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石刻史料から見た探鳥赤軍の歴史
石刻 史料 か ら見 た探 馬赤 軍 の歴 史 村岡 倫 は じめ に モ ン ゴ ル 帝 国 時 代 、 探 馬 赤(探 馬 臣)と 呼 ば れ た 軍 団 が 各 地 に 派 遣 され た こ と は よ く 知 ら れ て い る 。 そ の 実 体 に つ い て は 古 く か ら論 争 が あ り、 国 内 外 で 数 多 く の 研 究 が な さ れ て き た が 、 松 田 孝 一 の 研 究[松 田1987、1996な ど]に よっ て、ほぼ議論 は 決 着 を 見 た と 言 っ て よ い 。 そ れ を 踏 ま え て 探 馬 赤 の 定 義 を 示 す と次 の 通 りで あ る。 ① 探 馬 赤 とは 、 モ ン ゴル の 各 千 戸 組 織 や 百 戸 組 織 、 あ る い は 十 戸 組 織 か ら一 定 人 数 を 徴 発 し 、 そ の 徴 発 され た 兵 員 と 、 服 属 地 域 の 集 団 か ら徴 発 さ れ た 兵 員 と で 編 成 され た 混 成 部 隊 で あ り 、 そ し て 、 そ の 軍 団 は 辺 境 に 駐 屯 し て 鎮 戌 軍 と な る 。 ② 探 馬 赤 ∼ 探 馬 臣 の 語 源 に つ い て は 、 「探 馬 」 に 蒙 古 語 の 行 為 者 を 示 す 接 尾 辞 「chi(赤)∼chin(臣)」 が 付 け られ た も の で あ り、 そ の た め 、 こ れ ま で 「探 馬 赤 」 は 、 蒙 古 語 の 語 彙 と 見 な さ れ や す か っ た が 、 実 際 は 、 「探 馬 」 は す で に 宋 代 の 史 料 に も 見 え る 漢 語 の 軍 制 用 語 で 、 斥 候 の 騎 馬 兵 を 言 う。 つ ま りモ ン ゴ ル 時 代 の 馬 赤」 は 、宋代 の ③ 「 探 「 探 馬 」 に 、 モ ン ゴ ル 語 の 接 尾 辞 が 付 け られ た 合 成 語 で あ る。 『元 史 』 の 兵 志 な ど に は 、 「 探 馬 赤 軍 」 と い う表 現 が あ る が 、 こ こ で 使 用 さ れ て い る 「軍 」 と い う語 は 「 軍 隊 」 と い う意 味 で は な い 。 『元 史 』 に お け る 「軍 」 「軍 士 」 は 一 般 に 「兵 士 」 を 示 す 。 し た が っ て 、 「 探 馬 赤 」 と い う語 は 軍 団 を 指 し 、 「 探 馬 赤 軍 」 と い う語 は 、 そ の 軍 団 の 兵 士 を 指 し て い る 。 ④ 従 来 、 探 馬 赤 の 配 備 は 、 『元 朝 秘 史 』 で は 、 第2代 オ ゴ デ イ が 自 ら の4大 功 績 の 一 つ と して 挙 げ て い る こ とか ら 、 オ ゴ デ イ 時 代 に 初 め て 行 な わ れ た よ うに 考 え ら れ て い た が 、 実 は 、 チ ン ギ ス ・カ ン 時 代 に す で に 策 定 さ れ て い た も の で あ っ た 。 し か し 、 彼 の 死 に よ っ て 、 実 施 に は 至 らず 、 そ の 死 後 、 オ ゴ デ イ と 監 国 の 地 位 に あ っ た トル イ に よ っ て 初 め て 実 施 され 、や が て オ ゴ デ イ の 即 位 に よ っ て 、さ ら に 、 東 は 高 麗 か ら 西 は イ ラ ン に 至 る ま で 、帝 国 全 土 に 展 開 され る こ と に な っ た(な お 、 川 本2010は 、松 田 の研 究 な ど を踏 ま え 、特 に 帝 国 西 方 に 展 開 され た 「タ ン マ 」 に 関 して 新 知 見 を 示 して い る)。 し か し 、 こ れ ま で は 、 史 料 の 不 足 か ら 、 探 馬 赤 軍(探 馬 赤 の 兵 士)徴 発 の様相 、 服 属 地 域 の 集 団 と の融 合 、 そ の 後 の 状 況 な ど、 具 体 的 な 探 馬 赤 軍 史 を 通 史 的 に構 築 し た 研 究 は な か っ た 。 近 年 、 中 国 で は 各 地 の 石 刻 史 料 を 紹 介 す る 書 籍 が 数 多 く発 刊 され 、 現 地 調 査 も比 較 的 自 由 に 行 な え る よ うに な り、 モ ン ゴル 時 代 、 中 国 に展 開 し た モ ン ゴル 諸 王 と 各 遊 牧 集 団 の 活 動 に つ い て 、 編 纂 史 料 だ け で は 知 り 得 な い 諸 相 が 明 ら か と な りつ っ あ る 。 そ の よ う な 状 況 を 踏 ま え 、 こ こ で は 、近 年 の 石 刻 史 料 調 査 ・ 研 究 か ら探 馬 赤 軍 史 の 構 築 を 試 み た い 。 1 1.モ ン ゴル 千 戸 か らの 探 馬 赤 軍 の 選 抜 と漢 地 定 着 (1)探 馬 赤 タ ガ チ ャル 軍 団 の 編 成 第2代 オ ゴデ イ の 金 朝 親 征 の 際 、 フ ウシ ン族 タ ガ チ ャル とジ ャ ラ イ ル 族 テ ム テ イ 率 い る 軍 団 が 先 陣 を 切 っ て 山 西 か ら河 南 へ と 攻 め 込 ん だ 。 彼 ら は 、1234年 の 金 国滅 亡 後 も 、 モ ン ゴル に 帰 還 せ ず 、 タ ガ チ ャ ル の 軍 団 は 平 陽 西 部 の 聞 喜 県 東 鎮 を 根 拠 地 に 、テ ム テ イ の 軍 団 は 、そ れ と 一 部 重 な る 形 で 平 陽 か ら太 原 に 至 る 地 域 に 駐 屯 し た 。 松 田 は 、 こ の タ ガ チ ャ ル の 軍 団 は 探 馬 赤 で あ っ た と 明 言 して い る 。 そ し て 、 そ の 兵 数 に つ い て は 、 次 の よ う に 推 測 し て い る[松 『元 史 』 巻98、 田1987、44--45頁]。 兵 志 に よれ ば 、 当時 の 兵 員 徴 集 方 法 は 、 太 宗 元 年(1229)十 一.月、 詔 兄 弟 諸 王 諸 子 井 衆 官 人 等 所 屡 去 慮 簸 軍 事 理 、 有 妄 分彼 此者 、達 魯花 赤 井官員 皆罪 之。 毎一 牌子 籏 軍一名 、限年 二 十以上 、三十 以 下 者 充 、イ 乃定 立 千 戸 、 百 戸 、 牌 子 頭 。 と い う も の で あ っ た 。 全 領 主 の 配 下 に お い て 、10戸(1牌 ら30歳 の 者 を 選 抜 し 、 選 抜 し た 兵 員 を10進 子)に つ き1名 、20歳 か 法 的 に 組 織 した の で あ る。 この よ うな 兵 員 選 抜 の 例 と し て は 、後 に 憲 宗 モ ン ケ の 時 代 に 全 モ ン ゴ ル の 兵 員!0人 か ら2人 が 選 抜 され 、 新 軍 編 成 が な さ れ 、 そ の 軍 団 を 率 い て フ レ グ が イ ラ ン へ 派 遣 さ れ た と い う こ とが あ っ た 。 タ ガ チ ャ ル の 新 軍 編 成 に あ た っ て も 、 モ ン ゴ ル の 全 軍(!29の の10人 隊 ご と に1名 計 算 上 、 約1.3万 あ る い は2名 ∼2.6万 千 戸 ・=129,000人) が 選 抜 され 、 そ うす る と 、 タ ガ チ ャ ル 軍 の 規 模 は と な る 。 し か し、129の 模 を 満 た し て い た わ け で は な い か ら 、実 際 は1万 千 戸 隊 は 、必 ず し も千 人 の 兵 員 規 ∼2万 程 度 で あ っ た だ ろ う。以 上 が 松 田 の 推 測 で あ り 、お お む ね 首 肯 で き よ う。 こ の 軍 団 は 、そ の 後 、河 南 に 定 着 し 、「四 万 戸 蒙 古 軍 」 と して 、 後 に 南 宋 征 服 戦 に お い て も 主 力 と な り、 さ ら に 、 「河 南 准 北 蒙 古 軍 都 万 戸 府 」 の 一 部 と な っ た[松 (2)「 田1987、57頁;堤1992、56頁]。 忽 失 神 道碑 」 よ り で は 、全 モ ン ゴ ル 千 戸 集 団 の10戸(10人 隊)ご と に1名 あ る い は2名 と言 っ て も 、 具 体 的 に ど の 千 戸 か ら ど の よ う な 者 が 選 ば れ た の か 。 『元 史 』 等 編 纂 史 料 は 、 選 抜 す る 政 権 側 の 立 場 で 記 され て お り 、 選 抜 さ れ た 側 の 立 場 で そ れ を 記 す こ と は な い 。 し か し 、 石 刻 史 料 に は 、 そ れ を 記 す も の が あ り、 そ れ が 賜 』、 山 西 人 民 出 版 社 、1996年 「 忽 失 公 神 道 碑 」(『 山 西 碑 に 所 収 、正 式 な 題 名 は 「 大 元贈朝 列 大夫龍 興路 富州達 魯 花 赤 騎 都 尉 追 封1龍西 郡 伯 忽 失 公 神 道 碑 井 銘 」、 村 岡2010参 照)で あ る。 そ れ に は 次 の よ うに記 され て い る。 公名 忽 失 、蒙 古雪 尼垂 人 氏。 其先朶忽 朗 、 世居 龍 池河 、隷 闊 里干 大王位 下 、 職 統 軍 百 夫 長 。 〈中 略 〉 尋 命 大 帥 塔 察 児 統 屡 聴 節 制 。 金 平 廼 卜夏 毫 用 家 。 有 妻 撒 児 傑 、 生 男 二 人 、 長 忽 失 、 即 公 也。 ・ 一 ・ 忽失 (フ ウ シ テ イ)は 雪 尼 毫(ス ニ ト)部 族 出 身 で 、 父 の 朶 忽 朗(ド ク ラ ン?) は 、 も と も と チ ン ギ ス ・カ ン の 庶 子 で あ る 闊 里 干(コ ル ゲ ン)大 王位 下 、す な わち コ ル ゲ ン ・ ウル ス に 所 属 して い た 。 後 に 、 彼 は 、 金 国 遠 征 の 際 に 、 コ ル ゲ ン ・ ウル ス 所 属 の 千 戸 か ら選 抜 さ れ 、 塔 察 児(タ ガ チ ャ ル)軍 に 編 入 し た と い う。 「百 夫 長 」 と 呼 ば れ る の も そ れ を 踏 ま え た 上 で の こ と で あ ろ う。 そ の 子 の 忽 失 も 「百 夫 長 」 で あ っ た 。 金 国 滅 亡 後 、 タ ガ チ ャル が 平 陽 聞 喜 県 に駐 屯 した 際 に 、 朶 忽 朗 も 近 傍 の 夏 県 に 定 着 した 。 忽 失 が い っ 生 ま れ た の か は 碑 に 記 さ れ て い な い 。 し か し 、1262年 った 「李 壇 の 乱 」 鎮 圧 に 活 躍 し た こ と 、 そ の 後 の 戦 役(具 れ た こ と が 記 さ れ て い る 。享 年33歳 に 山東 で 起 こ 体 的 に は 不 明)で 殺害 さ で あ っ た とい う。忽 失 が 亡 く な っ た の が 、 「李 壇 の 乱 」か ら ど れ ぐ ら い 時 を 経 た 後 の こ と な の か わ か ら な い が 、彼 が 生 ま れ た の は 、 33歳 で 亡 く な っ た と い うそ の 享 年 か ら推 し測 れ ば 、 父 の 朶 忽 朗 が タ ガ チ ャ ル 軍 に 編 入 し 、金 国 遠 征 が 開 始 さ れ た1230年 以 降 で あ る こ と は 間 違 い な い 。1234年 の 金 国滅 亡 後 、 朶 忽 朗 が 夏 県 に 居 住 す る よ う に な っ て か ら の 可 能 性 も あ ろ う。 忽失 (フ ウ シ テ イ)と い う名 は フ ウ シ ン 族 の 男 で あ る こ と を 示 し て い る 。 父 の 朶 忽 朗 が ス ニ ト族 で あ る こ と と 矛 盾 す る よ う だ が 、 碑 に 母 と 記 さ れ る 撒 児 傑 が フ ウ シ ン族 で あ れ ば 、 「フ ウ シ テ イ 」 と 名 付 け られ る 可 能 性 は あ る 。 とす る と 、 こ の 女 性 とフ ウ シ ン族 の タ ガ チ ャル は 何 ら か の 血 縁 関 係 が あ っ た こ と も考 え な け れ ば な ら な い だ ろ う。 朶 忽 朗 が タ ガ チ ャ ル と の 関 係 で フ ウ シ ン 族 の 撒 児 傑 を 嬰 り 、 忽 失 が 生 ま れ た の が 、 タ ガ チ ャル 軍 団 の 金 国侵 入 後 、 あ る い は 金 国 滅 亡 後 で 、 そ れ ぞ れ 聞 喜 県 ・夏 県 に 居 住 す る こ と に な っ て か ら だ とす れ ば 、 タ ガ チ ャ ル 率 い る 探 馬 赤 は 、 女 性 を 引 き 連 れ て い た 、 つ ま り家 族 ぐ る み で 遠 征 を し た と い う こ と な る 。 改 め て 、 探 馬 赤 編 成 の 諸 相 を 考 え る必 要 が 出 て く る 。 こ の 点 は今 後 の 課 題 と した い 。 いず れ に して も 、 探 馬 赤 軍 第 二 世 代 で あ る忽 失 は 、 金 国 遠 征 中 の 漢 地 で 生 ま れ 、 漢 地 で 育 ち 、 そ して 漢 地 で 亡 くな っ た こ とに な る。 2.モ (1)「 ン ゴル と現 地 勢 力 との 融 合 忽 神公 神道碑銘 」 よ り 松 田 は 、 前 述 の タ ガ チ ャ ル 軍 団 の 動 向 を た ど る 史 料 と し て 、 胡 聰 之 撰 『山 右 石 刻 叢 編 』 巻37所 孫 で 、1282年 収 の 「忽 神 公 神 道 碑 銘 」 を 利 用 し て い る 。 こ の 碑 は 、 タ ガ チ ャ ル の 曾 か ら1314年 ま で そ の 軍 団 長 で あ っ た ベ ル ゲ ・ブ カ(伯 里 閣 不 花)の 道 碑 で あ る 。 平 陽 西 部 の 聞 喜 県 東 鎮 に 現 存 す る 。 そ れ に よ れ ば 、1252年 て 神 の記 事 と し 「四 万 戸 蒙 古 軍 井 諸 翼 漢 軍 」 と い う語 が 見 え 、 す で に 「諸 翼 漢 軍 」 と い う 旧 金 朝 領 の 住 民 か ら 選 抜 さ れ た 兵 員 が 付 属 し て い る こ とが わ か る。 『元 史 』 巻119、 塔察 児 伝 も 、 タ ガ チ ャ ル の 子 ベ ル グ テ イ が 父 か ら受 け 継 い だ 軍 団 名 を 「四 万 戸 蒙 古 漢 軍 」 と 記 し て お り 、 す で に こ の 時 点 で 、 タ ガ チ ャ ル の 軍 団 は 、 モ ン ゴ ル 兵 と漢 人 兵 の 混 成 部 隊 とな っ て い た 。 松 田 は 、 そ の 時 期 を 、 『元 史 』 巻152、 王珍伝 に、 庚 子 、 朝 廷 議 、 分 蒙 古 漢 軍 、 戌 河 甫 、以 珍 戌 唯 州 。 と あ る こ と か ら 、 金 朝 滅 亡 後 の 庚 子 の 年(1240)に は 、 「蒙 古 漢 軍 万 戸 」 隊 は 、 河 南 に 組 織 的 に 配 備 され 、 こ れ に よ っ て 、 タ ガ チ ャ ル の 軍 団 も 、 漢 人 兵 員 を 編 入 して 、 四 万 戸 の 組 織 に な っ た も の と 考 え て い る[以 (2)「 上 、 松 田1987、51頁]。 重修 真沢 廟記 」 よ り こ の よ う に し て 、 千 戸 集 団 か ら選 抜 さ れ た 蒙 古 の 兵 員 は 、 現 地 の 人 々 と 融 合 して い っ た 。 タ ガ チ ャ ル が 駐 屯 し た 聞 喜 県 か ら 東 へ 直 線 距 離 で 約200k皿 陵 川 県 に 西 渓 二 仙 廟 と い う廟 が あ り、 そ こ に1248年 、 平陽 南東部 の 立石 の 「 重 修 真 沢 廟 記 」 とい う 碑 刻 が 現 存 す る。 そ の 碑 陰 に は 、 立 石 に 関 わ っ た 現 地 の 有 力 者 が 数 多 く記 され て い る が 、 そ の 中 に 、 「大 蒙 古 國 」 所 属 と して 、 何 人 か の 有 力 者 の 名 が 挙 げ ら れ て い る 。 そ の 例 を い く つ か 下 記 に 示 し て お く。 合刺撒 妻李氏 恨 急潭屋 妻 張氏 女 合刺真 小達達 兀魯都 妻 張氏 男没 里赤 兀奴 阿赤 李花官 人 妻 周氏 男醜 醜 韓家 奴 妻 趙氏 男阿勒 口 察 牽海 妻趙氏 男醜漢 女昔刺 真 現 地 の 漢 人 を 妻 に し 、 子 を な す 非 漢 人 の 姿 が 見 て 取 れ よ う。 探 馬 赤 は 、 そ の 定 義 の 一 つ に あ っ た よ う に 、 「蒙 古 の 各 千 戸 組 織 や 百 戸 組 織 、 あ る い は 十 戸 組 織 か ら 一 定 人 数 を 徴 発 し 、 そ の 徴 発 され た 兵 員 と 、 服 属 地 域 の 集 団 か ら徴 発 さ れ た 兵 員 と で 編 成 さ れ た 混 成 部 隊 」 で あ っ た と い う事 実 を 、 こ の 碑 は 語 っ て く れ て い る 。 陵 川 に 入 っ た モ ン ゴ ル 軍 団 の 実 態 は 不 明 で あ る が 、 タ ガ チ ャ ル 軍 団 との 関 係 は 可 能 性 と して は あ り え よ う。 こ の よ うに 、 「重 修 真 沢 廟 記 」 は 、 漢 地 に 定 着 し た モ ン ゴ ル が 現 地 で 妻 を 迎 え た こ と を 記 し て お り、 「忽 神 公 神 道 碑 銘 」 と 並 ん で 、 モ ン ゴ ル の 現 地 勢 力 と の 融 合 を 示 す 重 要 な 史 料 と言 え る。 3.漢 (1)「 地定着 後の探 馬赤軍 の 生活 昭勇 大将軍 万 戸八撒 児 徳政 之碑 」 よ り 前 述 の 通 り、 フ ウ シ ン 族 ベ ル ケ ・ブ カ の 神 道 碑 で あ る 「忽 神 公 神 道 碑 銘 」 所 収 の 『山 右 石 刻 叢 編 』 に は 、 巻34に 撒 児)の 、1337年 立 石 に か か る ベ ル ケ ・ブ カ の 孫 バ サ ル(八 碑 、 「昭 勇 大 将 軍 万 戸 八 撒 児 徳 政 之 碑 」 も 所 収 され て い る 。 こ れ に よ っ て 、 彼 も 先 祖 同 様 、 聞 喜 県 東 鎮 で 軍 民 を 支 配 し、 各 地 へ 兵 員 を 派 遣 し つ つ 、 そ の 地 で 牧 畜 を 営 む 生 活 を 送 り続 け て い た こ と が 分 か る 。 タ ガ チ ャ ル と そ の 子 孫 達 は 、対 南 宋 作 戦 に も 常 に 参 加 し て 河 南 に 派 兵 し 、後 に 「 河 南 准 北 蒙 古 軍 都 万 戸 府 」 の 一 部 と な り[松 田1987、57頁;堤1992、56頁]、 4 そ の後 も各 地 へ の 兵 員 派 遣 を 行 な っ て い る。 松 田 に よれ ば 、 例 え ば 、 江 西 で の 軍 事 活 動 へ の 派 兵(1281-1282)、 鎮 圧(1287)、 ト ゴ ン 太 子 の 交 趾 遠 征 へ の 参 加(1287-1288) ベ ル ケ ・ブ カ の 湖 広 駐 屯(1291)、 、 ナ ヤ ン の乱 ク ビ ライ 死 去 後 、成 宗 テ ム ル の 治 世 に な る と 、 後 の 武 宗 カ イ シ ャ ン の 西 北 モ ン ゴ リ ア 出 鎮 へ 従 っ た り(1296-1305)、 甘 粛 辺 境 で 駐 屯 軍 と な っ た り(14世 紀 初 め)、 重 要 な 役 割 を 果 た し た[松 田1987、 58頁]。 (2)河 南 各 地 に 残 る碑 文 よ り 池 内功 は 、 河 南 各 地 を 調 査 し、 実 見 した碑 文 か ら、 タガ チ ャ ル 配 下 の探 馬 赤 軍 で あ っ た 可 能 性 が 高 い 兵 員 た ち の 子 孫 の 動 向 を活 写 した 。 池 内 の 取 り上 げ た 碑 は 下 記 の 通 り で あ る[池 内2002]。 「大 元 故 栄 禄 大 夫 河 南 江 北 等 処 行 中 書 省 平 章 政 事 追 封 櫨 忠 協 義 宣 力 功 臣 詮 康 定 関 関 公 神 道 碑 銘 」=ナ イ マ ン族 関 関 の 碑 「大 元 武 略 将 軍 管 軍 千 戸 所 達 魯 花 赤 合 刺 魯 公 碑 」=カ ル ル ク族 虎 □ 赤 の碑 「 大 元贈輔 上将 軍漸 東道 宣慰使都 元 帥護 軍臨汝 郡公神 道碑 銘」 =カ ン ク リ族 の 塔 里 赤 の 碑 「 故 栄 禄 大 夫 平 章 政 事 輩 国 武 恵 公 神 道 碑 銘 」=・合 刺 銃 の 碑 彼 ら の 先 祖 た ち は 、 か つ て タ ガ チ ャ ル 配 下 の 探 馬 赤 軍 で あ っ た 可 能 性 が 高 く[池 内2002、51-52頁]、 オ ゴ デ イ ・カ ア ン 時 代 の 金 朝 征 服 戦 で 活 躍 し 、 さ ら に そ の 子 孫 た ち は 南 宋 遠 征 に も従 い 、 そ の 後 河 南 地 方 に 留 ま っ た。 河 南 に は ナ イ マ ン 、 カ ル ル ク 、 カ ン ク リ の 人 々 が 数 多 く居 住 し て い た の で あ る 。 池 内 は 、関 関 の 神 道 碑 に 依 拠 し 、彼 の 河 南 で の 生 活 ぶ り を 次 の よ う に 記 し て い る 。 当時 、 諸 部 落 は 、 郡 邑 に 散 処 し、 径 役 が な か っ た 。 法 律 で は 漢 人 に 対 して 所 持 が 禁 止 され て い る 弓 矢 、 剣 、 兵 侯 を持 っ こ と が で き 、 毎 日の よ うに 遊 猟 して い た 。 ま た 、 沈 丘 地 方 が 遊 牧 に 適 して い る の で 、 往 来 し て そ の あ た り の 豪 傑 と 知 り合 っ た[池 内2002、40-42頁]。 ま た 、『許 昌 県 志 』 巻!6「 長 社 県 ヂ▲ 哀 公 去 思 碑 」 か ら 、 河 南 中 牟 県 の 南100k皿 ほ どの 許 昌 地 方 で は 、 モ ン ゴ ル 軍 人 、 色 目軍 人 が 漢 人 農 民 と 雑 居 しつ つ も 、 農 作 業 に は 従 事 せ ず 、 彼 ら は 平 和 時 に は 狩 猟 牧 畜 に 従 事 す る の が 常 で あ っ た こ と が 分 か る[池 2002、42頁]。 4.元 (1)洛 内 舩 田 善 之 も 、元 代 河 南 の 多 元 社 会 の 様 相 を 指 摘 し て い る[舩 田2006]。 末 の探 馬赤軍 の 末喬 たち 陽 出 土 「賓 因 赤 答 忽 墓 誌 」 よ り 至 正11年(135!)夏 、 河 南 汝 頴 地 方 で 紅 巾 の 乱 が 起 こ っ た 。 後 に 、1368年 、元 朝 の 中 国 本 土 の 放 棄 、 明 朝 成 立 の き っ か け と な る この 反 乱 は 、 勃 発 ま もな く、 元 朝 政 府 軍 だ け で は 抑 え き れ な く な り 、 そ の た め 、 河 南 沈 丘 の 軍 閥 チ ャ ガ ン ・テ ム ル が 子 弟 従 者 数 百 人 を 率 い て 反 乱 軍 討 伐 の た め に 立 ち 上 が っ た 。 チ ャ ガ ン ・テ ム ル に 関 し て は 、 『庚 申 外 史 』 の 至 正13年 の 条 に 、 「頴 州 沈 丘 探 馬 赤 軍 察 筆 帖 木 児(チ ム ル)」 と い う表 現 が あ り 、 ま た 、『元 史 』 巻141、 父 コ コ テ イ(闊 闊 台)は ャガ ン ・ テ 察 窄 帖 木 児 伝 に よれ ば 、彼 の 曾 祖 、 か つ て 河 南 遠 征 に 従 っ た と い う。 コ コ テ イ は 、 タ ガ チ ャ ル 配 下 の 探 馬 赤 軍 で あ っ た 可 能 性 が 高 く 、 チ ャ ガ ン ・テ ム ル は そ の 子 孫 で あ っ た 。 チ ャ ガ ン ・テ ム ル 挙 兵 の 際 、 彼 の 部 将 の 一 人 と な っ た サ イ ン ・チ ダ ク(春 忽)の 墓 誌 が1990年 が な され た[趙 洛 陽 で 発 見 さ れ た,そ 振 華1994、 村 岡2007ほ 因赤答 の 後 、 こ の 碑 に 関 して 、 い く つ か の 研 究 か 、 『文 物 』1996年 第2期 、22-33頁 に春因 赤 苔 忽 墓 の 詳 細 な 発 掘 調 査 報 告 が あ る]。 「春 因 赤 答 忽 墓 誌 」 は 、 元 末 政 治 史 に お い て 、『元 史 』 等 の 欠 を 補 い 、 こ れ ま で 不 明 確 で あ っ た こ と 、 あ る い は 誤 っ て 理 解 さ れ て い た こ とを 明 らか にす る 重 要 な 史 料 で あ る。 「審 因 赤 答 忽 墓 誌 」 に よ れ ば 、 サ イ ン ・チ ダ ク は バ ヤ ウ ト族 で 、 先 祖 は や は り チ ャ ガ ン ・テ ム ル の 先 祖 と 同 様 、 河 南 遠 征 に 従 い 、 そ の 後 、 河 南 に 定 着 し た と い う。 彼 も ま た 、 タ ガ チ ャ ル 配 下 の 探 馬 赤 軍 で あ っ た 可 能 性 は 高 い 。 サ イ ン ・チ ダ ク の 妻 は 、 チ ャ ガ ン ・テ ム ル の 姉 妹 で あ り、 そ の 関 係 も あ っ て 、 彼 の 挙 兵 に 従 っ た 。 チ ャ ガ ン ・テ ム ル は サ イ ン ・チ ダ ク の 子 で 、 自 分 の 甥 で あ る コ コ ・テ ム ル(拡 廓 帖 木 児) に 目 を か け 、 自 分 の 養 子 と し た 。 チ ャ ガ ン ・テ ム ル の 死 後 、 彼 の 軍 閥 を 受 け 継 い だ の は こ の コ コ ・テ ム ル で あ っ た 。 後 に 、 コ コ ・テ ム ル と そ の 軍 団 は 元 朝 最 後 の 命 運 を託 され る こ とに な る。 (2)混 成 部 隊 と し て の チ ャ ガ ン ・テ ム ル 軍 団 チ ャ ガ ン ・テ ム ル 軍 団 の 部 将 た ち に つ い て は 、 『元 史 』 の こ 箇 所 に そ の 名 が 列 挙 さ れ て い る 。 ま ず 、 巻45、 順 帝 本 紀 、 至 正19年(1359)8月 ① 察 筆 帖 木 児 督 諸 将 閻(原 文は 「閏 」、 中 華 書 局 本 は 戊寅 の条 、 「閻 」 に 訂 正 、 そ れ に 従 う) 思 孝 ・李 克 郵 ・虎 林 赤 ・費 因 赤 答 忽 ・脱 因 不 花 ・呂 文 ・完 哲 ・賀 宗 哲 ・孫 嘉 等 攻破 沐梁城。 そ して 、 巻141、 察筆 帖木 児伝 、 ② 八 月 、 諜 知 城 中 計 窮 、 食 且 尽 、 乃 与 諸 将 閻 思 孝 ・李 克 舞 ・虎 林 赤 ・春 因 赤 答 忽 ・ 脱 因 不 花 ・呂 文 ・完 哲 ・賀 宗 哲 ・安 童 ・張 守 礼 ・伯 顔 ・孫 嘉 ・銚 守 徳 ・魏 寳 因 不 花 ・楊 履 信 ・関 関 等 議 、 各 分 門 而 攻 。 ① よ り② に 多 く の 部 将 が 記 さ れ て お り 、16名 に の ぼ る が 、注 目す べ き は 、閻 思 孝 ・ 李 克J"f・ 呂 文 ・賀 宗 哲 ・張 守 礼 ・孫 嘉 ・挑 守 徳 ・魏 春 因 不 花 と 、 そ の 半 数 の8名 漢 姓 を 有 し て お り 、 漢 人 と考 え ら れ る と い う こ と で あ る 。 魏 春 因 不 花(魏 カ)と い う 人 物 も い る が.こ が サ イ ン ・ブ れ は 元 代 で は よ く 見 られ る 、 漢 人 が モ ン ゴ ル 名 を 名 乗 っ た も の で あ ろ う。 楊 履 信 と い う人 物 も 記 さ れ て い る が 、 彼 に っ い て は 、 楊 と い う漢 姓 で あ る と い う だ け で 漢 人 と判 断 す る こ と は で き な い 。 そ れ は 、 モ ン ゴ ル の 南 宋 遠 征 に参 加 し、 探 馬 赤 軍 と し て 、 河 南 東 北 部 の ・,,,陽 県 に 定 住 し た タ ン グ ト人 に 楊 氏 一 族 が い る か ら で あ る 。 元 末 に は 、 そ の 一 族 の 楊 崇 喜 と い う人 物 が 知 ら れC舩 ま た 、 か つ て 、13世 田2006、107頁 参 照]、 紀 末 に カ イ シ ャ ン に 従 っ て 北 辺 に 出 征 し た 楊 教 化 と い う人 物 も タ ン グ ト人 で あ る[虞 集 『道 園 学 古 録 』巻42、 「楊 公 神 道 碑 」]。そ れ ら を 踏 ま え る と 、 、) ( こ の 楊 履 信 も タ ン グ ト人 で あ る 可 能 性 は 捨 て き れ な い 。 彼 の 出 自 の 確 定 は 今 後 の 課 題 と して お き た い。 と は 言 っ て も 、 探 馬 赤 の 後 喬 と 考 え ら れ る チ ャ ガ ン ・テ ム ル の 軍 団 の 中 に は 、 数 多 く の 漢 人 も 含 ま れ て い た こ と は 確 か で あ る 。前 述 の チ ャ ガ ン ・テ ム ル の 養 子 コ コ ・ テ ム ル の 妻 も 「毛 氏 」 で あ り[『 明 史 』 巻124、 拡 廓 帖 木 児 伝]、 漢 人 と考 え られ 、 混 成 部 隊 と して の探 馬 赤 は 、 ま さ し く元 末 に お い て も混 成 部 隊 と して 健 在 で あ っ た。 こ の こ と は ま た 、か つ て 、 「元 王 朝 対 明 王 朝 」 が あ た か も 「モ ン ゴ ル 民 族 対 漢 民 族 」 の よ うに 言 わ れ て い た こ とが あ っ た が 、 決 して そ うで は な い こ と を雄 弁 に 物 語 っ て も い る。 い まや 命 運 が 尽 き よ う と して い る 元 朝 を 、 命 が け で 守 ろ う と した 漢 人 た ち も 数 多 く い た の で あ る 。 探 馬 赤 は 、 漢 地 で の モ ン ゴ ル ・漢 人 の 共 生 を 考 え る 時 、 ま さ し く 、 元 朝 一 代 を 通 じ て 重 要 な 軍 団 で あ っ た と 再 認 識 で き よ う。 む すび にか えて 以 上 、 石 刻 史 料 を材 料 に 、 探 馬 赤 軍 史 の 構 築 を試 み た 。 しか し、 使 用 で き る 史 料 は 、 あ く ま で 今 の と こ ろ 知 られ て い る碑 文 だ け で あ り、 探 馬 赤 発 生 時 の 様 相 が 分 か る 人 物 ・軍 団 、 漢 地 定 着 と 現 地 勢 力 と の 融 合 が 分 か る 人 物 ・軍 団 、 定 着 後 の 生 活 ぶ り に 分 か る 人 物 ・軍 団 、 そ し て 元 末 の 動 向 が 分 か る 人 物 ・軍 団 と 、 対 象 は 一 定 し て お らず 、残 念 な が ら、 同 一 の 人 物 とそ の 子 孫 、 あ る い は 同一 の 軍 団 の 歴 史 を た どれ た わ け で な い 。 し か し、 オ ゴ デ イ 時 代 に 発 生 し た 探 馬 赤 軍 は 、 元 末 ま で 、 お お よ そ こ こ で 示 した よ うな 歴 史 を た どっ た の で は な い だ ろ うか。 こ こ で 、 改 め て モ ン ゴル 時 代 の 探 馬 赤 軍 の 歴 史 を 概 略 し て お こ う。 オ ゴデ イ 時 代 、 モ ン ゴル は 、 モ ン ゴル の 各 千 戸 組 織 や 百 戸 組 織 、 あ る い は 十 戸 組 織 か ら 一 定 人 数 を 徴 発 し、 そ の 徴 発 さ れ た 兵 員 と 、 服 属 地 域 の 集 団 か ら徴 発 さ れ た 兵 員 と で 探 馬 赤 を 編 成 した 。 例 え ば 、 も と も と コ ル ゲ ン ・ウ ル ス に 所 属 し て い た バ ヤ ウ ト族 の 朶 忽 朗 は 、10人 か ら1人 な い し2人 を徴 発 され た 際 に 抽 出 され 、 も との 所 属 を 離 れ て タ ガ チ ャ ル 率 い る 探 馬 赤 軍 と な っ て い る 。探 馬 赤 所 属 の モ ン ゴ ル 兵 士 は 、 金 朝 征 服 戦 に 従 事 し、 金 朝 滅 亡 後 も 、 モ ン ゴ ル へ は 帰 還 せ ず 、 現 地 に駐 屯 して 鎮 戌 軍 と な っ た 。 探 馬 赤 は 、 女 性 も 含 め た 家 族 を 伴 う遠 征 軍 で あ っ た と 考 え られ 、 家 族 も漢 地 に 定 着 した 。 定 着 後 は 、 現 地 勢 力 との 融 合 も進 み 、 モ ン ゴル 兵 士 が 漢 人 女 性 と婚 姻 を結 ぶ 例 も 多 くな る。 そ して 各 地 へ 兵 員 を 派 遣 しっ つ 、 平 和 時 に は そ の 地 で 牧 畜 を 営 む 生 活 を 送 り続 け 、 時 は 経 ち 、 元 末 を 迎 え る こ と に な る。 探 馬 赤 軍 の 後 喬 た ち は 、 元 末 で も 、 モ ン ゴ ル(非 漢 人)・ 漢 人 の 混 成 部 隊 と し て 健 在 で あ っ た 。 前 述 の チ ャ ガ ン ・テ ム ル 、 サ イ ン ・チ ダ ク 、 コ コ ・テ ム ル ら は 、 お そ ら く 、河 南 で 生 ま れ 、 河 南 で 育 っ た 。 チ ャ ガ ン ・テ ム ル は 、 多 く の 漢 人 部 将 を 率 い 、 元 朝 を 揺 る が す 紅 巾 の 乱 鎮 圧 の た め に 立 ち 上 が っ た 。 チ ャ ガ ン ・テ ム ル の 軍 団 を 受 け 継 い だ コ コ ・テ ム ル は 、1368年 の 元 の 中国 本 土 放 棄 後 も 、 モ ン ゴル 朝 廷 と共 に各 地 で 明 軍 と 転 戦 し 、 つ い に は 先 祖 発 祥 の 地 モ ン ゴ ル 高 原 に 戻 っ た 。 そ して 西 北 モ ン 7 ゴ ル の ア ル タ イ の 地 で 死 没 す る 二 と に な 盗 、 妻 の 芒氏 は 、 最 後 ま で 夫 と行 動 を 共 に し 、 同 じ く ア ル タ イ で 、 夫 に 殉 じ た と い う[『 明 史 』 巻124、 拡 廓 帖 木 児 伝]。 探 馬 赤 軍 の 研 究 に 関 して は 、 今 後 も 中 国 各地 で 発 見 され る で あ ろ う石 刻 が 重 要 な 史 料 と な る こ と は 言 う ま で も あ る ま い(/も ち7)ん 、 これ ま で に 発 見 され て い る 石 刻 史 料 の 保 全 ・保 護 も 重 要 な 課 題 で あ ろ う。 そ の 意 味 で も 、 最 後 に 、 今 回 取 り上 げ た 石 刻 史 料 の 中 で 、 私 が 実 見 で き て い る もの の 現 状 を述 べ て お きた い。 「忽 失 神 道 碑 」 は 、2008年8月 時 点 で 、L〕西 省 夏 県 廟 前 鎮 楊 村 の 畑 の 中 に あ る 忽 失 墓 遺 跡 に 現 存 し て い た 、,た だ し 、 前 述 の 『山 西 碑 賜 』 に 掲 載 さ れ る 拓 影 を 見 る と、 碑 が 三 つ に 割 れ て い るの が 分 か る が 、 現 地 に は そ の 真 ん 中 の 部 分 と台 座 だ け が 残 され て い た 。 村 の 古 老 に よれ ば 、 自分 の 子 供 の 頃 に は 、 碑 は 台 座 の 上 に しっ か り と 立 っ て い た が 、 い つ の 間 に か 倒 れ て お り 、 そ し て 割 れ て い た とい う。 ま た 、 『中 国 文 物 地 図 集 ・山 西 省 分 冊(下)』(中 国 地 図 出 版 社 、2006年 、1139頁)に よれ ば 、 墓 に は 石 人 ・石 羊 ・石 虎 が 付 随 し て い る と い う こ と で あ っ た が 、 現 存 し な い 。 そ れ ら は 、 数 年 前 に 何 者 か が 数 人 や っ て 来 て 持 ち 去 っ た と古 老 が 語 っ て く れ た 。 碑 の 他 の 部 分 が 、 そ の 時 に 一 緒 に 持 ち 去 ら れ た の か ど う か は 分 か ら な い と い う。 あ る い は ま だ 現 地 に 残 さ れ て い る の か も しれ な い が 、 発 見 で き な か っ た 。 「忽 神 公 神 道 碑 銘 」 は 、2000年 夏 時 点 、 タ ガ チ ャ ル 軍 団 が 根 拠 地 と した 山 西 省 聞 喜 県 東 鎮 の 地 に 立 っ て い た 。 碑 は ベ ル ゲ ・ブ カ 墓 の 遺 構 の 傍 ら に 、 亀 跣 を 台 座 と し て 立 っ て い た 。 そ れ と確 認 す る こ と は 可 能 で あ っ た が 、 か な り摩 耗 が 進 ん で お り、 も し 、現 在 も 立 っ て い る の で あ れ ば 、早 め の 保 全 が 必 要 で あ る 。「 重 修 真 沢 廟 記 」は 、 2009年8月 時 点 で 山 西 省 陵 川 県 西 渓 二 仙 廟 内 に 現 存 して い た。 廟 内 に 立 っ て い るだ け で 、十 分 に 保 全 さ れ て い る と は 言 え な か っ た 。「春 因 赤 答 忽 墓 誌 」に 至 っ て は 、2010 年9月 の 時 点 で 、 洛 陽 市 文 物 資 料 管 理 中 心 の 趙 振 華 氏 に よれ ば 、 行 方 不 明 で あ る と い う。 こ こ に 挙 げ た 碑 だ け で な く 、 多 く の 石 刻 が 摩 耗 ・損 壊 の 危 機 に さ ら され て い る こ と は 間 違 い な い 。 さ ら に は 人 為 的 な 要 因 で 破 壊 され た りす る 事 例 も 少 な く な い は ず で あ る 。 す で に 舩 田 善 之 も 指 摘 す る よ う に[舩 田2007、17頁]、 近 年の刊行 物 で報 告 さ れ て い る 石 刻 を 実 見 ・検 分 す る 調 査 と 平 行 し て 、 そ の 確 認 作 業 を 進 め る こ と 、 そ して 、 史 料 整 理 と 現 地 研 究 者 と の 情 報 交 換 を 進 め て い く こ と が 重 要 で あ ろ う。 (む ら お か ひとし 龍 谷 大 学) 参 考文献 池 内 功2002:「 河 南 に お け る 元 代 非 漢 族 諸 族 軍 人 の 家 系 」 平 成12∼13年 度科 学研 究 費 補 助 金 ・基 礎 研 究(B)(1)報 告 書 『碑 刻 等 史 料 の 総 合 的 分 析 に よ る モ ン ゴ ル 帝 国 ・元 朝 の 政 治 ・経 済 シ ス テ ム の 基 礎 的 研 究 』(代 表:大 阪 国 際 大 学 教 授 ・松 田 孝 一)研 川 本 正 知2010:「 究 成 果 報 告 書 、27-53頁 。 モ ン ゴ ル 帝 国 に お け る 戦 争 一 遊 牧 民 の 部 族 ・軍 隊 ・国 家 と そ の 定 住 民 支 配 一 」 『ア ジ ア ・ア フ リ カ 言 語 文 化 研 究 』80、113-151頁 堤 一 昭1992:「 元 代 華 北 の モ ン ゴ ル 軍 団 長 の 家 系 」 『史 林 』75-3、32-67頁 8 。 。 趙 振 華1994:「 元 《審 因 赤 答 忽 墓 志 》考 」『洛 陽 古 代 銘 刻 文 献 研 究 』 三 秦 出 版 社 、2010 年 、739-746頁(原 載 は 『内 蒙 古 社 会 科 学 』1994年 第2期)。 舩 田 善 之2006:「 中 国 地 方 都 市 に お け る 宗 教 の 多 元 性 に 関す る歴 史 的研 究 河 南 省 開 封 ・許 昌 調 査 報 告 」(『財 団 法 人 福 岡 ア ジ ア 都 市 研 究 所 若 手研 究者 研 究活 動 助 成 報 告 書 平 成17年 度 』、105-118頁 。 2007:「 山 東 日照 ・諸 城 の 元 代 石 刻 の 現 状 一 石 刻 現 地 調 査 の 展 望 と課 題 一 」 九 州 大 学 二 十 一 世 紀COEプ ロ グ ラ ム(人 文 科 学)『 東 ア ジ ア と 日本 一 交 流 と 変 容 』 第4号 、11-20頁 。 松 田 孝 一1987:「 河 南 准 北 蒙 古 都 万 戸 府 考 」 『東 洋 学 報 』68-3・4、37-85頁 1996:「 宋 元 軍 制 史 上 の 探 馬 赤(タ ン マ チ)問 題 」 『宋 元 時 代 史 の 基 本 問 題 』 汲 古 書 院 、153-184頁 村 岡 倫2007:「 。 洛 陽 出 土 「答 因 赤 苔 忽 墓 誌 」 よ り」 平 成16年 助 金 ・基 礎 研 究(B)(1)『13,14世 報 告 書 、117-130頁 度学研 究 費補 良 大 学 教 授 ・森 田 憲 司)研 究成 果 。 山西 省 夏 県 廟 前 鎮 楊 村 史 料 通 信 』 第12号 度 ∼18年 紀東 ア ジア諸 言語 史料 の総合 的研 究 一 元 朝 史 料 学 の 構 築 の た め に 』(代 表:奈 2010:「 。 、1-7頁 「 忽 失 碑 」 に つ い て 」 『13、14世 。 紀東 ア ジァ