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木内信蔵先生の御仕事と学風
木内信蔵先生の御仕事と学風 濱 英 彦 戦後間もない一九四七年、私は東京大学理学部地理学科に入学したのですが、このとき木内先生は教室の専任 講師として、都市地理学の講義を担当しておられました。一九四七年といえば、戦後の大学の活動が実質的に再 開されたときと思いますので、先生の研究と教育の御仕事も、おそらくこの頃から戦後の本格的な御出発をされ たのではないかと思うのです。それはまた私がまだ行く先も不分明な自分の勉強を何となく始めた時期というこ とにもなりますが、この時期から三十四年、いま先生が古稀を迎えられて、成城大学での講義の御仕事を私がお 受けするという、思いがけないめぐり合わせになったことは、私自身としても、長い月日をつなぐ結びの糸に深 い感慨を覚えます。 実は私は大学卒業後、すぐに厚生省人口問題研究所に入りましたので、大学の学究生活のなかにおられた先生 から、ひき続きじきじきに教えを受ける機会は乏しかったわけですが、しかし私にとっては、学生時代のはじま りから、先生との結びつきはたんに偶然をこえたものと思われるのです。 もともと地理学を専門分野として研究しようとする人たちは誰でも経験することなのですが、自分の研究の中 −5− 心をどこに置くか、あるいはどういう分析視点をとるべきかについて、いく度かあれこれ思考し、議論すること がふつうです。地理学界ではこれも周知ですが、大学での地理学教室の所属からして、たとえば東京大学は理学 部、京都大学は文学部、東京文理科大学は地学科といった形で創設されるという具合で、地理学の学生は自然地 理学・人文地理学という地理学の二元論的な成立事情のなかで、自分の研究の位置づけに迷うことになります。 こういう状況のもとでは、学生時代に教えを受けた諸先生の専門や学風に影響されて、自分の研究の方向もしだ いに定まってゆくということが、地理学の場合には、とくにあるように思いますし、逆にこの視点がいつまでも 定まらないと、その後の研究活動に差し支えるわけです。 私が一九四七年から五〇年までの在学期間に、自分の混沌から脱け出て、都市や人口を主題とする研究に強い 関心を向けたこと、そしてその後もこの同じ軌道を固定していった経過をみずから振り返ってみますと、木内先 生の多くの御研究が、いつの間にか原点になっていたことに、しばしばあとになって気づくことになります。そ れは確かに、いつの間にかとか、やがて気づくことになるとかいう、いささか漠然とした、それでいて先生の御 仕事の拡がりと蓄積とのなかで感銘を受けるという表現が一番ふさわしい、と私には思われます。そしてそれは 教えを受けた私の側の鈍さと非才とを別にして、まさに先生の学風なのだと思うわけです。 、一九五一年、前年の学位論文を基礎とされた﹃都市地理学研究﹄の大著を刊行されて以来、本年︵一九八 先生の御経歴や業績を尋ねるような機会が与えられたときにいつも思うのですがー今回はとくにそうですが l 一年︶まで三〇年間、日本の内外にわたって地理学界および地理学会を代表された数多くのきわめて広汎な御活 躍を先生の御経歴のうえだけで知る人は、まずは華やかな学者人としての先生の姿を思い浮かべるかもしれませ −6− ん。しかし先生にじかに接した方はよく御承知のように、先生の雰囲気はおよそ正反対のものです。しかもその うえで先生の実践された超人的な御活動を知るならば、まことに感歎せざるを得ません。 とくに一九四九年から、先生は東京大学教養学部に赴任されて、人文地理学教室を創設され、その山積する御 仕事のなかで、この教室の育成にいかに最大限の力を注がれたかは、先生の御薫陶を受けた方々が先生の還暦を 記念して編集した﹃地理学と教養﹄︵西川治・河辺宏・田辺裕編︶のなかで、先生御自身が書かれた一文﹁人文地理 学三五年﹂と﹁教室年表﹂を拝見しますと、身に迫るものがあります。﹁講義ノートは自宅でも作ったが、しば しば駒込駅から渋谷駅までの山手締の中で考えかつ書いた。電車に座ることはそのためにも必要であった。新し いアイディアは講義する途中にも閃き、寝床や風呂場の中でも生れた。それらをよく調べてみると平凡なことに 終わって霧散することも多かった。短かい人生を倍に使うには新鮮な朝を二回持つことが必要と考え、早朝起き て仕事し、また眠ることもあった﹂。そして﹁週間持時間は、一般教育講義四時間、演習二時間、教養学科講義 四時間︹のちに演習二時間加わる︺、理学部・文学部各二時間ずつ、大学院二時間︹プラス演習約二時間︺﹂と記され ています。加えて雪だるま式に増えて行く恐るべき多数の会合をお一人でこなされつつ、大学内と諸学界におけ る地理学の評価を高めるために、日夜、超人的な努力を傾けられ、人文地理学教室の今日の隆盛を確立されて、 還暦御退官のときまで、教室の大黒柱として活躍されたわけです。 さらに一九五六年、教授になられた年に、国際地理学連合(International れていた委員会の一つである﹁世界人口地図委員会﹂の委員になられてから、国際的な御仕事も本格的にはじま り、五九年には、近代地理学を築いた二人の巨人、フムボルト・リッター没後百年記念祭に出席されて、ドイツ Geographic Ua nl ion。 IGU)に設置さ −7− 地理学者会議から、日本人でただ一人のカール・リッター賞を授与され、六四年には、さらに王立スコ″トラン ド協会名誉会員になられました。一九六八年は日本地理学会会長に就任された年ですが、この年、四年に一度の 国際地理学会議IGCがはじめてアジア地域ニューデリーで開催され、私はこの時、先生のお誘いを戴いて、先 生が委員をしておられた﹁人口委員会﹂に出席して発表する機会を得ましたが、この私のはじめての海外旅行 で、飛行機もたまたま先生と御一緒に、乗客がせいぜい十人ほどのガラガラの飛行機のなかで、私はやたらに緊 張していましたが、先生がゆっくりと窓外を観察しておられた姿が目に浮びます。この同じ年に先生は﹃地理概 論﹄も出版されています。 一九七一年、東京大学御退官後、成城大学での御仕事については、大学の方々がよく御存知のことですが、地 理学分野でもさらに、アメリカ地理学協会からの受賞、オーストリア地理学協会名誉会員、IGU副会長などの 御活躍となり、また一九七九年には﹃都市地理学原理﹄の大著を刊行されました。そして一九八〇年、第二四回 国際地理学会議が日本で開催されましたが、これは一九七二年IGCモントリオール大会に出席された木内先生 からの御報告にはじまり、七六年モスクワ大会に次いで、日本における開催となったものです。参加者一、五四 三人︵日本人七五〇人、外国人七九三人︶、東京を中心に全国各地を討議の場として三週間にわたる国際会議であり ましたが、先生はその招聘から会議実施全般にわたって、中心的な役割を果されました。 このように三十年来の御仕事のごく一端にふれただけでも、生来、根気に乏しい怠け者である私にとっては、 どうみても本来の御仕事に加えて、これをむしろ妨げる激務の連統であったように思われるのですが、それを現 実にこなして来られた先生のエネルギーと、しかもなお静まり返ったように見える雰囲気との融合は、ある程 −8− 度、不可思議とも思えるものです。しかしそれは恐らく私が先生の内面にこめられた大容量の情熟と学識とを十 分に感知し得ないでいるに過ぎないとも言えます。そのために私自身、いつの間にかとか、やがてのことに気づ くといったレベルにとどまっていますが、しかし本当に長続きする学的活動力は、いつも内へ内へと蓄積されて 湛えられたエネルギーに支えられているのだというととだけは、先生の御仕事を知る限りにおいて、私にも認識 できます。その具体的な学問的業績の拡がりとエネルギーの一端に接するためには、前述の﹃都市地理学原理﹄ と、先生の随筆集﹃自然との語らい﹄とを少し開いて戴くだけで宜しいと思うのですが、前者については、この 大著をも僅か半年間で書きあげられたと伺って、私は大容量の蓄積エネルギーがどのようにして噴き出て形をと るものかを目のあたりに見る思いがします。 しかしそれとともに、実は先生御自身が研究生活のなかで、どのようIにしてみずからを律しておられるのだろ うかという、いささか立ち入った関心もまえまえから時にふれて抱いていたのですが、先生が﹁座右銘﹂として 記された一文のなかに、人生の﹁老﹂に対して、﹁それをできるだけ先に持つように健康に努めることはいうま でもない﹂が、﹁一層大事なのは、学問や仕事に打ちこみ老を追い越すことである﹂とありました。さらに﹁熟 成されて老酒のような味わいを持つ人生は年令を超越して自らも楽しく、人々を幸福にすることができる﹂と記 しておられます。この気魂と情熱と境地、私は先生の御生活の原点をそこに見たように感じました。 いまここにあらためて先生の御研鑚と御経歴にふれてみて思うのですが、古稀を迎えられた先生と私の人生の 生活年数の隔たりは、いつも十五年で変りませんが、学殖年齢はまことに遙けき隔たりということにならざるを 得ません。とうぜん私は何事かをしなければいけないという思いにとらわれるのですが、そうとなればいつも先 −9− 達を必要とする私を含めて、ひろく地理学後進のために、先生の御仕事が変らぬ御健康とともに、ますます深く 静かに熟成されてゆかれることをここに切にお祈りする次第です。舌足らずの短文ですが、先生の古稀の祝詞に かえさせて戴きたいと思います。 −10−