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道化的人物としてのオセロー* 1

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道化的人物としてのオセロー* 1
東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 12 号(2010) 77-97
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道化的人物としてのオセロー* 1
五十嵐 博久* 2
本稿が明らかにしたいことは、『オセロー』が初演された当時、リチャード・バー
ベッジが演じていた主人公オセローは、その多様な人物像の一面として道化的な性格
を有していたという事実である。『オセロー』という芝居にはカーニヴァル的雰囲気
が色濃く漂っているように読めるが、おそらく初演当時は、カーニヴァル(謝肉祭)
の季節を祝う出し物としてかけられた芝居であったと考えられる。その視点からテク
ストを読み直してみると、イアーゴーが「無秩序の主」(The Lord of Misrule)とし
て機能し、その一方で、オセローが道化的な存在として機能することで、芝居の祝祭
性が高められていたと解釈できるのである。オセローの人物造形について考える場合、
オセローを「悲劇的人物」の枠組みにとらわれずに解釈すべきことの重要性を確認す
ることが、本稿の狙いである。
キーワード:オセロー、道化、祝祭性、カーニヴァル、結婚
序
本稿が明らかにしたいことは、オセローは、少なくとも初演の頃は、その多様な人物像の一面とし
て道化的な性格を有していたという一つの事実である。もちろん、『オセロー』が悲劇であり、その
主人公オセローが悲劇の主人公であるという事実そのものに対して異論を唱えるつもりはない。オセ
ローは紛れもなく悲劇的人物の代表格である。しかし、シェイクスピアの悲劇とは、伝統的な悲劇の
* 1 本稿は、平成 21 年度科学研究費補助金(若手研究(B)課題番号 20720086)による研究成果の一部である。
2009 年 10 月 24 日(土)に島根大学にて開催された第 62 回日本英文学会中国四国支部大会において「道化的存
在としてのオセロー」と題する口頭発表を行った際に配布した資料に基づいているが、本紀要の字数規定に従い、
その内容の一部を削除して掲載したことを付記しておく。
* 2 人間科学総合研究所研究員・東洋大学生命科学部
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東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 12 号(2010)
形式に倣って書かれたものではなく、後のロマンス劇へと受け継がれてゆくハイブリッドな様式を有
するものである。様々なる演劇的要素が融和しながら最終的には悲劇的カタルシスへと収斂してゆく
のがシェイクスピア悲劇の特徴である。そして、『オセロー』も、その例に漏れない。本稿が注目し
たいのは、『オセロー』というハイブリッドな悲劇のテクストに垣間見える喜劇的時空の存在である。
そして、特に、その時空においてオセローがはたしている役割とその人物像である。
『オセロー』に垣間見える喜劇的時空は、初演舞台を成立させていた祝祭性と深く関係していたと
思われる。シェイクスピアが彼の時代の大衆娯楽として書いた『オセロー』は、今日一般的に考えら
れるよりも喜劇的な色彩を色濃く漂わせた、祝祭性の強い芝居であった。その主人公であるオセロー
は、笑いを誘い、喜劇性を昂揚させる道化的人物として舞台に存在していた。イアーゴーの悪意に満
ちた企てにより、崩壊の淵へと陥ってゆくかにみえるその悲劇的瞬間でさえ、笑いを誘発したと思わ
れるのだ。
本稿では、まず、最初に、オセローという人物がテクストにおいてどのように造形されているかに
ついて概観をとらえてゆく。次に、『オセロー』という芝居がかつて有していたと思われる祝祭性に
注目し、祝祭劇としてのそのプロット構成がオセローに道化的役割を与えている事実を確認する。そ
して、最後に、この芝居の筆致が喜劇的モードから悲劇的モードへと変容してゆくその場面において
も、オセローが道化的人物として造形されているという点を確認したい。
オセローの人物像再考
1625 年、リチャード・バーベッジが演じていたオセローを偲ぶある人物がオセローを俗謡に描い
ていて、その俗謡はオセローをこのように表象している。‘The foul effects of jealousie, / Othello’s
deadly hate, / . . . / But he was fierce and proude. /. . . Dick Burbige, that most famous man, /. . .
/. . . kept it many a yeare.’1 ここに表象されるのは、憎悪(‘hate’)に支配され、残忍で傲慢な(‘fierce
and proude’)性格を有したオセローである。こうした性格的特徴は道徳劇においてヴァイスの特徴
をなしてきたものである。ヴァイス ― それは、当時の舞台上では道化を意味していた。
ここで『オセロー』の本文に返ってみよう。幕開け部分である1幕に注目してみると、この芝居が
表象しようとしている虚構世界は、混沌を極めた時空である事実に気付かされる。それは、例えば、
次のようなイアーゴーの言葉に象徴されている。
Preferment goes by letter and affection
And not by old gradation, where each second
Stood heir to th’first (1. 1. 35-37)2
過去から現在へと規則正しく連なってゆく筈の時間さえもが、この芝居の描く時空では人の感情によ
ってどのようにでも流れることが暗示されている。時間は静止しているか、あるいは感情の向くまま
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
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に流れるのである。事実、『オセロー』に流れる時間の不一致について今までに多くの批評家達が関
心を寄せてきた。「箍の外れた時」こそ、はじめからシェイクスピアが『オセロー』という彼のカン
ヴァスに描こうとした背景なのである。そのような「奇妙」な時空に起こる現象は、まず、自然界に
おける秩序の崩壊である。そのことは、イアーゴーによって‘Even now, now, very now, an old
black ram / Is tupping your white ewe!’(1. 1. 87-88)という強烈な詩的イメージで語られることに
なる。自然秩序の崩壊は、その秩序を根拠として成立していた筈のヴェニス社会の政治体制にも少な
からず影響を及ぼしている。背景の曖昧なムーア人が元老院ブラバンショーの娘と結婚するという「不
自然」な事件について、ブラバンショーは、
‘[I]f such actions may have passage free, / Bondslaves
and pagans shall hour statesmen be’(1. 2. 98-99)と嘆く。『オセロー』が描くヴェニス社会とは、
そのような「異変」が生じうる時空なのである。異邦人であるオセローに対し、ブラバンショー以外
の元老院たちは「脱帽して」歎願しなければならず(1. 1. 10)、政に関してもオセローが公爵以上の
影響力をもちうる(1. 2. 12-14)という内政的崩壊 ― つまり「存在の大きな連鎖」の崩壊 ― が、芝
居の幕開けとともに観客に強く印象づけられるのである。
それは伝統的な De Casibus Tragedy の幕開けではなく、むしろ無礼講的時空を描くシェイクスピ
ア喜劇の幕開けである。『オセロー』の描くヴェニスは、『ヴェニスの商人』のヴェニス社会と状況が
よく似ていている。‘[T]he trade and profit of the city / Consisteth of all nations’(3. 3. 33-4)とい
う言葉に象徴された近代的資本主義社会の萌芽段階として描かれるヴェニス社会においては、「異人」
シャイロックがその経済力によってキリスト教徒の貴族や公爵たちと対等な法的権利を有している。
その社会はある意味でのユートピア社会なのであるが、その一方では、慈愛の精神に基づくキリスト
教社会の伝統的な秩序が崩壊している 3。
デズデモーナや元老院達の視点から見れば、確かに、オセローはロマン主義批評が主張したように
悲劇の英雄に相応しい高潔なる人物に見える。しかし、イアーゴーと観客だけに明かされるオセロー
の本質は、彼の次の台詞から読み取れるものである。
’Tis yet to know –
Which, when I know that boasting is an honour,
I shall promulgate – I fetch my life and being
From men of royal siege, and my demerits
May speak unbonneted to as proud a fortune
As this that I have reached. (1. 2. 19-24)
オセローは自慢話し(‘boasting’)を名誉な行い(‘honour’)とさえ考える傲慢な性格を有している。
さらにここでは自らが王族の血を継承する者であると明言している。後に知らされるように、オセロ
ーはモーリタニアで生まれている。モーリタニアはイスラム教徒にとってのメッカ巡礼の出発点とし
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て、また、イスラム学者や修道師達が集う国として知られていた。その地で生まれ、王族の血を継承
しているという事実はオセローの人物造形にとって大きな意味をもつが、1 幕 2 場の時点で、観客に
はまだそのことは伝えられていない。しかし、観客の印象に強く残ったであろうことは、オセローが、
『ヴェニスの商人』においてポーシャに求婚するモロッコ王子のように、キリスト教社会の行動規範
を知らない「異人」の貴族であるという事実であろう。
また、1幕 2 場の次の対話シーンも、芝居全体を通じて観客の脳裏には強く焼きついていたと思わ
れる。
OTHELLO
Not I, I must be found.
My parts, my title and my perfect soul
Shall manifest me rightly. Is it they?
IAGO
By Janus, I think no.
OTHELLO
The servants of the Duke? And my lieutenant? (1. 2. 30-34)
オセローがブラバンショー達と対峙するようイアーゴーははからっていたのだが、向こう側からやっ
て来たのは、オセローではなく、公爵とキャッシオーであったという滑稽なドタバタシーンである。
ここでイアーゴーがとっさに「双面神」(‘Janus’)の名に誓いをたてているが 4、オセローはそれに何
の違和感も示していない。このことは、双面神は二人が共通して信仰する神であることを意味してい
る。このシーンについて、ウィリアム・ウォーバートン(1747)は、‘There is great propriety in
making the double Iago swear by Janus, who had two faces’と解説しているが 5、双面性を有して
いるのは、イアーゴーだけではなくオセローもしかりなのである。元老院達やデズデモーナにとって
オセローは、確かに、高潔な人物として映っている。また、彼はヴェニスのキリスト教社会に順応し
ているようにも見える。しかし、それは、貨幣の片面に描かれた模様に過ぎない。ブラバンショー、
ロダリーゴ、そしてイアーゴー達の会話から浮かび上がるオセローは、そのような高潔な人物とは思
えぬ自惚れ屋であり(1.1.12)、好色漢であり(1.1.124)、奇抜で奇怪な異人(1.1.134)である。そして、
これらのオセロー像は、どれも芝居全体を通じて否定されることはない。つまり、オセローは道化的
人物の質を備えた主体として舞台に登場するのである。
祝祭的テーマとオセローの人物造形
初演当時、『オセロー』が公衆劇場にかけられたのは、おそらくカーニヴァル(謝肉祭)の頃であ
ったと考えられる。1604 年 11 月 1 日(Hallowmas Day)にホワイト・ホールにて『オセロー』の御
前上演が催されたことは現存する記録から確かなことである。しかし、
『ヴェニスの商人』と同様、
『オ
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セロー』のテクストにはカーニヴァル的雰囲気が色濃く漂っていて 6、そして、その雰囲気が、オセ
ローの人物造形と深く関わっていると思われる。
『オセロー』にカーニヴァル的雰囲気を読み込んだ最初の批評家はフランソワ・ラロック(1988)
「自身の目的達
であった 7。ラロックは『オセロー』のいくつかの場面について、イアーゴーは終始、
成のために、大衆遊戯や民衆伝統を捻じ曲げて利用している」と述べている 8。ラロックは、イアー
ゴーが利用した一つの民衆伝統としてシャリヴァリを挙げている。シャリヴァリとは、共同体を逸脱
した者達に対して行う一種の儀礼的制裁であり、特に無礼講が許されるカーニヴァルの時期に行われ
る風習である。例えば、結婚した者達に対して夜中に不快な楽器を鳴らし、騒ぎ立てたててはやした
りする風習などがあった。そうした風習は 1 幕 1 場でブラバンショーをたたき起こす場面にパロディ
ーとして利用されている。また、例えば、イアーゴーがオセローをロバに喩える場面(1.3.349,
2.1.308)があるが、これは告解火曜日によく行われていた「寝取られ亭主の市中引き回し」をパロデ
ィー化したものだという。妻を寝取られた亭主は、その民間懲罰として、ロバの背の上に後ろ向けに
乗せられ町中を引き回されるという風習が存在したのだという。ラロックの批評は、カーニヴァルの
祝祭的民間伝統が『オセロー』にモンタージュとして利用されている可能性を示唆した点で、極めて
重要であるといえる。
ラロックの影響を受け、彼の説をテクストの詳細な分析に基づいて検証しようとしている学者とし
てスティーヴ・ソーマー(2007)を挙げることができる 9。ソーマーは『オセロー』の時空を暦の上
での正確な日付と結び付けようとしている。彼が行っている最も興味深い指摘は、ヴェニス軍の一行
がキプロス島に到着する日を、ユリウス暦における告解火曜日であるとしていることだ 10。2 幕 3 場
においてイアーゴーが唄う、イギリスで覚えたという俗謡に
A Soldier’s a man,
O, man’s life is but a span,
Why then let a soldier drink! (2. 3. 67-69)
という件がある。これは『詩篇』の 39 番に見える次の部分を想起させるものであることが当時の観
客にはわかっていた。
You have made my days a mere handbreath;
The span of my years is as nothing before you,
Each man’s life is but a breath. (Psalm 39. 6)
詩篇 39 番は、『祈祷書』の暦においては 3 月 8 日に読まれていた 11。このことは、ヴェニス軍の一行
がキプロスに到着したその日が 3 月 8 日であることを暗示している。『オセロー』初演の年を、仮に、
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1603 年とし、その年が『オセロー』の時間設定でもあると仮定すれば、キプロスのユリウス暦では、
3 月 8 日は告解火曜日であったことになる。
さらに、ソーマーは、当時広く読まれていたという巡礼者達の航海記録をまとめたいくつかの書誌
を挙げ、ヴェニスからキプロスまでの航海には 4 週間から 5 週間を要していた事実を指摘している
12
。船が難航した場合、航海には 5 週間(つまり 35 日)を要したという。ヴェニス軍の船は嵐の中
を航海したというのだから、到着までに要した日数が 35 日であったことを当時の観客は容易に割り
出すことができたとソーマーは考えるのである。すると、ヴェニス軍の一行がヴェニスを出航した日
はユリウス暦の 1603 年 2 月 1 日(火)であったことになる。しかし、グレゴリオ暦に倣った独自の
暦(More Veneto)を有していたヴェニスでは、その日は、1603 年 2 月 11 日(火)であった 13。そ
の日は、また、グレゴリオ暦の告解火曜日であった。
さらに、ソーマーは、3 幕 3 場においてデズデモーナがオセローにキャッシオーに会うよう嘆願す
る場面にある次のデズデモーナの台詞について考察を加えている。
Why then, tomorrow night, or Tuesday morn;
On Tuesday, noon or night; on Wednesday morn (3. 3. 60-61)
この発話行為がなされるのは、現地のユリウス暦では 3 月 9 日(水)であるはずだ。しかし、この台
詞は現在が日曜日であることを示していて、これまでのソーマーの推理は一見間違っているように思
えてくる。しかし、これは当時の人々によくおこりがちだった「時差呆け」の一例であるとソーマー
は解説している。グレゴリオ暦とユリウス暦の間には 10 日の誤差があるのだが、水曜日から数えて
10 日進めて数えるべきところを 10 日遡って数えてしまったために、デズデモーナはこの日を日曜日
だと勘違いしているのだという。
ソーマーの推論には、例えば、『オセロー』の創作年代を 1603 年と仮定できるはどうしてなのか、
また、悪天候のもとではヴェニスからキプロスまでの航海に 5 週間を要したと断定できる根拠は何な
のかなど疑問が残る。しかし、
『オセロー』がカーニヴァルの時空をテーマとした劇である点について、
細かいデータに基づいて証明しようとしている点については、大いに評価できるだろう。
シェイクスピア時代のイギリスではグレゴリオ暦とユリウス暦が混在していた。1582 年にグレゴ
リオ暦が定まって以降、イングランド国教会はユリウス暦を正式な暦としてきたものの、カトリック
勢力とプロテスタント勢力の鬩ぎ合いが続く中、実際には多くの場合においてグレゴリオ暦が使われ
ていた。結果として二つの暦が併記されたカレンダーが存在することになり、また、カーニヴァルと
四旬節の季節はその境界線が極めて曖昧なものとなってしまった。『オセロー』においてシェイクス
ピアがこの曖昧な季節を表象していることをソーマーはラロックとは別の視点から指摘している。テ
クストに広がりをみせているイメージが、その季節のものと一致する。私達はイアーゴーの次の台詞
を想い起こすべきであろう。
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
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. . . Our bodies are gardens, to the which our wills are gardeners. So that if we will
plant nettles or sow lettuce, set hyssop and weed up thyme, supply it with one gender of
herbs or distract it with many, either to have it sterile with idleness or manured with
industry – why the power and corrigible authority of this lies in our wills . . . I take this, that
you call love, to be a sect or scion. (1. 3. 321-33)
長い冬の間に凍りついた大地に草木が芽吹こうとしているこの時期は、農夫や庭師達が種を蒔く季節
であり、木々を剪定し接木を行う季節でもある 14。ソーマーがしているように、『オセロー』の描く
時間設定をその日時に至るまで正確に割り出す必要はおそらくないだろうし、また無駄であろう。し
かし、『オセロー』の時空は、ヴェニスとキプロスというそれぞれの暦をもつ時空に跨っていて、謝
肉祭と四旬節の二つの時が交差しあうその時節と重なり合っていることはおそらく間違いない。ピー
テル・ブリューゲルの『謝肉祭と四旬節の争い』(1559)に描かれたあの時空こそ、『オセロー』が描
こうとする時空なのである 15。ブリューゲルの絵画では、断食し禁欲の日々を送る人々が描かれ、彼
らは四旬節の到来を象徴している。その一方で、肉を喰い陽気に楽器を奏でる人々が描かれ、彼らは
謝肉祭がまだ終わらないことを象徴している。謝肉祭を楽しむ人々は喜劇的に描かれていて、四旬節
の側に描かれた人々は重苦しく悲劇的な雰囲気を漂わせている。『オセロー』の時空がブリューゲル
の絵画世界のように謝肉祭と四旬節の交差した曖昧な領域として描かれていることが、プロットの展
開にとって重要となる。『オセロー』のメインプロットは、背景の異なる若い二人が出会い、結婚を
成就させようとする過程を描いている。そのプロットを考察すると、それが芝居の時空的テーマと密
接に関わっていることが見えてくるのである。
ジラルディ・ チンチオが描く原話の世界とは大きく異なり、シェイクスピアの『オセロー』では、
オセローとデズデモーナの結婚は成就しない結婚として描かれていることを、最初に確認しておきた
い。つまり、彼ら二人は肉体的結合(copula carnalis )によって結ばれてはいないのである。近代初
期の(少なくとも文学上の約束事に従うと)「結婚」とは、まず、夫婦の関係となる者同士が互いに
言葉による誓いを交わし、次に、宗教的な儀式を終えた後、祝賀の儀によってそれを祝い、そして、
最後に、肉体の結合が行われるまでの一連の流れをいう。その一連の儀式をすべて終えた後にはじめ
て結婚が成就するのである。デイヴィッド・ワイルズは、当時の‘consummation’(つまり「肉体の
結合による結婚成就」)について次のように記している。
In normal social practice, the church ceremony would be over before the day started to
wane (a requirement of canon law), while consummation would take place once midnight
had passed and the new day began to wax. Human beings thus sought to align themselves
with nature’s increase. 16 84
東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 12 号(2010)
一般的に‘consummation’は真夜中を過ぎた時点で行われる。
『真夏の夜の夢』では、婚礼の儀を済
ませたシーシウスとヒポリタ達は 12 時の鐘が鳴る前まで祝宴を楽しみ、そして、12 時の鐘の音とと
もに床入りをするが、これは当時の風習に倣ったものである。
一方、
『オセロー』では、婚約者の二人が誓約の儀式は済ませたものの、次に続くべきはずの‘sexual
consummation’が成されていない。1 幕のヴェニス・シーンでは、夜警の者達も眠気を感じる夜半
過ぎの時刻(odd-even and dull watch of th’night)にデズデモーナはオセローの待つサジタリーへ
と船で出かけたという(1.1.121ff.)。イアーゴーの陰謀で、すぐにオセローはサジタリーから公衆の
面前に引き出されてしまう。サジタリーにおいて‘consummation’が成されなかったことは、初演
当時は、おそらく、役者の衣装や演出の工夫によってすぐに観客に伝わったと思われる。テクストで
は、デズデモーナの次の台詞がそれを暗示している。
DESDEMONA
I saw Othello’s visage in his mind,
And to his honours and his valiant parts
Did I my soul and fortunes consecrate,
So that, dear lords, if I be left behind,
A moth of peace, and he go to the war,
The rites for which I love him are bereft of me,
And I a heavy interim shall support
By his dear absence. Let me go with him. (1. 3. 253-59)
この台詞の最初の 3 行が言っていることは、要するに、二人はお互いに結婚の誓約(sponsalia per
verba de praesenti )を終えたということである。しかし、それに続く 4 行目以降、デズデモーナは、
オセローがこのまま独りでキプロスに遠征してしまうと‘rites’を執り行う機会が与えられないまま
になってしまうと嘆いているのである。「儀式」とはここでは、もちろんジュリエットが ロミオとの
‘love-performing night’(3. 2. 6)に行うという‘amorous rites’(3. 2. 8)と同じことを意味するだ
ろう。つまり‘sexual consummation’のことである。また、2 幕 1 場でイアーゴーがロダリーゴに
いう次の台詞からもそれが分かる。
IAGO (to RODERIGO )
Her eyes must be fed, and what delight shall she have to look on the devil? When the
blood is made dull with the act of sport, there should be, again to inflame it, and to give
satiety a fresh appetite, loveliness in favour, sympathy in years, manners and beauties. .
. (2. 1. 224-28)
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
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1 幕 1 場でブラバンショーに‘Even now, now, very now, an old black ram / Is tupping your white
ewe!’と告げていたのはイアーゴーであったが、その時点ではまだ結婚が完結していなかったことを
そのイアーゴー自身が看破していたことになる。
オスマン軍撤退の知らせを受けたキプロスは、祝宴の熱狂に包まれる。近年の上演では省略される
ことが多い 2 幕 2 場の重要性は、伝令役が次の情報を観客に伝えることにある。
HERALD (Reads the proclamation )
. . . each man to what sport and revels his addiction leads him. For besides these
beneficial news, it is the celebration of his nuptial. (2. 3. 5-7)
ヴェニスにおいて失われた時を取り戻すべく、2 幕 3 場では婚礼の続きが再開されることを伝令役は
観客に告げるのである。ヴェニスではカーニヴァルが終っていたとしても、ユリウス暦のキプロスで
は、カーニヴァルはまだ終っていない。したがって結婚の儀式を執り行うことがまだ許されているの
である。伝令役の続く台詞によると、5 時から 11 時までが宴の時間として準備されている。11 時に
宴を終えのるは、その後には‘consummation’の儀式が続かなければならないからである。テクス
トによると、その夜、オセローとデズデモーナが床入リをするのは 10 時前であると書かれている。
結婚成就の時を待つためである。2 幕 4 場 9-10 行目付近で退場して行くオセローは、
‘The purchase
made, the fruits are to ensue: / That profit’s yet to come ’tween me and you’(2. 3. 9-10)とデズデ
モーナに語りかけている。
しかし、オセローとデズデモーナが耳にするのは、宴の終わりを告げる 11 時の鐘の音ではなく、
危機を知らせる警鐘の音と、暴動が起こったことを告げるロダリーゴの叫び声であった。結局、この
夜も二人は‘consummation’を終えていない。そして、それをはからった人物こそイアーゴーであ
ったのだ。アーデン版の注釈者 E. A. I. ホニグマンはオセローの次の台詞を疑問視している。
OTHELLO
Come, Desdemona: ’Tis the soldier’s life
To have their balmy slumbers waked with strife. (2. 3. 223-24)
新郎と新婦であるオセローとデズデモーナが、はたしてこの夜に‘balmy slumbers’
(「平穏なる眠り」)
を得ることなどあるだろうかというのである 17。しかし、そのような現実的な解釈はここでは無用で
ある。文学上の約束事においては、
‘consummation’の前には「平穏な眠り」の時が来るべきなので
ある。結婚の一連の流れを詩に描いたエドモンド・スペンサーの「祝婚歌」(1597)にみえる次のパ
ッセージを想起すべきである。
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BUt let stil Silence trew night watches keepe,
That sacred peace may in assurance rayne,
And tymely sleep, when it is tyme to sleepe,
May poure his limbs forth on your pleasant playne,
The whiles an hundred little winged loues,
Like diuers fethered doues,
Shall fly and flutter round about your bed,
And in the secret darke, that none reproues,
Their prety stealthes shal worke, and snares shal spread
To filch away sweet snatches of delight,
Conceald through couert night. (353-63)18
文学上の約束事においては‘consummation’はリビドー的衝動から起こる能動的なアクションでは
なく、新郎と新婦が共に平穏な眠りに落ちた後に、恋神の導きによって自然に生じるいわば受動的な
営みとされていたのである。したがって、オセローとデズデモーナが「平穏な眠り」から覚まされた
という描写に、当時の観客がホニグマンのように困惑することはなかったと思われる。上に引用した
オセローの台詞は、キプロスにおいても二人の結婚が成就されなかった事実をはっきりと明示してい
ることになるのだ。では、二人の婚約に協力した筈のイアーゴーが、執拗に二人の結婚を邪魔してい
るのはなぜなのだろうか。そして、そのことが芝居の季節的テーマとどう関係しているのか。次にそ
の点について考えてみよう。
生まれつきの好色男であり、愛などとはおよそ無縁の人生を約半世紀も歩んできたオセローだが、
デズデモーナの一面によって、愛する人物へと変容を遂げつつある。その一面とは、デズデモーナの
情緒を支配する「憐れみの情」である。デズデモーナに過去の身の上話を語ることによって「口説き
落とした」というオセローだが、その口説きの時点でオセローが「愛」という感情を経験していたと
は思えない。オセローがデズデモーナを口説こうとしたのは、キャリバンにミランダを強姦させよう
と駆り立てたものと同じリビドー的欲求によるものである。しかし、オセローは変容を遂げ、デズデ
モーナに惚れ込んでしまう。その理由を彼は次のように述べている。
OTHELLO
She loved me for the dangers I had passed
And I loved her, that she did pity them. (1. 3. 168-69)
奴隷として売られ、その後、プライドを満足させるためだけに身を粉にして戦場で戦ってきたオセロ
ーは、憐れみの情を持たない人間だった。アレッポーのユダヤ人達を「割礼した犬」とみなして無残
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
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に刺し殺しても、石のような彼の心が憐みの情を経験することはなかった。シェイクスピアはアーロ
ン、キャリバン、シャイロックなど、悪漢として描かれる「異人」を造形するに際して、その心にキ
リスト教徒の美徳である憐れみの情を与えない傾向がある。オセローもまたそうした人物達と同じ「異
人」として舞台に登場する。しかし、憐れみの情がマクベスを柔和な人物に変化させ、また、憎悪と
復讐心に満ちたプロスペローの心に慈悲を覚醒してゆくように、デズデモーナの憐みの情はオセロー
の心を動かす。ついには、オセロー自身もその同じ感情を経験し(4. 1. 192-93)、アラビアのゴムの
木から零れるような涙を流す(5. 2. 348-49)人間へと変化してゆくようになる。
『オセロー』では、二人の関係を結び付けようとしているこの憐れみの情が、自由放埓なオセロー
をしだいに敬虔なキリスト教徒へと改心させてゆくプロットが用意されている。それは、カーニヴァ
ルの時空に位置する道化的存在であるオセローが、四旬節の季節に融和してゆく物語でもある。そし
て、その変化は、オセローとデズデモーナの結婚が成就することで完結するのである。オセローがイ
アーゴーに語る次の台詞に注目すべきである。
OTHELLO
. . . For know, Iago,
But that I love the gentle Desdemona
I would not my unhoused free condition
Put into circumscription and confine
For the sea’s worth. (1. 2. 253-59)
大海原ほどの富を得たとしても決して捨てる積もりはなかった自由放埓な生活を、デズデモーナに対
し献身的愛を捧げるために捨てることをもはや厭わないというのである。デズデモーナへの愛が芽生
えたその瞬間から、オセローの改心劇ははじまる。デズデモーナとの結婚はオセローが改心を遂げ教
化されてゆく通過儀礼として描かれているのである。
結婚の主導権はデズデモーナが握っている。デズデモーナを口説いたその時までは、二人の関係を
主導したのはオセローであり、無秩序の主イアーゴーがその共犯者であった。しかし、その後のオセ
ローはデズデモーナによって聖なる時空へと誘導される。学者であるキャッシオーの目には、デズデ
モーナはこう映っている。
CASSIO
Tempests themselves . . .
As having sense of beauty, do omit
Their mortal natures, letting go safely by
The divine Desdemona.
88
東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 12 号(2010)
MONTANO
What is she?
CASSIO
She that I spoke of, our great captain’s captain, (2. 1. 68-74)
キャッシオーのこのレトリックは「真の愛」をテーマとするソネット 116 番を想起させる。ソネット
116 番では「真の愛」とは、嵐の海で遭難した船にとっての北極星のような指針となり、船を聖なる
方向へと誘導する光とされている。それと同様に、デズデモーナはオセローにとっての船頭(‘captain’)
とされている。後にオセロー自身がそのことを次のように表現している。
OTHELLO
Excellent wretch! Perdition catch my soul
But I do love thee! And when I love thee not
Chaos is come again. (3. 3. 90-92)
オセローがデズデモーナに対して抱いている愛とは、
『蜘蛛の糸』で地獄と極楽を結びつける糸であり、
ボトムのみる夢であり、またマルヴォーリオの抱く妄想であると言えるだろう。
変容をとげてゆくオセローを誰よりもよく観察しているのはイアーゴーである。ロダリーゴとの会
話の最中に、イアーゴーは(観客へ語りかける傍白として)‘. . . they say, base men being in love
have then a nobility in their natures, more than is native to them . . .’ (2. 1. 213-15) と言っているが、
この瞬間に彼の脳裏に浮かんでいるのがオセローであることは明白である。イアーゴーにとってそれ
まではロバとしか見えていなかったオセローについて、続けてこのように言うからである。
IAGO The Moor, howbeit that I endure him not,
Is of a constant, loving, noble nature, And I dare think he’ll prove to Desdemona
A most dear husband. . . . (2. 1. 286-89)
そして、その変容の原因がデズデモーナにあることをイアーゴーは看破している。
Our general’s wife is now our general. I may say so in this respect, for that he hath
devoted and given up himself to the contemplation, mark, and denotement of her parts and
graces. (2. 3. 309-13)
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
89
さらに、美徳の鏡であるデズデモーナは悪意と悪戯に満ちたイアーゴーの心までも改心させようとし
ている。イアーゴーが平静を取り乱す数少ない場面の一つに、次のような場面がある。
IAGO
. . . Now I do love her too,
Not out of absolute lust ― though peradventure
I stand accountant for as great a sin –
But partly led to diet my revenge,
For that I suspect the lusty Moor
Hath leaped into my seat . . . (2. 1. 289-94)
一つの文章に‘though’、‘but’そして‘for’という三つの接続詞が存在する事実だけをみても、イ
アーゴーの心的態度に乱れが生じていることが読み取れる。しかし、何よりもここに読み取れる彼の
息遣いが、錯乱した彼の精神状態を表している。結局、この台詞でイアーゴーが何を言いたいのか観
客には捉えようがない。心に食欲のように沸き起こってくるオセローへの憎悪を、デズデモーナをし
て満たしたいという願望を抱いていることはわかる。しかし、そうした破壊願望は、イアーゴーの中
に波のように沸き起こる感情のほんの一部でしかないことが‘partly led to diet my revenge’とい
う件の‘partly’という語に現れている。‘For’以下の部分は、感情を沈静化するために彼の空想が
つくり出した絵空事であるようにしか聞こえない。この部分で最も注目すべきことは、デズデモーナ
という神々しい存在を「完全に欲望から発生したといえない」(not out of absolute lust)感情によっ
て愛しているということ ― すなわち、偉大な君主に対して臣民が抱く敬意のような感情が、イアー
ゴーの中に萌芽しつつあるという事実である。これは、時間が四旬節の方向に進んでいることを暗示
するものである。オセローという聖なる時空にとってのリミナルな存在を教化し、プロテスタンティ
ズムが支配する現実の時空に融和させる通過儀礼である結婚は、同時に、カーニヴァルの終わりを意
味する。その聖なる時空は、無秩序の主人たるイアーゴーの主体性までをも融和しようとしていると
いえるだろう。イアーゴーが執拗に二人の「結合」を阻止しようとするのは、聖なる時の到来を遅延
させようとするからなのである。『オセロー』の核を成している結婚プロットは、初演当時の感覚に
立ち返ってみると、祝祭的笑いに満ちたファルス的構造を有するものとして受け止められていたと推
測できる。芝居の放つカーニヴァル的色彩によって、オセローは道化的人物として色付けられていた
と考えられるのである。
悲劇的場面におけるオセローの道化的人物造形
オセローを悲劇的英雄という枠によって解釈しようとしてきた批評行為が、近代的なオセロー像を
生み出したその一方で、初演当時に芝居が有していた祝祭的雰囲気を捨象してきたと思われる。19
90
東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 12 号(2010)
世紀初期の舞台を風靡したエドマンド・キーンが演じたオセローは、ロマンテックで悲劇的な英雄と
して、その高貴な人物像が強調された。1814 年 5 月 6 日にドゥルーリー・レーン劇場にてキーンの
オセローを観劇したウィリアム・ハズリットはつぎのように記している。
His [i.e ., Edmund Kean’s] voice and person were not altogether in consonance with the
character, nor was there throughout, that noble tide of deep and sustained passion,
impetuous, but majestic, that ‘flows on to the Propontic, and knows no ebb,’ which raises
our admiration and pity of the lofty minded Moor. . . . The tone of voice in which he
delivered the beautiful apostrophe, ‘Oh farewell!’ struck on the heart and the imagination
like the swelling notes of some divine music.19
ハズリットの言葉を信じるならば、キーンのオセローはその悪漢としての野蛮な側面が強調されるこ
とはなく、気高く崇高なる英雄として演じられていたようである。シェイクスピア劇の登場人物は、
俳優の声色や、その人物像によって大きく変容する。影響力のある演出は新たなる流儀として後世に
継承されてゆく。キーンの演出が、ロマン主義の批評言説に少なからず影響を与え、また、後の舞台
表象の流儀をつくり上げたことはいまさらいうまでもない。また、私達が想い描く人物像が、現代の
批評や演出が生み出すオセロー表象の影響を少なからず受けているという事実は受け止めなければな
らない。その上で、私達は、その人物像を批判的に考察する視座に立たなければならないだろう。
キーンが残した伝統を批判的に捉えようとするとき、筆者にはラス・マクドナルド(1979)の批評
が想起される。マクドナルドは、キーンが「悲劇的」に演じていた場面を最も喜劇的な場面として解
釈した。マクドナルドはオセローを『気質比べ』のソレロー(カイトリー)や『ウンンザーの陽気な
女房達』のフォードなどの嫉妬狂いの人物達と比較しながら、喜劇的な人物として解釈している。寝
取られ亭主が頭から角を生やした鹿のように愚かな人物へと変容を遂げ、病的な妄想に毒されてゆく
有様を描くのは、当時の大衆喜劇によく窺えるパタンであるが、ソレローとフォードはそうした人物
の代表格である。マクドナルドはこのように述べる。
Shakespeare’s familiarity with the comic husband, gained on the stage and in the study,
influenced his adaptation of the Italian tale of intrigue and jealousy. Especially in Acts III
and IV, the likeness between Othello and such characters as Ford and Thorello become too
pronounced for an audience familiar with the comic type to overlook.20
気質変化がもたらすと考えられていた「嫉妬」はメランコリックな悪魔憑きの状態を意味する。その
メランコリックな気質は、想像力を歪め、その言語を崩壊させてゆく。マクドナルドによれば、嫉妬
狂いの人物が発する言語的特長の一つとして、誇張された大言壮語がみられるという。また、言葉に
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
91
非日常的で誇張された表現が目立てば目立つほど、観客は喜劇的快楽を得ることになるのだという。
たとえば、嫉妬に狂うフォードの台詞に次のようなものがある。
See the hell of having a false woman: my bed shall be abused, my coffers ransacked, my
reputation gnawn at, and I shall not only receive this villainous wrong, but stand under the
adoption of abominable terms, and by him that does me this wrong. Terms, names!
Amaimon sounds well: Lucifer, well: Barbason, well: yet they are devils’ additions, the name
of fiends. But Cuckold? Wittol? Cuckold? The devil himself has no such name. (MWW 2. 3.
198-204)
妻の不倫で夫が名声を失うという観客にとってはただそれだけのことから、どうしてルシファーやバ
ーバソンが連想されるのか、健全な想像力の持ち主には理解できようもない。嫉妬狂いの人物がこう
した極めて大げさな台詞を吹きまく件は、観客の笑いを誘うお決まりのシーンであったとマクドナル
ドは考える。キーンが聖なる音楽(‘some divine music’)のように発声したという『オセロー』の次
の台詞を、マクドナルドはフォードの嫉妬狂いの言説を連想させる滑稽な台詞と解釈している。
OTHELLO
Farewell the tranquil mind, farewell content!
Farewell the plumed tropes and the big wars
That makes ambition virtue! O farewell,
Farewell the neighing steed and the shrill trump,
The spirit-stirring drum, th’ear-piercing fife,
...
Pride, pomp and circumstance of glorious war!
And, O you mortal engines whose rude throats
Th’immortal Jove’s dread clamours counterfeit,
Farewell: Othello’s occupation’s gone. (3. 3. 351-60)
この台詞は、確かに、崇高なる調べをもつ音楽的瞬間として演じることも可能である。しかし、台詞
が展開してゆくイメージに注目すると、フォードの台詞とそのパタンが酷似しているといえる。
さらに、マクドナルドは、‘Like to the Pontic sea’ではじまる次の台詞にも注目している。
OTHELLO
. . . Like to the Pontic sea
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Whose icy current and compulsive course
Ne’er keeps retiring ebb but keeps due on
To the Propontic and the Hellespont:
Even so my bloody thoughts with violent pace
Shall ne’er look back, ne’er ebb to humble love
Till that a capable and wide revenge
Shallow them up. Now by yond marble heaven
In the due reverence of a sacred vow
I here engage my words. (3. 3. 456-65)
嫉妬に狂える人物の毒された想像力は、次なる段階として復讐心を呼び起こすのだという。マクドナ
ルドは、フォードの次の台詞を挙げている。
Well, I will take him, then torture my wife, pluck the borrowed veil of modesty from the soseeming Mistress Page, divulge Page himself for a secure and willful Actaeon, and these
violent proceedings all my neighbours shall cry aim. (MWW 3. 2. 27-30)
大言壮語によって語られた復讐の空想こそ、この二つの台詞の特徴として挙げられる共通点である。
マクドナルドが考えるように、もし、仮に、ここで『オセロー』の観客が先行作品の人物であるソレ
ローやフォードを想起させていたとするならば、このシーンにおけるオセローは悲劇的で英雄的であ
ったと同時に喜劇的でもあったと考えられるであろう。
マクドナルド説の信憑性についての最終判断は読者に委ねたい。ここで、筆者としては、当時の観
客がオセローによって連想したと思われるもう一人の道化的人物を挙げ、オセローとその人物との類
似点について言及しておきたい。その人物とは、伝統的にカーニヴァルの季節にお馴染みの道化的悪
魔ティティヴィルス(Titivillus, or Tutivillus)である。「記録する悪魔」や「袋運びの悪魔」と呼ば
れるティティヴィルスは、例えば、『人間』のようなカーニヴァル劇に登場する。ローナ・ハットソ
ン(2007)21 によれば、この悪魔の起源は 1215 年に遡るという。第 4 回ラテラン会議により、それ
まで行われていた神明裁判に代わって、年に一度の告解(confession)が義務づけられるようになった。
司祭が聞き漏らした告解の内容を最後の審判の日まで帳消しにできない罪として逐一記録するこの悪
魔は、それまで行われていた神明裁判の権威を戯画化した悪魔として、文学や絵画に描かれるように
なったのだという。中世のカトリック信仰は煉獄の存在を肯定し、この世において犯した酌量の余地
がある罪はそこで贖われると信じられていたが、この悪魔は、その罪を、証拠として地獄へ持ち込み、
そこで人に罰を受けさせようとする敬虔な悪魔なのである。そして、彼の存在は常に道化的であ
る 22。
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
93
1532 年以降(すなわちヘンリー八世による宗教改革以降)の芝居や文学作品においては、当然の
ことながら、ティティヴィルスが登場する機会は少なくなってゆく。しかし、ティティヴィルスがシ
ェイクスピア時代の観客にとっても馴染み深い存在であったことを、当時の芝居におけるいくつかの
パッセージが物語っている。その一つの例は、『ヘンリー四世第二部』に存在する、フォールスタッ
フとクイックリーの対話である。
FALSTAFF Dost thou hear? It is mine ancient.
MISTRESS QUICKLY Tilly-fally, Sir John, never tell me: your ancient Swagger comes not
in my doors . . . (2 Hen 4 2. 4. 55-6)
‘Tilly-fally’という語の語源について OED は「不明」(‘unknown’)と記している。しかし、マーガ
レット・ジェニングスが指摘しているように、この語はウォルター・スコット以降ティティヴィルス
を意味する語と考えられてきた。シェイクスピアがこの語を使用したもう一つの例として、『十二夜』
のサー・トビー・ベルチの台詞に‘Tilly-vally, lady . . .’という表現がある。さらに、ベン・ジョン
ソンの『エピシーン』には‘titivilitium’という‘Titivillus’が変化して出来た語が使われているし、
フィリップ・スタッブズの『悪弊について』(1583)やジェイムズ・ベルが翻訳出版した『ハドソン
の回答』(1581)にも‘titivillers’という語が使われている 23。ティティヴィルスがカーニヴァル劇の
舞台で人気を博してから百年以上が経過したシェイクスピアの時代のイギリスでは 24、ティティヴィ
ルスは日常の語彙にまで浸透するほど馴染み深い存在になっていたと考えるのが妥当であろう 25。
オセローがこの悪魔を連想させる人物と化すのは、ハンカチ・プロットにおいてである。そもそも
オセローがデズデモーナに与えた一枚のハンカチなどは、それとともに愛を誓った「しるし」として
の意味しか持たない。そのハンカチは、父親が母親に「しるし」として贈ったその同じものなのだが、
オセロー自身がそのことを‘It was a handkerchief, an antique token / My father gave my mother’
(5. 2. 214-15)と説明している。この文章に見える‘antique’には単に「古くなった、昔の時代の」
程度の意味しかない。我が国を含めたアジアの文化圏とは状況が異なり、プロテスタンティズムをそ
の規範とする社会では‘token’はそれほど重要な意味を持ちえない。また、シェイクスピア時代の
観客にとって、20 世紀のシンボリズムの時代はまだまだ遥か遠い未来のことであった。デズデモー
ナとの「婚約」が成立した今となっては、オセローにとってもハンカチなどもはやさして重要なもの
ではない。事実、観客が見守る中で、オセローはその同じハンカチをデズデモーナの手から振り払い、
次のように言っているのである。
OTHELLO
Your napkin is too little.
94
東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 12 号(2010)
[She drops her handkerchief. ]
Let it alone. Come, I’ll go with you. (3. 3. 290-92)
また、そのハンカチは、他の人物の視点から客観的にみても取るに足らぬものである。キャッシオー
が差し出したそのハンカチをみてビアンカは、‘I was a fine fool to take it. . . . A likely piece of
work that you should find it in your chamber and know not who left it there’(4. 1. 149-52)と評
しているのである。(‘Your napkin is too little’という言葉は、逆に捉えれば、オセローの頭が大き
いということを意味する。これはティティヴィルスの際立った身体的特徴の一つとも一致する。オセ
ローを演じたバーベッジが当時どのような格好をしていたのか定かではない。しかし、仮にそのよう
な身体的特徴を装束によって強調しなかったとしても、テクストは修辞学的にオセローの頭が「角を
生やした鹿」の頭のように大きいことを随所にて示している。)
シェイクスピアはあらゆる劇的手法を駆使して、そのハンカチがとるに足らぬものであることを意
味しようとしている。そして、夫の病を心から気遣うゆえにそのハンカチを舞台上に落としてしまっ
たデズデモーナの些細な罪に対して、観客は十分な酌量の余地を認めたであろう。しかし、イアーゴ
ーによって聖なる時空からカーニヴァルの時空へと引き戻されてしまったオセローにとって、そのハ
ンカチは罪の証拠としての意味を帯びてゆくことになる。そして、その証拠によって、デズデモーナ
を地獄の淵へと追い込もうとする。
OTHELLO
That handkerchief
Did an Egyptian to my mother give:
She was a charmer . . . (3. 4. 57ff.)
ではじまるオセローの台詞 ―この台詞は劇中において彼の妄想癖が最も顕著に露呈する台詞なのだ
が ―でオセローが言っていることは明らかに事実ではない。ハンカチは父が母に与えた約束の「し
るし」なのである。この台詞に展開されてゆくイメージは、デズデモーナの些細な罪をあたかも重罪
であるかのように告発しようとするオセローのデモニックな「悪意」がでっち上げたものである。そ
こに、観客は、カーニヴァルの道化役者ティティヴィルスの姿を描き映していたと推測される。オセ
ローの嫉妬 ― それは祝祭的笑いを誘うものであったと考えられる。悲劇的効果を高めてゆくそうし
た場面においてさえ、オセローはあらゆる道化的資質を備えた人物として造形されていたと考えられ
るのである。
結語
『オセロー』は単なる笑劇ではもちろんない。デズデモーナが最初にオセローに対して示した「憐
五十嵐:道化的人物としてのオセロー
95
れみの感情」が、最終場面では観客の側に生じてくる。『オセロー』では、その憐れみの感情が悲劇
の浄化作用を引き起こすのである。さらに、観客が経験するその感情は、翻って無秩序の主イアーゴ
ーとその悪戯が織りなすカーニヴァル的時空への嫌悪に変化してゆくことになる。それによって、観
客は、信仰と禁欲の季節である四旬節の到来を受け入れ得たのである。つまり、季節の循環という偉
大なる自然の仕掛けに対する畏怖の念を喚起するという意味において、『オセロー』はアリストテレ
ス的な意味での偉大な悲劇ということができる。しかし、『オセロー』が誘発する笑いは、悲劇にお
ける「喜劇的緩和」ではない。『オセロー』は喜劇的構造を有する悲劇なのである。芝居の有する祝
祭的喜劇性が悲劇の土台となっているのである。そして、その主人公オセローは、まれにみる悲喜劇
的笑いをもたらす道化的人物であったと考えられるのである。
96
東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 12 号(2010)
註釈
1
Anon.,‘The Tragedy of Othello the Moore’
, c. 1625; Horace Howard Furness ed, A New Variorum Edition
of Shakespeare: Othello , New York: Dover Publication, 1963, pp. 398-402 より引用。
2
本稿における『オセロー』からの引用はすべて E. A. J. Honigmann, ed. The Arden Shakespeare: Othello ,
Walt-on-Thames: Thomas Nelson and Sons, 1998 の読みに従っている。なお、他のシェイクスピア作品からの引
用は、Jonathan Bate and Eric Rasmussen eds., RSC Shakespeare: William Shakespeare Complete Works ,
Basingstoke: Macmillan Publishers, 2007 に拠る。
3
『オセロー』では、旧来の社会秩序に代わってヴェニス社会に萌芽しつつあるのは資本主義社会ではなく共和
主義社会である。喜劇の時空においては、日常の社会生活において抑圧されていた周縁者達をも含む一般大衆に
属する人々の夢が現実味を帯びて描かれる傾向がある。『オセロー』のヴェニス社会でもその同じ特徴が窺えるの
である。イアーゴーの役割は『十二夜』の「無秩序の主人」(The Lord of Misrule)であるサー・トビー・ベル
チの役割と似ている。すると、その悪ふざけの的であるオセローはマルヴォーリオと重なる。
4
シェイクスピア作品で、『ヴェニスの商人』の次の場面でも‘by Janus’という表現が使用される :‘Now, by
two headed Janus, / Nature hath framed strange fellows in her time: / Some that will evermore peep through
their eyes /And laugh like parrots at a bag-piper, /And other of such vinegar aspect / That they’
ll not show
their teeth in way of smile, / Though Nestor swear the jest be laughable’(MV , 1. 1. 52-8). 双面神は二面性を有
する人物の守護神である。
5
H. H. Furness ed. A New Variorum Edition , 1. 2. 38n.
6
『ヴェニスの商人』については、1605 年の告解日曜日(2 月 8 日)と告解火曜日(2 月 10 日)に宮廷にて上演
された記録が存在する。
7
Francois Laroque, Shakespeare et la Fete (1988)、特に第 10 章を参照。
8
フランソワ・ラロック著・中村友紀訳『シェイクスピアの祝祭の時空』(柊風社,2008 年刊),426 ページ。
9
Steve Sohmer, Shakespeare for the Wiser Sort , Manchester: Manchester UP, 2007. 特にオセローの「二重の
時間」の問題を扱った第 7 章を参照。
前掲書,p. 117.
10
前掲書,p. 117.
11
ソーマーは The Book of Margery Kemp ( 初版、1530)、Informacion for Pylgrymes ( 初版、1498) を挙げている。
12
グレゴリオ暦とユリウス暦の間には 10 日の誤差があった。
13
カーニヴァルの時期に演じられた『人間』の 545 行目付近では、人間が種を蒔くために畑に立ち、鋤をつかっ
14
て耕しはじめる場面がある。「あいつの穀物に雑草や毒麦を混ぜてやれ」(536 行目)というティティヴィルスが
その鋤と種を盗む。鳥居忠信他訳『イギリス道徳劇集』(リーベル出版、1991 年刊)を参照。
Cf. ラロック、pp. 437-8.
15
David Wiles, Shakespeare’
s Almanac , Cambridge: D.S. Brewer, 1993, p.73.
16
The Arden Shakespeare: OTHELLO , 2. 3. 224n
17
Edmund Spenser,‘Epithalamion’
, J. C. Smith and E. De Selincourt, eds. The Poetical Works of Edmund
18
Spenser , London: Oxford University Press, 1961, pp.580-584.
Gamini Salgado, Eye-Witnesses of Shakespeare , London: Sussex University Press, 1975, p. 261.
19
Russ Macdonald‘Othello, Thorello, and the Ploblem of the Foolish Hero’
, Shakespeare Quarterly , 30:1
20
(Winter 1979), pp. 51-67, p.56.
Lorna Hutson, The Invention of Suspicion , Oxford: Oxford University Press, 2007, pp. 22-30 を参照。
21
Margaret Jennings,‘Tutivillus: The Literary Career of Recording Demon’
, Studies in Philology , vol. 74, no. 5
22
(December 1977), p. 66 を参照。
OED を参照。
23
『人間』(1471)はカーニヴァルにお馴染みの出し物であった。
24
Cf. Jennings, p. 70.
25
The Bulletin of the Institute of Human Sciences, Toyo University, No. 12
97
Othello as a Clownish Character
Hirohisa IGARASHI *
This paper argues that when Richard Burbage played Othello his clownish aspects were
more prominent than they likely appear on modern stage. It seems that Post-Romantic views
of Othello as a de casibus hero were largely influenced by the eighteenth-century stage
tradition which culminated in Edmund Kean’s ‘noble’ Othello in early nineteenth century. On
the other hand, the text of Othello is replete with carnival images, indicating that its original
performance was designed to celebrate a festive season. Regarding Othello as an entity in a
festive (rather than tragic) world would lead us to see his clownish function in the play more
vividly. Othello would then seem to us as an essentially comic character portrayed in a
predominantly tragic mode.
Key words :Othello, clown, carnival images, consummation, English marriage in Elizabethan
England
* An associate professor in the Faculty of Life Sciences, and a member of the Institute of Human Sciences at Toyo
University
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