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白 一 。

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白 一 。
第6章
はじめに
││国民的ファンタジーの想憶力を支える匡史と記憶
宮崎駿﹃干と干尋の神隠し﹄の物語の深層
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﹃我々はど こか ら 来 た の か 、 我 々 は 何 者 か 、 我 々 は ど こ へ 行 く の か (
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5・
-世紀転換点における問いかけ
何より もその 物語の内部 にある。
﹃
千と千尋の神隠し﹄がアニメーション映画として広範な普遍性を獲得し、広く受け入れられたことの秘密は、
読 し てみる。
な映像テクス トに 対して徹底的な構造分析をおこなうことによって、現代日本の国民的作品の奥深い寓意性を解
想性は 、 ど の よ う に 構 築 さ れ た の か 。 こ う し た 基 本 的 な 問 題 意 識 を 抱 え な が ら 、 本 章 で は 、 こ の ﹁ 日 本 ご 重 要
十四分間の映像の世界に、人々を引き付けるほどの密度と奥行きを与えたのは、何であるのか 。宮崎アニメの思
えない。世界を驚かせたアニメーション作品の高度な芸術性と想像力を一異から支えているものは何なのか。百二
の、このアニメの物語の深層や現 代日 本に関するファンタジ ーとしての奥義は 必ずしも十分に解読されたとは言
﹃
千と千 尋の 神隠し ﹄が誕生 し てからの約十年間 、この作品 をめぐる評 論や解説書 などは数多く現れてきたもの
価され、世界に誇るアニメ映画界 の巨 匠の座を不動のもの にし ている。
デミ ー賞長編ア ニメ最優秀作品 賞など、海外でも多くの栄冠に輝き 、 それらによって宮崎駿は国際的にも高く評
の作品が作った数々の﹁日本 ご は、宮崎駿がまさに国民的作家と呼ばれるにふさわしい存在であることを物語
っていお。しかも、日本国内に限らず、﹃千と千尋の神隠し﹄はベルリン国際映画祭の金熊賞、アメリカのアカ
広く知られ、かつ 実際に観ら れた点で、これに比 肩できるものはどのジャンルでも 現在までは現れていない 。こ
初放送)をマークしたという。﹃千と千 尋の 神隠し﹄は、日本人の誰もが認める国民的作品とな っていて 、最も
客動員数。劇場映画のテレビ放送でも四六 ・九 パ ー セ ン ト の 最 高 視 聴 率 (二
OO三年一 月 二十四日 日本テレビ系の
生まれた最も有名かつ重要な物語である。史上最高の三百四億円の興行収入、二千三百五十万人もの記録的な観
二O O 一年の夏に公開された宮崎駿監督のアニメ ー ション映画﹃ 千と千 尋の 神隠し ﹄は、ここ十年来、日本に
剛
品 である(図 I)。﹃ 千と千 尋の神隠 し﹄の物語に表れたモチ ー フやテ l マの核 心とな るものと、このゴ │ギャン
の大作との聞には共通点があることに、まず気づかずにはいられない 。
引 っ越 しの途中でト ンネルの 向こう側の世界に迷い込 んだ十歳の少女千尋が 、魔女 が管理する油屋で生き残る
。
ために働く 。 そして、最終的には豚に変えられた両親を救い出して、現実世界に生還する この物語の主人公は、
﹁来たところへ帰る﹂という課題を負わされている 。 本来の名の﹁荻野千 尋﹂を﹁千﹂ に変えられた主人公は 、
。
魔女湯婆婆から、お前はもう元の世界に戻れないと宣告された そして、その世界で出 会ったハクという少年に、
。 ところ
﹁本当の名前は し っかり隠しておくんだ。名を奪われると帰り道が判らなくなるんだよ﹂と忠告された
﹄
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秦
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白名画のタイトルに付けられた 。 後期印象派の巨匠ポ l ル ・ゴlギャンの生涯の芸術を集大成 した傑作とされる作
第 6:41:-宮崎駿『千と千尋の神隠 し』の物語の深間
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我々はどこから来たのか、我今は何者か、
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は ふ あ が 暴 隠 し』 第 5巻 〔アニメージュコミック旦ス ベ シャノレ
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6ページ)
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一九 九 七 年 夏 の ﹃ も の の け 姫 ﹄ の 公 開 後 に
直し、その物語がどのように日本の過去を総括し、かつ日本の未来を展望したのかを考える視点が必要となる 。
た初めてのファンタジーだった。だからこそ、﹃千と千 尋 の 神 隠 し ﹄ を 世 紀 の 転 換 点 と い う 時 間 軸 の な か で 捉 え
も必然的に織り込まれている。特に、本作品は、宮崎自身原作の宮崎アニメのなかでは、同時代日本を舞台にし
も決して制作者個人の心境と思いだけを反映しているわけではなく、一つの時代の集合的無 意 識と独特な時代性
を迎えた年であった。もちろん、スケールが壮大なゴ lギャンの作品もそうだつたように、﹃千と千 尋 の神隠し﹄
世紀にまたがっていた。しかも、作品完成のO 一年は、折しも一九四一年生まれの宮崎駿自身が本卦帰りの還暦
徐々に構想が固まり、本格的な制作期間は 二OOO年 二 月 か らO 一年七月にかけての間で、ちょうど新旧二つの
を制作に託したという。それに対して、﹃千と千尋一の神隠し﹄は、
一八九八年に完成されたものだが、すでに自殺を決意した五十歳のゴ lギャンが、人間と世界へのすべての思い
紀の変わり目の歴史的転換点に制作されたことに関わっている。ゴ lギ ャ ン の 大 作 は 十 九 世 紀 の 世 紀 末 に あ た る
ところで、﹃千と千尋の神隠し﹄とゴ lギャンの作品の聞に見られる主題的な相関性は、 実 は 両 作 が と も に 世
の 一っと見ていいだろう。
帰 還 が 成 し 遂 げ ら れ た の で あ る 。 記 憶 が 過 去 と 未 来 と を つ な ぐ 。 こ れ は 、 ﹃ 千 と 千 尋 の 神 隠 し ﹄ の メ イ ン テl マ
によって、彼ら自身も含めたすべてのキャラクターの危機的状況からの脱出が実現され、主人公の最終的な現実
制 す る 権 力 シ ス テ ム に 抗 い 、 千 尋 と ハ ク は 互 い の 記 憶 を 補 完 す る 記 憶 の 共 同 体 と し て 結 ぼ れ て い た 。 また、それ
憶﹀の大切さが強調されているのを見落としてはならない。名を奪うことで相手を支配する湯婆婆の、忘却を強
ければならなかった。そうしたなかで、損なわれたアイデンティティを取り戻すためには、物語でとりわけ︿記
ど。これらのキャラクターたちはいずれも物語のなかで、失った自己の本然の姿を取り戻すプロセスを体験しな
子)、湯パ l ド(湯婆婆の 鳥姿の分身)、オクサレさま(汚れた川の神)、カオナシに喰われた青蛙、蛙男、湯女な
が、そのような危機的な状況に陥っていた。千尋を始めとして、千尋の両親、ハク、カオナシ、坊(湯婆婆の
深刻な自己同一性障害にかかっていたのである。カオナシだけでなく、この映画に登場するキャラクターの多く
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J 化 を 我 々 は ど こ へ 行 く の かJ1897年、ボストン美術館所蔵
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宮 崎重量『千と千 尋 の事'
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隠し 』 の 物 語 の 深層
第 6主
第 6i
it一宮崎駿『千と千尋の神隠し』の物語の深庖
2ニOOO年か5の尋ね
国民的作品になったとはいえ、﹃千と千尋の神隠し﹄には依然として多くの謎や不可解な点が残されている。
そもそも、この映画にはなぜ﹃千と千尋の神隠し﹄という奇妙なタイトルが付けられたのか 。これまで数え切れ
ないほどの評論や作品分析が現れたが、この作品タイトルに対しての納得がいくような説明はいまだになされて
いない 。ある いは多くの観客が、何の抵抗感もなく受け止めてしまい、その不自然さに 気づかずにいたのかもし
れない。
作品タイトルの不自然さというのは、つまり、﹁千﹂と﹁千尋﹂が同一人物の名前なのに、なぜ﹁千と千尋﹂
のように、二つの名前を﹁と﹂で結んで並立させたのか、ということである。このような並べ方は、いくらか異
様なニュアンスを与えかねない。主人公の千尋が神隠しにあって異界の魔女に名を変えられた、という筋ならば、
本当は﹃千尋の神隠し﹄にすべきではないだろうか 。 このタイトルについて、例えば精神科医の香山リカは次の
ように感じていた。 ﹁
千 と千尋。似たような名前のふたりの物語?そう思って見に行った人もいるはずだ。私
のように﹂ 。 おそらくこの感覚こそ、普通なのだろう 。
叶精 二﹃宮 崎駿全 書﹄に よれば、作品タイトルが定着するまでは、﹁鈴木は﹁千の神 隠し ﹂ にタ イトル変更を
主張 したが、翌年 (
二OOO年)一月、﹃千と千尋の神隠し﹄に正式決定した﹂という経緯があった 。つま り、プ
ロデューサー鈴木敏夫もかつて 異議を申 し立てたが、おそらく監 督の強いこだわりで 、結 局押し通されたと推測
﹁特別な意味﹂とはいったい何なのだろうか。この謎を解くためには、双子の魔女の関係について、その長女で
される 。﹁ 中心の同一人物の名前を重ねることには、何か特別な意味がある﹂と指摘した研究者もあるが、その
ある銭婆が語った﹁あたし達二人で一人前なのに﹂との一言がヒントになる 。 ﹁二人で一人前﹂と示唆されたよ
二OOO(年)の尋ね﹂ という意味が込めら
うに、﹁千と千尋﹂というこつの名前を重ね合わせれば、 そこに ﹁
れていることに気づかされる。
そもそも人聞が行方知れずになることが﹁開院し﹂だが、一方では、神の姿が見えなくなるという意味の﹁桝
取れ﹂という言葉もある。もともと﹁隠﹂という字の本意は、すなわち﹁神隠れ﹂、神が隠れること。そして
﹁尋﹂の本意も、まさに神の所在を尋ねることなのである。﹁神は古くは定処することのない、所在不明のもので
てみれば、本作品は確かに、千尋が
あった﹂と白 川静が﹃字距﹄で説明している 。 こ のように考えれば、﹁千と千尋の 神 隠し﹂のタイトルには、﹁二
000(年)に隠れる神を尋ねる﹂という合意が読み取 れるだろう。言っ
﹁神を尋ねる﹂物語として見ることができる。千尋の助けを受けたオクサレさまもハクも、実のところ﹁隠れる
神﹂だったし、さらには物語の最後に、千 尋 が銭婆に手渡された﹁ 髪留め﹂が、 ﹁
髪 H神留め﹂という両義的な
と言える。
意味をもつがゆえに、その﹁神を尋ねる﹂使命は、 ﹁
髪留め ﹂をも らうことの象徴的な行為によって完遂された
このように作品タイトルの含意を深く詮索したのは、﹃千と千尋の神隠し﹄が世紀の変わり目に制作されたそ
﹁
さようならのとき﹂と同時に、二O O 一年の﹁はじまりの朝﹂(主題歌 ﹁いつでも何度でも ﹂)を 迎 え
、
の時代の特異な時間性が、重要な物語コ lドとして仕掛けられていたことを証明するためである。過ぎ去る二O
OO年との
人類社会が新たな世紀と新たなミレ ニアム(千年紀)に入るという、その特殊な時間性が、作品解読の重要な手
がかりとなる。しかもそれは、物語が千尋一家の引っ越し途中の出来事として設定されたことにも深く関わって
いる。
﹁
来たところへ帰る ﹂ ことが与えられた課題だったにもかかわらず、実のところ、主人公の千尋は現実世界にお
。 千尋一家はもとの家を離れてしまい、引 っ
越しの途中に異世界に迷い込
いての帰る べき場所を所有 していない
んだために、新しい家に辿り着くまでには、帰る場所さえもたない、移行中の境界的な状況 にある。この特殊な
状況設定は、作品制作の時代背景ともなった、二十世紀から二十 一世紀へと人類社会が移行するとい う過渡的な
1
3
6
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37
第 6章 一 一 宮 崎 駿 『千 と千尋 の神隠し』 の物語の深層
制一一時代性を、そのまま暗示している。トンネルの前に立った前後二
刷附つの顔をもっ不思議な石阪、それから、飲食街の壁に見られる
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引の交替を意味する記号である。本作品の多くの場面では、多数の
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凹昨﹁正月﹂﹁元(日)﹂などの漢字などは、いずれも終わりと始まり
叩甑漢字や数字などが画面に織り込まれ、その結果、記号が氾濫した
い 引 側 世 界 が 構 築 さ れ て い る 。 過 剰 な ほ ど の 大 量 の記号の存在は、それ
を読み解く観客の意欲を絶え間なく誘い続ける 。
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賢 一 と こ ろ で 、 映 画 の 冒 頭 で の 、 荻 野 家 の 車 が 走 る 国 道 の 景観は、
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沖央線の四方津駅周辺をモデルに再現したことが広く知られ
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日ている。美術監督の武重洋二、背景担当の男鹿和維などの主要ス
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方津駅周辺の景観を選んだ理由は、実はそこが国道二十号の甲州
ジ川タッフが実地取材にも行ったという。物語が始まる舞台として四
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山 川 街 道 沿 線 に 位 置 す る か ら で あ り 、 宮 崎 駿 監 督 による絵コンテに
3 十屯
図 他 的 内 ﹁ 国 道 二 十 号 の イ メ ー ジ ﹂ と い う 極 め て 明 確 な 指 示 が 書 き込まれ
ていたからである。ところが映画では﹁国道二十号のイメージ﹂を再現したはずの道路には、先方に﹁国道二十
一号﹂に入ることを指し示した標識が立っている。メインタイトルが出る直前の画面には、﹁国道二十一号﹂を
表 示 し た 道 路 標 識 が は っ き り と 見 ら れ る ( 図 3)。 荻 野 家 の 車 が 右 側 の 分 か れ 道 に 入 っ た た め に 、 国 道 の 本 道 か
らそれて、不思議の町の入り口の前に来たのである。
ここで興味深いのは、荻野家の引っ越しを ﹁
国道 二十号﹂から﹁国道二十一号﹂に向けての空間移行によって
表象したことである。このトリックは、二十世紀から二十一世紀への時間的な転換を意識してのもので、それを
示唆するための仕掛けに違いないだろう。実際、日本の﹁国道二十号﹂(東京都中央区日本橋から長野 県塩尻市ま
で)と﹁国道二十一号﹂(岐阜県瑞浪市から滋賀県米原市まで)とは、連結するどころか、交 差 することさえない
離れた道路ではあるが、この映画の仮構された空間であたかも接続するもののように表現されたのである。ちな
みに、荻野家の自家用車、左ハンドルのアウディのナンバーが﹁へ 1 9 0 1﹂とされたのも、決して偶然ではあ
るまい。一九O 一年、それは二十世紀の最初の年であり、この映画を同時代的に見た観客のすべてが、そのとき
以来の人類の欲望と狂気を満載した時代の車に乗って、いま・ここまで辿り着いたはずである 。
この冒頭の﹁国道二十号﹂﹁国道二十 一号﹂のイメージは、 二十 世 紀 か ら 二 十 一 世 紀 へ の 時 代 転 換 を 暗 示 し た
だけではなく、﹁国道﹂であるゆえに、これから展開する物語が、日本国家をめぐる寓話であることをも過不足
なく示唆している。
3 隠れる神のハク
﹁十歳の小さな友人たちのために﹂十歳の少女を主人公にした物語を作ったと監督が言ったように、主人公の年
齢は企画当初から定まっていた。作品が完成する二O O 一年に、十歳の千尋が観客に迎えられたことから逆算す
ょうど﹁失われた十年﹂の日本経済の停滞期と重なる。九0年代の不況期に社会に出た世代を現在ではロストジ
れば、千尋の生まれ年は、日本のバブル景気が崩壊した 一九九 一年だと推定できる。つまり、千尋の年齢は、ち
ェネレーション(失われた世代)と呼んでいるが、﹁ロスト﹂という語は﹁失った﹂の意味をもち、また﹁迷子
の﹂﹁行き場のない﹂ことをも意味する。このように見ると、帰属する家も所属する学校も 一時失い、社 会 的な
居場所ももたない移動中の十歳の主人公には、九0年代の平成不況期を生きた若者たちの不安定な姿が投影され
ているとも言える。
ごく普通の十歳の少女に描かれた千尋に対してこの映画のもう一人の主要人物ハクは、極めて特殊な性質を
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第 6章 一一 宮崎 駿 『 千 と 千若手の神隠し』の物語の深層
もつキャラクターに設定されている。この謎めいた登場人物は、物語の陰の主役の感さえある。彼は物語で大事
な役割を果たしたことは言うまでもないが、その特殊性について、以下の三点にまとめて考えてみたい。まずは、
なければならない。すなわち、ハクが千尋を前から知っていた(﹁そなたの小さい時から知っている﹂)とされ、最
前文にも述べたように、ハクと千尋が相互の記憶を補完する記憶の共同体として結ぼれたことをとりわけ強調し
終的によみがえった両者の共同の記憶が、主人公千尋の自他両方の救済が成し遂げられる前提となった。ハクの
記憶が回復し、自分の真実の名を思い出した場面が映画のクライマックスになったのは、ハクの自己回復こそ、
物語のすべての問題を解決する鍵を握っているからである。
そしてもう一つは、ハクが実際は千尋の両親の代理的存在となったことである。本来あの異世界では、千尋に
し﹄の物語では、千尋が豚になった両親を救出する筋が骨格となるはずなのに、実際のところ、千尋が何か具体
味方し、または千尋による救助対象となるべきなのは、千尋の両親でなければならなかった。﹃千と千尋の神隠
的 な 行 為 で 親 を 助 け た わ け で は な か っ た 。 こ の こ と を 不 思 議 に 感 じ た 観 客 も 少 な か ら ず い おようだが、物語の展
開における登場人物の役割から見れば、ハクはカオナシとともに、千尋の両親の身替わりとなったと見受けられ
る。つまり、千尋がハク(またはカオナシ)を救ったことは、彼女が両親を救ったのと同等の物語的意味をもつ
のだ。現に、千尋は両親にあげようとした苦団子を、ハクとカオナシに半分ずつ食べさせ、それによって彼らに
物を呑み込むことで犯した罪を償わせたのである。両親が豚に変換えられた理由が、盗み食いの罪だったことを想
起したい。このような筋の設定から見ても、ハクとカオナシは、千尋の両親の身代わり的役割をもたされたこと
そして最後に、特に重要なのは、ときには白い竜の姿に変身するハクは、実は隠れる神だったことである 。 ク
が明らかである。
ライマックスの段で明かされたように、彼は千尋と不思議な縁で結ぼれていた。彼はコハク川の神だったころに
その川に落ちた幼年時代の千尋を助けたという。千尋にとっては、ハクは彼女の命を育んだ神でもあった。この
クライマックスで、千尋のよみがえった記憶に触発され、ハクは﹁ニギハヤミコハクヌシ﹂という自分の名前を
ハクに限られることである。しかも、その本当の名を聞いた千尋が﹁すごい名前。神様みたい﹂と驚嘆したよう
思い出す(図 4)。 注 意 す べ き な の は 、 八 百 万 の 神 々 が 登 場 す る こ の 映 画 で 、 神 の 固 有 の 名 前 を 与 え ら れ た の は
二ギハ
ヒノ
一
に、﹁ニギハヤミコハクヌシ﹂という名前には、実に尋常ならぬ由来がある。
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ハクの本当の名﹁ニギハヤミコハクヌシ﹂は、韓速日尊という神の名に由来する。﹃先代旧事本紀﹄の記述に
よれば、鏡速日尊は天照大神の孫の一人で、十種の神宝と多数の随行者を連れて大和に天降っていた。つまり、
である。
ニギハヤミが神名だろう 。もちろん監督の創作で
あるが、﹁ニギハヤミ﹂の名は記紀神話の鶴速日
命(にぎはやひのみこと)からとっている 。天 孫
降臨以前に地上に降り、大和地方を支配していた
ったといわれる。物部氏の祖神とされ、祭神とす
が、神武天皇の東征に際して降り、その臣下とな
る神社もいくつかあるが、有名なのは天磐船(あ
まのいわふね)伝説で知られる、大阪府交野市の
磐船神社だろう。なお、宮崎監督の前作﹃ものの
け姫﹄の主人公アシタカヒコの名前は、この鏡速
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ま
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日命の一族であり、最後まで抗戦を主張して殺さ
れた長髄彦(ながすねひこ )に 由来するが、
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彼は神武東征の前に、大和を実質的に統治した王であった。ハクの名前の来歴を紹介した資料を、ここで一つ引
(出典 .前掲『千と千尋の神隠し』第 5巻
、 1
4
8ベ
ジ)
用してみよう 。﹃千と千尋の神隠し﹄(ロマンア ルバム)所収﹁﹃千尋﹄ワールドを旅するための水先 案内﹂の解説
図4
第 6章 一一 宮 崎 駿 『 千 と 千 尋 の 神 隠 し 』 の 物 語 の 深 層
ろわぬ神々
H
の名をいつも登場人物につけるあたりに、宮崎監督の好みが表れている。
出版物の一般向けの性質を考慮したためか、宮崎駿が Hまつろわぬ神々 H の名を映画に登場させたことを監督
の﹁好み﹂としている。ところが、それは ﹁
好み﹂よりもむしろ歴史観の問題として理解すべきだろう。天武天
皇の勅命で編纂された﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄によって、神武天皇よりも先に大和に鎮座したニギハヤヒの存在
が故意に隠蔽された、というような見方も一部の神話学者によって出されている。例えば、小椋一葉がその著書
﹃消された覇王│
│伝承が語るスサノオとニギハヤ吋﹄では 、 ニギハヤヒを﹁消された覇王﹂と呼び、彼が抹消
されたことを ﹁
古代日本歴史最大の謎﹂としている。また、大野七三が、ニギハヤヒは﹁大和国の大王﹂﹁大和
ては絶対に我が国の建国史 ・古神道の真実解明は不可能である﹂と主張している。
朝 廷 の 皇 祖 神 ﹂ であることを検証することによって、﹁日本建国の基礎を作られた皇祖神鏡速日尊の復権なくし
いずれにせよ 、 名前と記憶の大切さを訴える物語のなかで、正統化された ﹁
万世一系﹂の天皇系譜の裏に隠さ
は古代日本建国の真実を解く鍵となるような存在であるため、その名を受け継いだハクには、鮮明な日本的ナシ
れた大和の大王にちなんで、ハクと命名したことは、多くの問題を示唆している。一つ確実なのは、ニギハヤヒ
ョナリティ ーが付与されているということだろう。端的に言えば、ハクの役柄には、自己喪失した日本の国家像
を暗喰するような寓意が仕掛けられている。自ら進んで魔女に弟子入りしたハクと、大和の支配者だったにもか
かわらず、神武天皇に臣服し、王権を放棄したニギハヤヒとの対応関係が、ま、ぎれもなく見いだされる。
さ ら に 詮 索 す れ ば 、 ハ ク の 名 の ﹁ ニ ギ ハ ヤ ミ コ ハ ク ﹂ を﹁ニギハヤヒ﹂に照らせば、もとの神名の﹁ヒ﹂
ヒは太陽神だったのに対して、本作のハクはコハク 川 の河の神、水の神だからである。一方では、﹁ニギハヤヒ﹂
(
日 ・火)が﹁ミ﹂(水)に取り替えられ、さらに﹁コハク﹂を付け加えられたことがわかる。それは、ニギハヤ
の神名の﹁ヒ﹂が﹁ミコ(亙女)+ハク(白)﹂に取り替えられたと見ることもできる。﹁ヒ﹂ H ﹁火﹂とは、宮
崎アニメが一貫して批判的に捉えた要素でもあり、そうした認識がとりわけ﹃風の谷のナウシカ﹄と﹃もののけ
姫﹄のなかに表現されているが、﹁ヒ﹂を﹁ミコ﹂(亙女)に取り替えたところには、近代理性主義への懐疑に基
づいた古代シャ ー マニズムへの関心、または男性中心主義への否定につながるフェミニズム思想などの、宮崎ア
ニメの不可欠な要素が想起される。そして、 ﹁ハク﹂(白)の名前については次のように解釈できる 。一 つは、白
は日本で古くから神聖な色とされ、もっぱら神事の色として尊ばれてきたために、﹁ハク﹂の名前はおのずと日
本を象徴する意味合いをもっ。彼がいつも白い水干の古風な衣装で登場したのもそのためだろう。そしてもう一
つの説明とは、すなわち ﹁
空 白 ﹂ の﹁白﹂で、自己の本然を見失って魔女に操られるだけの彼には、あるべき主
体性がないことを調喰している、ということである。
4 ﹁油屋﹂と﹁沼の底﹂のアレコリー
千尋が働く油匡は、八百万の神が疲れを癒しに来る風呂屋とされている。そこは、神々が被れと疲れを取るた
めの、浄 化 と回復を意味する場所だが、一方では、猿褒で淫膝な俗世の縮図でもある。神様が湯立て神事の場所
に訪れるというアイデアは、長野県南部に伝わる霜月祭に影響を受けたと言われるが、日本の神が﹁汚れる﹂
﹁疲れる﹂という発想は、監督の深刻な現実認識にも根差したものだったに違いない 。 油屋にやってくる神々と
言えば、おしらさま、春日さま、牛鬼、オオトリさまなど、いずれも日本各地の伝承や民間信仰をもとに造形さ
れたものばかり。ところが、日本的な神々を迎える和風の風呂屋を支配するのは、なぜか文化的背景が違う西洋
風 の 魔 女 な の で あ る 。 そ の 和 洋 の 対 比 は 、 例 え ば 空 間 的 要 素 に も は っ き り と 表 れ て い る 。 擬洋風の外観をもっ油
屋の内部では、玄関から回廊、浴場、客室、従業員の宿舎に至るまで、基本的には和風の作りになっているのに
対し、建物の最上階に位置する湯婆婆の部屋だけは、過剰に装飾された洋風空間である 。
千尋がリンの案内で、エレベーターで油屋内部の迷宮のような空間を潜り抜けて、﹁天﹂と書かれた最上階の
1
42
1
4
3
罫~ 6 ~ --宮崎駿『千と 千尋の神 隠し』の物語の深層
湯婆婆の部屋に 辿 り着く場面は、湯婆婆による油屋
支配の権力構図を 、 千尋の移行する視線で巧みに表
現している。このシ 1 ンでは 、魔女の部屋の入り口
上方にある翼を広げた鷲模様の金箔紋章がクロ ーズ
。 紋 章 の 真 ん 中に﹁油 ﹂
ア ップさ れている(図 5)
の漢字が付く。絵コンテでは﹁油屋の屋号のエンプ
レム﹂と説明されているが、その鷲こそ権力者の湯
辺に顔、がそっくりのカラス姿の湯パ lドが付き添い、
婆婆を表象する記号なのである。実際、湯婆婆の身
うな凶猛な鳥に変身して飛べる。この湯婆婆を指し
彼女自身もショ ー ルをまとうと、鷲かコウモリのよ
示す鷲の紋章から、アメリカ国章の模様を直ちに連
想するのも決して過剰な反応ではないはずだろう 。
鷲は、 ほかでもなくアメリカの国鳥(正確にはハクトウワシ)、アメリカのシンボルである。
こ の よ う に 考 え る と 、 鷲 を 表 象 記 号 と す る 湯 婆 婆 は 戦 後 日 本 を 実 質 的に支配したアメリカを象徴する役柄であ
る、という見方が成り立つ。ハクが湯婆婆の弟子になったことは、戦後日本で確立されたアメリカ依存の経済発
ゆ
展と政治体制を示唆しており、それと同時に明治維新後の﹁脱亜入欧﹂の国家路線のもとに西洋列強に仲間入り
ゆ H喰﹂の世界でも
湯﹂屋としての﹁油屋﹂という空間は、同時に ﹁
した近代 日本の高度な比喰なのである。 ﹁
ある。
(H浴)の場でもあった。その内部に見られる契約制の
絢 欄 豪 華 な 油 屋 は 、 聖 と 俗 が 重 ね 合 わ さ れ た 両 義 的 な 空 間 と し て 箔 か れ 、 金銭欲、食欲、物欲などがあふれる
世界でもある。その巨大な浴場は、文字どおりの﹁欲﹂
労働形態や利潤追求の経営方針なども、明らかに﹁お客様は神様﹂風の現代消費社会の反映だろう 。
﹁ 千尋 が迷
い込んだ異界は日本そのもの﹂ ﹁
結 局僕は日本を描いているんで朽﹂と、宮崎駿が繰り返し強調したように、油
屋はその一面ではまぎれもなく、日本人が生きている現代社会の日常そのものにほかならない。
ここまで分析すれば、﹃千と千 尋の 神隠し ﹄ に性質がまるで対照的な双子姉妹の魔女が 登場する理由も 納得が
いくのではないか。結論を先に述べておけば、 ﹁二人で一人前なのに、 気が合わ ない ﹂双子の魔女は 、それぞれ
欧米的なるものとアジア的なるものを表象している 。 企画当初宮崎駿が描いたイメ ージボ lドでは、銭婆と湯婆
雅司の証言によれば 、 ﹁後半から出てくる新キャラクタ ー
である銭婆を説明する余絡もないので、僕が、湯婆婆と同
じでいいんじゃないですか││と 言って しま ったんです。
指輪の数で分類しようともしたんですが、管理が大変なの
)
で、まるっきり一緒にしました ﹂とのことだそうである。
外形からは見分けがつかなくな ったが、 両者の性質の違い
はもはや一目瞭然である 。 妹の湯婆婆は、強欲な経営者、
または疎腕な支配者と し て賛を尽くした空間の頂点にいる 。
そして、慈愛に満ちた姉の銭婆は、海の彼方の砲に固まれ
た古い農家を住まいとする 。その場 所の地名が﹁沼の底﹂
とされ、 ﹁
天﹂にいる妹とは、陰と陽、深さと高さの対照
になっている。もし、湯婆婆がアメリカを代表とする欧米
文化の表象とするなら、白壁に草葺きの屋根の簡素な農家
1
4
4
1
4
5
図5
( 出典:宮崎駿『千と千尋の 神 隠し~ c
rスタジオジプリ絵コ
ンテ全集 J第 1
3
巻〕、徳間害賠、 2
0
01
年
、 1
9
2ベージ)
婆の二人が異なる風貌にデザインされていた(図6)。ほっそりとした長身の長女の銭婆が﹁魔力も金力も強い﹂
(
1
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1
典 前 掲 WTHEARTOFS
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ベージ)
とされ 、 頭の 大 きい次女の湯婆婆が﹁コンプ レ ックス﹂をもっという説明も書き込まれている 。作画監督の安藤
図6
に暮らす銭婆を、前近代的なアジアの農耕文化の代表者と見なしていいだろう。あの異世界では、銭婆 =(アジ
ア と
) 湯婆婆 =(欧米 が
) 対峠する両極となり、前者が後者を批判的に相対化できるほぼ唯一の存在として登場
している。岸正尚が﹃宮崎駿、異界への好奇心﹄で、湯婆婆と銭婆の差異を﹁新暦的世界と旧暦的世界﹂として
捉えているのも、妥当な方向だと思われる。
﹃千と千尋の神隠し﹄に描かれたさまざまな﹁水﹂のイメージに焦点を当てて考えれば、湯婆婆が経営する﹁油
屋﹂と銭婆が住む﹁沼の底﹂のそれぞれの空間の命名にも、寓意性が仕込まれていることに気づく。﹁沼﹂と
﹁湯﹂はともに水に関係するものだが、両者の性質が明らかに違う。﹁沼﹂は自然的な存在であり、﹁湯﹂は人力
で沸かす人工的なもの。特に、湯婆婆の風呂屋が﹁油屋﹂と名付けられたことは、姉妹の二人の気の合わなさ、
また湯婆婆の管理者としての異質性を暗示しているようにも見える。なぜなら、﹁水と油﹂という言葉があるよ
うに、油と水 湯
( と
) はなじまないもの同士で、簡単に混合できない。だから、湯屋と同音とはいえ、湯屋の匡
号としては﹁油屋﹂ほど皮肉な命名はほかにない。しかし一方では、﹁油﹂とは、現代社会を動かす最も重要な
エネルギー、日本にとって海外依存度が最大の資源である石油を指し示す文字でもあるために、現代日本の政
治・経済的な欲望が凝縮された空間としては格好な命名でもある。
5・6 略
7﹁この島国の住人﹂を見つめる眼差し
﹁ハクの代わりに謝りに来ました。ごめんなさい﹂。千尋が銭婆にハンコを返し、丁重に頭を下げた 図
( 9 。)そ
死だったハクが奇跡的に回復し、竜の姿で飛んできた。銭婆が﹁あなたのしたことはもうとがめません﹂
こで
とハクの過去を許し、さらに千尋には﹁あなたなら、やり遂げる﹂という励ましのエールを送る。
この旅に同行する全員には、それぞれ﹁やり遂げる﹂ことがあった。海を渡る旅によって、まるですべての呪
いが解けたように。なかでも湯婆婆の息子のより健全な成長ぶりは、油屋当主の跡継ぎが立ち直ったことを意味
しよう。それから、カオナシは銭婆の手伝いになることで、無所属の状態から抜け出すことができた。ハクとカ
オナシ、この白黒のぺアも、やはり﹁二人で一人前﹂の関係であり、それぞれ、日本国の混迷する歴史像と現実
像の分身を担わされている。﹁カオナシ﹂とはすなわち面白ないことで、もつべきものを何ももたない、量産恥す
べき姿の化身である。
そうしたハクとカオナシの物語のなかでの行き先に注目してみよう。ハクは湯婆婆と話をつけて弟子をやめる
と千尋に言った。そして、カオナシは銭婆の家にとどまることで、自らの居場所を見つけた。日本の﹁脱欧入
それは、明治以来の﹁脱亜入欧﹂の国家路線に対するアンチテーゼであり、ま
亜﹂ 正確には﹁脱欧帰亜﹂
(
)――
た、日本人の集合的願望が描いた二十一世紀の日本の国家像そのものだが ――
が、物語の象徴的レベルで、ハク
とカオナシの行方によって表現されたのである。こうした﹁脱欧入亜﹂への
志向性も、﹃千と千尋の神隠し﹄の物語の深層に隠されたコ l ドの一つでは
ないだろうか。物語の精神分析とも言うべき今回の検証作業は、そうした願
図1
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8ベ ー ジ )
最 後 に 、 こ の 映 画 に し き り に 現 れ た も う 一つの意味 あ る 記 号にふ
やったことは、あなたたちにもできる﹂ (宮崎駿)。
に﹂ ﹁わたしのなかに見つけられたから﹂には、 ﹁この 映画で千尋が
︿いまという時﹀の歴史を造り出す﹁輝くもの﹂は、﹁いつもここ
物 語 の 真 の 力 の 表 れ だ ろ う。 映画の主題歌にも歌われたように、
る力を獲得し、それで新たな歴史を作る 。これこそファンタジ ー と
明 確 な 言 葉 で 捉 え た う え で そ れ を 共 有 す る こ と によって現実を変え
ルシスを得ることだけに満足すべきではない 。 物語のメ ッセー ジを
感覚的に受け入れるべきではない 。 または、物語世界の内部でカタ
う。人の心を揺るがす芸術作品の力を、思考を停止させたままただ
こに内包されたメッセ ー ジ を 言 語 表 現 に 置 き 換 え る 必 要 が あ る だ ろ
と 認 知 度 を 獲 得 し た か ら に は 、 物 語 の 深 層 を 十 分 に掘り起こし 、 そ
﹃千と千尋の神隠し﹄が国民的アニメの名作になって広範な国民性
ていないからである 。
年間には、映画に暗示されたような日本の未来像は、まだ 実現され
ジ性は少しも表えることがない。なぜなら、二十一世紀の最初の十
過去、現在、未来を強く意識したからにほかならない 。 映画の公聞から早くも十年もたつたが、作品のメッセ ー
ることが自我回復につながるというテ l マを文学的に表現しえたことは、制作者が ﹁この島国﹂という共同体の
ない 。 し か し 、 そ の 普 遍 性 の あ る 浄 化 と 再 生 を め ぐ る 話 の な か で 、 記 憶 の 大 切 さ を 訴 えながら 、 過 去 の 過 ち を 謝
あった 。 そ の 意 味 で 、 ﹃ 千 と 千 尋 の 神 隠 し ﹄ は 上 映 当 時 の 時 代 的 雰 囲 気 を 見 事 に 捉 え た も の と 言 わ な け れ ば な ら
ジと言葉で表現している。ゼロに戻して新しく始まる。これは世紀転換点での世界中の人々の共通する願いでも
主題歌﹁いつも何度でも﹂ は、自己存在の原点に戻って新しくスタ ー トするという映画の趣旨を適切なイメ l
こそ、この映画の世界は僕にとって極めて現実的な、今の世界なんで 村
。
﹂
にとって聞けてはいけない蓋を聞けてしまったみたいなんですよ﹂﹁だから
披歴しているが、彼が語るには、﹁今回この作品を作るにあたっては、自分
を作ることは普段聞けない自分の脳味噌の蓋を開けることなのだと宮崎駿は
に仕立てられている。﹁ファンタジ ー は深層心理の一扉を聞く﹂。ファンタジ ー
結果的には、過ぎ去る世紀を総括し、未来に向けて日本の新生をめぐる寓話
なのである。日本の歴史と現実への深い洞察に根ざした作品であるゆえに、
て、還一暦を迎える宮崎駿が ﹁この島国の住人﹂に送った壮大なファンタジ ー
﹃千と千尋の 神 隠 し ﹄ は 、 新 た な 世 紀 と 新 た な ミ レ ニ ア ムの幕開けにあたっ
望が真に存在することを立証するものだった。
わ輝海ゼは
たくのロじ
しも彼にま
のの方なり
なはにるの
かいはか朝
につもらの
見もうだ静
っこ探充か
けこさたな
らになさ窓
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出典・ l
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千と千尋の1'
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思し』 第 5巻
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宮 崎 駿 『 千 と 千 尋 の 神 隠 し』 の物 語 の 深 陪
第 6i
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隠し』 の物 語 の 深 層
第 6章一一宮崎駿『千と千尋の宇1
れることで、本章を終えたい。千尋の両親が豚にされた飲食街の看板や海を走る電車のなかの荷物には、数多く
の﹁め﹂﹁めめ﹂﹁眼﹂の文字や模様が散見する(図凶)。 そ れ ら の 不 思 議 な 記 号 は 、 何 な の だ ろ う か 。 こ こ で あ
の目﹀という抽象的意味を可視的なイメージに置き換えれば、その数々の﹁め﹂とは、歴史の閣に消えた死者た
えて解釈すれば、それはまさに自己を見つめる︿他者の目﹀そのものではないだろうか。もしくは、その︿他者
ちの亡重であると同時に、﹁この島国の住人﹂を見つめる未来の人々の眼差しなのである。
l)例えば、 NHK総合テレビが二OO八年八月五日に放送した﹃プロフェッショナル仕事の流儀﹄﹁宮崎駿のすべて
(
ーlt ﹁ポニヨ﹂密着三O O日﹂では、宮崎駿を﹁興行収入記録を塗り替え続ける国民的作家﹂と呼んでいる 。また 、
といってもいい﹁国民的﹂な作家﹂としている。
酒井信﹃最後の国民作家宮崎駿﹄(︹文春新書︺、文柑鵬首春秋、二OO八年)では、宮崎駿のことを﹁現代の日本で唯一
(2) 香山リカ﹁読めない契約書 ﹂﹁ユリイ カ﹂ 二OO一年八月臨時増刊号﹁特集宮崎駿﹁千と千尋の神隠し﹂の世界フ
アンタジ l の力﹂、 青土社、四八ペ ージ
(3) 叶精二﹃宮崎駿全書﹄フィルムア1 ト社、二OO六年
(4) 佐々木隆﹃﹁千と千尋の神隠し﹂のことばと謎﹄国書刊行会、二OO三年
(5) 白川静﹃字統﹄平凡社、 一九九九年
(6) 荻野家の車が森のなかの道に迷い込んだ場面で、森の木々の中と廃櫨らしい建物の入り口の前に、両面に笑う顔を
7神話のヤヌスという神に類似している。ヤヌスは出入り口と一扉の神で、前後二つの顔をもつのが特徴である。入り
もっ不思議な石像があった。佐々木隆が前掲﹃﹁千と千尋の 神隠し﹂のことばと謎﹄で指摘したよ うに、それはロ 1
山あいに浮か
口の神であるために、過去と未来の聞に立ち、物事の始まりと終わりを示す。また、ヤヌスは﹄EEミの語源(ヤヌ
スの月)で、一月を司る神である。
F
(7) このことについては、例えば二OOO年八 月二十一日付﹁朝日新聞﹂掲載の﹁ ブリッジがつなぐ街
ぶ ﹁
異界﹂ ﹂という記 事も紹介している。
ない﹂(安達まみ﹁﹃千と千尋の神隠し﹄をめぐるフィクショナルな対話﹂、前掲﹁ユリイカ﹂二OO一年八月臨時増
(8) 例えば、﹁そもそも油屋に来るきっかけとなった両親の問題はとちゅうで宙吊りにされて、最後にしかもどってこ
刊号﹁特集宮崎駿﹁千と千 尋の神隠 し﹂の世界ファ ンタジ ーの力﹂七一 ページ)とい う指摘がある。また、 ﹁何より
違和感を覚えたのは、千 尋がいつのまにか豚にされた両親のことをすっかり忘れてしまっているかのような振る舞い
にな っていくところだ 。 これは封切り当時よりかなり耳にした 反応なので、筆者だけの戸惑いというわけでもないの
だろう﹂﹁惚れた男のことで頭がいっぱいで、親を人間に戻しもとの世界に帰還するという彼女にとっての本来の最
優先事項がいつのまにか脇に追いやられているようにみえる。映画自体が両親の救出からハク救出劇に紬がすりかわ
っているという観があるのである﹂(久美燕﹃宮崎駿の仕事ii 一九七九│二O O四﹄鳥影社、 二O O四年、三一一一一一 一
│ 三二 四ページ)という意見がある。
(叩)小椋一葉﹃消された覇王││伝承が語るスサノオとニギハヤヒ﹄河出書一房新社、一九八八年
(
9) ﹃千と千尋の神隠 し﹄(ロマンアルバム)、徳間書庖、二O O一年
(日)大野七三﹃﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄に消された皇祖神鏡速日大神の復権﹄(批評社、二OO六年、二一三ページ)、同
﹃
日本建国の 三大祖神﹄ (批評社、 二O O三年)など 。
(ロ)湯婆婆との契約書に 書 かれた千 尋の名字 ﹁荻野﹂ の ﹁荻﹂が﹁荻﹂ となっている。監督による﹁ヒ H火﹂への否定
と回避の意志の表れとして見受けられる 。
身が語るには、﹁ハクという人物を作っていると、自分の中から無意識のものがいっぱい出てくるんですよ、夢も見
(日)宮崎駿はこの映画を制作する際に、主人公の千尋よりも、ハクと湯婆婆の人物設定 によほど苦 心したようだ 。 彼自
るし。でも物語にする時に整理しなくちゃいけないから、いろいろといじくっていくうちに、一応形にはなるんだけ
ど、いっぱい取りこぼしたものが出てくるわけです。 時折、絵コンテを見て、樗然とするんです。自分の想像 したり
考えたりしたものの総量って遥かに大きくて多岐にわたるものだから、なんとなく自分ではそれが入 っているような
気がするん だけど、こんなものしか入つてなかったのかつて 。もう 、そういうレベル の人たちなんですよ、湯婆婆も
1
5
8
1
5
9
注
第 6章一一宮崎駁『千と千尋の神隠し』の物語の深層
ハクも。映画の中で描かれてるのは、本当にシンプルなものなんです﹂(宮崎駿﹁だいじようぶ、あなたはちゃんと
やっていけるll。そう子供たちに伝えたい﹂、前掲﹃千と千尋の神隠し﹄所収)。
(は)村瀬学﹃宮崎駿の﹁深み﹂へ﹄(︹平凡社新設百︺、平凡社、二OO四年)では、同様な指摘がなされている 。
(
日)前掲 ﹁
だ いじよう ぶ、あなたはち ゃんとやっていける││。そう子供たちに伝えたい﹂
(日)スタジオジブリ責任編集﹃、ヨ白血三三 回
立25己主、ミ﹄(ジブリ吾巾目立シリ ーズ)、徳間書庖、二OO二年
(げ)岸正尚﹃宮崎駿、異界への好奇心﹄輩円柿堂、二O O六年
(同) ﹃
千と千尋の神隠し﹄映画パンフレット(東宝、ニO O 一年)、宮崎駿 ﹃
折 り 返 し 点 邑 可I
、
NCCE 所収、岩波書応
二
OO八年
(印)﹁ナウシカと千尋をつなぐもの﹂、﹁わロこ二O O 一年九月号、ロッキング ・オン(宮崎駿﹃風の帰る場所││ナウ
シカから千尋までの軌跡﹄所収、ロッキング ・オ ン、二OO二年)
(
初)養老孟司/宮崎駿 ﹃虫限とアニ限﹄徳間書 広スタ ジオジブ リ事業本部 、 二OO二年
(幻)﹁不思議の町の千尋││こ の映画のねらい﹂、前掲映画パンフレット
ll この映画のねらい﹂では、﹁湯婆婆の棲む世界を、
(幻)油屋の擬洋風様式については、企画書 ﹁不思 議の 町の千 尋
は、小森陽一によって提出された概念。小森陽一は﹃ポストコロニアル﹄(︹﹁思考のフロンティア﹂︺、岩波書応、二
擬洋風にするのは、何処かで見たことがあり、夢だか現実だか定かでなくするため﹂としている。﹁自己植民地化﹂
。
OO一年)では、近代日本の文明開化を﹁自己植民地化﹂の過程として捉え直してい る
(幻)﹁あの電車はどこに繋がっているんですか﹂という聞いに、宮崎駿はこのように答えた。﹁そんなことはどうでも説
明 で き ま す 。 コ ジ ツ ケ る こ と は 得 意 で す か ら 。 で も こ の 映 画 で は 説 明 は し ま せ ん 。 千 尋 は 関 心 を 持 た な い で す か ら。
た。あの世界は今よりもっとた漠とした現代の反映なんです﹂(宮崎駿﹁この映画で千尋がやったことは、あなたた
千尋にとって、六つ自の駅へ行くということが大切なんです。 千尋の自の前で起こっている現実だけを大切に しまし
ちにもできると 、 僕は信じて 小 さい友人たち に作りました 。﹂、前掲﹃千と千尋の 神 隠し﹄映画パンフレッ ト)
NCS﹄ 一一一一一一一ペ ージ
(M) 前掲 ﹃宮崎駿、異界への好奇 心
一 九ペ ージ
﹄ 一
(お)前掲﹃折 り 返 し 点 巴 苛
(出)前掲﹁だいじようぶ、あなたはちゃんとやっていける110
そう子供たちに伝えたい﹂
(幻)前掲﹁この映画で千 尋 がやったことは、あなたたちにもできると、僕は信じて小さい友人たちに作りました 。
﹂
[付記]本章は中国教育部人文社会科学研究基金の研究助成を受けたプロジェクト﹁宮崎駿のアニメの文化研究﹂
(
C
との叶gccω) の成果の 一部である 。
1
6
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