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中国の一人っ子政策の転換

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中国の一人っ子政策の転換
知りたい! 世界の今
中国の一人っ子政策の転換
京都大学 教授 小島 泰雄
一人っ子政策が廃止された,と報道されているが,子
である。1950年代末の政策失敗による飢饉を反映した20
どもをつくるという最もプライベートな領域に国家が深
歳代前半の深いくびれが目をひくが,ここではその下の
く介入する政策は継続されているので,
むしろ
「ふたりっ
大きなふくらみに注目したい。この巨大な人口規模をも
子政策」への転換ととらえるのが正確である。
つ世代が,まさに出産期に入ってこようとしていたので
2015年10月にペキン(北京)で開催された中国共産党
ある。一人っ子政策が標的としたのはこの世代であった。
の中央委員会では,基本的な国策である「計画生育(計
画出産)
」を堅持する一方で,高齢化への対策として,
(年齢)
1982年
100
ひと組の夫婦が二人の子どもをもつことができるとする
90
政策の実施が決定された。そして年末には,日本の国会
80
男
にあたる全国人民代表大会の常務委員会で,法律「人口
60
と計画出産法」の修正が認められ,2016年1月1日から
50
施行された。
40
この政策転換は,重要政策の変更であるにもかかわら
30
ず,中国では思ったよりも落ち着いて受け止められてい
20
る。人口学の専門家からは,遅きに失した,出産促進策
への転換が必要,といった厳しい評価さえ聞こえてくる。
女
70
10
%
2.0
1.6
1.2
0.8
0.4
0
0.0 0.0
0.4
0.8
1.2
1.6
2.0
%
図1 中国 1982年の人口ピラミッド
なぜだろうか。以下,一人っ子政策の30年あまりの道の
出典:若林・聶(2012)より作成。
りをたどることで,この疑問に答えていきたい。
一人っ子政策の成立
7
一人っ子政策の成果
一人っ子政策は,1978年にテンチン(天津)の女子工
一人っ子政策の施行から30年あまり,その目的であっ
員が,一人しか子どもをもたないと宣言したことに始ま
た人口抑制はどのように展開してきたのであろうか。
るとされる。
2005年1月6日,ペキンの産婦人科医院で3660gの赤
人民共和国初期には人口を国力とみなす考えが力を
ちゃんが生まれ,統計部門によって総人口が13億人に達
もっていたが,多産多死から多産少死への移行に伴う人
したと認定された。このとき,4年遅れて13億人の日が
口急増に直面した中国政府は,1970年代に入ると計画出
やってきた,という報道があったが,一人っ子政策に
産に取り組み始めていた。文化大革命が終わり,国家政
よって人口増加がどれほど抑えられたのかについては,
策が社会主義の理想をめざすものから,途上国としての
定説がない。人口変動という複雑な方程式が政策のみで
現実を直視したものへと重心が移されるなかで,人々の
解けるはずはないのである。そこで,ここでは合計特殊
暮らしが改善しない理由の一つとして,経済の成長を帳
出生率の変化に注目して,一人っ子政策の効果を考えて
消しにする人口の急増が注目されることになった。女子
みたい。
工員の宣言は重要政策へと昇華し,1982年には憲法に国
合計特殊出生率とは,一人の女性が一生の間に生む子
民の義務として計画出産が記されることとなった。
どもの数を推計したものである。2.0を少しこえたあた
なぜ一人っ子という急進的な人口抑制策が,その人権
りが人口を維持する数値とされる。図2は1950年から現
上の問題性を無視して実施されなければならなかったの
在までの中国の合計特殊出生率の推移である。1950年代,
かについては,当時の人口構造に内包された切迫性を通
1960年代には6.0前後ときわめて高い値を示しており,
して考える必要がある。
その多産さが際立っている。人口政策が始まる時期と歩
図1は,1982年の人口センサスによる人口ピラミッド
調をあわせるかのように,1970年代後半には3.0を下ま
地理・地図資料◦2016年度1学期号
8
まり,「小皇帝」とよばれるわがままぶりが伝えられて
7
きたが,むしろ彼らが激しい学歴競争にさらされている
合計特殊出生率
ことにも目を向けるべきであろう。中国の高校から入学
6
してきた学生が,中国の受験競争から逃れるために日本
5
の大学を選んだ,と言ったのにはいささか驚かされたが,
4
その背後にある親の教育負担は相当なものであろう。農
民と教育について話をすると,子どもに農業をつがせる
3
つもりはなく,社会的な成功のために教育をうけさせる
2
ことが大切だ,という答えは一般的である。中国におけ
1
1950
1960
1970
1980
1990
2000
2010
(年)
2020
図2 中国の合計特殊出生率の推移
出典:World Fertility Data 2015,United Nationsより作成。
る少子化に子どもを育てるコストの上昇があることは確
実である。
もう少し中国の出生率についてみていこう。図3は
わった。10年で半減という急速な低下である。一人っ子
1982年と2010年の省別の合計特殊出生率の分布である。
政策はこのような出生率低下のなかで施行されたもので
1982年にはシャンハイ(上海)だけが2.0を切っており,
あるがゆえに,一人っ子という徹底した目標がなぜ設定
直轄市と東北地方,長江下流地域を除くと,3.0前後の
されたのかについては,上述のように1980年当時の人口
地域がひろがり,4.0をこえる省もみられる。四半世紀
構造を考慮しなければ理解することは難しい。一人っ子
にわたる社会主義計画経済の下で1980年頃の地域格差は
政策が実施された1980年代には出生率は2.5前後を上下
縮小していたとされるが,中国の東と西,沿海と内陸,
していたが,1990年代になると再び急減し,近年は1.5
都市と農村の間で出産観念が大きく異なっていたことが
ほどで安定している。
如実に表れており,興味深い。
このような出生率の変遷からも,生まれてくる子ども
2010年になると省別の差異は縮小し,ほとんどが1.5
の減少を一人っ子政策の成果として単純化することは躊
を下まわり,地域差が薄れていることがわかる。高度経
躇されるのである。世界において合計特殊出生率が低い
済成長によって都市と農村の格差,地域間の経済格差が
のはヨーロッパと東アジアであるが,中国についても日
拡大した中国にあって,子どもを生むことは普遍的に少
本や韓国,台湾と少子化のメカニズムを共有する側面が
なくなっていることがわかる。この二つの図を隔てる30
あると考えるほうが素直であろう。東アジアの出生率低
年,すなわち一人っ子政策が実施された30年間に,農村
下については研究途上のようであるが,急速な産業化に
部や内陸・西部地域での出生率は著しく低下してきたの
よって労働環境が大きく変わったこと,家族をサポート
である。
する政策が遅れていること,教育を重視する傾向が強い
なお図3は人口センサスによる合計特殊出生率の推計
ことなどが指摘されている。
が用いられているが,2010年センサスは5歳未満の子ど
中国の一人っ子については,両親や祖父母の期待が集
もの補足率が低いことが知られている。したがって図中
1982年
2010年
合計特殊出生率
4.0~
3.5~4.0
3.0~3.5
2.5~3.0
2.0~2.5
1.5~2.0
1.0~1.5
0
1000km
0
~1.0
1000km
*1982年のハイナン
(海南)はコワントン(広東)省,チョンチン(重慶)はスーチョワン(四川)省に属していた。チベットはデータを欠く。
図3 中国の合計特殊出生率の地域差(1982年と2010年)
出典:李智ほか(2015)「1982−2010年中国出生率与総和生育率変化趨勢和地理分布」中国衛生統計,32ー6,2015年
地理・地図資料◦2016年度1学期号
8
の出生率の数値は過小なものとなっている。地域差とい
らしを経験した農民たちにも根強く残っていた。上述の
う相対的比較をするだけならそれほど気にする必要はな
性比の失調も,男の子をあとつぎとして重視する「接宗
いのだが,中国の少子化が注目されるようになって,合
伝代」という宗族理念と切り離して理解することはでき
計特殊出生率の推計については多くの研究が行われるよ
ない。こうした子どもを求める農民の願いと,一人っ子
うになった。最新の研究では,中国の合計特殊出生率は
政策という国策とのはざまで,
「黒孩子」
(ヘイハイズ)
近年1.6前後で推移しているとされている。ちなみに少
と俗称される,戸籍に登録されない子どもが広くみられ
子 化 対 策 が 重 要 施 策 に 数 え ら れ る 日 本 の そ れ は1.42
るようになった。
(2014年)である。いつのまにか中国の少子化は日本の
すぐ後ろまで迫っている。
一人っ子政策の方法
半ばに一人っ子政策の緩和を行った。農村において第二
子を条件つきで認めることになったのである。その眼目
は,一人目が女児であれば二人目を生むことを認める,
1980年代末に筆者は中国のフィールド調査を始めたが,
というものである。一人っ子政策は施行から数年にして,
その頃の農村の幹部の大きな悩みは一人っ子政策を実施
当時人口の8割を占めていた農村において,政策に例外
することの難しさであった。政府は一人っ子政策を強権
を認めることになった。これ以降,一人っ子政策は都市
的に進めようとしていたが,子どもを求める農民の反発
と農村でその達成度が異なることとなった。
は根強かったのである。ところが1990年代終わりになる
なお一人っ子政策は,その当初から少数民族は対象外
と,一人っ子政策はそれほど大変な仕事ではない,とい
であり,二人目あるいは三人目の子をもつことが許され
う言葉を,幹部の口から聞くようになった。後に述べる
ていた。多民族国家である中国の少数民族優遇政策の一
ように農村において政策の緩和が進んだこともあるが,
つに数えられる措置である。
何よりも農民が子どもをたくさん生もうとしなくなった
さて,一人っ子政策は人口規模の大きな世代が出産期
ことが理由である。子どもを多くもつ親を揶揄する言葉
を過ぎるまでの時限的な措置である,と導入当初は考え
を農民から聞くようになったのもこの頃であった。
られていたようだが,21世紀に入っても大きな変更なく,
一人っ子政策については,壁に書かれた標語からテレ
継続された。基本的国策という重い位置づけが,いわば
ビまで,多様なメディアを通じた宣伝が行われるほか,
慣性としてはたらいて,政策転換を はばんでいたとみ
避妊具の無料配布,不妊手術の推奨など,さまざまな具
ることができよう。
体策がとられてきた。工場や村役場に行くと,子どもを
その意味で,近年の政策緩和は重要な転換であった。
生むことが認められた女性の名前が記された一覧表が貼
都市と農村を限ることなく,父親と母親の双方が一人っ
りだされているのを目にすることがあるが,出産は許可
子である場合は,第二子をもつことが1980年代半ばには
制となり,組織や行政の末端まで計画出産を管理する人
認められていたが,2013年にそれが父母どちらか一方が
員が配置された。また,勝手に二人目の子どもを生むと,
一人っ子である場合に拡大された。
「単独二孩」とよば
農村では高額の罰金がかかり,都市では給料の減額や,
れる政策の施行である。そして今回決定された第二子の
公務員であれば職を失うことさえあった。逆に,一人っ
全面開放はその延長線上にある。
子とその家族には,教育や住宅について優遇策が準備さ
れていた。こうしたアメとムチの結果として中絶数が増
計画出産の現在
え,その際に男女の選別が法令による禁止を無視して行
2013年の単独二孩政策は,政策立案者が想定した出生
われる場合があることから,男児が女児を大きく上まわ
数の増加に帰結しなかった。政策決定から数か月で各地
るようになった。
で緩和が実施されたのであるが,人口統計の数値はにぶ
一人っ子政策の緩和
9
農民の抵抗に直面することになった政府は,1980年代
い反応しか示さなかった。年間の新生児数は,2012年が
1635万人,2013年が1640万人であるのに対して,2014年
一人っ子政策が始まった1980年代の農村には,子ども
が1687万人,2015年が1655万人とほぼ横ばいで推移して
が多いことを幸せとする「多子多福」や,老後の面倒を
おり,年間200万人と想定された緩和による新生児数の
見てもらうために子どもをもつという「養児防老」など
増加は,観察されることはなかった。
といった伝統観念が,四半世紀にわたる人民公社での暮
すでに農村の第二子が広く認められていたこと,その
地理・地図資料◦2016年度1学期号
農村でさえ少子化が進行していることからすれば,あた
人口
(億人)
10
り前の結果であり,わずか2年にして第二子をもつため
の条件が全面的に取り払われるようになるのは,必然で
9
あったともいえよう。計画出産をとりまく状況は,人口
8
抑制とは異なる文脈をもつようになっている。
7
図4は2010年の人口ピラミッドである。一人っ子政策
6
がターゲットとした世代は ほぼ40歳をこえ,その子ど
15~64歳
5
もたちにあたる人口規模の大きな世代が出産年齢に達し
4
たところである。そして注目すべきは,それらの下であ
65歳以上
3
る。1990年代の出生率の急減によってもたらされた急速
2
な少子化が,大きなくびれとして表れている。
1
(年齢)
2010年
0
100
0~14歳
1950
女
70
「農民工」とよばれる出稼ぎ労働者の不足と賃金の上昇
50
40
が顕著となっていた。そして現在,中国経済の減速が世
30
界経済の不安定要素になっている。生産年齢人口が緩慢
20
な減少にとどまる今後10年ほどで,どこまで経済と社会
10
2.0
1.6
1.2
0.8
0.4
2100(年)
し前,2000年代後半から高度経済成長の現場を支えた
60
%
2050
出典:World Population Prospects, United Nations
80
男
2000 2015
図5 中国の年齢構造の推移と推計
90
0
0.0 0.0
0.4
0.8
1.2
1.6
2.0
%
図4 中国 2010年の人口ピラミッド
出典:若林・聶(2012)より作成。
を安定化できるかが,中国のゆくえを左右する。
こうした労働力の問題に加えて,図5からは高齢化が
急速に進むことがわかる。高齢化率は2000年に高齢化社
会の指標である7%をこえ,現在10%前後である。そし
ふたりっ子政策への転換も人口構造から理解可能であ
てあと10年ほどで高齢社会に入り,さらに超高齢社会へ
る。すなわち,ここで一人っ子政策を緩和しなければ,
と向かうことになる。一人っ子政策が導入されたときに
出産期にある人口そのものが急速に減少していくという
は問題意識さえなかった高齢化対策が,政策の優先順位
現実である。
を大きく高めている。高度経済成長のなかで拡大した格
政府の人口に対する見方は大きく変わった。一人っ子
差は「未富先老」とよばれるように,社会が豊かになる
政策を実施した1980年頃には,豊かさを実現するために
前に高齢社会に対応せざるを得ない状況に入ると考えら
は急増する人口を抑制することが必要であると考えられ
れている。
ていたのであるが,このたびの緩和ではそうした考慮は
労働力の不足と高齢化の進展,この二つの難題に対処
明らかに後景に退いている。高度経済成長によって中国
する人口学的方法は年少人口の増加である。とすれば,
社会が一定の豊かさを手にしつつある現実も関与してい
人口抑制のわく組みにとどまる「ふたりっ子政策」は不
るであろうが,むしろ人口変動についていくつかの危機
徹底であり,日本などの少子高齢化が先行する社会が取
感が表明されるようになっている。
り組んでいる人口増加策へ中国が政策転換することも,
図5は,20世紀半ばから21世紀末までを見通した,生
それほど遠い先の話ではないのかもしれない。
産年齢人口(15〜64歳)
,年少人口(0〜14歳)
,老年人
口(65歳以上)の経過と予測である。1990年代半ばから
■参考文献
20年間続いた高度経済成長は,生産年齢人口が急速に拡
若林敬子『中国 人口超大国のゆくえ』岩波新書,1994
大する一方で,老年人口が緩慢にしか増加しないという
年
人口ボーナスの状況下で実現されたことがわかる。
若林敬子・聶海松編『中国人口問題の年譜と統計:1949
その生産年齢人口が2010年にピークをうった。その少
〜2012年』御茶の水書房,2012年
地理・地図資料◦2016年度1学期号
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