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松村春繁さんと父 下司孝麿の足跡

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松村春繁さんと父 下司孝麿の足跡
2012.3.17 於岡山市幸荘 全断連・虹の会での講演に加筆
松村春繁さんと父 下司孝麿の足跡
下司病院理事長 下司孝之
キー・ワード
「二つで一つ」
断酒会の経営理念があるとしたら「三方よし」でしょうか。
近江商人の家訓「売り手良し、買い手良し、世間良し」で繁盛した「三方良し」をな
ぞれば、
「酒害者良し、家族良し、世間良し」といえますね。
では、全日本断酒連盟初代の終身会長であった松村春繁さんと下司病院院長の下司
孝麿のことをお話いたします。
松村春繁さんと下司孝麿を語る時、医師と患者、それぞれ 1 人では出来なかったこ
とを 2 人で成し遂げた「二人で一つ」というところが大事だと思います。
勿論、1 人の酒害者では断酒会は出来ませんから小原寿雄さんという若い方を副会長
にして二人での出発になります。アメリカのビルとボブによる AA の立ち上げと似
ています。
断酒会内の虹の会にも言えることがありますね、まず仲間とひとつでしょう。
そして虹の会は病者会です。
「病者とは患者ではなくなったあとの立ち直った生活者」だと
は私の主観です。
断酒会内障害者部会の虹の会は複数の主治医を持っていましたから、精神科一つだけにこり
かたまりようもなく、二病ゆえに複眼で社会を見ることが出来る立場です。一病息災ならぬ
「二病息災」です。
ですから虹の会は断酒会からみれば、社会への出窓のような存在です。
松村さんは腕扱きのオルグだった
松村春繁さんは実に人の気持ちをそらさず、断酒の仲間に迎え入れられる方でした。
労働運動で鍛えた体験がものをいう場面が見られました。気分が高揚してのストライキ突入
は容易でも生活の不安から脱落があることを知っていました。
同じように高知県断酒新生会から脱落があり、それも始めの二年間はほとんど全滅だったの
です。
さすがの松村さんも気落ちします。そのうちいい就職口があり、断酒会を辞めようとしまし
た。
それを聞いた、奥さんの文子さんが「仕事は私がします。貴方は、断酒一途にがんばってく
ださい」と激励しました。文子さんは当時代用教員をしていたのです。
松村さんはそれで気を取り直して再び断酒会に邁進しました。
こんな話もありました。
酒害者宅を訪ねた帰りの停留所でバスを待つ間に葉書を取り出し、いま会って来たばかりの
方に一筆啓上して近在のポストに投函してバスに乗ります。
その当時は午前に続き午後の配達便もありましたから、うるさい人が帰ってやれやれ、さあ
これから一杯というときに葉書が届きます。出鼻をくじかれ、断酒例会に顔をだすという段
取りとなります。
そこでは松村さんが待ち構えていて、「よう来たのう、まあ上ったや」と暖かく奥へ迎え入
れます。当たり前のようですが、昨今の断酒会にはこのような気配りが抜けているのかもし
れません。
また『余人はいざ知らず君は治る』などと言って、おだてることもありました。人から評価
されたことがない酒害真っ只中で褒められるのですから、インテリの小林哲夫さんでも
(元・高知県断酒新生会長)うれしくなってお酒を止める方に傾いたと言われておりました。
そんな松村さんがお酒をやめる気になったのは、主治医の下司孝麿が「さじを投げた」こと
からでした。
お兄さんをアルコール依存症で失っても、お母さんが今際の際に手を握ろうとした松村さん
の手を振りほどいた拒絶にも、妻文子さんに娘の常子さんが誕生したときですら止められな
かった酒が、主治医のなんともいえない顔を見て止まったのです。
このとき、主治医に見棄てられると思ったそうです。
自分の無力さを認めた主治医と、さじを投げられた患者の姿がそこにありました。
やがて断酒会が医療に先行して作られましたが、まだ治療プログラムはなく診察が済むと
裏の松村さんのいる断酒会事務所に廻します。
私の知る松村さんの人生最後の言葉は母から聞いた『長い間、お金のことで大変お世話様
になりました』でした。下司孝麿の妻・美佐穂が残業していた階下の栄養室へ亡くなる前
夜に松村さんが降りてきて、これまでの援助にお礼を言われたのです。
他所の病院がどんどん新築していくのに断酒会に足を取られて何も出来ないと、1959
年にわずか37床で発足した病院を切り盛りしていた母は、そのお礼の言葉でわだかまり
がすっと消えたと言っていました。
松村さんが亡くなったのは木造モルタル建てで今もある下司病院の206号室、雪の降る
寒い日です。
松村さんは、大学でぐずぐずする私には「早く医者になるよう」に云いました。
1960年代、アルコール依存症治療を志す医師はまずいなかったので断酒会にとって医師
の確保は切実だったのです。
断酒会結成から12年、松村さんは享年64歳、まだまだ活躍できたのに残念ですが、死期
を早めた一つが喫煙だということはどうしても触れておかねばならないでしょう。
最後の入院のとき、病室の灰皿は吸殻で山盛りだったといわれています。
煙草をやめておれば、脳軟化症で夭折しなくてもすんだのにととても残念です。
ないないづくしから出発した父
父は岡山医科大学、現在の岡大医学部在学時代に、学友でオーバーを持っていないのは自
分だけだったと言っていました。世界的流行のスペイン風邪で父を失っていたからです。
5歳の頃に母の実家で、葡萄棚の下に佇んで口ずさんだ詩があります。
< 二つのへちま >
へちま へちま 二つのへちま
ぶどうのたなに 下がってる
けれども わたしのやどがない
当時母子の寝室は、母の里の狭い電灯のない玄関です。この詩は実際の庭の風情を描いたも
のですが、母子の哀れな境遇をそれとなく歌ったものと思われます。
貧困家庭に育ち、教育熱心な母に育てられ岡山医大を卒業後、生理学と精神科学を同大で
学びます。
このとき生理学も学んだことが戦後抗酒剤を造るのにも、パブロフの条件反射をヒントに
して薬理作用で断酒へ導こうとする工夫にもつながります。
敗戦後の精華園院長時代は精神医療どころか、薬がなにもなくて皮膚病退治に硫黄をぐつ
ぐつと鍋で煮て薬を作るという、まさしく「ないからある」の人生です。
敗戦から価値観がグルッと変わり、ようやく自分の持ち場を見出せていけたようです。
いよいよ、後述する断酒運動への取り組みです。
下司孝麿の生活は病院中心で最後の20年間は自宅に一度も帰りませんでした。
人生の最晩年、1998年(平成10年)10月13日に断酒会各位に送った手紙には「私
はこれまで42年間、ライオンズクラブ等の奉仕事業に没頭し、断酒会活動が疎かになり、
誠に申し訳なく存じています。私も84歳となりましたので、これからはライフワークのア
ルコール関連問題に専念するつもりです」と断酒会との再出会いに重きを置いています。
2007年にはライオンズクラブも、お酒を嗜む羊子会も5月2日、共に脱退届けを出し、
断酒会一筋になりました。
父の最後の言葉は亡くなる前日に書いて示した『白衣を着たい』で、スタッフ皆で着せたり
しました。
こうして、入院することなく下司病院の院長室で、「在宅医療」での人生の幕をおろしまし
た。
私には日頃から二兎は追うな、学業に専念せよと言っていたのですが、父が亡くなった後、
昔私宛てに書いていた手紙がでてきて「岡田以蔵になるな」と記されていました。
司馬遼太郎の小説にある、利用されて棄てられる土佐の「人切り以蔵」のことです。その以
蔵の辞世の句には粗暴な以蔵のイメージはありません。
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」
価値観の転換から断酒運動への軌跡
父が医学部を卒業した昭和13年は日中15年戦争の泥沼に足を突っ込んでいたときです。
クラスの寄せ書きでは「自由と平等」と書きましたが、学園に配属将校がいる時代ですか
ら、時局柄日本語では危ないので Libertê et Ēgalitēと仏語でした。
昭和16年12月8日、生理学教室で生沼曹六教授と向かい合って弁当を食べていた時に
対米英宣戦布告を聞き、教授が「これで日本の敗戦が決まった」と云いました。
私は戦争末期に高知女子医専の教授になり、開校6日目に玉音放送を聴くこととなります。
学生は泣いていました。父は「諸君、日本はこれで4等国になった。普仏戦争敗北時、仏
のパスツールに習って日本を科学で再建しよう。
」と演説し、午後からの授業を再開しまし
た。結局、医専は敗戦後の県財政逼迫に加えて、翌年暮れの南海地震が追い討ちをかけて
1947年3月廃校となりました。
「科学」の捉え方では、後に教え子の松崎淳子高知女子大名誉教授が疑問を呈したように、
「科学」を無批判に受け入れたことへの再考がいるでしょう。パスツール自身も「現代医
学は大きな嘘に基づいている。
」と臨終に際して最後の言葉を吐いています。
戦時下に続き戦後の混乱期もないない尽くしの対応を迫られましたが、1950年反日感
情の残る訪米視察で、医師以外のスタッフが治療にかかわり、患者を人格を持った人間と
して処遇し、集団精神療法をしている様を実際に見て価値観の転換を迫られました。
やがてアメリカの精神医療と向精神薬の流入があり、私のクレパスも精華園の絵画療法に
持っていかれます。
下司孝麿は断酒会に先立ち、1956年アメリカから入ってきたばかりのライオンズクラ
ブへ入会しますが社会奉仕団体としての活動が断酒会を機能的に捉えるのに役立ったよう
です。松村春繁さんがひとりで断酒を始めた年です。
父はライオンズクラブでもアイバンク・腎バンク・骨髄バンクの立ち上げ、糖尿病小児キ
ャンプ、献血などの立ち上げに加わりました。クラブ内で医師の出番は多く「奉仕」とい
う姿勢が断酒会への糸口になります。
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