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「美」を論じるフェミニズムの課題
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「美」を論じるフェミニズムの課題 ― 二元論的思考を
超えて ―
西倉, 実季
F-GENSジャーナル
2005-09
http://hdl.handle.net/10083/3855
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Departmental Bulletin Paper
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September 2005
No.4
「美」
を論じるフェミニズムの課題
―二元論的思考を超えて―
How Does Feminism Problematize Beauty of Appearance? :
Beyond the Dualistic Thinking
西倉 実季
The purpose of this paper is to explore feminist studies on beauty practices of women. I shall take a closer look at how women's involvement
in the norms and the practices of beauty has been analyzed in the two main perspectives within feminist studies on beauty: beauty-as-oppression
and beauty-as-disciplinary-power. Though the latter perspective could overcome the problems which the former has, it has a tendency toward
the socially deterministic view on women's beauty practices. Kathy Davis criticizes the overly deterministic accounts of women's beauty
practices within beauty-as-disciplinary-power perspective focusing on women's agency, but her approach also could not be all-rounded. It
is necessary for feminist studies on beauty practices of women to explore how women's acts could not be determined one-sidedly by the
beauty system, focusing on the particular and individual act. Feminist studies on beauty should be developed, describing women's embodied
experiences closely.
Key words : beauty postmodern feminism embodied experiences
本稿の目的は、女性たちの美の実践を議論してきたフェミニズム研究の批判的検討である。具体的には、80 年代後半までに獲得された
「抑圧としての美」というパースペクティヴと、フェミニズムへのポストモダニズムの導入以降に主流となった「規律実践としての美」という
パースペクティヴの成果と問題点を確認する。後者は、前者が抱える問題点を克服しているが、その社会決定論的な性格には批判も多い。
社会決定論へのアンチテーゼとしては、キャシー・デイヴィスによるエイジェンシーを強調する議論があるが、
「規律実践としての美」とい
うパースペクティヴの問題点を解決する理論枠組みにはなりえていない。社会決定論を克服する新たな枠組みを提示するには、女性の行
為が「美のシステム」によって一義的には規定されない側面を、特定かつ個別の行為にそくして検討していくことが必要となる。美を論じる
フェミニズムの課題は、美をめぐる女性たちの経験の丹念な記述である。
キーワード: 美 ポストモダン・フェミニズム 女性の身体経験
定しない点で、それ以前のパースペクティヴとは異なっている。こ
1.問題の所在
の点については、第 2 節でより詳しく検討していく。なお、ここで
「女性美」の問題は、フェミニズム、とりわけ欧米のフェミニズ
ポストモダン・フェミニズムとは、フーコーやデリダの思想の影響
ムにおける重要課題である。女性はなぜ、自分の顔や身体を理想の
を受けながら、主体やアイデンティティに対する本質主義的見方を
「美」
に合致させることにこれほど熱心で、莫大な時間と費用を費や
回避し、差異をめぐる新たな理論構築をめざす 90 年代のフェミニ
すのだろうか。これに対しフェミニズムは、美を家父長制社会にお
ズムをさす。
ける男性の支配と女性の抑圧の問題とみなし、批判の目を向けてき
しかしながら、ポストモダン・フェミニズムのパースペクティヴ
た。女性たちが男性仕立ての「女性美」を内面化している限り、それ
は、言説決定論ともいうべき還元主義に陥る傾向にあり、行為者と
は自尊心を傷つけ、女性同士を競合させる「美の呪縛」として働く。
しての女性の能動性を担保できないという問題を抱えている。ビ
フェミニズムは、画一的でけっして到達しえない「女性美」の抑圧性
ビアン・バーが指摘するように、われわれは言説による規定性から
を問題化し、年齢、人種、性的指向などの差異を含み込んだ「ある
逃れることができないとしても、
「依然として批判的な歴史的反省が
がままの自己」
を受け入れることの重要性を提起してきたのである。
できるし、自分自身が使うために取り上げる言説や慣行に関して、
ミス・コンテスト批判は、フェミニズムのこうした主張が凝縮した
何らかの選択をすることができる」
(Burr 1995 = 1997: 138)
。こう
ものとして位置づけられるだろう。
した問題関心を共有するフェミニストたちは、おもに 2 つの方向で
ポストモダニズムの展開以降、美を論じるフェミニズムの焦点
美に関するポストモダン・フェミニズムの不足を補おうとしてき
は、女性の抑圧経験から、美の文化的言説による女性身体の統制過
た。ひとつは、女性たちの美の実践や身体経験の検討である(e.g.
程を分析することに移行した。
「美しさ」
「細さ」といった文化的言説
Davis 1995)。実証研究の蓄積によって、女性たちの美の実践や身
による女性身体の規律化と標準化という複雑な過程に、分析の焦点
体経験は統制の過程としてだけでなく、抵抗のモメントとして現出
が定められたのである。ポストモダン・フェミニズムのアプローチ
した。理論的な水準では、女性たちの美の実践や身体経験における
は、ミシェル・フーコーの権力概念を参照することで、従来のアプ
「エイジェンシー」の概念化が試みられた。もうひとつの方向性は、
ローチにみられた権力の単純なとらえ方を克服している。また「美
クィア理論に代表される、異性装などの実践が覇権的なジェンダー
の呪縛」
(Wolf 1991 = 1994)による抑圧からの解放をナイーヴに想
規範を転覆させる象徴的な可能性の模索である(e.g. Butler 1990 =
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1999)。こうした実践は、ジェンダー規範の強化につながりかねな
(Chapkis 1986)。チャプキスは、口の周りの毛深さを男性にからか
い危険性をはらむが、オルタナティヴを切り拓くものとして期待さ
われたという自身の経験から議論を開始する。口ひげの
「醜さ」を気
れている。
にするのはフェミニストらしくないのではないかと悩みながらも、
以上の問題意識をふまえ、本稿では女性たちの美の実践を議論し
電気脱毛をした彼女は「美の秘密」を抱えることになったという。
てきたフェミニズムの成果と問題点を検討する。フェミニズムは一
チャプキスによれば、女性たちが電気脱毛のような「個人的な解決
貫して美を政治的な問題として論じてきたが、ポストモダニズムの
法」をとる限り、抑圧としての美に効果的に抵抗することはできな
導入をさかいに、そのパースペクティヴには変化が認められる。ポ
い。チャプキスが強調するのは、女性たちが
「美の秘密」
を共有する
ストモダニズム以前のパースペクティヴは、第二波フェミニズム、
ことで、外見をたんに個人的な事柄ではなく政治的な関心事にする
とくにラディカル・フェミニズムの流れに基礎を置くものである。
という戦略である。
ここでは、美は男性の支配による女性の抑圧の一要素とみなされる
(これを「抑圧としての美」というパースペクティヴとよぶ)
。一方、
それ[通りすがりに「おい、ひげ!」とからかってくる男性につ
ポストモダニズム以降のパースペクティヴは、ポストモダニズム
かみかかること]が私がずっと夢見てきたエンパワーするような
の思想、とりわけフーコーによる権力の再定式化を理論的基盤にも
結末なのだろうか。
(中略)個人的な悪態のような、明らかに孤立
つ。ここでは、美は身体を規律化する権力を媒介とする実践とみな
した暴力行為はあまりに私的なので、現実の解決法にはなりえな
される(これを「規律実践としての美」というパースペクティヴとよ
い。私的な解決法を超えていくということは、沈黙を破ることを
ぶ)
。以下ではまず、
「抑圧としての美」というパースペクティヴの成
意味する。しかし私は依然として、自分の問題が重要ではないは
果と問題点を確認する。次に、
「規律実践としての美」というパース
ずだと思ってしまう。それは言葉にするほど重要ではないのでは
ペクティヴは、従来のパースペクティヴとどう異なり、どのような
ないか。重要ではないはずなので、私はそれを語る勇気がもてな
可能性をもっているか検討する。さらに、
「規律実践としての美」と
い。
いうパースペクティヴをめぐる論争を取り上げ、美を論じるフェミ
だが、私たちの美の秘密が共有されるまで、女性を本当にエン
ニズムの争点を浮き彫りにしていく。以上の作業をふまえ、美を論
パワーするような結末はありえないと考える
(ibid: 3)。
じるフェミニズムがどのように展開するべきかを考察する。
またナオミ・ウルフは、
「美の神話」1を一定の成果をあげたフェミ
ニズムに対するバックラッシュととらえ、その影響を拒食症や美容
2.フェミニズムにおける
「美」―先行研究の批
判的検討
整形の増加といった側面から検討している(Wolf 1991 = 1994)
。ウ
ルフによれば、
「美の神話」の基盤にあるのは性的抑圧であり、それ
フェミニズムにおいて、女性たちの美の実践は、ジェンダー化さ
は「男たちの制度や、制度化された権力」
(ibid: 18)に関係している
れた社会構造における「美のシステム」
(MacCannell & MacCannell
という。チャプキスもウルフも同様に、女性たちがけっして見合う
「美
1987)との関連で議論されてきた。マクキャンネルらによれば、
ことのできない規範的な
「女性美」
を強制され、それを内面化してい
のシステム」とは女性に対する男性支配に関係しており、女性をよ
ることを問題化している。よって、抑圧からの解放の拠点は、こう
り「魅力的」にするための多様な文化的実践の複合体である(ibid)。
した美の規範の拒絶に置かれることになる。
こうした実践には、男性による女性の「値踏み」から、メディアの
チャプキスとウルフに代表される
「抑圧としての美」
というパース
メッセージ、身体のサイズや形を整えて女性美のスタンダードを
ペクティヴの特徴を検討していこう。まず、採用されている権力モ
追求する女性自身のふるまいまで含まれる。以下では、美のシス
デル
(①)
であるが、権力は
「男性=支配/女性=抑圧」
という枠組み
テムと女性たちの美の実践との関係がどのように分析されてきた
で把握されており、その所有者である男性あるいは男性社会が告発
か、フェミニズムにおける 2 つの主要なパースペクティヴを検討す
の対象となっている。こうしたモデルの利点は、美の実践という
る。ひとつは 80 年代後半までに獲得された「抑圧としての美」とい
これまで私秘化されてきた現象を「政治の問題」
(Wolf 1991 = 1994:
うパースペクティヴであり、もうひとつはポストモダニズム以降
338)として俎上に載せたことである。個々の女性たちによる美の
に主流となった
「規律実践としての美」というパースペクティヴであ
追求と
「美のシステム」
の構造的な強制とが関連づけられ、美は女性
る。両者は、①どのような権力のモデルを採用するか、②「美のシ
に対する抑圧の主要な要素として把握されたのである。従来、美の
ステム」にどのように女性を位置づけるか、③抵抗のイメージをど
追求が女性の本質的な心理的特徴とみなされてきたことをふまえれ
のように描くかという点で大きく異なっている。本節では、この 3
ば、こうしたパースペクティヴの意義はきわめて大きい。とりわ
点に注目して
「抑圧としての美」と
「規律実践としての美」というパー
け、さまざまな年齢、人種、階級の女性たちの「美の秘密」
(たとえ
スペクティヴの特徴を確認したうえで、両者の相違点を検討する。
ば、ムダ毛の脱色やダイエットなど)を明らかにしたチャプキスの
アプローチは、個々の女性たちの経験と包括的な
「美のシステム」と
2.1「抑圧としての美」というパースペクティヴ
を結びつけることの重要性を説得的に提示しているといえよう。
従来のフェミニズムにおいて、女性たちの美の実践はもっぱら
次に、
「美のシステム」
における女性の位置づけ
(②)
をみていこう。
「抑圧」
という観点から議論されてきた。ここでは、抑圧的な身体実
「支配/抑圧」
という単純な権力モデルの代償として、このパースペ
践(19 世紀のコルセットや纏足から、現代のダイエットやエクササ
クティヴは、女性を
「美のシステム」
に一方的に抑圧される存在とし
イズまで)やイデオロギーを非難するフェミニストのボディ・ポリ
て描写している。つまり
「抑圧としての美」
というパースペクティヴ
ティクスが主張された。
は、女性の抑圧経験を可視化することに力点を置くあまり、女性を
たとえば、外見へのこだわりをジェンダーの差異がつくられる
「美のシステム」
の犠牲者の立場へと追いやってしまうという問題を
主要な方法とみなし、美を政治的な現象、すなわち「外見のポリ
抱えているのである。
ティクス」として分析しているのがウェンディ・チャプキスである
さらに、抵抗のイメージ
(③)
であるが、ウルフにせよチャプキス
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「美」を論じるフェミニズムの課題
にせよ、
「美」それ自体の否定をフェミニズムの進むべき道程として
て自分自身の顔や身体を評価し、修正する。ボルドーは、こうした
描いているわけではない。
「フェミニズムは美しいものを否定する」
過程をフーコーのいう規律実践ととらえ、女性たちはそれを通し
といった誤った理解がみられることを考えると、このことは改めて
て「自己監視 self-monitoring と自己標準化 self-normalization」
(ibid:
確認しておく意味があるだろう。ウルフらは「化粧をするべきでは
203)すると述べている。
ない」
「ムダ毛を処理してはならない」などと主張しているのではな
バートキーやボルドーに代表される
「規律実践としての美」
という
い。
「抑圧としての美」というパースペクティヴがイメージする抵抗
パースペクティヴの特徴を検討していこう。まず、採用されている
は、既存の規範的な
「女性美」からの自由と、女性自身による新たな
権力モデル
(①)
を確認する。このパースペクティヴは、美を中心と
「美」
の創造である。化粧や身体の手入れをするにしても、男性がつ
する女性性を規律権力による所産とみなすが、権力をもはや「支配
くり出した
「美」
とは異なる美しさのイメージをもつべきだ、という
/抑圧」というトップダウン型のモデルではなく、それを通して女
わけである。たとえばウルフは、男性仕立ての既存の「美」
が女性同
性性が構築される媒体のモデルで理解している。権力はすなわち、
士を競合させていることに批判の刃を向け、次のような方向性を提
特定の男性個人や集団としての男性の所有物ではないし、女性の身
示する。
体を制限するものでもない。それどころか、どこにでも散在し、時
間や空間などの微細な要素を統制しながら「従順な身体」
(Foucault
まず
「美」
を解釈し直すことから始めよう。美とは非競争的、非
1975 = 1977)を生産する。
序列的、非暴力的なものであると。一人の女の喜びと誇りが、な
ぜ他の女の苦痛でなくてはならないのか。男の場合、性的に競争
それ
[規律権力]
は暴力や公的なサンクションに依拠せず、女性
するのは、特定の相手を争うという性的な競合関係にあるときだ
の身体があちこち移動する自由を制限することもない。それにも
けだ。が、美の神話は女性をあらゆる状況で「性的」競争状態に置
かかわらず、身体への侵入はほとんど完全なのである。女性の身
く
(Wolf 1991 = 1994: 355)
。
体は、
「それを探査し、分析し、再編成する権力の機構」に参入す
る。規律の技法は女性の
「従順な身体」
を構築するが、絶え間のな
こうした方向性はたしかに魅力的である。しかしながら私たち
い徹底的な統制、すなわち身体のサイズや外形、食欲、姿勢、身
は、今ある
「美」
から自由な、あるいはそれとは抜本的に異なる「美」
振り、空間におけるふるまい全般、そして身体の諸部分の見た目
をつくることができるだろうか。ウルフらのいう新たな「美」が、既
の統制をねらいとしている
(Bartky 1990: 79-80)。
存の抑圧的な「美」とはまったく無縁であるという保証はどこにあ
るのだろうか。それに汚染されていない「美」の創造を主張すること
次に、
「美のシステム」
における女性の位置づけ
(②)
をみていこう。
は、非現実的なユートピアの構想にすぎない 。
「規律実践としての美」
というパースペクティヴは、フーコーによる
2
権力の再概念化をふまえ、女性を
「美のシステム」
による抑圧の犠牲
2.2「規律実践としての美」
というパースペクティヴ
者とする見方を退けている。女性の美の実践に含まれる主体化=従
90 年代になると、女性の身体が美の実践を通して規律化される
属化というアンビバレントな様相が明らかにされ、なぜ女性は「美
過程を明らかにするための洗練された理論枠組みが検討された。と
のシステム」に組み込まれ続けるのか、女性をたんなる犠牲者の立
くに「主体化=従属化」というフーコーの知見は、家父長制的言説
場へと追いやることなく分析することが可能になったのである。女
による
「女性美」
の構築のメカニズムを分析するフェミニズム研究に
性は必ずしも「美のシステム」の犠牲者ではなく、美容産業を利用
とって実り多いものであった。ここにおいて、美を論じるフェミニ
し、美の実践に参入することで、システムの存続に寄与する加担者
ズムの焦点は、女性の抑圧経験から、文化的言説による女性身体の
でもある。こうした視点に立つならば、女性の美の実践を後押しし
統制過程へと移行した。
ているのは他者の強制ではなく、諸個人の自己監視と自己統制とい
サンドラ・バートキーは、フーコーがあたかも男性と女性の身体
うことになる。
経験が違わないかのように扱っていることを批判し、
「女性らしい」
さらに、抵抗のイメージ(③)であるが、
「規律実践としての美」と
身体を生産する規律実践の性質と、それが女性のアイデンティティ
いうパースペクティヴは、従来のパースペクティヴとは異なり、現
に及ぼす影響を検討している(Bartky 1990)
。バートキーによれば、
存の
「美」
からの自由を想定しない。私たちが言語的な存在として現
ダイエットや化粧は理想的な「女性らしい」身体を生み出す規律実践
存する言説のなかで生きている限り、それとはまったく無縁の
「美」
である。規律実践は、女性に「私の身体には欠陥がある」という感情
を創造することはできない。とするならば、現在流通している美の
を引き起こすメディアに促進されるが、こうした感情の波及性を
言説が
「美のシステム」
をどのように維持してきたのか、逆に何をど
背景に、女性たち自身によって取り組まれる。つまり女性身体の規
のように排除してきたのかが問われるべきであろう。
「規律実践とし
律は、押しつけられる側面と自発的に求められる側面との二重性を
ての美」というパースペクティヴは、こうした観点から高度な理論
もっているのである。バートキーが主張するのは、規律実践が女性
化を進めてきたのである。
を従属化する一方、確固としたアイデンティティをもたらすという
矛盾した過程をとらえる必要性である(ibid: 77)
。
3.
「規律実践としての美」というパースペクティ
ヴをめぐる論争
またスーザン・ボルドーは、女性の美や身体の細さに関する文
化的言説を批判的に読解し、それらが女性の身体やアイデンティ
ティに及ぼす影響を分析している(Bordo 1993)
。ボルドーによれ
しかし、
「規律実践としての美」というパースペクティヴには批判
ば、今日のアメリカの女性誌や広告には、贅肉を敵視したり、アン
も多い。本節では、キャシー・デイヴィスによるボルドーの研究の
グロ・サクソン系の白人美を理想化するような言説が支配的である
批判的精査を手がかりに、このパースペクティヴの問題点を明らか
という。多様化しているように見える美や身体の表象は実は均一化
にする。そのうえで、ボルドーによるリプライを取り上げ、
「規律実
しているのであり、女性たちはこの均一化されたイメージに照らし
践としての美」
というパースペクティヴ
(=ボルドー)
とその批判(=
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デイヴィス)
における争点を検討する。
場に置かれている。これは、美容整形をする女性たちを「文化の
フェミニズム、とくに欧米のフェミニズムにおいて、美の問題は
愚か者」という位置に追いやることなく、西洋の美の文化のもっ
主要なテーマである。しかし、特定の論者間で直接的な議論がなさ
とも有害な現れのひとつとして美容整形を検討することを意味す
れてきたかというと、必ずしもそうではない。こうしたなか、ボル
る。特定の女性にとって美容整形がどのように最善の行為である
ドーとデイヴィスは著書において互いに言及し合い、対抗的な議論
のかを理解すると同時に、美容整形を選択させてしまう状況的な
を展開している。このやり取りは、フェミニズムにおいて真正面か
強制を問題化することが必要である
(Davis 1995: 5)。
ら美の問題が議論された数少ない論争であり、いくつかの論点が争
点として提出されている3。結論を先取りするならば、両者の論争
こうした視点に立脚するデイヴィスは、美容整形を選択した女
は、美を論じるフェミニズムが陥りがちな問題―女性の美の実践
性が自らの経験をどのように説明するか、女性たちの語りに注目す
についての社会決定論的な解釈と、女性の主体性の主張による社会
る。そこから女性の身体が置かれている社会的・文化的文脈と同時
決定論批判というアポリア―を象徴的に浮き彫りにしているので
に、個々の女性の美容整形という実践を解釈していくのである。そ
ある。さらに私自身の研究は、ボルドーとデイヴィスの議論、およ
の際の鍵となるのが
「エイジェンシー」
という概念である。ここで注
び両者の論争に大いに触発されており、このアポリアの克服を研究
意してほしいのは、デイヴィスの
「エイジェンシー」
概念は、現在の
課題として設定している。以上の理由から本稿では、ボルドーとデ
フェミニズムにおいて一般的となっているこの概念の用法とは必ず
イヴィスの論争を検討し、美を主題とするフェミニズムの課題を明
しも一致しない点である。エイジェンシー概念をフェミニズムの
確化することをめざしたい。
領域に導入したもっとも著名な理論家は、ジュディス・バトラーで
ボルドーとデイヴィスの論争は、ボルドーの著書『我慢できない
あろう(Butler 1990 = 1999, 1997 = 2004)。そのため、フェミニズ
体重―フェミニズム、西洋文化、身体』
(1993)に端を発する。ボル
ムやジェンダー/セクシュアリティ研究においては、バトラーによ
ドーは、女性の身体が
「身体をコントロールせよ」
「欲望を支配せよ」
るエイジェンシー概念が参照されることが多い。しかし以下の記述
という西洋文化の支配的言説にいかに埋め込まれているかを主張す
からも明らかなように、デイヴィスによるこの概念の用法は、バト
る。一方デイヴィスは『女性の身体をつくり変えること―美容整形
ラーによるそれとは異なっている。バトラーにおいては、エイジェ
のジレンマ』
(1995)において、女性の美の実践を社会決定論的に説
ンシーは行為の帰属先としての主体とは異なる。これに対してデイ
明しすぎているとボルドーを批判する。これに対してボルドーの反
ヴィスは、行為主体としての女性に帰属するものとしてエイジェン
論(1997)がなされ、デイヴィスによる再反論(2003)が続く。本節
シーをとらえており、従来の
「主体性」
概念との明確な違いが定かで
では論争を時系列的に追うことはせずに、両者の主張をまとめ、議
はない。
論の争点を明らかにする。
デイヴィスは、エイジェンシー概念について次のように述べてい
る。
3.1「規律実践としての美」
というパースペクティヴへの批判
―デイヴィスによるボルドー批判
社会学的概念としての
「エイジェンシー」
は、美容整形と女性と
デイヴィスによれば、ボルドーに代表される「規律実践としての
の関わり合いを検討する私の研究において中心的な役割をはたし
美」というパースペクティヴは「美のシステム」に異議を唱えること
ている。私は、女性たちがどのように美容整形を―それはコス
を可能にするが、女性と美の実践の関わりを理解するにはじゅうぶ
トがかかり、痛みをともない、危険であるにもかかわらず―最
んではない。デイヴィスの研究は、フェミニストである友人から美
善の、ある場合においては状況下での唯一の選択とみなしていく
容整形をしたいと打ち明けられたときの彼女自身の「当惑」がきっか
のかを理解する手助けとするために、エイジェンシーを参考にし
けとなっている(Davis 1995: 5)
。友人にとって、美容整形は置か
た
(Davis 2003: 11)。
れた状況下での最善の行為であるという。フェミニストとしての
美容整形への批判的立場と、友人の言葉を受け止めたいという思い
デイヴィスによれば、エイジェンシーへの注目は、ボルドーの
とのあいだのアンビバレンツに向かい合ったとき、従来のフェミニ
議論にみられる「社会的行為の過度に決定論的な説明の修正」
(ibid:
ズム理論は助けにはならなかったとデイヴィスは述べる。なぜなら
12)を意味するという。フェミニズムは、美容整形をする女性を
ボルドーらの議論は、女性の美の実践を従属の再生産とみなすだけ
「文化の愚か者」
とする短絡的見方に陥ることなく、
「じゅうぶんに判
で、
「女性たちのアクティヴで、少なくともある程度の理解力を備え
断能力を備えた行為主体」
として扱うべきなのである5。
た身体との関わりを見落としてしまう」
(Davis 1997: 12)ためであ
デイヴィスの議論はこのように、ボルドーの社会決定論へのアン
る4「
。美のシステム」に批判的である友人が、外見の問題を解決する
チテーゼとなっている。その際に主張されるのが、行為主体として
唯一の方法として美容整形を正当化することをどのように理解でき
の女性の視点の採用と、女性がもつエイジェンシーの正当な評価な
るだろうか。女性が埋め込まれている社会的・文化的文脈のボル
のである。
ドーのような検討は必要不可欠であるが、そのことが女性たちの経
3.2 ボルドーによる反論 ―
「エイジェンシー・フェミニズム」
批判
験や感情の無視につながってはならないのではないか。デイヴィス
は、自身の理論的立場を次のように説明する。
一方ボルドーは、デイヴィスの立場を「エイジェンシー・フェミ
ニズム」とよび、反論を試みている(Bordo 1997)。ボルドーによれ
私の分析は、美容整形の熱狂―それを維持している「女性は
ば、デイヴィスの美容整形に関する研究は、女性たちが語ったこ
劣っている」というイデオロギーも含めて―に対するフェミニ
とをそのまま信じすぎているという。美容整形を経験した女性たち
ストの批判と、ジェンダー化された社会秩序の文化的・社会的強
が、それが状況下での最善の「選択」であると主張したからといっ
制のなかで自分の身体や生と交渉していく行為主体として女性を
て、額面通りに受け取ってもよいものだろうか、というわけであ
扱いたいという同じくフェミニストの願望とのあいだの危ない足
る。ボルドーは、デイヴィスの研究が美容整形という個人の
「選択」
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「美」を論じるフェミニズムの課題
をエンパワーメントとして注目するあまり、女性に身体の修正を強
と快楽は相殺しない。よって、パワーを得たとか「コントロール
いる社会的・文化的文脈を見逃していると批判する(ibid: 35-37)。
している」と感じるような興奮する経験は―それはその人の社
会的地位の正確な反映では必ずしもないが―それ自体、形を変
個人の「エンパワーメント」についての語りに焦点をあてると
えた権力関係の産物である疑いがつねにある(Bordo 1993: 27, 強
き、デイヴィスは、
「自分には[身体的]欠陥がある」と思うように
調点は Bordo による)。
人々をけしかける規範が美容整形それ自体の実践と制度に巻き込
まれているという事実を見落としてしまう。個人のふるまいもま
ボルドーによれば、権力と女性身体との関係を理論的に適切に
た、それらに巻き込まれているのである(ibid: 43)
。
把握するには、フーコーの知見のうちどちらも不可欠である。し
かしボルドーは、今日の女性が置かれた状況に洞察を与えるために
ボルドーによれば、デイヴィスの研究は女性のエイジェンシーを
は、どちらの知見を強調するべきかという問いを立て、前者を選択
重視し、個々の女性の
「選択」を「創造性やパワーや自己定義の場所」
する。たしかに
「美のシステム」
は固定的ではないし、権力への抵抗
(ibid: 36)として説明することで、女性たちを美容整形へと駆り立
や規範の変容は絶え間なく起こっている。しかし、現代の歴史的状
てる
「美のシステム」
にじゅうぶんな関心を払うことができない。美
況、すなわち摂食障害の増加や美容整形の隆盛を考慮するならば、
容整形はある特定の身体を
「標準」とみなすシステムに関係している
エイジェンシーを強調することは有効ではなく、むしろそうした状
のであり、こうした標準化は、今日の身体をめぐる言説において
況をあいまいにしてしまうとボルドーは警告する。このようにボル
主要な役割をはたしている
「選択」や「自己決定」というレトリックに
ドーにおいては、
「美のシステム」による統制に注目するアプローチ
よって見えにくくされている。この意味で、女性の「選択」や「エイ
と女性のエイジェンシーを強調するそれは二者択一的である。一方
ジェンシー」
を強調するデイヴィスの議論は、こうした言説と同様、
を選択することは、他方を断念することに等しい。
ひじょうに問題含みである。ボルドーが導くのは、美容整形につい
一方デイヴィスにおいては、
「美のシステム」による統制に注目す
てのフェミニズム研究は、個々の女性の視点やそれに基づく選択よ
るアプローチと女性のエイジェンシーを強調するそれは、両立可能
りも、強制的な
「美のシステム」を分析の前面に押し出す必要がある
なものとして理解されている。
「特定の女性にとって美容整形がどの
という結論である。
ように最善の行為であるのかを理解すると同時に、美容整形を選択
とならしめる状況的な強制を問題化することが必要である」
(Davis
3.3 論争からみえてくるもの
1995: 5)という記述からも、それは明らかである。しかしながら、
以上が、ボルドーとデイヴィスとのあいだで繰り広げられた論争
「美のシステム」の統制と女性のエイジェンシーの両方に配慮しよ
である。デイヴィスによる女性のエイジェンシーの強調は、
「美のシ
うしているものの、デイヴィスもまた二項対立的な理解に陥ってい
ステム」が女性の行為を決定するという社会決定論へのアンチテー
る。両方に目配りしさえすれば、二元論的思考を免れるというわけ
ゼである。すなわちデイヴィスは、
「美のシステム」に一義的に規定
ではない。
されるわけではない女性の行為の側面を認めているのである。一方
結局のところ、ボルドーとデイヴィスの論争は、社会学における
ボルドーは、あくまでも社会的・文化的な統制に主眼を置き、エイ
「構造」対「エイジェンシー」の問題の再演ではないだろうか。リン・
ジェンシーを強調することには懐疑的態度をとる。ボルドーにとっ
S・チャンサーは、フェミニズムの議論は「性差別からの自由」と「性
て分析されるべきなのは、
「美のシステム」が女性の行為をどのよう
的自由の達成」という対立を何度も繰り返してきており7、それは社
に規定するかという問題なのである。
会理論家による「構造」対「エイジェンシー」論争のひとつのヴァリ
一見すると、ボルドーとデイヴィスの対立の溝は深いと感じられ
エーションであると指摘する(Chancer 1998)。
「性差別からの自由」
るかもしれない。しかし、
「美のシステム」の社会的・文化的統制と
をめざすフェミニストは、性差別の抑圧性を論じる傾向にあり、個
女性のエイジェンシーを二項対立的にとらえているという点では、
人レベルの性的自由よりも、権力構造それ自体の抜本的な変容に関
両者の立場は近似している。ボルドーにおいて、こうした二項対立
心を向けている。一方、
「性的自由の達成」を目標に掲げるフェミニ
的見方は、フーコーの議論の解釈に典型的に表れている。ボルドー
ストは、男性支配社会が女性の性的欲望の表現を制限していること
は、フェミニズムにおいてはフーコーの議論が 2 通りに受容された
に批判の目を向けており、個々の実践による権力の転覆や権力への
と指摘する 。第一に、身体をめぐる権力に関する知見が、女性身
抵抗を追求している。チャンサーによれば、フェミニズムにおける
体の統制という過程を理解したいフェミニストを引きつけたとい
美の問題も
「性差別からの自由」
と「性的自由の達成」
という対立の現
う。第二に、権力への抵抗に関する知見が、ジェンダー規範が変化
れであり、ボルドーは前者を、デイヴィスは後者を追求する立場に
する可能性を論じたいフェミニストを魅了したという。ボルドーは
位置づけられる。
「性差別からの自由」か「性的自由の達成」かという
前者に、デイヴィスは後者に位置づけられるだろう。ボルドーは、
問題設定自体がナンセンスであり、
「あれかこれか」的思考はフェミ
フーコーの権力のとらえ方の有効性について、次のように述べてい
ニズムの批判力を弱体化させてしまうとチャンサーは主張する。
6
る。
デイヴィスは、ボルドーの議論を「社会的行為の過度に決定論的
な説明」
(Davis 2003: 12)であると批判し、女性のエイジェンシー
私自身の研究において、そうした考え方[フーコーの権力のと
への配慮を主張した。しかし、デイヴィスが行なうべきだったの
らえ方]は、ダイエットやエクササイズという現代的規律の分析
は、社会決定論におけるエイジェンシーの無視や看過それ自体の
や、摂食障害を私たちの文化の規範的な女性らしさの実践から生
批判ではなく、ボルドーの議論が具体的にどのように個別の状況に
み出され、それを再生産するものとして理解することに役立つ。
合致しないかを提示していく作業ではなかっただろうか。くしくも
そうした実践は、文化の要請に従順でそれに服従するように女性
デイヴィス自身が
「個々の経験や実践の特殊性を無視した身体理論」
0
の身体を訓育し、同時にパワーとコントロールという観点から経
0
0
0
(ibid: 9)と自らの批判対象を定めているように、ボルドーの議論の
0
験されるものである。フーコー主義的な枠組みにおいては、権力
問題を女性の主体性の看過としてではなく、個別の状況の無視とし
65
September 2005
No.4
て把握する必要があったのである。女性の行為が「美のシステム」に
注
「「美」と呼ばれる特質
1 ウルフのいう「美の神話」とは次のような物語である。
一義的に決定されるわけではないという批判は、意義あるものであ
が、客観的・普遍的に存在する。女はそれを体現したいと思わなければな
る。しかし、その批判の論拠を「美のシステム」に対するエイジェン
らないし、男はそれを体現した女を所有したいと思わなければならない。
シーの優位性に求めてはならない。
「美のシステム」への抵抗を主張
この美の体現は女にとっては絶対命令であり、男にとってはそうではない」
(Wolf 1991 = 1994: 15-16)。
するのであれば、特定かつ個別の状況にそくして、女性たちの行為
2 既存の規範的な「美」から自由にならなければならないという主張は、今度
が既存の支配的な
「美」を承認しなくなっていく過程を論じなければ
はそれ自体が新たな規範として作用するという問題もある。フェミニスト
ならない。さらに、いつ、どのような条件のもとにそうした過程が
にもかかわらず、依然として外見にこだわる自分はフェミニストとして失
格なのではないかと恐れたというチャプキスの経験は、
「 美」への抵抗を呼
生起するのかを考察する必要がある。
びかけるフェミニズムの主張が規範性を帯びた結果とも読める。ここで強
もちろん私は、ボルドーとデイヴィスの論争にはまったく成果が
調したいのは、抵抗とはけっして普遍的ではなく、ある人々にとっての抵
ないと主張しているわけではない。女性の美の実践をめぐる従来の
抗が、別の人々には抑圧として感受される可能性もあるということである。
また、既存のものとは別様の新たな「美」の創造を主張するフェミニズムが、
議論は、もっぱら
「抑圧」や
「権力」という観点から展開されてきたた
女性における身体とアイデンティティとの緊密な結びつきそれ自体は否定
めに、それに対する批判の論拠が女性の「選択」や
「主体性」とされた
せず、むしろ身体を重要な自己実現の場と位置づけたことが、女性たちの
ことは容易に想像がつく。この意味で、女性の美の実践をめぐる
身体加工を促進したのではないかという指摘もある
(荻野 1996)。
3 いくつかの論点とはまず、後述する「構造」対「エイジェンシー」の問題があ
議論の争点が
「構造」
対
「エイジェンシー」という問題になることは必
る。また、批判対象である「美のシステム」に対して、どのような位置関係
然ともいえる。よりポジティヴに解釈するならば、美の問題におい
をとるかという問題もある。ボルドーは、文化の「隠された、問題にされ
て
「構造」
対「エイジェンシー」が争点となること自体に目を向け、そ
ていない側面を発掘し、暴露するために多様な理論的道具を使用する文化
の意味を問うという方途もありうる。しかしながら、ボルドーとデ
の現象学者であり診断医」
(Bordo 1997: 174)と自らを位置づけている。一
方デイヴィスは、ボルドーが「真実」を明らかにしうる特権的立場に自ら
イヴィスの議論は多分に同じ論点の繰り返しであり、そこから「す
を置いていると批判し、自分もまた批判対象である文化の成員であるとい
れ違い」以上の意味をくみ取るのは難しいというのが率直な感想で
う認識のもと、美容整形に関する文化的言説を分析している(Davis 2003:
ある。
「美のシステム」の強制力によってであれ、女性のエイジェン
13-15)。両者の立場の相違は、リンダ・ハッチオン(1989 = 1995)が提唱す
る
「共犯的批判」という視点の有無にあるといえるだろう。
シーによってであれ、女性の美の実践を(最終的には)十把一からげ
4 デイヴィスによれば、ボルドーらのポストモダン・フェミニズムの身体理
論の欠点は大きくわけて 2 つある(Davis 1997)。ひとつは、女性の身体経験
に説明し、個別の状況やそこに含まれる多義性を考慮していない点
ではボルドーもデイヴィスも同罪である。
が見落とされてきたことであり、もうひとつは、異性装のような逸脱的な
ボディ・ポリティクスがもつ可能性が無視されてきたことである。
5 デイヴィスと同様にエイジェンシー概念に注目するのは、ロイス・マクナ
4.まとめ
イである。マクナイは、
「従属化=主体化」という定式化を「ネガティヴ・パ
ラダイム」と名づけ、近年のフェミニズム研究における主体の説明におい
て、このパラダイムがあまりに支配的であることに疑問を投げかけている
本稿では、女性たちの美の実践を議論してきたフェミニズム研究
(McNay 2000: 3)。首尾一貫した主体は言説によって構築されるというの
の成果と問題点を検討した。まずはじめに、80 年代後半までに獲
がネガティヴ・パラダイムの主張の要であるが、ここでは主体の本質的な
得された
「抑圧としての美」
というパースペクティヴと、フェミニズ
受動性が想定されているため、言説決定論的な見方に陥ってしまう。マク
ムへのポストモダニズムの導入以降に主流となった「規律実践とし
ナイは、個人の実践の潜在能力をとらえるためには「ネガティヴ・パラダイ
ム」から移行し、エイジェンシーに内在する生産的で創造的な側面を概念化
ての美」というパースペクティヴとに分類し、後者がどのように前
することが重要であると指摘している
(ibid: 5)。
6 モニク・デボーも同様に、フェミニズムによるフーコーの援用には 3 つの
「派」があると指摘している(Deveaux 1994)。第一派は、権力が身体に及ぼ
者とは異なるのかを確認した。
「規律実践としての美」というパース
ペクティヴは、フーコーの権力概念を参照することで、従来の男性
す作用に関するフーコーの知見の援用であり、
「 従順な身体」という概念に
一般を女性一般に対置して告発する素朴な論理を棄却している。ま
着目している。この派に分類されるものとして、デボーは、本稿でも取り
た、女性を
「美のシステム」
のたんなる犠牲者ではなくその加担者と
上げたバートキー(1990)やボルドー(1993)をあげている。第二派は、フー
みることで、
「美のシステム」と女性との入り組んだ関係の記述に成
コーの後期の業績の援用であり、
「権力のあるところに抵抗あり」というテー
ゼを継承している。この派にデボーが分類するのは、ナンシー・フレイザー
功している。
「規律実践としての美」というパースペクティヴはこの
を含む数名のフェミニストである。第三派は、セクシュアル・アイデンティ
ように、
「抑圧としての美」というパースペクティヴに内包される問
ティやジェンダー・アイデンティティに関するフーコーの知見の援用であ
題点を克服しているが、女性の美の実践を社会決定論的に説明して
り、ここにはジュディス・バトラー
(1990)
が含まれる。
7「性差別からの自由」対「性的自由の達成」という対立の例としてチャンサー
いるという問題も残されている。
他にあげるのは、ポルノグラフィ、売春、サドマゾヒズムといった問題に
そこで次に、社会決定論へのアンチテーゼの代表としてキャ
ついてのフェミニズム内部の論争である
(Chancer 1998)。
シー・デイヴィスの議論を検討し、
「規律実践としての美」というパー
参考文献
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握したため、彼女の議論は、
「規律実践としての美」というパースペ
クティヴにおける社会決定論的性格を解決する理論枠組みにはなり
えていない。社会決定論を克服する新たな枠組みを提示するには、
女性の行為が「美のシステム」によって一義的には規定されない側
面を、特定かつ個別の行為にそくして検討していくことが必要とな
る。美を論じるフェミニズムの課題は、美をめぐる女性たちの経験
の記述の積み上げと、それを可能にする理論枠組みの探求である。
ニズムとアイデンティティの攪乱』
青土社
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波書店
66
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67
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