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放蕩息子のささやき

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放蕩息子のささやき
逗子聖ペテロ教会『いわお』68 号
日本聖公会横浜教区逗子聖ペテロ教会
主教
牧師
発行
ローレンス 三鍋裕
司祭イグナシオ 入江修
〒249-0006 逗子市逗子 6-5-2
Tel/Fax 046-871-2764
http://nskk.org/yokohama/zushi/
日本聖公会横浜教区逗子ペテロ教会
いわお編集委員会
2009 年 3 月 22 日発行
放蕩息子のささやき
司祭
イグナシオ
先日、清里を訪ねた。それは、あま
り嬉しくないことのためであった。十
八年前に私が清里に赴任した最初の年
に、聖ヨハネ保育園の年長組にいた一
人の青年の通夜に出席するためだった
からである。
あわてて彼の写真が載っている卒園
アルバムを開いてみると、そこには、
今も変わらぬ保育園の庭で長靴を履い
て微笑んでいる彼の姿があった。彼の
遺影は17年をタイムスリップして、
その面影を残したまま成長した一人の
青年の顔だった。
彼を襲った突然の交通事故、それは、
彼自身は言うまでもなく、ご両親の思
いは如何ばかりであったろうか。
さすがに日帰りで清里までの道のり
を往復するのは後が堪えるが、敢えて
それを私にさせたものは、この出来事
が決して他人事ではないという思いか
らであった。
親を看取るのは、それも悲しい出来
事に違いないとしても、それはどこま
でも自然の成り行きである。しかし、
親
入江修
が自分の産み育てた子どもを看取ると
いうことは、何とも言葉にならない辛
い出来事なのである。
主イエスがしばしば「深く憐れんで」
えぐ
人々を癒された時の、はらわたを抉り
出されるような痛みを感じることとは、
実に、この「他人事でない」というこ
とを言っているのではないかと、ふと
考えさせられた。
人の世で日々起きている悲しい出来
事の一つ一つに対して、それを「他人
事」で済まして通り過ぎてしまうか、
「他人事」では済ますことができず、
そこに立ち止まるか―その違いは決し
て小さくない。
主イエスが行われた癒し、そして「互
いに愛し合え」と言われた教えも、
「他
人事」を「自分の事」として、主ご自
身がそれを背負い込むことから出発し
ている。
「他人事」を自分の事として背負い
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逗子聖ペテロ教会『いわお』68 号
込んでも、私たちの力では、それだけ
で全てが解決するはずもない。しかし、
ここが、関わりを生み出していく分岐
点となる。
他人事を他人事としてすり抜けてし
まうのか、それともそれを自分の事と
して立ち止まるか。主イエスは、そこ
で常に立ち止まられ、その全てを自ら
背負い込まれた。
それがあの十字架であり、そしてイ
エスの死は、その十字架による死を貫
き、私たちを命へと伴っていくのであ
る。
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