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J 美を救え - Researchmap

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J 美を救え - Researchmap
2012 年 9 月 22 日
京都生命倫理研究会 『功利主義入門』合評会
J 美を救え―児玉聡『功利主義入門』評―
岡本慎平(広島大学大学院)
はじめに
本評は、2012 年 7 月に出版された新書、児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学』(以下「本書」)の書評
である。本書は『功利と直観―英米倫理思想史入門―』(以下「前著」または(児玉 2010))に続く児玉聡氏第二
の単著であり、規範理論としての功利主義の解説・擁護だけでなく、それらを通じた倫理学という学問全体への
入門書としての役割も意図された、たいへん野心的な試みの新書である(8 頁)。そしてまた、本書のこうした試み
はほとんど十全に達成されていると言ってもよいかもしれない。というのも、本書は既に哲学・倫理学を専攻する
学生のみならず、こうした学問を専攻しない学生や中高生、さらには一般社会人など幅広い読者を獲得してい
るからである。本書の平明な語り口や、映画や小説などから借用された多くの具体例による読み易さについて本
書を高く賞賛する読者の声は、私自身もブログやツイッター等で幾度となく目にしている。そうした意味で、入門
書としての本書の定評は確立されていると言っても過言ではなく、それゆえ、本書は今後も功利主義や倫理学
に入門する者が第一に手に取るべき著作として読まれ続けるだろうことが予想される。
本書に対して私があえて付け加えるべき事項はほとんどないかもしれないが、それでも一読者としての視点か
ら私が本書をどのように受け止めたのかを著者に伝えることは有益だろうと思う。というのも、本書が全体として優
れた入門書であることは先に触れた通りであるが、それでも若干の違和感を感じた記述も無いわけではないから
である。こうした私の疑問点が解消されることは、読者としての私の幸福に資するだけでなく、また著者の今後の
研究・執筆活動にとっての参考意見にもなり、ひいてはその読者の幸福に繋がると信じる。それゆえ本評の試み
は、最大多数の最大幸福という功利主義の大原則に照らしあわせても是認されるものだろうと期待したい。
全体の枠組
本書の構成は、おおむね次の三部分に分けることが出来るだろう。
①倫理学入門(はじめに、第 1 章, おわりに)
②功利主義の解説とその擁護(第 2 章~第 4 章)
③功利主義の政策決定への含意(第 5 章~第 7 章)
そこで本評も、本書の内容をこれら三つの要素に分け、それぞれ批評を試みたい。まず第一に「倫理学の入門
書」として、第二に「功利主義の入門書」としての本書の側面である。前者においては評者にとっても縁深い登
場人物である「J 美」の扱いに対して、後者においては功利主義の諸形態の解説に対して疑問を投げかけたい。
第三に、本書や前著において、非常に抑制された形ではあるが提示された著者自身の見解―暫定的に「児玉
功利主義」と呼ぶ―に対する私の理解を提示したい。
1.倫理学の入門書として
1. 1. 「武道」アナロジー
本書は「はじめに」で、倫理学の役割を「われわれの倫理観について批判的思考をすること(9 頁)」と規定し、
批判的思考のあり方を剣道や柔道といった武道になぞらえて説明している。こうした解説は管見の限り他例を見
ず、非常に面白い試みだと思われる。批判的思考の営為に入門するとは、剣道や柔道などの武道に入門する
のと同様に、一定のルールの下で一定の流派の型を身につけることであり、そしてそこを出発点として自分自身
の独自の技を磨いていかなければならないという解説は、倫理学のみならず、様々な学問にとっても同様のこと
が言えるだろう。そして批判的思考と武道のアナロジーから、批判を行う際のルールの一つとして著者は次のこ
とを挙げている。
日常の会話において親や友人の意見を批判するのは、道を歩いている人にいきなり大外刈りをかけて倒す
のと同様、他人にとっても自分にとっても危険なことだ。 …… 批判する能力は、一種の知的な武器なので、
時と場所、それと相手を選んで用いないと危険である。(11-2 頁)
1
この一節は、後に登場するキャラクター「J 美」の運命を象徴している。というのも、J 美はこの意味で「道を歩いて
いる人にいきなり大外刈りをかけ」てしまい、痛い目にあってしまっているからである。
1. 2. J 美の悲劇
本書第 2 章では、功利主義という流派に入門する読者の道案内となるべく、J 美というキャラクターが登場する。
彼女は「倫理的に生きるにはどうしたらよいか」という悩みを解決するため、図書館に赴きジェレミー・ベンタムの
主著『道徳と立法の諸原理序説』を手に取った(より正確に言えば、彼女が手に取ったのは『世界の名著 38 ベ
ンサム、J.S.ミル』中央公論社、1967 年だろう)。そして(おそらく)独学で『序説』を読み進め、功利主義という流
派の基本的な型を身につけた。そして彼女はこうした批判的思考を実践し、彼女なりの功利計算によって「J.K.
ローリングと母親のどちらか一方しか救えないときは、ローリングを救うべき」という推論を友人たちに開陳した。と
ころが彼女には次のような悲劇が待ち構えていた。
J 美は、こういうふうに自信を持って判断したところ、友人たちから「非倫理的だ」と非難された。 …… 友人
たちは、功利主義なんかを信じている人は友だちとして信用できないので、その考えを捨てるまで仲良くでき
ないと言って、J 美は仲間はずれにされてしまった。(54 頁)
当然である。彼女は本書「はじめに」で戒められていた「道を歩いている人にいきなり大外刈りをかける」ような所
業を行ったのである。知らず知らずのうちにルールを破ってしまった彼女には、友人からの(一時的な)絶交とい
う厳しいサンクションが課せられてしまった。
もちろん、詳しい状況が描写されているわけではないため、ルールを破ったのが J 美だとは限らない。もし仮に
この論争がしかるべき批判的思考の実践の場において行われていたのなら、論争相手である友人の方が批判
的思考のルールを破り、「功利主義なんかを信じている人は友だちとして信用できない(54 頁)」と、「間違った意
見を持っていることについて相手を馬鹿にする」場外乱闘に等しい行為(11 頁)をおこなったのかもしれない。も
しそうなら、J 美はよりいっそう可哀想である。どちらにせよ、ここで倫理学を学ぶ上での「ルール違反」が行われ
ているという点は、もう少し明示してもよかったのではないか。
さらに、J 美の物語はここで終わったわけではない。本書の「おわりに」において J 美は再び登場し、本書を手
に取ることによって功利主義に対する理解が深まったと感想を述べる。しかし、友人との論争においてルール違
反が行われたという点を明示していないために、J 美は「ゴドウィンのような功利主義者も同じような目にあってい
たことが分かって少し安心した(195 頁)」など、あたかも功利主義に入門してしまったために友人と喧嘩になった
かのような感想を漏らしている。これではまるで功利主義から倫理学に入門することは望ましくないかのように感
じられてしまう。そうではなく、たとえ J 美が学び始めたのがベンタムの『序説』ではなくカントの『人倫の形而上学
の基礎づけ』であり、友人との会話で「誰に対しても、どんな場合でも、絶対に嘘をついてはいけない」と頑なに
主張したのだとしても、結局彼女は「理屈ばかりで人情が足りない(196 頁)」と非難されただろう。J 美の誤りは批
判的思考のルールを無視したことであり、功利主義を信奉したことではないはずである。せっかく第一章におい
て、武道とのアナロジーを展開したのだから、功利主義道場の師範である著者は入門者である J 美に対して、そ
のような失敗をしないにはどうすればよかったのかを自覚させるべきだったのではないか?「はじめに」で示され
た批判的思考の作法は、このような喧嘩をしないためのルールだろうと思われる。そのためにも、J 美が間違えた
のはあくまで批判的思考のルールなのだと、どこかで示してもよかったのではないか。「数ある倫理学理論の中
からあえて功利主義を選んだ」というその点に限れば、J 美は何も間違っていない。
また、J 美の当初の悩みは「倫理的に生きるにはどうしたらよいか(44 頁)」という実存的なものだったはずである。
にもかかわらず、「おわりに」において彼女の胸中にある問題意識は、人々を正しく行為させるためにはどうした
らよいかというもののように思われる。少なくとも「私はどう生きるべきか」という問題はどこかに消え去ってしまって
いる。J 美の思春期らしい悩みは何故消えたのか?後に触れるが、おそらくこの問題の根は、本書の内容が「倫
理学入門」と「功利主義入門」という二つの入門書の顔とは別に、「児玉功利主義の展開」という側面を持ち、し
かもそれが本書後半に結論に近い形で位置付けられているという理由による。
※コメント後に、論旨が若干分かりにくいと指摘を受けたので、補足の文章を赤で挿入しました。
2
2. 功利主義入門書として
2. 1. ゴドウィンの役回り
ここでいったん話を転換し、本書の表看板である「功利主義入門」としての側面を見ていきたい。本書を読んだ
J 美はゴドウィンの運命を自分に重ね、功利主義であっても人々の常識的な直観を無視してはいけないことを理
解した。さて、この功利主義入門としての本書のトリックスターとなるのは、前著では功利主義に対する悪評を招
いた単なる「合理主義の怪物」とみなされ(児玉 2010, 55-7 頁)、ベンタムの前座にすぎなかったウィリアム・ゴド
ウィンである。ゴドウィンは通常、前著や本書第 3 章で描写されたように、不偏性の徹底により常識道徳を攻撃し
た政治思想家として、あるいはこれも両書で言及されているように「フェヌロン大司教」問題を提示したことでのみ
言及されることが多いように思われる。しかし本書第 4 章では、『政治的正義』第三版に施した改訂を鍵として、
彼がウォルストンクラフトとの結婚を機に考え方を修正し、「典型的な(藁人形)功利主義」から「洗練された穏健
な功利主義」へと転向したことが示される。本書で描写されたゴドウィン一家のドラマチックな運命は、一種の伝
記的な読み物としても、功利主義の洗練という観点からも、非常に面白い主題である。
2. 2. 直接と間接、規則と行為
このように、ミルやベンタムではなく「ゴドウィンの転向」を中心にして功利主義を説明することで、常識道徳を部
分的に容認する穏健な功利主義の長所を強調することができ、しかも非常に説得的である。これにより、功利主
義に向けられやすい「功利主義の要求する義務は過大すぎる」という批判を一網打尽にできる効果すらあると思
われる。しかしながら、この「穏健な功利主義」の提示に際して著者が行った「間接功利主義」と「規則功利主義」
の特徴付けにはいくらか疑問が残る。
まず著者は、「年がら年じゅう、功利原理を用いて意思決定する必要はない(81 頁)」とする立場を「間接功利
主義」として提示し、これを転向後のゴドウィン(以下「後期ゴドウィン」)の立場と見ているように思われる。そして
常識的な「規則」や「義務」への服従を要求するが、その義務自体の制定には功利原理を用いなければならな
いとする立場を「規則功利主義」として提示している(同頁)。また、間接功利主義とは逆に、全ての行為の意思
決定に功利原理を用いなければならないと考える立場を「行為功利主義」として論じている(82 頁)。
さて、間接功利主義を「年がら年じゅう、功利原理を用いる必要はない」という立場として理解すれば、規則功
利主義は間違いなく間接功利主義の一類型である。ただし、間接功利主義が全て規則功利主義であるとは言
えないだろう。たとえば――本書では明示的には出てこないが――おそらく「年がら年中功利原理を用いて意
思決定する必要はない」けれども「あくまで功利原理は行為に適用されるのであり、二次原理は経験則としての
み認める」立場として「穏健な行為功利主義」が存在する。そうすると、本書では直接的な行為功利主義と穏健
な行為功利主義が区別されていないため、分類が若干分かりにくいように感じる。以下ではこの点をより詳しく検
討してみたい。
例えば本書では、「規則功利主義」は以下のような立場として特徴付けられている。
約束を守るとか嘘をつかないという義務の重要性は認めながらも、そうした義務が行き過ぎることがないように、
功利主義の観点からチェックする必要がある …… このような、さまざまな道徳的規則や義務を守ることが
社会全体の幸福に貢献するかどうかを評価し、貢献すると認められる規則や義務を二次的な規則として採用
するという立場を「規則功利主義」と呼ぶ。(81 頁)
確かにこの説明は、大まかに見れば問題ないように見える。だがこの説明だけでは規則功利主義と穏健な行為
功利主義の相違点がよく分からない。穏健な行為功利主義者であっても、二次原理の採用をためらう理由はな
いからである。次に、(直接)行為功利主義者として初期ゴドウィンやスマートが挙げられている点に注目してみ
よう。少なくとも本書の記述に沿えば、彼らを除く登場人物であるオースティン・後期ゴドウィン・ミル(登場順)の
三人は直接行為功利主義者ではないことにはなるが、規則功利主義者だということには必ずしもならない。現に
後期ゴドウィンは常識道徳の重要性を認めた(=間接功利主義)ものの、行為功利主義としての立場は捨てて
いないことが暗示されている(78 頁)。
しかし後期ゴドウィンが間接功利主義だとすれば、初期ゴドウィンと同様の立場として論じられている(82 頁)ス
マートすら、本書の意味では間接功利主義に分類される可能性がある。例えば前著にしたがえば、スマートは
常識道徳に対して次のような立場を取っている。
とはいえ、スマートによれば、行為功利者は常識道徳を全く無視するわけではなく、経験則(rule of sumb)と
3
して常識道徳の規則に従う。経験則とは、過去の経験の積み重ねによって作られた大雑把な規則のことであ
り、通常はそれに従っておけば間違いないような規則のことである。したがって、常識道徳の規則が経験則で
あるとは、それらの規則に従ってさえいれば、行為の帰結について功利計算をしなくても、それをしたのと同
じ結論が多くの場合に得られるということである。 …… しかし、こうした規則はあくまで経験則に過ぎず、例
外的な状況においては功利計算に訴えるべきである。(児玉 2010, 145-6 頁 )
このスマートの立場は、おそらく本書における「間接功利主義」の要件を満たしている。ただし彼は常識道徳の
規則をあくまで大雑把な「経験則」とみなしているため、通常の場合は常識道徳に従うが、常識道徳が不合理で
あると思われる場合には迷わず功利原理に訴える。その点で彼は規則功利主義者ではありえない。そうすると、
スマートと同様の立場なのは初期ゴドウィンではなく、後期ゴドウィンだということになりはしないだろうか?という
のも後期ゴドウィンは家族愛や愛国心の重要さを認めたものの、もしそれが最大多数の最大幸福に資さない場
合には迷わず捨て去るべきだと考えているからである(78 頁)。
まとめると、本書での功利主義の諸類型の分類はおそらく次の図のようになるだろう。
もしこの理解が正しければ、直接功利主義に位置づけられるのは初期ゴドウィンだけであり、後期ゴドウィンやス
マートは穏健な行為功利主義に位置づけられると思われる。しかしながら本書ではスマートの立場は単に行為
功利主義として位置づけられているため、規則功利主義 vs 行為功利主義という対立と、直接功利主義 vs 間接
功利主義という対立の対応が若干わかりにくく感じてしまった。上図のような理解が正しいかどうかを含めて、あ
らためて著者にはスマートの立場が直接功利主義(初期ゴドウィン)なのか穏健な行為功利主義(後期ゴドウィ
ン)なのかを尋ねたい。
最後に付け加えになるが、ゴドウィンの立場の転向については前著でまったく触れられていないので、本書か
ら入門して前著へと遡った読者は首を捻るのではないかと思う。前著改訂の際には何らかの註釈が必要かもし
れない。
3. 児玉功利主義の展開
3. 1. 功利主義の威力
本書後半では、功利主義を公衆衛生などの具体的な公共政策の問題に適用する試みがなされる。ここで用い
られる「功利主義」は、本書前半部で出てきたベンタムやミル、ゴドウィンらが奉じた功利主義というよりも、筆者
自身の見解、すなわち児玉功利主義として見ることが妥当だろう。例えば「ミルとチャドウィックの合間を進む」と
いうナッジ(リバタリアン・パターナリズム)の方針(第 5 章)や、スロヴィックらを援用した経験的思考と分析的思考
の関係への考慮(第 7 章)など、本書出版以前から著者の主張として学会報告や学術論文という形で展開されて
いた議論がまとめ直されている。とりわけ第 5 章での公共政策への提言は、功利主義が他の統治理論に対して
優越する決断力や、19 世紀ロンドンの政策決定に実際に及ぼした影響を例示することによって、功利主義を統
治理論として採用する利点を説得的に示しているように感じる。
確かに著者自身が採用する功利主義がどのタイプの功利主義なのかといった問題や、結局功利主義が最大
化すべき「幸福」とはいったい何なのかという問題に対する答えは歯切れがわるいものの、この点はむしろ功利
主義が単なる静的なお題目ではなく心理学や疫学の実証研究とも親和的であり、科学の発展に伴い今後もさら
なる洗練が期待できる理論であることを示しているように思われる。
3. 2. 倫理的に生きるにはどうしたらよいか
しかしながら、ここで本評最初に述べた J 美の話に戻って考えてみたい。J 美は当初「倫理的に生きるにはどう
したらよいか」と悩んでいたはずである。しかし最終的にはその問題は忘れ去られ、彼女の関心は「人々が自由
に行為することが必ずしもその人の幸福につながらない可能性もあるから、必要なところで介入するような公共
政策が大切だ」といった問題へと移り、「人々がどう考えているのか、そしてどう考えるべきなのか」などを考えるた
めに、倫理学だけでなく心理学も勉強しなければならないと感じるようになった(196 頁)。その理由は、第 5 章以
4
降で展開された著者本人の問題意識や執筆意図と、理想的読者である(はずの)J 美の関心がリンクしているか
らである。
とりわけ本書の中でも最も紙幅をとって執筆されている第 5 章は、著者本人も述べるように「個人が生きるため
の指針としての功利主義」ではなく、「公共政策における功利主義的思考」についての問題が主題である(93
頁)。そして第 6 章も第 7 章も、基本的にはこの第 5 章の補強として位置づけられているように思われる。言い換
えれば、第 5 章以降の議論の多くは、政治哲学(政策決定)の話であり、倫理学(個人道徳)の話ではない。たし
かにベンタム自身の見解や、功利主義の出発点(哲学的急進派)などの歴史的背景を眺める形で、「「倫理」は
個人の道徳と、政治や立法の両方を意味していた」と示されている。功利主義がその両者に適用可能な規範理
論であることは確かであるが、両者は異なった領域の問題であることにも注意するべきだろう。ブックガイドには
「本章で扱っているのは、政治哲学と呼ばれる研究分野の議論だ。政治哲学は倫理学(道徳哲学)に隣接した
学問領域であ(211 頁)」るとも書いてある。著者自身も個人道徳と政策決定においては、基本的な立場は功利
主義ゆえに一定だとしても、単なる名宛人の違いとして考えているようには思えない。逆に言えば、第 5 章以降
の議論の中では、政策決定の問題に対する著者の見解はいくつも示されているものの、個人道徳としての功利
主義、すなわち「どう生きるか」という問題に対して著者がどのような見解を抱いているのかは非常に抑制的に書
かれているため、掴みづらいところがあった。
第五章に登場する政治哲学者たち、例えばロールズであれば、政治哲学としての正の理論とは別に我々が合
理的な人生計画を立てる際に採用するべき基本財(正義の感覚や自尊心)についても述べている。ベンタムで
あれば、個人道徳においては功利主義的に正当化された徳である思慮や善意などを重視するべきであると述
べている(尤も、この点については私の理解が不十分なところが多いため、専門家である著者の見解を仰ぎた
い)。ビル・ゲイツのように、個人道徳としても功利主義的な合理的思考を貫徹すべきであるとする道もあるだろう。
それでは児玉功利主義の枠内では、個人道徳としてはどのような方針が採用されるべきなのだろうか。
私の理解では、第 4 章の最後に示された「常識的な規則や義務が、功利主義的に見て一部の人を不公平に
扱っていると思われる場合には、それを変革することを要求するのだ」という結論や、第 7 章における直観に反
する場合にも功利主義的な結論を採用するための三つの戦略の扱いを考慮すると、おそらく著者の見解は、
「日常的な生活では基本的に常識に従うように勧めるが、その常識が功利主義的に正当化出来ない場合や、倫
理的ジレンマに直面した場合、また貧しい人々への援助といった問題に関しては功利主義的に「帰結の最大
化」を目指す合理的思考を(可能な限り)貫徹するべきだ」という見解に近いように思われる。J 美の当初の問題
意識である「倫理的に生きるにはどうしたらよいか」という問題に対して、こうした答えで合っているのかどうかを著
者に尋ねてみたい。
おわりに
以上、私の疑問は
(1)批判的思考のルール違反を明示しないと、J 美が可哀想ではないか?
(2)スマートと同様の立場を取っているのは、初期ゴドウィンではなく後期ゴドウィンなのではないか?
(3)著者は個人道徳としてどのような功利主義を考えているのか?
の三点である。どれも些細な事柄についての疑義ではあるが、こうした疑問点しか残らなかったことこそ本書が
非常に優れていることの裏返しである。繰り返しになるが、入門書としての本書の試みは大成功と言えるもので
あり、本評で提示してきた疑問点も、一読者としての視点からの些細なものに過ぎない。あえて最後にもう一言だ
け付け加えると、もし次回作に J 美が登場することになるなら、今度はより幸福な形での結末を楽しみにしている
と著者に伝えたい。傷ついたまま終わった J 美を、なんとか救ってあげて欲しい。もちろん架空の人物である J 美
は、功利主義的に考えると道徳的配慮の対象とはなりえないのだけれど。
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