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人間存在に関する哲学的考察 -デカルト、フッサール及びハイデガー-
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 人間存在に関する哲学的考察 -デカルト、フッサール及びハイデガ ー- Author(s) 井上, 義彦 Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1996, 37(2), p.83-95 Issue Date 1996-10-31 URL http://hdl.handle.net/10069/15390 Right This document is downloaded at: 2017-03-31T23:33:35Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第37巻 第2号 83-95 (1996年10月) 人間存在に関する哲学的考察 -デカルト、フッサール及びハイデガー井上義彦 A Philosophical Investigation on the Human Being -Descartes, Husserl and HeideggerYoshihiko INOUE はじめに 我々人間にとって、人間存在の意味はそれ自体一つの謎である。人間にとって、何 故に自分が存在しているのか、これが謎である。人間はこの自己存在の謎を求めて、 己れの生を生きてゆくといえる。我々が生きてゆくことは、自己存在の意味を自ら問 い求めて、自らの解答を自己の人生において確認し、あるいは立証する営みであると いえる。 哲学の歴史とは、それ白身人間存在の探求史と言えなくもないほど、人間存在の意 味が探究されている。その中から、この小論では我々の立論に必須な三人の哲学者、 すなわちデカルト、フッサール、 -イデガ-を取り上げて考察したい。 § 1.デカルトのコギト(cogito) デカルトは、伝統的な諸学問に絶望していた。では何故にデカルトは従来の諸学問 に絶望したのであろうか。それは、従来の学問の暖昧さである。そしてその暖昧さの 理由は、それら諸学問の根拠の不確実さにあると考えた。つまり、 「それら諸学問の 原理はすべて哲学に由来するもののはずである」(1) (DM. P140)のに、肝心の哲学 それ自身の根拠、すなわち哲学の原理が暖味で不確実なものであった。哲学は本来諸 学の原理の学として、厳密なもの確実なものでなければならない。従って、哲学の原 理は無批判な前提に依らずに、批判的に吟味された確実な根拠でなければならない。 哲学は如何なる学の前提や原理をも、たとえそれらが従来どれほど信頼され、権威あ るものとされていたにせよ、批判的な吟味検討なしには許容されるべきではないので ある。これがデカルトの哲学を特徴づけ、新しい哲学の方途を切り開いた無前提主義 の立場である。これはまた、後にこのデカルト的方途を継承しようとして苦闘したフッ サールも、 「哲学は、かかる省察からのみ根源的に誕生することができる」(2)と共感す る哲学的姿勢なのである。 84 井上義彦 しかるに、従来の学問は、枝葉末節に囚われて、本来探求すべき根本的な原理探求 に従事していなかった。そこでは、 「深く掘り下げて、岩石と粘土を見出す代りに、 この砂の上に楼閣を築いた」(3)のである。こうした軟弱な土台の上に築かれた学問は 堅固なものではなかった。 「諸学問が原理を哲学から借りている限り、かくも堅実性 に乏しい基礎の上には、堅固な学問を何一つ築くことができない」 (DM. P130-1) とデカルトは考えた。 そこで、デカルトはもはや他人をあてにせず、自ら新たに哲学を構築しようとする。 「私の計画は、私自身の思想を改革することに努め、すべて私自身のものである基礎 の上に私自身の思想を構築する」 (DM. P135)ことである。そのためには、哲学の 確実な根拠としての哲学の第一原理が必要である。 そこで、哲学の原理を探し出す方法として、 「方法的懐疑」 (doute methodique) が提案されるのである。 デカルトは、確実な原理を探求して、方法論的にすべてを疑っていく。少しでも疑 わしいものは不確実なもの虚偽なものとして除去していく。 「されば、何時か私が諸々の学問においてある確固不易なものを確立しようと欲す るならば、一生に一度は(semel in vita)断じて、すべてを根底から覆えし、そして 最初の土台から新たに始めなくてはならない」(4) (Med. P17)。 こうしたデカルトの懐疑の方法は、 「全般的転覆」 (eversio generalis)を通して原 理を確立する「方法的懐疑」である。それは、デカルトによれば、 「確固不動の点か ら出発するように、この普遍的懐疑から出発して、私は神の認識、汝自身の認識、世 界の中にあるすべての事物の認識をもたらそうと思う」 (RV. P891)ものである。 この方法的懐疑の戦略、すなわち「全般的懐疑の効用」 (tantae dubitationis utilitas)は、デカルト白身によって三点挙示されている(5)まず、第一に、それは 「あらゆる先入鬼から我々を解放する」 (Med. P12)こと、換言すれば、これまで無 批判的に受け容れてきた既得の知識をすべて排除し、我々の精神をいわば白紙に還元 し、無前提主義の立場に立っことである。次に第二に、それは「精神を感覚から引き 離す最も容易な道を用意する」こと、つまり、精神を方法論的に純粋恩惟(理性)の 境地に高め、心身分離、従って物心二元論の立場に到達することである。最後に第三 に、それは「我々が真であると理解したことについて、もはや疑い得ないようにする」 こと、別言すれば、認識の確実な原理あるいは真理規準を確立することである。 方法的懐疑は、こうした意図を秘めっっ、遂行される。その結果として、こうなる。 「私がそのように一切を虚像であると考えようと欲する限り、そう考えている私 (moy)は必然的に何ものか(quelque chose)でなければならぬことに気が付い た。そして「我思う、故に我在り」 (je pense, doneje suis)というこの真理 人間存在に関する哲学的考察-デカルト、フッサール及び-イデガ- 85 (verite)が極めて堅固であり、極めて確実であって、懐疑論者のどのような途方 もない想定をもってしても、この真理を覆すことができないのを見て、私はこれを 私の探求しっつあった「哲学の第一原理」 (le premier principe de la philosophie) として、ためらうことなく受け容れることができると判断した」(6) (DM. P147-'8)。 ここに、いかなる懐疑によっても不可疑な確実な原理(真理)が、 "je pense done je sins. 、すなわち``cogito, ergo sum. "として確立されたのである。それは、 正にアルキメデスの「確固不動の点」 (punctum)にも喰えられるものであり、哲学 の第一原理なのである。 デカルトは、この哲学の第-原理たる「我思う、故に我在り」 (cogito, ergo sum.) において、必然的に存在する私を確立したのである。こうした私とは何か。 『省察』 によれば、 「私は真のもの、そして真に存在するものである」。だがそれは如何なるも のか。 「私は思惟するもの(res cogitans)、即ち精神、霊魂、悟性、理性である」 (Med. P27)<これは何を意味するのか。それは、 「疑い、理解し、肯定し、否定し、 欲し、欲さぬ、なおまた想像し、感覚するものである」 (Med. P28)。 デカルトのコギト(cogito)には、広狭二義あることが分かる。コギトは、広義に は感覚・想像をも包含するものとして意識的存在である。狭義には、純粋に思惟する ものとして理性的存在である。デカルトによると、コギトにおける私とは、精神的実 体であり、この実体の本質は思惟(cogitatio)である。 これに対して、物体とは物質的実体であり、その本質は延長(extensio)なのであ みつろう る。それは有名な「蜜胤」の比職によって明らかである。従って、 「物資即ち一般に 物体の本性は、固さ・重さ・色又はほかの感覚的性質にあるのではなく、ただ長さと 幅と深さにおける延長にある」(7) (PP. P65)ということである。 さてそうなると、精神は恩惟を本質とする実体であり、物体は延長を本質とする実 体である。従って両者は実体的に区別されうることになる。両者の間には、 「実体的 区別」 (distinctio substantialis)、換言すると「実在的区別」 (distinctio realis) が成立することになる。ここに、有名な物心二元論(dualism)が成立することにな るのである。 この原理的テーゼが人間に適用されると、人間存在における精神(心)と身体(肉 体)との「実体的区別」あるいは「実在的区別」が主張されることになり、そこにま た、物心分離、すなわち心身分離が成立することになるのである。こうした事態は、 デカルト自身によって、 「私をして私であらしめる精神は、身体と全く別筒のもので ある」 (DM, P148)とか、 「私がこの身体なしに存在しうることは、確かである」 (Med. P78)とか、明言されている。 86 井上義彦 ところが他面では、デカルトは、人間存在が「精神と身体の合成体であること」 (Med. P82, P88)、従って「精神が身体と密接に結合されている」 (Med. P78、 P81)ことを是認しており、いわば心身の「実体的結合」 (unio substantialis)、従っ て心身結合を肯定している。 一方では心身分離を説き、他方で心身結合を説いている。これは、明らかに学説上 の矛盾である。 更にまた、物心が実体として区別される以上、 「実体がそもそも他の何物にも依存 せずそれ自身で存在するもの」と定義されていることからして、物心両実体間の相互 作用を説明する根拠がない。従って物心間の相互作用は否定される。これは、人間の 心身問においても同様である。だが人間の現実においては、相互作用の現存は否定で きない。これはまた如何に説明すべきか。ここに、有名な「心身問題」が出現するこ とになる。 デカルトのコギト(cogito)に基づく二元論的な思考は、その後の世界の思考の枠 を根本的に規定するパラダイム(paradigm)になった。心身問題もそうだが、認識 論の主観一客観図式もそうである。現代思想ににおいては、この主観-客観図式の超 克の問題が思想の一つの基調になっているが、この主観-客観の二元的図式が登場し たのもデカルト哲学からなのである。 認識論は、ふつうロックの『人間悟性論』 (1690)における「私の目的は、人間の 知識の起源、確実性及び範囲並びに信含、意見、同意の根拠と程度を研究することで ある。(8)」に始まり、カントの『純粋理性批判』 (1781)における「認識の起源、範囲 及び客観的妥当性を規定する学」(9) (A57, B81)という「認識批判」 (Kritik der Erkenntnisse)に極まるとされるのが常である。だがしかし認識論の根本的な問題及 び構図が、既にデカルトによって問われ提示されていたという事実は銘記されねばな らない。 デカルトは、 『精神指導の規則』 (1701、死後公刊)において、こう言う- 「人間 的認識とは何であるか、それは何処まで及びうるのか、を探求することほど有益なこ とはない。一一しかもこれは、少しでも真理を愛する人ならば、誰でも一生に一度は 為すべきことである。なぜならば、この研究のうちには真の認識手段と全方法が含ま れているから」。そして「我々が自己の精神の限界を決定することを、困難なことと 考えてはならない」。こうした問題を論証するためには、まず問題に関係のあるすべ ての事物を二つの部分に分つ必要がある。すなわち「それら事物の帰せられるべきは、 一方は認識の能力をもっ我々(nos)であり、他方は認識される事物自身(res ipsa) である」(10) (Reg. P397-'8)。 ここには、認識論の基本的構図たる主観一客観図式がすでに明確な形で提示されて 人間存在に関する哲学的考察-デカルト、フッサール及びハイデガー87 いると言えよう。 さて、 ``cogito, ergo sum"が哲学の第一原理であることが確認された。ではこ の第一原理のように、真なる確実な認識とは如何なるものであるのか。 「一つの命題 が真であり確実であるためには、何が要求されているのか」 (DM. P148)cデカルト は、第一原理の確実な所以の根拠を求めて分析し、 「この第-の認識の内には、ある 一定の明噺且つ判明な知覚(clara et distincta perceptio)以外の何物もない」 (Med. P35)ことを知る。それ故に、第一原理と同様に、明噺且つ判明な知覚(認識) は真理であり、確実な認識と推察されうる。従って、この認識の「明噺且つ判明」が、 真理(確実な認識)の「規準」になるのである。 デカルトは言う- 「私が真理を語っていることを私に保証するところの「私は 考える、故に私は在る」という命題の内には、考える為には存在しなければならな いことを、私が極めて明噺に見るということ以外には何物もないことを認めたので、 「我々が極めて明噺に且つ極めて判明に理解するものはすべて真である」 (les choses que nous concevons fort clairement et fort distmctement sont toutes vraies.)ということを、一般的規則(r芭gle generale)とすることが出来 ると考えた」(ll) (DM. P148)。 このように、デカルトは原理的立場としてのコギト(cogito)から、物心二元論、 心身二元論及び明噺判明知の一般的規則、並びに真理規準などの原理的なテーゼを導 出していることからも推察されるように、デカルトの哲学的立場は、コギト(我恩う) に基づく独我論的な世界観になっている。 デカルト哲学に特徴的な「外界」の存在証明問題は、まさしくこの独我論的な世界 観に帰因する問題といえよう。つまり、コギト(我思う)に基づく哲学的立場に立っ 限り、私の外なる世界(すなわち外界)は、私にとって謎になる。外界が、私が恩う ように存在するといえるのかどうか、直ちに断言できない。とはいえ、外界が存在し ないとは考え難い。コギト(我患う)から外界へ、換言すれば、認識から存在へ如何 にして至りうるのか。デカルトが神の媒介を持ち出すのは、この点においてである。 神の誠実さを媒介にして、 「我思う」 (コギト)の明噺判明な認識が真なる認識である 限り、外界の認識が成立しているその通りに外界が存在していると論及するのである。 ここには、 「デカルトの循環論証」 (cercle cartesien)といわれる周知の問題が登 場する。 「デカルトの循環論証」の問題は既に論究したことがあるので、ここではこ れ以上言及しないが、要するに、デカルトの認識論は、このままでは悪しき独我論 (solipsism)に転落し、その独断的主観性から、抜け出せない構造を有している。そ こで、こうした危難を防ぐ為にも、また我々の認識の客観的真理への到達の為にも、 井上義彦 88 神の保証が必要になったと考えられる。別言すれば、神の保証とは、我々が明噺判明 に理解するものが、我々がそれを理解する通りに、主観的のみならず客観的にも真で あることを保証するということである。このことにより、デカルトは、コギトから外 界へ、すなわち認識から存在へ架橋できると考えたのである。だがしかし、神の存在 証明に関して、問題は依然として残ると言わざるをえない。神の存在証明の疑義は直 ちに神の保証にも波及する。神の存在証明そのものが、認識から存在への問題そのも のなのである。だからして、神の保証を媒介とするコギトから外界への架橋、すなわ ち認識から存在への架橋も疑義の対象になるのである。この限りにおいて、デカルト が、コギトに基づく独我論的な世界観から脱出することは困難であると言わざるをえ ないのである。 § 2.フッサールの現象学的還元 フッサールは、 1928年フライブルク大学を後任者-イデガ一に譲って、退官し、研 究の第一線を退いた。しかし彼の学問的情熱は衰えず、ますます研究一途に打ち込ん だ。 1929年にソルポンヌで「先験的現象学入門」という題目で行った講演の仏語が 『デカルト的省察』 (Meditations Cartesiennes)として、 1931年に公刊された。 この著書は、書名から推測できるように、フッサールが自己の現象学の立場と現象 学的試みの先駆者としてのデカルトの哲学的立場とを対比して、デカルトの最も重要 な主著たる『省察』 (1641年)を踏まえて論じられたものとして極めて興味深いもの である。 フッサールによると、 「先験的現象学は、デカルトの遂行した省察から新しい推 進力を与えられた」もので、 「現象学が先験的哲学という新しい形態をとることになっ たのは、直接デカルトの省察の研究の結果である」(12) (CM. S43)とされ、 「我々は 先験的現象学を、一種の新デカルト主義(Neu-Cartesianismus)と呼んでさしつか えない」とも言われている。デカルトでは、あらゆる学問は、哲学の体系的統一に基 づいてのみ、真の学問体系になりうると考えられていたが、それはフッサールによっ て、 「そうした新しい学問体系をうち立てるという要求は、デカルトにおいては、主 観の方へ方向転換した哲学において達成されている」 (CM. S44)と評価されている。 デカルトによるコギトへの方向転換には、二つの重要な哲学的意義があると指摘さ れている。第一には、 「デカルトの『省察』は、デカルトという-哲学者の単なる私 事にとどまらず、 -・-それはむしろ、これから哲学を始めようとするすべての人に必 要な省察の模範(Urbild)を示している」 (CM. S44)のである。第二には、 「我々 は、そこ〔『省察』〕において、純粋に思惟する自我-の還帰(Rtickgang)が遂行さ れているのを見出す。省察者は、周知の極めて注目すべき懐疑の方法(Zweifelsme- 人間存在に関する哲学的考察-デカルト、フッサール及びハイデガー89 thode)によって、その還帰を遂行している」 (CM. S44-'5)のである。 フッサールは、デカルトは方法的懐疑によってコギトへの還帰を果たし、 「まさし く純粋な我思う(ego cogito)への還帰によって、 〔哲学の〕新時代を開いたという ことは重要な事実である」 (CM. S46)とコメントしている。つまり、彼によれば、 デカルトはまったく新しいタイプの哲学を創始したのであり、それによって哲学は、 従来の素朴な客観主義から先験的主観主義へと方向転換したと解釈されている。 では、何処でデカルトは失敗したのか。フッサールによれば、デカルトはあらゆる 偏見・先入鬼から徹底的に自由になろうと努力していたが、実はデカルトは無意識の 内に多くの偏見に囚われていたとされている。つまり、ジルソンやコアレの研究によ り、デカルト哲学の中には、多くのスコラ哲学的な偏見が秘かに残存していることが 明らかになったこと、近代の数学的自然科学への讃嘆から生まれた偏見、換言すると、 学問的に正当な確実な学問体系は、世界のついての演鐸的で幾何学的秩序に従う学問 であり、コギト(我恩う)の原理は、かかる学問体系に基礎を提供すべきとする偏見、 従って「いまや問題は、自我に本来そなわっている諸原理に従って正しく推論を進め ることによって、世界のその他の部分を推論することであると考える」 (CM. S63) ような偏見、 -これである。 デカルトは、こうした偏見のために、哲学の偉大な方向転換を行い、 「あらゆる発 見の中での最も偉大な発見の直前に立ち、ある意味ですでにその発見を行なっていた にもかかわらず、その発見の本来の意味を把握せず、 ・--従って真の先験的哲学-の 関門をくぐり抜けることができなかった」(13) (CM. S64)のであると注解されている。 それにしても、フッサールのデカルト解釈における重要なポイントは、デカルトの 「方法的懐疑」を自己の「現象学的還元」の先駆的試行、あるいは先駆的形態とみな していることである。 「デカルトは、周知の懐疑の方法(Zweifelsmethode)によって、コギト(ego cogito)への還帰を遂行している」 (CM. S45)。 デカルト的な省察は,我々思考者をして、徹底的な方法的懐疑によって、あらゆる 偏見・先入見あるいは可疑的な知識を排除して、あらゆる虚偽から免れた絶対的に不 可疑なコギト(cogito, ergo sum)に到達する。思惟のレベルで言えば、各恩惟す る者は、自らの徹底的な懐疑により、あらゆる恩惟形成物に対してその信感性を疑っ ても、それを疑って思惟しているそのこと自身(自証的確実性)は決して疑いえない。 思惟する者は、懐疑の果てに自らの思惟に、従ってコギト(我恩う)に還帰するので ある。別言すれば、少しでも可疑的なものは排除する方法的懐疑の果てに、もはや絶 対的に不可疑な「我思う」 (ego cogito)が残存するのである。 フッサールは、 『危機』書では、デカルトの「方法的懐疑」を「デカルト的判断停 90 井上義彦 止」 (Cartesianische Epoche)あるいは「一種の徹底的な懐疑的判断停止」 (eine Art radikaler skeptischer Epoche)と呼び(14) (Krisis, S77)、自らの現象学的還元 の骨子をなす判断停止(ェボケー)をそれと重ね合わせて論及している。 現象学の判断停止(ェボケー)は、我々の自然なものの見方、すなわち自然な世界 像に含まれる一切のドクサを括弧に入れるが、そのことによって世界は意識事象すな わち「純粋意識」 -と還元されるのである。 「先験的判断停止という現象学の根本的方法は、それが我々を先験的な存在の地盤 へ立ち帰らせる限り、先験的一現象学的還元(transzendental-phanomenologisch Reduktion)と呼ばれる」 (CM. S16)< フッサールの現象学的還元は、デカルトの方法的懐疑と同じく、徹底的な懐疑を骨 子とするもので、直接に確かめられていない種々のドクサをあえて疑い、その信愚を 括弧に入れるような判断停止(ェボケ-)のことである。 § 3.ハイデガーの「世界内存在」 フッサールは、 1927年の夏に、 -イデガ一に重要な仕事-の協力を要請した。そ の仕事は、 『ブリタニカ』 (大英百科事典)に新たに追加される「現象学」という項目 の執筆依頼であった。二人の共同執筆は結局は失敗に帰したが、その共同作業の過程 の中で、二人の現象学理解の相違と二人の別れを決定づける要因が表面化するのであ る。因に、第一草稿は二人の共同作業で執筆され、第二草稿は第一草稿を基にして、 前半を-イデガ-、後半をフッサールが分担執筆した。そして決定稿(第四稿)は、 フッサール一人の手によって、 -イデガ-の執筆部分や提案を殆んど無視した形で仕 上げられた。この「ブリタニカ論文」の共同作業の失敗が、二人の別れを決定づけた のである。 ところで、 -イデガーは、第二草稿で「現象学の理念と意識への還帰」という標題 をもつ緒論を書き加えた。ハイデガーはその中で、ギリシア哲学はその決定的な始ま りから、存在者を存在者として、つまりその存在(Sein)に関して理解しようとして いたと指摘して、 「デカルトははっきりと第一哲学を思惟するもの(res cogitans) に基づけている。カントの超越論的問題は意識の領野を動いている。このような存在 者から意識へ視線を転ずることが、果たして偶然にあるいは結果的に起こっているの であろうか」(15) (Husserliana IX. S256)と論究している。 二人にとっての問題は、現象学的還元によって開示される純粋主観性が世界に対し て如何なる関係にあるかという在り方の問題である。 -イデガ-は、この点について、 有名な1927年10月22日付のフッサール宛の手紙の付記(Anlage) Iで、次のように書 き記している。(16) 人間存在に関する哲学的考察-デカルト、フッサール及びハイデガー91 「貴方が世界と呼ぶも`のの意味での存在者が、その超越論的構成において同じ ような在り方をする存在者への還帰によっては解明されえない、ということにつ いては、二人の意見の一致がありました。しかしだからといって、超越論的なも のの座(Ort)を形成するものが、一般に存在者ではないということは言われな いのであって、まさにそこから次のような問題、すなわち、世界がそこで構成さ れるような存在者の在り方は如何なるものか、という問題が生じて来ます。これ はまさに『存在と時間』の中心的問題であり、換言すれば現存在の基礎的存在論 なのです。そこで示されるべきことは、人間的存在の在り方が他のあらゆる存在 者とまったく異なるということ、そして人間的現存在の在り方がそのままで、自 らの内に超越論的構成の可能性を蔵しているということでした。 超越論的構成は事実的な自己の実在の中心的可能性なのです。この事実的な自 己、すなわち具体的な人間はかかるものであり、存在者として世界内属的に実在 的な事実ではありません、なぜなら、人間は決して物在的ではなくて、実在する ものだからです。そして驚くべきこと(das ``Wundersame" )は、現存在の実 在の態勢がすべての事物(Positiven)の超越論的構成を可能にするということの 内にあります。 生体学及び純粋心理学の一面的考察は人間の具体的全体性に基づいてのみ可能 なのです。この人問の貝体的全体性が元来人間の在り方を限定しているのです。 ましてや純粋に魂的なものは人間全体の存在論に関しても、換言すると心理学に 関しても生起しておらず、むしろそれは始めからデカルト以来の認識論的な反省 に由来するものなのです。 構成するものは無ではなく、従って或るものであり存在するものである。たと えそれが事物の意味ではないにしても。構成するものそれ自身の在り方への問い は回避されるべきではない。それ故に、一般的に言えば、存在の問題は構成する ものと構成されるものとに関係づけられているのです」 (Husserliana. IX. S601-'2)。 「ブリタニカ論文」執筆を巡る二人の争点は、現象学的還元によって開示される超 越論的主観性(つまりはコギト)が世界に対して如何なる関係にあるのかということ であった。 「フッサールにとって超越論的還元とは、世界の存在を素朴に前提する自然的態度 を脱し、主観による超越論的な世界構成の作業を明らかにする方法であったが、 -イ デガ一によれば、超越論的構成の座としての主観の存在は実存の遂行によってのみ開 示されうる。つまり、現象学的還元は決して特殊な方法的操作ではなく、人間的実存 の一つの可能性なのである」(17)。 92 井上義彦 フッサールにとっては、現象学的還元によって開示される超越論主観悼(純粋意識) は、世界を構成する主観としてそれ自身存在論的には無記的であって、世界に属する ことはない。 -イデガ一にとっても、超越論的主観性は世界を構成する主観として世界内部的な 存在者であることはない。しかし、 「世界がそこで構成されるような存在者の在り方 はいかなるものか」を問題とする-イデガ一にとっては、 「だからといって、超越論 なものの座を形成するものが、一般に存在者ではないということは言われない」ので ある。つまり、世界の構成的主観は、 「構成するものは無ではなく、従って或るもの であり、存在するものである」からして、それ自身何らかの意味で存在するものであ る。 -イデガ-は、かかる世界を構成する存在者の在り方を「世界内存在」 (In-derWelt-sein)と呼んでいる。従って、 「世界がそこで構成されるような存在者の在り方 はいかなるものか、という問題」に対する解答は、 「世界内存在」ということになる。 メルロ-ボンティは、 『知覚の現象学』 (1945)の中で、こう言っている- 「現象 学的還元とは、一般に信じられてきたよぅに観念哲学の定式であるどころか、実存的 な哲学の定式なのであって、それゆえハイデガーの(世界内存在) (In-der-Welt-sein) も、現象学的還元を土台にしてのみ現われたのである」(18)。 フッサールは、この時点では、 -イデガーの提案を十分に理解できなかった。フッ サールの「ブリクリカ論文」の最終稿では、 -イデガ-の提案や追加文(緒論)は殆 んど無視されて、完成されている。二人の別離は決定的であった。以後二人が和解す ることは二度となかった。 おわリに デカルトは、一切を疑う「方法的懐疑」によって絶対に不可疑な原理「我恩う、故 に我在り」 (cogito,ergo sum)を確立した。コギトは以後哲学の原理として絶大な る支配権を哲学の世界において確立した。しかし、コギトは独我論的構造により、他 我の問題を解決できない。 フッサールは、デカルトの「方法的懐疑」をェボケ- (判断停止)を骨子とする現 象学的還元と読み解いて、 「デカルト的方途」に基づく現象学を構想した。フッサー ルは、現象学は独我論であるという非難に対して、 『デカルト的省察』の第五省察に おいて、他我の問題を「相互主観性」 (Intersubjektivitat)の概念によって解明し、 独裁論の非難の克服に努めた。(19) しかし、 「デカルト的方途は、先行的世界排去によってじかに全自然的世界を排去 してしまうので、超越論的生の個別的形態を知り学ぼうとするさしあたっての要求す ら満足させないばかりか、絶対的、点的な「わたしは在る」の明証にと.どまることに 人間存在に関する哲学的考察-デカルト、フッサ-ル及びハイデガー93 よって新しい経験の領野を締め出してしまい、超越論的主観の徹底的な自己理解に達 することことができなかった」(20)のである。 後期のフッサールにとって、問題の中心は「生活世界」 (Lebenswelt)であった。 しかも、 「生活世界」に導びく通路は非デカルト的方途であった。(21) -イデガ-は、現象学的還元によって開示される超越論的主観性(っまりはコギト) を「世界内存在」と読み解いた。(22)コギトを「世界内存在」と読み解くことによっ て、 -イデガ-は、コギトの独我論的構造を超克することに成功しているのである。 -イデガ-の「世界内存在」の定式化が哲学的に画期的な所以である。フッサールの 「生活世界」の問題も、ある意味では-イデガ-の「世界内存在」の構図の中に取り 込まれていると考えられるのである。 漢 (1) Descartes, Discours de la Methode (Oeuvres et Lettres, Bibliothsque de la Pleiade) P129.引用はDM.と略する。 (2) Husserl, Cartesianische Meditationen, Husserliana. I. S44.引用はCM. と略する。 (3) Descartes, La Recherche de la Verite (Pleiade) P890.引用はRV.と略 する。 (4) Descartes, Meditationes de prima philosophia. Oeuvres de Descartes (Adamet Tannery) Vll. P17.引用はMed.と略す。またアダム-タヌリ版 全集はAT.と略する。 (5) Descartes, Meditationes. AT. Vll. P12 Descartes, DM. Pleiade P147-'8, AT. VI. P32 (7) Descartes, Principia philosophiae. AT. IX- 2, P65引用はPP.と略する。 Locke, An Essay concerning Human Understanding, vol. 1. P 5 (9) Kant, Kritik der reinen Vernunft. A57, B81 Descartes, Regulae ad Directionem Ingenii AT. X. P397-'8、引用は Reg.と略する。 (ll) Descartes, DM. Pleiade P148. AT. VI. P33 (12) Husserl, Cartesianische Meditationen. Husserliana I. S43 Husserl, CM. Husserliana I S64 Husserl, Die Krisis der Europaischen Wissenschaften und die Transzendentale Phanomenologie. Husserliana VI. S77.引用はKrisisと略する。 Husserl, Phanomenologische Psychologie. Husserliana IX. S256 井上義彦 94 Heidegger,Husserliana IX. S601- 2 -イデガーのフッサール宛書簡が、 『フッサリア-ナ』 9巻に、 Textkritische Anmerkungen zu den Erganzenden Textenとして、全文収録されている。我々 が本文において訳出した部分は、その中のAnlage Iの箇所であるが、以下に参考 のためにその原文を引用しておく。 AnlageI. Sachliche Schwierigkeiten ubereinstimmung besteht daruber, daβ das Seiende im Smne dessen, was Sie ,,Welt" nennen, in seiner transzendentalen ^Constitution nicht aufgeklart werden kann durch einen Riickgang auf Seiendes von ebensolcher Semsart. Samit aber ist nicht gesagt, das, was den Ort des Transzendentalen ausmacht, sei nberhaupt nichts Seiendes-sondern es entsprmgt gerade das Problem : welches ist die Seinsart des Seienden, in dem sich ,,Welt" konstituiert? Das ist das zentrale Problem von Sem und Zeit' d.h. eine Fundamentalontolongie des Daseins. Es gilt zu zeigen, daβ die Seinsart des menschlichen Daseins total verschieden ist von der alles anderen Seienden und daβ sie als diejenige, die sie ist, gerade in sich die Moglichkeit der transzendentalen Konstitution birgt. Die transzendentale Konstitution ist eine zentrale Meうglichkeit der Existenz des faktischen Selbst. Dieses, der konkrete Mensch ist als solcher-als Seiendes nie eine ,,weltlich reale Tatsache", well der Mensch nie nur vorhanden ist, sondern existiert. Und das Wundersame" liegt darin, daβ die Existenzverfassung des Daseins die transzendentale Konstitution alles Positiven ermoghcht. Die einseitigen" Betrachtungen der Somatologie und reinen. Psychologie sind nur moglich auf dem Grunde der konkreten Ganzheit des Menschen, die als solche primar die Seinsart des Menschen bestimmt. Das ,,rein Seelische" ist eben schon gar nicht lm Blick auf die Ontologie des ganzen Menschen erwachsen, d.h. nicht in Absicht auf eine Psychologie-sondern es entspringt von vornherem seit Descartes erkenntnis-theoretischen (jberlegungen. Das Konstituierende ist nicht Nichts, also etwas und seiend-obzwar 人間存在に関する哲学的考察-デカルト、フッサール及びハイデガー95 nicht lm Sinne des Positiven. Die Frage nach der Seinsart des Konstituierenden selbst ist nicht zu umgehen. Universal ist daher das Problem des Sems auf Konstituierendes und Konstituiertes bezogen. (17)木田元、 『現象学』岩波書店81-*2頁。木田の解釈には、教示されるところ多 大であった。 Merleau-Ponty, Phenomenologie de la Perception, ix. 『知覚の現象学』 I (竹1勾・小木訳)みすず書房、 13貢 Husserl, CM. Husserliana I. S121ff eO)新田義弘、 『現象学とは何か』紀伊国屋書店、 59-60貢 ¢1) Husserl, Krisis. Dritter Teil S105ff ¢2) Vgl. Heidegger, Sein und Zeit, S52ff (1996年7月31日受理)