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DP2_01 - 東日本大震災復興リーダー会議

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DP2_01 - 東日本大震災復興リーダー会議
復興リーダー会議
2期
●
第
復興を担うリーダーに
求められること
西垣 克
公立大学法人宮城大学学長
慶應義塾大学グローバルセキュリティ研究所
Discussion Paper
No.1
2013年5月
この Discussion Paper は、所内で行なわれた復興リーダー会議における講
演速記から起こしたもので、講演者の書き下ろしではなく、所属機関の公式
見解を示すものではない。
復興リーダー会議 第 2 期
Di s c u s s i o n P a p e r N o . 1
2013年5月
復興を担うリーダーに求められること
西垣 克
復興を担うリーダーに求められること
西垣 克
公立大学法人宮城大学学長
地球最大規模の出来事
2011 年 4 月から宮城大学に赴任することになっていた私は、3 月 10 日には仙台で前任
者からの仕事の引き継ぎや家探しなどを終えて、その日の最終列車で浜松に帰った。いま
にして思えば、その前日の 9 日の地震を甘く考えていたことが悔やまれる。まさかあの
地震が連動するとは夢にも思わなかったからである。
翌 11 日、浜松にある前任校でメールや電話でのやりとりをしていた午後 2 時 46 分に
大きな揺れを感じた。最初は東南海地震が起きたと思った。インターネットで調べ、震源
地が仙台の真横であることがわかった。急遽、宮城県知事に電話し、何とか仙台まで行き、
それ以降、大学のスタッフとともに、大学での研究対応も含めて、震災復興にかかわって
きた。
私の専門は、国際保健学・地域医療・病院管理で、主に途上国の医療支援や社会保障シ
ステムの立ち上げなどに携わってきた。その関係で、世界各地でさまざまなトラブルに遭
遇している。アフリカのサハラ砂漠の南のナイジェリアでは 2 回クーデターに遭遇し、南
米のペルーの日本大使館が爆破される直前に現地にいた。大学院生を連れて行ったネパー
ルでも暴動に遭遇した。さらには、日露医学医療交流財団の発起人だった関係で、旧ソ連
邦が崩壊したときに、緊急人道支援で現地に赴いている。
その意味では、私は日本人の中では豊富なトラブル経験を持っているほうだが、今回の
東日本大震災で宮城を含む東北地域で起きたことは、まさに地球最大規模の出来事だった
と感じている。
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」というビスマルクの有名な言葉があるが、
われわれは愚者なのか、それとも賢者なのか――それを考えることが本日のメインテーマ
である。
現在、宮城大学は、文部科学省の予算で、南三陸町の廃校になった小学校にサテライト
1
キャンパスを置いて復興ステーション事業を行なっている。
写真①は、地震発生 46 分後の南三陸町の様子で、津波の波頭が見えていることがわか
るが、それから 20 分後には、写真②にみるように集落が飲み込まれてしまった。
まさに「あっという間の出来事」だったが、当時は、のんびり構えていた人が多かった。
特にお年寄りが逃げなかったことが一番の大きな問題だった。写真②に写っている建物の
ほとんどすべてが破壊され流されて、写真中央のビルの屋上に駆け登った人々がかろうじ
て助かった。
写真①
写真③は、震災直後の南三陸
写真②
写真③
町の風景である。私たちが被災
後の南三陸町に入った時もこの
ような状況だった。
南三陸町には、豊かな自然や
歴史という「貴重な財産」がある。
水産業や農林業をはじめ、私た
ちの暮らしや生業は、常にこの
自然の恵みを授かりながら営ま
れてきた。町の中央を流れる志
津川を挟んで、志津川と歌津と
いう二つの地域が統合して南三
表1
陸町になった。
実は、明治以降この地域は 3
回(1896 年明治三陸津波、1933
年の昭和三陸津波、1960 年のチ
リ地震津波)の大津波に襲われ
て甚大な被害を受けている(表
1)。私は地震学者ではないが、
2
復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
少なくともある種の周期性をもって津波に襲われていることは確かであるように思われる。
再び風化しつつある津波の記憶
それなのに、津波の歴史は忘れられた。
平成 23 年 3 月 11 日午後 2 時 46 分に東北地方太平洋沖地震が起きた。すべての人が忘
れていたことが生じた。地震後に発生した 15m を超える大津波により、海岸沿いの市街地、
集落、漁業施設、農地、基盤施設等が壊滅的被害を受けたのである。
南三陸町の住民のくどうまゆみさんが『つなみのえほん――ぼくのふるさと』という絵
本を刊行した。くどうさんの息子の「ぼく」が買物の帰りに津波に遭い、幸いなことにお
ばあちゃんと「ぼく」の家族も高台の神社に逃げて助かったという物語だ。津波の記憶を
後世に残すためのプロジェクトで、宮城大学も協力して出版した。
写真④は震災後 2 カ月たった平成 23 年
5 月の南三陸町の様子である。時間の経過
写真④
とともに、瓦礫の山はものの見事に片づけ
られたことがわかる。これは重要なことを
意味している。
瓦礫があったときは、もちろん悲しみや
喪失感も大きかったが、
「自分の家があそ
こにあった」という会話が成り立った。と
ころが町一面がきれいに片付いて、原野の
ような状態で、家の基礎にあたる石だけが
残り、道も家も判別がつかなくなっている。
ある意味では被災者である地元の人たちの
記憶が物理的になくなってきている。絵本
の出版は、津波記憶の風化を阻止するための一つの作業である。
宮城大学の取り組み
宮城大学では、震災直後(3 月 16 日現在)に、安否確認が取れていない学生が 100 人
を超えていた。東北全体でどのくらいの数の学生が失われたのか、まったく想像ができな
かった。ひょっとしたら、日本の高等教育史上類を見ない大事件が起こったのかもしれな
いと思った。
その 6 日後に警察から問い合わせの連絡があり、25 日に一人の学生の死亡が確認され
た。31 日までに残りすべての学生と連絡を取ることができ、結果的には今回の震災で犠
牲になったのは、順調にいけば来春卒業するはずだった看護学部の 3 年生 1 人だった。
復興を担うリーダーに求められること
3
彼女は、春休みで石巻の実家に戻り、震災当日は母親と祖母と 3 人で過ごしていた。実
家は水際からほど近い新興住宅地の一角にあり、津波で家ごと破壊され、水にのみこまれ
てしまった。石巻のホテルに勤めていた父親は、翌日帰宅して、すべてが津波に流されて
しまったことを知った。
遺体が確認できたのは彼女だけで、母親と祖母は依然として行方不明のままである。
私は無性に腹立たしかった。何でこのようなことが起きたのかという怒りだった。そし
て、これ以上、一人の犠牲も出したくはない、一人の犠牲者も出さない大学にするという
決意を固めた。
一人の犠牲者のために何ができるかを考えた。石やコンクリートで鎮魂碑を作る気には
ならなかった。いろいろ考えた末に、河津桜に彼女の命を繋ぎ、思いを込めることにした。
河津桜は伊豆大島の大島桜とソメイヨシノが自然交雑してできた淡いピンク色の早咲きの
桜で、東京の桜(ソメイヨシノ)よりもひと月以上も前に満開になる。
前任校の静岡県立大学の現学長と東海大学の学長から 33 本の河津桜の寄贈を受け、6
月 23 日に、メインキャンパスの学生交流棟の前で植樹式が行なわれた。彼女の思いが千
年桜になって、わがキャンパスを見守ってほしいと思っている。
被災者の憂い
震災後、被災した東北の各地で「復興支援の商店街」ができて大きな話題になった。し
かし、復興商店街のほとんどは、いわゆる不法建築で、復興支援のために期間を限定して
特別に商店街として認められたものである。したがって、一定期間が経過した後は移動す
るというのが国の見解であり、その撤去費用は市町村の負担とされている。例えば、気仙
沼市議会では、今年度の予算で約 1000 万円の「復興商店街移転経費」が計上されている。
この復興商店街を巡って、最近、あるメディアの取材番組のなかで、
「東京的目線」と
現場の意識の違いが明確にされた場面があった。メディアはネタを求めて取材する。一方、
東北人はまじめな人が多いので、本当は復興していないにもかかわらず、これまでは復興
している振りをする。
番組で取材記者がある年配者に「いかがですか」と質問した。記者はおそらく、
「だい
ぶ復興も軌道に乗ってきて、商店街もできて、私たちは嬉しい」という模範答案を期待し
ていたようだった。ところが、その年配者は、ぼそっと次のように言った。
「私たちは、いつまであなたがたから、被災地の人々、被災者と言われ続けるのでしょ
うか。
」
被災の現場には、被災者の振りをしたり、嘆き悲しんでいる振りをしたりしている人が
少なからずいる。震災の記憶が風化されつつあるといわれているが、現地ではいま、メデ
ィアがいう「東京的な風化」とはまったく次元の違う深刻な「風化」が進行している。
4
復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
南三陸町防災センターの記憶
写真⑤は被災した南三陸町防災センター(防災対策庁舎)である。
この防災センターは、高さがわずか 10 メートルしかない。写真⑥は、防災センターの
屋上に津波が押し寄せ、防災センターの屋上と海面の高さが同じになった瞬間である。津
波は最大で 39 メートルに達していた。江戸時代の記録でも高さ 17 メートルを超える津
波が襲っていることがわかっている。まさに歴史から学んでいない典型である。
「防災センター」だから安全だろうと思って逃げ込んだ人とともに、南三陸町の職員 36
名が亡くなった。この建物を、国の補助金をつけて「防災センター」という名目で建設し
た責任は重い。
写真⑤
写真⑥
また、いまは撤去されてしまったが、この建物の右側に献花台が設けられ、全国から寄
せられた花が置かれていた。某旅行会社が南三陸バスツアーを企画し、多くの人が献花台
の前で手を合わせていたこともあった。問題はそのあとの行動で、V サインで記念写真を
撮る人や、階段を駆け登って写真を撮っている人の姿もあったという。まさに傍若無人の
振舞で、それを見ていた地元の人たちが居たたまれない気持になったことは容易に想像が
つく。
親や子を亡くした建物を毎日見るのはつらいという気持も痛いほどわかる。しかし一方
で、建物の痕跡すらなくして更地にしてしまうのもいかがなものかと、内心思っている人
も少なくない。津波の記憶をどのように残していくべきなのかが、いま被災地に共通する
悩みである。
南三陸町防災センターは、町議会での議論の末、取り壊しが決定した。しかし、住民の
側から残すべきだという議論も出ているので、最終決定は今夏の町長選挙まで持ち越しに
なるだろうと言われている。
なお、先ほど紹介した宮城大学の河津桜の手前の、宮城大学前のバス停からメインキャ
ンパスに向かう通路に、美術家の高山登氏(元東京藝術大学教授)のインスタレーション
復興を担うリーダーに求められること
5
「遊殺」を展示している(写真
写真⑦
⑦)
。私の古くからの友人であ
る高山氏は枕木を使った作品
を数多く残しているが、
「遊殺」
は東京藝大の退官記念作品で
ある。
私には、この作品の手前に
並べられた枕木は津波に見え
る し、 一 番 奥 の 積 み 重 ね ら
れた枕木が南三陸町防災セン
ターに見える。学生たちには、
河津桜とこの作品(
「遊殺」
)を見て、被災地にある宮城大学だということを忘れないよう
に、そして亡くなった人たちの分まで背負って勉強するようにとハッパをかけている。
女川中学の試み
宮城県女川町も津波で壊滅的な被害を受けた。
地方銀行の支店では、津波に呑みこまれて 4 人が死亡、支店長ら 8 人が行方不明とな
った。現在、犠牲になった従業員 3 人の遺族が同行に約 2 億 3500 万円の損害賠償を求め
て仙台地裁で争われている。世情風評で理解するところでは、地震直後、津波が来ること
はわかっていたが、銀行を無人にするわけにはいかないので、支店長(あるいは支店長代
理)の指示で、従業員 13 人は高台ではなく 3 階建ての支店屋上に避難した。しかし、ビ
ルは倒壊し、津波にのまれて犠牲になった。
被災時には、ちょっとした判断の誤りで悲劇が起きる。平時にデスクワークでプランニ
ングしても、実際には命は救えないということである。
女川原子力発電所(原発)は運よく被災を免れた。津波があと 20 センチ高かったら、
福島第一原発と同じことが起こっていたかもしれない。
いま、女川町の中学生たちが、未来の女川を語るアーカイブの編纂活動を行なっている。
先日 NHK でも報道されたが、1000 年後の日本人や地球上の人々の命を守るために、女
子中学生たちが記録を溜めているのである。目の前の出来事を悲しんでいるだけではなく、
1000 年先の人類の知恵になるようなことをしようという提案で、まさに尊敬に値する活
動である。
いのちの安全保障
私は今回の震災を契機に、
「防災」とは結局のところ「医療福祉制度」であると考える
6
復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
ようになった。要するに、医療サービスを受けることが医療システムではなく、日常の生
存が保障されなければ医療はないということである。
インドで生まれ、ケンブリッジ大学で学び、1998 年にノーベル経済学賞を受賞した経
済学者アマルティア・センは、人間の安全保障という言葉を使っている。これは通常、
「自
助」と言われている。また、社会の安全保障は「共助」であり、国家の安全保障が「公助」
と言われる。
しかし、それだけでは足りない。今回の震災の経験から言える最も重要なことは、
「いの
ちの安全保障」に出発点を置くような政策を構築することである。自助・共助・公助のシ
ステムを形而上学的に作っても、人間が作った制度である限り必ず隘路はあるからである。
女川中学校の中学生の活動に見られるように、子どもたちのほうが賢い。先の大戦後
でも、子どもの立ち直りのほうが早かった。現在は、あの時代に比べてひ弱な子ども多く、
したがって震災後の子どもの心のケアがやはり必要だと言われるが、それ以前に、日本は
果たしてまともな教育を行なっているかどうか思い起こしていただきたい。子どもの勉強
の手伝いをすることが子どものケアに役立っていると考えるのは、単なる大人のうぬぼれ
に過ぎない。
「釜石小学校の奇跡」と「大川小学校の悲劇」
震災当時、岩手県釜石市の釜石小学校では、全校児童 184 人は春休みで自宅にいた。
津波が襲ってきたとき、学校の防災教育で教えられていたことを自己判断して、家にいた
祖母の手を引っ張りながら山に逃げて、全員が助かった。
「釜石小学校の奇跡」といわれ
ている。
一方、宮城県石巻市の大川小学校では、
「八甲田の悲劇」と同じことが起きてしまっ
た。当事者がかなり亡くなっているので実態はいまだにはっきりしないが、全校児童 108
人のうち 84 人と、教職員 13 人のうち 10 人が亡くなった。まさに、
「大川小学校の悲劇」
である。
全校生徒を集めて教員たちは、大川小学校のある場所から海側の湾沿いの道の方向に逃
げるように指示したという。学校よりも低い場所で、橋を渡って市街地に向かって逃げれ
ば助かるという致命的なミスジャッジメントをしてしまったのである。
大川小学校の校舎の後ろには裏山がある。津波が来たら一刻も早く高い場所に逃げなさ
いという祖母から聞いた話を思い出して、教師の指示に背いて、自らの判断で裏山に逃げ
た子どもたちは助かっている。
これはまさに教訓で、教師や行政・政府など、賢いと思い込んでいる人たちの言うこと
に従うと命が危ない。自己判断をする能力を、一人でも多く国民に教育していくというこ
とが最も重要である。この教訓を生かしていくという意味で、先ほど紹介した女川中学校
の生徒たちの試みは心強い。
復興を担うリーダーに求められること
7
復興支援活動のイロハ
生き残ったわれわれは、この災害にどのように立ち向かっていったのか。
震災後に宮城大学としてまず行なったことは、先ほど紹介した「学生の安否確認」だっ
た。大学としては最も重要なことであり、それに全力を尽くし、3 月 31 日に全員の安否
確認が終わった。
どのような災害においても同じことだが、被災当日から 2 ∼ 3 日はトリアージ(負傷者
の分類)と救命を行なわなくてはならない。その後、約 2 週間経つと、仮設住宅や緊急避
難所の体育館など自宅以外の場所での生活がセミ日常化してくる。そこで、震災から約
10 日後には、看護学部の学生にボランティアで被災現場に行ってもらうことにした。
ここで忘れてほしくないことは、日本のボランティアや NPO はあまりにも無謀だとい
うことである。例えば、アフリカでボランティアに参加する人は必ず破傷風と狂犬病の予
防接種を打っていかなければならない。日本は安全だといわれるが、破傷風菌が潜在して
いる地域がまだある。今回は 3 月初旬で雪が降り、幸い感染症が起こりにくい条件にあ
った。
それでも何か未知の寄生虫や、
少しの怪我からでも起こる感染症の危険は残っていた。
また、震災の現場では、何が落ちてくるかわからないので、工場現場と同じような労働
衛生法に基づく安全靴を履いていかなければならない。危険物に触っても切れないような
ケブラー繊維を使った手袋も必要である。インフルエンザや空気中の浮遊物への対策とし
て、N95 型とは言わないが、目につく埃くらいは篩えるようなマスクは持っていくべき
である。
震災直後には、車から漁船まであらゆるものが散乱していた。有毒ガスが出てくる可能
性があるし、有毒物質がどこに散らばっているかわからない。そもそも、そういう初期段
階には、基本的には一般の人は現場に近づけてはいけないというのが国際社会における大
原則である。
要するに、助けに行きたいという善意だけのボランティアは、現場で危険極まりない
状況に置かれるということである。今回の震災で感染症や二次災害が起こらなかったのは、
幸運だったというしかない。
看護学部の学生たちは、通常の実習に出る前に B 型肝炎などの予防接種をしている。
震災の現場には、生活雑貨も含めて毒物や劇薬が混在しているので、私は学長として、学
生の身の安全を最優先で考えたことは言うまでもない。
学生のボランティア活動
宮城大学では、学生だけで被災現場に行くことを禁止し、必ず教員と職員が付いて、全
体の調整を行なうとともに、トラブルや二次災害が起こったときの対応を考えながらボラ
ンティア活動を行なった。写真⑧は、看護学部の学生が地域看護の教授とともに多賀城市
8
復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
の仮設住宅を一軒一軒回って、居住者たちに必要なものな
写真⑧
どをヒヤリングしている様子である。
また、今回は文部科学省が早々に、ボランティア活動を
した学生たちへの単位認定を認めてくれた。そこで、宮城
大学では、ボランティア活動のレポート等の提出を条件に、
ボランティア活動を行なった学生にカリキュラム上の単位
を与えた。
さらに、ボランティア活動でバーンアウトしてしまう学
生や、直面しているリアリティの大きさで自らの無力感を
痛切に感じてしまう学生もいる。とりわけ、頭でっかちで
形而上学な思考の強い学生は、思ったようにいかない現実
に直面したり、それまで見たこともなかったような人の死体が目の前に現れてくると心の
整理がつかなくなってしまう。実際、震災ボランティア活動のあと 3 名の自殺者を出し
た大学もあった。そこで宮城大学では、ボランティア活動後の学生のカウンセリングを慎
重に行ない、アフターケアとメンタルケアに努めた。
海外の大学による「震災プロジェクト」
実は、南三陸町に押し寄せる津波の映像へのアクセス数が YouTube も含めて 2011 年の
ナンバーワンだったこともあって、世界中からさまざまオファーがきた。宮城大学では米
ハーバード大学と MIT(マサチューセッツ工科大学)の研究者や学生を受け入れて、一緒
に復旧作業を行なっている。
彼らは、自らの大学で総長あてに「震災プロジェクト」を申請して、その予算を使って
来日している。そこで、本音のところでは現場を何とか復旧したいという思いをわれわれ
と共有しているが、同時に、来年度の予算を確保するために、常にアウトプットを考えて
仕事をしている。例えば、2011 年 4 月にわれわれと一緒に作業を始めたチームは、12 月
には報告書と DVD を完成させている。来年の予算をとるために総長に提出する資料だと
いうことだった。
われわれ日本人もこれを学ぶべきである。海外で仕事をするときには、ヒューマニティ
があって当然だが、それと同時に、ビジネスをしているという認識を持たなければならな
いということである。NPO も含めて、社会的な資金集めのときに困るのは、それだけの
訴求力がないからである。社会的な活動は認めるけれども、それがどのくらい社会的なイ
ンパクトを与え、社会的にどのくらいの費用が助かったのかを証明することが求められる。
なお、ハーバード・チームも MIT チームも、アメリカ人のほかアジア人やヨーロッパ
人が加わった、いわば混成旅団である。
復興を担うリーダーに求められること
9
番屋の再生と表札プロジェクト
宮城大学事業構想学部では、ある企業から材木の提供を受けて、南三陸町の港に番屋を
建設した(写真⑨)
。番屋とは、昔の沿岸漁師が作業をする小屋で、いわば漁師たちのた
まり場である。
写真⑨
南三陸町の漁師たちは厳しい現実に直面している。陸
地の瓦礫処理は進んでいるが、海のなかは、震災直後の
ままだからである。海の上の、目につく場所だけは片づ
けて、生簀などを復活させている。しかし、太平洋の広
いエリアは瓦礫が散乱したままで、海に何があるかはほ
とんどわかっていない。
最近の調査でも、海底の砂を掻き分けると油が出てく
ることがわかっている。あれだけ重油が流出し、自動車
が津波でさらわれているので当然と言うべきかもしれな
い。
国は防潮堤をつくると言っているが、地震で 1 メート
ルも地盤沈下していて、海底の地形が変わっているので、従前の図面がまったく使えない
状況である。しかも、その調査を行なうにふさわしい環境にはまだない。
本当の復興はまだ先のことであり、いま目の前にある片づいた状態をみて、ある程度復
興が進んでいるというのはまったくの錯覚である。
さらに、収容所のようだとも言われ、子どもたちの勉強するスペースもない劣悪な環境
の仮設住宅では、どこにだれが住んでいるかもわからない状況にある。そこで、笹かまぼ
こで有名な阿部蒲鉾店に協力していただき、蒲鉾板にいろいろなコーティングを施してつ
くられた表札を、各戸に無償で配布している(写真⑩)
。
写真⑩
(村井嘉浩・宮城県知事)
10
復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
なお、宮城大学における復興支援活動の詳細については、『東日本大震災宮城大学 500
日の記録』を参照していただきたい。
人々の命をどう守っていくか
話は少し飛ぶが、日本とアメリカが戦った太平洋戦争で、マニラの攻防戦の第一ラウン
ドは日本軍が勝利した。当時の海軍提督ニミッツは、マニラから撤退するときに、部下の
兵士たちに向かって、
「たとえ日本軍に捕まったとしても、絶対死んではいけない。われ
われはいったん戦略的に撤退するが、必ず戻ってきて助ける」と言ったという。ゼロ戦の
ライバル機であったグラマンは半年で 1 機できるが、優秀なパイロットを養成するには
最低でも 3 年間はかかるからである。
それに対して日本軍は、ガダルカナルも含めて、ひたすら突撃を指示し、ゼロ戦の優秀
なパイロットをはじめとして日本兵を死に追いやってしまった。
私たちが考えなければいけないのは、人々の命をどうやって守っていくかである。
今回の震災でも、250 人を超える自衛消防団員の命が失われた。周知のように、日本の
消防体制は、行政消防と地域に依存した自衛消防団で形成されている。そのうちの自衛消
防団員が、海岸近くで一人暮らしの老人を助けるために向かい、5 ∼ 6 人の消防団員が津
波にのみこまれてしまうということが起きた。
平時なら美談になるようなケースだが、緊急事態のときには尊い命が失われてしまう。
患者を守るというミッションのために、多くの医者や看護師も命を落としてしまった。あ
えて誤解を恐れずに言えば、津波のあとに役に立つスキルをもった人をいかに数多く救う
かということを考えるべきであり、それが次の復興の礎なのである。
しかも、この自衛消防団員の悲劇は、旧日本陸軍と同じ指揮系統の乱れと情報伝達の欠
如から起きている。指揮官の命令がまったく伝わらず、情報伝達の手段であるトランシー
バーも持っていかなかった。自衛消防団員は、防潮堤をロックするとか、一人住まいの高
齢者を助けるとか、目の前にある業務だけしか頭に入っていなかった。状況判断のまずさ
と間違った決断によって、スキルドパーソンの命を失うことになってしまったのである。
状況に応じてわが身を守るという訓練がまったくなされていないこと、これは日本文化
の最大の汚点だと思う。
復興は可能か?
復興は可能だろうか。結論から言えば、被災地は元に戻ることはできず、復興は厳しい
というのが現実である。
例えば、震災前の南三陸町の人口は 1 万 7666 人で、平成 19
(2007)年の総合計画での
推計値(1 万 7994 人)よりも減少していた。それが、今回の震災で 1 万 5665 人に減少し、
復興を担うリーダーに求められること
11
平成 25(2013)年 6 月現在で 1 万 4928 人となっている。図 1 を見れば明らかなように、
南三陸町は、仮に今回の大震災がなかったとしても、確実に人口が減っていくゾーンだっ
た。南三陸町は「限界集落」であり、津波がそれに追い討ちをかけただけだったのである。
図 1 の人口見通しでは、平成 28 年の高台移転時の人口は 1 万 4500 人となっているが、
このままの趨勢で行くと約 1 万 3000 人に減少している可能性がある。そうだとすれば、
誰が高台に移転するのだろうかという疑問がわいてくる。
図 1 人口の見通し
平成 33 年の目標人口を 14,555 人
いったい何のために、莫大な税金を使って高台移転をするのか。移転先の高台を掘ると
縄文遺跡が数多く出土する。高台移転とは、早い話が、縄文時代に戻っただけことである。
もともと縄文人は津波を避けるために高台に住んでいた。それが古代人の知恵だったので
ある。
また、南三陸町では、湾の入り口付近の土地を 8 メートル嵩上げし、防潮堤をさらに高
くする工事を行なうという。それに要する国費は 380 億円に達する。いまの日本で、人
口減少が激しい地域を守るために、それだけの予算を使う必要が果たしてあるだろうか。
もちろん復興庁も、人口が国の基準を満たさない場合には土地の嵩上げは行なわないと
している。しかし、これは国による「二重の罪悪」である。現場の町長は、人々が戻って
きたら土地の嵩上げが行なわれ防潮堤もできるという夢を実現しようと頑張っている。し
かし、現実には、
「キツネとタヌキとシカを入れても足りない」ということになり、結局
は嵩上げも防潮堤も国はやらないということになるだろう。
被災地に吹く二つの風
現在、
「被災地の風化」という風が強烈に吹いている。
12
復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
震災支援という名のもとに、売れ残りの菓子が送られてくる。復興支援コンサートが行
なわれれば、嫌々でもみんなで歌を聞きに行く。マスコミはそれを取材して、
「おばあち
ゃん、どうですか」と聞き、
「いやあ、ありがとうございます。全国から助けていただいて、
元気をいただきました」と答えなければならない。
売れない歌手は、
「被災地のおばあちゃんを慰めに来たんだけど、私のほうが元気をも
らいました」と平然と言い放つ。そういう似非ヒューマニティが堂々と横行して、風化と
いう風が吹いている。
なぜこのようなことが起きるのかといえば、一つには ICT の驚異的な発展がある。
1995 年の阪神・淡路大震災の時には、私は論文の締切直前で東大に 1 週間泊まり込みを
していたので、大地震が起きたこともまったく知らなかった。夕方に論文提出が終わって、
ホッとしていたときに電話が入って、テレビをつけて震災を知った。
その時に比べると、今回の場合、震災のリアリティがまったく違っていた。いろいろな
人々が、いろいろな道具を使って、いろいろな資料を集めて、それをまんべんなく流して
いる。あれだけさまざまな情報を「これでもか、これでもか」と知らされると、逆に「真
実」が遠くなってしまう。つまり、情報化は「脳の風化」に繋がるのである。
もう一つの風は、
「被災地産物の風評」という風である。これはとりわけ、福島第一原
子力発電所事故による放射能汚染の影響が大きい。
南三陸町でも、津波ですべて流されてしまった筏を復旧してワカメの養殖を再開してい
る。「南三陸町のワカメ」として東京駅でも売られているが、
震災前ほど売れることはない。
元の仕入れ業者はすでに他のワカメ生産者と契約をしてしまっているからである。
「地域」とは何だろう
ここでもう一度、人間が生きていくうえでの「地域」とはどうあるべきなのかというこ
とを考えてみる必要がある。
ジェイン・ジェイコブズは、
『発展する地域・衰退する地域』
(中村達也訳、ちくま学芸
文庫)という本を書いている。サブタイトルは「地域が自立するための経済学」で、興味
深い内容の書物である。
「コミュニティ」という言葉もよく使われる。日本語では「共同体」と訳されてきたが、
コミュニティの定義は社会学者の数だけあると言われている。
「無縁社会」という言葉があるように、いまわれわれの社会は社会基盤そのものが壊れ
ているという認識から出発しなければならない。東日本大震災が起きたからという問題で
はなく、日本が壊れているという認識である。その意味で、もう一度新たに、いまの日本
人の生き方としてコミュニティをどう考えるかということを、世界に発信していくことが
必要である。
例えば、アメリカのアリゾナ州にあるサン・シティという町は、
「年寄りの、年寄りによる、
復興を担うリーダーに求められること
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年寄りだけの町」としてつくられている。同じような町を日本につくるということではな
く、震災復興の教訓として、そういう可能性まで含めて、地域のありようを考えるべきだ
ということである。
冷静に考えると、被災した町がすべて復興されたわけではない。長い歴史を見ると、カ
ルタゴやトロイをはじめとして、滅んでしまった都市は数多くある。そうだとすれば、無
理をして復興させる必要もないのかもしれない。時がたって、もう一回チャンスが回って
くるまで、しばらくの間その土地を塩漬けにしておいてもいいのではないか。日本で空地
になっている土地は、他にもある。そういうこともクールに考えていくべきだと思う。
一つの極端な例を紹介したい。旧ソ連時代には、各地域の住民は居住地域から 60 キロ
以上離れるときには KGB(ソ連国家保安委員会)の許可が必要だった。そのためモスク
ワ住民にとっては 60 キロ圏がすべての世界であり、シベリアはまったくの異国の世界だ
った。まさに情報が閉鎖されている社会だったが、当時、クラスノヤルスクの大学から
北極圏の方向に約 30 キロの岩盤の地下に秘密都市があったことがわかっている。
「クラ
スノヤルスク 26」というコードネームの都市で、ここで核弾頭と核ミサイルを作ってい
た。技術者の家族も含めて約 12 万人が生活していたが、
彼らには戸籍も住民票もなかった。
ソ連崩壊後、その都市は消滅した。
復興応援コンサート
「まちづくり」や「地域おこし」は可能だろうか。果たして、シャッター通りの解消は
できるのか、生活価値観が多様化するなかで、住民主体の協働に必要な課題は何か。地域
のコンセンサスと行政基本条例の調整が必要になるが、何よりも重要なことは、オピニオ
ンリーダーの育成である。
「まちづくり」より「人づくり」であり、人づくりができないかぎり、まちづくりはで
きない。その意味では、日本人が戦後以来の自らの生き方を変え、社会の仕組みを根底か
ら変えるという決心をしないと、震災復興はできない。
そこで参考になるのが、宮城大学管弦楽団が地域住民に呼び掛けて実現した「復興応援
コンサート」である。宮城大学管弦楽団の常任指揮者は、宮城教育大学名誉教授で宮城大
学特任教授の渡部勝彦氏で、震災の年(2011 年)に、大学キャンパスのある泉区で、住民
主役の「第九(ベートーベン作曲交響曲第 9 番)の演奏会」を行なおうということになり、
7 月から町内を回り、自治会長に声をかけてまわった。
当初の予測では、50 人ほど集まれば、ということだったが、蓋を開けてみると、驚く
べきことに合唱団が 300 人集まった。そして、9 月から週 2 日のペースで練習して、12
月にはドイツ語で第九の発表会を行なった。写真⑪は、一昨年(平成 23 年)のコンサート
の模様で、合唱団は「杜の合唱団」という独立組織に成長している。
われわれは大学というフィールドを使いながら、地域の住民の交流を図っている。老人
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復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
写真⑪
大学もその一例だが、地域の住民と大
学という機能がうまく日常的にかみ合
ったなかで、次のステージを作り出し
ていくことが何よりも重要で、
「防災」
という幟だけではうまくいかないと思
っている。
また、南三陸町の住民の人たちと定
期的にミーティングを行なっているが、
「これからの復旧・復興に必要なこと」
として彼らがあげたことは、
「ユニバ
ーサルデザインに基づく安心・安全な
まちづくり」であり、
「住民の意識改
革と地域コミュニティの復旧」だった。
リーダーに求められる資質
画家ポール・ゴーギャンの畢生の大作『われわれはどこから来たのか、われわれは何者
か、われわれはどこへ行くのか』という絵のタイトルは、
「生物体としてのヒトとは何か」
そして「いのちとは何か」という問いに対する、ゴーギャンの最後のメッセージである。
古代ローマのストア派の哲学者で、ローマ皇帝ネロの師として知られるセネカは、「生
きることの最大の障害は、期待を持つということであるが、それは明日に依存して今日を
失うことである」
(
『人生の短さついて』
)という言葉を残している。
あらゆることをグローバルという文脈で考えなければならない時代において、そしてか
くも短い人生において、私たちはゴーギャンのメッセージを真摯に受け止めなければいけ
ないと思う。そして、そういう時代におけるリーダーに求められる資質は、ビジョンとミ
ッション、パッション(情熱)とストロングウィル(強い意志)である。
地域防災の新たなパラダイム
ここで、次のステージの地域防災の新たなパラダイムとして、
「国防病院船の創設」
と
「志
願者によるふるさと保全隊の編成」を提案したい。
海外で仕事を行なっている人々の間では、ある国で政変や大災害が起きた時、その国
の約 1 割が隣接国家に逃げるという、
「難民の法則」がよく知られている。仮に、日本の
近隣で最もリスクが高い朝鮮半島での有事の際には、朝鮮半島(韓国 5000 万人、北朝鮮
2500 万人)から人口の 1 割(= 750 万人)が中国とロシアあるいは日本に逃げてくること
になる。
復興を担うリーダーに求められること
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仮に、その 3 分の 1(250 万人)の人々が日本海を渡ってくるとすると、日本海側の都
市は小中学校の校舎を全部使って難民を受け入れなければならなくなり、ほとんど都市機
能の停止に陥ってしまう可能性がある。そこで、大挙して難民が来るのをとりあえず水際
で止める部隊として、
「国防病院船」の創設を提案している。
米軍は現在、一艘の本船のベッド数が 1000 床の病院船を 3 艘(陸軍、海軍、海兵隊が
各 1 艘ずつ)保有している。そして、米軍が上陸作戦を展開するときには、病院船が必ず
フォローすることになっている。例えば、1991 年の「砂漠の嵐作戦」のときには、3 艘
の病院船が地中海と紅海に出動している。
もちろん日本は戦争に加担する必要はないが、海洋 200 海里時代の備えとして、太平
洋側と日本海側に 2 編隊の病院船を置く必要がある。編隊は、1000 床規模(東大病院や
慶應大学病院規模)の本船と、装備補給船、燃料補給船、通信船、強襲上陸船で構成され、
建造費は 1 編隊当たり約 1000 億円と見込まれる。また、太平洋側の母港は仙台に、日本
海側の母港は新潟か舞鶴にそれぞれ置くことを提案している。
「志願者によるふるさと保全隊」は、スペシャリティのスキルを持っている人(例えば
元警官、元消防士)で構成され、緊急時や大規模災害のときに活躍してもらう部隊である。
今回の東日本大震災の時にも明らかになったことだが、素人の心意気もありがたいことだ
が、被災地に行って力を発揮できるのは特殊なスキルを持った人たちだからである。
それと同時に、われわれ日本人が考えなくてはならないのは、
「防災」ではなく「減災」
を勝ち取るような日本の国土をどのように作っていくかことである。東南海地震や南海地
震が起きると、
今回の震災で東北が被った被害では済まないことはわかっている。東南海・
南海地震にどう備えるか。それを考えることは行政も含めて国家的な使命である。
最後に、東日本大震災の被災地で生活する一人として、全国の方々の掌の温かさが伝わ
るような震災復興を、地域社会の生きるすべての人々に提供していただければ大変ありが
たい、ということをお伝えしたい。
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復興リーダー会議 第 2 期 Discussion Paper No. 1
復興リーダー会議 第2期
Discussion Paper No.1
発行日= 2013 年 7 月 1 日
発行人=田村次朗
発行所=慶應義塾大学グローバルセキュリティ研究所
〒 108-8345 東京都港区三田 2-15-45
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