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Title Author(s) Citation Issue Date Type B.バレールの「モンテスキュー頌」(承前) 山崎, 耕一 武蔵大学論集, 34(5): 21-60 1987-01 Journal Article Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/17879 Right Hitotsubashi University Repository 12 .B バレールの「モンテスキュー領CJ 承前〉 山崎耕 .4 7Sr 年版」の内容 まず 78r 年版」の紹介から始めよう九「モンテスキューを賛えるのは諸国 民の集会(の仕事〉であろう。」と書きおこしたパレールはついで「祖国だけ がこの偉人に市民的栄冠 (courne uqivic めを与える権利を持つ」と続け る。「この偉人」はまさに栄光をうけるために生まれ,アテネとローマの哲学 者・立法家の全部に匹敵し,普遍的であり,同時代に哲学精神 tirpse( )euqihpos ph1i-o を伝え,全世界に新たな光をもたらし一人で法官・文人・法学者 ・政治学者・歴史家・立法家を兼ね,独創性と方法論,学識の深さと天賦の才 の高揚,最も輝かしい想像力と最も啓発された理性,古代詩の甘美さとローマ の雄弁の力強私文体の華麗さと法の荘重さを兼ね持っていた。能は「立法に おけるデカノレト」であった。 こうした全般的な賛辞をまず連ねた上で,モンテスキューの生涯がたどられ る。彼は生まれた時から同郷人モンテーニュの影響を感じ取っていた。 r哲学 と道徳が立法を準備するというのは真実なのであるから, J Iエセー J の著者は 「法の精神」の著者に先行せねばならなかったので、ある。」ノミレールはモンテ スキューが貴族の出であることには特に触れない。「天才は自分自身〈の業績) による名声しかうけいれないものである。 J 02 才で既にモンテスキューはロー マ法の研究を始めた。「こうして既に『法の精神』の材料を準備 L ていたので ある。」しかし法学の研究だけでは彼の活発な魂は満たされず,文学はただの気 晴しにしかならなかった。彼は古代人の宗教についてひそかに考察をしていた 2 B. パレールの「モンテスキュー碩」 のだが,ちょうどその時,父祖の後をついで「元老院 Jtanes すなわち高等法 院の官職につく。法官としての活動で特筆されるのが,増税反対の建言書の提 出,すなわち「民衆の安寧」のため「地方の不幸」の実情を宮廷に示 L たこと である。「モンテスキューが市民法官としての果敢な情熱をもって,宮廷に対 L 公共の惨禍を示すのを,そして彼の演説の力が税の奔流を一時くい止めるの を,人は見た。 J 2) 法の後は自然科学にとり組んだ。純粋に文学だけの協会は不要なぜいたくと 彼には思われたのであり,自然の諾現象と物理学の発展をこそ観察すべきだと 考えた。そして彼の肝入りでボルドーに科学アカデミーが創設されたのだっ 。 た だからといって文学を軽んじた訳ではない。デュプレスュの『シャム人』に ヒントを得てモンテスキューは『ペルシア人の手紙』を作った。これは一見す ると軽い調子だが深みのある作品で,冗談・皮肉と荘重さが交互に現われ,フ ランス人の習俗を皮肉り,その誤りに開始を浴びせるとともに,宗教など重い テーマを扱っている。とりわけトログロディト人の挿話は重要で「まことにス トア学派にふさわしい部分」であり, r諸政体の本性について後日に彼が展開 する偉大で、啓発的な思想の萌芽」がいたるところにみられる。この作品によ り,モンテスキューはアカデミー・フランセーズの会員になる。作品中の記述 の一部が反対者にとりあげられてトヲブノレを生じるが,デストレ元帥の尽力で 入会に至ったのである。モンテスキューの入会憤説はこれまでの惰性的な形式 を破ったものであった。 天才につきもののやむにやまれぬ気持から彼は政治と立法の研究へと向か い,法官職を辞任した。そして旅行に出る。「いたる所で諸人民における物質 的なものと精神的なものがそれぞれ法に及ぼす影響を検査し,諸国民の習俗を 研究し,また各政府がその諸制度によっていかに人聞の諸悪と闘い,和らげた かを学ぶのが,彼の目的である。」彼はいたる所で有名な学者や英雄,芸術家 を訪れ,またとりわけ,人々との交際により観察や研究によるのと同じくらい の知識を得ている人を探した。ヴェネツィアではローと財政や政府公債の問題 32 を論じた。ウィーンではウジェーヌ(オイゲン)公と戦争やそれが国家に及ぼ す影響を論じた。ついでローマに赴く。彼はあらゆる時代のローマ人に賞嘆の 念を抱いていた。この地でモシテスキューほローマ法とミケランジェロ,ラフ ァエロの芸術作品とを交互に鑑賞し,立法の研究を一時中断して「趣味論」を 書いた。「まととの美は単に芸術家だけのものではなく,また天才にとっては 何物も無関係ではない」ことを示したのである。 次いでスイスを訪れる。「彼がこの民をないがしろにするなどということが あるだろうか。この素朴で好戦的で,奴隷となるととも主人になることも望ま ず,初期のローマ人やギリ三ノアの共和国に似た立法を持つ,この民を。モ γテ スキューはスイスを,自由の祖国として,熱狂的にかけめぐった。しかし彼は ドイツは旅しなかった。フりードリヒとヨーゼフはまだ統治していなかったか らである。」 最後に訪れたのがイギリスである。「この有名な島,自閣の政体に当然の誇 りを持っている,このフランスの好敵手は,モンテスキューにとって,かつて のリクルゴスにおけるクレタ島と同じく,最も有益な学校であった。J スは光栄と力の絶頂にあり,ヨーロ y rイギリ バで第一の地位を占める国のーっとなっ ており,モシテスキューの注目にふさわしい光景を呈していた。ここで披は自 由の諸結果一一それらはしばしば放縦の諸結果と混同される←ーや,あまりに しばしば君主制の不都合と結びつく共和制の嵐を観察した。しかしながら彼 は,こうした行き過ぎや混乱の中に,かの三権力の均衡とヨーロ 政治的国制 noitutitsnoc( poi1)euqit y パで唯一の の美しさがあることに感嘆したのだ。そ こにおいて人は何者かであり,人民は影響力を持っているのである。」 イギリスでそンテスキューは法の利点と自由の価値を知った。しかしローマ を見たことが彼をしてローマ史へと向かわしめたのである。『ローマ盛衰論』 により彼は自分が「時代をリードし,人間精神に革命をおこすような,かの非 凡な人々の一人」であることをヨーロ γ パに示したのだった。この本によって フランスで初めて歴史は「王と民衆,哲学者と大臣たちを教導するために天才 に委ねられたもの」になったので、ある。「ローマは,その誠壁の中に自由・労 B. 24 パレールの「モンテスキュー煩」 (動愛を持っている時,強権と法を世界に及ぼした。しかし国を拡大し,遠国で 戦争し,アジアの奪修を受けいれた時,自らの強大さそれ自身によって滅びた のである。スラによる政敵追放はローマの性格を歪め, 奴隷化を準備した。」 このようにローマの政治をたどったそンテスキューは,彼自身がローマの征服 精神にとりつかれたかのようであった。すなわち対象をローマー固から世界全 体へと拡大したので、ある。彼は「政体と諸法との原理を明らかにすることによ r人類愛が彼にさし示す,かの不滅の作品J にとりくんだのだった。すべての知識は既に完成に導かれており, r世界の立 って人々を徳と幸福へ導く」べく, 法」の分野が「法の精神,)1 の著者に残されていたので、ある。 モンテテスキューはすべての人々・すべての国々の歴史を観察し,種々の立 法を視野のうちにおいた。自然法が人類の最初の提であって,これは自然が人 の心に刻みつけたものである。やがて諸国が形成され,拡大し,利害によって 分かれ,必要に従って合同する。諸国民に共通の法が「万民法」を構成するの である。力と必要から奴隷制が生まれ,人々の野心と不正から市民法が必要と なる。こうしてモーゼを初め,エジプト・ギリシア・アジアの諸立法家の業績 が生じるのである。その中ではソロンが「よりおだやかでより哲学者であり, 立法によってギリシアの幸福を生み出す」と評価される。「モンテスキューの 偉大で感受性に富む魂は他の誰よりもソロンを好む」のである。 ついでローマが出現する。「あらゆる世代の尊敬と賞賛の的であるローマ, r 滅びて屯なお,その法の賢明さによって諸国民を治めるローマ J 人 類 の 災 厄 であるとともに慰めでもあり,世界の宗主でありながら蛮民たちの奴隷になっ 21r たローマ」は 世紀に及ぶ栄光と立法の歴史J r自由の日々や奴隷化のもと でその政体にこうむった種々の転換」をモンテスキューに示した。ローマ史の うちにそンテスキューは「あらゆる権力の悪と善行,あらゆる政体の性格と原 理」を見, r共和国の行き過ぎ, 君主制の混苦L 専告J I の盲目性」を考察する。 そこに彼は「三権に関するかの崇高な思想」の璃芽を見出し, w法 の 精 神 』 の 執筆へと進んでいく。 しかし「世界の立法」という巨大な構築物はどのようにしたらうちたてられ 52 るだろうか。自然権および諸国民の歴史のうちに「人民の諸権利,主権者の義 務,両者をつなぐ関係の諸原則J を汲み取る勇気を誰が持っているだろうか。 少くとも古代の立法家たちは単一の人民・単一の共和国についてしか立法を行 わなかった。また近代の法学者たちもーーバレールにことでヨーロッパ諸国お よびフランスの法学者を合計02 名挙げ,その一人一人に簡単なコメントを加え ている一一形而上学の方へ片寄っており,人聞を抽象的にしか見ょうとせず, 諸人民の関係のとらえ方も限定されていた。モンテスキューは,その思想、にお いて,これらの文筆家や法学者よりも秀れている。彼は大哲学者・手慣れた歴 史家・学識深い政治学者として, I法J 全体のあらゆる部分を一望のもとにお さめ,考察するのである。 彼は地上のすべての政体を「偉大なる立法者 d narg JruetalsigeL すなわち 神から動因を受けとった単一の大きな機構とみなしている。すなわち最初は単 純で均一な運動をしていたので、あるが,やがて迷信・専制・模倣の精神・自由 の過剰のために分裂した。この分裂から何世紀にも及ぶ諸革命が生じ,新たな )noitutitsnoc( 諸原理をもたらしたのである。従って個々の国制 はそれぞれー システムをなしているとともに,それぞれのシステムは共通の中心点を持って いる。故にモンテスキューは各システムを組み合わせたり切離したりしながら それら相互の関係をすべて把握し,またそれらのシステムから生じる結果をす べて探り出そうとするのである。具体的には人々を,その偏見と天賦の才,悪 徳と徳,種々の新知見と誤謬とともに考察し,そこから進んで風土・土地・空 気・宗教・政体が及ぼす影響をとらえる。ついでそれらの諸原理を一般化し, すべての政体・すべての制度を形成する諸法を導くのである。それにもとづい て個々の慣習や法規を検討する。ちょうど深淵や岩塊の中に貴金属を探す勇敢 J I,戦士社会的な国制 な博物学者のように,彼は「民衆的な国制や専命J I的な国信 や商人社会的な国制などの乱雑な集積」のうちに竪固で秀逸な理論・政治論・ 立法観・政体に関する思想をつくり出していくのである。個別の一つの法規を 研究するだけで凡人には全生涯を要するであろう。立法の全体図を描き出すの は,まさに天才にのみ許された仕事である。 26 .B バ νールの「毛ンテスキュー頒」 しかしモンテスキューといえども研究の途上でしばしば迷った。真理宅どつか んだと思ったとたんに見失った。ただ全体を貫く根本原則を発見した時にのみ 初めて,彼は真理を体系化できたのである。その根本原則とはすなわち三権の 分配である。 この基本原理の発見により「すべての地方・すべての国・すべての政体J の 人々を考察の視野の中に入れることができるようになった。モンテスキューは あらゆる法の起源をまず調べ,ついで、様々な地方の自然やそこに住む人々の性 格を検討する。共和制における自由は披乱に富むが,その波乱は共和制の基盤 である徳と不可分のものである。また民衆は自分で、作った法にはよりよく従う が,それは小国にしか適さない,としている。君主制は名誉を動因とし,専制 化するのを思れねばならない。専制は自己自身が敵であり,自己の完成化が唯 一の危険なのである。 ある個所ではモンテスキューは教育に関する法が各政体の原理といかに関連 するかを探究する。まずこ他所では,その原理の相違が各政体の持つ法の量や対 象にどのように反映するかを検討し,君主制では市民法・手続・裁判所の数が 多く,共和国では刑法はより穏和だが審修や風俗に対する規制はよりきびし い , としている。また各国相互の関係をそれぞれの政体の本性と原理に則して 考察し,共和国には相互の同盟を,君主制国家には征服欲の抑制を勧告してい る。さらにそれぞれの国の自然や民衆の天性との関連で政体を考察し,暑くて 肥沃な土地の人聞は専制君主のさし出す鎖をあっさり受け入れるが,不毛で、勤 労を要する国では自由がその補償となる,と述べる。自由が商業に必要なこと を説き,人口増加の真の源として自由・税の緩和・奪修の追放を挙げている。 彼が宗教に関する法について語るのはキリスト教の優位と偉大さを示すためで ある。 最後に彼は封建告 ] 1の遺構を探索して,我々自身の立法と君主制との起源と転 変を示した。彼の筆によって「北の森から出てきたこの政体」はその詳細に到 るまで正確に興味深く措かれ,混沌を照らす光が投げかけられ,フラシク族は 征服者としてガリアに入ったことが示されたのである。 27 以上が『法の精神』の内容である。この書の出現によってフィクシ z ンは消 誠し,たった一人の人閣の熱意と業績がそれに替わったのである。モンテスキ ューは自分では法を作らなし、。しかし法を示唆し,その精神を把握し,法のモ チーフを論じ,法相互の関係を展開する。彼はあらゆる政治体の不都合を明る みに出し,各政治体の発展の期間と没落の時を示す。人々には自由の用い方 を,諸人民には服従の義務を,国王たちには権力の限界を教示し,また賢者に 対し,法について考え,法を各国民の天性・風土・宗教. ~主体に適応させるべ きことを教える。彼は単なる立法家以上の存在である。なぜなら立法者そのも のを養成するのだから。被は「各国の調和J 左「人類の神聖な権利」を見守る 「神のごとき後見人J なのである。 『法の精神』の出版によって,奴隷は目ざめて自由の名を聞き,理性は進歩 し視野は広がり,立法は比較され,行政官は評価されるようになった。一方で は,すべての政府が自分の法を,すべて国民が自分たちの制度を,すべての主 権者が自分たもの意志を公表するようになり,他方では人々が不可譲の権利を 要求し,詩人民に対して専制を告発するようになった。彼以前には誰も,歴史 と立法をこれほど有益に,これほ J rみごとには用いなかったのである。 しかしここで彼に対するフランスの忘思を告発せねばならない。ヨーロ y パ 全体がそンテテスキューの前に拝暁している時,フラ γ スは被を侮蔑したので あり,モンテスキューは怒りとねたみにさらされたのである。「文芸と哲学と の敵J が妬みから発した批判は 4 点あげられる。美 L さが寸断されているこ と,論旨のつながりが不明瞭なこと,売官官lを賞賛していること,キリスト教 に抵触することである。しかし売官制の擁護は単にロワゾーの説をうけついだ だけであり,しかもモンテスキューはロワゾーを多少緩和している。また彼は 政治学者として,宗教が各人民の天性や状況に適合的か否かを検討している。 設はキリスト教と祖国との利害を力強く擁護し,人類の名誉ある大義を絶えず 支持しているのである。彼は一方の手で専制と迷信を撃ち,他の手で徳と自由 の祭壇を建てたのだった。 r だから「彼はすべてを一つの体系に押し込めようとした J 披は推論すべき 82 B. パレールの「モンテスキュー煩」 ところで想像している J i物理的原因に重点を置きすぎている」という批判 L また,思考があいまいとか文体に凝りすぎるとかいう批判も,同様に無意味で ある。モンテスキューは天才らしく,途中の細かし、媒介項を跳びこえながら書 いているのであって,それについて行けない弱い精神のみがその媒介項をとら えそこね,そンテスキューを批判するのである。モンテスキューは読者に努力 を強い,考えることを求めるのである。 イギリスがモンテスキューをニュートン・ロック・アディソンと並べて賞賛 している時,フランスでは彼の原理を無神論i 彼の寛容を無宗教,彼の自由へ の愛を権カに対する反逆,彼の広い視野を夢想,彼の人文学をロマネスク哲学 とみなしていた。狂信に由来する批判もあいついだ。モシテスキューは自ら筆 をとって『法の精神の擁護/j を書くことを余儀なくされたのである。 こうした著作をつくる一方で,彼は『グニードの神蹴』も著した。これは「芸 術および韻文の完成における傑作」であり, i魅惑的な文体,繊細な趣味,古 体詩風の簡潔さ」が到るところにあふれでいる。ただし筆者(=バレール〉は 『グニードの神肱.1/の中にも常に『法と精神』の著者の節度と気遣いをみてい るのである。 こうした筆のすさびの合聞にモンテスキューはなおも深遠な著作を考えてい tltll た。ルイ 史論である。この国主は「君主政を血塗られたものにしてその諸 原理を消し去り,人民に自由を与えることによって国民にくびきをはめ,貴族 を棋ぼすこ主によって封建制を破湊し,合法的権力を行使しながら盗意的権力 に到達した。」毛 γ テスキューはこの君主を描くことによって,専制に対する 警告を行おうとしたのである。も L この草稿が残っていたのなら,モンテスキ ューはタキトゥスにまざるともおとらないことが明らかになっていただろう。 『ユ}クラテスとスラの対話』を読めぽモンテスキューが「大人物を描き,か つ専制!君主の魂の深みに哲学の光をもたらす稀な才能」を持っていたことがよ くわかるのである。 「触れるものすべてに啓蒙のきらめきを投げかけ,後世代にも同世代にも等 しく影響を及ぼすのは天才の特性である。」既にモソテスキューがまいた種の 92 芽は出始めている。彼以前に統治の学はほとんどなく,法律学は裁判所内部に 閉じ込められていた。彼が書くことにより,この「社会の幸福に最も必要な 学」はその本来の美しさと壮厳さをとりもどしたのである。「法の精神』が出版 されるや法律研究の聖域は開放され,公衆の注意が法に向けられるようになっ た。今や哲学者は自分たちの仕事を哲学の光で照らそうとしている。モンテス キューのおかげですべての学問が立法のために結集され,歴史学・政治学・哲 学・雄弁衡が法の進歩に役立てられるようになったのである。レイナノレやロバ ートソンの歴史学, ドロルムやスミスの政治学にみられる批判と考察の精神は そンテスキューから受けつがれたものであり,彼以降この精神が歴史学と政治 学のものとなり,政治家や哲学者の学校となったので、ある。刑法と刑罰の改革 を求める要求も『法の精神』に刺激されたものであった。『法の精神』の光は 現在,とりわけ王監を照らしている。〈バレールはここでプロシアのフリード リヒ,ロシアのエカテローナの例を始め,ヨーロッパ各国の種々の改革を挙 げている。〉さらには現在, r主権者たち,人間の友たち,大臣たち」は行政 をおおいかくすベールを取り払うことによって公共善をめざしており,大物 )sdnarg( は人の役に立つことを望み,司法官たちは自分の見識により法律の 不都合をE そうとしている。これらもまたぞ γテスキューのもたらした成果で ある。『法の精神』は各国語に訳され,世界の「啓蒙の光と幸福との総量」を 増加しているのである。 モシテスキューはその著作において偉大であった。しかし自らその高みから 降りて同時代人と交わり,自らの模範によって習俗に影響を与える時,彼は一 層樟大なのである。首都においては彼は大物たちと交際し,署名だが貧しい文 人たちへの厚意を求めた。自領にあっては臣下たちの父として,彼らの不和を 終わらせることに努めた。最近,彼の善行を顕わす芝居が上演された。 晩年は果報と名誉の時であったが,モンテスキューはそれを長〈享受するこ とはなかった。過重な仕事と恐しい迫害により健康を損ったのである。ノレイ51 世までもがモンテスキューの状態を気づかった。彼は君主への感謝と最高存在 に対する宗教的な敬意を表明して死没した。モンテスキューが持つもののうち パレールの「モンテスキュー煩」 B. 30 死とともに滅びるもの位墓の中にはいった。しか L 自由・徳・法および人間性 にささげられた精神)eineg( は我々の中になお生きている。彼に対する賞賛 を表わす点で,フランスはイギリスやプロシアに遅れをとった。だがモンテス キューに彫像や碑文は必要ない。彼に対する頚辞ーはすべての人の心の中にある のだ。今や若い国王のもとに国民は集結している。モンテスキューがいたら多 くの教示を与えてくれたことだろう。しかし彼の精神はフランスの諮問会議 liesnoc( ed al )ecnarF を支配している。フラシス人の愛国心を動かしている 目下の変革はモンテスキューの影響によるのである。 .5 78f 年 版 」 の 分 析 78f 年版」モンテスキュ一環を審査したボルドー・アカデミー会員デュ シェーヌが7871 年 8 月61 日にアカデミーに提出した報告 )1 が 幸 い に 残 っ て い この る。その賢頭でデュシェーヌは「この論文はこれまでアカデミーに提出された ものの中で明らかに最も良いものである J とL.,また結論では文体に力がある こと,哲学的な精神がみてとれること,雄弁術にかなり通じていることをほめ た上で, f我々はこの作品がアカデミーで朗読されるにふさわしいと信じる。 oitnem( この頭辞は高い評価 n )elbaronoh に値すると思われる。」と結んで いる。 しか L ながら同時に批判も加えているのであって,その第ーは「歴史的事実 に対する赦しがたい粗雑さ」である。確かにヨーロッパ旅行中, ドイツに足を 踏み入れなかったというのは明らかに事実に反するし,モンテスキューがボル ドー・アカデミーを作ったというのも誇張が過ぎよう。彼はアカデミー開設直 後に入会しただけで、ある。また4271 するのが0571 年に出版された『グニードの神股』に言及 年出版の『法の精神の擁護』に言及した後で,あたかも両者が同 時期に構想されたかのように記すのも適切とは言えまい。デュシェーヌによる cr モンテスキューの〉作品を分析するのに人物そのものをな川 批判の第二は がしろにしている」点である。この点はさらに後段で, u"法の精神』の成立に 13 は「哲学者の精神J とともに「市民の精神」が必要で、あったのに,著者(=パ レール〉がモンテスキューの慎み深さ・純朴さ・愛想の良さ・社交的な魅力・ 同胞の幸福を望む性質などを無視しているのは赦しがたい,と述べている。批 判の第三位向ヒ考え・同じ表現の繰り返しがみられることであり,第四はそ γ テスキューを他の著作家たちと比較する際に後者を不当に低く評価しているこ とである。以上のうち二番目の批判はデュシェーヌ自身のモンテスキュー像, さらには当時の一般的な(少くともアカデミーの贋辞で期待された)モ γテス キュー像と関連しており,それ自体が歴史的なコンテクストの中において検討 されるべきであろう。それ以外の批判は現代の我々の自にも妥当と映る。 またダランベールが571 年に『百科全書』第 5 巻の冒頭に発表した「モ γテ 12J の影響も,ここで併せて指摘しておこう。カルカソンヌは1.スキュー碩 .P "7ラのそンテスキュー碩について,その中の多少ともすぐ、れた部分はすべ てダランベールからの借りものだ,という手厳 L い評価を下している九その 当否はここでは問わないが,バレールもまた自作の執筆?とあたってダランベー ルの作品をかなり参考にしたようである。影響は顕辞中に記述された事実に関 するものと,文体・レトリ γ グに関するものとに分けられる。 例えばダランベールが,モンテスキューは02 才の時から市民法の法典の勉強 と故き書きを始め,これが「法の精神』の準備になったと指摘しているのに対 して,バレールもまたモンテスキューが02 才からローマ法の研究により『法の 精神」の準備を始めたとする。そして両者とも,モンテスキューが若年からラ イフワークの準備を始めた点でニュートンになぞられているのである。またこ の法律の研究だけではそ γ テスキューの活発な魂の知識欲は満たされず, r重 要でデリケートな問題」に向っていった,と記す点でも両者は共通している。 ただしバレールの場合には,その問題が古代の宗教であったことを明示してい るが。さらにボルドー高等法院における活動として271 年の建言書提出を重視 する点, wペルシア人の手紙』執筆にデュフレスニの『シャム人』が与えた影 響を指摘する点でもダラシベールとバレールは共通しているのである。 レトリックについてみれば,既に前段落で指摘した「重要でデリケートな間 23 .B 題」という表現を始め . バレールの「モンテスキュー叙」 rペルシア人の手紙』の中のトログロディト人の挿話 を「ストア派にふさわしい」とする点,アカデミー・フランセーズ入会をめぐ るトラブルの際にデストレ元帥に弁護されたそンテスキューをソクラテスにな ぞらえる点,イギリスがそンテスキューにとって「かつてのリクルゴスにおけ るクレタ島J と同じ役割をはたしたとする点, w法の精神』に対する批判者を 「文学と哲学の敵」とする点で一致する。またヨーロッパ旅行の目的やモンテ スキューの死を記述する際,バレールはかなりダ、ランベールの文章を真似して いる。時には誇張を加えるのであって,ヨーロッパ旅行中のドイツについての 記述では,ダランベールが「ドイツにはそれ以上見るべきものはなかった。フ リードリヒはまだ統治していなかったからである J と書いたのを,バレールは 「ドイツは旅行しなかった。フリードリヒとヨーゼフはまだ統治していなかっ たからである」と改めた。さらに,ダランベールが「法の精神』の分析を脚注 にまわした点と文末にモンテスキューと『百科全書』の関わりを述べている点 を除けば,これら 2 篇の頚辞全体の構成はかなり類似していると言えよう。 勿論,バレールはダランベールが示した手本をただなぞった訳ではない。彼 は独自のモンテスキュー論を持っており,それ故にこそデュシェーヌから好意 的な評価を受けたのである。バレールがダランベールに学びながら,なおかつ 自身の視点をうち出している重要な個所として,モンテスキューが『法の精 神J 執筆に到る過程の叙述が指摘できょう。ノミレールは,モンテスキューがす べての政体とその法・慣習を総合的に扱う著述を計画したがその規模の大きさ に自らたじろぎ,またなかなか真理をつかめず失望して, [""父の手が肩の上に 落ちるのを感じた」と述べる。そこまではダランベールの記述とほぼ対応す る。しかしそれに続けて,ダランベールがただ「友人の激励を受けて彼(=モ ンテスキュー〉は力をふるいおこし, ~ì法の精神」を完成させた」とだけ記し ているのに対して,パレールはこの頚辞中で最もユニークで興味深い記述を行 っている。すなわち「モ γ テスキューは,デカルトと同じく,彼を導くべき諸 原則をまず措定する。諸政体の三つの基盤を徳・名誉および恐怖の上に確立し た上で,彼がさらに偉大でさらに反駁し難い真理に到達するのが見てとれる。 3 それは立法・司法・執行の三権の分配である。それは政治的爾制にとって,運 動の法則におけるケプラーの法則,物の体系におけるユュ一トンの重力に等し いものである。もしモンテスキューに拠らなかったならばローマの元老院かイ ギリス議会こそが生みの親たるにふさわしい,この豊かで啓発的な理念を用い ることにより,彼は諸圃民とその法規とを思いのままに規定する。どのような 一般的な法伎のや個別の法〈則〉によって権力は確立・進展・分配・保持・破壊 されるのか,どのような原則によって立法は堕落したり改善されたりするのか を,彼は知ったのである。そしてこれこそモンテスキュー以前の誰も探求しな かったことであった。」繰り返すが三政体の本性と原理ではなしに三権の「分 配」が『法の精神』全体の最も根底にある原理で,この発見によりモンテスキ ューはすべての政体・すべての法の配置や関連を把握できたのだ,とバレーノレ は言うのである。この記述は決して唐突に現われるのではない。『ベルシア人 の手紙』を論じている個所では, トログロディト人の挿話に関連して, r諸政 体の性質に関連して後日に展開される偉大で啓発的な思想の萌芽」がみられる とし,ヨーロ γ パ旅行中のヴェネツィアでは「この,共和制とは名のみの,恐 るべき貴族制」を観察して「民衆に幸福をもたらすことを行政官に教える崇高 な思想」をモンテスキューがたどった,としている。この 2 個所は単なる伏線 にとどまっていて,その「思想」が何なのかは明らかでない。しかし同じヨー ロッパ旅行中のイギリスに関しては,イギリス政治の実態を観察して rしか しながら彼は種々の行きすぎと混乱の中にかの三権の均衡があり,政治国制が ヨーロッパでユニークな美しさ……を持つことに感嘆している」と述べている し,帰国後に執筆した『ローマ盛衰論』では擬人イじされたローマがそンテスキ ューに向って,ローマ史の中に「共和制の行き過ぎ,君主命Uの混乱・専制の常 軌を逸した錯乱を考察せよ。汝はそこに三撞に関するかの崇高な思想の萌芽を 見出すであろう。されば『法の精神」を記せJ (下線は原文〉と語りかけたこと にしている。「崇高な思想J の「萌芽」という用語の一致にも注目すべきだろ う。ついでに記せば「崇高な b us i1 meJ とL 、う形容詞はこの碩辞の中で上記の 2 個所以外には『法の精神』そのものを形容するのに 1 回使われているにすぎ 34 .B バレールの「モンテスキュー頒」 ない。「崇高」なのは『法の精神』であり,中でもとりわけ三権分配の思想と いうことである。パレールによればモンテスキューの思想的営為とは wベル シア人の手紙』以来,ケプラーの法則・ニュートンの原理にも比すべきこの 「三権の原理」の発見に向けての歩みであった。そしてこの原理が発見された 時に問題解決の扉は聞かれ,すべての政体のあらゆる法や慣習が理解可能なも のとなったのだった。 それでは政体論の方はどのように位置づけられるのだろうか。モンテスキュ ーが政体の分類を,伝統的な民主制・貴族制・君主制の三分類ではなしに共和 制・君主制・専制としたこと,およびその意味について,バレールは全く触れ ていない。またそれぞれの原理が徳・名誉・恐怖であることには触れるが,モ ンテスキューがそうした「原理」を措定したことの意味についても論じてはい ない。つまりバレールはモシテスキ品ーの政体論を重視していないのである。 個々の政体についてみていこう。共和制についてパレールはどのように考え るだろうか。毛ンテスキ ι ーの旅行に関連して,スイスが「自由の祖国」とし て賞賛されているが,その法律は「初期のローマ人やギリシアの共和国に似 る。」すなわち「自由の祖国」とは古代の共和制を範とするものである。 L かし 古代の共和制が百パー七ント肯定される訳ではない。既に記したようにローマ 史のうちには「共和制の行き過ぎ」が考察されねばならないし r共和制の基 盤をなす徳J は「嵐のような自由」と不可分である,とも述べられている。ま た,いずれにせよ,共和制は小国にしか適さないのである。近代の共和制につ いてみれば,ヴ z ネツィアは「共和制とは名のみの恐るべき貴族制」である i とされる。言うまでもなく,権力による監視が強くて民衆に自由がないからで あろう。またイギリスの政体については「共和制の嵐があまりにもひんばんに 君主制の不都合と結びついている」と評されている。 それでは君主制はどうだろうか。実はパレールはこの頭辞中で君主制につい てはほとんど触れていない。ローマ史のうちに他の政体と並べて「君主制の混 乱」についても考察せねばならない,とした他は,モンテスキューが「フリー ドリヒとヨーゼフはまだ統治していなかった」が故にドイツを旅行しなかった 35 と述べた個所があるにとどまる。結論部分では何人かの啓蒙専制君主の改卒を モンテスキューの影響によるものとして賞賛しており,この点は示唆的であ る。しかし,君主制のもとでなければこうした改革が不可能だとしている訳で はないのだから,直接に政徐論とは結びつかないであろう。 最後に専制であるが,マホメットに対する「迷信的な見解,バカげた教義」 という評価,ローマ史に「専制の常軌を逸した錯乱」を見るべきであるという 記述,さらにはそンテスキューがルイ11 世史論を構想したのは「専制の恐 L さ を示すためで、ある」という見解などから,専制が否定的な評価しか受けていな いことは明らかであろう。専制は他の 2 政体と同列に並置される価値中立的な 存在なのでほなぐ,それら「糟和政体j が堕落・腐敗した形態左して位置づけ られる存在なのである。故に「君主制は専制に転化することを恐れねばならな い。」 以上から明らかなのは,バレールにとって理想的な政体は存在しない,杏, 「理想的」といわないまでも特に他より秀れた政体も想定できない,というこ とであろう。専制は論外であるし,共和制にも君主制にも「行き過ぎ」や仁混 乱」は指摘されるので、ある。 類似のことは「自由」についてもいえる。 78f 年版」の中で自由(1 trebi の という語は51 回周いられている。そして既述のようにスイスを「自由の祖国」 と呼んだり,モンテ λ キューがイギリスで「賢明な自由の価値」を学んだと述 ベたりするように,自由を一般的には肯定的に扱っていると言ってよい。だか ら,いわば自由の反対語である専制については「それは自己自身以外に敵を持 たず,自己の完成以外に危険はない」とされるのである。しかしながら,その 自由といえども無条件に容認されるものではない。イギリスの自由は奔放 i1( )ecn と混同されることが指摘される L ,共和制における自由ば「嵐」 とも形容される。またルイ 11 世は「民衆に自由を与えることによって国民にく びきをはめ J 専制的権力を持つに到ったとも述べられている。 78r 年版」の中 すバレールによって否定的な意味を示すのに用いられている単語をみよう(表 (的参照〉。一番多く用いられているのはそンテスキューとその著作に対する批 63 B. バレールの「モシテスキュー煩」 表 )5( 語 7 elVne emsitopsed suba ecitsujni exul cxe 色s emsitanf einmolac usitsrep tnemlguva noit 5 4 4 4 3 3 2 2 と並んで「混乱 abusJ euqltnc egavalcse tirpse tirpse euqitanf 1 使用度数 l 1 1 1 1 1 1 1 1 noitatimi'd euqitametsy ecnaron91 etsujm sap lO n rp 品 eguj 1 判者に向けられた「妬み envieJ tismeJ 諸 |使用度数 J であるが,話を政治論に限れば「専制Udespo' r , 行き過ぎ excesJ が自につく。これらの語が 用いられているコンテクストおよび論旨からみても,バレールは政治における 「混乱」と「行き過ぎ」に対する警戒が強いことがうかがわれるのである。例 えば「なんと力強く汝(=モンテスキュー〉は…君主制を滅ぼす多くの混乱を 我々に示したことだろう J と記している。それ故三権の「分配」によって権力 r の相互監視が行われることが求められるのである。「混乱J 行き過ぎ」の語は どちらも 1 回ずつ「均衡句iu1i breJ の反対語として用いられている。だが, 「行き過ぎ」は権力についてだけ言われるのではない。この語は 3 回用いられ ているが,そのうちの 1 回は「自由の行き過ぎ」であり,またもう 1 回は「共 和国の行き過ぎ」なのである。 以上から明らかなように781 年においてパレールは,めざすべき政体もしく は信頼すべき政治勢力を明示することができなかった。古代の共和国とその自 由に対するあこがれはあったかもしれない。しかしそれは81 世紀の現実の政治 の中にそのまま移すことができるものではなかった。彼は支配層の権力に対す ると同様,民衆の自由に対しでも,その行き過ぎ・混乱を警戒せざるを得なか った。故に政治論において彼は, ,¥ 、かなる政体においても存在すべきものとし ての三権の「分配」を最も重視する。それによってあらゆる「行き過ぎ」をお 37 さえ,均衡を維持することが望まれるのである。それら三権は具体的に誰によ って担われるのか,その結果どのような政体が成立するのか,バレールは全く 答えていない。 78 年版における三権分配の重視と賞揚は具体的な政体のうちに 理想、を見出し得ないことの反映だったので、ある。 .6 8f 年版」と 98f 年版」 それでは l 年後の88 年版ではどうだろうか。これは,既述の通り,前年の 「モンテスキュー頭」とはかなり異なる作品であるが,それでも全体の 3 分の 2 は共通した内容なのであるから,もはや詳しい紹介は避ける。 78f 年脹」と 比較して特徴的な点を指摘していくにとどめたい。細かい点、での相違(例えば 「世の精神J を「崇高な著作」から「不械の著作」と呼びかえるような〉は数 多いが,いちいち指摘することは避ける。また『グニードの神殿』に対する言 及を『ペルシア人の手紙』の直後に移したり. f ドイツは旅行しなかった」と いう一文を訂正したりしていることも,特に細かく触れる必要はないであろ う。本節では,前節を受けて,特に政体論を中心に 8f 年 版 」 を み て い き た 。 、 L まず 78f 年版」にはなかった重要な特徴として. 8f 年版」におけるバレー ルのモンテスキュー批判が指摘できる。頚辞で使用された語でみると. 8f 年 版」に初めて現れる語として「誤り Jruere が 9 回用いられているが,その うち 7 回はそンテスキューの「誤り」を指摘するものである。同様に「矛盾 con Jnoitcidart も 2 回,いずれも『法の精神」に関連して用いられている。 それではパレールはモンテスキューのどとが「誤り」であり「矛盾」している というのだろうか。既に第 3 節でテクストの一部は紹介したが,改めて内容の 検討を行おう。 主要な批判点は 5 点に分けられる )1 0 .1 法の概念, .2 君主制における貴族の 位置. .3 聖職者の権力. .4 三政体の原理, .5 風土論,である。順に見ていこ う。まず法の概念である。モンテスキュ}が「すべては法を持つ」とし「この 83 .B パレールの「モ γテスキュー頒」 法とは事物の本性に由来する必然的な関係である」と定義した)2 ことを紹介し た後,バレールはこの定義はあいまいであると述べ,なぜ単なる関係が法の名 をとるのかと問う。そして「原初的理性」との関係で法を扱うならば,法を「理 性を持った存在に対し,それらとの関係に応じて持つべき行動の規範」と定義 せねばならないはずだ,と述べるのである。すなわち法とは事実としての法則 ではなく理念としての規範だとするのである。批判の第 2 点は貴族の問題であ る。パレールは君主制においては付属的で‘従属的な中間的権力ないし中間的地 位,基本法を受託さわし,その執行を監視する団体が必要だ,とモンテスキュー に依拠して述べた上で,この中間的権力もしくは団体は実は国民全体(三部 会〉であるべきだ,と指摘する。その上でそンテスキューが述べた「貴族は君 主制の本質である」という命題 3) は誤りだとするのである。「貴族はドイツのよ うな封建政体の本質であり,ヴェネツィアのような貴族制の本質である。しか し君主国はそのような基本法は持たない。」ここで君主制が「ドイツのような 封建民体」と区別されていることにもついて、に注意を払っておこう。第 3 は聖 職者である。モンテスキ品ーは,聖職者の権力は君主制とは両立するが共和制 においては危険である,としたヘバレールはこれに反論して, 権力が世俗権ecnasiup( rもし聖職者の vic 1i)e から独立していたら,それは危険であり, b らゆる国家の善に反する。逆にそれが特権を伴わず,政治的平等を傷つけな いのならば,共和政体においても有益である」と述べている。批判の第 4 は三 政体の原理である。バレールはモンテスキューによる三政体の分類とそれぞれ の本性についての議論は受けいれる。しかしそれぞれの原理についての議論を バレールは誤りだとするのである。「彼(=モシテスキュー)は,ある種の国 民については恐怖が法を尊重すべきものとすることを望み,他のいくつかの国 民については名誉がそうすることを望んで、いる。また彼は徳へ‘の愛は少数の国 民しか法を尊重させないと考えている。あたかもすべての政体に名誉と徳がめ る訳ではないかのように。また君主制においては徳は無益か場違いで、で、もある かのように。」また別の個所では「彼(=モシテスキュー〉はこれ(=三政体の 原理〉を世界の政治機構に内在するもののように示しているが,実際には彼が 93 諸国の法や歴史を絶えず無理やりにはめ込んでいく一つのシステムにすぎな い」とも述べている。批判の最後は風土論である。暑くて食糧が豊かな地方で は人々は柔弱になって専制に陥り,やせた土地で、勤勉が要求される地方は民主 々義の舞台となる。こうした考えをバレールは「専制君主が自らの行き過ぎを 正当化するために喜んで採用するであろう恐るべき公理」と呼ぶ。彼も風土が 「軽い影響力」を持つことは否定しない。しかし一国の変転の原因となるのは 自然的な風土よりもむ L ろ人々の習俗なのであり,また「道徳的な善悪の理念 は不変であり,すべての国民に共通であって,風土は何の変更もつけ加えな い。それ(=風土〕は宗教の法の前では無である。」 『法の精神」の構成などに関して他にいくつかの批判が加えられているが, 主要なものは以上の 5 点である。そしてこれらの批判から, 78r 年版」から 88r 年版」までの 1 年聞にバレールの思想が決定的に変化したことがうかがわ れるのである。既述のように 78i 年版」ではめざすべき政体については「態度 保留」ないし「判断停止」の状態にあった。しかし上記の批判の第 1 点・第 4 点および第 5 点からは,バレーノレが何か特定の理念ないし特定の政体を目標・ 理想として指定したこと,その目標・理想がいわば唯一絶対のものなのであ り,そうした一種の「絶対主義J の立場からモンテスキューの「相対主義」が 批判されていることがわかる。すなわち,あるべき政体は風土によって異なる という考えが批判され(批判 5 ),それにあわせて「徳」の普遍性が主張され る(批判 4) 。そしてこの目標・理想はまだ実現されていないが故に,現存す る法則ではなしにあるべき規範が重視されるのである(批判1)。また批判の 第 2 点・第 3 点からはノミレーノレが指定した理想的政体の具体的内突がうかがわ れよう。この点をさらに追究してみなければならない。 88r 年版」で新たにつけ加えられた論述のうち,ことで重要なものと L て , フランスの現状を告発した部分および政体の腐敗とその対策についてのモンテ スキューの論述を紹介し賞賛した部分が挙げられる。まず現状告発であるが 5り これはヨーロッパ旅行に出発する際にそ γテスキューが見たフランスの状態と して述べられている。それによれば「ローマ法と封建法の奇妙でゴチ y ク酌な 04 B. パレールの「モンテスキュー頒」 混滑,相矛盾する慣習と法令。その国情J Iは数世紀このかた不安定であり,その 行政もまた同じくらい転変を繰り返している。主政府 tsinm( 色 )er は国民を 従属させるため貴族・聖職者・司法府と次々に戦い,王の大権が他の諸権力の 廃撞の上にそびえている。」すなわちパレールは法制度の不備とそれを利用し た国主の専制化,およびその裏面である「中間権力」の没落を指摘しているの である。こうした批判の枠組みそのものがそンテスキューの作った土俵の上の ものであることは指摘するまでもない。こうした現状認識に対応して,政体,と りわけ君主制の腐敗とその対策が詳しく紹介されるべ「諸団体の特権 orep( )sevitag ・都市の特権livirp( さ) seg 幽 が少しずつ取除かれる時,君主がすべてを 直接に自分自身で統治しようと望む時,彼が事物の秩序を変更する時,彼が自 分の尊厳や状態および民衆の愛を無視する時,君主制は腐敗する。第一等の栄 誉が第一等の屈従のしるしである時,さらには人が汚辱と名誉に同時に包まれ ることが可能な時,極端に卑劣な魂が自分はすべてを君主に負っていると考え る場合にそれが祖国には何も負っていないと考えることを意味する時,さらに は君主の正義が峻厳さとなり,その権力が場し,その確実性が減少していく時, 君主制の原理は腐敗する。」ノミレールは E主体の腐敗に関するモソテスキューの 論述を高く評価し, r彼の著作のこの章のみで彼を不滅とするに足りる」 で言っている。さらに続けて以下のように述べる。 とま r~共和国が腐敗した時に は,その腐敗を除き,諸原則をとりもどすことによってしか諸悪を癒すことは できない。他のすべての施策は不要であるか,さもなければ新たな悪となる』 この原則は疑いもなく最も偉大な真理である。しかしなぜ、モンテスキューはそ れを君主制より腐敗しにくい共和制についてしか適用しなかったのだろうか。 君主が官職と寵愛の唯一の分配者であって,各人の個人的利害故に君主は取り 巻きをつくることができ,またその権力故に妨害に会うことはない。その結 果,君主は法を逃れたり,くつがえしたり,その原則を腐敗させたりできる。 こうしたことはこの政体(=君主制)で生じることなのである。この種の政体 においてこそ,君主制の基本法をなす諸原理と法の受託団体とをとりもどすこ とによってしか首長は腐敗を除き得ないのであって,この受託団体は君主自身 14 に工って尊重きれねばならず,また君主の意志が一般善に反する場合にはそれ に反対できるのでなければならない。そうだ。君主が自分自身の欲求を止める ための確実な防遮を作るのは,疑いもなく,君主にとっての利益なのだ。彼 は,自分が何によってもつなぎ止められていないと感じた時には,自ら恐れる べきなのだ。腐敗があまりにも進んだ時には,彼はすみやかに自分自身め権力 からの救助を求め,あらゆる階層から国民自身によって任命された代表者を通 じて国民自身を召集し,この法の受託団体,御用金と立法の基本目標との主管 者を再建せねばならない。要するに君主制の唯一の保持者たる人民を集合させ るべきなのだ。これこそが, If'法の精神』の不滅の著者が『原理をとりもどす』 と言ったことの内容である。 J いささか引用が長くなったが,既に引用した「基 本法の受託団体は国民全体=三部会であり,貴族は君主制の本質ではない J と いう命題をこれにつけ加えれば,バレールの基本構想が明らかになる。フラン スは国王の専制化によって君主制本来のあり方から逸脱し,腐敗している。従 って君主制の「原理」をとりもどきねばならないのだが,それは単なる「立憲 君主制」という言葉では収まり切らない,いわば「民主々義的君主制」とでも 名づけるべき一種の混合政体である。ちなみにパレール自身がイギリスに関し て「ヨーロッバでも唯一の君主制的かつ民主制的な国制jの美しさ J (傍点筆者〉 と述べており,これはドイツの「封建政体 J とは区別されるのである。 彼はこの政体をさらに詳しく説明している。ここでも中心になるのは三権の 分配である。「政治的自由を構成する法を国制との関係で検討して,三種の権力 に闘するかの崇高な思想を発見したのは,この偉人(=モンテスキュー〉にふさ わしいことであった。この三権の均衡と分配が政体の完成には必要なのである。 …人民全体に立法権が付与されている政体に,繁栄と力は約束されているので ある。またその政体におい τは君主が執行権の受託者であって,立法府を語集 し,会期および各議会の決議案を決定する。それは侵害と混乱を抑えるためであ る。またその政体においては裁判権は前二者のどちらにも統合されない…。j1 l ここで「自由」という語が出てきた。 78r 年版」で 51 回用いられていたこの 語は 8r 年版」では82 固と,使用度数が 2 倍近くふえている。勿論,こうした 42 B. バνールの「モンテスキュー煩」 数字は一つの参考に過ぎないのだが る。既に見たように 78r 1 年の聞で明らかに変化したことがあ 年版」においては,三権の分配によって抑制すべき 「行き過ぎ」の中には民衆の過度の自由も含まれていた。 8r 年版」でも 78r 年版」と共通する表現は多少残っているものの,自由の肯定的な側面がより強 調される。例えば「自然の最も神聖な権利である自由」町という表現すら用い られているのである。そして三権分配も上に見たように,そうした自由を実現 するため,とポジティヴに位置づけられている。三権分配が基本的に「混乱」 「行き過ぎ」を抑制するものであることには変わりはないのに,なぜ自由の位 置づけの方は変わっているのだろうか。それは貴族の位置づけが変わったから である。 78r 年版J においては国王・貴族・平民のさ者,とりわけ後のニ者の 位置関係が明確ではなかった。故にあるべき政体像を打ち出せなかったし,ま たバレール自身が時に平民の自由に対する貴族的な猫疑心を示すことにもなっ た 。 8r 年版」においてバレールは貴族と訣別し, r貴族は君主制の本質ではな い」と宣言してモンテスキューを批判することにより,自らの改革構想を提示 し得たのである。それにより「国民全体」の自由や権利も明確にかつ肯定的に 位置づけられ,三権の担い手も明示されるようになったのだった。 繰り返すが,上記のような政体こそバレールにとって実現をめざすべき唯一 の政体であった。めざすべきものは唯一絶対であったが故に,モンテスキュー の風土論的相対論は批判されねばならなかったのである。 98r 年版」ほ 8r 年版」に加筆修正を加えたものである。 56 頁の手稿のうち 冒頭の 5 頁強と末尾の 2 頁半ほどがほぼ全面的に書き改められた他は,ほとん どが 8r 年版」と重複しており,特に政体論・三権分配論に関わる部分は完全 に 8r 年版」と一致している。すなわち 8r 年版」中にバレールが示した構想 は少くとも基本的には不変のまま,彼は三部会=立憲議会の議員として大革命 に参加していったのである。ただし 98r 年版」では君主制と貴族制の区別がよ り明瞭に示される。「フランスは,自国を専制的にしていた貴族制の廃櫨の上 に,君主制を確立する。」町すなわち打倒すべき対象は今や, 78r 年版8i.J 版」のように国王の専縦であるよりもむしろ貴族の専制なのである。 年 34 .7 若干の用語について 以上の点をさらに別な観点から整理しなおしてみよう。「幸福 b onheurJ 「自由trebil むおよび「権利 Jtiord ・ の三つの語がそれぞれの頚辞でどのよ うに用いられているだろうか。 まず「幸福」であるが,これは人類ないしモンテスキュー自身の究極の目標 8r 年版」でみると「幸福」は 5 回 用 例 が あ として位置づけられる。例えば 7 る 。 )1( モンテスキ ι ーはヴ ι ネツィアで諸人民の幸福を産み出すための崇高な 考えをたどった, )2( ソロ γは立法によりギリシアの幸福をめざした, )3( (モシ テスキューの影響により〕公共の幸福をめざす高貴な競争が君主たちを駈りた てている, μ ) モンテスキューは地上に啓蒙と幸福を増大した, )5( モシテスキュ ーは社会の幸福を準備した。このうち第2 の例は示唆的である。ドラコンの 「血で書かれた」法やリクルゴスの「きびしい徳をめざす法」と対比してソロ ンは「より穏和で、より哲学的」であるが故に「幸福」をめぎした, とするので あり,かつモンテスキューの「偉大で感受性に富んだ現」はこれら古代の立法 家の中でソロンを最も好んだ,と述べられている。すなわち「哲学J = r啓 蒙」の目標は「幸福」なのである。この点は,あるいは当然のことのように思 われるかも L れないが,やはり一応注意を払っておくべきだろう。なぜなら, 数年後にサシ=ジュストが言うように「幸福はヨーロッバにおいて新しい観念 である J )1 からであり,対象をボルドー・アカデミーの「モンテスキュー頚j 【 応募作品に限っても「啓蒙」ないし「哲学」の基本的要素をデカルト的「理 性」に求めるものもあって mc 番 , nv 番,XIl番など), [""幸福」や「社会的有益 性」を重視するものと一定の対照をなしているからである。ノミレールは明らか に後者のグループに属するのである。こうした事情は 81 年版」においても基 本的には変わらない。「幸福J の用例は 8 固にふえ, うち 4 回は 781 年版」と ))35()1( 重なる(上記ω 。他の用例においてはそンテスキューが「人類の幸 福J 実現に情熱を燃やしていたこと,またモシテスキューは宗教を死後の至福 .B バレールの「モンテスキュー煩」 4 に至る道と L てではなく「幸福と平穏J をもたらす手段として考えていたこと などを指摘して,ここでいう「幸福」が現世的かつ社会的なものであることを 強調している。勿論これは 781 年版」におけると同じ方向のもある。また 981 年版」も 881 年版」と共通している。 「自由」については既にある程度触れた。さらにつけ加えると, 781 年版」で は51 田見られる「自由」の語はすべて単独で用いられているが, 881 年版」 では82 回の使用例のうち「市民的自由trebil etrebil jeuqitilop j己 elivic が2回 , I政 治 的 自 由 が 2 回見られる。また「市民的自由は裁判の様式と手続きの 上にたてられる j r国制が容認しうる自由の程度… j r政治的自由を形成する法 …」などの表現からうかがわれるように, 781 年版」に較ベ,自由を法律や政治 制度と関連づけてより具体的に論じようとしているのである。この点は 981 年 版」でも同じである。さらに 981 年版」ではそンテスキューを「自由の使徒」 と呼び, m 法の精神 J は自由の感情をゆり動かし, いうように, 自由の支配を確立した」と I 自由」がさらに強調される。この点は次節でさらに触れたい。 881 年版」にだけみられて 781 年版」にも 981 年月引にもない表現として下地 方の自由 etrebil sed jsecnivorp がある。「フランスの国制と地方の自由の痕 跡に対して汝(=モンテスキュー〉はいかばかりの尊敬の念を喚起したことだ ろう」という一文であり,さらに一文おいた後には「設の思想にもとづいて高 等法院)stanes( と地方は自分たちの敵をくい止めた」とある。この点につい ても次節で,各頭辞が書かれた時期の政治的事件との関係で再びとりあげた い 。 781 年版」から 981 年版」までに共通しているものとして,商業の自由の 賞揚がある。各頚辞中に 1 回ずつに過ぎないのではあるが,モンテスキューが 商業に関する法を取りあげた際に商業の自由を国家の繁栄に不可欠なものとし たと指摘し,かっその指摘は正しいとしてそンテスキューを賞賛するのであ る 。 最後に「権利」である。 781 年版」ではtiord の語が「権利」の意味で用い られているのは 3 回しかない。第 1 は「所有権j ,第 2 は「諸人民の諸権利j , 第 3 は「人類の神聖な諸権利」であって,第 1 以外は内容が明確ではない。そ 45 れに較べると 81 年版」では用例が 9 固にふえる。うち 7 81 年版」の第 1 と対 応するものは「不可譲の所有権」と強調されるとともに,相前後して「民衆の 慰撫と所有者の防護」という表現を伴うようになる。まずこ「人間の本性が要求 cr 民主制における〉投票権J r彼 =c する権利を持ちうる程度の法の完成度J 国民〉にその資格と. 2 世紀来無視されていた権利とを返そうとする若い君主 のもとで集合した国民」など,話が具体的になっている。言うまでもなく,最 後の例は三部会を通じて国政に参加する権利である。さらに既に引用した「自 然の最も神聖な権利である自由」という表現もある。 従って前節の結論は用語の検討の商からも註明される。 78r 年版J において も「幸福」という究揮の目標ははっきりしているが, I 自由 J I権利」は抽象的 であって展開されていない。しかし 81 年版」になるとそれらが政治制度と関 連づけられて論じられるようになるのである。言いかえれば,あるべき政体が 具体的に明確になったから「自由 J I権刺」も具体的に論じられるようになっ たので、ある。 .8 現状との対応 バレールはモンテスキューの政体論や三権分配論,玄たそれにまつわる自由 や権利の問題を単なる理論レベルの問題として扱ったのではない。 0871 年代後 半のフランス社会における諸問題を彼なりにとらえ,それと結びつける形でモ ンテスキューを論じている。問題はモンテスキューないし『法の精神』の歴史 的意義としても扱われ,現実社会におけるモンテスキュ}の影響の表われとし ても扱われる。 まず 7 8r 年版」からみていこう。ここではそ γ テスキューの影響はまず第ー に学聞における改革のうちに探られている九すなわち『法の精神』の出現に よって,法の研究が市民の中の一階層のみによって担われるという「野蛮な偏 見」は消滅L..すべての階層が法の完成のために協働することになった。モン テスキューのおかげで哲学者たちは今や法律が自分たちが注意を向けたり考察 46 B. バレールの「モンテスキュー頒」 の対象としたりするのにふさわしいものだと考えるようになっており,また法 学者たちは自らの仕事に哲学を援用するようになっている。すなわち立法の技 術を歴史学・政治学・哲学・雄弁術などあらゆる学問と結びつけ,立法それ自 体を一つの学問としたこと,さらにそこに「批判と考察の精神」を導入したこ と,そうした点にそンテスキ品ーと「法の精神』の第一義的重要性が認められ るのである。現実の法律や諸制度の種々の具体的改革は,この理論面における 改革の帰結である。例えばプロシアでは簡潔で明解な法典が作られ, ロシアで は公教育と裁判所が創設され死刑が廃止された。ドイツでは法と国制から野蛮 さが消え,フランスでは拷聞が廃止されるとともに刑法の改革が日程に上って いる。トスカナの若い君主は法と統治にモンテスキューの教えを生かそうと努 めており,スペイン・ポルトガルも賢明な立法に努めている。全般に諸君主や 諸政府は行政を公開することによって公共善の実現に努めており,指導者層は 自らが有益であることを望んでいる。これらはすべてモンテスキューがもたら した効果なのであり,復の思想は「現世での至福」に関わっているのである。 さらに781 年現在のフランスについてみるとどうであろうか。今やフランス国 民は「アンリ 4 世以来の王座を飲み込もうとしている未詳の深淵をあえて探ろ うとしている若い君主」のもとに集合している。そしてモンテスキューの影響 下に,行政の経済性と公開性がはかられ,賦役と塩税は廃止され,商業の自由 が実現された。さらに討論の際の慎重さ,執行における断固さ,行政官を判断 する際の我々の開明ぶりもそンテスキューに負うものである。 すなわち 78r 年版」においてバレールがモンテスキ品ーの歴史的意義として 示しているのは,第一に法律学の改善であり,第二がその帰結としての社会改 革なのであって,ここにおいて「啓蒙哲学」は直接に社会改革と結びついた実 践性の側面が強調されるとともに,そのような実践性と結びつきうるように知 のあり方を改変した思想家としてモンテスキューが評価されている。またそ ζ で、いう社会改革とは,上に見たように,現体制下で生じた種々の不都合を一つ 一つ個別に改良していくことであって,国制そのものの全面的転換ではなかっ た。言いかえればこの時点におけるバレールの思想において I r啓 蒙 哲 学J の 74 持つ実践性とは個別の問題を改良する技術,とりわけ立法技術なのであって, 社会または国制を包括的に把握する理論ではなかった。しかも改良の担い手と されているのは君主,主として当時のいわゆる啓蒙専制君主だったのである。 これは別にバレールが君主制をよしとしたことを意味するものではない。むし ろ第 5 節で述べたように,パレ}ノレが特定の政体を理想の姿として明示できな かったことと表裏一体の関係にある。彼の思想は現実の姿・枠組みを抜け出し 得なかったのである。 81 年版」においてはそンテスキューの意義として示きれるものも多少変化 する九確かに,哲学者や統治者に意識の変化が生じて立法が彼らの注意に値 すると考えられるようになったこと,公共の関心が行訟の有益な目的に向くよ うになったこと,その結果として死刑・拷問・隷属および賦役の廃止が唱えら れていること,などは指摘されている。しか L 表現はずっと簡素になり,具体 的な事例は何一つ示されていない。なによりもまず,学問の改革という前年度 には最も重視していた意義について何の言及もみられなくなっているのであ る。それに替って前年度よりも強い光があてられるようになるのが現状改革で ある。フランス国民は 21 世紀来無視されていた諸権利と国民の諸資格とを彼 に返そうとしている若い君主」のもとに集合している。そして「討論における との慎重き,フランス人を再生させる革命を執行するにあたってのこの断固 さ」はモンテスキューの著述のおかげである。 781 年版」と似た表現を用いな がら,内容はずっと具体的になっていることが明らかであろう。そしてここで はもはや個々の弊害の改善が問題なのではなくなっている。では「フランス国 民を再生させる革命」とはいかなるものであるうか。 81 年版」全体を通読して気づくのは,第一に高等法院の役割が 781 年版」よ り強調されていることであり,第二に都市と農村・首都と地方が対比的に描か れていることである。例えば「元老院 s昼間Jt の語をとってみよう。この語が 高等法院の換喰として用いられているのは 78f 年版」では 2 回だけなのに対し て 8f 年版」では 6 回である。それ以外に高等法院をさす語と L て は 781 年 版J~とおいては「裁判所 tribunauxJ r正義の神股 elpmt ed alJecitsuj rボ .B 48 バレールの「モンテスキュー煩」 Jレドー高等法院 t nemlrap 版」では「正義の神殿J 体 c ompagnieJ が各 1 回ずつなのに対して, 8r 年 ed BordeauxJ rボルドー高等法院j r法官職 artsigam erut r の他に「パリ高等法院J 同僚団 J も用いられている。単に用語の種類 と煩度だけの問題ではない。 78r 年版」で高等法院が登場するのは単にそンテ スキューが法官となり増税反対の建言書を提出したというエピソードだけであ るが, 8r 年版」では他にニつの挿話が語られている九一つはそンテスキュ ーが 5271 年にボルドー高等法院の開廷にあたって演説し,法官の義務を論じ たこと,他の一つはヴェネツイアでローに会った際,モンテスキューが「なぜ イギリスの大臣がロンドンの議会を買収するように,あなたはパリの高等法院 を買収しようとしなかったのだ。」と問うと,ローが「イギリス人は自分が欲す ることを行うために自由を用いるが,フランス人は自分がなすべきことを行う ために自由を用いる J と答えたことである。後者はダランベールのモンテスキ ュー頚に多少異なる言葉で語られているが, 78r 年版」では触れられていない。 そしてバレールは上のローの言葉に対して「今こそこの崇高な言葉のカと真理 を感じとらねばならない」とコメントしているのである。 都市と農村については 2 個所に言及があるべ一つは『ベルシア人の手紙』 と「グニードの神障」に関連して「都市においては彼(=モンテスキュー)は 人々と法律とを観察し,田園においては自然とその甘美さに耽溺していた」と 述べた値所であり,他の一つはヨーロ y パ旅行への出発を記述するに際して 「祖国の諸悪をよりよく発見するのは外国においてである。・・・ちょうど田園の 貧困を見て都市の脊修を嫌悪することを学び,地方において首都の人々が常に 腐敗していることを知るように」と述べた個所で、ある。またそンテスキューが 増税反対の建言書を提出した際に「地方の不幸」を描いて「至高の権力」に示 した,と L 、う記述もある。このような都市と農村・首都と地方の対比は 7 8f 年 版」には全く見られなかったものである。第 6 節で紹介した,貴族の臣従化に 対するバレールの激しい批判をここにつけ加えることもできるだろう。そして このような「地方」の立場からみた「首都」批判の背景にバレールの出身地ピ ゴールの地方三部会のある程度の独立性, ピレネーの住民の聞に語り伝えられ 49 たフロンド反乱の思い出など,地方自治ないし地方割拠の伝統にバレールが根 ざし,かつ誇りに思っていることを見てとることもできるのである九 碩苦宇中に散見する上のような記述をふまえた上で,もう一度 88f 年版」の結 語の部分 6) を読みなおしてみよう。 f2 世紀来無視されていた諸権利と国民の 諸資格とを彼に返そうとしている若い君主のもとに集合した国民の偉観を前に して,汝(=モシテスキュー)の深い思想は(もし生きていたならば〉祖国の 善のためにいかばかり展開されたことだろう。どんなに力強し設は行き過ぎ の原因・没落の諸原因・箸修の恐るべき結果・君主制を崩壊させる多くの混乱 , 2:.+れほどの光を を指摘したことだろう。政体の原理の明らかな腐敗に対 L て もって照らし出したことだろう。諸特権と諸協定,フランスの国制と地方の自 由の貴重な痕跡に対して,汝は我々にいかばかりの尊敬の念を喚起したことだ ろう。汝はもはやいない。しかし、汝の精神はフランスの諮問会議を導いてい る。汝の思想にもとづいて高等法院)stanes( と地方はその敵をくい止めたので ある。」これは高等法院を中心とする「貴族の革命」の路線に乗り,かつブルボ ン王朝下での絶対制強化が進む以前の穏和で貴族の力が強い君主制への復帰 ι 地方の自由および特権の回復とをめざす復古的な思想を表しているかに見 える。だが同じバレールは本文中で、は君主制における貴族の役割を否定してい た。単純な復古思想とは解釈できない。確かにバレールは土に見たように,フ ランスの現況を記す際には高等法院を重視しているが,彼の改革構想において は高等法院は何の位置も占めていないのである。君主制の本質をなす「基本法 の受託団体」はさ部会であって高等法院ではなく,また司法機関は君主でも三 部会でもないとしただけで、いわばペンディングになっているが,これまた高等 法院とはされていない。つまりバレールは現実を論じて自らを権力から疎外さ れた「被支配者」の位置においている聞は,高等法院を絶対君主の洛意的な課 税から自分たちを守る老として一定の役割を認めるのだが,未来を論じて自ら を権力に参加する政治的主体の位置におく時には高等法院を排除するのであ る。この点は注目しておく必要がある。例えば G.I レフ z ーヴルの1r 98 年jj に おいては「フツレジョワジーの革命」は8871 年 9 月までは「貴族の革命」と連動 05 B. パレールの「モソテスキュー煩J ないし一体化しており, 9 月にパリ高等法院が翌年召集される三部会の様式を 416 年のそれと同じと主張した時に両者は分裂したとされている九我々は一 般論と L てのこの図式に異を唱えるつもりは全くない。ただバレールにおいて は 9 月以前から既に高等法院と貴族は構想の中では乗りこえられていたととを 指摘しておきたいのである。 問題はこの乗りこえがいつ頃生じたかで‘ある。勿論, 81 年版」の記述から その点は何もわからな L 、。ただ,パレールは871 年春に私用でパリに出て約 1 年首都に留まり,その閣の見聞や自分の考えを「アンシアン=レジーム下のパ リの最後の日 J 8) という題の日記〈以下「日記」と呼ぶ〉に記している。これ は彼の『メモワーノレ』を出版した. H カルノーとダヴィド・ダンジェが故粋し て『メモワール』第 1 巻々末に付けているもので,バレール自身と編者の双方 によって後から手を加えられている可能性があり,この記述を信用しすぎると ゲルショイの轍をふむことになろう。その点に留意した上でこの「日記」を見 ると 871 年 5 月 9 日には,おりからの高等法院改革の動きに触れて「この尊敬 すべき団体が国民を盗意的な重税から守ろうとしている時に何故,既成の司法 秩序を改正しようとするのだろう」と疑問を提 L ,また下院 (Chambre Comunes) 想している九 と高等法院 (Chambre du )tnemlraP sed からなる二院制議会を構 ところが周年 7 月12 日には「じきに高等法院は消滅するだろ うJ と予想し「今日の状況は他の中間国体を必要としている」と述べる問。こ れを 81 年版J (8 月61 日受理〉の「三部会があるべき中間団体だ」という主 張につなげることにそれほど無理はないだろう。「日記」の記述を信用するな ら 81 年版」の改革構想の成立は同年 7 用演と考えることができょう。 「地方」の位置づけも同様に検討を要する。「日記」の 8 年 6 月(日付なし) に興味深い記述がある。「近年イギリスの国制がとても賞賛されている。ヨ』 ロッバの他の諸国は軍事力で押しつぶされ,専備に屈従しているので,それに 較べればイギリスの国制は確かに美 L く賢明なものである。しかし国王の血に まみれてイギリスの森から出現した立法を,我々がわざわざ卑屈に賞賛する必 要があるだろうか。立派な模範を求めるのになぜ霧に閉ざされたテムズ河のほ 15 とりにまで行くのだろう。南フランスの風光明娼な地方は,最も人気のある国王 を我々にもたらしたが,そのペアノレン 1) には快楽と自由の双方を友とする人々 がいるのだ。これら山の民は自らの特権を誇りとしており,その地方議会をも ってイギリスの国制よりもすぐれた模範を我々に示している。ベアノレン地方議 会は二院制である。聖職者および封地を持つ貴族は合体して一つになってい る。第三身分は,もし望むならば, (特権身分の〉院に出席した後で自分たちの 院で議論するのであり,彼らは他の二身分と同じ権力を持っている… J 12) バレ ールのイギリス観は革命前から革命中に次第に変化し反英的になっていくの で,上のテグスト,特にそのイギリスに関する部分をそのきき88 年 6 月のもの として鵜呑みにしない方が賢明であろう。それにしてもベアルン地方議会の事 例そのものが大革命前に考え及ばなかったとは思われない。 8r 年版j に お け る「地方」への言及の背景にも上の事例があると考えてまちがえないであろ う。すなわち 8r 年版」で強調されている「地方」とは,単なる「中央」への 反撞や|日慣墨守ではなく,イギリス型ニ院制の議会をも含み込んでおり,本文 中の改革構想と軌をーにしているのである。蓄し、かえれば,こうした議会を持 つことが「地方の特権」であり,それを中央ないし全国レベルで、実現しようと するのがノミレールの構想で、あった。 98r 年版」ではトーンは再び変化する。まず 8r 年版」において上に引用し たような「地方」への言及はすべて削除される。 271 年の建言書においてもそ ンテスキューが措いたのは「地方の不幸」ではなく「公共の不幸J という語広 なっている。また高等法院についての言及も同様で,同じ建言警に関してそ γ テスキューが代表したはずの高等法院については何も述べられていなし、。モン テスキュ}が法官の義務について行った演説についての言及も消えている。 グ z ネツィアにおけるローの言葉は残されているが,これは高等法院の賞賛で ある以上にフランス人全体への賞賛で、あろう。すなわち,地方の自由ないし地 方割拠主義はもはや革命がめざす理想ではなく,高等法院はもはや革命の担い 手ではないということがかうがわれる。これはパレールの思想的変化というよ りはむしろ現実の革命の進展が 8r 年版」の水準を乗りこえたということであ 25 B. バレールの「モンテスキュー矧J ろう。高等法院は88 年秋から革命の主導勢力ではなくなった。また「中央J に 専制の恐れがある時には「地方」を強調することには専制反対の意味がある が) r中央」において革命が行われた時には事態は逆となる。バレールはこう した事態の進展をほぼ無条件に楽観的に肯定する。「故(ロモンテスキュー〉 が出版した法についての不誠の著作に起源を持つ,フラシスで進行中の幸福な 本命J I諸王の中で最も人気があり最も賢明な国王によって嘉せられた,フラ γ r スの再生J これらの驚くべき諸改革 J Iそれ(=国民議会)は幾世紀かに及ぶ 醸の中から舞いたち,設(=モンテスキュー〉が黄金時代にしか求めなかった ような君主制の高みに達したJ このような革命への賛辞が 981 年版J の結語に はならんでいる問。ついでにつけ加えれば) 81 年版」において「隷属および 賦役〈の廃止J) と記されている個所は 981 年版」では一度同様に記した後に横 棒で消して「封建制度 r匂e mi ladoef (の廃止 J) と書き改められている )41 。 個別の悪弊の改善ではなく,制度・体制そのものの変革すなわち卒命が問題な のだという ζ とが自覚的に示されているのである。いうまでもなくこの革命は 全面的にそンテスキューに負勺ている。「法の精神』がその起源であり,モンテ スキューの精神が国民議会を導いている。モシテスキューが示した原理を用い て諸改革は行われ,モンテスキューの翼に乗って国民議会は飛朔した。 81 年 版」においてはパレールは「フランス国民を再生させるはずの革命J 会を照らずであろう光を我々は汝(=モ r国 民 議 γ テ、スキュー)の影響に帰するであろ ーう」と述べて,改革・革命は未来のこととしていた。 981 年版J においては革 命は現在進行中も L くは既に達成されたものとして描かれている。 だが,この「幸福な革命」の達成は決してバラ色一色のものではなく,既に 一抹の影がさしている。 981 年版J 結語部分でバレーノレは,モンテスキ a ーが我 々の過去の政体のうちにあり得ベき最良の政体を求めたのは誤りであり,また フランスの再生など空想的だと考えたのは幻想であった,現在の革命の進展を 見れば彼は喜んでそうした誤りを認めるだろう,と述べる。「故が原則を示し たこの幸福な革命を汝自身が予言しなかったのは,空想的にならないためであ った」とも言う。また結語の最後では,モンテスキューは自由の享受の仕方ま 35 では我々に教えなかった,として「フランスの保護者たる神」にむかい「モン テスキューへの忠実さを保持するため,新たなモンテスキューをフランスに遣 わされんことを」望んでいるのである。すなわちモシテスキューは革命の基盤 をつくりはしたものの革命そのものを予想した訳ではなく,まして革命後につ いては何も教示していないのである。「日記」の 8 年 11 月 6 自にバレールは 「民衆のためにまずわずかな改善を得るためにこの集会(=第二次名士会〉を 役立てよ,と慎重さは我々に勧める。なぜ、なら経験はなすべきことすべてでは なく,なし得ることをするように教えるからであり,なし得ることは少ないか らである」と記しまた北米とフランスは状況が遺ろのだからアメ D カ独立革 命は自分たちの手本にはならないと説ヤヘそして来るべき三部会において第 三身分の議員が倍増しそれによって「国民議会」を形成できれば,それだけ で大きな革命だ,と記している。「日記」はあくまで,信湿性が完全で、はな h 参考資料にすぎない。しかし 8i 年版」に示された改革構想と照らし合わせて みても,当時のバレールが上の記述と大きく異なる考えを持っていたとは思わ れない。とするなら. 98 年 6 月に第三身分の議員を中心として身分の区別がな い一院制の立憲国民議会ができたことはパレールにとって望外のことだったは ずである。勿論. i貴旗は君主告Ijの本質ではなし、」とするバレールにとって, これは十分に満足すべきものであった。「幸福な革命」その他の賛辞はそこに 由来する。しかしこの事態は,まさに期待以上のものだったが故に,モンテス キュー理論の射程からはみ出すものだったのである。サン=ジュストは 4971 年 になって「事のなりゆきは我々を全く予想もしないところへ導いた」と述べ た)61 。それとは歴史的コンテクストは異なるものの, 9871 年夏にパレーノレもま た指針もしくは指導理念の喪失を感じとっている。少くとも,モンテスキュー の思想に従い,それを実践に移すだけではもはや足りず,新たな事態の前には モンテスキューの思想が無力であることをみて取っているのである。 B. 54 .9 バレールの「モンテスキュー頒」 バレールのイギリス観 最後にバレールのイギリス論を見ておこう。勿論,あくまでもモンテスキュ ーを通じて論議の対象となるイギリスである。まず 78i 年版」をみると,イギ リスに対する言及はほぼモンテスキューのヨーロッバ旅行の最後にあたるイギ リス滞在を述べた個所に限られており,既に第 4 節で引用しておいた。特に熱 烈なイギリス賞賛という訳ではないし,イギリス政体の行き過ぎや混乱を指摘 することも忘れてはいない。しかし全体としてイギリスの繁栄とヨーロッバ大 陸に対する重要性,イギリスの国制の利点を正当に評価しているといってよい であろう。先に我々は, L. ゲルショイがパレールは革命前から一貫して反英 ナシ z ナリストであるとした点は史料的な面において根拠がないと指摘した。 78i 年版」を見るとさらに,ゲルシ昌イとは逆に,パレ一ルは草命以前はイギ リス嫌いで 説も〈用いた史料の適否は別と L て〉必必、ずしも誤りとは言い切れないのであつ て,そのことを示すのが 88i 年版」である。 ここではイギリスに対する言及は前年の「モンテスキュー碩」よりもふえて いる。すなわちモンテスキューのイギリス旅行に関する論述の他に, i貴 族 は 君主制の本質ではない」とする主張に関連して「モンテスキューが観察し尊 重したイギリスの事例が彼に誤りを気づかせたはずなのだ。イギリスの貴族 l()sdro は自分の品位に応じて地位を認められるのであって,彼らの兄弟は何 の特権も持たない。今日イギリスでは貴族は国家の中で他から分離された一身 分をなしてはいないのである J ,)1 と述べている例があり,さらに,モンテスキ ューが商業の自由を擁護したことを賞賛した上で「しかし彼が貴族に商業を禁 じたのは,自らの原理をあまりにもきびしく適用しすぎたと言うべきだろう。 モシテスキューが好んで引用するイギリスの事例がその反証になるとともに, この重要な問題に関して我々を啓発してくれる」町と述べている。すなわちバ レールはそ γ テスキューに反対して自説を展開する際に 2 度にわたってイギリ 5 スの例を援用しているのである。 それにもかかわらず,パレーノレのイギリス論は前年よりも屈折している。上 記のような理論面におけるイギリス評価は,必ずしも感情面におけるイギリス 好み,イギリスびいきを意味するものではない。そしてバレールは 88r 年版」 において,イギリスを自らの論拠として援用するにもかかわらず,むしろ前年 よりもイギリス嫌いになったように思われる。例えばイギリス旅行に関する記 述である。その個所の書出 L でイギリスをフランスの「好敵手j と呼ぶ点で 88r 年版」は 78r 年版J と共通している。しかしその「好敵手」の原語は 78r 年版」ではるe lum であって,これは「尊敬しあい切瑳琢磨しあう相手」とい うニュアンスがある。それに対して 881 年版」では elavir であって,こちら にはそのようなユ品アンスはない。むしろ「蹴落す相手」と L 、う否定的なニュ アンスである。また同じイギリスでモンテスキューが王妃に招かれたことに触 れる際, 78r 年版」が「王把がモンテスキューに(王族の歓迎を受けるという〉 名誉を与えた」町とだけ記すのに対して, z 881 年版」では「王妃がモシテスキ ーに名誉を与えるとともに,自分自身にも〈偉人を迎えるという〉名誉を帰 したJ 4) と記してそンテスキューの位置づけを相対的に高くし,その分イギリ ス王妃をおとしめているのである。さらにず z ネツィアでローがイギリス議会 とフランスの高等法院を比較した言葉が,既述のように 88r 年版」から現れる 点も,同じコンテクストで考えることができょう。いずれも議論の本筋には直 接つながらない部分での細かな修正である。しかし議論の本筋とつながらない から逆に,理論とは別のレベルでの,バレールのイギリス嫌いの気分を表わし ているのではないだろうか。 この点に関連してそ γ テスキュー=愛国主義者というシェーマの出現も指摘 できる。 78 年にもこのシ z ーマは皆無で、はないが,それは単に「法の精神』が イギリスでは評価されフランスでは批判されたにもかかわらず「彼はフラソス に忠実であったJ 5) と述べただけである。 88r 年版」になるとそのような記述 の他にイギリス旅行に関連してイギリスにおける三権分配を賞賛した後, r我 々の旅行者(=モンテスキュー〉のこの賞賛が彼らの政府に対する愛着をもた 65 B. パレールの「モンテスキュー頒J らすのではないかと恐れるのはやめよう。彼は自分が生まれた固に対して絶え ず弓を引き,自分が何も負っていない園をほめそやすようなコスモポリタンの 旅行者ではないのでるる。モンテスキューの目にとっては祖国は何物にも替え がたいのであり,被は『自分が生きている政体のもとに生まれさせてくれたこ とを最高存在に感謝している~ (~法の精神』前書き:原注〉のである」引とつ け加えている。理論面におけるイギリス評価はイギリスへの愛着とは無援なの である。との個所でパレールはモンテスキューに託して自らのナショナリズム を表明していると言えよう。 98r 年版」になるとイギリス嫌いの表出はさらに強まる。ヨーロッパの現状 を述べる中では「イギリスは,フランスが可能な限りで最良の国制を作ろうと しているのを見て,自国の国制の悪を既に不安の眼で見なおしている J している。 78r 年版J 88r )7 と記 年版」ではニュートンに触れて「彼を不滅にした著 作」という表現が見られるのに. だけで,評価を下げている。 98 年には同じ個所を単に「自然哲学」と記す 78r 年版」から 88r 年版」にかけて変化 L ている 部分は後者の方に従っている。感情的な面で、のパレールのイギ P スに対する反 援は年を追って強まっていったようである。 従って結論は以下のようになる。パレールのイギリス嫌いは大革命と対英戦 争によってひきおこされたものではない。その点でゲノレジ昌イは正しい。しか しだからといって大革命前から一貫してイギリス嫌いだったということもでき ないのであって,バレールがイギリスに対する反感を表に閏すようになるのは 8871 年になってからである。この年はまたパレールが自分の改革構想をうち出 した時であり,この構想の内容は,既に見たように,イギリスの政体にかなり 似通ったものであった。バレールは,彼自身がどういうつもりであれ,モンテ スキュー以上にイギリス政体を模範ととらえているのである。だがそのイギリ' スはフラシスにとって単なるお手本ではない。 7871 年以降,とりわけ88 年には いってから,フランス産業はかなり衰退した。経済史的にはその原因は複合的 であろうが,当時のブラシス世論はその原因が6871 年に締結され翌年から実施 された英仏通商条約にもとづくイギリス製品の流入にあると見る点で,同条約 75 に賛成する者も反対する者も,ほぽ一致していた九 イギりスはまさにバレー ルが言う通り「ライパル」だったのである。イギリスはフランス経済を荒して いる敵であるが,フランスの改革のためにはまさにそのイギリスをモデルとせ ねばならない。その苛立ちが8 年・ 98 年におけるバレールのイギリスに対する 感情的な反援の源になっているのではないだろうか。 .01 結論 以上で我々はアンシアン=レジームの最末年からフランス革命の初期にかけ て毎年 1 回,計 3 閏バレールが執筆した「モンテスキュー頭」を手がかりに, 彼の政治思想・草命思想の形成を追ってきた。その結論として以下の点を明ら かにし得たと思う。 第ーには, 781 年にはパレールはそンテスキューを基本的には「啓蒙思想 家」として評価していることである。すなわち人々の現世での幸福をめざす社 会的実践の基盤として立法を位置づけ,その立法のために諸科学を糾合した 点,言いかえれば実践に向って聞かれた理論を形成した点に,モンテスキュー の偉大さが認められるのである。そしてそシテスキューの影響としてはフラン スを初めヨーロッパ諸国における法律改正を中心とした種々の社会改革が列挙 されている。ただしとこでいう社会的実践とは現体制内における個々の弊害の 修正ない L 除去で、あって,体制そのものの変革ではない。一般的命題に還元す れば啓蒙思想は直接にはアンシアン=レジームの体制内改革につながるのであ って,革命にはつながらない,ということになる。これは別の観点からみれば アンシアン=レジームの枠組み・構造は大変強く,若いバレールの想像力はそ のために制限されて,ただその枠組みの中でしか発想できなかった,というこ とでもあろう。 しかし,第二に 1 年後の871 年夏にはバレールの構想はー変する。アンシ アン=レジームの枠組みが,名土会の失敗によって,自らそのほころびを露呈 したのが,その契機となっている。パレールは体制自体の変革を考え,あるべ 85 .B バレールの「モンテスキュー頒」 き体制を構想する。 1 年前の「体制内改良家」がここに「革命家」となった訳 である。しかしその結果, 1啓蒙思想家」モンテスキューは批判の対象となる。 「立法の学J を「学」たらしめていたモンテスキューの相対主義が否定される のである。勿論,モンテスキューが全面的に否定される訳ではない。彼の理論 中でバレールが最も重視する「三権の分配」は相変らず生きている。むしろ88 年に再評価されているといってもよい。ただしその再評価は,貴族を君主制か ら「追放」したことが背景になっている。 結論の第三は 981 年版」における革命の成果の百パーセントの肯定,および それと併存する一抹の不安である。バレーJ レは三部会=立憲議会の成果を全面 的に肯定し,満足している。しかし同時に彼は,これからの政治を導く指針が 過去のうちにはないことを感じ, 1新たなモンテスキ品一 J の出現を望んでい るのである。大革命は啓蒙思想が敷いたレーノレの上に載って既成の理論を実行 していくのではない。啓蒙思想の理論的射程が途切れたところから大革命はス タート L て,未知の世界を手探りしながら進んで行くのである。少くともバレ ールにとっては大革命とはそうしたものであった。そこにおいて彼は革命の基 本的理念には忠実に,実際の政治局面や党派争いの中にあっては右往左往しな がら,次第に大きな役割を果たすようになるのである。 最初に断ったように本稿は一つのケース・スタディである。パレールのかわ りに他の革命家の例をとったら,またモンテスキューのかわりにルソーの影響 を問題にしたなら,啓蒙と革命の関連はまた若干異なる様相のもとにとらえら れるであろう。それはもはや本稿の課題ではない。 59 .4 )1 78f 年版」の内容 本節では,煩雑になるのを避けるため,引用頁をいちいち注記しない。本節での引用はすべて の69 ,nð7~=XVめからのものであり第 1 頁から順に紹 78r 年版J (ボルドー市立図書館 Ms828 介していく,次節においても同様の消絡を行う。 め この一件は 8f 年版」の注に上り詳しい。それによれば271 年?とぶどう酒 1 樽につき04 ソルの 課税が計画されたのに対し,ボルドー高等法院が反対して,この税は撤回された。しかしその直 後,すべての商品に対し通常の出入税に加えてさらに 3 ソルの課税が認められたのだった。また そーベノレチュイによると,この時モ y テスキューはたまたまバりに滞在していたためボルドー高 等法院の増税反対の建言奮を提出する役目を命じられたのであり,また新税の決定は彼がバりを loge de Monsieur de Montesqui. par M. de Maupertuis , 離れた直後だった。 .fc E Ber iI n .5571 .p 8 .5 )1 )2 )3 78f 年版」の分析 ボルドー而立図書館 Ms828 “ Eloge Carcsone de M. Le tnedisrP , .po .tic の 69 ,N o. 7 de Montesquie" .t 5, .p Ency Ic eidpo .p 22~26. iii~xviii .p 861 .6 8r 年版」と 98r 年版」 )1 ボルドー市立図書館 Ms828 の 69 ,No.9 (=XX) )2 De 'ltirpse des siol .vil rel .pahc rel )3 .dibi .vil 2 .pahc 4 )4 .di )5 呑 .p 21 )6 .dibi .p 27-29 の.dibi .p 92 )8 .dibi .p 13 (=Xbis) .p 4 )9 Ms 82 の 69 ,No.10 .p 30-31 x .7 )1 若干の用語について 共和磨 2 年ヴアシトーズ 31 自の国民公会での報告ぐauvres siraP , 4891 , .p )517 .8 現状との対応、 )1 78f 年版J .po .tic .p )2 sr 年版J .po .tic .p )3 .dibi .p 8, .p 31 .p 21 )4 .dibi .p 9, )5 .PJ Thomas .po .tic )6 .po .tic .p 46~47 )7 .G Lefbvre ,Le t gniv.ertauQ reinD Memoires さ set de -tniaS tsuJ 38~48 46-47 .p 2 .p 86 ruoJ de siraP suo 'l n eica de B. Ba rさer .t 1 .p ・ neuf ,siraP 革命序論』岩波 .5791 )8 )9 compl regime 348~350 0791 .p .75 高橋他訳 1W 987 年一一フラ Y ス B. 06 バレールの「モンテスキュ一線」 )01 .dibi .p 373 )1 ベアル νは現在のピレネ需アトラシティック県.バレールの出身地ピゴールに隣接し,アンリ 4 世の出身地でもある。 )21 .dibi .p 367-8 )31 98r 年版J .po .tic .p 64-65 .p 16 )41 .dibi )51 .po .tic .p 914'-714 )61 共和暦 2 年グ/.'7 トーズ 8 日の報告 tsuJ.tniaS .po .tic .p 507 .9 バレーノレのイギリス観 )1 .po .tic .p 52 .p 23 )2 .dibi )3 .po .tic .p 21 )4 .po .tic .p 61 )5 .po .tic .p 3 )6 .po .tic .p 16-17 )7 .po .tic .p 4 )8 との点陀関しては拙稿「フラ γス航海条例の政策論的背景」武蔵大学人文学会雑誌51 巻 4 号を 参照。