
Delitzschは√‫ראה‬のホフアル形の分詞にヤハウェの短縮形ヤーが付け
27
たとえば、Keil&
は のホフアル形の分詞にヤハウェの短縮形ヤーが付けられた形であ
たとえば、Keil&
Delitzsch
るとし、意味を「ヤハウェが見られること」つまり「ヤハウェの顕現」であるとする(C. F. Keil& F.
られた形であるとし、意味を「ヤハウェが見られること」つまり「ヤハウェの顕現」であ
Biblical
Commentary Biblical
on the OldCommentary
Testament Vol. I, on
Pentateuch.
Rapids: WM.
Delitzsch,
the OldGrand
Testament
Vol.B. I,
るとする(C.
F. Keil&
F. Delitzsch,
Pentateuch. Grand Rapids: WM. B. Eerdmans Publishing Company, 1959, p. 249)。同様
に√‫ראה‬から説明する説を採用する研究者は Mathews などがいる。この場合、14 節のアブ
。他方、W. S. Towner
ラハムによる地名の命名と関連させている(Mathews, op. cit. p. 291)
63
26
26 Genesis
W. H. Bennett,
(The Century
Bible).
T&T Ed
Cla
W. H. Bennett,
Genesis
(TheEdinburgh:
Century Bible).
27
27
たとえば、Keil&
Delitzsch は√‫ראה‬のホフアル形の分詞にヤハウェの
たとえば、Keil&
Delitzsch は√‫ראה‬のホフアル形の
られた形であるとし、意味を「ヤハウェが見られること」つまり「ヤハ
られた形であるとし、意味を「ヤハウェが見られるこ
基督教研究 第75巻 第1号
Biblical
Commentary
on Commen
the Old
るとする(C. F. Keil&
F. Delitzsch,
Biblical
るとする(C.
F. Keil&
F. Delitzsch,
Pentateuch. Grand
Rapids: WM.
B. Eerdmans
Publishing
Company,
1
Pentateuch
. Grand
Rapids: WM.
B. Eerdmans
Publis
に√‫ראה‬から説明する説を採用する研究者は
などがいる。この場
Eerdmans Publishing Company,
1959, p. 249)。 同 様に√‫ראה‬から説明する説を採用する研究者は
に か ら 説 明 す る 説 を 採 用 Mathews
する研究者は
Mathews な
Mathews などがいる。この場合、14節のアブラハムによる地名の命名と関連させている(Mathews,
p. 291)
。他
ラハムによる地名の命名と関連させている
(Mathews, op. cit.
ラハムによる地名の命名と関連させている
(Mathews,
op. cit. p. 291)。他方、W. S. Towner
はこの両者に加え、
(「教える」
)という語からも導けると主
はこの両者に加え、√‫(ירה‬
「教える」
)という語からも導けると主張して
はこの両者に加え、√‫(ירה‬
「教える」)という語からも
Genesis(Westminster
Bible Commentary)
. Lousville:
Westminster
張 し て い る(W. Sibley Towner,
Genesis Towner,
(Westminster
Bible
Commentary).
Westm
Towner,
Genesis
(Westminster
BibleLousville:
Commentary).
28
いう動詞√‫ראה‬から導かれたと考える場合、ヘブライ語の語形変化
いう動詞√‫ראה‬から導かれたと考える場合、ヘブライ語の語形変化
たとえば、
John 「見る」という動詞√‫ראה‬から導かれたと考える場合、ヘブライ語の語形変化
Knox Press, 2001, p. 187)
。
Press,
2001, p. 187)
。 2001, p. 187)
Press,
。
の綴りに存在しないため、
綴りに存在しないため、
「見る」を語源と考えるのは文法的に不
「見る」を語源と考えるのは文法的に不
28
28
では消えないℵがモリヤの綴りに存在しないため、
「見る」を語源と考えるのは文法的に不
たとえば、
「見る」という動詞√‫ראה‬から導かれたと考える場合、ヘブライ語の語形変化
28
たとえば、
「見る」という動詞 から導かれたと考える場合、ヘブライ語の語形変化では消えな
たとえば、
「見る」という動詞√‫ראה‬から導かれたと考える場合、ヘブライ語の語形変化
も同様にこれらの語源的解釈が不可能であることを指摘している
も同様にこれらの語源的解釈が不可能であることを指摘している
可能である。S.
R. Driver も同様にこれらの語源的解釈が不可能であることを指摘している
R.
い がモリヤの綴りに存在しないため、
「見る」を語源と考えるのは文法的に不可能である。S.
では消えないℵがモリヤの綴りに存在しないため、
「見る」を語源と考えるのは文法的に不
では消えないℵがモリヤの綴りに存在しないため、
「見る」を語源と考えるのは文法的に不
11
11
AA
Dictionary
Dictionary
of
of Bible
Bible
.Vol.
.Vol.(ed.),
2,
2, New
New
ah,”
ah,” in:
in:
James
James
Hasting
Hasting
(ed.),
(ed.),
A DictionaryR.ofDriver,“Art.
Bible.Vol.
2, New
(S.
R. Driver,“Art.
Moriah,”
in: James
Hasting
Moriah,”
Driver
も同様にこれらの語源的解釈が不可能であることを指摘している(S.
可能である。S.
R.
Driver
も同様にこれらの語源的解釈が不可能であることを指摘している
可能である。S.
R.
Driver
も同様にこれらの語源的解釈が不可能であることを指摘している
th
The
TheBook
Book
of
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Genesis
Genesis
..A
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6thDictionary
Sons,
Sons,(S.
1900,
1900,
p.
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437
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および
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R.
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Book
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York:
Charles
Scribner’s
Sons,
1900,
p.
437
S.York:
R.
Driver,
Dictionary
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Bible.
in: および
James
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Vol.
New
Charles Scribner’s
Sons,of
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2,(ed.),
1900,
437お
Bible
.Vol.
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R.
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New
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R.
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James
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Co,
Co,1907,
1907,
p.
217)
217)
。
。Scribner’s
The
Book1907,
of1900,
Genesis.
ed.,。
London:
& Co, 1907,
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S. R. Driver, &
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London:
Methuen
Co,
p.
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よび
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The
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York:
Charles
Sons,
1900,
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および
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The
Book
ofGenesis
Genesis. .66thth
York:
Charles
Scribner’s
Sons,
437
およびMethuen
S.R.
R.Driver,
Driver,
29
モリヤと√‫ראה‬の間における発音上の類似を指摘している。
リヤと√‫ראה‬の間における発音上の類似を指摘している。
Mathews,
Mathews,
op.
cit. p.
29
たとえば次の文献がモリヤと の間における発音上の類似を指摘している。Mathews,
たとえば次の文献がモリヤと√‫ראה‬の間における発音上の類似を指摘している。
Mathews,
ed.,
London:
Methuen
。
ed.,
London:
Methuen&&Co,
Co,1907,
1907,p.p.217)
217)
。
obert
bert 29
Alter,
Alter,
Genesis:
Genesis:
Translation
Translation
and
and
Commentary.
Commentary.
New
York:
York:Newand
Genesis:
Translation
andNew
Commentary.
Alter,
York:Commentary.
Norton & Company,
p.
1996,York:
29
op.たとえば次の文献がモリヤと√‫ראה‬の間における発音上の類似を指摘している。
cit.
p. 291および、Robert
291 および、Robert
Alter,
Genesis:
Translation
New
Mathews,
たとえば次の文献がモリヤと√‫ראה‬の間における発音上の類似を指摘している。
Mathews,
cit.
p. 188では 104。また、Towner,
と の間に発音上の類似を指摘している。
op.
op.
cit.
cit.op.
p.
p.
188
188
では√‫ראה‬と√‫ירא‬の間に発
では√‫ראה‬と√‫ירא‬の間に発
6,
, p.
p. 104。また、Towner,
104。また、Towner,
op. cit.and
p.
188
では√‫ראה‬と√‫ירא‬の間に発
Norton
Company,
1996,
p.
104。また、Towner,
op.
cit.
および、Robert
Alter,
Genesis:
Translation
Commentary.
New
op.
cit.p.p.&291
291
および、Robert
Alter,
Genesis:
Translation
and
Commentary.
NewYork:
York:
30
アブラハムの判断では神は「見る/備える」ものであり、使いの判断ではアブラハムは神を「恐れ
る。
る。 Norton
音上の類似を指摘している。
&&Company,
1996,
op.cit.
cit.p.p.188
188では√‫ראה‬と√‫ירא‬の間に発
では√‫ראה‬と√‫ירא‬の間に発
Norton
Company,
1996,p.p.104。また、Towner,
104。また、Towner,op.
op.
cit.
p.
30
る」ものである(Hamilton,
113)
。
は神は「見る/備える」ものであり、使いの判断では「アブラハム
神は「見る/備える」ものであり、使いの判断では「アブラハム
アブラハムの判断では神は「見る/備える」ものであり、使いの判断では「アブラハム
音上の類似を指摘している。
音上の類似を指摘している。
31 op.
水野隆一『アブラハム物語を読む―文芸批評的アプローチ(関西学院大学研究叢書115編)
』、新教出
op.cit.
cit.p.
p.113)
113)
。
。
ある(Hamilton,
ある(Hamilton,
30
30
op. cit. p. 113)。
は神を「恐れる」ものである(Hamilton,
アブラハムの判断では神は「見る/備える」ものであり、使いの判断では「アブラハム
アブラハムの判断では神は「見る/備える」ものであり、使いの判断では「アブラハム
版社、2006年、351-352頁。
31
ム物語を読む―文芸批評的アプローチ(関西学院大学研究叢書
物語を読む―文芸批評的アプローチ(関西学院大学研究叢書
115
115
水野隆一『アブラハム物語を読む―文芸批評的アプローチ(関西学院大学研究叢書
115
op.
。
は神を「恐れる」ものである(Hamilton,
op.cit.
cit.p.p.113)
113)
。
は神を「恐れる」ものである(Hamilton,
32頁。
たとえば次の研究者が、創世記22章をアブラハムの生涯における最も重大な事件だと述べている。S.
年、351-352
年、351-352
頁。
31
31
編)
』
、新教出版社、2006
年、351-352 頁。
水野隆一『アブラハム物語を読む―文芸批評的アプローチ(関西学院大学研究叢書
115
水野隆一『アブラハム物語を読む―文芸批評的アプローチ(関西学院大学研究叢書
115
The
Book
of
Genesis. p. 216や Sarna, op. cit. p. 150。
R.
Driver,
32 22
が、創世記
、創世記
22
章をアブラハムの生涯における最も重大な事件だと
章をアブラハムの生涯における最も重大な事件だと
たとえば次の研究者が、創世記
22 頁。
章をアブラハムの生涯における最も重大な事件だと
編)
』
、新教出版社、2006
年、351-352
編)
』
、新教出版社、2006
年、351-352
頁。
西村俊昭も「この物語の元来の場所がどこであるのか不明」だと指摘している(西村、前掲書、259
The32
Book
Book
of
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Genesis.
p.
p.216
216や
やSarna,
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op.
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cit.
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32
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述べている。S.
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たとえば次の研究者が、創世記
22
章をアブラハムの生涯における最も重大な事件だと
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章をアブラハムの生涯における最も重大な事件だと
頁)。
33
語の元来の場所がどこであるのか不明」だと指摘している(西村、
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西村俊昭も「この物語の元来の場所がどこであるのか不明」だと指摘している(西村、
述べている。S.
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cit.p.p.150。
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述べている。S.
R.Driver,
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B.J.Diebner はモリヤを「おそらくフィクションの名前」だと述べている(Bernd Jørg Diebner, “Art.
34
33
33
前掲書、259
頁)
。
西村俊昭も「この物語の元来の場所がどこであるのか不明」だと指摘している(西村、
西村俊昭も「この物語の元来の場所がどこであるのか不明」だと指摘している(西村、
2010,
533)。
34
を「おそらくフィクションの名前」だと述べている(Bernd
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Jørg
Jørg
B.J.Diebner
はモリヤを「おそらくフィクションの名前」だと述べている(Bernd
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前掲書、259
頁)
。
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。
Moriah,” in: RPP.
35
VIII:
デヴィドソン、前掲書、182頁。
RPP.
2010,
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VIII:
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533)
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。
n:
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34
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“Art.
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in: RPP. 2010, VIII: 533)
B.J.Diebner
はモリヤを「おそらくフィクションの名前」だと述べている(Bernd
Jørg
B.J.Diebner
はモリヤを「おそらくフィクションの名前」だと述べている(Bernd
Jørg
35
書、182
、182Diebner,
頁。
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デヴィドソン、前掲書、182
頁。
。
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RPP.2010,
2010,VIII:
VIII:533)
533)
。
Diebner,
“Art.Moriah,”
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in:RPP.
35
35
デヴィドソン、前掲書、182
デヴィドソン、前掲書、182頁。
頁。
64
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