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新しい世界の創造をめざした 国連憲章 ― 国 連 憲 章 と 日 本 国 憲 法

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新しい世界の創造をめざした 国連憲章 ― 国 連 憲 章 と 日 本 国 憲 法
色川 大吉
新しい世界の創造をめざした―国連憲章
国連憲章の原文はドイツと日本が降伏するまえ、米英など連合国によって作られた。これら
の国には第一次世界大戦後から戦争を違法行為として封じ込めようとする一部の運動が生まれ
ていた。戦後の1921年(大正10)にはシカゴの弁護士サーモン・レビンソンのように一
切の戦争を犯罪である、違法だと主張する本を書き、100万部も普及させた人がいる。また、
アメリカの指導者の中には自衛権をも制限する戦争違法化委員会という組織をつくって活動す
る人たちもあらわれた。一方、欧州では各国が協力して侵略国に制裁を加え、戦争をおさえこ
もうとする体制づくりが試みられた。そうした二つの流れが合流して国際連盟を生み出したの
である。その組織づくりに新渡戸稲造のような日本人が中心的な役割を果たしたことは日本の
誇りである。新渡戸は国際連盟の事務局次長を9年間勤めあげた。そうした各国、各個人の努
力が1928年(昭和3年)のパリ不戦条約に実ったのである。
これは正式には「戦争放棄に関する条約」といい、日本を含む15カ国が提案国になった。
その第一条は「締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、且その相互関係に
おいて国家の政策手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣
言する」とあった。
日本はこの条約を、制裁条項と自衛権の否定が含まれていないものと解釈し、昭和天皇の名
で批准した。ところが1931年、日本の軍部は満州事変を起こし、中国東北部を占領したの
で、国際連盟から侵略行為と認定され撤兵を要求された。「満州は日本の生命線だ」と主張し
ていた日本の松岡全権は国際連盟総会でこれを拒否して連盟を脱退、やがてドイツもこれに同
調したので、国際連盟の侵略抑止の試みは崩れさった。その結末が第二次世界大戦である。日
独と戦った連合国はその教訓の上に立って、戦後、より強力な国際組織、国際連合を構想した
といわれる。
「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類にあたえ
た戦争の惨害から、将来の世代を救い、
(中略)国際の平和と安全を維持するために、われら
の力を合わせ、共同の利益の場合を除くほかは武力を用いないことを原則」とすると。
つづく第一章、第一条の国際連合の目的では、「平和に対する脅威の防止および除去と、侵
略行為その他平和を破壊する行為の鎮圧のため有効な集団的措置をとること、並びに平和を破
壊するに至るおそれのある国際的の紛争や事態の調整または解決を平和的手段によって、かつ
正義および国際法の原則にしたがって実現すること」として、集団的制裁をふくむ安全保障の
考えと、その解決の平和的手段を強調したのである。
それはつぎの画期的な規定によっていっそう明確にされている。
第二条の三項「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和および安
全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
」
また、その四項「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の
行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立
しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
」
国 連 憲 章 と 日 本 国 憲 法
読者は国際連盟の第一条や、国際連合の憲章の第二条の三項、四項が日本国憲法の第九条と
たいへん似ていることに気づかれたであろう。国連憲章は「戦争」より範囲の広い「武力行使」
-1-
(および武力による威嚇)を否定する原則をはっきりと示し、日本の憲法の第九条に正当性の
法的根拠をあたえていたのである。そういう歴史上のいきさつを前提に、もういちど第九条を
読み直してみると、戦争を抑止したいという人類の多年の努力の本流を受け継いだものである
ことが分かる。押し付けだとか、植民地的な条文だとかいう低俗な次元の批判は勉強不足のた
めであろう。
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇または武力の行使は、
(国際紛争を解決する手段としては、)永久にこれを放棄
する。
2、
(前項の目的を達するため、)陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権
はこれを放棄する。
」
(カッコ内はGHQから示された原案にはなかった。日本政府による審議の過程で付け加え
られたもの。これによって自衛権容認など解釈改憲の余地がうまれた、芦田修正といわれる。
)
すべての加盟国は、国際紛争の解決に武力による威嚇や武力行使をしてはならないという国
連の最初のよびかけを、もっとも早く、より明晰なかたちで自国の憲法に生かしたのが日本で
あった。1946年につくられた日本国憲法第九条1項はまさにそれであり、2項はさらにそ
の精神を徹底して軍備の不保持や交戦権放棄という画期的な宣言をした。あれから57年経っ
た今、この憲法の精神は無益になったか、それとも人類が核戦争から生き残るための貴重な示
唆になっているか、冷静な判断のしどころであろう。
さらに、これほどの平和憲法がどうして日本に生まれたのか。国連憲章の声明と第九条の草
案成立とのあいだには、わずか半年しかなかった。秘密のひとつはこの半年の中にある。この
ことはあらためて明らかにしたい。
新
憲
法
制
定
事
情
一般国民は知らなかったろうが、敗戦後、在野の知識人グループは直ちに新憲法草案の起草
に取りかかっていた。その結果、まだ政府案ができないでいるとき、代表的な憲法学者鈴木安
蔵や高野岩三郎らによる憲法研究会草案(その第三次案が1945年12月26日に日本政府
やGHQに提出)をはじめ、各界有志の13草案が当時作成され公表されている。連合国軍総
司令部・GHQの憲法案はこの一部を参考にしているし、起草の中心人物ケーデイス大佐、ラ
ウエル中佐、ハッシー中佐(いずれも民政局の弁護士)は、とくに鈴木安蔵らの案を重視して
いた。1946年1月のことである。第九条はケーディス次長が担当した。
日本育ちの民政局の女性局員、ベアテ・シロタが日本女性の解放のために革新的な条文を準
備、起草したことは、最近、彼女が来日して、証言したことから、良く知られるようになった。
この民政局による憲法起草は、日本政府が再三督促されながら、天皇中心の保守的な案しか
作らず、問題を先送りしていたため、業を煮やしたマッカーサー総司令官の命令によるものだ
った。真相は単純な押し付けとは違う。しかも、担当したスタッフは当時のアメリカではもっ
とも進歩的な改革者たちで、この起草事業を「占領革命」の実験と自負していたほどだった。
それに比べて当時の日本政府が用意した憲法の原案は、保守的な明治憲法を焼きなおした内
容のもので、当時の国際的な世論の期待に応えるものではなかった。こういう一連の真実を隠
蔽して、現憲法を植民地憲法などという中曽根康弘たちの非難は当たらない。さらに若い戦後
生まれの政治家たちも歴史意識が古い上に不勉強なので、だれが、なんのために、どのような
国際世論のなかで、どのように草案を作ったかの基本知識さえ持っていない。日本人自身の努
力や創意性がどのように生きているのかも知らない。日本にもかつて国民主権の憲法起草を試
みた民主主義の100年の伝統があることも知らない。
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