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関西Mark Twainの会月報
Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle, December, 2007 1 関西 Mark Twain の会月報 Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle No. 9 関 西 Mark Twain の 会 第 133 回 例 会 2007年12月1日 報 発行 告 関 西 Mark Twain の 会 第 1 3 2 回 例 (California 大 学 版 )の 5 4 2 ペ ー ジ か ら 会が、11月10日(土曜日2時から 560ページまでの報告を浜本隆三先 5 時 ま で )、京 都 光 華 女 子 大 学 で 開 催 さ 生( 同 志 社 大 学・院 )が な さ い ま し た 。 れ ま し た 。 Mark Twain’s Letters, Vol. 6 報 告 概 要 第 133 回 例 会 報 告 (Vol. 6, pp. 543-560) 浜本隆三 発 表 内 容 : The Gilded Age の 気 配 と る 。ど こ か Gilded Age を 思 い 起 こ さ せ Twain る用件だ。この人物 A-B-は、 ま ず 、 Hartford の Courant 紙 に 宛 て professor の 身 分 の ほ か に 、州 議 会 議 員 て 書 い た Twain の 手 紙 と 、 そ れ に 関 連 の late candidate で Hon の 称 号 を 持 ち 、 す る John C. Underwood や James G. great English elocutionist & reader で Blaine に 送 っ た 書 簡 か ら 発 表 し た 。 もあると言うから怪しい。 9 月 も 末 の あ る 晩 、 Twain 宅 に 事 の 次 第 を 書 き 送 っ た Courant 紙 宛 professor を 名 乗 る 男 が 現 れ た 。 彼 は の 手 紙 で Twain は 、 こ の 男 が 詐 欺 師 か Twain に “our lately emancipated fellow 否 か を 突 き 止 め 、自 ら の duty of citizen citizens(550)”の 教 育 と 地 位 向 上 の た め を果たすと意気込む。実は、A-B- に、南部のある州に学校の建設を計画 は 一 昨 年 も late candidate と し て Twain しているから、援助して欲しいと求め の 所 に や っ て き た 詐 欺 師 だ と Twain は Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle, December, 2007 2 気 づ い て い た 。 だ が 、 彼 は Underwood が 集 ま っ た 。た か だ か 10 ド ル 程 度 の 詐 と Blaine に 問 い 合 わ せ 、A- B- の 正 体 欺にもかかわらず、かような執念を見 を確認しようとする。案の定、男の正 せ る Twain は 興 味 深 い 。 彼 の 黒 人 に 対 体 は ‘dead beats’の 一 味 だ と Blaine か する思い入れが知れるエピソードだ、 ら の 手 紙 で わ か っ た 。 The Infant との意見もあった。 Asylum Fair へ の 協 力 は 惜 し み な い ま た 、 詐 欺 師 を 暴 く こ と が duty of Twain だ が 、 詐 欺 師 に 対 し て は 執 拗 に citizen だ と 自 負 す る Twain の 使 命 感 に 、 迫るその姿に、彼の執念が垣間見られ 当時の成り上がりの中産階級意識が垣 た。 間見られるとの指摘も興味深かった。 他 の 手 紙 も 順 を 追 っ て 確 認 し た 。 10 中産階級の意識は南北戦争を境に異な 月 5 日 に は Clemens 家 が 英 国 の る よ う だ が 、 ど う も Twain は 、 自 発 的 Lampton 家 の 遺 産 を 引 き 継 げ る か 否 か に社会を支えるという戦前の倫理的な Jesse M. Leathers が 意 見 を 求 め て き た 義務感を負っていたようだ、とコメン ので、相続は期待出来ないと手紙を書 トが続いた。 い て い る 。そ し て 、Tichborne claimant 当 時 17 歳 だ っ た Church に 宛 て た 双 の二の舞を踏むだけ、と彼をいさめて 子 の 冗 談 は 、謎 め い て お り 不 可 解 だ が 、 い る (Tichborne claimant に つ い て は こ の 手 紙 を 送 っ た 23 歳 も 年 下 の Following the Equator の 15 章 に 詳 し Church と Twain は 仲 が 良 か っ た そ う だ 。 い )。 25 歳 と し 上 の Barnum に 対 す る Twain そ の 他 、 Samuel H. Church に は the の素振りを思い出すと、彼の交友関係 Twins (Siamese Twins)は “born at the における年齢差と親密度の具合も興味 same 深い、という意見が出された。 time but of different mothers(551)”だ 、と 妙 な 冗 談 の 手 紙 を ま た 、Howells に 書 評 の お 礼 を 述 べ た 書 い て い る 。ま た 、Sketches, New and 手紙では、その少し過剰な賛辞の口調 Old の 書 評 を 好 意 的 に 書 い て く れ た に 、 後 年 に 疎 遠 に な る Howells と の 亀 William Dean Howells に は 、 手 紙 で 過 裂の萌芽が感じられる、との意見も出 剰とも思える賛辞の言葉を寄せていた。 された。 今回は読み違いを多々してしまい、 質疑応答 ま ず stranger A- B- な る 人 物 に 対 す る Twain の 執 拗 な こ だ わ り 様 に 関 心 発表の際、皆さんにご迷惑をかけて申 し訳なかった。地道にしっかり頑張り ます。どうぞご鞭撻下さい。 Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle, December, 2007 3 Looking at the Unpleasant Side of Everything David Zmijewski Soon after in complains. After commenting on Honolulu in March of 1866, Mark the oppressive heat, Brown urges Twain set out to document the city Twain to tell the whole truth to his for his reading audience. As noted audience. Helping Twain, Brown before, he was unequipped to do reels off the vermin that harry a this man: alone, so arriving he created the “‘santipedes,’ and imaginary traveling company, Mr. cockroaches, and fleas, and lizards, Brown, to serve as a foil. Twain and red ants, and scorpions, and praises that spiders, and mosquitoes, and. . .” Hawaii holds over San Francisco. (32). Bothersome varmints to be He writes of the luxurious, colorful sure, yet Brown adds one more flora, the plethora of cats lounging item to the list—“missionaries.” around the city, and the freedom Brown swears that even if he were and grace of the women riding the “King of Wahoo” with a “harem horses. have full of hyenas [wahine]” (32), he transcended as his comments on would not live two months in this the forsaken place. Missionaries are the advantages Twain serenity seems of the to adventure shows, “I moved in the midst of a the summer calm as tranquil as dawn troublemakers, in the Garden of Eden. . . .” (31). addition serves as a humorous This in Brown’s and list this of final is qualifier. Through Brown, Twain suddenly juxtaposes the word “missionaries” appears and starts his harangue. with the temptation of keeping a The contrarian Brown exaggerates harem, thereby insinuating that the unpleasant side of everything even sin could not induce him to and thereby grants Twain access reside here. shattered peacefulness last as Brown to humor at no expense to himself. No one is particularly keen Whereas Twain indulges himself on living intimately with any of in the sights and scents of a the insects, which Brown insists, tropical make life uncomfortable in Hawaii, paradise, Brown Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle, December, 2007 4 then Brown goes on to explain two intended as humor, could have painful encounters: one which a discouraged Mrs. Jones has with a scorpion, women—from moving to such a the other which a Miss Boone has place. Would Twain’s readers have with a centipede. The scorpion had understood the point where humor stung Mrs. Jones on her face while and she the Perhaps Twain himself was not so centipede had stung Miss Boone sure, and that is why Brown was through her shoe while she was called on time and time again as a riding. humorous was washing, Both and stories are some—especially truthfulness marker. diverged? For Twain none-too-subtle insinuations that asserted that even though Mr. the beauty of women and their Brown was a man “who always freedom were in danger in Hawaii. looks at the unpleasant side of Brown offers his own encounter everything,” Twain himself seldom with mosquitoes, did. Twain was a man the reader but that tale is exaggerated to the should rely on, or so he wanted point of being ludicrous. Brown’s them to believe. blood-sucking “experience” turns the tone of the letter humorous, but the damage had been done. Considering that Twain was Works Cited trying to encourage Americans to Twain, Mark. Letters from Hawaii . emigrate to Hawaii, the dangers, (1866). A. Grove Day, ed. New even though they may have been York: Appleton-Century, 1971. Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle, December, 2007 5 Mark Twain 関 係 人 名 録 “Mark Twain”に な れ な か っ た も の た ち 和栗了 ィアナ第九歩兵連隊に入隊し、一八六 Ambrose Bierce (1842-1914?) 二年二月に中尉に任ぜられ、ウィリア ム ・ ヘ イ ズ ン 将 軍 ( William Babcock Hazen ) の 下 で 地 図 作 製 に 携 わ っ た 。 シローの戦い(一八六二年四月)に参 戦した。リッチマウンテンの戦いで戦 火の中から同僚を救い出し、注目され た。一八六四年ケニソー・マウンテン の戦いで頭に負傷。一八六五年除隊。 サンフランシスコに住みながら、『サ ン フ ラ ン シ ス コ・ニ ュ ー ズ レ タ ー 』紙 、 『アルゴナウテス』誌、『オーバーラ ンド・マンスリー』誌、『カリフォル ニアン』紙などに寄稿した。 一八七一年のクリスマスにメアリ・ アムブローズ・ビアスはマーク・ト エレン(モリー)・デイと結婚、三人 ウェインと出会っている。ビアスがト 子供ができるが、デイの浮気の可能性 ウェインのようになりたいと考えたか のために一八八八年彼女と別居。一九 もしれない。だが、彼はジャーナリス 〇四年に離婚した。 トとして成功したし、短編小説の名手 であった。 ビアースは戦争の傷がもとで喘息と 合併症で生涯苦しんだ。治療のために ビ ア ス は オ ハ イ オ 州 メ グ ズ 郡 七二年から七五年までロンドンに滞在 ( Meigs)に 、十 三 人 き ょ う だ い の 十 番 し、『ファン』誌に寄稿した。一八八 目の子供として生まれ、インディアナ 七 年 に ウ ィ リ ア ム ・ ハ ー ス ト ( William 州 コ ジ ア ス コ 郡( Kosciusko)で 成 長 し Randolph Hearst)の『 サ ン フ ラ ン シ ス 高校に通った。母親のローラ・シャー コ・イグザミナー』紙に最初の正規雇 ウッドはウィリアム・ブラッドフォー 用の論説員で編集員として雇われ、西 ドの子孫だった。 海岸で最も影響力のある作家でジャー 南北戦争の勃発で、ビアスはインデ ナリストになった。 Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle, December, 2007 6 ユニオン・パシフィック鉄道とセン ト ン ( David Livingstone, 1813-1873) トラル・パシフィック鉄道が大陸横断 に 関 す る ス ピ ー チ を し た 。ビ ア ス は『 サ 鉄道を建設する際に政府から融資され ンフランシスコ・ニューズ・レター』 た金のうち、一億三千万ドルを免除す 紙の通信員としてロンドンに居た。彼 る法案がコリス・ハンティントン は十月三日付サンフランシスコ『アル ( Collis P. Huntington) ら に よ っ て 提 タ・カリフォルニア』紙にトウェイン 出された。一八九六年一月、ハースト と出会ったことを書き、さらにストラ の命を受けたビアスはこの法案に反対 トフォードのシェイクスピア記念館で する記事をワシントンから書き、この トウェインの名前を発見したと書いた。 法案を廃案にした。 ジ ョ ン・キ ャ ム デ ン・ホ ッ テ ン( John ビアスは社会批判や風刺を得意とし Camden Hotten, 1832-73) が 無 断 で エ たため、彼の記事をしばしば物議を醸 マソン、ローウェル、ホイットマン、 した。ウィリアム・マッキンリー大統 ホームズ、アーテマス・ワォード、ハ 領 ( William McKinley, 1843-1901) 暗 ンス・ブライトマンらのアメリカの文 殺に際して、ビアスが以前に書いた詩 人たちの作品を無断で盗用した中に、 が引き金になったと批判された。ビア トウェイン、ホアキン・ミラー、ビア スは一九一三年に革命下のメキシコに スの名前があった。また、一八七三年 行き、そのまま消息を絶った。 にトウェインがロンドン『イグザミナ 彼の主要な短編作品としては、戦争 を 扱 っ た 作 品 、 “An Occurrence at Owl (1891) 、 “Killed ー』紙にビアスを紹介したが、ビアス はこの新聞に記事を書かなかった。 at ビアスはロンドンでトウェインと関 Resaca”、“Chickamauga” (1891)な ど が 係したが、親交は確認できない。その 有 名 あ る 。 The Devil’s Dictionary も ビ 理由の一つはビアスが生涯のほとんど アスの風刺作品として有名である。芥 をサンフランシスコで過ごしたことが 川龍之介は短編の名手としてのビアス 挙げられよう。あるいはトウェインと を賞賛している。 ビアスの本質的な違いがあったのかも Creek Bridge” トウェインとビアスとの最初の出会 しれない。 いは、一八七二年九月六日ホワイトフ ラ イ ア ー ズ・ク ラ ブ( Whitefriars Club) 参考資料と挿絵 で あ る 。 ト ム ・ フ ッ ド ( Tom Hood, http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ 1835-74 、 Thomas Hood (1799-1845) commons/0/04/Ambrose_Bierce.jpg の息子)主催の晩餐会で二人は会って 『英米文学辞典』 ( 第 三 版 、東 京:研 究 社 、 いる。トウェインはここでリビングス 1985 年 ) Monthly Bulletin of The Kansai Mark Twain Circle, December, 2007 7 会員の業績 杉山 直人 『トウェインとケイブルのアメリカ南部―近代化と解放民のゆくえ』 (2 7 0 ペ ー ジ 。 東 京 : 彩 流 社 , 2007 年 ) 編集後記 12 月 も 何 と か 1 日 に は 発 行 で き ま し た 。皆 様 の お 陰 で す 。感 謝 申 し 上 げ ま す 。 今 年 は 1 日 に 忘 年 会 で す 。毎 年 恒 例 に な り ま し た 。毎 月 の 例 会 は 京 都 で 開 催 さ れ る こ と が 多 く 、夏 の 暑 気 払 い と 冬 の 忘 年 会 は 大 阪 で 開 く の が 良 い の で は 、と い う ご 意 見 に 従 っ て お り ま す 。つ い で に 、内 緒 で す が 、忘 年 会 な ど の 残 金 は「 寄 付 金 」 と し て こ の 会 の 会 計 に 算 入 さ せ て い た だ い て お り ま す 。 関 西 Mark Twain の 会 の 資 金 を 潤 沢 に す る た め に 、 仕 方 な く ( ???) 酒 を 飲 ん で い る の で す 。 月報の1月号は、 「 例 会 報 告 」が あ り ま せ ん 。 「 忘 年 会 報 告 」も よ く な い よ う で す 。ど な た で も 、何 で も 結 構 で す の で 、ト ウ ェ イ ン に 関 す る 何 か を お 書 き 下 さ い 。 原稿は常に不足しています。 今 年 も 終 わ っ て し ま い ま す 。今 年 は 皆 様 に と っ て 良 い 一 年 で あ っ た こ と と 拝 察 い た し ま す 。こ の 会 も 1 6 周 年 を 迎 え る の で し ょ う か 。4 月 か ら は じ め ま し た 月 報 も「 三 号 新 聞 」に な ら ず に 済 み ま し た 。雑 誌 の 発 行 を 三 月 に 予 定 し 、白 髪 は 増 えるばかりです。 最 後 に 、 良 い 年 を お 迎 え く だ さ い 。 次 号 は 遅 れ な い よ う に し ま す 。( Ryo) ------------------------------- 編集人 市 川 博 彬 ( Hiroyoshi ICHIKAWA) (ディビット David ZMIJEWSKI シミエスキ) 和 栗 了 ( Ryo WAGURI) 発行人 関 西 Mark Twain の 会 (Kansai Mark Twain Circle) 〒 615-0882 京都市右京区西京極葛野町38 京都光華女子大学 メールアドレス ホームページ 和栗研究室 [email protected] http://www.geocities.jp/kansaimarktwain/