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「書くこと」と言語の力学
󰡔人文科學󰡕 제97집
2013년 4월
「書くこと」と言語の力学
糟谷啓介
(一橋大学)
「書くこと」はひとつの技術である。しかしそれはとても独特な技術であ
る。それまで文字が知られていなかった共同体に「書く」技術が入りこんだ
とき、いったいなにが起こるだろうか。新たに到来した文字によってその
共同体の言語を書くようになるだろうか。歴史的にみても、そのような事
態はほとんど生じない。なぜなら、「書く」技術は特定の言語ないし言語変
種に支えられているのである以上、文字を導入することは、その文字で書
かれた言語を導入することと等しいからである。つまり、「読み書き能力」
とは、けっして中立的な能力ではなく、特定の言語――固有名詞を冠した「
○○語」――に関する知識と一体になっている。「文字を知っている」という
ことは、特定の言語ないし言語変種の読み書きができるということにほか
ならない。これはあまりに当たり前の事実のように思われるかもしれな
い。しかし、そこには「書くこと」と言語の関係をめぐる重要な問題がかく
れているのである。
178 󰡔人文科學󰡕 第97輯
Ⅰ.「読み書き能力」の社会的地位
言語学は長いあいだ「書きことば」を研究対象として認めてこなかった。言
語学が第一の対象としなければならないのは、音声、すなわち「話しことば
」であって、文字は二次的な存在である、というのが言語学の前提であっ
た。もうひとつの理由としては、言語学は「話し手が最小限の注意しかはら
わない発話」を対象とする、という考え方がある。しかし、文字は書き手に
も読み手にも意識的な作業を要求する。したがって、言語学からみれば、「
書きことば」は、言語学があつかうべき「自然な発話」ではないわけだ。言語
学は「言語の自然」ともいうべきイデオロギーに貫かれているのである。
たしかにひとは「書く」まえに「話す」ことを覚える。歴史的にみても、人類
が文字をもっている期間よりは、文字をもっていない期間のほうが、ずっ
と長かったことは確かである。その点からみて、書きことばを二次的記号
体系とみるのは正しい。しかし、ひとたび「書きことば」が独自のシステム
として成立したならば、「話すことば」には還元できない独自の性格がそこ
に備わる。この点を無視することはできない。
とはいえ、「書くこと」をなにか普遍的な特徴を備えた実体であるかのよ
うに考えるのも、これまた誤った見方だといえよう。社会言語学者のデ
ル・ハイムズ(Dell Hymes)は、マクルーハン(H.M. McLuhan)などに見
られるような、「あるチャンネルの価値を、文化を超えた所与のものとして
考える傾向」(Hymes
1974:25)に反対している。よく知られているよう
に、マクルーハンは、声を「ホットなメディア」、文字を「クールなメディア
」と規定して、そこからさまざまな考察をくりひろげていった。けれども、
ハイムズによれば、おなじ「読み書き」の行為でも、共同体によって異なる
意味と役割が授けられているので、具体的なコンテクストを捨象して議論
することはできない。たとえば、ハイムズは、「書くこと」を若者どうしの
求愛にのみ用いるハヌノオ族(Hanunoo)や外来の宗教にのみ用いるアレ
「書くこと」と言語の力学 179
ウト族(Aleut)の例をあげている。また、ハイムズがどれだけ正確な知識
をもっていたかはわからないが、朝鮮や日本での中国語のテクストの役割
についてもふれている。
ある社会が文字をもっていたとしても、その社会の文化をすぐさま「文字
文化」として特徴づけることはできない理由がここにある。つまり、ある社
会に文字が存在することと、文字がその文化でドミナントな地位を占める
こととは、別のことなのである。
たとえば、近代以前のヨーロッパに文字が存在したことは当たり前の事
実であるが、だからといって社会のすみずみまで文字文化が浸透していた
とはとてもいえない。少々古い本であるが、J . W . トンプソン
(J.W.Thompson)の󰡔中世における俗人層の読み書き能力󰡕(Thompson
1963)は、この点に関する多くの情報をあたえてくれる。一般的な見方で
は、中世ヨーロッパで「読み書き能力(literacy)」をもつのは聖職者層に限
られるとされることが多い。しかしトンプソンはこの見方に反対し、「俗人
層」、たとえば王侯貴族のあいだにもしだいに読み書き能力が広がっていく
過程をあとづけている。とはいえ、いまのわたしたちから見ると、かなり
意外な事実がわかってくる。たとえば、シャルルマーニ役(Charlemagne,
742-814)――西ローマ帝国皇帝としてカロリング・ルネサンスを推し進め
た「カール大帝」――は晩年になるまで読み書きができなかった。フランス
のカペー朝(Capetian Dynasty)を開いたユーグ・カペー(Hugues Capet,
940-996)はおそらく読み書きができず、ラテン語も理解しなかった。トン
プソンはフランス王をひとりずつとりあげて調べているが、どうもきちん
と読み書きができた王はそれほどいなかったようだ。
こうした事実にはさまざまな背景がある。当時、読み書きはラテン語を
通じて学ばれたとのだが、これらの王が日常用いていたのは、言うまでも
なくラテン語ではなく、古フランス語や中世フランス語であった。つま
り、話しことばと書きことばが分裂していたわけである。また、トンプソ
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ンも指摘しているが、文化的水準ということにかんしていえば、王室より
は、アキテーヌ(Aquitaine)やアンジ役ー(Anjou)の宮廷のほうが高い読
み書き能力を示していた。つまり、政治的権力と文化的威信が一致してい
なかったのである。さらに重要なのは、中世においては、基本的に言語は「
文字を通して読まれるもの」ではなく「耳から聞かれるもの」であったという
ことである。
もちろん文字は存在し、写本という形態で書物は存在した。にもかかわ
らず、文化は口承性(orality)を保っていた。この点について面白い例が
ある。ギネスのボールドウィン伯(Count Baldwin II of Guines)というひ
とは、貴族としては例外的に高い教養を積み、自分の家にりっぱな図書館
をもっていたが、読み書きはできなかったという。そのわけは、読み書き
をしてくれる書記を雇って、読みたい本はすべてその者に読ませていた、
というのである(Cipolla 1969:40)。このような書記をmercenarii litteratiと
いうが、こうした読み書き専門の書記を雇うことはかなり広まっていた習
慣だった。1)
中世文学研究者のザントール(P. Zumthor)は、中世における言語テクス
トは、語り手/歌い手と聴衆とのあいだの演劇的コミ役ニケーションに
よって成り立っていたと述べている(Zumthor 1972)。そのもっとも重要
な柱は「声」と「記憶」であり、声、歌、身振りは作品にとって不可欠の要素
だった。もちろん、現在まで残る数々の写本に、書物としての性格がある
のは否定できないが、12世紀から13世紀にかけての「ジョングルール写本
(manuscrit de jongleur)」は口頭伝承のための覚書にすぎなかった(ジョ
ングルールとは旅芸人のことである)。ザントールによれば、13世紀末に
1) 時代も社会層もまったく異なるが、17世紀から18世紀にかけてフランスで流行
したBibliothèque Bleuと呼ばれる民衆本――表紙が青い色をしているのでこの
名前がついた――は、、夜なべ仕事のようにみんなで集まるときに字の読める誰
かが声に出して読んで聞かせたという(M androu 1964)。当時は本がまだ「声」
と結びついていたのだ。
「書くこと」と言語の力学 181
なるまで、身振りで効果を協調しながら、メロディーに乗せてテクストを
歌う朗唱を聞くことが、テクスト成立のための場を提供していた。こうし
た「声の文化」のもとでは、テクストそのものが聴覚的で流動的なものだっ
た。近代におけるような完結した「作品」という概念は、そこにはあてはま
らない。ザントールによれば、同じ作品の多くの写本のあいだに違いが
あったとしても、そのうちのどれかが正本(original)でほかは異本
(variant)というわけではない(Zumthor 1972, 71)。それぞれの版はそれ
ぞれの「テクストの状態」であり、その違いは修正や追加の結果ではなく、
再創造としてとらえなければならないという。ザントールは、こうしたテ
クストの流動的な性格は、書記の印刷本にまで残っていると述べている。
つまり、いかに文字が存在していたにせよ、口承性(orality)は中世文化
の本質に根ざしていた。このような「声の文化」の流れを断ち切ったのが活
版印刷術であったし、思想的背景としてルネサンスの人文主義と宗教改革
が重要な役割をはたした。とくに宗教改革の役割はきわめて大きなものが
あった。改革派はキリスト教の教義問題をすべての信徒に課し、書物とし
ての聖書に直接近づくことを奨励した(Furet & Ozouf 1977:70-71)。こう
して記憶装置は「聞く」ことから「読む」ことへと転換した。ヨーロッパで
は、一般的にいって、カトリック地域よりもプロテス当ント地域のほうが
高い読み書き能力を示すのは、このことと関係がある。
Ⅱ. 「読み書き能力」を広める社会的要因
フランスのアナール学派の歴史家であるフ役レとオズーフの共著に、󰡔書
くことと読むこと――カルヴァン(Calvin)からジ役ール・フェリー(Jules
Ferry)に至るまでのフランス人の読み書き能力󰡕がある(Furet
&
Ozouf
1977)。この本は、16世紀から19世紀にいたるまでのフランスにおける読
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み書き能力の進展を、社会史の観点から詳細にあとづけている。この研究
を読むといろいろ意外な事実に出会い、わたしたちが「書くこと」と「読むこ
と」について抱いている思いこみがいかに間違っているかがわかる。
フランス全体での読み書き能力の傾向については、各地方でかなりの違
いがあるため、決定的なことがいえない。たとえば、おなじ農村部でも先
進地域と後進地方とでは、読み書き能力の浸透の時期もテンポもかなり異
なっている。また、「読むこと」と「書くこと」は、現在のように完全に一体
化したものではなく、相互に分離した活動であった。そのことは学校制度
からも見てとれる。初等学校の授業は、読み、書き、計算、という順序で
進められたが、多くの生徒は読むことを覚えたら学校をやめてしまった。
教師の給料は生徒の授業料によってまかなわれており、上の段階にいくほ
ど授業料は高くなった。だから、読むことだけで学校をやめれば、授業料
は全体の三分の一程度ですんだという(Furet & Ozouf 1977:27-28)。
もちろん、授業料だけが原因ではない。重要なのは、「読むこと」と「書く
こと」には異なる社会的機能が割り当てられていたことである。「書くこと」
は社会的昇進のため、フランス語でいうmétierを授けるための社会的に有
用な技術であったのに対して、「読むこと」はなによりもまず宗教的な要求
であり、「救済」の手段とみなされていた。教会による教育方針もこれを裏
付けていた。「救済」に「書くこと」は必要でないばかりでなく、むしろ危険
な要素と考えられていた。女性に「読むだけ」の能力の者が多いのは、この
ことから説明できるという(Furet & Ozouf 1977:199ff)。さらに、18世紀
末まで、多くの場合、読み書きは民衆の日常言語ではなく、ラテン語を通
して教えられていたことも合わせて考えておく必要がある。
教えられる側からみても、「学校」は生活に不可欠の要素ではなかった。こ
どもは大切な労働力であったので、冬の収穫期になれば、生徒の数は半減
した。また、一般的に就学は恒常的ではなかった。共同体が学校に期待し
たのは、知識ではなく、宗教的社会的規律の付与であった。教育方法の点
「書くこと」と言語の力学 183
でも、年齢がばらばらの生徒が各自で異なる教材を用い、教師は教室のな
かを回ってひとりずつ教えるというやり方であった。その点で、「教室」と
いう制度――同じ年齢のこどもから成る生徒が同一の教材を使用する――
は、画期的な近代の発明だといえる。
このようなわけで、学校の存在がすぐには読み書き能力の向上には結びつ
かなかった。学校があっても読み書き能力の程度が低い地域もあれば、高
地アルプスやピレネーの山間部などのように、学校がまったく存在しなく
ても高い読み書き能力を示す地域もあった。これには、共同体内部のまと
まりの強さといわゆる「巡回教師」の役割が大きい。こうした状況をふまえ
てフ役レとオズーフは、学校は秩序と権威のシンボルとして存在していた
のであり、現実的な役割よりは象徴的な役割が強かった、と述べている。
フランス革命は、社会を口承性の世界から文字の世界へと全面的に移行さ
せようとした。「旧体制=アンジャン・レジーム」においては、文字がエ
リート文化と民衆文化の境界を示しており、その意味で文字は社会的弁別
の機能をもっていた。したがって、すべての民衆を文字の世界に参入させ
ようとする発想はありえなかった。ところが、革命はこの考え方を百八十
度方向転換した。「文字を知らないこと」は無知と偏見の支配する「闇」の状
態であり、革命はそこに「書かれたもの」という「光」を投げこんで、社会全
体を「啓蒙」しようと努めた。フ役レとオズーフはこういっている。
「〈書かれたもの〉は、アンシャン・レジームの日常生活からの断絶を示
す道具として、そして、新しい習俗を打ち立てる手段として把握された
。・・・・・・口承/文字という二分法は、旧/新という時間的二分法に重弁合
わせられ、それが野蛮/啓蒙、悪徳/良俗という革命による断絶と革命が
打ち立てた秩序に意味をあたえた。学校であれ家庭であれ、〈書かれたも
の〉は、共和国の監視の道具であると同時に、市民の私的な徳育を到来さ
せる発動装置であり、そのシンボルなのである。」(Furet & Ozouf 1977:
364-366)
184 󰡔人文科學󰡕 第97輯
フランス革命は、「自由・平等・博愛」の理念のもとで、それまでの身分制
的な社会秩序を転覆して平等な市民による社会を構築しようとした。しか
し、そのためにフランス革命は、社会の徹底的な同質化と単一化を推し進
めた。そこには革命以前からのフランスの強固な中央集権体制の問題があ
る2)。言語の面でいえば、地方で話される多様な言語と方言を排除し、フ
ランス語という単一の言語によってフランスを統合しようとした。こうし
た傾向を「国内植民地主義」ととらえる見方さえ存在するほどだ。
フランスにはフランス語とは異なる多くの言語が存在する。アルザス
(Alsace)とロレーヌ(Lorraine)のドイツ語、コルシカ(Corsica)のイ当
リア語のような隣国のことば以外に、フラマン語(flamand)、ブルトン語
(breton)、オクシ当ン語(occitan)、バスク語(basque)、カ当ルーニャ
語(catalan)などのいわゆる「少数言語」が話されていた。さらにはフラン
ス語内部の数多くの方言が存在する。革命の際には、これらのことばは「反
革命」の印として、あるいは封建制の残滓としてきびしく弾圧された。こう
してフランス革命は、「国民語(langue
nationale)」による単一言語主義的
体制への方向を打ち出したが、実際には、フランス革命の理念が現実化す
るのは、19世紀後半の第三共和制のときであり、標準フランス語がすべて
の社会層とすべての地域に浸透するのはそれ以降のことである。フランス
語は社会の趨勢によって「自然に」広まったのではない。フランス独特の強
烈な言語政策によって少数言語や方言が抑圧された結果、広まったのであ
る。
少数言語地域のなかにも、アルザスAlsace、フランドルFlandre、ノルマン
ディーNormandieのように早くから文字の世界に移行した地域がある。しか
2) フ役レという歴史家はどちらかというと保守的な立場に立っているので、革命
に対して批判的なス当ンスをとっているところがある。しかし、フランス革命批
判は「保守派」の専売特許ではない。もっとも根源的な批判として思い浮かぶの
は、ハンナ・アーレントHannah Arendtの『革命について』とシモーヌ・ヴェ
イユSimone W eilの『根をもつこと』である。
「書くこと」と言語の力学 185
し、口承文化の特徴を保ちつづけた地域――バスクBasqueやブル当ーニ役
Bretagne――は、文字文化と学校に無関心しか示さない。この点につい
て、フ役レとオズーフはこういっている。「少数言語のいくつかの地域が文
字化しないのは、君主制的中央集権への抵抗、ジャコバン主義的統一化へ
の抵抗、さらには、国民共同体と同質的人間性というイデオロギーへの抵
抗として現われてくる」と(Furet & Ozouf 1977: 346)。そう考えるな
ら、バスクやブル当ーニ役の農民たちは、文字を知らず無知のなかにとど
まっていたのではなく、「文字」による国民的同質化を積極的に拒否したと
みることもできるだろう。
Ⅲ. 「書くこと」と規範言語
ここでようやく「書くこと」と規範言語との関係を問うことができる。「書
くこと」は、つ弁に特定の文字言語を媒介にして広がり、知識として獲得さ
れる。ある言語を「書く」ためには、どれだけの知識が必要かを考えてみれ
ばよい。どの音がどの文字と結びつくか、綴りはどのように書くか、どの
語彙を使えばいいか、どのような語彙や文体を用いればよいか等々を知っ
ていなければならない。それ以前に、自分の言語が文字言語としての機能
をもっていなければ、その言語を書くことはきわめて困難な作業になる。
それは個人の能力の問題ではなく、社会的な制度の問題である。したがっ
て、社会に読み書きが浸透するプロレスは、言語そのものにも影響をあた
えずにはおかない。一言でいえば、それは言語の標準化(standardization)
が進行するプロセスでもあるのだ。
こうして、前近代社会から近代社会への移行のなかで、一方では、読み書
き能力が社会のあらゆる成員にとっての必要条件とみなされるようにな
り、他方では、特定の規範言語が社会のあらゆる階層と地域に浸透して
186 󰡔人文科學󰡕 第97輯
いった。そしてこのふたつの過程は密接に結びついている。ここでアーネ
スト・ゲルナーのナショナリズム論を参照することができる3)。ゲルナー
によれば、前近代社会とは、多様な地域共同体がばらばらに並存すると同
時に、上位の階層と下位の階層が分裂した状態であった。しかし近代の国
民国家が成立すると、小さな共同体が同質的な「ネーション(nation)」のな
かに融合していくと同時に、上下の階層の境界は消失していく。一言でい
えば、社会の同質化・平準化が進むのである。そこでは、あらゆる国民が
学校制度を通して単一の標準化された「高文化(high culture)」を共有しな
ければならない。それが国民語であり国民文化である。こうして、「書かれ
たもの/書くこと」と規範言語が合体することによって、「国民」という社会
的枠組みが作り出される。「国民」から排除された側から見るなら、その過
程がはっきりと見えてくる。
ふたたびフランスの例をとろう。フランス南部はもともとフランス語とは
異なる「オック語」という言語が話されていた。しかし、13世紀にパリの王
権が派遣したアルビジョワ十字軍によって南フランスの文化が徹底的に壊
滅させられてから、南フランスにフランス語がしだいに浸透していった。
しかしその浸透の度合いは限られていた。
南フランスの西部にラングドック(Languedoc)という地方があり、そこ
ではオック語のひとつであるラングドック語が話されていた。この地方に
どのようにして文字とフランス語が入りこんできたかを、歴史家のル=ロ
ワ=ラデ役リー(Le Roy Ladurie)が詳細に描いてくれている(Le Roy
Ladurie
1966)。ラングドックでは、15世紀半ばまで行政官と北からの移
民以外の人間はフランス語をほとんど話さなかったが、15世紀後半から、
フランス語がしだいに都市を中心にした貴族やブルジョアジーに浸透して
3) わたしはゲルナーのナショナリズム論に全面的に賛同しているわけではない。
とくにゲルナーが「ネーション」を「産業社会」と結び付けすぎていることには
多くの問題があると考える。しかし、ここでは標準化された高文化と「ネーショ
ン」との関係という観点を参照する。
「書くこと」と言語の力学 187
いった。
しかしフランス語が入ってきたといっても、それは書物や文書によるも
の、つまりは文字言語としての侵入であった。だから、文字言語と無縁の
生活を送っていた地域や階層の人間、とくに農民層の人間にとって、フラ
ンス語はやはり縁のない言語だった。なぜなら、「文字を知らないという
ことは、書物によって運ばれるフランス語に身を閉ざすこと」(Le
Roy
Ladurie 1966: 374)だからである。文字=フランス語に接触したのは、聖
職者をべつにすれば、知識人や商人職人などのブルジョワジーの階層で
あって、このような二重言語状態は、18世紀後半までつづいた。南フラン
スへのフランス語の浸透を詳細に記述したブラン(Auguste
Brun)の表現
によれば、南フランスにおいてオクシ当ン語は「毎日の言語」であり、フラ
ンス語は「日曜日の言語」であった(Brun 1973: 478)。
このことは民衆のあいだだけでなく、知識人においても同様だった。18世
紀にフランス語とラングドック語の辞書(1756)を作ったソヴァージ役神
父(Abbé Sauvages)は、その辞書の前書きで「わたしたちはフランス語で
言い表す前に、ラングドック語で考える」と打ち明けている。そして、さま
ざまな文学的主題について完璧なフランス語で書くことができる者でも、
目の前で起こっていることをフランス語で話さ弁ばならなくなると、まっ
たく当惑してしまう、とさえ言っている。つまり、文学や哲学について難
しい文章をフランス語で書くことはできても、日常生活のことについてフ
ランス語で正確に話すことができない、というのである(Brun 1973: 47
2)。これはフランス語能力が不足していたからだろうか。そうではない。
こうした事態を個人の言語能力という視点だけでとらえることはできな
い。その背景には、言語の社会的編成ともいうべき大きな問題が横たわっ
ているのである。
自分のことばで書くということがけっして自明でない世界においては、こ
のような言語的分裂が生じることはけっして珍しいことではない。もうひ
188 󰡔人文科學󰡕 第97輯
とつの象徴的な例として、イ当リアのマンゾーニ(Alessandro
Manzon
1785-1873)という作家をとりあげよう。ただし、その前にイ当リアでイ
当リア語がどういう状態であったかを見ておく必要がある。
イ当リアは1861年に統一されてイ当リア王国が成立したが、そのころイ当
リア語を話している人間はどれくらいいただろうか。イ当リアの代表的な
言語学者トゥリオ・デ・マウロ(Tullio De Mauro)は、人口の2.5%という
数値をはじきだした(De Mauro 1979:43)。これはイ当リアに住む外国人
の人口よりも少ないので、デ=マウロは、イ当リア語話者は「祖国のなかの
異邦人」のようなものだったといっている。しかし、なぜそういうことにな
るのだろうか。ひとつの理由は、イ当リアでは「イ当リア語」といえば「標準
イ当リア語」を指すからである。各地の方言は「イ当リア語」に包摂されるの
ではなく、それぞれ独自の言語とみなされる。歴史的にみれば、各地の方
言は標準イ当リア語を介さず、ラテン語に直接結びつくのである。
それでは、この標準イ当リア語はどのような言語だったのだろうか。それ
を知るには、デ=マウロの算定の根拠をあげるとわかりやすい。デ=マウ
ロによれば、首都ローマとトスカーナ地方では共通語に近いことばが話さ
れていたので、「読み書きができる者」はイ当リア語を知っていたとみなす
ことができる。そこにさらに、他の地方の中等学校就学者と修了者の推定
数を加えると人口の2.5%になる、というのである。なぜ中等学校なのかと
いえば、初等学校ではほとんどの教師が方言しか使っていなかったためで
ある。この2.5%という数はあまりに小さすぎるとして、別の言語学者が違
うやり方で算定してみたが、それでも10%には達しなかった。結局のとこ
ろ、イ当リア語が「読み書き能力」と直結したことばであるという前提には
代わりない。つまり、文字を知らないならば、イ当リア語も話せなかっ
た、というわけである。
一言でいえば、イ当リア語は日常生活では用いられないことばであった。
それでは、「国民」を結びつける言語、すなわち「国民語」が実体として存在
「書くこと」と言語の力学 189
しないとき、どうして「国民」が存在しうるだろうか。マンゾーニはこの問
題に生涯悩まされた。それは政治的、社会的問題であると同時に、文学的
問題でもあった。というのは、「小説」という文学形式は、同質的な社会の
表象と「国民」と一体化した読者共同体を要請するからである。
マンゾーニはフランスの文献学者クロード・フォリエル(Claude
Faurie
l)に宛てた書簡のなかで、自身の苦悩をこのように吐露している。「わた
したちにとって不幸なことは、イ当リア国家がばらばらに分裂し、怠惰と
無知がはびこっているため、話しことばと書きことばのあいだには、はな
はだしい隔たりがある。この書きことばは死んだことばといってさしつか
えない。このため作家は多数の読者に語りかけようとしても、その効果を
作り出せない」(Manzoni 1970: 19)。
マンゾーニはウォル当ー・スコットにならって、イ当リアの歴史小説を書
こうと決意していたが、そこにイ当リア語の問題がたちふさがった。マン
ゾーニによれば、社会の出来事を正確に描写し、状況を具体的に分析しう
るだけの語彙や文体がイ当リア語に欠けている。イ当リア人は「トスカーナ
地方の人間でないなら、ほとんどけっして話したことがない言語で書く」。
したがって、「読者と経験を分かちあうというあの感情、作者にも読者にも
等しく知られている道具を手にしているという確信感」がイ当リアの作家に
はまったく欠けている、というのである。(Manzoni 1970: 244-247)
マンゾーニの計画した歴史小説は、イ当リアの国民文学ともいうべき長編
小説󰡔婚約者(Promessi Sposi)󰡕として結実した。しかし、この作品を書く
にあたって、マンゾーニは言語の問題を解決しなければならなかった。こ
うしてマンゾーニは、完成稿に至るまでに、大胆な言語的実験ともいうべ
きものを繰りかえすことになる。最初の草稿では、フランス語を模範にし
て、さまざまな言語の要素を折衷させた「ヨーロッパ的文体」を目指した。
1827年版では、トスカーナ地方のことばを基礎にして北イ当リアの語法を
まじえた「イ当リア的」な文体の構築を目指した。そして、最終版の1840年
190 󰡔人文科學󰡕 第97輯
版では、フィレンツェの口語慣用に基づいて全面的に作品を書き変えた。
マンゾーニの生まれはミラノであり、彼にもっとも身近な言語はミラノ語
とフランス語であった。フィレンツェ語はマンゾーニにとって母語ではな
かった。そこでマンゾーニは、フィレンツェ生まれの母語話者を助手とし
てやとって、一言一句点検しながら作品の書き換えを進めていった。つま
り、󰡔婚約者󰡕の言語は、作者マンゾーニにとって「自然な」言語ではないの
である。4)
このマンゾーニの作品によって、標準イ当リア語におけるフィレンツェ
の中心性が確立されたことは事実である。そのことは別にして、この小説
はリアリズムの手法で書かれているにはちがいないが、そこに大きな言語
的虚構があることを見逃してはならない。小説の舞台は16世紀の北イ当リ
アであるにもかかわらず、登場人物たちはフィレンツェ語を話すという虚
構である。その当時、北イ当リアの農民がフィレンツェ語を話すなどとい
うことはありえない。しかしそれが「不自然」に感じられないことが、フィ
レンツェ語が「国民語」に昇格したことの意味なのである。
マンゾーニは、イ当リア統一が達成された後、イ当リアの言語統一のため
の委員会の委員長に任命され、「言語統一とそれを普及させる方法について
」という報告書を起草する。この報告書でマンゾーニは、学校教育を通じて
イ当リアの各地の方言をフィレンツェ語に置き換える計画を提案するので
ある(Manzoni 1972: 173-209)。これは文学者が国家の言語政策に率先し
て関わったという点で、きわめて特異な例である。このマンゾーニのプラ
ンはフランス革命の言語政策とたいへん似ているのだが、直接の影響関係
があったかどうかはよくわからない。
ともあれ、ここで確認しておきたいのは、マンゾーニが――さらにはイ当
4) M asnzoni 1971は27年版から40年版への移行において、本文を書き換えた部
分をすべて明示してくれている。驚かされるのは、修正箇所の多さと細かさであ
り、さらにはそれが内容の改編をともなわない徹頭徹尾「言語的」なものだっ
た、ということである。
「書くこと」と言語の力学 191
リアの作家であれば誰でも――ある作品を書こうと思えば、どのような言
語を用いるかを意識的にあらかじめ決定しなければならなかった、という
事実である。ひとが「書くこと」に直面するときには、言語は自然にあたえ
られている状態をやめるのだ。
いまわたしたちは、自分のことばで書くことを不思議とも思わず、自然
で自明な行為とみなしている。しかし、マンゾーニの経験したような言語
的分裂の問題はなくなったのだろうか。そうではないと思う。一方では主
体の無意識のなかで、他方では社会的制度のなかで、こうした言語の問題
が知らず知らずのうちに解消させられているので、表面的には問題が存在
しないかのように見えているだけではないだろうか。その解消のプロセス
にすこしでも不具合が生じたならば、ひとはなにかを書こうと思っても、
手がぴたりと止まってしまうにちがいない。そして、それはけっして否定
的な出来事ではなく、言語の存在様式に対する考察の入り口になるかもし
れないのである。
[キーワード] 書くこと 読み書き能力 規範言語 少数言語 言語支配 言語政策 国民国
家
[参考文献]
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「書くこと」と言語の力学 193
[국문제요]
'쓰기‘와 언어의 역학
가스야 게스케 (히토쓰바시대학)
‘읽고 쓰는 것’은 모든 언어에 무조건 적용 가능한 기술이 아니다. 읽고 쓰는 능
력의 기능과 가치는 서로 다른 문화와 사회에 따라서 다양하게 변할 수 있다. ‘쓰
기’와 언어의 관계를 물을 때에는 구체적인 역사적 문맥을 살피지 않으면 안된다.
사실, ‘읽고 쓰는 것’은 반드시 특정 언어 내지는 언어 변종과 결합되어 있다. 읽
고 쓰는 능력을 획득하는 일은 규범언어의 습득과 等價이었다. 프랑스어가 남프
랑스로 침투한 것에서 볼 수 있는 것처럼, 지배언어는 문자를 매개로 사회에 보급
된다. 또한 근대국민국가에서는 읽고 쓰는 능력과 단일 표준어의 공유가 사회의
구성원에게 요구된다. 구두어와 글말이 분열되어 있는 상태에서는 ‘쓰기’를 둘러
싸고 커다란 긴장상태와 불안정성이 생겨난다. 이탈리아의 작가 만조니가 소설
집필 과정에서 체험한 고뇌는 거기로부터 비롯된다.
[주제어] 쓰기, 읽고 쓰는 능력, 규범언어, 소수언어, 언어지배, 언어정책, 국민국가
논문접수일: 2013.02.25 / 논문심사일: 2013.03.12 / 게재확정일: 2013.04.09
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