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兄弟 司祭ダニエル竹内一也
逗子聖ペテロ教会『いわお』 87 号 日本聖公会横浜教区逗子聖ペテロ教会 兄弟 主教 牧師 発行 ローレンス 三鍋裕 牧師 司祭ダニエル竹内一也 〒249-0006 逗子市逗子 6-5-2 Tel/Fax 046-871-2764 http://nskk.org/yokohama/zushi/ 日本聖公会横浜教区逗子ペテロ教会 いわお編集委員会 2014 年 11 月 23 日発行 司祭ダニエル竹内一也 新約聖書の「フィレモンへの手紙」 の中で使徒パウロは、かつてフィレモ ンのもとから逃亡した奴隷で、今はキ リスト者となってパウロのもとにいる オネシモをフィレモンのもとに送るの で「愛する兄弟」として受け入れてほ しいと頼みます。キリスト者は、最初 のときから互いを兄弟として呼び合い ました。共に天の父なる神の子として 互いを認めていたからです。 しかし、兄弟という言葉は決して柔 和な言葉ではありません。旧約聖書は その始まりから、兄弟についての深刻 な状況を語っています。それは、兄弟 あるいは兄弟愛という言葉で私たちが 思い描く柔和なイメージを全く覆すも のです。創世記 4 章のカインとアベル の物語が兄弟愛についての聖書の考察 の基礎にあります。神が二人の兄弟の 献げもののうちアベルのものを選択し たということでカインが怒り、アベル を殺してしまうという結果になります。 カインに落ち度があったわけではなく、 全く同じ条件をもつ二人のうちの片方 のものを神がとられたということでカ インの内面に激しい感情が起こってこ の結果となりました。 ところが、カインに対する神の対応 は、最初からカインを罰するというも のではありませんでした。 「お前の弟ア ベルは、どこにいるのか」。神は先ずこ 1 う尋ねます。カインからの答えは拒絶 とも非難ともとれるものでした。 「知り ません。わたしは弟の番人でしょうか」。 神は再び問いを始めます。 「何というこ とをしたのか。お前の弟の血が土の中 からわたしに向かって叫んでいる」。こ の両者のやりとりは、カインを死に追 いやるような恐ろしい結果には至らず、 カインは地をさすらう者となります。 そして、自分がこの罪のゆえに誰かに 殺されるかもしれないと言ったときに 神はカインと出会う者が彼を撃つこと がないように「しるし」を付けて彼の 命を保証します。このようにして神は ご自身とカインとを結びつけました。 物語をふり返れば、カインが怒ったと きすでに「罪が戸口で待ち伏せて」い る(創世記 4:7)と神が警告していたこ とが思い出されます。 兄弟との関わりに失敗していた者と 共に神がおられるということで一つ大 切な話があります。イサクの息子ヤコ ブは、年老いた父をだまして双子の兄 エサウが受けるべき祝福を奪い取り、 そのために兄に殺されそうになって家 を出て行きます(創世紀 27 章)。しか 逗子聖ペテロ教会『いわお』 87 号 し、長い年月がたって故郷に帰り兄と 和解するときを迎えます。ヤコブは、 兄と再会する前夜、ヤボクの渡しのと ころで家族を先に行かせて独りになり、 夜明けまで天使と格闘します。格闘の あとで天使から祝福を受けて、実は自 分が神と顔を合わせたことを知ります。 そして翌日、兄と再会したときに、兄 はすでに全てを赦してくれていて兄弟 は抱き合って共に泣きました。このと きヤコブはエサウに「兄上のお顔は、 わたしには神の御顔のように見えま す」 (創世記 33:10)と言います。この 言葉、自分が傷つけた兄弟との和解と いう大きな課題をかかえて苦しんだ人 が、実は神が自分と歩みを共にして下 さっていたことを実感した言葉のよう に感じられます。 兄弟という言葉、キリスト者たちの 中では血縁関係を越えた大きな広がり をもっていますが、旧約で語られてい る多くの人間の経験を背景としてとて も厚みのある言葉だと思います。 2