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「 I」に 関 す る 幾 つ か の 出 来 事
三村真喜子
1
1、
藤沢トモヤは繁華な通りを避けるように路地裏を歩き、一
軒のバーの扉を押し開けた。時刻は午前0時を少しまわった
ところだったが、店内は適度に混みあっており、カウンター
の中では背の高いマスターが忙しげに立ち働いていた。
藤沢トモヤはわずかにひるんだが、見知った顔ぶれを認め
るとすぐにほっとしたかのようにすんなりと椅子に腰かけた。
壁にはアル・パチーノとジーン・ハックマンの写真。煙草の
煙と喧噪でぼやけて壁に同化している。
「おつかれ」
マスターがコースターと灰皿を藤沢トモヤの前に置いた。
「なんか、今日忙しいっすね」
藤沢トモヤは店内に視線を走らせながら言った。
「 い や 、そ ん な で も な い よ 。終 電 過 ぎ た ら 誰 も い な く な る よ 」
「ふーん?
あ、とりあえずビールください」
とはいっても平日の割には混んでいるなと藤沢トモヤは思
った。自分がバイトしている居酒屋も、今日はやけに忙しか
った。まるで争うかのように次々と客が入り、食い散らかし
て行った。グラスを運び、無限に続くかに思われる皿洗いを
やりながら、明日地球が滅びるわけでもないのにどうして今
日という日に人が集中してやってくるんだろうかと舌打ちで
もしたい気持ちになった。おかげでひどく疲れた。
目の前に置かれたビールのピルスナーに口をつけると、魂
が漏れ出てしまいそうな溜息がこぼれた。
藤沢トモヤが煙草に火をつけると、さっきから談笑してい
た数人の顔見知り達が、
「おつかれー」
と、それぞれのグラスを軽く掲げた。藤沢トモヤもそれに
応えながら、
「なんか珍しいですね、こんな時間に会うなんて」
「トモヤ、知ってる?
もう聞いた?」
「なにが?」
「Iのこと」
そう尋ねたのは、この店でしょっちゅう顔を合わせるスパ
イラルパーマの女だった。よく喋り、よく飲み、明るくて社
2
交 的 。だ が 、口 が 大 き く て 笑 い 声 が で か い 。藤 沢 ト モ ヤ は 前 々
から、この女はきっとベッドでも声がでかいんだろうなあと
思っていた。あんなでかい口とキスしたら噛みつかれてるよ
うな気分になるんじゃなかろうか、と。
もちろん想像にすぎないしそんな態度は微塵も見せないが、
ようするに心の中で悪態をつくのも藤沢トモヤがこの女に少
なからず関心を持っているという証明だった。
「Iが、なに?」
煙を吐きながら女の方を見やった。すると女の隣に座って
いたこれもしょっちゅう顔を合わせる、太った体に仕立ての
良いスーツを着た男が俄かに声を潜めて言った。
「死んだんだって」
「えっ」
あまりに唐突な言葉に藤沢トモヤは思わず大きな声を出し
てしまった。
「いつ?
え?
なんで?」
ピルスナーの中では絶えず細かい泡がたちのぼり、消えて
いく。BGMが途切れ、一瞬の静寂の後マスターが音楽をか
けかえた。
途端、冷水を浴びせられたように、衝撃をぶちやぶるよう
にシェリル・クロウの奥歯を噛みしめるような歌声が流れだ
した。藤沢トモヤはどうにか心を鎮めようと深く息を吸い込
んだ。
スーツの男のそのまた隣には眼鏡をかけた学生風の若い男
が座っていて、やはり顔見知りの彼も陰鬱な面持ちでこちら
を見ていた。
「僕もこの前聞いたんですよ」
「そんなん全然知らないよ。つか、この前会ったばっかだし
……」
藤沢トモヤは抗議するように言った。すでに喉の奥に飴玉
を誤飲したような苦しさがあり、鼻の奥が痛かった。
Iはいつも静かに微笑んでいる、決して人の悪口だとか悪
態をつくことのない男だった。その人柄の良さは周囲の者を
和ませる力があり、だから誰からも好かれていた。けれど、
積極的な社交性があるような性質ではないから、いつも一人
3
でグラスを傾けていた。そんな静かな男だった。
その姿は藤沢トモヤとは対極にあった。藤沢トモヤは明る
く社交的だが、口が悪く生意気で、自分がちょっとばかり整
った容貌をしているのを承知している分だけその魅力を乱用
し、夜と女の間を渡り歩くのが常だった。彼を知る者はその
軽薄さを憎むか、あるいはその単純な欲望と朗らかな若さを
笑って許した。
そんな二人がたまたま同じ店で飲んで、隣り合わせること
で親しくなっていったことは一つの奇跡と言えたかもしれな
い。でなければ二人が出会って親しくなる可能性など他にこ
の世のどこにもないのだから。
俯き、黙り込んでしまった藤沢トモヤに女がそっと声をか
けた。
「大丈夫?」
しかし、藤沢トモヤは女の顔を見ることができなかった。
その代り、スーツの男に向かって訊ねた。
「なんで死んだんですか」
我ながら自分のものとは思えないほど声はかすれ、震えて
いた。
「事故だってさ」
「……車で?」
「いや、バイクだって聞いたけど」
「……」
「君ら、仲良かったんだろ」
藤沢トモヤはその言葉に曖昧に頷いた。
果たして自分たちは仲が良かったのだろうか。傍目にはそ
うだったかもしれないが、そもそもいつだって偶然にバーで
隣り合わせるだけで、所謂「友達」のように映画を見に行く
だとか、約束してどこかへ遊びに出掛けるだとかはしたこと
がなかった。ただそこにいるから言葉を交わすだけ。一期一
会といえばずいぶん美しいし、行きずりといえばそれまでだ
ったように思う。
しかし、それではまるで心を許さなかったかというと、そ
うではない。少なくとも彼は藤沢トモヤに心を許していた。
事実、藤沢トモヤは酔っぱらった彼の口から仕事の悩みや恋
4
愛の相談を聞いていた。藤沢トモヤならば例えどんなに泥酔
しようとも誰にも話すことのないような内容を。
あれが信頼なら、恐らくそうなのだろう。藤沢トモヤはそ
れについてなんの感慨も持たなかったことを後悔した。
「バイク乗るなんて知らなかった……」
「意外だよね」
女もしんみりと呟いた。
「I、バイクの話しなんて全然してなかったじゃない?」
「うん、どっちかっていうと、バイクより自転車ってイメー
ジだった」
「ああ、そうね。そんな感じよね。自転車、似合うよね」
すると学生メガネが口をはさんだ。
「事故のこと、新聞に出てたらしいですよ」
藤沢トモヤは、あの地味で控え目でいつもひっそり微笑ん
でいるような男が新聞にその名を載せる快挙が死亡記事であ
ることに耐えがたい寂寥を覚えた。
勢 い 、ビ ー ル を 飲 み 干 す と マ ス タ ー に ウ ィ ス キ ー を 頼 ん だ 。
彼の好きな酒だった。
「最後に会ったの、いつだった?」
「いつだったかな……」
藤沢トモヤはグラスに口をつけながら、明瞭な答えを避け
た。それは覚えていないのではなく、最後に会った時彼の口
から出る話題の七割が目の前の女のことだったから、そのこ
とがせつなくて言葉が見つからなかった。
そう、彼はこの店によく出入りしている口の大きなスパイ
ラルパーマの彼女に恋をしていた。おとなしい性質だった彼
はどうのようにして恋を打ち明ければいいのかいつも思案し
ていた。そして、それを知っていたのは藤沢トモヤだけだっ
た。
藤沢トモヤは彼と違って軽薄な女関係の持ち主だったので
素朴な疑問や悩みを聞くには決して適任ではなかったのだが、
だからこそなのか、彼は藤沢トモヤの経験に頼るようにして
質問を浴びせるのが常だった。
どうやって女をデートに誘うか。メールはどのぐらいの頻
度ですればいいか。電話はしてもいいだろうか。思春期の高
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校生のような質問に藤沢トモヤは半ば呆れもしたが、彼が真
面目な分だけ目の前で笑うことはできなかった。
「そんなめんどくさいこと考えなくても、好きなら好きって
言えばてっとりばやいのに」
そんな軽口をたたく以外に言えることはなかった。
恐らく藤沢トモヤは正しかっただろう。いい年をして恋愛
の手段のなに一つも持たないのは想像力の欠如。彼はそんな
質問によって他人から嘲弄されても仕方ないぐらいだ。が、
藤沢トモヤは彼の話しを珍しく真面目に聞いた。
彼の話は眩しかった。藤沢トモヤは恋愛の概念そのものを
理解しかね、恋愛というものは体でするものだと思っていた
し、実際、具体的に女というものを体でしか感じたことがな
かった。有体にいえば、セックスだけが女を知る唯一の手段
だった。だから恋する男の他愛もない相談は藤沢トモヤにあ
る種の衝撃を与えた。想いを伝えるなんてことそのものが、
初めて聞く外国の言語のように感じられた。藤沢トモヤは本
人さえも与り知らないところで、彼が羨ましかったのかもし
れない。
藤沢トモヤも馬鹿ではないのだが、自分の内部に生じる感
傷を深く考察したことはなかった。故に、彼にとって胸の痛
みやせつなさはそのまま体調不良でしかなかったし、欲情と
肉体の交接が彼の恋愛のすべてだった。
それも無理からぬことで、藤沢トモヤは早くから女たちに
愛されて、自ら望まずともよかったし、あまたの女たちが彼
を欲した。そして彼もまた若い男の健全さで欲望を満たせれ
ばそれでよかった。それを悪いとも思わなかった。そうやっ
て成長した今、藤沢トモヤは致命的なまでに情緒の欠如した
男になっていた。
藤沢トモヤは恋愛というものが分らないからこそ、彼の恋
の行方に密かに関心を寄せていた。
「大丈夫?」
あまり黙り込んでいるのを心配した女が、そっと藤沢トモ
ヤの顔を覗き込んだ。藤沢トモヤは我に返り、
「びっくりして……」
と、言い訳のように小声で呟いた。
6
こちらを見つめている女の睫毛がおそろしく長く、力強く
孤を描いている。彼はこの女の頬に影を落とすような睫毛や
肉感的な唇に焦がれたのだろうか。そして、あのもどかしい
片思いの果てにはやはり粘膜の交感も望みのうちに含まれて
いたのだろうか。
藤沢トモヤはふと唇の端に笑いを漏らした。
ならば、あの男はどうやって女と寝ればいいのかも自分に
相談しただろうか。それならいくらでも教えてやれたのに。
これまでに経験した数々の性行為を酒の肴に、面白おかしく
話して笑いあうことができたのに。車検のように女の体を検
分し、裏返したり、持ち上げたりして、最後はスローイン、
ファーストアウトだと言ってやれたのに。どうしてそんなこ
とを聞いてくれなかったのだろう。肉体のことであればいく
らでも言葉を尽くしてやれたのに。そんな機会も待たずこの
世から消えさるなんて。藤沢トモヤは漏らした薄笑いの分だ
け、胸が詰まった。
「そうだよね」
女が優しく頷いた。
人の死はいつでも突然だ。その後には喪失の悲しみと後悔
があるだけ。藤沢トモヤは一息に酒を飲み干した。
「 最 後 に 会 っ た 時 、い ろ い ろ 話 し て 楽 し か っ た ん す よ 。い や 、
もちろんいつも楽しかったけど」
口にすると、途端にその夜のことが鮮明に思い出された。
特 別 な こ と は な に も な い 。そ れ は い つ も と 同 じ よ う に 始 ま り 、
いつも通りに終わったに過ぎなかった。
最後に会ったのは、いつもの店でたまたま出くわし一緒に
飲んだ後、腹が減ったといって深夜営業の中華料理屋へ行っ
た時だった。
二人は向いあって座り、ビールを注文した。藤沢トモヤが
懐かしいラベルのついた瓶から小さなグラスに酌をした。
「うまいな」
「なにがっすか?」
「ビール注ぐのが」
「ああ、これね」
ビールはグラスの中で細かな泡を盛り上げており、液体と
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のバランスもよかった。
「コツがあるんすよ。こうやって、グラスの底の中心を狙っ
て、細く、ある程度は勢いよく注ぐ……。そしたら自然に中
心から泡が螺旋を描きながら湧きあがってくる……、で、様
子を見ながら調整してやる……」
藤沢トモヤは言いながら自分のグラスに手酌で注いで見せ
た。彼は関心したように嘆声を洩らした。
グラスに満たされたビールからは絶えず静かに泡が立ちの
ぼり、弾けていた。一瞬、二人はその平和な、完璧な調和に
見とれた。そこにはなにものをも寄せ付けない厳粛な空気が
あった。
が、それもほんの数秒。二人はすぐにグラスをかちりと打
ち鳴らし、ぐいと呷った。
「なに食います?」
藤沢トモヤはメニューを開いた。周囲には水商売の勤めを
終えた女たちが煙草を片手に皿の中身をいたずらに箸でこね
くりまわしていた。
「トモヤ、酢豚にパイナップル入ってるの許せるタイプ?」
「いや、無理っす」
「俺も」
「理屈はわかるんですけどね」
「なに、理屈って」
「肉が柔らかくなるんでしょ」
「あ、そういうことか」
「なんだと思ってたんですか」
「なんていうんかな……、酢豚にパイナップルっていうのは
さ 、な ん か 、唐 突 だ ろ ?
とってつけたみたいじゃないか?」
「はあ」
「その不自然さが、やだ」
「やだって……」
「中華にパイナップルって!
中国四千年の歴史のどこにパ
イナップルが!」
「はあ」
「そういうのが、不自然なんだよ」
「とりあえず酢豚頼みましょう」
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藤沢トモヤは片手をあげて店員を呼んだ。
二人の会話はいつもこんな調子で始まるので、藤沢トモヤ
は な ん の 違 和 感 も 覚 え ず 、彼 も ま た な に を 期 待 す る で も な く 、
淡々とした調子で店員に餃子や春巻きを注文した。
その日、藤沢トモヤはいくぶん疲れていた。前夜、コンパ
の頭数を揃えるために呼び出され、なまじ興味もなかっただ
けに仲間からその中で一番ブスな女の相手を押しつけられ、
席替えするも常にブスの右か左に座らされた。
しかし女が本当にブスだったかというとそうではない。美
醜というものは主観的なものだ。藤沢トモヤは単純な外見だ
けで女を選別することはしない。というより、藤沢トモヤに
とって女はどれも穴があいていれば皆同じなのだ。だから、
ブスといったのは彼の好みではなかったという意味ではない。
ブスはその他の女たちと同じように黒々としたアイライン
を引き、マスカラをこてこてに塗って、安い香水とシャンプ
ー の 入 り 混 じ っ た 匂 い を さ せ 、メ ン ソ ー ル 煙 草 を 吸 っ て い た 。
ぴったりしたジーンズに包まれた脚や腰が、細さの分だけ無
機質で色気はまるで感じられなかった。その女の話し方、笑
い 方 、食 べ 方 、動 作 の す べ て 。ど ん な に 表 向 き 取 り 繕 っ て も 、
清潔さはまるで感じられなくて、藤沢トモヤは根性の悪そう
な女だと思った。
藤沢トモヤはコンパごときで高尚な話題など求めていない
が、どの女も同じ語彙で、同じような話をするのに飽き飽き
していた。ブランドネームのついた鞄の話しと、他人の噂と
悪口と、愚痴。
いったいそういう中でどうやって女の美点を見出せばいい
のか、藤沢トモヤには分らなかった。となると、彼がその中
から女を選ぶ時、真実として信じられるのは穴ひとつしかな
かった。そして、穴があったらその穴を埋めたいと思うのが
本能だと思った。
なんで自分はここで美味くもない酒を飲んで、女に気を使
いながら一生懸命気持ちを引き立てているのだろう。どうせ
誰のことも好きにならないというのに。
そう考えた時、藤沢トモヤの脳裏には恋する男のことが浮
かんだ。面倒でくだらない悩みだと思ったけれど、悩める分
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だけすごいと思った。
藤沢トモヤは今、目の前で餃子を食べている男をじっと見
つめた。
「なに見てんの?
どうかした?」
「や、なんでもないっす」
「トモヤさあ」
「はい」
「前の話しなんだけどさあ」
「前?」
「好きなら好きって言えばいいって、そりゃあ単純なことか
もしれないけどさ」
「ああ、その話」
「でも、もし、相手に彼氏とかいたらどうすんの?」
「え、彼氏いたんですか」
「分んないけど」
「なんだ、分かんないこと考えても始まらないじゃないです
か。つか、聞けばいいのに」
「聞いて、いるって分かったらショックだろ?」
「もー、それじゃあどうしたいんですか」
「彼氏いたら言えない」
「そんなん関係ないっすよ」
「ええ?
そうかあ?」
藤沢トモヤはビールの追加を注文すると、彼のグラスを満
たしてやった。
好きな女に恋人がいるかどうかも知らないで、この人は他
に女のなにを知っているんだろうか。藤沢トモヤは男の片思
いを妄想でできた思い込みのように感じ、しかしなぜか微笑
ましくて小さく笑った。
酢豚がテーブルに運ばれてきた。甘酢のいい匂いが鼻先を
くすぐる。
「パイナップル、入ってますね」
「許せんな」
「あの人のどこが好きなんすか?」
「ん?」
「あの人のこと、実はなんも知らないんじゃ……」
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「ダメか?」
「え?」
「なにを知ってれば、知ってることになるんだよ」
「……」
「彼氏がいるかどうか、とか?」
「まあ、情報としてはそれも必要かと……」
「人を好きになるのは一瞬のことだから、情報とか関係ない
よ。情報は結局条件を満たすってことだからな。情報に左右
されるのは良くないよ。そういう恋愛って打算的だと思う。
俺、人を好きになるのは自分にしか分からない瞬間を捉える
ことだと思うんだ」
「なんすか、それ」
「具体的なことかもしれないし、もっと感覚的なことかもし
れない。ただ、本人にしか分らないことで、他人からは理解
されないだろうけど。ああ見ちゃった……って思う特別な瞬
間があって、たった一つだけのことなんだけど、でも、その
時にはもう好きになってて、それがすべて。自分にしか分か
らない特別なこと以外はなにも重要じゃないと思うんだ」
「ああ、なんか、それは直観というか、ツボにはいるという
か。そういうの?」
「そうそう」
「俺、そういうのないっすよ」
「それはお前が自分を知らないからだろ」
「えっ」
「お前は自分のツボがどこにあるのか分かってんの?」
藤沢トモヤはふと口を閉ざして、昨夜の合コンのブスを思
い返そうとした。自分にしか分らない決定的な瞬間を見てし
まったら、あのブス相手でも恋に落ちたりするのだろうか。
自分にとって特別な瞬間、特別な相手を見つけられるのだろ
うか。そんな気持ち想像もできない。
そんなことを思っている間にも酢豚の皿の中でパイナップ
ルがより分けられ、夜はふけていく。
水商売の女たちが無残に食べ残した皿を後に席を立った。
どの女もさすが職業柄身奇麗で隙がなかった。恐らくは美人
の部類に入るであろう外見。しかし藤沢トモヤにはやっぱり
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穴しか見えなかった。
「大口開けて笑うところがさ」
「え」
「なんとも爽快で、見てて気分いいんだよな。まあ、可愛い
っていうのもあるけど」
「……」
「彼氏いんのかなあ」
「だから、聞けっつーの」
「トモヤ、聞いてよ」
「聞いたらショックなんじゃないんすか」
「いなかったらチャンスじゃん」
「どっちなんすか!」
料理はどの皿もきれいに空になっていたが、酢豚のパイナ
ップルだけはやはりぽつんと取り残されていた。
「なんか、楽しそうでいいっすよね」
「そういや、お前はどうなんだよ」
「昨日コンパ行ったんすけどね。でも、いないんすよね、誰
も」
「コンパ?
コンパ行って女の子のどこ見てんの?」
「顔、それから乳」
藤沢トモヤの言葉に彼は笑った。優しい笑顔だった。まる
で目の前の未熟な若い男を慰めるような温かさがあった。
「んー、まあ、それも大事かもしれないけど、それだけで女
の子選べないだろ」
「はあ」
「もっと見ろよ」
「どこを?」
「いいところを」
「だから、どこ?」
「考えろよ。だいたい、お前、自分のことも好きじゃないの
に他人を好きになれるわけないだろ」
「俺、自分好きっすよ」
「へえ?
自分のどこが?」
「えっ」
「だから、お前は自分を分かってないんだよ」
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藤沢トモヤはちょっとばかり整った顔立ちの貞操観念の希
薄な男だけれど、反抗的な性質ではなく、むしろ素直に彼の
言 葉 を 受 け 止 め た 。確 か に 自 分 は 自 分 の こ と さ え も 知 ら な い 、
と。どんな女が好きかも自分では分からないし、ここから先
自分が何になるのか、どうしたいのかも明白なビジョンは浮
かんでこない。
ともすれば批判的な言葉だったが、まったく嫌な気持ちは
しなかった。藤沢トモヤはそれは彼の性質がそうさせるのだ
と思った。無償で相手が自分に対して真摯な言葉を投げてく
れたことが今さらのようにじんわりと温かく広がるのを感じ
ていた。
「まあ、時間はたっぷりあるんだから、お前はもっと自分本
位になってもいいよ。自分のこと、よく考えてみ?」
「俺、今でも結構自己チューっすよ」
「いや、トモヤは案外真面目で、人に気を使うタイプだと思
うよ」
「それは自分のことでしょ」
「ははは。とりあえず、俺も頑張るわ」
「そうっすよ。直球投げりゃいいんすよ」
「おお。うまくいったら祝杯あげよう」
「ダメだったら、奢りますから」
藤沢トモヤは彼の手が肩を叩くのをまるで子供のような気
持ちになって受け止めた。いい人だな。そんな単純な感想が
胸にふんわりとした灯りを点す。この人を選ばない女がいる
なら、それはきっと女に「見る目」がないのだ。藤沢トモヤ
は別れ際に片手をあげて去っていく彼の後ろ姿を見ながらそ
う思った。その夜の勘定は彼が奢ってくれた。それが最後に
なった。
……一人、また一人、客が帰っていく。一人の男が死んだ
というニュースを携えて。スーツの男が帰り、学生メガネが
帰り、見知らぬカップルが帰っていったが、藤沢トモヤはい
つまでも黙ってグラスを傾けていた。
とうとうスパイラルパーマの女も鞄から財布を取り出した。
恐らく彼女はなにも知らない。自分が死んだ男の想い人であ
ったことなど。
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藤沢トモヤは今一度考える。女の美しい輪郭。手を伸ばせ
ば届くであろう柔らかな曲線。それから自分の胸の内を。
「トモヤ、本当に大丈夫?
顔色悪いわよ……」
「そうっすか?」
「……お腹すいてるんじゃない?
なんか食べに行こうか?」
女は勘定をすませ財布を鞄にしまうと、椅子からするりと
降り立った。藤沢トモヤは見るともなしに女の胸のあたりに
視線をさまよわせた。
「ラーメンとか食べに行く?
奢るわよ」
「……中華といえば、酢豚にパイナップル入ってるのってど
う思います?」
「なあに?
酔ってるの?」
女は微笑みながら、藤沢トモヤの肩に優しく手をかけた。
女の手のひらが温かかった。女が体を動かすたびに白いシャ
ツの下の胸が揺れる。目が離せない。
藤沢トモヤはふと考える。あの純朴な恋に悩む男が生きて
いたら、この場合自分はどんな行動にでるだろう。女につい
て行くだろうか。女との距離を縮めたりするだろうか。
「私は好きよ」
「……」
「酢豚、食べたいの?」
「や、違うけど……」
「どうする?
行く?」
藤沢トモヤは煙草の箱に手を伸ばした。
「……前から聞きたかったんですけど」
「うん?」
「彼氏、いるんですか?」
「ううん、いない。この前別れたところ。どうして急にそん
なこと聞くの?」
「……聞いてほしいって頼まれたから」
「誰に」
「……」
指先が煙草の箱に触れる。触れた途端、脳裏にIの顔が浮
かんだ。藤沢トモヤはくしゃりと音をたてて煙草の箱を握り
潰した。
14
2、
立花ユキオはイライラしながら腕に嵌めた時計をもう一度
確認した。遅い。バイトが終わってからという約束だったの
に、友人である藤沢トモヤは電話にさえでなかった。明日は
休みだからバイトが終わってから飲みに行こうと言いだした
のは、もともと藤沢トモヤの方だったのに。
待ち合わせはいつもの店。せまい路地を入ったところにあ
る古いビルの二階。朝までやっている小さな居酒屋。昭和の
雰囲気を纏った店は妙に居心地がよく、二人はカウンターに
座ってだらだらと飲み続けるのが常だった。
カウンターの椅子は中途半端な硬さだが臙脂色の別珍の手
触りで、立花ユキオは長い脚を窮屈そうに折り曲げてグラス
を傾けた。ちょうど見上げる位置にテレビがあり、音を消し
て深夜のバラエティ番組が映し出されていた。
「あいつ、遅いな」
この店に通って三年。すっかり顔馴染みになった店主が煙
草に火をつけた。時刻はとうに二時になろうとしていた。
「たぶんもう今日は来ないと思う」
「もっかい電話してみたら?」
「電源切ってんですよ」
「なにやってんだろうな」
「どーせ女ですよ、女。あいつ、いつもそうなんだから」
立花ユキオは忌々しげに携帯電話を投げだした。すると椅
子二つ隔てたところで飲んでいたカーゴパンツにエンジニア
ブーツの女が笑いながら、
「ユキオ、すっぽかされたの?」
「そうらしいな」
「トモヤにも困ったもんね」
「そっちはどうなんだよ」
「どうって?」
「I、待ってるんだろ?」
立花ユキオはいくぶん体を斜めにするようにして女に向き
なおった。女は長い髪を一つにまとめていたが、夜の深さの
分だけほつれた髪が額やうなじにこぼれていた。
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「もう来るわよ」
「ほんとかよ」
女はいくぶん拗ねたように唇を尖らせた。それを見た立花
ユキオは不意に意地悪な気持ちがめきめきと湧き上がってく
るのを感じた。
女が待っている相手のことは立花ユキオも知っていた。い
い加減な男だ。友人である藤沢トモヤも女癖は大概だが、そ
の男はさらに上をいく。
ひとくちに女たらしだの畜生だのと言っても、それにも品
格のようなものがある。藤沢トモヤにとって女は天然自然の
ものであり、愛だ恋だと高尚な理由をつけるようなものでは
ない。まるで動物の営みのように、求めたり、求められたり
するだけだ。それが結果として彼を「女にだらしない」男に
し て い る わ け だ け れ ど 、不 思 議 と 彼 を 恨 む 女 は 一 人 も い な い 。
そ れ は も と も と の 彼 の 性 質 に よ る も の か も し れ な い が 、実 際 、
藤沢トモヤは女を選ばないし、傷つけない。どんな女にも等
しく優しい。優しさはそのまま関心のなさでもあるのだけれ
ど。
女たちはたいていの場合藤沢トモヤの貞操観念の希薄さも、
誰 も 愛 さ な い 子 供 じ み た と こ ろ も 、最 後 は 苦 笑 い と 共 に 許 す 。
馬鹿な男、と。しょうがない男、と。
立花ユキオは時々友人のそういう側面を羨ましく思った。
誰も愛さず、誰からも憎まれないのはまるで存在が空虚なも
ののように思えるが、ふわりふわりと漂うような生き方こそ
が実は立花ユキオにとっての憧れだった。
女は立花ユキオが店に来る前から一人で飲んでいた。酒に
強いので少しも乱れない様子をかわいげがないと思った。
「約束してんの?
ほんとに?」
「だって、ここで待ってろって言ったんだもん」
「じゃあいつ来るわけ?」
「だから、もう来るってば」
「あんまりムキになるなよ~」
立花ユキオはからかうような口調でさらに続けた。
「また他の女と遊んでんじゃないの?
あいつ、そういうヤ
ツじゃん」
16
「それはトモヤでしょ」
「でも、トモヤは女に貢がせたり、二股かけたりしねえよ」
「………」
女は一瞬押し黙った。思い当たるふしがあったらしい。不
愉快そうに眉間に皺を寄せた。
立花ユキオはこれまでに幾度もIが他の女と腕を組み歩い
て行くのを見たし、ホテルへ消えていくのも偶然とはいえ目
撃したことがあった。
女 は 自 分 で は そ う と は 知 ら な い よ う だ が 、せ ま い 街 の こ と 、
誰もが彼女がIに金を渡してやっているのを知っていた。
女の視線が手元に落ちたかと思うと、空になったグラスを
掴むとずいと店主に差し出した。
「もう一杯ちょうだい」
立花ユキオもグラスを掲げ、
「俺も」
と、お代わりを頼んだ。
店主は冷凍庫から氷を取り出し、大きな塊をごろりとグラ
スに入れ、上から透明な強い酒を注いだ。
立花ユキオは女が強い酒を飲んでいるのを哀れに思った。
恐らくその酒は美味くもなんともないだろう。少なくともこ
んな夜に飲む酒は。
女は新しいグラスに指を突っ込み、呆けたような眼をしな
がらぐるぐると氷をまわした。
店主はそれから立花ユキオの酒を作った。
「まあ、本人がよければいいじゃないか」
女の様子から何事か察したのか、店主はたしなめるように
立花ユキオに言った。
「Iくんも、あれはあれでそう悪いやつじゃないんだよ。た
ぶん」
「や、悪いやつなんて言ってないっすよ」
「恋愛っていうのは、当事者にしか分らんしな」
「そりゃそうだけど」
女は二人のやりとりを聞きながら、終始無言だった。
やむなく二人は話題を変えた。店主は長身の背中をまるめ
るようにして流しで皿やグラスを洗いながら、最近見た映画
17
の話しをした。
立花ユキオは映画が好きだった。昔から時間さえあれば映
画を見ていた。それは趣味というよりも生活の中心で、自分
から映画をとったらなにも残らないとさえ思っていた。
レンタルはもちろんのこと、映画館にもよく足を運ぶ。二
時間。長ければ三時間近く、じっと画面を見つめる。立花ユ
キオは単純に映画を好きだというよりも、映画を見ることの
できる集中力と凝縮された時間が好きだった。数時間心を無
にして、何者にも邪魔されることなく映画を見ることのでき
る時間そのものを愛していた。
これまでに大量のドラマを見てきた。泣きもすれば、笑い
もする。しかし、それらはすべて映画に向かって感覚のすべ
てが束ねられているからこその感動であり、感情の推移だ。
現実において立花ユキオはあまり感情を露わにすることがな
い。映画の中以上にリアルなものを感じないし、他人に心を
開く事もなければ、他人の心に触れることもあまり好きでは
なかった。
かつて彼は決して幸福な家庭の子供ではなかった。父親は
アルコール中毒で暴力的で、働かなかった。酔って暴れるか
大鼾をかいて寝ているかのどちらかしかない父親との暮らし
は立花ユキオにとって「忙しい」ものだった。
彼にはいつだってやらなければならないことが山積みだっ
た。家は荒れ放題で、父親からの気まぐれな鉄拳からも逃げ
なければならなかった。映画どころではなかった。テレビの
アニメ番組の三十分ですら、彼は集中してじっくり鑑賞する
ことはできなかった。彼の心はいつもアイドリング状態にあ
り、いつ何時でもすべてを投げ出して逃げるだけの用意が必
要だったのだ。物語の入り込む余地はなかった。感動を覚え
る暇もなかった。
幼いながら立花ユキオは、自分の存在が透明人間のように
見えざるものであったならと思った。誰も自分にかまってほ
しくなかった。近隣の住人の親切も、福祉施設からの手出し
口出しも必要なくて、ただ、自分という人間が空気のような
ものであればもっと落ち着いて、誰にも邪魔されず映画を見
られる。それが立花ユキオの願いだった。
18
そんなある時父親が飲みすぎた挙句、血を吐いて動かなく
なった。血は恐ろしいほど鮮やかで、父親の衣服を染め、畳
に飛び散った。あたかも花が咲いたように。
立花ユキオは死を思った。と同時に一番に頭に浮かんだの
は、これで映画をゆっくり見れるということだった。
……そのことを思い出すと今でもふと自分は人間的に欠陥
があるのではないかという不安が頭をよぎる。父親が倒れて
も心配より映画への渇望が勝ってしまった自分は、どこかが
壊れているのではないか、と。あの時もっと取り乱したり泣
いたりすべきだったのではないだろうか。それこそ映画の中
の登場人物のように。
でも、できなかった。父親が心配じゃないわけではなかっ
た。映画と現実は違うものだと分かっていればこそ、あの場
面で子供らしい自分を演じることはできなかったのだ。だか
ら至って冷静に救急車を呼び、静かに、運ばれて行く父親を
見送った。
そ し て 立 花 ユ キ オ は 子 供 の 頃 に 願 っ た「 存 在 感 の な い 自 分 」
を夢みながら、人々の干渉を恐れ、自分の心ひとつを守りな
がら大人になった。
立花ユキオが軽薄な女関係の持ち主である藤沢トモヤを好
き な の は 、彼 に「 映 画 」を 見 て い る か ら か も し れ な い 。映 画 、
即ち他人のドラマを見ている時だけが、彼をすべての過去か
ら遠ざける。父親の嘔吐も、巨大な拳もまるでそちらが架空
の出来事であるかのように彼の中から流れ出ていく。現実が
辛く厳しいほど、映画は立花ユキオを夢の世界へ連れて行く
のだ。
「……ダメだわ」
店主と立花ユキオが話している間、終始無言だった女が不
意にぽつりと呟いた。
「なにがダメって?」
立花ユキオが女を顧みる。
「昨日お金貸したんだった」
「……」
「だから、今日はもう来ないわ」
「どういうこと?」
19
立花ユキオが尋ねると、女は微かに笑った。
「お金持つと遊びに行くに決まってるじゃない」
「でも約束したんだろ?」
「あの人にとって嘘をつくことも約束をやぶることも、なん
てことはないのよ」
「……」
そんなにはっきり分かっているなら、なぜ……。立花ユキ
オはそう言いかけて、女の横顔に妙に見覚えがあるような気
がしてはたと黙った。
無論、女のことは知っている。以前からよく同じ店で顔を
あわせる「馴染み」だ。が、そんなことではない。有体に言
え ば 、懐 か し い 顔 な の だ 。く た び れ た 、そ の く せ 艶 っ ぽ い 顔 。
自虐的な笑いとひそめた眉に漂う哀愁。こんな女を自分は知
っている。
立花ユキオは静かに記憶を辿り始めた。その間も女は独り
言のように、しかし、堰を切ったように喋りだした。
「本当は分かってるの。あの人もう私のこと好きじゃないの
よ。みんなが私のことなんて思ってるかも分かってるわ。愚
かな女だと思ってるんでしょう?
彼氏が他の女の子に使う
の分かってて、お金渡してるんだもんね。馬鹿よね。けど、
貸してほしいって言われたらイヤって言えないのよ。たぶん
あの人は断ったらそのまま私の前からいなくなってしまうか
ら」
女は再び店主にグラスを突き出した。
「おかわり」
店主は頷いてグラスを受け取りながら、訊ねた。
「それだけ分かってて、別れない理由はなに?」
「好きだからよ」
「……」
「彼が私を好きじゃなくても、私が彼を好きだと思ううちは
別れることはできないわ」
一瞬、照明を受けてグラスの中身が冴えた光を放った。女
はきっぱりと顔をあげるも、そのくせ泣き出しそうな顔をし
ていた。
「あいつはそれを分かってんのかな」
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「分かるわけないじゃない」
「……」
「分かるわけないのよ。私がどれだけ好きかなんて知るわけ
ないわ」
カウンターの上に置かれた女の手が人知れず堅く拳を握り
締めた。店主は女が泣きだすのかと一瞬身構えた。
が、女は泣かなかった。泣かない代わりに新たに手渡され
たグラスの中身を一息にあおった。店主はその勢いに思わず
「あっ」と声をあげそうになり、かろうじて堪えた。強い酒
なのだ。店主は女が卒倒しないか、顔には出さないよう気を
つけつつ、固唾を飲んで見守った。
立花ユキオは気がつくと、女に向ってこう言っていた。
「別れろよ」
「……」
立花ユキオは酔った父親が母親を罵倒している時も、部屋
の片隅で映画を見ていた。時にはテレビにヘッドフォンをセ
ットして、その世界に没頭した。それもこれも現実から逃避
するために。
そんなだから分かることがある。所詮は現実あっての「逃
避」であり、逃避し続けることはできないということを。ひ
きこもって映画ばかり見ていても世界は自分の与り知らぬと
ころでまわっており、その輪の中から逸脱することなどでき
はしないのだ。どんなに現実の世界で誰にも心を寄せられな
くても周りに人間が存在する限り無視し続けることはできな
いのだ。ひきこもろうが、何しようが、社会の一部であるこ
とから逃げられはしない。それこそ死なない限りは。人間は
一人ではないとかそういうしょうもない手垢のついた言葉で
はなく、この世界で生きて、何かを食べ、眠り、排泄する生
命活動を行っている限りは、必ず世界のどこかと繋がってい
なければいけないのだ。繋がっていないと思うのは、それは
当人が知らないだけなのだ。単純なこと。屋根の下に住み、
水を使い、電気を使い、どこかの工場で誰かが作ったものを
食べる。それだって世界の一部に参加する行為だ。逃げられ
ないのだ。何からも。誰からも。
だから、その証拠に、こうしてたまたま居合わせた女の恋
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愛事情に口を挟んだりする。
立花ユキオはもう一度はっきりと言った。
「あいつ、もうお前を好きじゃねえよ」
「ユキオ」
店主が戒めるように、遮るように彼の名を呼ぶ。しかし、
立花ユキオは女の目をまっすぐに見つめていた。
「お前が金渡してやっても、なにしてやっても、屁とも思っ
てないぜ。なあ、別れろよ。お前のやってること馬鹿みてえ
だ」
「……」
あまりの言いように女も半ば唖然としていた。これまでも
そんな進言を受けたことはある。が、誰もこんなにはっきり
とした言葉で言いはしなかった。なのにこの男ときたらどう
だ。真剣な顔で、そのくせどこか悲しげな顔で、ずけずけと
言いたいことを言う。
女は自分がすでに相手から愛されていないことを承知して
いた。浮気を黙認し金を渡してやるのも見栄のようなものだ
っ た 。物 分 か り の い い 女 の フ リ で あ り 、
「 全 部 分 か っ て て 、敢
て遊ばせてやってるのよ」とばかりに平然とした顔をし、愚
か な 自 分 を 誤 魔 化 し て 、 小 賢 し い 顔 を し て い た 。「 大 人 の 女 」
の よ う な 顔 を し た か っ た の だ 。そ れ こ そ が 愚 か と は 知 ら ず に 。
「お前の言うことも分かるけど、どちらか一方が愛を失った
時点でその恋愛は終わりなんだよ。認めろよ。誰もお前を責
めないから」
「だって悔しいじゃない」
「それでも現実を認めるんだな」
「……」
店主は二人のやりとりをはらはらしながら見守っていた。
この二人は似ている。二人とも心の中にひどく膿んだ傷を持
っている。まるで今夜はそんな二人が互いの存在を呼びあっ
たようではないか。
立花ユキオはジーンズのポケットからすっかりひしゃげて
しまった煙草を取り出すと、灰皿の横に置かれていたマッチ
を擦って火をつけた。
「今は金をせびって、浮気するぐらいですんでるかもしれな
22
いけどな……」
「……けど?
なに?」
「そのうち女を殴ったりするんだよ。そしたら、どうする?
それでも好きでいられんの?」
「彼は女に手はあげるような男じゃない」
「馬鹿じゃねえの?
と思ってんの?
あいつがそんなまともなこと考えてる
ろくに働きもしねえで、酒と女とパチンコ
ばっか。クソバンドでギター弾いてる自分が格好いいと思っ
て る け ど 才 能 ゼ ロ 。そ ん な 男 の 行 く 末 ぐ ら い 想 像 で き る だ ろ 」
「……ひどい言い方」
「 悪 い こ と は 言 わ な い か ら 、別 れ る ん だ な 。す ぐ に 。そ ん で 、
もうちょっとましな男を探しに旅にでも出ればいい」
面白いことを言うつもりなはなかったし、言ったつもりも
な か っ た 。な の に 女 は 立 花 ユ キ オ の 言 葉 に ぷ っ と 吹 き 出 し た 。
「旅ってなによ」
「例え話しだよ」
「映画じゃあるまいし」
「……。とにかく別れろよ。このまま付き合って良いことな
んてなんにもない」
女は咄嗟に「なんで分かるのよ」と言い返したい衝動に駆
られた。が、あまりにもその通りなので、むっとしつつも、
堅く引き結ばれた紐がほぐされていくような気がした。
そして、とうとう小さく漏らした笑いがダムを決壊させる
ように、大笑いを溢れさせ始めた。
「ねえ、どうしてそんなこと言うの?
なんで彼が暴力ふる
うようになるって確信してるの?」
女は笑いすぎて眼尻ににじんだ涙を指先ではらいながら、
尋ねた。
「……そういう男を知ってるから」
「なあに、それ、トモヤのこと?」
「ちがうよ」
「じゃあ、誰?」
「 … … 誰 で も い い だ ろ 。だ い た い 、映 画 で も そ ん な 展 開 だ し 」
立花ユキオは煙草のフィルターを噛みしめるように口に咥
え、鼻先で笑った。人の恋愛に首を突っ込む趣味はないし、
23
これまでそんなことしたこと一度もなかった。なのにこの女
にわざわざ苦言を呈してやるのは、女が母親に似ているから
だった。たった今そのことに気付いた立花ユキオはどうあっ
ても女を別れさせたくなったのだ。
いや、本当に似ているかどうかは定かではない。立花ユキ
オはそうとはっきり言えるほどには母親のことを覚えていな
かった。彼の母親は、父親の酒と暴力に耐えきれず、とうの
昔に家を出ていた。だから彼が思うところの母親と目の前の
女が似ているというのはあくまでもイメージなのだが、その
イメージが一致するのは女の愚かさと、恋による盲目さと、
優しさのせいだった。ようするに「耐える」女の姿だ。
母親が出て行ってからその後どうなったのかは知らない。
出て行って、まずどこへ行ったのかも知らない。会いに来た
こともないし、祖父母や親類も母親の話題を徹底的に避けて
いた。しかし実際的に母親がいないことで強調される家の中
の暗く冷たい空気は隠しようもなかった。
立花ユキオは今でも思う。幼かったとはいえ、もしも自分
が母親をかばってやったなら、彼女は自分を置いて出ていく
ことはなかったのではないか、と。結局、母親を一番傷つけ
たのは父親ではなく、無関心な顔をしてすべての問題から顔
を背けようとしていた自分だったのではないだろうか。子供
だったとはいえ、耳を塞ぎ、目を閉じようとしていたことが
どうしたってやむをえなかったとは思えない。幼いからこそ
母親を慕ってやるべきだったのに。自分は映画が見たくて、
現実から逃れたくて母親から目を逸らしていた。
もし、母親が一度でも連絡をくれていたなら。こんなにも
暗い後悔が胸を渦巻くこともなかっただろう。出て行かざる
を得ないほど殴られた母親と、なにも言えなかった自分。罪
の意識から逃れたいが為にすべてを忘れてやっぱり映画を見
ていた自分。
立 花 ユ キ オ は 煙 草 を 灰 皿 に 押 し 付 け る と 、固 い 声 で 言 っ た 。
「俺からIに言ってやってもいいよ」
「……」
女は呆気にとられていた。たぶんこの男は親切で言ってく
れているのだと思った。が、なんて馬鹿げているのだろうと
24
も思った。現実は彼の見ているような映画みたいなものでは
な い の だ と 言 っ て や り た か っ た 。映 画 は 予 定 調 和 の ド ラ マ だ 。
でも現実はそんなになんでも都合よく思った通りに進んだり
はしない。
それに。女は秘かに胸の中で呟く。それに、まだやり直す
チャンスはある、と。それは軌道修正するチャンスだ。女の
ポケットにはIの部屋の鍵がちゃんと収まっている。それは
Iを取り巻く他の女たちの誰一人として持っていないものだ。
二人の間に奇妙な沈黙が流れた。それをひしひしと感じて
いた店主は自分の手元に置いたグラスにウィスキーを注ぐと、
はっとして立花ユキオを見た。まさか、もしや、立花ユキオ
が女に好意を寄せている?
店主はこの深夜の厄介な客に頭
を抱えたい気持ちになった。
カウンターで二人の男女は今もグラスを手に、俯いて、そ
れぞれの思案に耽っている。
3、
斉藤洋子はブーツを履いてこなかったことを心底後悔して
いた。黒いタイツの下の脚はすっかり冷えて感覚が鈍く、ハ
イヒールの足先はもう痺れていた。
こんな時、斉藤洋子は自分が女であることに無性に腹が立
った。女として美しく装うことは全然実用的じゃない、と。
そのくせ美しく着飾らなければ男の関心を寄せることもでき
ないのだと思うと、今こんな深夜になってまで男を待ってい
る自分がかわいそうで仕方なかった。
大判のストールをがっちりと巻き直す。男は一向に帰って
くる様子がない。思わず大きく息が漏れる。それは白く視界
を曇らせる。
約束をしたわけではなかった。斉藤洋子は自分のしている
ことがどれだけ芝居がかっていて、少女漫画じみていて、一
歩間違えばストーカー的かは十分承知していた。
男のアパートへ来たのは今夜をいれて四度目だった。初め
ての時はコンパの帰り。二人とも酔っていた。酔っていたか
ら、そうなった。二度目は素面だった。素面だからこそ、そ
う な っ た 。三 度 目 は 酔 お う と 素 面 だ ろ う と ど う で も よ か っ た 。
25
ようするに、どんな状況下にあっても斉藤洋子は男と関係を
持つことになったということだ。
男は魅力的だった。整った顔をしていて背は高く、手足は
長く、優しかった。しかし斉藤洋子は知るべきだった。優し
さは愛ではないということを。
斉藤洋子が今夜男が帰ってくるのをこの寒空の下、アパー
トのドアの前で待っているのはちょっとしたサプライズのつ
もりだった。明日は仕事も休みだし、金曜の予定も前もって
それとなく聞いておいた。準備は万端だった。その為に脚の
線が美しく見える靴を履き、繊細な下着を身に着けてきた。
それならそうと相手にその旨を言えばいいのに、はっきり
と言わなかったことが斉藤洋子が馬鹿馬鹿しいほどロマンチ
ストで少女趣味であることのダメ押しの証明のようなものだ
ったが、本人はこのわざとらしい猿芝居をいかに自然に、屈
託なく、かつ、魅力的に演出するかシュミレーションするの
で精一杯だった。
おかえりなさいだとか、待ってたのだとか、来ちゃっただ
とか、どれもこれも使い古された手垢のついたわざとらしい
セリフだったが、斉藤洋子は恋する女特有の愚かさで自分だ
けはそんな言葉も新鮮に響かせることができると信じていた。
男のアパートは今時珍しいほど古びていて、ドアはいかに
も安普請な合板だった。蹴りでもいれれば簡単に壊して侵入
できそうなほどに。
斉藤洋子は過去の訪問の時から、なぜ男がこんなボロアパ
ートに住んでいるのか不思議だった。部屋の中もレトロとい
えば聞こえはいいが、いかにもボロくて、壁は薄く、流しの
ステンレスに水が垂れる音がやたら大きく響くので空気を殺
伐としたものにしていた。家賃が安いというだけの理由にし
てはあんまりな古さ、汚さ。酔狂なことだと思った。思った
からこそ、知りたかった。知りたいと思った時から、すべて
は始まっていた。
男の帰りを待ち始めて一時間はたとうとしている。斉藤洋
子は冷えた手をトレンチコートのポケットに突っ込み、ドア
にもたれた。携帯電話の電源が切れているのか電波の届かな
いところにいるのか、とにかく電話はつながらなかった。
26
この文明の利器に見放された以上、できることは原始的な
人力しかない。斉藤洋子はもはや意地になっており、こうな
ったらいくらでも待ってやると顎先をいくぶん上に持ち上げ
て目の前の暗闇に満ちた歩道を睨み下した。
斉藤洋子が少し体を動かすたびに、脊中を預けたドアはみ
しりみしりと音を立てた。
前々から気になる存在だったのだ。酔ったはずみというの
は単なるきっかけであって、心の中ではあらかじめ「そうな
っても、いい」と思っていた。いや、もっとはっきり言えば
「そうなるつもり」の策略の末の酔っ払いだった。
時 と し て 好 奇 心 は 恋 心 を 上 回 る 。好 き と か ど う と か よ り も 、
未知なるものへの好奇心と探究心が頭をもたげて自分の衝動
を突き動かす。今回の場合がそうだ。恋はその後にやってき
たものだ。
男前に目がいくのは当然として、しかし、それよりももっ
と気になったのは男の裸だった。明るい性質でずいぶんモテ
るらしいが、果たしてどんなセックスをするのだろうか。上
手いのだろうか。体はどんな具合なのだろうか。天は二物を
与えずというがどうなんだろう。斉藤洋子は真剣に考えてい
た。
そんなだからこれが恋愛なのか性欲なのか判別がつきかね
たが、経験して初めて分かることもある。恋愛というものは
必ずしも手順を踏めばいいというものではないのだ。現に今
こうしている限りでは斉藤洋子は男の体に合格点を与え、さ
らなる好奇心を掻き立てられている。恐らくそれは満たされ
るまでは続くであろう欲望だった。
その時、通りの向こうからこつこつと夜の空気を震わせる
よう明晰な靴音が近付いてきた。
斉藤洋子は俄かに緊張しながら、じっと階段をあがってく
る気配に耳をすませた。ポケットの手を出し、素早く髪を整
える。斉藤洋子の長い髪はすっかり冷えきっていた。
而して錆びの浮いた鉄の階段をあがってきたのは、一人の
女だった。
斉藤洋子はがっかりしつつ、すっと視線をそらした。自分
が不審者に見えるのは承知していたが、この場を動くことも
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それはそれで怪しく、かといって笑いかけたり挨拶をするの
も妙だと思い、できるだけ女を見ないようにした。
「……なにやってんの」
驚くべきことに、斉藤洋子の思惑を無視して女は低い声で
尋ねた。
「えっ」
斉藤洋子は顔をあげて女を見た。
女はカーゴパンツにエンジニアブーツを履き、ピーコート
を着込んでいた。ニットキャップを目深にかぶっていたが、
大きな目と長い睫毛ははっきりとこちらを見据えており、斉
藤洋子をたじろがせるほどの堂々たる姿勢だった。
「なにって……」
斉藤洋子は口ごもった。目の前の女が妙に挑戦的な目つき
でこちらを睨んでくる。
若い女だと思った。服装のせいだけではなく、肌はつやつ
やしく、シミも皺もない。ぽってりとした唇とちょっと上向
きの鼻先が生意気そうな印象を与える。斉藤洋子は俄かに動
揺していた。
「ははーん、もしかして、待ってんの?」
女はしたり顔をしながら、指先で薄いドアを示した。斉藤
洋子は気圧されつつ、こくりと小さく頷いた。
「なんか用?」
「……あの、あなたは……?」
「カノジョ」
「えっ」
女の言葉が衝撃波となって、斉藤洋子は弾かれるようにド
アから背中を離した。その拍子に扉は一際大きくみしっと音
を立てた。女はにやりと笑ってさらに言った。
「あのねえ、彼がなんて言ったか知らないけど、あの人の女
は 私 だ け な の ね 。ご 苦 労 さ ま だ っ た け ど 、帰 っ て く れ な い ? 」
「……彼女がいるとは聞いてないけど」
「聞いてなくてもいるんだからしょうがないじゃない」
斉藤洋子は女の態度にむっとした。が、両腕を組みできる
だけ冷静になるよう自分に言いきかせた。こういった場合、
感情的になった方が負けだと思ったのだ。
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狭い廊下で二人は真っ向から対峙していた。冷え込みが厳
しくなってきていた。斉藤洋子はますます冷えていく身体が
痛いほどで、背筋がぞくぞくしていた。目の前の女の実用的
な温かそうな格好が羨ましかった。それは寒さだけではなく
すべての攻撃から身を守るような堅固な様子だったし、若さ
と美しさを持つ者の自信の表れのようでもあった。
女はポケットに手を突っ込み、顎先を上に持ち上げるよう
にふんぞり返って斉藤洋子を睨んでいた。
「これだけははっきり言っておくけどね」
「なによ」
「彼にちょっかい出さないでよ」
「そんなの本人に言えば?
それに私が先に誘ったわけじゃ
ないし」
斉藤洋子は正直なところ後ずさりしそうだったが、どうに
か踏みとどまり女を睨み返した。
女は間近に見れば見るほど肌理の整った肌が青白く、透明
な色をしていた。薄暗い廊下の灯りがその頬に長い睫毛の影
を落とす。その様はぞっとするほど静かで美しかった。が、
美 し さ の 分 だ け 無 機 質 で 、ま る で 温 か み を 感 じ ら れ な か っ た 。
斉藤洋子は女を精巧にできた人形のように思った。そう思う
とまた背筋がぞうっと冷たくなった。
「 ど っ ち が 先 と か い う 問 題 じ ゃ な い 。そ ん な こ と に 意 味 な い 」
「じゃあ、あなたが彼女だってことにも意味はないわね」
「どういう意味よ」
「だってそうでしょ。あなたが先に付き合ってたってことだ
って、同じじゃない」
「屁理屈」
女はいかにも小馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らした。
互いの立場はともかくとして、こんなにも礼節を欠く態度
は大人のすることではない。斉藤洋子はそう思い、しかし、
すぐにそんな自分がおかしくなって図らずも唇はうっすらと
微笑してしまった。
こんな状況に礼節を考える方がどうかしている。それに
元々ここにいること自体がすでに大人のすることではないし、
もう、極端に言えば好奇心で始まるような、肉体を道具にす
29
るような男との付き合い方そのものが愚かでガキっぽい。
この女は正しい。この挑戦的な、威嚇するような態度こそ
恋する女の姿勢なのだ。自分はまだこの域にいない。ただ欲
望に従っただけでそれ以上の気持ちはない。
彼女の方が純粋だわ。斉藤洋子は素直にそう思った。しか
し、女は斉藤洋子の浮かべた微笑を自分に向けられた嘲笑と
誤解した。
「なにがおかしいのよ」
「別にあなたを笑ったわけじゃないわ」
「帰ってよ」
「……いやよ」
本当はもう帰ってもよかったのだが、そう言われて帰って
は格好がつかない。
「帰れ!」
女は怒鳴りながら、斉藤洋子の肩を突き押した。細い体の
割に鋭い力があった。
斉藤洋子は軽くよろめいた。が、華奢な靴の踵でぐっと持
ちこたえ、反射的に女の胸のあたりを突き返した。
「あなたが帰ればいいでしょう」
「あいつと寝たの?」
今や女の目はぎらぎらとした怒りに燃えていた。言葉は奥
歯でかみしめるようにして吐き出され、まるで縄で繋がれた
猛った猟犬のようだった。
なんの為の事実確認なんだろう。斉藤洋子は質問の真意を
量りかねて、じっと女の瞳を見つめた。
相手を好きだと思う気持ちだけで密やかに続けていけるよ
うな恋愛は高校生の時でもう終わっている。片思いというや
つだ。ただひっそりと相手を物陰から見つめているだけのよ
うな、淡い、しかし、不気味な自己満足の恋。
あれを純愛だとか、プラトニックだとかいう言葉でまとめ
ることはできない。精神だけの恋愛は時としてさも高尚なよ
うに語られるけれど、実際のところは絵に描いた餅のような
ものだ。触れることも叶わない、実態のないものは所詮妄想
にすぎない。
即ち、斉藤洋子にとって恋愛というものはとにかく実体が
30
なければならないものだった。風向き次第で心などいくらで
も 形 を 変 え る 。が 、肉 体 は 正 直 だ 。男 が 斉 藤 洋 子 を 欲 す る 時 、
斉藤洋子は初めて恋を信じられたし、男に対して欲望を感じ
た瞬間にだけ愛を覚えた。
そんなわけだから寝ないと始まらないのだが、ここでわざ
わざそんなことを説明する義務はない。だから斉藤洋子はな
んの回答にもならないと分かっていながら答えて言った。
「あなたに関係ないでしょう?」
女は寒さのせいか、はたまた昂ぶっているせいなのか、赤
くなった鼻をさっと拭った。そんな動作は若さよりも子供ら
しさを内包していて、こんな修羅場でなければ女をずいぶん
可愛くみせるだろうと思った。
「……自分だけだなんて思わないでよね」
「……」
「あいつ、あちこちで色んな女と寝てるんだから。これまで
も何度もそういうの、あった」
「……へえ」
「……どうせ今も他の女と一緒よ」
斉藤洋子は女が泣くのかと思った。勢いは言葉を紡ぐほど
に急降下していき、声は力を失い始めていた。
例え彼女の言っていることが事実であったとしても、それ
を述べている女が自らの言葉に傷ついているのが分かった。
男はほどよく鍛えられた身体をしていて、美しい骨格の持
ち主だった。斉藤洋子の脳裏にフラッシュバックする交接の
記憶。それと女の険しい表情がダブる。
優しいキスはやがて激しさを伴い、すべての神経が研ぎ澄
まされたようになる。体中の毛穴が開いてしまうような、め
くるめく陶酔。あんな良いセックスをできるなら女にモテる
のも無理ない。と、同時に、女から求められるのも仕方ない
だ ろ う 。斉 藤 洋 子 は 不 実 な 男 の 肉 体 を 讃 美 す る 気 持 ち の 下 に 、
裏切りや嫉妬を忘れた。
女とういう生き物は恋愛と肉欲を混同する傾向にある。寝
てしまえば情が移る。相手を好きになってしまう。斉藤洋子
も当初はそうなるかと思った。思えばこそ、夜中に男を待ち
伏せしたりしているわけだけれど。恋と肉体の間には錯覚が
31
バターサンドのクリームのように挟まっているのだ。甘い。
ただひたすら甘い。中毒をも引き起こさせる恋という錯覚。
そのことに斉藤洋子は今気づいた。いや、前々から分かっ
てはいたけれど、決定的にしたのは目の前の青白い顔の女だ
った。
「もう会わないでよね。待ち伏せもやめてよ。今度見たら警
察呼ぶから」
女はそう言いながらポケットをごそごそと探ると、鍵束を
ひとつ取り出した。
「どいて」
女が取り出した鍵束にはビクトリノックスのポケットツー
ルナイフがついており、それと共にいくつかの鍵がぶらさが
っていた。
斉藤洋子は咄嗟に、
「ちょっと、まさか合鍵持ってるんじゃないでしょうね」
と、女を見咎めた。
同時に、斉藤洋子の動揺を女も見逃さなかった。
「あら、あんたは持ってないの?」
女は俄かに勝ち誇ったような顔でせせら笑った。手の中で
ちゃりちゃりと鍵束が鳴る。
「ね、分かったでしょ?
私は他の女とはちがうの。あんた
に用はないのよ」
「……それはあの人が決めることだわ」
「負け犬の遠吠えね」
斉藤洋子はその言葉に思わずかっとなり、右手を振りかぶ
った。いきなり切り札を出されたのと、口汚い言葉はとても
聞き流せなかった。
小気味よい音をたてて女の頬が鳴った。斉藤洋子は憤然と
してもう一発お見舞いしてやろうかという気持ちと、早く落
ち着かなくてはという焦りの波の中にいて、それはあたかも
嵐の中を頼りなく揺れまくる小舟のようだった。
「 誰 が 負 け 犬 だ っ て ? 」。
斉藤洋子は今にも怒鳴りつけてしまいそうになるのをかろ
うじてこらえながら、できるだけ静かに言った。こんな場面
だからこそ勝ちだの負けだのと言うんだろうが、いったい何
32
が勝ちで何が負けなのか。年齢も美醜も学歴もキャリアも、
どうして競って勝ったり負けたりしなくてはいけないのだろ
う。
女は打たれた頬を押さえながら、斉藤洋子を睨んだ。こん
な場面でひるむような女ではなかった。これまでも男の浮気
のせいで修羅場を演じたことはある。相手の女を殴ったこと
もあるし、男を殴ったこともある。
女には怖いものなどなかった。自分が殴る分だけ当然殴ら
れたこともあるし、こういった時に拳を揮うことにも自信が
あった。そうやって勝ち上がってきたのだ。どんなに争って
も別れないのだから、自分たちの恋愛こそが本物だと思って
いた。
それなのに、今、目の前にいる相手には奇妙な威圧感があ
り、いつもなら即座に殴り返すところを気圧されて言葉もで
なかった。
それは、相手が美しい巻き髪と完璧な化粧をしているせい
かもしれなかった。低い声で落ち着いて話す、こんな大人の
女を相手に拳で戦っても意味がない。無論、そうなれば勝つ
自信はある。が、勝った瞬間に永遠に恋人を失うだろう。今
度は。今度こそ。
戦いの最中だというのに闘争心が萎えてしまうその理由は
「男の浮気相手は常に自分と正反対の女」だからだった。
そういう女が選ばれる時点でもう自分には用がないのだ。
さっき自分が発した言葉はそのまま自分へ向けられる刃でも
ある。隙のない身ごなしといい、思慮深い瞳の色も、男が選
ぶだけの理由はあげられる。どれも自分にはないもの。
それでも男にしがみつくのは情けないが、自分の恋愛を守
りたかった。まだ好きだから。それ以上の理由などない。ま
だ負けるわけにはいかない。
斉藤洋子は年若い女を相手に先に手をあげてしまったのは
大人げなかったが、もしも女が反撃してきたならそのまま応
戦して大いに殴りあってやろうと思っていた。そうでもしな
ければ行くことも退くこともできないし、納得もできない。
「私が負け犬かどうか、彼に決めて貰いましょう」
「……どういう意味」
33
「こうなったら、どっちを選ぶのか彼に決めてもらえばいい
のよ」
「……」
もし斉藤洋子が自分と同じタイプの女なら、恐らく許せた
だろう。寝ようが、なにしようが自分のことのようにすら思
えたかもしれない。けれど、こんなにも自分とかけ離れたタ
イプなんて認められない。絶対に。認めるわけにはいかない
のだ。
女がそう考えて暗い気持ちで胸が塞がれている一方、斉藤
洋子も男に「試された」ような気がしてみじめな気持ちにな
った。違うタイプの女と寝てみたかっただけで、本当は魅力
さえ感じていないのかもしれない。それは虚しく、せつない
ことだった。
「 も う 男 は 自 分 を 選 ば な い か も し れ な い 」。奇 し く も 女 二 人
はそれぞれの胸の中で同じことを思う。飽きてしまったのな
ら仕方ない、と。戯れなら仕方ない、と。
斉藤洋子はこんな鉢合せをしてしまうなんて想像もしなか
ったので、自分の命運が尽きたように思った。
「……それじゃああの人が戻るまで待ってようか。部屋の中
で」
「だめよ」
「なんでよ」
「だって私は鍵持ってないもの」
「私が持ってるじゃない」
「それを使うのは、彼が選んだ方よ」
「馬鹿じゃないの、この寒いのになんで外にいなくちゃいけ
ないのよ」
「いいから開けないでちょうだい」
「いやよ。だいたいあんた馬鹿じゃないの。こんな時間に部
屋の前で待ってるなんてさ。思いこみ激しいんじゃないの」
「なによ、あんただって合鍵なんか持ってる割には簡単に浮
気されて。ちょっと鈍いんじゃないの?」
「そんなのあんたの知ったことじゃない」
「ちょっと、なにやってんの!
開けないでよ!」
「うるさいわね!」
34
部屋の扉の鍵を開けようとする女に斉藤洋子は喰ってかか
った。そう簡単に開けられてしまうと寒空の下を男を待って
いた自分が本当に間抜けで哀れに思える。それをしみじみ実
感させられるのは避けたかった。
二人の女は廊下で壁や扉にぶつかりながら、一つの鍵をめ
ぐって揉み合いになり始めた。
開ける、やめろと言いあう声も次第に高くなっていく。斉
藤洋子の靴音が鳴り、女のベルトループから垂れたウォレッ
トチェーンがじゃらじゃら鳴った。
「いいかげんにしてよ!」
「それはこっちのセリフよ!」
二人は怒鳴りあい、髪を掴み、一時は回避しかけた拳での
争いに突入しようとしていた。
そ の 次 の 瞬 間 。突 然 す ご い 勢 い で 隣 り の 部 屋 の ド ア が 開 き 、
毛玉のついたジャージを着たおばさんが半身を乗り出して女
たちに怒鳴った。
「うるさい!!
今、何時だと思ってんの!!」
女二人はおばさんを顧みた。
「お隣りなら引っ越しましたよ!」
「えっ?!」
「えっ?!」
二人は同時に叫び、ぴたっと動きを止めた。おばさんは象
が踏んでも乱れなさそうながちがちのパーマヘアに手をやる
と、あきれたように首を振った。
「今朝、荷物運び出してたわよ」
「ええっ……」
女は驚きのあまり魂の漏れ出るような声を出した。斉藤洋
子は女の胸倉をつかんでいた手をおそるおそる離した。
「もう遅いんだから帰んなさい」
おばさんはそう言うと扉をばたんと閉めた。
「嘘……」
「……引っ越しってどういうこと……」
「なんで、そんな……」
「……鍵、開けたら……?」
「いやよ……」
35
あれほど開けろ、やめろと喚きあったのに、二人の女は顔
を見合わせた。笑っていいのやら、泣いていいのやら分らな
かった。遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。気が遠く
なるほど、月が明るい。
4、
優一は気がつくと学校の教室のようにずらずらと机の並べ
られた部屋にぽつんと一人で座っていた。三面ある窓の外に
は鬱蒼とした緑の生い茂る木立が薄靄の中に見えていた。
部屋の出入り口は前後に二つ。黒板はなかったが、後ろに
は掲示板が据えてあった。
優一は首を傾げながら机をそっと撫でた。懐かしい木製の
天板。落書きや傷はなく、ひんやりと冷たい感触が心を静か
にさせる。かつて親しかったが今は遥か遠くにいってしまっ
たものたち。記憶の奥底深くに仕舞いこまれ、果たして現実
か夢かも分らなっていく曖昧な感傷。室内はそんな空気に満
たされていた。
……夢だな、これは。優一は大きく息を吐いた。ここがど
こかも分らないし、いつからいるのか、どうやって来たのか
もまるで覚えがないし、見当もつかない。この部屋の静けさ
と庭の様子は現実離れしすぎる。だから、これは夢で、自分
は今頃バーのカウンターに腰かけて酔っ払って、眠っている
のだ。優一はそう結論づけた。
これまでも酔っ払って眠りこけて、気がついたら明け方の
駅のホームに座っていたこともあるし、人と話しをしながら
気がつくと意識がぶっとんでいることもある。それは失礼な
振舞だが、酔っ払いというのはそういうものなのだ。仕方な
い。
優一は納得すると初めてくつろいだ気持ちになり、椅子に
預けていた背中をぐんと反らせ両腕を持ち上げて思いきり伸
びをした。それから立ち上がると窓辺に近づいてガラスに顔
を寄せようとした。
それにしてもこの部屋は懐かしい。室内にある机や椅子は
小学校の時の物のように小さく、軽い。が、掲示板、あれは
高校時代に教室にあったものだ。男子校だったので掲示板に
36
はいつも週刊誌のグラビアが切り取って貼られていた。それ
から扉と窓枠の剝げかけた白いペンキ。これは中学校の校舎
だ。古い学校だった。差し込み式の鍵はネジが馬鹿になって
いて、するんするんと空回りするばかりだったのを覚えてい
る。
ようするに、夢なだけあってすべては優一の思い出、イメ
ージの集合なのだ。このイメージがなにを意味するのかは、
目が覚めて覚えていたら夢判断とか深層心理でも調べよう…
…。優一はそう思い窓ガラスに手をかけた。
が、かけてみて、はっとして手を離した。窓外に靄と思っ
たのはそうではなく、実は窓ガラスが徹底的に汚れているせ
いだったのだ。優一はぎょっとして思わず後ずさった。ガラ
スには優一の触れた指先の後が点々としていた。
優一はジーンズの腿のあたりで指先を拭うと、てれてれと
歩いて掲示板に近づいた。
掲示板にはグラビアではなく白い紙が押しピンで留められ
ていて、読み上げると「落し物、忘れ物のないように注意」
と題されて、それから「もしもの場合は相談センターに連絡
すること」となっていて電話番号が書かれていた。
優一は学生の頃からよく電車などで忘れ物をしたが、探し
たりしたことはなかた。失くすのはやはり傘が一番で、その
次は帽子やマフラーといった小物類。本や漫画の類。どれも
これといって特別大切なものではなかった。だから探しもし
なかったのだけれど、それ以前に優一は「物の役目が終わっ
た」のだと考える傾向にあった。
なぜかは分らない。物心ついた時からそうだった。すべて
の物はいずれ傷つき、色褪せ、損なわれていく。失うことも
すべて自然の摂理だと思っていた。そして役目が終わったと
感じられた時に初めて成長できたように感じた。その発想は
輪廻を思わせる仏教的な思想だった。
優一はそのことについて、もしかしたら自分は坊主にでも
なって所有するということの欲望や願望をもっと捨て去った
境地で生きていくのがいいのかもしれないとおぼろげに考え
ていた。
とはいえ、急に仏門に入るつもりはなかった。早々に俗世
37
を捨て去ってしまうには優一はまだ若かった。もちろんその
若さもいずれ失われていくのは分かっている。だから今はそ
の若さを楽しむべきで、それこそまだ「役目」は終わってい
ないと思っていた。
窓の外は風があるのか、孤を描いているざくろの枝もゆら
りゆらりと揺れていた。
失われていくもの。優一は傍らにあった机に尻を乗せかけ
た。なにもかもが失われていくのなら、愛とか恋はどうなる
の だ ろ う 。や は り 役 目 を 終 え た ら 消 え 去 っ て い く の だ ろ う か 。
となると、恋はいつでも終わりを前提にしていることにな
る。だからせつないのだろうか。だから尊いのだろうか。で
も、終わりがあると思うと熱中するのも虚しくなったりしな
いだろうか。優一はぼんやりとそんなことを考えていた。
物思いには理由があった。優一は馴染みのバーでよく顔を
あわせる女に恋をしていた。女は明るく、屈託のない性質で
見ているだけで眩しかった。まるで夏の花のように鮮やかな
表情をしていた。友達が多く、彼女の周りにはいつも人であ
ふれているような気配があった。人は自分にないものに焦が
れるという。まさにそんな女だった。
隣り合わせに座って酒を飲む時、彼女はにこやかに話し、
気持ちのいい飲みっぷりでグラスを重ねた。それを見ている
だ け で 幸 せ だ と 思 え る の だ か ら 、優 一 の 消 極 的 さ が 窺 わ れ る 。
しかし優一がただの飲み友達のポジションに満足している
のかというと、必ずしもそうではなかった。彼女と恋愛を前
提にした付き合いができればどんなにいいか。そんな当たり
前の願いも持ってはいた。ただその願いをどうやって実現し
たらいいのかその方法が分からず、自分の恋を持て余してい
るのも事実だった。
友達に相談したりもしたけれど、誰もが優一の内向的な性
格からはとても不可能と思われるような大胆な手段しか教授
してくれなかった。
いや、誰も無理難題を言ったわけではない。けれど「好き
なら好きって言えば、話し早いじゃないっすか」なんて言わ
れても、そういう事こそが一番難しいのであって、単純な言
葉なのに自分には永遠に手に届かないように思えた。人によ
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っては簡単なことでも自分にはできないこともある。優一は
自分の不甲斐無さ棚に上げて、こういうのは「得手不得手」
「向き不向き」なのだとひっそりと言い訳のように思った。
そんなことを考えていると、不意に後ろの扉ががらがらと
開いて一人の男が入ってきた。優一は驚いて机から降り立っ
た。男は優一よりもいくつか年下だろうか、ソフトモヒカン
がよく似合っていて整った目鼻立ちをしていた。
「あ、ども」
男が首をすくめるようにひょこっと会釈をしたので、慌て
て優一も、
「あ、どうも」
と、頭を下げた。男はジーンズに紺色のパーカーを着てい
て、室内の中央あたりにやってくると、ぐるりとあたりを見
回して独り言のように言った。
「うわー、なんか懐かしい感じー」
優一は突然現れたこの登場人物が誰なのか、必死で思い出
そうとしていた。
夢に出てくるのだから知りあいなのかも。もしかしたら芸
能人の類いかも。自分では意識しないうちにテレビか何かで
見た情報が脳に刷り込まれていて、こうやって夢に出てくる
のはよくあることだ。バンドマンかも。こんな感じの男、ま
だデビューしたての気取らない男らしい3ピースバンドでギ
ターボーカルなんてやってそうなの、よくいるじゃないか。
男は優一のプロファイリングをよそに、ポケットから煙草
を 取 り 出 し 100 円 ラ イ タ ー で 火 を 点 け た 。
こんなところで煙草なんて吸っていいのだろうか。優一は
一瞬面喰らったけれど、ここが教室であるという証拠もない
のだから、まあ、いいのだろうと即座に思い直した。
煙草の煙が静かに室内を流れていく。教室ならば壁に掛け
時計の一つもあるはずだが、ここにはなかった。
男は煙草を咥えたまま腰を曲げて机を検分してまわってい
た。時々、机の中に手を差し込んだりもしていたが、どの机
も中は空っぽらしかった。
優一は話しかけるかどうか迷っていた。なにを話せばいい
のか分らないというのもあったが、それ以前にやっぱり男が
39
誰なのかが分らなくて困っていたのだ。もし相手が自分を知
っているのに、自分が忘れていたら失礼だし、知っているふ
りをして初対面だったら恥ずかしい。優一はこんな時も自分
は自ら事を
起こす手段を持たないのだと自嘲気味に笑った。
すると、うまい具合に男の方から、
「あのー」
と、話しかけてきた。
「はい?」
「あの、俺ら、どっかで会いましたっけね?」
「……え……」
「や、なんか会ったような気がして……。でも、思いだせな
いから……。すんません。失礼だけど、俺のこと、知ってま
す?」
優一は男の話すのを聞きながら、自分とは正反対の性質の
持ち主なのだな……と半ば感心していた。自分が言わんとし
て迷っていたことを、さらりと訊ねる勇気は素晴らしいとさ
え思った。
優一は素直に、
「ごめん。俺も覚えてないから……」
と答えた。
「あ、そうすか?」
「どっかで会ったような気はするんだけど……ごめん、思い
だせない」
「 そ ん な ん 全 然 オ ッ ケ ー っ す よ 。俺 も 覚 え て な い も ん 。で も 、
そうっすよね?
絶対一回会ってますよね?」
「たぶんね」
「煙草、吸います?」
「うん、ありがとう……」
男は煙草を箱ごと寄越した。
「名前、なんでしたっけ?
たしか、ユウさんって呼ばれて
ませんでした?」
「あ、そうそう。やっぱ、会ってるな、俺ら」
「ですよね。あー、どこだっけなー。ここらへんまで出かか
ってるんだけどなー」
40
男は首のあたりを掌で示しながら、笑って、優一の咥えた
煙草に火をつけてくれた。
「バンドやってなかった?」
「やってる。もしかしてライブに来たことあるとか?」
「もしかして君のカノジョ、君のことリョーチンって呼んで
なかった?」
「呼んでた。うわ、俺ら絶対会ってますよね?」
二人は向かい合う形で椅子に腰かけた。
言葉を交わすほど断片的な記憶がこぼれだしてくるのを感
じていた。まるでもつれた糸をほぐし、するすると引き出す
ようだった。けれど、優一は言葉にした割にはやはり男の、
恐らくは見たのであろうバンドのライブもカノジョの姿もま
るで頭に浮かんでこないことが薄気味悪く、男に嘘をついて
いるような感覚があるのも否めなかった。
言葉がすらすらとついてでたのは、確かに嘘ではない。自
分はこの男を知っている。そして男も自分を知っている。そ
れはこの夢の中で重要な意味を持つような気がした。
「で、ここにはいつ来たんすか?」
「……さあ。気がついたらいたから」
男は煙草を床に捨て、靴の踵で丹念に踏み消した。
すると今度は部屋の前の扉ががらりと開いて、一人の老人
が入ってきた。優一とリョーチンは顔を見合わせた。
「おっ、先客がいたか。邪魔するよ」
老人は風呂敷包みを携えて、さも当然のように優一たちの
傍 へ 寄 っ て き て「 よ い し ょ 」と 言 い な が ら 椅 子 に 腰 を 下 し た 。
紺色の着物に揃いの羽織、黒い別珍の足袋に下駄を履いてい
るのが老人の佇まいによく似合っていた。
窓の外は汚れたガラスに遮られ灰色に見えたが、風が木々
を揺らす様子からしてどうも雨が降るらしかった。窓ガラス
の灰色はそのまま空の灰色だった。
この老人も自分の知人だろうか。優一の祖父はとうに他界
しているし、こんな和服を着る粋な老人でもなかったからと
りあえず身内ではないと判断した。
老人は机の上で持参の風呂敷を解き、なにやらごそごそと
広げ始め、
41
「ここ、だいぶ待たすみたいだからな」
と、誰にともなく呟いた。
「はあ」
「お兄ちゃん達、酒飲めるだろ」
「酒持参なんすか?」
「まあな。家族が持たせてくれたからな」
「へえ」
優一にはなんのことだかさっぱり分からなかったが、二人
の会話がかみ合っているところをみると、この夢にはどうも
自分の与り知らぬ設定……というか、共通認識があるらしか
った。
ここは黙って様子をみよう。優一はそう決めると黙って老
人から差し出されたワンカップを受け取った。リョーチンも
ワ ン カ ッ プ を 受 け 取 り 、「 ど も 」 と 頭 を 下 げ た 。
老人はぐいと勢いよく酒を呷ると、大きく息を吐いた。そ
して、
「ちょっと待ってな、なんかツマミもあったと思うんだけど
……」
と、解いた風呂敷の中から柿の種を取り出した。
「まあ、こんなもんでもな。ないよりマシだからな」
「いただきます」
「お兄ちゃん達はいつここに来たんだい?」
「今さっき来たばっかりっすよ」
「ふーん……そうか。いや、でも、あんたら若いのにねえ」
「人生って分かんないもんすよね」
「まあなあ……」
リョーチンは煙草を老人に差し出した。老人は手刀を切っ
て箱から一本抜きとった。リョーチンはそれに丁寧に火をつ
けてやった。老人の短い髪は白く、首筋は痩せて筋張ってい
たが、着物の上からでもそうと分かる肩の逞しさやワンカッ
プを持つ手が武骨でよく鍛えられているのを見逃さなかった。
優一はその手になんとなく見覚えがあるような気がしたが、
やはり思い出すことはできなかった。
「俺も年だから、今のうちにきっちり仕事も片つけとくつも
りだったんだけど」
42
「仕事って?
その年まで仕事してたんすか?」
「だって、俺は定年なんかないから」
「へえ?」
「 漁 師 は 船 が あ っ て 、体 が 動 く う ち は 休 ま ね え の が 本 当 だ よ 」
「おじいさん、漁師なんですか?」
優 一 は 驚 い て 聞 き 返 し た 。優 一 の 曽 祖 父 も 漁 師 だ っ た の だ 。
「まあな」
もちろん曽祖父になど会ったことはないのだが、優一はこ
の老人が登場したことの意味がここで初めておぼろげに理解
できた。どうやらこの夢には自分に「繋がる」人が登場して
くるらしい、と。
「そんでも今までやれたんなら大したもんじゃないすか」
リョーチンが柿の種を一つかみ無造作に口に入れて、ぼり
ぼりやりながら言った。
「体には自信あったからな」
「跡継ぎとかいるんすか?」
「ああ、息子がな」
「じゃあ、安心っすね」
「いやあ、それがまだまだ……」
老人は煙草の灰を落としながら、苦笑いして首を振った。
優 一 の う ち で は 、祖 父 が 漁 師 を 継 が な か っ た 為 、廃 業 し た 。
優一のうちがサラリーマン世帯になったのはそこからのこと
だ。まだ新しい、浅い歴史。それ以前の漁師としての系譜の
方がよほど長く、古く、尊い。が、それを知るものはもうい
ない。
手の中のワンカップは透明な光を湛えており、時々ゆらゆ
らと揺れた。男三人ですでに半分ほど飲んでいたが、まだ誰
も酔っている様子はなかった。
窓の外ではまだざくろの枝が揺れている。なにげに視線を
そちらに向けた老人が、
「こんな風のある日は沖じゃ大荒れだよ」
と、目を細めた。
「大変な仕事なんでしょうね」
「大変っていうかねえ、なんていうんかねえ、ああいうのは
……」
43
「危険も多いでしょう」
「大変っちゃあ大変だし、危険っちゃあ危険。けど、そんな
もん全部当たり前のことだと思ってたからな」
老人の口ぶりはまるで利かん気な子供のことを話すように
優しかった。優一も柿の種に手を伸ばし、これはリョーチン
とは対照的にぽりぽりと控えめに齧るだけだった。柿の種は
香ばしく、ぴりりとした辛味が美味かった。
「だって、親父もその前もその前も、ずーっとずーっと漁師
だったんだから」
「……僕の曽祖父も漁師だったんですよ」
「へえ?」
老人は風呂敷から新しいワンカップを三つ取り出し、それ
ぞれの前に置いた。いったいそんな小さな風呂敷からどれだ
けワンカップが出てくるのか、優一は不思議に思った。
思っていたら、今度はスルメが出てきた。老人はそれを丹
念に裂きながら、
「お兄ちゃんとこも漁師なの?」
「いえ、僕の祖父が継がなかったから」
「そうか……。俺も別に漁師になるつもりなかったけどな」
「そうなんですか?」
老人が裂いたスルメがまたしてもそれぞれに配られる。老
人は「俺が作ったスルメ」と言うと、食べるように促した。
細く裂かれたいい匂いのするスルメを口にいれると、瞬時
にその旨みに呼応して唾液が口中をほとばしった。絶妙な固
さは噛むことに喜びさえもたらす。
「うまいです」
優一は素直に言った。リョーチンもスルメをしゃぶりなが
ら、
「マジ、うまい……」
と、感嘆したように呟いた。
「親父が早くに死んでなあ……、もう、漁師になるしかなか
ったんだよ」
「廃業とか考えなかったんですか」
「考えたけどね、俺は五人兄弟の一番上だったから、弟や妹
を食わせなくちゃいけないわけよ。そしたら、もう、親父が
44
死んだその日から金がいるもんだからとにかく漁師になるよ
りほかなくってなあ……」
「それ、何歳ぐらいの時でした?」
「親父が死んだのは俺が学校出てすぐだったかな……。ガキ
の頃から漁を手伝わされて船に乗せられてたんだから、すぐ
働けるっていったらそれしかないわな」
室内がスルメとワンカップと、煙草の匂いに満ちているの
が分かった。小学校の教室みたいなこの部屋にこんな安い居
酒屋みたいな匂いは似合わないし滑稽だった。
老人がスルメをしがむ口元に老いが色濃かった。頑丈そう
な 体 躯 、明 晰 な 言 葉 と 瞳 か ら は 浮 き 上 が る ほ ど の 老 い だ っ た 。
「大変だったんですね」
「いやさ、だから、それも当たり前。俺が長男なんだから、
下の面倒みるのは当然だろ。今はもうそんな世の中じゃない
けど」
「はあ」
「でもなあ、当たり前だと思っていいのは俺だけなんだよ」
「え?」
優一は老人の言葉の意味が分からず、思わず聞き返した。
「どういう意味ですか?」
「お兄ちゃんたち若いから分らんだろうけどな、親が子供に
してやることはみんな当たり前のことだし、子供が年取った
親をみてやるのも当たり前。俺が兄弟を食わせてやるのも、
当たり前。でも、してもらう方はそれを当り前に思っちゃ駄
目だ。嫁だろうが親だろうが、そんなことは関係ねえ。相手
が誰であろうと、人になにかしてもらったら感謝しなくちゃ
いけないし、謙虚な気持ちにならなくちゃいけないよ。それ
が人の道ってもんだよ」
「……」
「俺はそんなして若い頃から漁師やって、船も二艘作って、
家も二軒建てた」
「へえ!
すごいですね」
「漁師って儲かるんすねえ」
優一とリョーチンは声を揃えた。が、老人は首を振りなが
ら、
45
「魚が獲れりゃあな。獲れなきゃ、船出すだけで赤字だよ」
と、苦々しく返した。
「妹三人も嫁に出した。もちろん、俺が全部支度してやった
よ」
若者二人はもう黙って老人の話しを聞くだけだった。老人
はいくぶん酒がまわってきたようで、語尾が最初の頃より微
かに揺れるようになっていた。
優一は内心、おかしな話しになってきたな……と雲行きの
怪しさを感じていた。老人の話は自慢のようでいて、まるで
そんな空気を感じさせず言葉は重く失速していくようだった。
「弟も大学まで行かせた。独立する為の資金も出した」
「……」
「けどな」
「……」
「だーれも、なーんも言わねえの」
「……」
「俺がこの年になるまで、いっぺんも、なんも言わねえ」
「……」
「俺は、自分は当たり前のことをしたと思ってる。やるべき
ことは、やった。自分の人生だ。これでよかったと思ってる
よ。でも、あいつらはなんで俺の人生のなにもかもを当り前
だと思ってるんだ」
「……」
「俺が苦労すんのも当たり前で、自分たちが食わせてもらう
のも当たり前なのか」
優一とリョーチンは顔を見合わせた。目の前で、ワンカッ
プを手にしたまま老人は泣いていた。
窓の外でざわめいていた風はいつしかやみ、雨が降り出し
ていた。汚れたガラスに雨の滴があたり、つらつらと流れて
一筋、二筋と埃を洗い流していく。まるで老人の涙のような
雨だった。
正直言って優一は困惑していた。こんな時どうしていいか
分からなかったし、自分よりずっと年上の、それも男が泣く
ということは重く、慰めなど到底及ばないと思った。
優一はこんな涙を見るのは初めてだった。祖父も父親も優
46
一に泣くところを見せなかった。泣かなかったということは
ないだろう。人間なのだから彼らだって泣くことはあったろ
う。が、家族の誰にも見せることはなかった。優一はそのこ
とを疑問に思ったこともなかったし、彼らが泣くということ
についても深く考えたことがなかった。泣くことはプライバ
シーのように感じていたし、家族でありながら遠くの出来事
のようにも感じていた。そう考えると、老人の気持ちはその
まま彼のプライバシーだと思った。家族の誰も触れることの
叶わない、彼だけの秘密にも等しい。そこには誰も触れられ
ない。
「なんで、そう言わないんすか」
不意にリョーチンが口をはさんだ。
優一は驚いて、リョーチンの横顔を見た。リョーチンは真
剣 な 顔 を し て い た が 、手 の 中 の ワ ン カ ッ プ は 空 に な っ て い た 。
「言ってやればいいんすよ」
「そんなことは言えねえよ」
「なんで?
思ったことは言えばいいじゃないすか」
「思ったことなんでも言えばいいってもんじゃねえんだよ」
「俺なら言う」
リョーチンはきっぱり言い放った。その言い方は老人の為
というより、どこか自分に向って言っているような、子供じ
みた頑なさがあった。
「俺は、思ったことは言うよ」
「それがいつでも正しいとは限らんだろうよ」
老人は着物の袂から手拭いを出すと、鼻先を拭った。どう
もこれは二人とも酔っ払っているらしかった。
「俺ね、好きなもんは好きっていうし、無理もんは無理って
いう。気に入らないもんは、どうしたって気に入らねえし、
気になるもんは絶対に気になるし」
「……」
「でも、それは相手を好きだからであって、どうでもよかっ
たらなんも言わねえっすよ。家族とか、兄弟だって同じだと
思う。どうでもよくないなら、やっぱ自分の気持ちはちゃん
と言わなくちゃ」
優 一 は そ の 言 葉 に ぎ く り と し た 。こ れ と 似 た よ う な 言 葉 を 、
47
つい先日聞いたばかりだった。
「……本当にそうなのかな」
「え?」
優一はぽつりと呟いた。
「思ったことを口に出して、相手を傷つけることもあるんじ
ゃないの?」
「まあ、そうだな。お兄ちゃんは優しいんだね。優しくて、
でも臆病なんだな」
老人の言葉を受け、今度はリョーチンが熱を帯びたように
言う。優一は図星を指されたようで思わず押し黙る。
「 そ り ゃ あ 、傷 つ け な い に こ し た こ と は な い け ど … … 、で も 、
そんなしてまで自分を押し殺す必要ってあるんすか?」
「押し殺すわけじゃないけど、言い方ってあるだろ」
「言葉を変えても言ってることは同じなら、相手を傷つける
ことも同じじゃね?
もちろんわざと傷つけはしないけどさ
あ。悪気はないっていうか。でも、傷つけたくないから自分
の気持ちを言わないっていうのもね、極端だよね」
「ふうん、お兄ちゃんはずいぶん正直で我儘なんだねえ」
「……」
「……」
老人はまたまた風呂敷包みからワンカップを取り出し、そ
れぞれに渡した。
「どっちも正しいし、どっちも間違ってると、俺は思うねえ
……。人間には、言いたいことを言わずに黙らなきゃいけな
いこともあるし、言いたくないことでも言わなくちゃいけな
いこともあるだろうよ」
雨は激しさを増したようだった。室内は空気がぬるく、酔
っているせいか肌は汗ばんでいた。
リョーチンは着ていたパーカーを脱ぐと、無造作に隣の机
に投げ出した。
「なんか暑くなってきたっすね」
「うん。あれっ、Tシャツに血がついてるよ」
「あ、これ?」
「大丈夫?
怪我でもしてんの?」
優一がリョーチンのシャツの胸についた血をよく見ようと
48
身を乗り出した瞬間だった。前の扉が開き、黒いスーツを着
た男が顔を覗かせた。
「どうもお待たせしましたー」
黒スーツの男は紙挟みを一部携えて室内に入ってくると、
三人の前にちらばった柿の種やスルメ、ワンカップを見て苦
笑いしながら、
「宴会ですか」
と、言った。
黒スーツはよく磨かれた皮靴をこつこつと鳴らし、紙挟み
を開きながら胸ポケットから万年筆を取り出した。
「荷物はこれだけですか?」
黒スーツが風呂敷包みを指し示す。
「うん、でも、今だいぶ飲んじまった」
「ははは」
老人が立ち上がる。
黒スーツがリョーチンに向って、
「ああ、そのシャツ。着替えはあとで届きますから」
「うっす」
リョーチンも立ち上がる。
優一は最初から感じていたことが再び今度は大きくなって
頭の中をふくれあがってくるのをもはや無視することはでき
なかった。
老人もリョーチンも初めからこの場所に疑問を持たず、会
話もどことはなしに噛み合っていた。自分だけがなにも知ら
ず、なにも分かっておらず、状況も把握できないどころかこ
こ が ど こ な の か も 分 か っ て い な い 。夢 に し て も 、あ ん ま り だ 。
いや、でも、これは現実でも同じことが言える。自分はい
つも、なにも分かってなどいない。好きだと思う相手のこと
も、周囲が自分をどんな目で見ているのかも、自分自身さえ
も。優一は急速に気分が落ち込んでいくのを感じていた。恐
らく、この夢はそういった自分の不甲斐無さを投影している
のだ。心の奥底で眠っている、自分への叱責であり、嘆きな
のだ。
老人はすでに風呂敷をきっちりと結び、リョーチンはパー
カーを着直している。優一だけが怪訝な顔で事態を見守って
49
いた。
「じゃ、確認します。えーと、Iさん」
「はい」
「はい」
「はい」
三人同時に返事をした。三人は驚いて互いの顔を見合わせ
た。どういうことだ?
黒スーツも目を丸くし、それから紙挟みにさっと目をやっ
た 。そ し て ぺ ら ぺ ら と 紙 を め く っ て 一 人 で「 あ ー 、は い は い 、
なるほどね」と頷いた。
「みなさん同じ苗字ですね。Iさん。それじゃあ、ええと、
失礼してお名前で呼ばせて貰いますね。源蔵さんは心臓発作
ですね」
「ああ」
「お疲れさまでした」
老人はふむと重々しく頷いた。
「良太さんは、痴情のもつれによる刺殺……」
「あ、やっぱそうなるんすか」
「法的なことはこちらに関係ないので」
「事故っていうか、手違いっていうか、やりすぎちゃっただ
けなのになあ」
リョーチンは机の上の煙草とライターをポケットにしまっ
た。優一だけが呆然と椅子に腰掛け、彼らの顔に幾度も視線
をさまよわせていた。
「優一さんは、交通事故ですね」
「はっ?」
「享年二十八歳」
「ええっ?」
黒スーツの淡々とした言葉に優一はのけぞった。
交通事故?
享年?
聞きなれない言葉が脳内で変換され
るのに数秒を要するほど、優一は愕然としていた。そんな優
一を老人とリョーチン二人が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫っすか?」
リョーチンが恐る恐る声をかけた。
「え……ごめん、話しが見えないんだけど……」
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「だから、おじいさんは心臓発作でー、俺はカノジョと別れ
話で揉めてー」
「え?
ますます意味分かんない」
「刺されたんすよ。ほら、これ。この血。これね、刺された
から」
「ええ?!」
優一は今度は椅子から転げ落ちそうになった。
「女に刺されるなんて、お兄ちゃん、思ったことを思ったま
まに言ったんだろ」
「 そ ん な こ と な い け ど 。そ ん な つ も り じ ゃ な か っ た ん だ け ど 」
「だから、思ったことなんでも言えばいいってもんじゃない
んだって」
「もう遅いっす」
老人とリョーチンとの掛け合いは話しの内容からはおよそ
似つかわしくなく、能天気だった。なんでこんな物騒なとん
でもない話しを吞気に喋っているのか。優一は言葉を失って
いた。
「優一さん」
椅子の上で石のように固まっていた優一に、黒スーツがそ
っと話しかけてきた。
「急なことだったので、まだご自身で理解されてないんです
ね」
「……あの、ほんとに、なんのことなんだか……」
雨は今や完全にガラスの汚れを濯いでいた。に見えている
のは美しい森。青々とした下草と雨に濡れた木々。それは生
命力に溢れ、眩しいほどの色彩だった。
「お気の毒ですが、あなたはこちらのお二人同様にお亡くな
りになったんです」
「ええ!?」
「あなたはバイクで家に帰る途中だった。あなたのミスでは
ありません。ウィンカーもつけずに突然左折してきたトラッ
クに巻き込まれたのです」
「ええっ……」
「即死でした」
「えええっ……」
51
老人とリョーチンが悲しそうな視線を投げているのが、優
一 に も 分 か っ た 。し か し 優 一 は 、そ れ で は 一 体 こ こ は ど こ で 、
これからどこへ行こうとしているのかが聞きたくてたまらな
かった。
が、震える唇から漏れ出た言葉は、
「それじゃあ、おじいさんも君も死んでるんだ……?」
「 俺 は 心 臓 発 作 だ っ た よ 。寝 て る 間 に 急 に ぽ っ く り な 。ま あ 、
年だからな。しょうがないよ」
「俺は女に包丁で刺されて。自業自得と言われたらそれまで
っすけど」
気がつくと黒スーツがポケットからハンカチを取り出し、
優一に差し出していた。優一は顔をあげた。
「泣いてもいいんですよ。それは恥ずかしいことではないの
です」
「……」
「もうあなたはなにも考えることなく、誰にはばかることな
く 、自 分 の 為 だ け に 、自 己 中 心 的 に な っ て 生 き て い い の で す 」
「今、死んだって言ったじゃないですか」
「確かにあなたの肉体は死滅しました。が、これから先、あ
なたの精神は生き続けます」
「……」
「ただし、永遠にたった一人きりで、ですが」
「……」
「さあ、Iさん、行きましょう」
黒スーツが一同を促す。
「俺ら、みんな同じ名前なんてすごいミラクルっすよね」
リョーチンがやはり吞気に言う。なんだ、ミラクルって。
優一は腹立たしい気持ちになった。
老人が誰にともなく「俺が死んで、うちの猫はどうしたか
な」と呟いた。
「猫飼ってんですか」
「俺同様に年寄り猫でなあ。飼い主が先に死んだんじゃあ可
哀そうになあ。こうなるって分かってたら孫に頼んだのに…
…」
「夢枕に立つとかできないんですかね」
52
「さあなあ」
なんだ、夢枕って。優一はますます腹立たしい気持ちにな
る。
黒スーツはまだハンカチを差し出している。優一はそれを
受け取るべきなのか、それともそのまま立ち上がるべきなの
か、いずれも迷った。ましてや「行きましょう」と言われて
す ん な り 素 直 に つ い て 行 っ て も い い も の な の か 。分 か ら な い 。
やっぱり何も決められない。胸の中ではただ一心にこの夢か
ら早く覚めたいと願っていた。
5、
繁華な通りを避けた路地裏のバーはその夜も適度に混みあ
っていた。時刻は午前0時を少しまわったところで、常連客
がカウンターに並びいつものように談笑していた。壁にかけ
た写真の中でアル・パチーノとジーン・ハックマンが煙草に
火をつけて静かにこの店の様子を窺っているようだった。
服部道彦の仕事はこの店で客の相手をし、愚痴を聞き、冗
談を言い、時々は真面目な話をすることだった。が、それよ
り最も重要で本質的なのは「酒を作る」ことだった。
バーテンとして酒を作る。結局のところ、それが彼のすべ
てだった。
夜のバーには様々な人種が現れては、去っていく。人の数
だけニュースがあり、ドラマがあり、トラブルがある。小さ
ないざこざもあれば、派手な喧嘩も巻き起こるし、狡猾な策
略だってめぐらされる。そのすべてを見ていると、彼はたと
え意見を求められたとしても、最終的には常に自分はここに
いる限り一介のバーテンであらんと思うのだった。即ち、酒
を作るだけのマシンともいえるような傍観と中立の視線であ
れと。
その為に服部道彦は氷の純度、酒の温度に気を配り、水を
選び、道具を確実に使いこなし、空調から音楽、照明に至る
まですべてに心を砕いて自分の職務に忠実であろうとしてい
た。
この店に雇われてから数年。果たして、一体どれほどの人
がこの店を訪れただろう。服部道彦はふと考える。もしかし
53
たら自分は「人が人に出会う」という奇跡を他のどんな職業
の人間よりも多く味わっているのではないだろうか、と。そ
れも老若男女、年齢も社会的身分も、職業も種主雑多な人と
の出会いを。
人間一人が生涯出会うことのできる人間の数に際限はある
のだろうか。一人あたりの出会う人数には定員があるのだろ
うか。それは当然目に見えない、なにか神がかったものの力
を想像せずにはおけないのだが、なんにせよそんなものがあ
ったならば自分はもうそれをとっくにオーバーしてしまって
いるだろうと思った。
それでもこの店にいる限り常に新しく人に出会い続けるの
だとしたら。彼は、思う。それは自分の与り知らぬところで
誰かの持ち分である奇跡を掠め取ってしまっているのではな
いだろうか、と。
その日はなぜか遅い時刻になっても客足が途絶えなかった。
こんな日に限って。彼は溜息をつきたい気分だった。ひどく
疲れていた。
無理もない。今、こうして酒を作り、客と話し、夜を過ご
しているが、今日は母方の祖父が亡くなりその葬儀に参列し
たばかりだった。
母方の祖父は漁師だった。近年は漁獲量も減り、船を出す
方が経費がかかって赤字になるようなこともあるようだった
が、祖父には何か不思議な力があるらしく、それは経験とか
勘と呼ばれるものだけでなく、魚群探知機に頼らずともどこ
に魚がいるのかが分かるので漁師仲間の尊敬を集めていた。
腕は一流。苦労人で、情に厚い人だったので葬儀は思いの
ほか盛大なものになった。会葬者が大勢集まり、皆一様に涙
にくれた。
死因は心臓発作だった。持病があったわけではない。医者
の話によれば、たとえ若かったとしてもそういう突発的な心
不全などの可能性はあるらしいが、夜中に寝ている間にわず
かに苦しみ、そのまま息を引き取ったのはいい意味では大往
生と言えた。
すでに祖母は他界しており祖父は一人暮らしだったので、
祖父の船と古い家、それから猫が一匹残った。
54
船は処分されることが決まっていたし、家も法に基づいた
形での相続がなされることを親類たちの合意のもとに平和的
に解決していた。が、猫の行く末については誰も口にしなか
った。
もとはといえば、祖父宅の猫を拾ってきたのは服部道彦だ
った。まだ子供の頃に、弟と二人で瀕死の子猫を見つけ、家
で飼うことはできなくて、二人で泣きながら近くに住んでい
る祖父のところへ運びこんだのだ。子猫は目ヤニをいっぱい
つけて、洟水を垂らし、ぶるぶる震えていた。あのまま放っ
ておけば確実に死ぬだろうことは子供でも分かった。
服部道彦と弟は二人して祖父に猫を家においてくれるよう
頼んだ。自分たちが世話をできるわけでもないのに、毎日会
いに来るとか、面倒みるとか言って。祖父はしばし黙って考
え、それから「しょうがないな」と呟いた。猫は祖父宅で命
をつないだ。
そのことについて自分は今まで深く考えたこともなかった
が、思えば猫も高齢だ。まだ元気そうだし、毛並みも悪くな
い。が、老いは見えざるところに現われているだろうし、祖
父でさえ突然ぽっくり死んだのに年老いた猫だっていつ死ぬ
とも限らない。だから誰も引き取るとは言いださない。老い
て行くものを看取るのはそれが猫であっても大変なことだと
分かっているからだ。
「死」について考えた時、服部道彦がいつも思い出すのは
祖 母 が 死 ん だ 時 の こ と だ 。あ れ は 、人 生 で 初 め て 遭 遇 し た「 死 」
だった。
祖母が死んだのは服部道彦が中学生の時で、ずいぶんと可
愛がってもらった。だから思春期の照れもなく泣いた。
葬儀は近くの葬儀場で行われ、花と香華に彩られて、遺影
も普段割烹着を着て忙しく立ち働く姿ではなく、いつ撮った
んだか取り澄ました顔で、知らない人のように見えた。
服部道彦は死というものがこんな風にして人と人とを分つ
のだと思うとやりきれない気持ちになった。
時間というものは一筋の流れとして繋がっていると思って
いたし、今日と言う日もそのはずだったのに、祖母は死によ
ってその流れを断ち切り、もはや自分達とは遠い存在となっ
55
ている。
死を間におくだけで、こんなにも何もかもが違ってしまう
というのを服部道彦は初めて知った。
通夜の晩、棺を据えた会場には誰もおらず、大人たちは控
室で弁当を食べていた。服部道彦は食欲もなくパイプ椅子に
腰かけてぼんやりと祭壇を眺めていた。
安全のためか蝋燭の代わりに蝋燭の形をしたランプが灯り、
線 香 だ け が 絶 え 間 な く 静 か に 燃 え 尽 き て 、ま た 新 し く 点 け て 、
燃え尽きて、それだけを繰り返し時と刻んでいた。
すると祖父が控室から出て、ビール臭い息を吐きながらや
って来た。
「ここにおったんか。メシは食ったんか」
「……」
「いらんのか」
「……」
「……」
服部道彦はうんともすんとも言わなかった。
「道彦、こっち来てみろ」
突然、祖父が棺の横に立ち手まねきをした。
「え?」
「いいから来てみろ」
服部道彦は言われるままにのろのろと立ち上がり、祖父の
傍へ寄って行った。
棺の中には祖母が死んでいる。白い着物を着て、死化粧で
も施しているのだろうか生きていた時よりも妙に顔が白くつ
やつやしい。肌理もこまかくて陶器のようでさえある。
金色の縁どりのある布団みたいなものをかけられ、胸の上
には数珠が置かれていた。
服部道彦は祖母を好きだったにも関わらず、この時、正直
言って死んだ祖母が怖かった。
厳 密 に は 祖 母 が 怖 い の で は な く 、死 ん で い る の が 怖 か っ た 。
見れば見るほど思わず目をそむけたくなるような、決して
気持ち悪いとかではなくて、ほとんどうろたえるような感じ
で ど う し て い い の か 分 か ら な か っ た 。死 ん だ 人 間 を 前 に し て 、
何を思い、何を言えばいいのかさえも。
56
なんとなく焦点をあわせないようにあらぬ方向を見ている
と、祖父が、
「さわってみろ」
と言った。
「え」
その言葉に服部道彦は驚き、困惑した。が、それより先に
祖父は素早く手をつかむとぐいと棺の中の祖母の顔に手のひ
らを押しつけた。
その瞬間、服部道彦は全身総毛立った。文字通り、ぞっと
するほど祖母は冷たく、固かった。
思わず祖父の手を振りほどいて逃れそうになったが、祖父
の手はがっちりと服部道彦を捕まえて放さなかった。時間に
したらわずか数秒のことだが気が遠くなるほど長く感じられ
た。
祖父の手から力が抜けた時、服部道彦はゆっくりと祖母の
顔から手を離した。心臓が縮こまり、緊張と恐怖で早鐘を打
っていた。
祖父は棺の中の祖母を見つめながら言った。
「死んだらこうなるんやぞ。覚えとけ」
服部道彦はまだ手のひらに残る感触と、どうしようもない
悲しさに耐えきれず泣き出してしまった。
祖父は棺の蓋を閉めると、服部道彦の頭をぐしゃぐしゃに
撫でた。
料 理 が 上 手 く て 、手 作 り の お や つ を ふ る ま っ て く れ た こ と 。
働き者で、手まめであることを証明するような、いつも濡れ
て赤味を帯びた手。その手にはどういうわけだか常に輪ゴム
がはめてあり、あれは一体なんに使うんだか、使っていると
ころは一度も見なかった。
質素倹約を旨とし、時々は飲みすぎる祖父を叱り飛ばし、
松平健の隠れファンだった祖母。思いだせるのは笑顔ばかり
だった。服部道彦は胸に去来する思い出の数々に泣けてしょ
うがなかった。
しかし、棺桶の中にも遺影にもそんな姿を偲ぶものは何も
な く 、た だ 型 通 り の 遺 体 と 葬 儀 が あ り 、
「 死 」が 横 た わ っ て い
るだけだった。
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服部道彦は悲しさと同時に悔しさみたいなものを感じてい
た。その時、祖父も同じ気持ちになったのだろう。翌日の葬
儀の後、斎場での待ち時間の間に祖父は言った。
「儂が死んだらなあ」
「……」
「こういう葬式はせんでおいてくれよ」
「……」
「家でやりゃあええ。近所の人も来やすいしな。花も香もな
んもいらんからな。お経も一番安いやつにしとけよ」
「……」
「頼んだからな」
と。
そ う だ 。頼 ま れ た ん だ っ た 。服 部 道 彦 は は っ と 我 に 返 っ た 。
祖母の死を生々しく刻みつけた祖父は、あの時何を言わん
としていたのだろうか。死んだらこうなるのだという言葉の
重さは、実感があってこそのものだった。祖父は服部道彦に
「死」を教えてくれた。と、同時にそれは「生」を教えてく
れるのと同じことだった。
祖父の葬儀は型通りに行われた。あの時、祖父が言ってい
たような質素なものではなく、無論、自宅で執り行ったわけ
でもなく、それこそ祖父の望んだようなものではなかった。
結局、祖父の頼みはなにも果たさなかったことになる。
服部道彦は自分の中で一つの答えがすでに出ているのを、
無視しようとしていた。その分だけ、客席にいつも以上に気
を配り、丁寧に酒を作り、グラスを磨いた。
テーブル席には五人の若い男が賑やかにグラスを重ねてい
た。
若いということは時として馬鹿だということと同義だ。彼
は自身もかつてやらかしてしまった馬鹿げた失敗を思うと、
恥ずかしさのあまり頭を抱えて転がりまわりたい衝動に駆ら
れる。
酒の上での失敗もどれだけあっただろう。一体どれだけの
人に迷惑をかけてきただろう。
酔った上での失敗の恐ろしいところは、本人はすべてを忘
れ て し ま う と こ ろ に あ る 。が 、そ れ を 上 回 っ て 恐 ろ し い の は 、
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本人は忘れても周囲の人間は決して忘れないことだ。それは
どんなことよりも恐ろしく、恥ずかしいことだと思う。彼は
自分の記憶にはないのに、他人の記憶に永久に刻まれてしま
った馬鹿な行動のすべてを抹消できるのならどんな代償でも
払っていいような気がしていた。
いっそ宇宙人にさらわれて記憶を操作されればいい。そん
なことも考えることがあった。宇宙人がどこにいてどんな操
作を施すのかは知らないけれども。
恥の記憶を持って生きることは反省を促す。そういう意味
では間抜けな失敗の数々も必要であるといえるが、いつか自
分がこの世から消え去った時、酔っ払って階段から転落した
り、見知らぬ人の靴にゲロを吐いてしまったり、トイレに籠
城したことも、化け物みたいな女と寝てしまったことも、す
べてすべて誰かの記憶に残り続けるのだとしたら、死んです
べてがチャラになるとか、土は土に灰は灰に帰るとは到底思
えなかったし、もっと違った意味で死を恐れる気持ちにもな
った。
とかく人というものは悪いことばかりを鮮明に記憶する。
良い思い出、美しい出来事より忘れてしまいたいことの方を
強く記憶する。ならば、自分は過去の失敗の分だけ人々に覚
えられることだろう。馬鹿で間抜けな男として。
彼が今バーテンとして真面目に働くのは、無意識かでその
イメージを少しでも払拭するためだったかもしれない。
彼 に と っ て 生 き て い る「 今 」と い う 時 間 は す べ て を「 過 去 」
にする為にある。即ち「今を生きながら」同時に「今を死ん
でいく」ようなものだった。
若い男五人はさっきから大きな声で喋り、なにが面白いの
か時々どっと一斉に笑う。その明るさと朗らかさはこの店の
この時間に似つかわしいものとは言い難かったけれど仕方な
かった。彼はやむなく音楽をかけかえる。インディア・アリ
ーのアコースティックソウルから、メイシー・グレイのドス
の効いた歌声へ。
するとその時、扉が開いて藤沢トモヤが入ってきた。
「いらっしゃい」
服部道彦は常連である髪の長い若い男に声をかけた。
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「うわ、今日も混んでますね」
「今日も?」
「だって、この前も混んでたし」
「偶然だよ」
カウンターに腰かけた藤沢トモヤの前に灰皿とコースター
を置く。
「とりあえずビールください」
彼 は 伝 票 を つ け る と 、ビ ー ル サ ー バ ー か ら ビ ー ル を 注 い だ 。
藤沢トモヤにも失敗があった。彼はそのことをふと思い出
す。いや、藤沢トモヤ自身は酔ってはいなかった。が、彼が
連れてきた女の子がひどく泥酔し、カウンターに突っ伏して
寝入ってしまったのだ。無論、それぐらいなら大したことで
はない。大変だったのがその後で、女の子が椅子から転落し
額が割れて流血したことで事態は突然悲劇的な展開になった。
藤沢トモヤは困りはて、やむなく女の子を担いでタクシーで
病院へ行った。
彼はこと女関係に関してお世辞にも誠実とは言い難い男だ
ったが、浮世の義理は果たす性質らしく、翌日菓子折りを持
って詫びにきた。病院で女の怪我の説明をするのに骨が折れ
たと話す様子は実にきまり悪そうだった。藤沢トモヤはその
女のと寝ておきながら名前も知らなかったのだと言った。
「トモヤ、今、バイト終わったの?」
「今日は休み」
藤沢トモヤの隣りに座っていたこれも常連の女が声をかけ
た。二人は軽く乾杯し、それぞれのグラスに口をつけた。女
はスパイラルパーマがワイルドだったが、彼の目にはいつ見
ても鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭にしか見えなかった。鳥
が卵を産むのに最適そうなもじゃもじゃに。
「休みなのに一人なの?
女の子連れてないなんて珍しいわ
ね」
「ユキオと待ち合わせしてるから」
藤沢トモヤは整った顔立ちで女にモテる。それを利用して
女 を と っ か え ひ っ か え す る 。そ れ は 若 い 男 の 武 勇 伝 の よ う で 、
しかしいつかは若気の至り、即ち恥の記憶に変わるものだろ
うことを彼は知っていた。
60
彼は次の注文をこなしながら、藤沢トモヤの死について考
えた。今、トモヤが死んでも自分は彼を忘れない。もちろん
恥の記憶も、そうしたら彼は少なくとも自分の中では死なな
い よ う な 気 が す る 。そ れ と も ト モ ヤ は 忘 れ ら れ た い だ ろ う か 。
「ねえ、トモヤ」
「ん?」
「Iのことなんだけど……」
二人は声をひそめて顔をつき合わせるような格好になった。
彼はその様子から聞いてはいけない内容なのだと察し、自分
の仕事に集中することにした。
バーテンというものはすべての会話を聞くのと同時に、す
べての会話を聞いてはならないものなのだ。秘密に精通して
お き な が ら 、一 切 に 関 知 し て は な ら な い 。人 々 は こ こ へ 来 て 、
去っていく。通り過ぎていく。彼も店も人々の通過点に過ぎ
ない。彼は自分の人生を切り刻んで、人々の人生へとスクラ
ップしているような気がしていた。
藤沢トモヤ達が話していると扉が開き、立花ユキオが入っ
てきた。痩せて切れ長の目をしているのが特徴で、彼もどち
らかというと端整な顔立ちをしていた。が、どこかに影があ
り、これも彼がカウンターをはさんで感じていたことだけれ
ど、立花ユキオは一人でグラスを傾けて、不意に黙り込む瞬
間に心の奥底にうごめくような暗いものを見せることがあっ
た。口を開けば冗談ばかり言うような男だが、彼は立花ユキ
オの本質はもっと陰惨で、どうしようもないほどの絶望感に
塗りつぶされていると半ば確信していた。しかし、彼はバー
テンとして立花ユキオの中に潜む暗闇を誠実に無視していた。
「遅えなあ」
藤沢トモヤが立花ユキオを不満げに睨んだ。立花ユキオは
隣に腰掛けると、
「なに言ってんだよ。お前はこの前はすっぽかしたくせに」
「あー、あれね」
「お前、あん時の借りがあるんだから今日は奢れよな」
「ああ、ああ。もう、俺が悪かったよ。なんでも飲んでくれ
よ。バイト料出たとこだし」
「よし、一番高いヤツ飲んでやる」
61
「馬鹿、お前はビールでいいよ。ハットリさん、ビールいれ
てやってください」
「ざけんなよ。ハットリさん、なんか一番高いやつにして」
「ユキオ、どうせ死ぬほど飲むんだから、とりあえずビール
からにしとけ」
「 し ょ う が ね え な 、そ の 代 り 思 い っ く そ 飲 む か ら 覚 悟 し と け 」
スパイラルパーマの女は二人のやりとりを微笑みながら聞
いていた。
今はこんな大人の女の顔でゆったり飲んでいるけれど、彼
女にだってすべての人に忘れてもらいたい過去がある。服部
道彦それも知っている自分にふと心づいた。
彼女のことは学生の頃から知っている。自分は当時他の店
で働いていた。それはダンスフロアのあるクラブで、週末は
ひどく混雑し、丁寧に酒を作るよりもとにかく数をこなして
いく肉体労働だった。
彼女はその頃から豪快なスパイラルパーマで、目が大きく
て睫毛が長くて、唇が厚かった。今も風貌は変わらないが、
若い頃の無機質な美しさは失われ、今は女らしい色気と自信
に充ち溢れている。今の彼女からは想像もつかないが、かつ
て、彼女は眼の前で大乱闘事件を起こしたことがあった。
彼女は学生のくせに不倫していた。
「 恋 は 盲 目 」を 地 で 行 っ
ていた。相手の男の顔は今も覚えている。四十代半ばですで
に額は後退しつつあった。その男の妻が浮気現場を押さえに
店へやってきて、口論の末に彼女を張り倒したのだ。そして
彼女はそれに対し拳で反撃した。
あまりの見事な右ストレートに、思わず店中がボクシング
世界タイトルマッチのリングサイドのように湧きあがった。
彼女が傷害で逮捕も告訴もされなかったのは、友人たちの入
れ知恵のおかげと、他ならぬ彼自身が裏口から彼女を逃がし
たおかげだった。
彼は今でも彼女を見ると、心の中でロッキーのテーマを口
ずさみたくなる。完璧な化粧とエレガントな身のこなしをマ
スターした彼女からは血の匂いはもう感じられない。でも、
決して忘れることはないだろう。彼女が流した血と涙と、情
けない洟水のことを。
62
立花ユキオにビールを出すと彼らの間で再び乾杯が交わさ
れた。顔見知りに会う度に彼らはグラスを掲げる。そうして
夜が深まっていく。
「あ、そうだ。死ぬほどで思いだした」
「なに」
「Iのこと、聞いた?」
「……うん」
「まさかあんなことになるとはなあ」
立花ユキオは腕を組み、頭を振りながら言った。藤沢トモ
ヤがその言葉に呼応して一瞬きだしそうな顔になったが、周
囲の目を気にしてかわざと無関心な顔をしてみせるのを彼は
見逃さなかった。
「死ぬなんて思わなかったよな」
「うん……」
スパイラルパーマの女も煙草に火をつけ、しんみりと煙を
吐き出した。
「人の死って、いつも突然よね……」
「でも、ショッキングすぎっすよ」
「いい人って、みんな早くに死んじゃう」
「まあ、なんだかんだいって憎めないキャラだったしな」
三人はグラスに手を伸ばすと、口をつけ、溜息のように息
を漏らした。それがほとんど完全なシンクロだったことに、
カウンターの内側からその光景を見ていた彼は目を丸くした。
なんということだろう。本来なら大した接点のない彼らを
一人の人間の「死」が結び付けている。彼はそう思うと不意
に胸が苦しくなり手元に置いていた自分用のグラスに酒を注
いだ。
「憎めないっていうより、あの人を嫌いだった人なんていな
いだろ」
藤沢トモヤは呟いた。それは隣りに座っている女に聞かせ
る為の言葉だった。
好きな女にはっきり好きだと言えず、好意的な言葉で婉曲
に想いを伝えようとしていたこと。その努力が、彼の生きた
軌跡。藤沢トモヤは自分がシャイな男にしたアドバイスの
数々を思い出していた。こんなに急に死んでしまうのなら、
63
もっと違うアプローチを薦めてやればよかった。少なくとも
後悔しないように。
し か し 、立 花 ユ キ オ は 煙 草 を 揉 み 消 す と 不 満 の 声 を あ げ た 。
「ええ?
そうかあ?
そりゃあ、悪気のないのは分かるけ
ど……。でも、やっぱり女と揉めるっていうのは、問題あっ
たんじゃないかなあ」
「Iが?
女の子と揉めてたの?」
女が驚いた声をあげた。
「んー、まあね。惚れっぽいんだよ。で、気が多い。しかも
変に優しいから別れられないっていうか」
「ちょ、ちょっと待って。Iってカノジョがいたの?」
女が藤沢トモヤを中に挟みながら、ぐっと身を乗り出して
きた。
その剣幕に立花ユキオは面食らった。が、それと共に、も
しやこの女も騙された口なんだろうかと思った。
あの男はバンドやってるせいか明るくて、社交的で、子供
じみていたけれどいいヤツだった。でも、ちょっといいなと
思った女の子には次から次へと好きだと言ったり、思ったこ
とを思ったままに口にする癖があった。素直といえば、素直
だが、馬鹿といえば馬鹿の部類に入るだろう。無論、いい加
減なところがあったとはいえ、それだけの理由で死んで当然
だなんて思わないけれど。
立花ユキオは本当のことを言ってもいいのか、一瞬ためら
った。言えば目の前の女を傷つけるかもしれないと思ったの
だ 。や む な く 立 花 ユ キ オ は も ご も ご と 弁 解 す る よ う に 呟 い た 。
「まあ、あんまり上手くいってるって話しではなかったけど
……。いたよ、カノジョ」
すると藤沢トモヤが割って入った。
「カノジョの話は俺も初めて聞いた」
「え?
なんで?
知らなかったのか?
嘘だろー」
今度は立花ユキオが驚く番だった。
「もしかして別れたって言ってた?」
「つーか、そんな話し自体まったく知らなかった」
背後のテーブルで一際大きな笑い声が起こった。藤沢トモ
ヤは思わずイラっとした。関係ない人間とはいえ、今、この
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瞬間に笑っていることが許せなかった。
「じゃあ嘘ついてたのかもな。あちこちに」
立花ユキオは煙草に火をつけ、長々と煙を吐き出した。女
が抗議するように言う。
「Iが?
Iはそんな人じゃないわよ。ねえ、トモヤもそう
思うでしょう?」
「うん」
「嘘か何かは分かんないけどさ。あんまりね、いい事はして
ないんじゃねえの。悪く言いたくないけど、でも、そうでな
きゃあんな死に方しないよ」
「あんなって、だって事故じゃない」
「事故じゃないよ」
人々の通過点であるバーテンの彼は気づくと自分の職務を
一瞬忘れ、三人の前に立ち会話をしっかりと聞き耳を立てて
いた。妙なスリルが胸を満たしていく。新たなドラマとの出
会い。またしても誰かの奇跡の持ち分をピンハネしたような
後ろめたさが胸をよぎる
「明らかにわざと……つーか、殺意ってのがどの程度本気の
ものか分かんないけど、でも結果として人を刺したら殺人だ
ろ」
「そんな!」
二 人 が 同 時 に 叫 ぶ 。立 花 ユ キ オ は 真 面 目 な 顔 で 言 葉 を 継 ぐ 。
「同時に複数の女と付き合うなんて、無理なんだよ。あちこ
ち に 嘘 つ く わ け だ ろ 。そ ん な ん ど っ か で バ レ る に 決 ま っ て る 。
人間そんな器用にはできてないし、信用っていうのは実績の
上 に 成 り 立 つ わ け だ し さ 。あ い つ の 普 段 の 行 動 を 知 っ て た ら 、
刺されても無理ないよ。こんな言い方したくないけど。そう
いう結果を引き起こしたのは自分のせいでもあるんだし。か
わいそうだとは思うけど……痴情のもつれなんて、しょうが
ないじゃないか」
「ちょっと待って!」
女が立花ユキオを制した。藤沢トモヤはすでに言葉を失っ
ていた。
「……ねえ、さっきから誰の話ししてるの?」
「誰って、Iに決まってるじゃん」
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「だってIはバイクの事故で死んだのよ」
「事故?
違う違う。女に刺されたんだってば」
「だから、それ誰の話しなの?!」
カウンターの中、彼は扉の開く気配にはっと我に返った。
「いらっしゃいませ」
反射的に、職業的に、扉に向って言う。
次の瞬間。テーブル席の五人の男が一斉に叫んだ。
「I!
遅いよ!」
カウンターの三人は猛烈な勢いで「I」を振りかえった。
「I」はテーブルの男たちに片手をあげながら、すんなりと
椅子におさまるところだった。
彼は三人の前をそっと離れ、胸の中で呟いた。誰も、誰か
のことを本当に分かったりはしない。本当のことなど知りも
しない。ただ夜と夜の間をすれ違っていくだけだ。そしてそ
こには酒があるだけだ。けれど、自分は覚えておこう。彼ら
が確かに生きていた時間を。
彼はバーテンとして襟を正しカウンターを出て、新たに出
現した「I」の注文をとるべく、近づいて行った。
服部道彦はやはりあの年老いた猫は自分が引きとろうと思
った。いずれ死が訪れるその時まで。面倒みるといって拾っ
たはずだったのに何もしなかったのだから、最後はその責任
をとらなければいけないだろう。そのことについて祖父と一
度も話さなかったことが悔やまれた。礼も言わなかった。労
うこともしなかった。ただ当たり前のように、祖父が猫と暮
らすのを遠巻きに見ていただけだった。祖父はそれについて
何を思っていただろうか。今となってはもう考えても詮無い
ことだけれど。
そういえば。彼はカウンターでまだごちゃごちゃと話して
い る 三 人 を 振 り 向 く 。彼 ら の 話 し て い る 、死 ん だ 人 々 も「 I 」
だが、亡くなった祖父の名も「I」だ。そして今やって来た
の も 「 I 」。
服部道彦は引き続きバーテンの仕事をこなしながら「I」
に関するいくつかの、自分が知る限りの出来事について思い
を馳せていた。
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