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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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モリエールにおけるreconnaissanceについて :
dénouementの是非をめぐって
山本, 邦彦
Francia (1967), 10: 1-12
1967-01-07
http://hdl.handle.net/2433/137525
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
モリエールにおけるHO8昌昌舘ωω鋤昌O①について
一α曾o器毯Φ暮の是非をめぐってー
山 本 ・邦 彦
モリエールの芝居はα曾o器日Φ曇がお粗末にすぎる、といって この小論は、モリエ!ルの作品に見られるお8自9。一ω紹暑oを特
* エールは特に好んで用いているようである。
によって物語を解決するという方法を、頻繁に用いたからであるρ 巳Φ9に対する従来の批評家の非難がはたして当を得たものかどう・ ・1
しばしば非難される。それは何よりもまず、彼が思いがけない事件 に取り出してそのおよその姿を見、同時にモリエールのα曾og甲 一
偶然性の排除は古典主義演劇のいわぽ一つの理想であり・ことに+ かを検討してみようとするものである・ 、 一
七世紀後半において、それはたとえ完全に実行することはむずかし **
ホ
くとも、筋の統一のための主要条件の一つと考えられるようになっ モリエールの作品中・話゜8口勘ω沼p8の見られるのは六簾であ
た。’筋は必然の道に沿って展開すべきものであったのだ。 る。
ノ
ところがモリエールはそういうことには無頓着であった。いや少 まず﹃ドソ・ガルシー・ド・ナヴアル﹄にその例が見られる。ナ
のおよそー一3が比喩的な意味でのデウス・エクス・マーキナの助 ・つ愛されているが、彼は病的なまでに嫉妬深い。そこヘカスティー・
なくとも無頓着に見える。モリエールの作品は三十篇余りだが、そ ヴアル国の王子ガルシーは、レオソ国の王女エルヴィールを愛しか
けを借りて、﹁めでたし、めでたし﹂で結ばれている。中でも、古 ユ国の王子ドソ・シルヴが恋敵として登場し、ガルシーの嫉妬は募
い。あえて訳せぽ﹁めぐり合い﹂とでもなりそうだが、これでは大 へ心が移って来たのだ。ところが第五幕も終りになって、ドソ・シ
くから喜劇の常套手殿であった話ooぎ巴ω紹コ8︵適当な訳語がな る。シルヴは伯爵令嬢イニェスの恋人だったがトエルヴィールの方
分感じが変ってくる。以下フラソス語のままで使用する︶を、モリ ルヴがエルヴィールの兄であるとわかり、めでたく幕となる。つま
の国にかくまわれていたが、本人はそれを知らず、自分をカスティ お8諺巴ωωき8で結んでいる。トリュファルダソの女奴隷セリー
りエルヴィールの兄ドソ・アルフォソスは幼い時からカスティーユ モリエールは彼の最初の五幕韻文喜劇﹃粗忽者﹄一.国8霞9をも
ーユの王子ドソ・シルヴだとばかり思っていたというからくりなの は青年レリーと相愛の仲だが、その間にレアソドルという邪魔が入
だが、何とも不自然である。しかしながら、この作品はモリエール り、それがうまく片付いたかと思うと、今度はアソドレスが現れて
づ巴ωω磐8がアルフォンスとイニェスの結婚には不可欠であって が、第五幕第九景でレリーの従僕マスカリーユが大あわてで、﹁大
の喜劇としてはかなり特殊なものであること、及びこの話o§・ セリーを買い取ろうとし、レリーは気が気でない、という物語だ
も、ドソ・ガルシーとエルヴィールとの結婚には必ずしも必要では 事件/大事件/﹂と御注進におよぶ。二人のジプシー婆さんのおか
ないことから、批評家からの強い批難はない。 げで、思わぬところから解決が舞いこんで来たのだ。婆さんの一人
の一つとして﹃メリセルト﹄を書いた。といっても、ルイ十四世に いたが、もう一人の婆さんが彼女を盗み出しトリュファルダソ之い
一六六六年、モリエールは︽詩神の舞踊劇︾しd邑卑血Φωζ易Φω はもとザノピオ・ルベルティの奴隷であってその娘セリーを預って
せかされたために最初の二幕しか書けず、未完のままに終ってい う男に売りはらってしまった。ところがトリュファルダソは実はル
る・従ってその葉も知り得ないわけだが・文学史家たちはモリエ ベルテ・その人であった・芳㌻乏思いを寄せるアソドレス︸
−ルの慮図を推測し、.あ占︷ほぼ薮していると見てよい。それと ︵本名すフース︶は,リ、ファルダソの本名を聞いて自分の父だと一
いうのも、モリエールがスキュデリ嬢の小説﹃グラソ・シリュス﹄ わかる。つまり別れ別れになっていた親子三人が、不思議なことに
から題材を得ていることは明らかであり、そこから﹃メリセルト﹄ ’、同じ場所で十数年ぶりにめぐり合ったのである。
ストリスとティマレットは互いに愛し合い、ついには同じ血を分け マスカリーユがレリーに、.トリュファルダソはナポリでザノビオ・
の筋もほぼ予測できるわけなのだ。スキュデリ嬢の小説では、セソ このお8づ轟冨9つ8に対する準備はほとんどなされていない。
た兄妹と知らず結婚してしまうのだが、﹃メリセルト﹄の方はこれ ルベルティと呼ぽれていたこと、内乱が起ったために妻子を残して
を﹃Φ゜§づ蝕ω紹⇒o①で救つでいると想像される・第二幕の終りに国 難を逃れたこと、その息子オラースは行方不明であること、を教え
王女の身であることを予想させる。 一方その恋人ミルティルの方 終りにやっとその名があらわれ、実際に登場するのは何と第五幕に
王が女羊飼いメリセルトをさがしにやって来る。これは当然彼女が るのは終りに近い第四幕第一景であり、アソドレスの方は第四幕の
も、メリセルトの弟であるとわかり罪を犯さずにすむ、という構想で なってからである。このように筋の統一は完全に無視されている。
げ爾oβ⊆Φなる副題がついているゆえんである。 をイタリア及びスペイソの喜劇に求めた。たとえばパルビエリの
あったろう。﹃メリセルト﹄に︽田園悲壮劇︾8ヨひ9ΦBの8﹃巴⑦ モリエールは﹃粗忽者﹄を書くにあだつて、ほとんどすべての材
﹃浅慮な男﹄一、冒四くくΦ註8やセルバソテスの﹃美しきジプシi女﹄ とアルガソトの娘であることが判明し、めでたく解決する。
この芝居の唯一の欠点である結末だけはモリエールの考え出したも う。第三幕第六景の終りに、ジェロソトはネリーヌの姿を認めてこ
に。﹁この作品ほどモリエールが模倣にたよったものは他にないが、 ここでしばらくそのお8弓巴ω紹づoΦの雰囲気を味わってみよ
のである﹂とデポワは書いている。モリエールはこの喜劇によって う叫ぶ、﹁はてな、あれは?﹂邑Φ8暮巴ω紹づooの一つはここから始
︵1︶ .
初めて本格的な五幕喜劇の世界に足をふみ入れたのであり、他から まる。
の力はまだなかったろう。確かに個々の挿話はかなり巧みにつなぎ ネリーヌ これはまあ/パソドルフさま、わたくし⋮⋮
借用したさまざまな要素を一つのまとまった喜劇に組み立てるだけ ジェロント おや、おまえは乳母の ・
クス・マーキナの助けを求めなければしめくくれなくなったのかも ネリーヌ お嬢さまはすぐ亡の近くにおいでです。でも、ここへ
合わされているが、筋があまり複雑になりすぎたので、デウス・エ ジェロント 娘と母親はどこにいる?
しれない。モリエール自身、この突然の解決にとまどっているかの お連れするまえに、ひとつお許しを願わねぽなりません。お嬢
マ秀り藝ユずいぶんいろんなことが一辺に起ったもんじやあ .ジ・。ント祭嬉した? 一
ごとく、登場人物たちにご切言わしめている。 ・ さまは結婚してしまわれたのでございます。
ヨ
セリー あんまり思いがけないことばかりで、あたし、ぼんやり ジェロント隔して、だれと9.
りませんか。 ネリーヌはい、旦那さま。 一
してしまった勧・︶ . ネリ麦アルガソトさんとかのゾ﹂子息で・オク字ヴさんとい
鴇Φ8旨9。δω碧8はイタリア喜劇のお得意の手であり、モリエール ジェロント これはこれは/
しかしながら、上に引いたデポワの言葉は必ずしも正しくない。 う若いかたと。
が模倣した﹃浅慮な男﹄にも同じように﹃Φ8§巴ω紹づ8が見られ アルガント ふしぎなこともあるものだ。
.﹃スカバソの悪だくみ﹄げの司o霞げΦユ①ωαΦω。巷一つに見られる オクターヴの一件がかたつくや、すぐに次の同,Φ8弓巴ω鈴づoΦが
るのだ。 シルヴェ゜ストル まったく、妙なことになったもんだわい!
﹃Φ88思ωのきooは二重になっている点で興味がある。親が旅に出゜ 続くQレアソドルは父のジェロソトに、ゼルピネツトはれっきとし
ている間に、アルガソトの息子オクターヴは貧しい娘イァサソトに た家の生まれで、四才のときにかどわかされたことを説いて聞か
と秘かに結婚してしまうが、最後に二人の娘はそれぞれジェロソト アルガント おっ/この腕環を見ると、これはたしかにわしの
惚れこみ、ジェロソトの息子レアソドルはジプシー娘ゼルビネット せ、その証拠にと彼女の腕環を見せる。
.娘、あなたのおっしやる年齢になくした⋮ 。,的とジ彰ルルでトルは言っているが・それもあながち言い
アルガント 、兄、兄、そのとおり、顔立ちから見て、まぎれもなく ぶんこみ入り方が少ないが、やはり同様に難船、偽名、誘拐、行方
ジェロント あなたの娘? 、すぎではない。この典型的な葛藤喜劇は﹃粗忽者﹄に比べればいく
イアサント なんてまあ、思いがけないことばかり/ おり、,蔦藤喜劇によくあるように解決の方法をデウス・エクス・マ
わたしの娘。 不明、その他イタリア喜劇に欠かせないあらゆる要素を取り入れて
これら二つの﹁Φ8暮巴ωω弩8ωによってもたらされる結末は、 ーキナの伝統的な形お8彗巴ωの鋤づ8に求あている点が面白い。
しそうだ。ジ・エロントとイアサソトとのめぐり合いに対する用意は ﹃女房学校﹄一、国8δ血①ωh①巳日Φωにおいても、モリエールは喜
それに対する準備がほとんどなされていないだけに、全く目まいが ∼ 、
うしろだて は
ないけれどれっきとした家柄の者であること、アルガントは息子の なして外国から帰って来た父親、等々。そして面白いことには、﹃ス
若干なされてはいる。第一幕第二景で、イァサソトは財産も後楯も 劇の常套手段を盛んに利用している。変名、失踪、秘密結婚、財を
オクターヴをジェロソトの娘︵実はイァサソト︶と結婚させるつも カパン﹄と同様、父親があらかじめ嫁にと決めていたまさしくその
りであること、が知らされ、第三幕第一景でゼルピネットはイァサ 女性に・それと知らずに青年が恋をレていたという奇妙な偶然の一 一
だけ、あたしよりまだましょついさとなれぽ名乗り出て、両親の助 つきりしていない。そこからお8暮巴ω紹湾⑦による解決が導き出
ζにウ、−雪..ている穏も礎たは窯嬢がは.きりしている誤見られる.芒て例によってその女性ははじめのうち身一兀がはM
けをかりて、なにもかもまとめてもらえるし、幸福をつかむこと されるのはいうまでもない。
も、してしまった結婚をあらためて認めてもらうこともできるわけ 噛 最後のどたん場になって、クリザルドとオロソトは︽蔦くべき秘
は、第一幕第四景で﹁神さまのもとに召されたあの娘がいまここに が百姓女から養女にともらい受けた少女アニェスは、クリザルドの
よ。﹂だがアルガソトとゼルビネ・ト費Φ§鼠・弩8に関して 密︾を次から次へとかわるがわるに説き明かしてゆ蔦アルノルフ
いたら⋮﹂とアルガソトがつぶやくこと以外には全然準備がない。・ 妹アソジェリックとアソリークの間にできた娘であり・長らく里子
この芝居は﹃粗忽者﹄に劣らず模倣による作品と言える。モリェ に出していた。この娘とオロソトの息子オラースとを結婚させるべ
ンチウスの﹃フォル、・・オ﹄に負う所が多い。彼はこれらの作品から蟹 ・のだ。
ールはラテソやフランスの喜劇にその淋曲求めているが、特にテレ く、フソリークはオロソト、クリザルドと連れ立って出向いて来た
んのおどけたエピソードはまるで縁日の客寄せ芝居を見ているよう いない。アソリークに関しては、アメリカでしこたま儲けて帰って
さまざまな要素を集めて、統一のない喜劇を作りあげた。﹁たくさ しかもモリエールは自然な結末へもってゆく努力をほとんどして
来た男で、何かある大事な用件でこちらへ出向いて来る、というこ アレールと深い仲になっている。ところがアル咽ゴソの方は娘のエ
は、彼女が四才の時アルノルフが百姓婆さんから養女にもらい受け は年甲斐もなくマリアソヌにうつつをぬかし、息子と争う羽目にな
とが第一幕で述べられているきり、アニェスの生い立ちについて リーズを金持ちのひとり者アソセルムに嫁がせようとしハ自分自身
たζとが、やはり第一幕に見えるが、ともに終幕の話88巴ωω9昌o① る。ところが、ふとしたことからヴアレールとマリアソヌとは十六
を導くにたるものではない。 年前の難船で別れ別れになつでいた兄妹であることがわがり、伺時
初演.以来この結末はたえず非難の対象にされた。モリエールの同 に彼らの父がアソセルムその人であることも判明する。
ウルソふこの点をついたのはもちろんの・﹂とであるが、およそ一 のシ←に押しこ.めてい蘂︽もしあなたがナポリをご存じなら、
時代人であり、かつ彼のライバルであったドノー・ド・ヴィゼやプ ー モリエールはこの不思議きわまる目Φ8づ轟一ω紹づoΦをたった一つ
世紀後、いつも解決の部分にはやかましいヴォルテールがやはりこ ドソ゜トーマ・ダルブルチがどんな男か知っていらっしやるはず、
のα曾o器ヨΦ暮をきびしく責めている、﹁﹃女房学校﹄の結末たる とヴアレールが言う。1むろん、知っとるさ。わしほどあの人と
撲魏興涌製雛慧摘離鰐製嚢鍔部贈製 粥鶴楼ガ弊舘隷樵鷺浸幻慰はゲ訓働ト
に﹃女房学校﹄はまだコメディア・デラルテの名残,をとどめてい さにもほどがあるよ!あんたが引き合いに出した男は、すくなくと
させるが、それより出来がよいわけではない﹂と書いている。確か す、とヴァ㌢ールが言うびーその人が?ーええ。1厚かまし 一
るが、単なる葛藤喜劇から性格喜劇の領域にふみこんでいる点は注 も十六年前に、妻子もろとも海に溺れて死んだのだ。ナポリの騒動
意する必要がある。 の折に起こったあのむごたらしい迫害から妻子の命を守ろうとした
同じくイタリァ喜劇にそのもとをたずねることができるが、さら ためにね、とアソセル・ム。ーそのぞき七つになる遭難した息子
に進んで代表的な性格喜劇と見なされている作品で、しかもその結 は、スペイソの船に救われました。その救われた息子というのは、
末は﹃Φ8暮巴ω紹づ8によっているという例がもう一つ残されてい いまこうしてしやべっているわたしなのです︾と言ってヴアレール
る・いうまでもなく﹃守銭奴﹄一、︾<鍵①である。前述の三喜劇と同 は、証拠として、スペイソ船の船長、父親のものだったルビーの印
じく、ここでもイタリァ喜劇風の伝統的な要素、変名、内乱、難 章、母親が腕にはめてくれた鵡璃の腕環、一緒に難破から救われた
船、失踪、そして何よりもお8暮臥ωω碧8が見出せる。 召使のべドロを挙げる。この言葉にマリアンヌは驚いて、︽まあ/,
アルパゴソの息子クレアソトは町の貧しい娘マリァソヌにのぼせ あなたのお話をうかがううちに、あなたがあたしのお兄さまだとい
上り、娘のエリーズの方はアルパゴソ家に入りこんでいる執事のヴ うことが、はっきりわかりました。iあなたがわたしの妹?1’
ええ。あの不幸な難破のとき、神さまはあたしたちもやはり見殺し いうものの、解決への準備もほとんどされていない。第一幕におい
の上から拾いあげてくれたのです。十年間、奴隷生活を送ったの ること、マリァソヌは母親と一緒に貧しく暮していること、アソセ
にはなさいませんでした。海賊がお母さまとあたし二人を船の破片 て、ヴアレールは良家の出であり生別れになった両親をさがしてい
しかし、いざ帰ってみるど、家財はすっかり売り払われ、お父さま ではマリアソヌ母子がある国に財産を持っていることが知らされる
ち、幸いにも自由の身となって、ナポリへ帰ることができました。 ルムは金持ちの貴族で一度結婚していること、が述べられ、第二幕
の消息はかいもくわかりません。で、あたしたちはジェノヴァまで だけである・まさしく典型的なデウス帆エクス゜マーキナと言え
たどりつき、お母さまはそこでちりぢりになった遺産のわずかぼか る゜
りの残りを掻き集め、この町へ引っ越しておいでになりました︾。 * ・
この説明を聞いて今度はアンセルムが叫ぶ、︽おお、神さま/あな *
ただけが奇蹟をおこなう力を備えていられます。さあ、子供たち、 我々は今までおo§§δω習8の見られる作品をジャンル刑に配
はないか・iあなたがわたしたちのお父さん? とヴアレール・ を見ようとした。そして、ただのストーリーだけに書き換えた場 一
わしを抱擁しておくれ。父親といっしよに手を取り合って喜ぼうで 列して、モリエールのお8暮巴ω紹琴Φがどのようなものであるか
は?とマリァソヌ・iをうだよ・娘や・そうだよ・せがれや・ かった・だがそれを製作年代順に並べてみて・そこ誓§§げ一
ーあなたですの・お母さまがあんなにも涙をお流しになったの 合、どのお8旨蝕のω彗8もみんな似たり寄ったりということがわ 6
わしがドソ・ト:マ・ダルブルチなのだ。ありがたいことに、あの ωp昌ooに対するモリエールの技術的進歩が見出せないだろうか。こ
とき溺れ死ななかったばかりか、身につけていたお金もすっかり助 こで簡単にその点を見ておこう。
かった。ナポリへ帰ったら命も危ないと見当をつけたので、これは 一六五五年の﹃粗忽者﹄では、マスカリーユが大ニュースとし
もうふっつりと思い切ることにした。さいわい、あちらに持ってい て先に起った話8暮巴ω紹霧Φの情景を語って聞かせるが、この
この町に住みつくことになったのさ。まえの名前でさんざん苦労を 一六六一年の﹃ドン・ガルシi﹄になると、ドソ・シルヴ目身が
た財産はうまく処分する道がついたんで、アンセルムと名乗って、 けヰ巴Φが実に長く何と八十行にも及んでいる。
なめたので、その悲しみを忘れようと思ってね。︾ 自分の身元の判明したことをドヌ・エルヴィールに知らせに来る。
何という不自然さであろう!親子三人がそれぞれ別々に難破から ﹃粗忽者﹄に比較すれぽぐんと短かくなっているものの、ここでも
、
救い出され、名前を変えてパリ︵、やって来、同じ時に同じ場所でく 晋巴①によっている点は変りない。
しくもめぐり合うとは!﹃女房学校﹄に比べればまだしもましとは 次の﹃女房学校﹄︵一六六二年︶では、江欝αΦが呂魯o目旨ぼoに
ニェスの身の上の一部終始を語り聞かせるのだが、一人だけの長せ ールの着実な進歩のあとがうかがえるのである。こうしたテクニツ
変わる。クリザルドとオロソトがアソリークを伴なって登場し、ア このように畦Φ8弓巴ω紹昌8一つの中に、修業時代からのモリエ
のは確かである。 ・ していたことと関係すると思う。oo目ひ巳Φつとしてのモuエールに
りふと違って二人のかけあいだから、スピード感とリズム感がある クの進歩は、モリエール自身が俳優であり舞台での効果を常々研究
ヘ ヘ ヘ へ
しかしいずれにしろ上の三作ではお8暮巴ω紹昌8はどれも皆ま ついては後にも述べるつもりである。またさっきから↓Φ8暮巴ω,
ず舞台の外で起っており、それを再び舞台上で語って聞かせるとい ωき8の技術的な変化を進歩と呼んできたが、そう呼ぶからには当
ういわば静的報告的な邑Φ8言巴ωωpづ8の形をとっている。ドソ・ 然お8弓鉱ωω鴛8自体がもつ演劇的効果を念頭に置いているので
ソリークはアニェスが自分の娘であることを確めてから登場する。 , 轟
シルヴは自分とエルヴィ:ルとの関係を知って舞台にあらわれ、ア あり、これは後にファソテジーと結びつけてふれる’ことにする。
親と子と、兄と妹とが思いがけずもめぐり合うという場において、 ・ポール・メナールは、°ラリヴェの﹃幽霊騒動﹄一Φω国ω只諺︵一
﹃①。。昌づ鋤Hωω9つ。Φの驚きと喜びの効果は半減する。 て自分の娘を欲探爺の息子と結婚させるという情況設定のあること 7
片方廃量情を知っていては、..。。旨昌”一..pづ。.の劇釣効果、 ,五七九年︶にも﹃守銭奴じじ﹄と同呈うに、亡薯が折よく戻って来一
.ところが一六六八年の﹃守銭奴﹄になるとすっかり形が変る。 を指摘し、この芝居がモリエールの﹃守銭奴﹄に与え唆影響をこう 一
﹃Φ8塗巴ωω碧8はまさしく舞台の上で起り、しかも当人たちはも 評している。﹁もしこの結末が﹃守銭奴﹄の結末にヒソトを与えた
ちうんのこと、その他の人物たちも誰一人として、その瞬間までこ にしても、モリエールの借りは多くない。このロマネスクな手段は
は先程見た通りである・ただζレル、マリアソ・、アソセルム には全然重要さを持っていなかつ煽・.﹂
んな不思議な事が起ろうとは予想だにしていない。この驚きの場面 彼の芝居のいくつかにおいて筋のもつれをほぐしているが、彼の目
が順番に物語る身の上話は少々長すぎて、せっかくの生き生きした それでは一体象ぎ器ヨΦ三に対するモリエールの無頓着さをど
効果がそがれてしまっている。 う説明したらよいのだろう。ポール・アルベールはこの問題に対し
,一六七一年の﹃スカパン﹄において、この欠点はみごと改められ◎ て興味深い仮説を提出している。悲劇が主要人物の死によって終る
ている。﹃①8暮巴ωの碧oΦが舞台上で起るのは﹃守銭奴﹄と同じだ ように、喜劇は結婚によって終る。これはいわぽ慣習になってい
テンポも早い。先の引用を読み比べて見れぽその差は明らかであろ 婿や嫁を押しつけようとするが、それは自分自身に何かと都合のよ
が、それがスタソダールも指摘するようにずっと簡潔になっていて る。大抵の場合、父親が若い男女の結婚に反対する。彼はわが子に
う。 、 い婿や嫁だからだ。恋する子供たちとその結婚に同意してくれぬ親
との争い、これは喜劇の永遠のテーマであって、﹁筋だけを問題に エールはそれと知らずにみずからのペシミスムを結末の不自然さに
へ12︶
した場合、モリエール喜劇の3一4を占めているしのだ。当時の社会 よって表わしたのではなかろうか、ということである。
に目を移そう。現実はどうだったのだろう。十七世紀には今日とち だが冨8壼鉱ωω碧8は古今東西を通じて広く用いられた喜劇の
がつて、もし娘が好きでもない相手を親から押しつけられた場合、 常套手段であり、お8暮巴ω$づ8による結末はどれも皆多かれ少
た。﹁父親は絶対的な権力を持ち、子は涙しか持たなかった。わが て常に父権の強かったことを物語っているのだろうか。いずれにし
その言いつけに従うかあるいは修道院へ行くかしか方法がなかつ 撃 なかれ不自然なものばかりである。とすればこれは古今東西を通じ
喜劇作家はどうすればいいのか?芸術上の慣習は彼に結婚にょる解 ろモリエールの時代だけが特別に父権の強かった時代だどいう証拠
モリエールは.深刻なジレソマにおとしいれられる。﹁ハッピー・エ
決を要求し、目の前に見る現実はその芸術理論とあいいれない。﹂ はない。
ソドを要求する喜劇の慣習と、その逆を強いる現実社会の掟との間 アルベールの説はなかなか面白いが、彼自身も危惧しているよう
で、モリエールは前者をとらざるを得なかった。しかし彼はいやい に奇抜な仮説に終りそうな気がする。これに対してもう一つの解釈
婁がら・いわば渋い顔芒ながら前者を選んだので・彼が真実だ があり・こちらの方がより合理的に星説得力がある・従来ほとん一
と思っているのは実は後者なのだとすぐに見てとれる。ここに思想 どの学者がこの説を支持して来たと見てよい。それは簡単にい、兄 一
り をあばいて見せてくれるのだ。﹂ だ、ということなのだ。σヴァイスは書いている。﹁性格がうまく描
家モリエールが本心を明かし、表面上は陽気で軽い作品が暗い深み ば、モリエールは解決の部分を犠牲にしてまで性格描写に力を注い
事実、もしモリエールの筋を最後まで論理的に押しすすめてゆけ き出されてこれで申㌧分なしという時、物語の展開する余地がまだ
ニェスに自分との結婚を迫るだろう。オルゴソ家はタルチュフに滅 末をつけ加えて幕をおろしてしまう。﹂確かに筋の統一についてはr
ぼ、その内の多くはα.鋤目.の方へ向かうだろう。アル・ルフはア +分残されていても、モリエール嘩.﹂で一線を引き、安っぽい結
ぼされるに違いあるまい。二組の結婚はアルパゴソの吝齎にはぽま モリエールは無関心な態度をとっているように見うけられる。しょ
れてできそうにもない。、これが現実社会における当然のなりゆきだ っちゅうデウス・エクス.マーキナを使っていることは周知の事実
こ’5叫んでいるようだ、﹃こんなハッピー・エソドを信じてはいけ つて解決しているのだから。また筋の上では不必要な要素が彼の芝
ろう。従ってアルベールはこう書いている、﹁モリエールは我々に である、なにしろ全作品のー一3がデウス・エクス.マーキナによ
ない。到底ありそうにもない不可能なことだとすぐわかるだろう﹄ 居にはたくさんつけ加えられている。しかしこれらの要素は性格を
と。﹂以上がポール・アルベールの説であるが、要約すれぽ、モリ 浮き彫りにして見せるためには必要なのだ、というのである。我々
・ , O
の興味は筋に向けられるというよりはむしろある人物の上に注がれ 葛藤喜劇を一段低いものと見なしているきらいはないだろうか。ブ
にあり、シェレールの表現を借りれば、﹁モリエールは筋の統一を らがモリエールの嘗ぎωo嘗Φあるいは目o窮房8としての面を強
る。モリエールの意図はある対象に観客の注意を集中させること リユソチエールをはじめダニエル・モルネ、ギュスタヴニミショー
け ある性格に対する興味の統一に代えた﹂のである。もしそうだとす 張しすぎたあまり、彼の最も重要な8ヨひ象Φ欝としての面をおろそ
々の注意をアルノルフやタルチュフやアルパゴソの上に向けさせて めに筋を犠牲にした﹂という説は、﹃女房学校﹄や﹃守銭奴﹄には
れぽ、モリエールはそれにほぼ成功したと言える。なぜなら彼は我 かにしてはいないだろうか。少なくとも、﹁モリエールは性格のた
いるのだから。﹁だからこそ﹃女房学校﹄や﹃守銭奴﹄がh性格喜、 あてはまるとしても、﹃粗忽者﹄や﹃スカバソ﹄には適用できまい。
劇﹂と呼ぽれるのだ。ヴォルテールは自曾〇二㊦§Φ三がしばしばモ しかもデウス・エクス・マーキナの導入によって筋の統一を乱した
いて、﹁.﹂︵の15︶欠占葎薯劇においてよりも藤喜劇におい三層、ば筋の方は自然おろそかに奮ものかどうか・その点に嚢問は残
リエールの弱みになっていると論じたあと、﹃粗忽者﹄を念頭に置 例は、性格喜劇以外の方が断然多いのだ。また性格描写に力を注げ
許しが奉Lと述べている。.﹂れは、性格喜劇なら興味は人物の性 ろう・ − ・ ﹂ 一
か。とすればヴォルテ!ルもまたヴァイスらと同じ立場に立ってい 沸 . − 、一
ヘ ホ
格にしぼられるから筋は二の次でもよい、という意味なのだろう * 9
るものと考えられる。ラソカスターの次の言葉は、上に述べて来た 我々は今までモリエールの喜劇を文字に定着されたけΦ曇oとし
立場を要約している、﹁モリエールはしぽしば彼の統一原理として て見てきたような気がする。一度舞台にのせてみたらどうだろう。
々彼籍末の導き方に全く無頓着であったように思われ翰・.﹂つま ようにぎこちないものであろうか・筆者自身のとぼしい経験から一旨
事件の論理的なつながりよりも性格の方を好んで用いた。そして時 ・読んでいていかにも不自然に思、兄た結末は、上演してもやはり同じ
ス・エクス・マーキナは﹁性格﹂のために払われたいわぽ高い代価 や結構楽しませてくれたと言った方がよい。この実感をどう正当化
りこの説に従えぽ、モリエールにとって人々が盛んに攻撃するデウ えば、モリエールの結末は決して失望させるものではなかった。い
であった、ということになる。 すればよいのか?
確かにこの仮説は多くの研究家が麦持するだけあって、十分の魅 シェレールは﹃フラソス古典主義劇作法﹄の中で、できるだけ多
力を持っている。しかしその反面この立場は、﹁モリエール喜劇﹂す ー くの人物を解決のシーソに登場させることが古典主義演劇、ことに −
はいないだろうか。性格喜劇を本物と考え、﹃スカバソ﹄のような 足感を与えんがためであったと述べている。観客は意識的無意識的
なわち﹁籍喜劇﹂、という従来のモリテル観にとらわれすぎて 古典喜劇のいわぽ規則にな.ていた.﹂婆指摘し、それは観客に満
が舞台に集まり結婚を祝う姿を見る時、この上ない満身感を味わう スにしてやられたり、アルパゴソがあんなにも極端な守銭奴になっ
を問わず常にハッピー・エソドを期待しているのであり、おおぜい うなふしさえ時にうかがえる。我々はアルノルフがまんまとアニェ
ものなのだ。こうしたシチュエーショソを作り出す上で、デウス・ たりするのを、﹁本当らしい﹂などと考えるわけにはゆか、ない。ま
エクス・マーキナなかんずく器8諺巴ωωき8がむしろプラスの面 してやスカバソの愉快なぺてんの連続を到底本当だとは思えない。
で作用していることは容易に理解できよう。 我々は﹃スカバソ﹄を完全にファソテジーの世界だと知って見てか
一方俳優の方からいえば、ラスト・シーソに登場して観客の拍手 る。現実には到底ありそうもない思いがけなさの魅力がそこ艦はあ
﹃人間嫌い﹄一①ζδ鋤客耳o需のような極端な例や、いわばスケッ ・しめるのではないだろうか。比較的最近の傾向として、ムーアやル
を受けることは、気持ちのよいものに違いない。モリエール喜劇の る。終幕の﹃Φ8量巴ωω9DづoΦはファソテジーのしめくくりだともい
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
幽曾Φ琶ヨ①巨を検討してみると、舞台から一人一人姿を消してゆく える。同様に﹃女房学校﹄や﹃守銭奴﹄もつくりごとだからこそ楽
チの連続のような﹃ドソ・ジュアソ﹄などの例は別にして、ほとん ネ・プレイが、モリエール喜劇を﹁教訓劇﹂﹁誠刺劇﹂として見よ
蒜雛獣繭葱鵜藤殿監麓帰琢竺號雛回 髄嬬幾劫誘暫∂螺灘鮫臨銑罫箆.㌧識ト
でもあった・というのはモ呈を座の座口貝は多少の増渥あつ 楚まだまだモ呈−ル研究の少数派だが、彼らの仕議+分評価↓
スト・シーソは文字通り﹁座員一同勢揃いの場﹂だったのだ。この エウリピデスはデウス・エクス・マーキナを最も頻繁に用いた作
ても終始十人前後であったから、﹃女房学校﹄や﹃スカバソ﹄のラ されるべきである。
ような﹁勢揃いの場﹂を成立させるためにおoo目鉱ωω弩8がまこ 家として知られているが、これはあまりにも人間的になりすぎたド
とに都合のよい方法であったことは、いまさらあらためて言うには ラマを再び神の世界にひきもどす効果があると説明する人もある。
及ぶまい。 、 ° つまり身近かな人間の悲劇を、プロローグとエピローグにおける神
このようにモリエールは観客に対しても、また座員たちに対して の登場によっていわば気密化し、観客を伝説の世界、神の夢幻の世
ていた俳優兼座長であったからに他ならない。. 円①8暮巴のωpづoΦも同じように説明できないだろうか。人間の心を
も細かい心遣いをしている。これはモリエ!ルが演劇の実際を知っ 界に遊ばせる機能を果しているというのだ。とすれぽモリエ!ルの
古典主義演劇は﹁本当らしさ﹂︿鑓一ωΦ§匡磐8を重視した。だ 深くえぐり出し、そのために我々に軽い恐怖さえ感じさせる彼の
が喜劇の場合には、モれはジャンルの性格から言っても必ずしも必 ﹁性格喜劇﹂も、結末におけるデウス.エクス.マーキナによっ
要な条件ではなかった。いやむしろ﹁本当らしさ﹂を笑っているよ て、これも実はファソテジーの世界だりたのだと観客を安心させる
れ いわば気密化構造を持っていないだろうか。ブレヒトのいう意味と は、演劇の最も完全な、最もみごとな伝統に従っているのだ。L
は少し違うかもしれないが、これもやはり﹁異化作用﹂と呼ぶこと . ︵一九六六.二一.四︶
アソテジーの世界ほど安心して笑えるところはない。モリエール喜 一、モリエールからの引用は、鈴木力衛氏の訳をお借りした。但
ができるだろう。虚構の世界ほど気楽に楽しめるところはない。フ 付記
劇の面白さは、案外嘘の巧みな組立てにあるのではなかろうか。 し適当に省略を加えた。 ’
* ﹃モリエール名作集﹄白水社
品に広く利用されているデウス・エクス・マーキナ全体へと展望を 一、モリエール作品の幕景数表示は、O﹃四旨αω団6↓ぞ9一昌ω版に従
以上、モリエールに見られる器8弓巴の紹b8を検討し、彼の作 ﹃モリェール﹄ ︵世界古典文学全集47︶筑摩書房
って研究家の立場が大きく二つに分かれることを知った。すなわち 一、触Φ8葺効一ωω9。口。⑦が当時実際によく起っていたことも考、兄ら
広げたつもりであるが、我々はモリエールの象づ〇二Φヨo暮をめぐ − った。
灘繰譲痛縫舗㌫翫額轡脳励ボ磁麓酸繕 鷹願蘭鱗櫓励鍛黙筋が編魏難議レ
かという根本的な態度の問題に帰着するように思われる。従来研究 ︹註︺
窮極的には・モリエルを琶⋮景と見るか8§雪と見る た妻があるから、その傍証とはなるかもしれない。 ↓
ら我々は、モリエールが喜劇作家であるよりも先にまず喜劇俳優で ② 第五幕第九景
家の主流は前者の立場であって、今日もなお変らない。しかしなが ω 国α三〇づ住ΦωO墨巳ω国。触ぞ蝕諺・8ヨ①H・︾・。。り・
はならない。そうして見た時、﹁一番大切なことは人を喜ばすとい ㈲ 言δωピΦヨ蝕冨o“H目箕Φω匹o口ωα①号緯胃ρ<一。ω吟δ
あったこと・そして生涯演出家を兼ねた座長であった事実を忘れて ⑧ ﹃フォルミォ﹄にも88暮蝕沼9。づ8が見られる。
うことです﹂というドラソトの雪。葉幅・︶モリエール自身の真実の声 ︵・・。一・菖℃﹄.
のような重みを帯びてくる。 ㈲ 第五幕終景 .
モリエールと同じく、俳優であり演出家であり、モリエールの喜 ㈲ <。冨ヰ①”≦①ΩΦζ&酵Φ曽くΦo山Φb①葺ωωo§日巴凶①ωαΦ
劇を何度も毛がけたルイ・ジュヴエの次の言葉は、耳を傾ける価値 ωΦω営曾Φp︵Q旨くおの8ヨ覧α8ωαΦ<巴辞巴↓ρ<oピω。。・・
どと非難するのは、相当愚かな無礼なことだ。彼の傷曾。二①ヨ①三 ω ︾暮9⇒Φ﹀Ω9ヨ“類一ω8罵ΦαΦ一9。ζ#簿鋤εおヰ帥鍔巴ω①
が十分あるように思われる。﹁モリエ⋮ルの畠曾ooΦヨ①艮を弱いな ︾﹁ヨき阜︾=寓ひΦ︶℃・①P
@碧×<目“絡9℃u。§9。計お切・。ン。ヨ。日”やト。°。ド ⑫①ピ&呂。償.<①汀︽竃&財ΦyO§h臼g岳L恥、ωΦ冥。学
㈲ 第五幕第五景 ・ げ﹃ρ一㊤ωS
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