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尾崎士郎の文学的出発 - ASKA-R:愛知淑徳大学 知のアーカイブ

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尾崎士郎の文学的出発 - ASKA-R:愛知淑徳大学 知のアーカイブ
尾崎士郎の文学的出発
義
今年︵平成十九年︶の二月、雄松堂出版から﹃近代文芸雑誌稀少
復刻版を入手したのを機に、尾崎士郎が政治から文学へ﹁転向﹂し
てきて、わたしは眼を見張った。その中に、﹃没落時代﹄の名前を見
たからである。
いるが、それのみで実態はきわめて不明瞭。︵略︶私は創刊号一号の
尾崎士郎の﹃小説四十六年﹄のなかに︿三号までで廃刊と書かれて
﹃近代文芸雑誌稀少十誌﹄をまとめた紅野敏郎の解説によれば、
とっては幻の雑誌であった。
が、今まで実物を手にしたことがなかったから、まさにわたしに
代﹂の創刊﹀という見出しをつけて、この雑誌のことにふれている
発表され、一位が藤村千代の﹁脂粉の顔﹂、二位が尾崎酒作の﹁獄中
うユニークな方法がとられた。一月二十一日付の同紙に審査結果が
味して里見惇、久米正雄両審査員が採点して順位を決定する、とい
から順番に掲載して読者の採点も募集した。読者の採点や反応を加
応募作品は三一二〇篇だったが、予選通過作六篇を、十年一月 日
月、時事新報の懸賞短篇小説に入選したことである。同紙によれば
尾崎士郎が政治から文学へ転じた直接的な契機は、大正十年一
尾崎士郎は﹃小説四十六年﹄︵昭39・5講談社︶の中で、︿﹁没落時
み入手﹀とあり、復刻版も一冊だけである。
j政治から文学へ
た文学的出発について論じてみたい。
の潮流に追随できない彼の苦悩が如実に表れている。﹃没落時代﹄の
ここには、プロレタリア文学の全盛と知識階級の左傾という時代
久
十誌﹄の復刻版が刊行された。その刊行案内パンフレットが送られ
はじめに
築
三五−四七 三五
一 126一
都
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第三十三号 二〇〇八・三
(一
幌に住んでいた。尾崎酒作は尾崎士郎の筆名。入賞作品は大逆事件
藤村千代は後の宇野千代で、当時は北海道の銀行員の妻として札
より﹂、三位が八木東作の﹁秋の日﹂であった。
といった政治、思想雑誌を購読して、投稿もしていた。ちなみに﹃第
華山の﹃第三帝国﹄、橋本徹馬の﹃世界之日本﹄、講談社の﹃雄弁﹄
青年であった。折からの大正デモクラシー旋風の中で輩出した茅原
中学時代の尾崎士郎は校内の雄弁大会で活躍していた硬派の政治
三六
に材を得たもので、尾崎自身のことではない。一位から三位までは
三帝国﹄︵大4・4︶に載った﹁中学と師範の改革﹂では︿将来私が
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第三十三号
写真と﹁当選の弁﹂が掲載されているが、尾崎士郎は次のように述
政治家として世に立たんと欲する﹀と述べ、﹃世界之日本﹄︵大4・
僕は明治三十一年生で、愛知県岡崎中学を大正四年に卒業し、
投稿している。
位に入選し、﹃雄弁﹄︵大4・9︶には﹁尾崎行雄氏の為に弁ず﹂を
べている。
それからすぐ早稲田の政治科に入学︵略︶、創作と云へば、今度
一方、たまたま級友に山川均の前妻︵大須賀里子︶の甥がいて、
6︶の懸賞論文﹁如何にして選挙権を拡張すべき乎﹂に応募して三
書いた、﹁獄中より﹂が、とに角始めてなもので、真実の処女作
義への関心も持っていた。早稲田大学に合格して上京すると、さっ
前妻の実家である級友の家に秘蔵されていた社会主義関係の新聞や
いと思つて書きあげ投書したやうな始末です。将来も創作をや
そく級友の紹介状を持って山川均を売文社に訪ねているほどであ
です。ですから始めから入選しやうなどと思つてゐませんでし
りたいと思つてゐますが、自分に果して創作家になつて生活し
る。
文献も目にしていたため、当時の田舎の中学生には珍しく、社会主
得られるだけの天分があるかどうかと言ふ事が、不安でいまだ
売文社は堺利彦、山川均、高畠素之が中心になって、﹃新社会﹄を
たが、前からこの題材が頭にあつて、何時かは創作におさめた
に決心しかねてゐる次第です。
校︶と呼ばれていた。﹁早稲田の政治科に入学﹂も正確にいえば、早
卒業し、﹁岡崎中学﹂も当時は、愛知県立第二中学校︵現 岡崎高
いうのは記憶ちがいで、大正四年ではなく、大正五年に旧制中学を
この﹁当選の弁﹂の中の︿愛知県岡崎中学を大正四年に卒業﹀と
栄らであり、尾崎も彼等に伍していた危険人物視されていたことが
載っている﹁特別要視察人﹂は東京で19名。堺、山川、高畠、大杉
十二月に、﹁特別要視察人﹂に指定されたことが載っている。そこに
事実、警保局の﹃特別要視察人状勢一班﹄には尾崎士郎も大正六年
その頃ここに出入りすることは、当局から危険人物視されていた。
発行し、弾圧の厳しかった社会主義者たちの梁山泊であったから、
稲田大学高等予科政治科である。
一125一
社会主義運動の方法論をめぐって、堺、山川と高畠の意見が対立し
れる。ところが、翌八年三月、売文社はロシア革命成功後の日本の
命の様子が日本にも伝わり始めた大正七年の暮れの頃だったと思わ
て売文社に入り、本格的に社会主義者の仲間入りをした。ロシア革
アジ演説をぶっていた程度の交友であったが、やがて﹁社員﹂とし
尾崎士郎も当初は売文社に顔を出し、あちこちの集会や演説会で
わかる。
日、団子坂のミルクホールで、パンを食べ、ミルクを飲みなが
懸賞募集したのはこれがはじめてである。私は、締め切りの前
ろにあるが、新聞が、いわゆる純文学の小説を大規模な形式で
家の食客生活のころである。今日ではこんな計画はいたるとこ
に読んだ。︵略︶時事新報の懸賞短篇小説に応募したのは高畠の
ささかも干渉するところはなく、私はここで文学書を漁るよう
神経質で気むずかしい男として知られていたが、私に対してい
え、正面の窓を前にしたところに私の机をおいて。彼は相当に
︵前出﹃小説四十六年﹄︶
ら偶然ひろげた時事新報で知った。
て分裂してしまった。その結果高畠は売文社の名称だけを継ぎ、
﹃新社会﹄にかわって﹃国家社会主義﹄を創刊した。社員も分裂し
たが尾崎は高畠に従って雑誌の編集に携わったものの、同誌も四号
時事新報の懸賞募集の社告が掲載されたのは、大正九年十一月で
で潰れ、新売文社も雲散霧消した。
高畠自身もこれを機に書斎の人となり年来の﹃資本論﹄の翻訳に
あるから、高畠の家で居候をしていたのはこの頃であろう。
︵二︶尾崎士郎の文学の原点
没頭し、日本で最初の﹃資本論﹄の完訳を成し遂げた。
尾崎士郎は﹃国家社会主義﹄の廃刊と時を同じくして肋膜を病み
入院し、退院後は毎夕新聞や東京毎日新聞などに記者として勤め、
尾崎士郎は﹁当選の弁﹂︵前出︶で、︿創作と云へば今度書いた
ひょっこり往来︵どこだったか覚えていない︶で高畠素之に会
いたのはもとより、他にも﹃一大帝国﹄、﹃批評﹄などにも寄稿し、
売文社時代には機関誌の﹃新社会﹄や﹃国家社会主義﹄に執筆して
転々とした生活を送っていた。そんな矢先、高畠とぱったり再会し
た。
い、どうだおれの家に来ないか、という彼の好意に応じて千駄
東京毎日新聞にも薯名原稿を書いている。内容は社会主義者の人物
﹁獄中より﹂が、とに角始めてなもので﹀と述べている。しかし、
木町の高台にある高畠の家の二階に移った。ほかにも居候が二
論や時事的随筆が多く﹁創作﹂ではないことは事実だが、文筆活動
三七
人いたが、高畠は私を自分の書斎をかねた居室である八畳に迎
尾崎士郎の文学的出発 ︵都築久義︶
一124 一
は活発に行っていた。著書も﹃西洋社会運動者評伝﹄︵茂木久平と共
も明瞭な判断を下しがたいものである。︵略︶おそらく彼はふ
べき期待をかけたかということは、四十年すぎた今日において
三八
著 大8・6売文社出版部︶と、﹃近世社会主義発達史論﹄︵大9・
らふらとそういう気持ちになったのであろう。 一口に、ふらふ
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇− 第三十三号
@三田圭旦房︶を刊行しているほどだから、文筆活動の経験は豊富
るだけの天分があるかどうかと云ふ事が、不安でいまだに決心しか
﹁当選の弁﹂では、︿自分に果たして創作家になつて生活し得られ
である。
︵前出﹃小説四十六年﹄︶
も、なかなか重要な役割をはたすものである。
らとはいうが、このふらふらというやつがだれの人生にとって
く、文壇雑誌に書いたのではない。とすれば、彼の一番の不安は
筆活動は旺盛だったとはいえ、﹁文学﹂を意識していたわけではな
政治運動や社会主義運動に奔走している連中がほとんどだった。文
随所で書いている通り、当時、交流のあった先輩や仲間といえば、
自分には文壇に師匠もなければ仲間もいなかったと、尾崎は後に
かったろうか。
分﹂ではなく、文壇で生きることができるかという︿不安﹀ではな
り、先発の﹃中央公論﹄に追いつくことが目標だった。﹃中央公論﹄
﹃改造﹄といえば大正八年に創刊されたばかりの総合雑誌であ
うような︿ふらふら﹀とした気持ちではあるまい。
流に乗った小説の執筆を彼に願ったのは明らかであろう。尾崎の言
の豊かな文筆活動、時事新報の懸賞入選の創作力に期待をかけ、時
動の若手のホープとして嘱望されていた尾崎に目をつけ、これまで
いう時代の流れに敏感な、出版人らしい山本の直感が、社会主義運
ロシア革命の成功を機に社会主義運動が日本でも台頭してきたと
ねてゐる﹀とも語っているが、ほんとうに﹁不安﹂だったのは﹁天
︿創作家になって生活し得られるか﹀どうかではなかったろうか。
﹃改造﹄の山本実彦社長から、長編小説の執筆依頼を受けたのであ
も眼をこらしていた。そういう山本の眼にかなったのが、懸賞に入
志賀直哉、谷崎潤一郎などを登場させる一方、新人の発掘と育成に
が創作欄にも力を入れていたことに触発され、﹃改造﹄も幸田露伴、
る。しかも生活の面倒は一切みるから、小説を書いて欲しいという
選したばかりの尾崎士郎だったにちがいない。うがった見方をすれ
だが、そんな︿不安﹀を解消すべく幸運が突然舞い込んできた。
破格の厚遇だった。
改造社の山本実彦が、何のために、まったく無名の一青年であ
それはともかく、山本に︿大それた期待﹀をかけられた尾崎が書
も刺激されたのかも知れない。
ば県心賞一位の藤村千代を﹃中央公論﹄が積極的に登用していたこと
る私に、そんな大きな、1というよりむしろ大それたという
123一
12
き上げたのは、﹃改造﹄が﹁我国に於ける唯一の社会主義裏面史﹂と
から決別したのである。その意味では、昭和の初頭から十年代の
労働運動に奔走している知識人の﹁嘘﹂や偽善にたえられなかった
﹁転向﹂や﹁転向小説﹂といささか趣がちがう。
宣伝した﹃逃避行 低迷期の人々第一部﹄︵以下、﹃逃避行﹄と呼
ぶ︶は、尾崎自身の社会主義運動からの︿逃避行﹀宣言であり、運
動内部の暴露本であり、告発であった。
﹃逃避行﹄は一口でいえば、﹃人生劇場﹄の﹁青春篇﹂と同様に、
は、皮肉といえば皮肉である。
から尾崎自身が﹁逃避行﹂せざるをえない羽目になってしまったの
部﹄︵大H・5︶を書き上げて原稿を渡すと、いたたまれずに、日本
をあび、﹃逃避行﹄の続篇である﹃懐疑者の群 低迷期の人々第二
デルとされた社会主義運動の先輩や売文社の仲間からは激しい非難
はずだったから、落胆は大きかったはずだ。そのうえこの本で、モ
は知識階級としての感激に過ぎない。それは労働者自身の生活
組織の変革について、如何なる感激をしやうとも、畢寛、それ
の中に熔うけ入るときがくるであらうか。彼等がいかに経済的
うか。知識階級の何人が眞に労働者の心をもつて労働者の生活
謹慎な同胞のために、といふ要求が潜み隠されてゐるのであら
処に、眞実の労働者のためにーその無智なきたないそして不
ばれやうともそれは嘘である。自分たちの内生活のリズムの何
考へられないのだ。労働階級のため!縦令いかなる言葉で叫
︿自分にとつては結局単なる知識階級の人間としての行為より
彼の自伝的小説である。ただし﹃人生劇場﹄が早稲田の青春を中心
の上に築き上げられた哲学・理想からは似もつかないほど遠く
山本が尾崎に期待したのは時流の先端を行くプロレタリア文学の
に活写しているのに対し、﹃逃避行﹄は﹃人生劇場﹄ではふれていな
はなれたところにある﹀
︿僕等は先覚者でも何でも無い。僕等はたゴ本能の満足を追及
す。﹀
︿僕らは人間的には野心の奴隷であるといふことを誇としま
い、売文社時代の﹁青春﹂を描いている。作品のテーマと主張は売
文社時代に眼のあたりにした社会主義者たちの実態や言行不一致へ
の批判だ。むろん自らの内省を込めて書いているため、﹁人生劇場﹂
とは逆に暗く重い﹁青春篇﹂である。
︿実行は理論から生れない。だから僕の僕をして社会運動に投
して動いてゐるだけだ。﹀
まさに彼は明らかに転向したのであり、その意味では転向小説であ
ぜしむる心理的基礎はナポレオンの胸に輝いたヒロイズムだ!
社会主義運動や革命運動から離脱することを﹁転向﹂というなら、
る。しかし、彼が﹁転向﹂したのは、昭和十年前後に横行したよう
それだけがお前の本音だ。お前の胸の一番隅にねちこまれて、
三九
な権力に屈したからではない。自分もその中にいて社会主義運動や
尾崎士郎の文学的出発 ︵都築久義︶
一122一
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第三十三号
その存在をすら忘れられてゐたお前の本音だ。﹀
四〇
手な新聞広告をしたり、仰々しく立て看板を出したりして宣伝
いたましいこと\として考へられた。︵略︶死滅に似た骨ばかり
を続けては離合集散してゐるといふことが、彼にはあまりに、
︵前出﹃小説四十六年﹄︶
キ根は高く、批評家からはほとんど抹殺された。
好意的な批評を書いたくらいなもので、︵略︶いわゆる文壇のカ
た。当時、﹁中外﹂の編集員だった前田河広一郎が﹁読売新聞﹂に
につとめたけれども、売れ行きは予想どおりにはゆかなかっ
の人間がうごめいてゐるやうな物淋しさがあるばかりであつ
︿新らしい時代を建設しやうとする運動が、絶えず内部の争ひ
た。彼はもう一刻も此庭にぢつとしてゐることのできない気持
に襲はれてゐた。﹀︵﹃逃避行﹄︶
が盛り上がっていた時に、彼らの実態に絶望して尾崎は決別したの
のは同年十月、というまさに労働運動や社会主義運動の高揚の気運
義者や学生、労働組合の指導者らが、日本社会主義同盟を結成した
富士ホテルに逗留するなど、大正十一年は放浪生活に明け暮れてい
葉県御宿海岸の廃寺に立て籠もるが、八月の末に上京して本郷の菊
本から逃げ出し、十一年三月に上海へ向かつた。五月に帰国して千
尾崎士郎は前述したように﹃逃避行﹄第二部の原稿を渡すと、日
︵三︶本格的な文壇登場
である。
た。しかし、大正十二年になってようやく、文壇雑誌にも書けるよ
121一
日本で最初のメーデが実施されたのが大正九年五月、古参社会主
文壇では大正十年に﹃種蒔く人﹄が創刊されプロレタリア文学運
うになり、﹁短銃﹂が﹃早稲田文学﹄三月号に載ったのをはじめ、
し文壇でも作家として認知され、﹃文芸年鑑﹄︵一九二四年版、大
﹃文章世界﹄、﹃文章倶楽部﹄、﹃我観﹄、﹃文芸春秋﹄等に作品を発表
動の先陣を切って、陣営の機関誌の役割を果した。特に大正十一年
六月号に平林初之輔が書いた﹁文芸運動と労働運動﹂は、プロレタ
リア文学運動の方向性を主張して、大きな反響を呼んだ。
E3 二松堂書店︶にも新進作家として尾崎士郎の名前があげら
れている。
尾崎士郎はこうした時代の雰囲気と文壇の流れに逆行する作品で
この﹃文芸年鑑﹄では、大正十二年の文壇について次のように述
べているのが、時代の状況を伝えていて興味深い。
文壇に登場したのだから、一朝にしてつかんだ﹁幸運﹂を一夕にし
処女作といえば、これが処女作であるが、改造社では相当に派
て失ったのも当然だろう。
13
て固めた﹁種蒔く人﹂などに当たつた。
芸春秋﹂が発刊され︵注・十二年一月︶て、プロ派の精鋭を以
印刷人﹂といふことになり、プロ派撃滅の連射砲といふべき﹁文
は、ブル派の頭目と見倣されてゐる菊池寛が自ら﹁発行編輯兼
の小うるさい争闘で明けることになつた。然かも、その初頭に
大正十二年の文壇図は、先年度からの持越しのプロ派対ブル派
いたわけではない。したがってこうした外見的な行動だけを見れば
いている。プロ派の作家との交遊もあったし、堺利彦らと絶縁して
ンケートに答え、﹁新人日記−新春日記抄﹂︵大12・3︶なども書
して﹂︵大12・5︶を寄稿し、﹃新興文学﹄︵大H・12 創刊︶の、ア
プロ派の﹃種蒔く人﹄にも﹁平林初之輔氏にー﹃ごろつき﹄に関
社会主義者、ラサールに関する論文、批評をいくつも書いている。
家﹂の項目にも載っている。小川未明、江口換、前田河広一郎、中
ているが、尾崎士郎は﹁新進作家﹂の項目の他に﹁プロレタリア作
タリア作家、C 女流作家、D 新進作家という項目を設けて書い
個々の作家の活動については、A 大家及中堅作家、B プロレ
と見倣すのは明らかに誤解であろう。尾崎士郎が新聞や雑誌に発表
ロレタリア文学の色彩は全くないことを想起すれば、彼を﹁プロ派﹂
言であり、この年に一般の文芸雑誌に発表した数編の小説には、プ
しかし、文壇処女作の﹃逃避行﹄は明確な社会主義からの決別宣
れても仕方のない面もあった。
プロ派と見倣されたり、プロ派のレッテルをはられ、プロ派と言わ
西伊之助、宮島資夫、山川亮、宮地嘉六、新井紀一、金子洋文に続
した発言を一読すれば彼の立場は一層明白だ。
で次のように言っている。
例えば、﹁プロレタリア芸術の究極﹂︵報知新聞 大12・3・25∼︶
いて次のように書かれている。
尾崎士郎は、プロ派作家の中では描写力、の達者な、芸術家的
私は社会批評の芸術に向つて放射した、精虫によつて生まれた
気凛の豊かな作家として聞こえてゐたが、本年度には、﹁短銃﹂、
﹁凶夢﹂の作を公にした。洋文のやうに道具立の華やか作家で
プロレタリア意識を否認する。︵略︶そして芸術は本質において
一切の概念を否認するものである。
はないが、素直な気持で現実を凝視してゐるところが頼もしか
つた。
等︵注 軽浮なインテリゲンチアー︶が芸術の殿堂に立つて、
芸術の情人は生活の現実であつて論理の現実ではない。︵略︶彼
尾崎士郎は高畠素之が売文社解体後に興こした大衆社の﹃局外﹄
彼等の周囲に集まる労働階級に向つて﹁街頭に立て”亡﹁破壊し
四一
︵大11・10︶に同人として名を連ね、かねて心酔していたドイッの
尾崎士郎の文学的出発 ︵都築久義︶
120一
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第三十三号
ろ!﹂といつたところで労働階級にとつては笑ふべき遊戯に過
ぎない。︵略︶象牙の塔によちのぼつて徒らに急激不穏なる煽動
的言辞を構える快をむさぼらんとする者は度し難き卑怯であ
る。
︵四︶ 馬込文士村
四二
大正十二年は尾崎士郎が本格的に文壇に進出し、新進作家として
認められた年でもあるが、彼の生活にも大きな変化のあった年で
なり、同棲を始めた年だからである。
あった。時事新報の懸賞短篇で一位だった藤村千代を知り、恋仲と
この種の発言は、﹁早速一発放て呉れ 詠嘆的プロレタリアニ
藤村千代は懸賞に入選した当時、札幌に住んでいたことは前述し
たのである。懸賞に入選後、﹃中央公論﹄へ送った﹁墓を発く﹂︵11・
たが、実は翌十一年には単身で上京し、そのまま札幌に帰らなかっ
ズムを噛ふべし﹂︵都新聞大12・3・28∼︶、﹁革命以前﹂︵﹃新潮﹄大
E4︶等で、矢継ぎ早に放っているが、彼が最も言いたかったの
はおそらく次のことだ。
したところ、作品が掲載されていたことがわかると、そのまま東京
5︶が、採用されたかどうかを知りたくて、矢も楯もたまらず上京
現代において民衆運動を口にして革命を語ることがいかに容易
彼女の上京の理由はともかく、尾崎士郎と藤村千代を引き合わせ
に居ついてしまったという。
である如く、監房に一夜を明かすことすら恐る\徒輩が口端に
たのは尾崎とは旧知の室伏高信だったようだ。室伏に引き合わされ
であるか! 平家の盛になるとき、平家を口にすることが容易
革命家の熱情を弄ぶ如きは笑ふべきである。
︵﹁MINORITYの運動其他﹂﹃新潮﹄大12・1た
1藤
︶村千代と尾崎士郎の恋仲はたちまちマスコミに知られ、国民新
体験した尾崎士郎にしてみれば、安全な場所に身をおいて、口先だ
自ら革命運動に身を投じ、﹁監房に一夜を明かす﹂こともしばしば
書き立てた。記事の中で︿若い燕、白面の士郎氏﹀と書かれた尾崎
しをつけ、︿夫婦道徳を無視した﹀姦通事件としてスキャンダラスに
を捨て/愛人に走つた閨秀作家/藤村千代と尾崎士郎君﹀と大見出
聞︵八月二十一日︶が社会面で大きく報じた。︿懸賞当選から/夫君
けで民衆を煽っている知識人や文学者が許せなかったのである。
士郎は開き直って、﹁予は野良犬の如くかの女を盗めり﹂という一文
を読売新聞︵八月三十日︶に寄稿したのが、いかにも彼の自尊心と
面目が躍如としていよう。
一119一
12
から、関東大震災の直前に馬込村で同棲を始めた思われる。二人を
ば、二人は︿近く府下馬込村﹀に︿移り住むといふ﹀と伝えている
とかくの噂が飛び交った二人であったが、国民新聞の記事によれ
端的に伝えているので引用する。
榊山潤だと思われるが、同著の﹁あとがき﹂は、この村の雰囲気を
文士村﹄︵東都書房 昭46・12︶と最初に呼び、著書まで著したのは
井、馬込方面は、交通機関が著しく発達し、勤労者や学生たちが生
関東大震災の罹災者の多くが東京近郊に移り、なかでも大森・入新
区立郷土博物館︶によれば、震災後に当地の人口が急増したのは、
興住宅地として様相は一変した。﹃馬込文士村ガイドブック﹄︵大田
関東大震災以後は多くの人がこの地に移り住み、人口が急増し、新
は、九十九谷と呼ばれるほど丘陵地の多い農村であった。ところが
二人が農家の納屋を。コ貝い取り、改装して住み始めた頃の馬込村
た。
の﹁宇野千代﹂の名前で作品を発表するようになり、けじめをつけ
では彼らが最初に住み始めたようだ。﹁藤村千代﹂はこの時から旧姓
なく、馬込は笑いに充ちていた。
力、というようなものにちがいなかったが、あかるいばかりで
かった。彼らを支えたのはめげない若さ、八方やぶれの抵抗
ば、食うや食わずその日暮らしであった。だが、馬込はあかる
い。馬込に集まった若い作家は一様に、正直な言い方をすれ
う苦境におかれたひとりだが、あえて尾崎ひとりとはいうま
とっては、まさに苦難の時代であった。尾崎士郎などもそうい
追いつめられていた。純文学でのびて行こうとする若い作家に
学派で形成されていたいわゆる文壇村は、なかば崩壊の状態に
あった。︵略︶あの頃はプロレタリア文学が全盛をきわめ、純文
私たちが馬込村に住んだ昭和初年、日本は不景気のどん底に
馬込村に誘ったのは都新聞文化部長の上泉秀信だが、知られた作家
活の拠点をこの地に求めるようになったからだという。
た年も、住んでいた期間も人によってまちまちながら、震災後から
かったが、馬込村の一角たけは明るく笑いがたえなかったのは、一
日本中の景気がどん底にあり、街に失業者があふれ、世相は暗
文士たちが馬込村に移住して来たのも震災後であるが、やって来
昭和の初期に住んでいた主な文士は、草分けの尾崎士郎、宇野千代
詩人グループと文士夫人の交流が活発だったからであろう。この村
つは尾崎士郎の存在であり、もう一つは萩原朔太郎や衣巻省三らの
山潤、萩原朔太郎、広津和郎、藤浦洗、間宮茂輔、三好達治、室生
の住人たちが後に書いている回想記を読むと、いつも誰かが尾崎士
の他に、今井達夫、川端康成、北原白秋、衣巻省三、倉田百三、榊
犀星、吉田甲子太郎らである。
郎の家に集まり、文壇の動きや文士たちや村の噂を、酒をくみ交わ
四三
まさに、文士村にふさわしい顔ぶれといえよう。この地を﹃馬込
尾崎士郎の文学的出発 ︵都築久義︶
118一
四四
しかし、尾崎士郎が両誌に対して距離を置いていたのはいうまで
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇1 第三十三号
しながら語り合っていたということだ。
もないが、その理由がなかなか興味深い。
@﹃尾崎士郎書簡筆滴﹄ 昭44・8 インパル所収︶でこう言って
たとえば﹃文芸戦線﹄について佐々木味津三宛の手紙︵大13・8・
もう一方の萩原朔太郎や衣巻省三らは、尾崎たちとは対照的にダ
ンスを流行させ、毎晩のように彼らの家でダンスパーテイを開いて
いた。若い学生や文士夫人たちが集まり、宇野千代も洋装・断髪で
村を闊歩し、ダンスにも時々出かけていたらしい。酒を飲みながら
文学論に口角泡を飛ばす昔ながらの﹁文士﹂たちと、ダンスに興じ、
断髪と洋装に身を包んだモダンガールが混在していた、﹁馬込文士
村﹂の外から見た風景はたしかにこの時代にあっては異様であっ
た。
いる。
僕は近頃文芸戦線の手輩の図々しい無智が全くへどが出そうに
なつた。大真面目になって文芸の戦線なんてふことをふりかざ
してゐる奴等の醜い文壇意識を見るとたまらない。あんな奴ほ
どそれが多いぢやないか。文壇意識が悪いんぢやない。それを
に関しては、同誌に寄せた﹁討論終結﹂︵大14・7︶
攻撃しながらそれに追従する心がみにくいのだ。
﹃文芸時代﹄
︵五︶﹁没落時代﹂の創刊
このように馬込村は尾崎士郎や萩原朔太郎たちを中心に、文壇の
でー
名称に稀薄な感銘を残した。
るだけの必然が認められなかつた、といふことによつて、一層、
新感覚主義の解説の中に、特に新しい芸術内容を約束するに足
めに千葉氏が責任を問はれる理由はない。そして、それは後に
甚だ不利であつたと言ふ事が出来やう。しかし、勿論これがた
千葉亀雄氏の批評に追随して、﹁新感覚主義﹂を名乗つたことは
風潮や世の中の流れに隔絶した雰囲気を形成していたが、裏を返せ
ば、ますます激しくなる革命運動や知識人の左傾という時代の流れ
に追従出来なかった、今風にいえば﹁負け組﹂が集まっていたとも
いえよう。
文壇の風潮といえば、大正十三年六月に﹃文芸戦線﹄が創刊され、
対抗するかのように十月に、﹃文芸時代﹄が世に出たのが象徴的だっ
た。﹃文芸戦線﹄がプロレタリア文学陣営の旗振り役を果たし、﹃文
芸時代﹄が新感覚派と呼ばれ、新興芸術派の先導を務めたことはよ
く知られている通りだ。
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は単なる﹁文壇意識﹂の所産としか見えなかったのは当然だろう。
のが尾崎士郎の持論だったから、﹃文芸戦線﹄も﹃文芸時代﹄も彼に
ないV︵﹁ある時の想片﹂ 時事新報 大15・8・31∼9・1︶という
︿芸術家が時代を感ずるためには、論理も方法も必要である筈が
く出直さなければならぬといふ気持が私の文学の上にも反映し
つたのだと解釈すべきが至当であるかも知れぬ。愈々あたらし
やうな人間関係によつて追いつめられていつた結果が、さうな
求めたといふかたちもあつたが、しかし、さうせざるを得ない
彼等のうしろにあるものは、新しい時代を呼び来たらしむるた
る。︵略︶私が﹁没落時代﹂といふ雑誌を創刊して小さな文学行
リゲンチユアの苦悶が私の個人的な宿命観と結びついたのであ
てきた。時代から言へばプロレタリア文学の全盛期で、インテ
めの必然的な芸術衝動ではなくて、文壇に卑俗なる地位を獲得
動を起したのもその頃である。
齧{の線﹂ ﹃文芸﹄昭13・6、﹃文学論﹄ 平凡社 昭16・7
するための発作的ーしかりそれは永続的意志によるものです
らない 野心の現れにすぎない。
や偽善を徹底的に追及し、プロレタリア文学作家の文壇意識を非難
尾崎士郎は自らの体験から、特に知識人の社会主義運動の﹁嘘﹂
のは、︿インテリゲンチユアの苦悶﹀という文言であり、この苦悶か
代との関係が破綻し始めたことをさしているが、むしろ注目したい
ここで︿私の生活に大転換期﹀があらわれたというのは、宇野千
所収︶
してきた。
ら﹁没落時代﹂という雑誌を創刊したという告白だ。宇野千代の
︵﹁虚無洞閑話﹂ 都新聞 昭2・3・1∼5︶
ところが昭和の時代に入ってマルクス主義の浸透が学生や知識人
﹁新しき生活への出発﹂︵﹃婦人公論﹄昭3・12︶は尾崎士郎との別
離について書いたものだが、その中で当時の尾崎士郎が語っていた
に拡大し、文壇も﹁左傾﹂が流行するようになってくると、さすが
に彼も単に文学者や知識人の﹁左傾﹂を文壇意識、野心、ヒロイズ
ことを次のように述べている。
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うといふことに一つの情熱を感じはじめたらしく見えました。
インテリゲンチヤに残された歴史的使命といふべきものを果さ
彼は自分がインテリゲンチヤであるといふ意識の上に立つて、
ムといった側面だけで断罪することに、疑問を持ち始めた。
そこで﹁知識人﹂はいかにあるべきか、果たすべき役割は何かに
ついての苦悩が始まった。
昭和二年に入つて私の生活に大転換期があらはれた。幾分自ら
尾崎士郎の文学的出発 ︵都築久義︶
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(「
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うに書いている。ここにはプロレタリア文学隆盛を前にした尾崎の
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第三十三号
彼に従ふとインテリゲンチヤは彼自身の生活の中に没落を完成
立場を象徴している様子がうかがえる。
没落主義者尾崎士郎氏について一言する。︵略︶彼が彼自身の没
その頃尾崎は、雑誌﹁没落時代﹂を計画していた。インテリゲ
物理的法則とは文化を両断し二種類の人類をつくる。一つは天
氏の没落精神主義とは正反対に物理的法則を以てである。この
でもわずかではあるが、そ
しなければならぬといふのであります
また、榊山潤の﹃馬込文士村﹄︵前出︶
落に向つて大いに精している間に、﹁絶対に没落することなき﹂
ンチヤの没落という言葉がはやっていて、尾崎の雑誌も、もち
に一つは地に、 そして彼は恐らくその中間から徐々に没落
のことにふれている。
ろんその線に副ったものである。没落以外の運命がないのな
しやうといふのだろう。
階級は加速度的に益々全地上を覆ひつsある。それは正に尾崎
ら、没落することに情熱を持とうというのが、尾崎の発想で
あった。
この一文に応えるかのように、尾崎は昭和四年二月号﹃新潮﹄に
まで甦生するか、貴族的超人となつて昇天するか、あるいは現状に
インテリゲンチヤアの没落には、︿プロレタリアートの生活の中に
である。彼はこの中で、︿われわれは没落しつつある﹀と先ず述べ、
管見では﹁没落への情熱について﹂︵﹃創作月刊﹄昭3・3︶が最初
風のものが描かれ、それを右下の断髪の女性が見ている図柄だ。題
表紙の左に人間が逆さに落ちて行く姿が、右には柄の長いしゃもじ
同誌は本文42頁の小冊子ながら中川紀元の画いた表紙が奇抜だ。
時代﹄の創刊︵昭4・4︶にこぎつけたのである。
のために費したといつていいのであらう﹀と言い、いよいよ﹃没落
﹁没落途上の現象﹂を寄せ、︿わたしは過去一年間をこの問題の解決
踏み止つて自ら首をくくつて虚空にぶら下る﹀かの三つの方向があ
字﹁没落﹂の文字が手書きの崩し字であるのも、表紙の絵柄にはぴっ
尾崎自身がインテリゲンチヤの没落について書いたエツセイは、
ると語っている。
たりしている。雑誌の寄稿者もなかなか豪華だ。尾崎士郎が巻頭言
松二、伊東永之介らが論文を載せ、川端康成、鈴木彦次郎、中野秀
﹁没落主義に関して﹂を書き、萩原朔太郎、浅見淵、雅川滉、小野
尾崎士郎の﹁没落主義﹂は、プロレタリア文学陣営でも無視でき
なかったらしく、﹃文芸戦線﹄︵昭3・12︶で山村梁一がコ九二八
年の文壇的決算に関するノート﹂で、勝ち誇ったかの口調で次のよ
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人、中河与一らが随筆・小説を執筆している。
尾崎士郎が自ら提唱した没落主義も結局は未消化に終わり、﹃没
落時代﹄も後が続かなかったようだ。しかし、広津和郎の小説の題
名を借りれば、﹁昭和初年のインテリ作家﹂︵﹃改造﹄昭5・4︶であっ
た尾崎士郎が、プロレタリア文学とアメリカニズムの狭撃にあっ
て、苦悩したあげく﹁没落主義﹂を唱えだしたであろうことは容易
に想像がつく。
ただ、彼の苦悩時代もやがて数年後には終わった。彼が没落する
前に﹁人生劇場﹂が脚光をあび、文壇の中央に踊り出たのである。
﹁人生劇場﹂が都新聞に連載されたのは昭和八年三月、刊行された
のは十年三月であり、いちやく﹁人生劇場﹂ブームを惹起し、文壇
の流行作家となった。︿物理的法則﹀によつて向上するはずだったプ
ロレタリア文学の方は逆にこの頃に解体し、﹁没落﹂してしまった。
尾崎士郎はその文学的出発から﹁芸術の情人は生活の現実であつ
て論理の現実ではない﹂︵前出︶との文学的姿勢を貫き、論理や合理
ではなく、むしろ非合理や非知性に満ちた人間の心情や感情に目を
向け、人情の機微を描き続けたのである。論理の脆弱さや正義の嘘
を身をもって知っていたからである。
尾崎士郎の文学的出発 ︵都築久義︶
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