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Trotz alledem! : フライリヒラート序説
宮野, 悦義
一橋論叢, 93(1): 39-54
1985-01-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/11266
Right
Hitotsubashi University Repository
↓﹃9N竺&Oヨ一
ーフライリヒラート序説−
高い望楼の上に立つ
^2︺
﹃スペインより﹄︶
宮 野 悦
時が変われぱ鳥も変わる
︵フヲイリヒラート
ークの﹃ある生者の詩﹄は、発行後間もなく一〇〇〇部
^3︶
確認できる。たとえぱ一八四一年に発表されたヘルヴェ
詩人たちである。政治詩の隆盛は数字の上からも容易に
の先導役を勤めたのがヘルヴェークをはじめとする政治
わゆる﹁三月前期﹂の運動に繋がっていくこの時期、そ
フオア’ルツ
たいする幻滅が、広範な反政府気運の高まりを招き、い
主義者﹂フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の無為無策に
ぶにふさわしい一時期を迎えていた。﹁戴冠せる回マン
一八四〇年代初めのドイツはまさに政治詩の季節と呼
島が変われぱ歌も変わる
なんと騒々しい鷲鳥ども
傾向づいてぷくぷくふとり
むやみに党派の尖塔で
しぴ れ た 羽 を ぱ た つ か せ
偏平足でしゃがれ声
大声たててからさわぎ
^←
︵ハイネ﹃アヅタ・トロル﹄初稿︶
詩人は党派の尖塔よりも
棚
Trotz alledem !
( 39 )
一橋論叢 第93巻 第1号 (40)
が売れ、その後版を重ねて二年間に六〇〇〇都、最終的
には一五六〇〇部余が売れたといわれる。二のころ並外
れたベスト・セラーといわれたウiラントの詩集が、一
八一五年から一八三九年にかけて二一〇〇〇部を消化し
たのと比較すれば、この数字がいかに大きいかが分るで
あろう。ヘルヴェークと並ぶ一方の雄、ファラースレー
^4︺
ベンの﹃非政治的詩集﹄という名の政治詩集についても
事情は変わらない。特にその第二部は初版の発行部数か
^5︶
らして四〇〇〇部と記録的なものであった。もちろんそ
こには出版事情の飛躍的な発展という背景もあるのだが、
と同時に政治詩のもつ特殊な効果、これに共感する支持
層広範な民衆の存在が注目されねばならないであろ
、つo
こ.の一般的潮流のな か で 極 め て 特 異 な 軌 跡 を 描 い た 二
人の詩人がいる。そのひとりは、﹁主義主張のみで才能
に欠ける﹂として政治詩人に対して痛烈な罵声を浴びせ
つつも、やがてみずから独自の政治詩の世界を展開した
ハイネ、いまひとりは一八四三年まで孤高の詩的世界を
守りつづけながら、突如として政治の、党派の現実へ降
り立った異色の詩人フライリヒラートである。生まれな
がらにして時代への反逆を運命づけられたハイネの場合
とは異なり、フライリヒラートのこの突然の政治への転
向は、当時のドイツ文挙の世界では特筆に値する事件で
あった。以下小論はフライリヒラートの転換点、その
サ呈ソデ・プソクト
契機となったと老えられる一つの詩を中心に、今はあま
り顧みられることのないこの詩人にささやかな光をあて
てみたい。
フライリヒラートは一九世紀半ぱのドイツでもっとも
愛された詩人のひとりである。一八三八年にコツタ杜か
フオア’ルツ
ら刊行された彼の処女詩集の成功は、一八四四年以降の
﹁三月前期を代表する詩人﹂、﹁ドイツで最初のプロレタ
リアート詩人﹂といった評価の影に隠れがちだが、当時
フオ
としては画期的な出来事であった。今日では一般に﹁三
パ航軌﹂の、時代の社会現象に積極的に関与した詩人た
ちは、おしなべて没個性的に処理され忘却されている。
文学史の主流は、市民社会というよりはむしろ農民的な
郷土の風景に繋がる詩人たち、﹁ビーダマイアー﹂と総
称される詩人たちの孤独な世界である。しかし、フライ
リヒラートを他の群小政治詩人とともに、ドイツ三月革
命劇の書割の一つとして処理することはできない。彼の
ω
初期の詩が当時のドイツ文学に与えたインパクトの強烈
さを老えても、またラディカルな革命詩人に変貌した後
文的な日常の合間。を縫うように英仏の文学作品に親。しむ
が、いつしか詩の翻訳、そして詩作にも手を染めて、早
画されたこの救援活動は、彼が当時を代表する国民的詩
ギリスで苦境にある詩人を祖国に迎え入れようとして企
模でフ ラ イ リ ヒ ラ ー ト 記 念 行 事 が 行 わ れ た 。 亡 命 の 地 イ
されていいはずである。一八六七年には全ドイツ的な規
期のフライリヒラートの代名詞ともいうべき﹁沙漠とラ
リヒラート独特の詩的世界が作られていく。こうして初
頃からの豊かな想像カをいやが上にも刺激して、フライ
黒い肌、異国の地から運ぱれて来る商品等々が、少年の
続くアムステルダム滞在は一つの転機となった。海、船、
くも﹃モーステー﹄のような異色の作品を書いている。
^7︶
人とし て 、 民 衆 の 深 く 敬 愛 す る と こ ろ で あ っ た こ と を 如
イオンの詩人﹂の時代が始まるのである。
のその影響カを考えても、彼の非凡なカ量はもっと注目
実に示している。
︵6︶
フェルディナント・フライリヒラートは一八一〇年デ
マダガスカルの彼方はるか東方に 曙光がさしそめ
壊にまみれ泡を吹き息絶えて 今や乗手の飼食となる
沙漠の果てに麟麟はよろめき かすかに喉をならす
トモルト︵ヴェストファーレン︶に教師の息子として生
^8︺
かくて百獣の王はおのれの領土の果てまで夜毎疾駆す
として勤め、その後二二歳のときにアムステルダムの両
篇の詩が、シャミソー、グスタフ・シニヴァープの主宰
一八三三年、この﹃ライオン騎行﹄をはじめとする数
^9︶ ^聖
替商に勤務した。早くから職業をとおして外国文化に接
する﹃ドイツ年刊詩集﹄に、次いで﹃海に寄す﹄ほか数
^u︺
篇がコッタ社の﹃モルゲンブラヅト﹄紙に掲載されるや、
る
触する機会をもったということが、フライリヒラートの
ときに彼はゾーストで伯父の営む植民地物産店に見習い
で断念し、商人としての道を歩むことになる。一五歳の
まれた。不遇な家庭状況のため彼はギムナジウムを中途
1
生涯に と ウ て 重 大 な 意 味 を も つ 。 ゾ ー ス ト 時 代 、 彼 は 散
〃
Trotz alledem !
( 41 )
一橘諭叢第93巻第1号(42〕
フライリヒラートの名は一躍詩檀の惑星として輝くこと
ユゴーの詩の世界をますます彼自身のうちに取り込む結
になる。﹁この詩人がうたい始めてから、われわれはみ
3︶
な雀にすぎなくなった﹂と大御所シャミソーは評した。
の葛藤に苛まれながらも努カを重ねて、一八三八年、出
その後のフライリヒラートは、市民的職業と詩的情熱
が、そこには新しい世界が、そして後にベヅティーナが
^蔓
いみじくも指摘したように、﹁蒸気船の外輸の性質﹂、つ
個々の詩の基調をなすものはロマンティシズムであった
超えてはぱたくスケールの大きさ、斬新さを示していた。
たフライリヒラートの詩の世界は、後期ロマン派の枠を
には、ミュヅセ、スコヅト、モアなどの英仏の詩の翻訳も
目もあやな色彩、変化に富むリズムで展開される。さら
する異国情緒あふれる作品群をはじめとして、若きフラ
つける。そこには先に述べた﹃ライオン騎行﹄を中心と
版界の名門コツタ社の協カのもと処女詩築の刊行に漕ぎ
果となったのである。
たしかに豊かな色彩とカ感、そしてある種の狂燥を秘め
まり単純な小舟の航行ではない﹁共通の欲求とカ、時代
添えられて、さながら万華鏡を恩わせる大部な﹃詩集﹄
一巻であった。すでに高い名声を得ていた彼のこの処女
イリヒラートの気負いをも感じさせるさまざまな試みが、
の動き﹂が感じられたのである。すでに示唆したように、
彼のこの華々しいデビューの背景として、彼が少年期か
彼の詩作の模範となったのはゲーテやシラーではなく、
スホフ、インマーマン、それに毒舌をもってなるハイネ
ャミソーのみならず、ブレンターノ、ドロステ・ヒユル
詩集は圧倒的な成功を収める。この詩集にたいしてはシ
また後期ロマン派の詩人たちでもなく、実に英仏の詩や
までもが、ゲーテ以後もウとも注目すぺき才能と讃辞を
ら親しんできた外国文学の影響が考慮されねぱならない。
小説であった。特に彼の初期の、世間の注目を集めた
この成功は遂に彼を市民的職業から解放し、詩作と翻
^”︶
惜しまなかったのである。
ゴーの影響を無視しては語れない。彼は早くからユゴー
訳に尊念させた。そして名声と、やがて結婚による家庭
﹁沙漢とヲイオン﹂の詩のかずかずは、ヴィクトル・ユ
の作品に親しみ、詩の翻訳をも手がけていた。そして、
生活の幸にも恵まれて、いつしか彼の詩には変化が生ず
^竺
彼がアムステルダムで肌で憾じた異国の雰囲気は、この
〃
イリヒラート﹄と題する詩一篇を掲げた。そしてまずは
ヘルヴェークは詩集﹃ある生者の詩﹄のなかに﹃フラ
る。﹁沙漢とライオン﹂の狂燥は影をひそめ、美しい郷
^蝸︺
土の自然や伝説の世界が徐々に彼の詩の主題となる。と
﹁千夜一夜﹂的な世界を捨てよとフライリヒラートに呼
きみのオリエントはまたしてもスミレの香り
. . ・ ● ・ ■ ■ ■ ● ● ●
ぴかける。
ころが、彼の恩索が内面に向う兆を示し始めたこの頃、
鰺勃と濠り始めた当時の社会情勢を背景に、予期せざる
展開が彼を待っていた。一八四一年、フライリヒヲート
は重大な転機を迎える。
^〃︶
わたしはいたづらに異郷の地に遊ぷことなく
た。彼らもまたフライリヒラートの揮沌とした詩の世界
星にま っ た く 別 の 角 度 か ら 熱 い 視 線 を 注 ぐ 一 派 が 存 在 し
属する 詩 人 た ち の 絶 讃 に つ い て 触 れ た が 、 他 方 、 こ の 新
功に伴う外部からの圧カであろう。先に後期ロマン派に
揺がすにも似ている。歪みの因の一つは、処女詩築の成
それは徐々に蓄積された地殻の歪みが突如として地表を
らかにする作業は極めて困難であるといわざるをえない。
なるもの、不変なるものを志向すべきであり、あわれで
た愛国的・政治的な詩とは別ものです。詩はまさに永遠
算づくでやっているかぎりものの役にはたちません。ま
ます。有名な人物です。しかし政治詩というものは、計
﹁ところでヘルヴェークはチューリヒで﹁生きて﹂い
には明らかにこれに関する反応が見られる。
く目を通していた。一八四一年九月の友人に宛てた手紙
フライリヒラートはヘルブニークのこの詩集にいち早
この地にとどまり誠実に生きたいと願う
に新たな息吹きを、ベヅティーナのいう﹁時代の動き﹂
けれぱならぬ義理はありません。もっとも私の路駝や黒
惨めな人間生活や国家の呪わしい汚辱や屑とかかわらな
フライリヒラートの急激な方向転換の理由と経過を明
を感じとっていた。そしてひそかにこの沙漢に眠る獅子
人とて、もちろん残念ながら読者を天上の高みに導く永
の覚醒を期待したのである。その代表的な人物こそヘル
ヴェークであった。
43
Trotz alledem !
( 43 )
一橋論叢 第93巻 第1号 (44)
遠にして不変なるものとはまったく無縁ですが。でも、
神様がもう少し自由な空気を下さり、今の苦労をいささ
か柔げて下さるなら、もっと立派な仕事ができると思う
︷”︺
ークはその点を見抜いていた。そして単刀直入に
派﹄と題する詩でフライリヒラートに決断を迫った。
党よ、党よ、だれがそれを必要としないであろうか
あらゆる崇高を生んだこの言葉を!
のです⋮:::Lフライリヒラートはヘルヴェークの呼ぴ
^㎎︺
たようなもどしかしさと相まって、内心の動揺を隠しお
さあ男らしく明らかにしよう、敵か味方か、
かけを一笑に付したのではなかった。激しい反発の姿勢
おせてはいない。次いで三ケ月後、彼もまた詩の形を借
誓言しよう、奴隷か自由か
どうして詩人がこの言葉を駆逐しえよう
りてヘルヴェークに応酬する。しかし、フライリヒラー
神々ですらオリュムポスを降って
すべての勝利の母であった党を!
トの誠実ではあるが冷静さを欠く本性そのままに、いさ
党派の尖塔でたたかったのだ!
を示しながらも、処女詩集以降のある種の壁に突き当っ
さか意識過剰な“作意的な対応であったといわざるをえ
げたあの二行を含む一節を挿入したのである。しかし、
ディエゴ・レオンを英雄と讃える一方、本論の冒頭に掲
題を扱った。そして、この内乱の過程で疑惑の多い人物
インの内乱という当時の彼としては珍しく時代史的な主
たる時の話題となる。その渦の中で、フライリヒラート
びとは﹁高い望楼﹂を支持して、詩と政治の問題が騒然
ていたのである。一方、保守派と目される彼の周囲の人
た。﹃スペインから﹄は彼らに対する挑戦と受けとめられ
この激しい叱暁に当時の反体制派の人々は歓声をあげ
﹃党
詩人の無党派性を標棲するこの巧みな二行は、果たして
は次第に動揺の色を濃くしていく。彼は友人にあてた手
ない。彼は﹃スペインから﹄と題するこの作晶で、スペ
フライリヒラートの信念の吐露であったのか。自らの内
紙のなかで、﹁大胆なあの表現︵﹁高い望楼﹂云々をさす
1筆者注︶を後悔してはいないLとしながらも、次の
面で未だ形をなすことなく沸騰するものに、意識的に非
政治性の刻印を与えたのではなかったろうか。ヘルヴェ
μ
る。時代の車輪を押し止めるのは許されぬということも
ろうか。私はこの時代の風を感じているし理解もしてい
えは時代遅れなのか、いやそれどころか後ろ向きなんだ
﹁ところでマヅツよ、どうか私に教えてくれ。私の考
ように書いている。
まわせよう
だが、だからといって追放されたお前をどうして敵に
私はそれに仕え、その勝利を願っている
それは努カしたたかう−かってないことだ
生活に脈打ち、詩となって燃え上るのを
分っているし、その車輪が前に進むのは自明の理だ。し
﹁おまえは追放された−しかしまだ依然として女王
﹁訣別﹂のうたに、当時のフライリヒラートの心境がう
かし時として狂信的な、あるいは非情なこの革新派の試
^20︺
帆を吹くことなり、といった論法には納得できない。﹂
かがえる。しかし、彼はこのとき、なんの低抗もなくプ
なのだ﹂と﹁ロマン的精神﹂に呼びかけるこの切々たる
ここではもう﹁永遠にして不変なるものを志向する﹂
ロイセン国王の年金三百ターレルを受け取っていた。
みに私はなじめない。詩とはまさにヘルヴェーク流に蜘
立場からの批判ではない。批判の童心は﹁ヘルヴェーク
流の蜘 帆 の 吹 き 方 ﹂ に 移 行 し て い る 。 ひ し ひ し と 迫 る 時
ラートの決定的な転換の目撃者となる。
美しいザンクト・ゴアールの町はほどなくフライリヒ
代の潮流を感じながら、なおも彼は時代と詩の本質との
接点を求めて模索を続ける。その意味で、やがて移り住
ヘルヴェークとの関係はフライリヒラートの年金受領
一方フライリヒラートは、ヘルヴェークのフリードリ
﹃年金生活者のデュエット﹄という辛辣な詩を発表した。
^鴉︶
を機にますますこじれて、危険な方向にエスカレートし
憂︶
て行く。説得工作に失敗したヘルヴェークは硬化し、
んだ美しいザンクト・ゴアールでの作品、﹃ライン河畔
3
の小さな町﹄は象徴的な詩である、
^21︶
この世を支配してい る の は 別 の 精 神 だ 、
お前の王国は終った、隠さずにいおう、
みな感じている、新たな精神が
幼
Trotz alledem !
( 45 )
第1号(46)
第93巻
一橘論叢
ヒ・プィルヘルム四世にあてた公開状、それに続く国王
謁見、そしてその挙句の果ての国外追放という一連の事
多くの政治詩人たちとその周辺の人物の動向を見事に択
リヒラート一人ではなかったが、そのタイミングの間趨
ヘルヴェークの軽率な行動を批判したのはなにもフライ
をはじめとする反体制陣営の強い反擢を招いたのである。
事件に更に追打ちをかける形となったために、マルクス
のこの詩は大きな反響を呼んだ。国外追放という不幸な
クの失敗を痛烈に批判したのである。フライリヒラート
件をとりあげ、﹃手紙﹄という詩を発表してヘルヴェー
高い望楼に立つ﹂という宣言に安堵し、この結論を利用
ていた。したがって彼らは、﹁詩人は党派の尖塔よりも
ライリヒラートがヘルヴェークの箪門に降るのを危倶し
情報提供者のいたことも確認できる。彼らはひとしくフ
ライリヒラートの周辺、おそらくは親しい友人のなかに、
局側は明らかにこの﹁犬物﹂の動向に注目していた。フ
けも、かなり早い段階から監視の対象となっている。当
てきたヘルヴェークのフライリヒラートに対する働きか
え、克明に記録し報告していたのである。これまで扱っ
^26︺
がある。ここでも彼はいささか不用意であったといわざ
して政治詩人に対する攻勢を強めるのである。やがて検
^必︶
るをえない。しかし、もっと重要なことは、この詩を発
閲が強化され、政治詩の主な活動舞台である新聞への弾
^鴉︺
表することでフヲイリ.ヒラートが時代のもっともアクチ
任を負う筋合ではなかった。彼自身こうした弾圧を憂慮
圧、発禁処分が相次ぐ。もちろんフライリヒラートが責
ヴェークの行助を批判することで、彼もまた政治詩の領
ュアルな問題に、積極的に介入したことであろう。ヘル
域に足を踏み入れた。そしてフライリヒヲートの思惑の
していたのである。しかし、たとえぱ﹃ライプツィヒ一
茅︶
般新聞﹄の発禁処分に際して、彼はヘルヴェークの国王
あて公開状がその原因であるとして、非難の鉾先をもっ
^警
ぱらヘルブェークに向けた。それがヘルヴェーク論難の
果となったのである。 .
如何と は 無 関 係 に 、 反 体 制 派 の 自 由 主 義 運 動 に 樟 さ す 結
プロイセンを中心とする政府当局は、当然のことなが
詩﹃手紙﹄の動機であった。フヲイリヒラートにいわせ
れぱ、﹁自由のために﹂ヘルヴェークの所業を攻撃した
^醐︺
ら早くから政治詩の煽動的効果を危険視していた。そし
て網の目のように張りめぐらされた当周側の監視組織は、
46
のである。それはもはや﹁高い望楼に立つ﹂詩人の作品
^お︺
人バーンズの訳詩﹃それでもなお!﹄、﹃人類という樹の
詩は、権威に屈することのない人間、自由、正義といっ
もとで﹄等々、一八四三年の後半に書かれたほとんどの
^琉︺
ある。そして、すでに述べたように、この詩は猛烈な非
た基本的−別の観点からすれぱ抽象的−な理念を主
ではなかった。彼は意に反して一歩踏み出していたので
難を浴びた。ところがその急先鋒であった﹃ライン新
題としている。その意味では彼の当初の意図にそってお
をうかがわせるに十分な作品となっていた。ところが、
り、党派の詩人を拒みとおしたフライリヒヲートの真意
聞﹄にもやがて発行停止の処分が迫る。事態は深刻であ
った。今やフライリヒラートは、彼自身の、また彼の周
囲のこの逼迫した状況に、なんらかの対抗措置をとる必
発行停止処分に反対する請願を支持することであり、い
先ず最初に﹃自由!正義!﹄の﹃ケルン新聞﹄掲載が
しなかった検閲とのたたかいが始まる。
不幸な偶然が重なったこともあって、彼としては予想も
^η︶
ま一つは自身の政治的立場−急進主義には反対だが
検閲の大幅な削除のために不可能となった。﹁不穏な空
要を感じ、二つの動きを示す。一つは﹃ライン新聞﹄の
主義主張において、言葉や行動において﹁決して反動に
気を醸成する傾向﹂が見受けられるというのである。フ
^30︺
組することのない﹂独自の立場−を明らかにすること
^趾︺
申し立てを行うが、続いてバーンズの訳詩がやはり﹃ケ
﹃レンぜの玉座﹄、﹃自由!正義!﹄、スコットランドの詩
つ純粋に把握され表現される場合には完金に真実であり、
﹁この二つの詩がよって立つ根本恩想は、より明確か
った。判決文は次のようなものである。
断は削除を行った担当検閲官の描置を是認するものであ
申し立てがペルリンに送られるが、約一ケ月後の最終判
ルン新聞﹄から送り返されてくる。こうして二通の異議
ライリヒラートは即刻ベルリンの高等検閲裁判所に異議
であウた。かくてフヲイリヒラートは、﹁一連の詩にょ
^祝︶
って自分の世界観を世に問おう﹂と決意する。
念が、彼の予告どおりやがて数点の詩に形象化される。
画したい、とするフライリヒラートのこれまでの基本理
反動に組することなく、しかも急進主義者とは一線を
4
轟︺ ^脚︺
〃
Trotz alledem !
( 47 )
一橋論叢 第93巻 第1号 (48)
る階層の敵対1が、刺激的空言葉で表現されている。
においては誤った自由の理念、第二の詩においては異な
社会的、政治的秩序に対する桃戦的な傾向−第一の詩
ながら当該の詩にあっては歪曲が行われており、既存の
詩の形式で表現され讃美されることもありうる。しかし
ますし、それに最近の議会での決定やその他もろもろに
す。革命は望みませんが、それでも改革が必要だと思い
る事実によって、ますます左翼へと駆り立てられていま
は研究、省察、それに日々われわれの眼前で起こってい
になるかもしれませんが、先日お目にかかって以来、私
だ、と非難した。フライリヒラートはこの結論に激怒し
党派を称揚し、この傾向の信奉者を殉教者扱いするもの
検察側の告訴状は更に強硬で、社会秩序の転覆を企む
とが判明した。L
いつわりのない、明確な態度をとるつもりです。私は桶
ん。私は自分の確信にしたがって、私の誠実さが求める
片棒を担いでしまうのです。私は手を切らねぱなりませ
保守的な無邪気さで結局は野蛮きわまりない絶対主義の
というものは、たとえぱあの善良なガイベルのように、
よって、私には明らかになってきました。つまり、詩人
たが、その幾分かは自らの事態認識の苛さに対する怒り
よってこれらの詩の検閲規則第四条違反は明白であるこ
義︶
でもあったろう。特に﹁人間の品位と人間の権利のため
利﹂を詩的に表現すること自体、言論、出版の自由とい
されたことは大きな打撃であった。﹁基本的な人間の権
く左旋回する。﹁民衆のために民衆とともに自由に時代
^仙︶
のなかに立ちあがろう﹂と転機をうたった﹃おはよう﹄、
この一八四四年一月から二月にかけて、彼の詩は大き
うとも。L
を床にたたき割ります。たとえそこからなにが出てこよ
面︶
う具体的な闘争の目標に直結し、フライリヒラートの拒
﹁ある検閲官の末路﹂という副趨をもつ﹃きちがい病院
の美しい、すぱらしい詩﹂、パーンズの詩の翻訳が抹殺
一響 ・・
否してきた党派的な運動に繋がる、少くとも当局側はそ
にて﹄、同じく検閲制度を攻撃した﹃いつの日か?﹄、シ
ジェンの山間より﹄等、すべてがこの短い期間の作品
^仏︶
ュレージェンの織工の暴動を予告するような﹃シュレー
石︺ ^雀
うした観点でのみ判断するということが、今や彼には明
白となった。
﹁ここで詳しく申し上げるのは手紙の域を越えること
であり、フライリヒラートが﹁高い望楼﹂から降りたこ
とを示す詩である。誠実なフライリヒラートは、ここに
至る経過の一切を世に間うべく、ヘルヴェークを批判し
た﹃スペインから﹄、﹃手紙﹄をも含めて、一つの詩集に
まとめた。一八四四年二月十一日、その詩集の題名は
﹃信念の告白﹄と決められる。彼の言葉どおり、それは
^帖︶
﹁彼の生涯にとって決定的な﹂ものとなった。もちろん、
^価︺
彼の処女詩集を刊行した出版界の名門コヅタ社は、この
^仰︺
第二詩 集 ﹃ 信 念 の 告 白 ﹄ の 刊 行 を 拒 否 し た 。
ランスからの訳詩はない。そのほかにもドイツ人の無カ
︵肌︶
をシェークスビアの主人公になぞらえた﹃ハムレヅト﹄
やスコヅトの詩に題材をえたとされる﹃スコットランド
人のならい﹄があり、詩集第二部のモットーにはヒマン
^兜︶
ズの﹃森の聖堂﹄の一節が掲げられているから、この決
^弱︺
定的な時点で果たした英詩の役割の重要性については十
分に研究の対象となりうる。翻訳としてぱかりではない、
フライリヒラート自身の創作の上にも、それらは少から
ぬ影響を及ぼしていると考えられるからであ一る。﹁沙漠
の影響が強烈だった。しかし第二詩築以後、圧倒的に英
とライオン﹂時代の彼にはフランスの詩、とくにユゴー
詩に傾斜して行く。そして、この一八四四年の時点では
ところが一八四六年の詩集﹃サ・イ9﹄以峰、彼の創作
翻訳が彼の思想に適確な表現を与え創作をリードした、
.薫︺
活動が攻治的な意味で高まりを見せはじめると、翻訳詩
の方は激しい血の騒ぎを鎮静するかのような暖かく優し
ヒラートという詩人の本質を明らかにする鍵があるよう
い作品が選ぱれる。この不思議なバランスに、フライリ
^砧︶
リオヅトの﹃ライブリンの樹﹄がそれで、いずれも人間
に思われてならない。
ここでは再ぴパーンズの詩に戻ろう。フライリヒラー
の最高の宝としての自由を讃え、これを制約するものへ
︵珊︶
なかには、バーンズの詩を含めて、四つの英語からの翻
^柵︺
訳がある。アメリカの詩人ブライア.ントの﹃風﹄、イギ
^仰︺
リスの詩人キャンベルの﹃イギリスからドイツヘ﹄、工
くつ・かの点を指摘しておきたい。詩集﹃信念の告白﹄の
最後 に 、 フ ラ イ リ ヒ ラ ー ト の 政 治 へ の 転 換 の 契 機 と な
ったバーンズの作品﹃それでもなお!﹄に関連して、い
5
の憤りを表現している。処女詩集の場合と異なって、フ
49
Trotz alledem l
( 49 )
第1号 (50)
第93巻
一橘論叢
トは早くからバーンズの詩に愛着を抱き、一八三八年の
処女詩集には十三篇の歌謡の翻訳が含まれている。彼は
哲学的な思想ではなく人間の感情を直裁にうたうバーン
ズに自らと共通する資質を感じとり、また素朴な感情が
素朴杢言葉で表現されていることにも魅せられた。詩の
そのとぎ−いや訪問中ずっとそうだったのだがーす
っかり感動してしまった。そのあとバーンズがよくうた
ったドーン川にそって彼の跡をたどり、彼の生涯に思い
をはせていると、私は必要以上に涙もろくなっていた。
でも、詩人の心に共感できるのはやはり詩人をおいてほ
^帥︶
かにないのだから。L
しかしフライリヒラートの生涯に決定的な影響を及ぼ
したバーンズの詩は、やはりあの﹃それでもなお!﹄で
^躯︺
あろう。スコヅトランドの方言で書かれた原詩の味を、
したパーンズに挙ぷところ多く、それを創作にも反映さ
主題についても、彼はスコヅトランドの土地と民衆を愛
せて、彼の故郷ヴェスト7アーレンの美しい風土をしぱ
^ “ ︺
しぱ登場させている。数は少いが﹃雑草をつんで﹄に代
フライリヒラートの訳詩が果たして十分に生かしている
歌で﹂と書かれたこの詩は、一八四八年三月の革命の挫
の作品に再度登場する。同じ題名をもち、正直に﹁替え
^的︶
ところでこのリフレーンは四年後のフライリヒラート
ら詩集﹃信念の告白﹄中の白眉といえるであろう。
朴で誠実な民衆の姿を理想と讃えるこの詩は、翻訳なが
フレーンを巧みに配しつつ、権威に屈することのない素
るすぐれたカ量を感じさせるものとなっている。このリ
部分は実に見事な効果を発揮していて、彼の翻訳におけ
でもなおー・︵9o旨邑&o昌一︶﹂というカ強いリフレーン
かどうか、筆者には十分には把握しきれないが、﹁それ
表される恋のうたも、明らかにバーンズ的なものを感じ
させる。彼の手紙には幾度となくバーンズの名が登場す
るが、そのなかでは特に、一八五四年にバーンズの生家
を訪れた際の感動的な手紙が印象深い。彼はなお存命中
の詩人の実妹に会い、その黒い瞳に亡きバーンズの相貌
を思い浮かぺて、しぱし感激にふるえたのである。
﹁老女はなおいろいろとロバートのことを話してくれ
た1兄が死んだとき彼女は二四歳であった。バーンズ
はドイツでもよく知られ愛されていることを伝えると、
彼女は嬉しそうな表情を浮かべた。別れに際して彼女は
心をこめて私の手をとった1白状するが私は愚かにも
50
︵5︶曽竃甲ま尋雰一旨胃一ご脅算弓昌奪o竃N實竃.冒。
勺o二募oぽ■済亭o鶉<畠昌腎ド望鼻碍凹斗H竃“ωlN∼oo
折を悼む痛突のうたであり、同時にまた﹁いつまで負け
ていられよう、世界はわれわれのものだ﹂と、苦境のな
の記述にょる。
︵8︶一ト葦雪巨暮..︵曇ω︶
茶にまつわる幻想的な詩である。
︵7︶;竃oo卑霊..︵−o。寄︶アイスランド産の苔から作られた
労働者層を合む広範な支持層を証明している。
によってその性裕、内容は必ずしも一様ではないが、市民、
外をも合めて二五〇以上の集会がもたれており、主催団休
巨U昌房o巨彗p旨旨go目岩o。阜■に詳細な報告がある。国
︵6︶ この行事については、丙o巨胃2o斥o邑蓋一bざす註﹃置o目
かから不死鳥のようにカ強く甦えることを民衆に訴えた
激励のうたでもあった。 ﹁ そ れ で も な お ! ﹂ 、 こ の 二 語 の
もつし た た か な 響 き の な か に 、 ﹃ 信 念 の 告 白 ﹄ 以 後 亡 命
を余儀なくされ、各地を転々とせざるをえなかったフラ
イリヒ一フートの、その苦難の生涯が象徴的に語られてい
る。この二語はまた時代を越えて、さまざまな局隈状況
にある人ぴとをカづけてきた。死の前日のリープクネヒ
︵10︶ :>目註ω胃血宰、︵崖3︶
︵9︶U昌碁ざ峯冨9巴昌與目碧サ晶8
︷60︶
ト、獄中のローザ・ルクセンブルクがこれを引用した。
目胃一句gg一量自︷︸冨昌吹量艘.向巨U一〇巨oユoσo目︷5固ユo歓目.
︵13︶ O・㎏﹃o目叶凹昌o顯目句H価饒荷﹃串け︸HooωPo.u︵−自“婁−尻冒o庁.
H8Nの解説による。
︵12︶ 句冨昌耐量艘蜆ミo鼻oざo︸篶目国葭目P■o昌冒⋮ミ9昌顯﹃
︵11︶ 峯oHo員9巨雷9一〇〇ω少オ■㎞N
そしてまた筆者は先年シュトゥットガルトで、ビーアマ
ンがこの歌をギター片手に歌うのを聞いた。
︵1︶ 甲宙乱罵一峯訂H;自︵Hoo卓一︶の終章から。なおハイ
終稿では引用した部分の三行目以下を大幅に変更し、ヘル
ネは、ヘルヴェークの国外追放という運命に同憎して、最
︵14︶ 一八三六年にはユゴーの独訳全築のうちの一部を担当
N田箒・■﹄弓Hoooooo.ωo.−一ω一ωs︶
響されたと考えられる。肉膏叶聖o巨實一句貫2墨目o睾o旨o目・
したほどである。彼はなかでも=Oユo鼻巴畠、︵−ooミ︶に影
するフライリヒラートの﹃手紙﹄との違いに注目したい。
ヴ晶ークヘの個人攻撃の印象を薄める措置をとった。後述
︵3︶ O・回胃奏o宵一〇&一〇算oo巨o蜆冒訂邑耐昌︵富合︶
監餉ぎぎ参照。
、胆艘註Gσ婁9S・1黒﹃一巨崖OO.髪冨冨O目き価宕Nα雪干
︵2︶句・軍警。・量彗:ぎ二〇邑9、︵曇H︶
︵4︶>﹄・ま饒§昌く昌墨一婁雲葦冒電一豪豪幕−
○胃︵Hoo全︶
〃
Trotz alledem !
( 51 )
橋諭叢 第93巻 第1号 (52)
︵∬︶ξ書・;。二.娑毒冨・言ら、、=樹、顯︸岨≦。、汗。.
■ム 、 江 o q 一 〇 〇 や ■ ﹄ ー ポ ω ・ O × − ︶ ︹
︵16︶ これらの詩は後に﹃束のあいだ﹄という表題でまとめ
られる。︵N多葦二畠Ω胃冨向ぎξ邑$。重O︶・
︵η︶=寒凄・き:︵重一︶罵;魯眈葦、至昌o、。;。二。自・
︸o﹃=冒−■ooN耐−峯δ目−ω口﹄津o目顯﹃戸一〇〇〇−−・H籟=ω・ooo
︵18︶ >自■2一=ωo巨o匡轟−o。阜roなお、書簡は宍與、一団一.。旨.
自o﹃の前掲書による。
︵19︶ :Uポ勺目鼻色.>自︸o﹃臼=四自ρ勺﹃o≡oq、嘗叶9、︵Hoo杜−︶=。、.
妻O晒ブ叩4く^⋮﹃斤耐H・一﹁O=一ω・一N一
︵20︶ >自O‘]≦芭富o﹃串け才’−oo革“u・H
︵刎︶ :向−コ﹃−oo汀o目饅﹃目内す9目、 ︵−oo阜N︶
︵22︶ ﹃党派﹄に続きヘルヴェークは手紙を送って、切々と
フライリヒラートに翻意を訴えている。
︵23︶も蔓;呂雰邑昌庁、冨、一、︵重ω︶フライリヒラート
とガイベル︵向昌昌竃一09冨一︶の二人の年金受領詩人を槍
︵卿︶ =向﹂目︸ユo−、 ︵一〇〇阜ω︶
玉にあげている。
︵25︶ ハイネにも﹃謁見﹄という詩がある。
︵26︶麦冨ζ呂︵穿。司・︶﹄一。喜ぎ訂墨、五、ま。、葦。﹄
︸忌.宍0=巨6ミ参照。
︵η︶ ■乱o㌧o目価﹃>=o司o目19■耐No岸自目σq
︵28︶ >コ肉葭ユ討自o−■實Hoo阜ω・一・一阜およぴ=−>邑。、、■岸。.
量ユ色きΩ血董昌g﹃一︸訂望.ガω・H8−N
︵29︶ 葭1>29前掲書ω・N昌
︵㎝︶ >自 −︵1缶口o−一冒o﹃ −oo阜ω・ω・N
︵30︶ぎ声勺−Ω・g毒重ω・N・No
︵33︶ =−U①﹃丙9己oq津自す−一U9肉ゴo目岨o、 ︵Hoo阜ω︶
︵32︶ =>29前掲書ω.N昌
︵“︶ oポ句Hムブ9亡匹顯m丙血oサニ、 ︵Hoo阜ω︶
︵託︶:ぎ署邑畠蕃一邑プ而琴與曇一葦匡津、凹、、里暮耐、
︵∬︶ぎ一二自昏目;き宛。冒;・、、一蜆=︵曇い︶
︵η︶ ﹃レンゼの玉座﹄の第六節で彼は中世の王ヴェンツェ
︵−。。む︶
ルにこう呼ぴかける。
怠惰なヴェンツェルよ、われわれはもう
お前を懐しんだりはしない−.
別に楽しいとは恩っていない
玉座にふんぞりかえるなんて
このヴェンツェルという名が﹃ケルン新聞﹄担当検閲官と
︵38︶声雷﹄昌邑一ξσ旨目。量而、算自、・く。目旦。、区嘗蜆.
同姓だったのである。
述による。目Pゲω・↑OO餉
蜆ぎ巨昌墨;一二膏o。。司①⋮葦.冨景星竃二§の記
︵39︶ぎ婁二昏9冨・曇♪H・ω
︵41︶ =O巨冨自]≦o﹃o日o目..︵一〇〇ム全︶
︵40︶ >目ピOく−目ωO巨口O斥−目OiHOO企戸N・ω
︵42︶=;H毒ま萎、︵曇卓︶
鵬
︵俗︶=詳⋮一、︵一。・喜
︵肪︶ ﹃サ・イラ!﹄と同じ一八四六年、彼は﹃近代英詩奥﹄
を刊行する。このなかには政治的、社会的な作品はほとん
︵茄︶ =き一9≠鼻真..︵Ho.S︶のちに彼の妻となる女性イー
ど含まれていない。
︵44︶シ冨監冒邑医邑昌O邑曇、︵曇︷︶シニージ
ュンの織工の暴動はこの詩の五ヶ月後に起こっている。同
リヒラートのパラード風のこの作品にもすてがたい味があ
↓曇=嘉宣、目里彗片⋮α邑&π⋮一
一一﹃oFN顯二血旦o自] 目昌α里=o匹o−自一
く﹃與o目一.9 印旨自N自蜆o−自 け﹃〇一N凹目oμo目二
Ω葦巨巨o昌匡。・昌内目巴昌き昌島
宙oσ□−oo−q山o㎝竈=’ 一﹃o庁N葭=oo①−自−
oσ>﹃昌鼻雲胃■畠眈9
H庁o−自串目、蜆匡−o的o≦o ︷σ﹃芭.け︸凹“一
;二彗=二暮匡旨。口巨罵顯、餉旨昌軍
○膏叶o二餉〇一︺眈o自H9顯目︷凹.叶−9⋮
︸o﹃芭.艘呉彗o臼.艘罫
ミo箒胃冨君o二〇﹃葭、亭豊
掌二暑嘗.創蜆雲9姜勺婁巨昌ξ
↓臣叶す彗o目眈巨餉5算竃o顯,庄斗∼
尿艘竃二畠ぎ篶g渇くo﹃g
紹介する。
第一節の原文、フライリヒラートの訳文と、犬意とを次に
︵㎎︶ 二司o﹃>、H茅け豊o>、H冨一、︵く違︶なお参考のため
︵卵︶ >自 −︿與−.−昂﹁−o−一目o﹃ 一〇〇㎞卓一N一NN
ダ・メロスに捧げられた拝情的な佳品。
じテーマでハイネが時事詩の秀作を残しているが、フライ
るo
︵蝸︶ >目宍固﹃−b自o旨目0H−oo卓阜.N一H一
︵45︶里■9彗σ昌蜆σoぎ⋮巨蜆易宝
︵η︶ マインッの書店<奉oHくgN彗げo;が同年八月に刊
行した。二〇ボーゲン以上となるため予備検閲を免れるこ
とができたが、フライリヒラートは危険を感じて発行後ま
︵48︶=U庁書目﹂ρ看9α竃>罵﹃一ζ鶉﹃⋮⋮即ヨ9胃昌
もなくペルギーに亡命した。
零旨g.、︵冨お︶
︵49︶二穿。・一彗o弩黒募肇竃P老竃箒ぎ冨叩9ξ匡一.:
︵−。。‡︶
︵50︶:o呂霊⋮邑雪を量.髪。ヴ厚竃§⋮貝ρ彗
宍o・轟婁冒昌g琴.、︵畠主︶
︵肋︶ 二−巨﹃斥o目目けo−oω⋮けけo毛oす−oo﹃ωo=〇一叶o自、
︵引︶:5巨g、︵曇企︶
︵“︶ O葭一量一︵一〇。さ︶六篇の鮮烈な政治詩が含まれる。﹃下
︵兜︶墨巨印罵昌婁=星叩美農麸屠ε昌:︵曇卓︶
から上へ﹄、﹃氷の宮殿﹄等、詩の世界に初めてプロレタリ
ァートを登場させたことが注目される。
53
Trotz alledem
( 53 )
一橘論叢第93巻第1号(54)
︵5 9 ︶
U呂宛顯目o目尿一α霊oo勺鼻oqo目冒・
○雪旨閂目冒o麸oo5貫o冨巴−ω︷o昌一
︵たとえ貧乏が定めでも
頭を上げよ、それでもなお!
卑屈な奴隷は放っておけ
それでもそれでもなお
あえて貧乏であれ、それでもなお!
卑しい仕事にもそれでも屈するな
身分なんぞは鍍金にすぎぬ
人間こそが地金なんだ、それでもなお1︶
=↓冒訂凹自&o目一く宵一①鼻、.︵崖お﹃現代政治社会詩集
︵髪喬冨宅;8ぎ冒o蜆o・邑血o耐昌o罧o⋮崖幸−8一︶に
︵60︶ 日胃鼻向轟〇一昌彗ヨ⇒oS顯=&o昌・−︺害厨oぎズ邑一斥巴o
収録されている。
HミN∼岩ミ一峯口目o巨o5呂NNによる。
︵菊池先生には昭和二六年の小平の英謡授業以来いろいろと
御指導いただいた。一年のときのテキスト、ゴールズワー
ジーの﹃林檎の木﹄は今もなお懐しく思い出される。お礼
の心をこめて﹁フライリヒラートと英詩﹂というー大そ
端を紹介するだけの中途半端なものになった。深くお詫ぴ
れた−テーマを予定していたのだが、力およぱすその一
したい。︶
︵一橘犬学教授︶
秘
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