Comments
Description
Transcript
中央銀行の独立性 - G-SEC
グローバルセキュリティ研究所グローバル金融市場論 中央銀行の独立性 ―総裁・副総裁の三位一体戦略― 荻田 理紗 2013 年 11 月 24 日 はじめに 第1章 中央銀行の独立性 1-1.中央銀行とは 1-2.中央銀行の機能 1-3.中央銀行の歴史 1-3-1. 1914 年以前の時期 1-3-2. 両大戦間期 1-3-3 第 2 次世界大戦後:マネタリズムの時代 1-4.政府と中央銀行の在り方 1-4-1. 政府主権説 1-4-2. 中央銀行独立論 1-4-3. 相対的独立論 1-4-4.勢力説 1-5.中央銀行の独立性 1-5-1.中央銀行の独立性とは 1-5-2. 独立性の重要性 1-5-3. 社会主義崩壊と独立性の高まり 1-5-4. 独立性が損なわれることのリスク 第2章 日本銀行 2-1.日本銀行の目的とその歴史 2-1-1. 日本銀行の目的 2-1-2. 日本銀行の歴史 2-2.日銀法改正 2-2-1. 旧日本銀行法(1942 年法) 2-2-2. 透明性と説明責任 2-3. 日本銀行の制度 2-3-1.政策委員会メンバーの選任プロセス 1 2-3-2. 政策決定とコミュニケーション手段 2-4.過去の失敗と成功、そして現在 2-4-1. 第 22 代 佐々木直 2-4-2. 第 23 代 森永貞一郎 2-4-3. 第 24 代 前川春雄 2-4-4. 失敗例と成功例から 第3章 世界の中央銀行と国際比較 3-1.中央銀行独立論:ECB 3-1-1. ECB の設立 3-1-2. ECB の独立性 3-1-3. 政策決定委員メンバーの選任プロセス 3-1-4. 政策決定とコミュニケーション手段 3-2. 相対的独立論:イングランド銀行(BOE) 3-2-1. イングランド銀行の歴史 3-2-2. イングランド銀行の独立性 3-2-3. 政策決定委員メンバーの選任プロセス 3-2-4. 政策決定とコミュニケーション手段 3-2-5. 独立性付与以前に関する考察 3-3. 勢力説:連邦準備制度(FRB) 3-3-1. FRB の歴史 3-3-2. 政策決定委員メンバーの選任プロセス 3-3-3. 政策決定とコミュニケーション手段 3-3-4. FRB の独立性と歴代の総裁 第4章 政策提言 4-1 日銀の問題点 4-1-1. 米英欧と日銀の国際比較と日本銀行の位置づけ 4-1-2. 政策決定委員メンバーの選任プロセス 2 4-1-3. 総裁の力量で勝ち取る独立性 4-2. 総裁の地位の高まりとその素質 4-3. 世界の中央銀行総裁 4-3-1. ドラギ・マジック 4-3-2. マーケット経験の必要性 4-4. 総裁・副総裁による三位一体の戦略 結論 参考文献 3 はじめに 1942 年に、日本銀行法(旧法)が制定された。これは前年に勃発した太平洋戦争の遂行 支援のために、政府の政策に従う形の中央銀行としての業務遂行が期待されたためである。 しかしながら、1945 年に戦争が終了した後も、この法律が施行されたままとなっていた結 果、戦後の金融政策も政府の関与、影響を大きく受けて実施されたことは否定できない。 1998 年バブル崩壊の影響を受け、中央銀行の政策の独立性を確保することの重要性が高ま った。その結果として、1998 年に新たな日本銀行法が施行され現在に至っている。 現行日本銀行法が 1997 年に成立し日本銀行の独立性が強化されて 15 年がたつ。中央銀行 法としての現行日本銀行法は、金融政策の決定を中心に独立性が強化され、独立性等につ いては世界標準からみてもそん色のないものである1。にもかかわらず、この 15 年間日本銀 行には様々な批判がなされており、またこのところその批判は強まってきている。独立し た中央銀行に対して金融政策の巧拙についての批判は健全なことである。しかし、最近の 批判のなかには、中央銀行の独立性自体への疑問も寄せられ、時として日本銀行法の改正 にも議論の俎上に挙げられている。こうした批判は、金融政策をより良いものにしたいと の意図もあろうが、その結果として、中央銀行の独立性を弱め、憲法の理念であるチェッ ク・アンド・バランスを弱めてしまう。このことは、政策決定の責任の所在を曖昧にし、 批判を受けて日本銀行自身がさらに自律的により良い政策を追求していくという現行日本 銀行法の制度的な理念を変更することにもなる。日銀の独立性について昨今最も物議を醸 したのは白川前総裁の態度の一変であった。それは一貫して金融緩和を嫌う白川は、日銀 改正法を垣間見せた政府に屈したことである。挙って金融緩和に反対していた審議委員も みな金融緩和策に賛成した。そしてその態度の一変に対し、なんの説明も国民に対してな されないのである。政府に屈し、その変更理由の説明もされない日本銀行に独立性はある のだろうか。日銀は哲学を失ったと評する専門家もいるのである。しかしながら、日銀は 独立性を持っていた過去がある。「誰が何と言おうと公定歩合の決定は中央銀行が行う。」、 と発した総裁がいたことも事実だ。筆者はいつの日か日銀が自身の権威を守るような哲学 を持つ日を夢見ており、結論まで一貫してその強い気持ちが見え隠れしている部分もある だろう。本稿では日銀の独立性確保のために、日銀総裁・副総裁 3 名合わせて総裁に必要 な素質を併せ持つべきである、と提言する。 1 高橋[2013] p.1 4 本稿の構成は以下の通りである。 第 1 章では中央銀行の独立性の重要性を主張したい。政治家が中央銀行に圧力をかけて しまいがちなのはやむを得ないことである。そうした避けられない状況がある中で、ハイ パーインフレやバブルを起こさないためにも極めて独立性は重要だ。第 2 章では日本銀行 の過去と現在の独立性に焦点を当て、現状、日銀の独立性には未だ問題点があることを指 摘する。日本銀行の概要を攫ったうえで、過去にも日銀に独立性があった事実を分析し、 さらに現状の独立性について鑑みた。第 3 章は世界の中央銀行について考察を試みた。各 国中央銀行の成り立ちや、制度、独立性の在り方について分析をし、日本銀行に不足して いる部分を模索していきたい。最後に、第 4 章では第 2 章と第 3 章の考察をもとに、日銀 独立性強化のための、提言をしていきたい。 5 第1章 中央銀行の独立性 1-1.中央銀行とは 国際決済銀行(BIS)の規約では、「中央銀行は国内の通貨及び信用の量を統制する義務 を負託された銀行」と定義されている2。 また、西山[1984]は、中央銀行とは、 「金融の市場や通貨の流通の中心にあり、毎日の様々 な銀行の業務を積み重ねる。それらを通じて、健全な通貨を供給し健全な市場メカニズム を維持しようと努める各国にただ一つの中枢的な銀行である。」と定義している3。 中央銀行は比較的新しい理念であり、まず、ある理念が存在し、それに合うような機関 が創設されたものではない。歴史の古い中央銀行には、金融機関が各国各々の特有の事情 に対応するために次第に進化して今日で言う中央銀行となっていったものと,中央銀行と いう概念がほぼ成立した後で設立されたグループに大別することができる。金融機関の中 から進化してきたグループのいくつかは,近代的銀行制度が確立する以前に既に中央銀行 的な活動を行っていたと言われている4。 今日、現存する中央銀行のうち、創立年次が一番古いのは 1668 年設立のスウェーデン国 立銀行(National Bank of Sweden;以下、リクスバンク)である。その次に古いのが 1694 年に設立されたイングランド銀行(Bank of England)であり,そして,3 番目は 1800 年 設立のフランス銀行(Bank of France)である。これらの銀行は,当初は商業銀行として 設立された後,次第に中央銀行に転化していったのである。しかし、1882 年に設立された 日本銀行や 1914 年設立の米国連邦準備制度、あるいは第 2 次世界太戦後に多くの開発途上 国で設立された中央銀行は,最初から中央銀行として設立されたものである。従って昔設 立された中央銀行と比較的新しい中央銀行はその歴史的背景を異にしている5。以下の表で は中央銀行の設立時期と「通貨独占発行権の付与時期」についてまとめている。設立時期 と通貨独占発行権の付与の時期に差がある場合、その銀行は最初から中央銀行として設立 されていない。逆に言えば、設立時期と通貨独占発行権の付与の時期に差がない場合、そ の銀行は初めから中央銀行であることを意図して設立された銀行である。 2 3 4 5 BIS[1963] p.8 西山[1984] pp3-5 翁[2005] pp.3-4 立脇[2005] pp.39-40 6 第1表 中央銀行の設立時期と「通貨の独占発行権」の付与時期 銀行名 創立年 スウェーデン国立銀 通貨の独占発行権 最後の貸し手機能(10 年単位で表示) 1668 1897 1890 イングランド銀行 1694 1844 1870 フランス銀行 1800 1848 1880 フィンランド銀行 1811 1886 1890 オランダ銀行 1814 1863 1870 1816 1816 1870 ノルウェー銀行 1816 1818 1890 デンマーク国立銀行 1818 1818 1880 ポルトガル銀行 1846 1888 1870 ベルギー国立銀行 1850 1850 1850 スペイン銀行 1874 1874 1910 ライヒスバンク 1876 1876 1880 日本銀行 1882 1883 1880 イタリア銀行 1893 1926 1890 行 オーストリア国立銀 行 (出所)Forrest Caple, Charles Goodhaet, Stanley Fisher and Norbert Schnadt[1994]よ り筆者作成. 1-2.中央銀行の機能 松岡[2010]によれば、中央銀行は一般的に次の3つの役割を担っているとしばしば言われ る6。 第1は、中央銀行は銀行券を独占的に発行する「発券銀行」としての役割である。その 際、金や銀などへの兌換を保証する兌換銀行券(convertible bank note)を発行する場合と、 兌換しない不換銀行券(inconvertible bank note)を発行する場合がある。第2に、中央銀 行は「銀行の銀行」と言われる役割を担うということである。つまり、一般に商業銀行は 6 松岡[2010] p.101 7 中央銀行に資金の一定額(比率)を預託し、資金不足の場合に中央銀行から融通してもら うという関係にある。第3に、中央銀行は「政府の銀行」と言われる役割を担うことであ る。つまり政府の財政を何らかの形で支える最大の金融機関であると考えられている。こ の第3の機能を春井[2004]は、平時には副次的な位置におかれたため、中央銀行にとっては 重要性が低く、また中央銀行の独立性の点からも問題があると指摘している7。 そして近年では、この一般的な3つの機能に加え、最後の貸し手(lender of last resort) 機能を担っている8。最後の貸し手機能とは、資金繰りに問題が生じた金融機関等に対して、 資金供給を行う主体がほかにいない場合に文字通り最後の貸し手として資金の供給を行う ことである9。Morgan[1965]によると、中央銀行制度がいち早く定着したイギリスでは、18 世紀中にイングランド銀行が中央銀行の一般的な3つの役割を果たしていたと言われ、さ らに莫大な金準備を抱えていたということが知られている10。 1-3.中央銀行の歴史 1-3-1. 1914 年以前の時期 現存する中央銀行のうち、世界最古のリクスバンクやイングランド銀行が政府の支援で 初めてヨーロッパに設立された当時、これら民間の商業銀行が裁量的なマクロ金融政策や 最後の貸し手機能を通して銀行に流動性を供給し、あるいは銀行システムの安定性を維持 するために民間銀行を規制・監督する近代的な中央銀行へと発展するとは、誰も想像しえ なかった11。後に中央銀行へと発展した草創期の商業銀行が設立されたのは、当時の政府の 財政的逼迫を救済するための資金を供給することが主たる目的であった。これらの銀行は 政府から得る「勅許状」による特権(たとえば、銀行券発行権の独占など)を見返りとし て、政府に資金を供給する「政府のための銀行」として設立されたのである。そのような 動機で設立された銀行は、平時においては自国通貨の対内外価値や信認を維持すること、 イングランド銀行の場合には金本位制度を堅持することが中央銀行政策のマクロ的な目的 であった。しかし戦争など国家存亡の危機の際には国家の財政的必要がマクロ的な目的を 凌駕し、金融政策運営は国家の緊急の資金需要を機動的に充足することが中心となった。 春井[2004] p.68 町田[1963] p.9 9 日本銀行 HP 10 Morgan[1965] p.208 11 Bordo[2008] pp.715-721 7 8 8 1-3-2.両大戦間期 第一次世界大戦の勃発により、ヨーロッパ諸国は文字通り国家存亡の危機に瀕した。戦争 の混乱により金本位制度が不安定化し、崩壊した。その結果、多くの国は高失業、物価下 落、種々の直接統制手段の導入による外国貿易や国際資本移動の大幅な制限とそれらを契 機とした世界経済の荒廃に見舞われた。そのため、自由な経済活動は制限され、金融政策 の有効性が大きく減殺されてしまった。ひとたび金利が低い水準に引き下げられてしまう と、有効需要水準に働きかけて景気を刺激する金融政策の効果はその力の大半を失ってし まうからである。そこで有効需要の管理はいきおい拡張的な財政政策に強く依存するよう になる。その結果生じるインフレ圧力を抑制するために種々の直接統制手段が採用される ことになった。 主要国による 1920 年代後半から 1930 年代前半にかけての金本位制度への復帰とその 後の再離脱を通して崩壊した国際通貨システムは「自国通貨の対外的価値の維持」をもは や意味のない目的にした。逆に、主要国は経済ブロックを形成して、相互に為替レートの 切り下げ競争という「近隣窮乏化」政策に走った。このようにして中央銀行が金本位制度 の時期を通じてこれまで長きにわたって堅持してきた対外的な金融政策目的は消滅してし まったのである12。 1-3-3 第 2 次世界大戦後:マネタリズムの時代 第 2 次世界大戦終結後、世界の主要国は両大戦間期の経験から直接統制的な経済政策を撤 廃し、自由な経済活動と固定為替レート制度(いわゆる、調整可能な釘付け制度)の再建 を目指して、ブレトン・ウッズ体制を確立した。このようにして確立された戦後の国際金 融システムにより、IMF 加盟国の中央銀行が自国通貨の為替レートを一定量の金またはア メリカ・ドルに固定することになった。それは通貨の対外価値を安定的に維持することを、 再びマクロ経済政策の目的として掲げるようになったことを意味した。このようにして、 ブレトン・ウッズ体制の下で、アメリカ・ドルが金と等価あるいはそれ以上の価値のある 国際通貨として国際金融システムの中核に据えられた。アメリカは「n 番目の通貨」とし てのドルの対外価値の維持義務から解放され、その対外価値はその他の「n―1」カ国の為替 レート調整によって自動的に維持されることになった。その結果、アメリカの中央銀行で 12 春井[2013] pp.112-113 9 ある連邦準備制度はドルの対内価値を安定的に維持するという、その他の中央銀行とは異 なる、特別の責任を担うことになった。 このようにして確立された戦後の世界経済体制の下で、主要先進国は自国通貨の為替レー トを固定したままで国内の雇用と経済成長を最大化する「ケインズ」的な有効需要管理政 策を遂行してきた。しかし 1970 年代の初めに、アメリカ・ドルの金兌換停止宣言、いわ ゆる「ニクソン・ショック」による IMF 体制の崩壊と第一次石油ショックとを経験した 各国政府は、新たに経験する「変動為替レート」制度のもとで、失業の解消とインフレー ションの抑制という 2 つの政策目的を達成することの重要性を強調するようになった。そ れは拡張的な金融政策を追求してきた諸国が相対的に高いインフレ率に見舞われる一方、 相対的に高い雇用と成長率とを達成することにも成功しなかったからである。その結果、 多くの中央銀行は徐々に「マネタリスト」的な金融政策を採用するようになった。すなわ ち、貨幣供給量を中間目標とする金融政策運営、 「マネタリー・ターゲティング」方式の金 融政策レジームへのシフトが起こった。 主要な中央銀行は、総支出や物価、産出高などに影響を及ぼすためのメカニズムとして、 公定歩合などの「金利」を上下に変更する金利操作を伝統的な金融政策の運営方式として 採用してきた。1950 年代に貨幣数量説を復活させて、貨幣供給を金融政策の中間目標とし て利用する運営方式を想定した。この想定は貨幣供給量の増加と名目所得および物価水準 との間に安定的な関係が存在することを仮定していた。マネタリストは、連邦準備理事会 などの主要な中央銀行は、金利操作を中心とした金融政策運営をおこない景気循環を悪化 させ、また部分的には名目金利と実質金利を識別できなかったために、1970 年代に「グレ ート・インフレーション」を引き起こした、と批判した。 前述のように、ケインジアン対マネタリストの論争は金融政策の理論的側面を巡って激 しく戦わされた。1970 年代の「スタグフレーション」の解明を対立軸とした激しい論争は、 結局マネタリストの勝利に終った。 「インフレーションと経済成長との間には中・長期的な トレードオフ関係は存在しない」ということが一般的に受け入れられたからである。 その結果、1970 年代末までにほとんどすべての中央銀行は「実用主義的なマネタリスト」 に転向した。したがって、1980 年代前半の金融政策論議は、その最適な政策手段を巡って 展開された。たとえば、どの貨幣集計量が名目所得ともっとも高い予測可能な関係を有し ているか、またどの貨幣集計量を金融政策の中間目標とすべきか、さらには中間目標とさ れた貨幣集計量をコントロールする政策手段としては金利コントロールかマネタリーベー 10 ス・コントロールか、などであった。この時期ほど貨幣需要関数の安定性に関する計量経 済学的な研究論文が雨後の筍のように増産され、その直後に貨幣需要関数の安定性に対す る疑念がその一時的なブームを掻き消してしまったことを経験した時期はない。 1980 年代末までに、主要な中央銀行は貨幣集計量を中間目標とする金融政策運営方式を 放棄し、金利を変更する政策手段に回帰した。 (4)インフレ・ターゲティングの時代 1990 年代に入って、中央銀行の金融政策の運営方式に新しい動きが見られるようになっ た。1980 年代に貨幣集計量を中間目標とする「マネタリー・ターゲティング」方式は失敗 に終わり、他方、 「為替レート・ターゲティング」は、特別の状況においてしか有効性が期 待できないことが判明した。 しかし中央銀行は物価安定を達成する特別な責任を負わされているので、何とかしてこ の責任を全うしなければならないと考える。もっとも一般的な対応は、その主たる政策手 段である短期金利を操作して、インフレ目標を直接ヒットする「インフレ・ターゲティン グ」方式を導入することである。この新しい金融政策方式へのレジーム・シフトは 1989 年 のニュージーランドで最初に試みられ、その後カナダ、オーストラリアなどが後に続き、 多数の国が「インフレ・ターゲティング」方式を導入した。イギリスにおいても、通貨投 機によって生じた 1992 年の「ポンド危機」に際して、イギリスの金融当局は、当時の固 定為替レート制度である「為替レートメカニズム(ERM)」からの離脱を決意し、明示的に 「インフレ・ターゲッティング」方式による政策運営へとそのフレームワークを変換した。 しかしながら金融政策運営における長くて可変的なタイム・ラグの存在や経済システムに 内在する不確実性の存在や経済システム自体の構造変化のために、「インフレ・ターゲティ ング」方式の金融政策運営は非常に難しいとされている。そのため、近年では機械的に金 融政策を決定するのではなく、むしろ、機動的かつ柔軟に政策判断を行う「フレキシブル・ インフレ・ターゲティング」が主流となる。 1-4.政府と中央銀行の在り方 中央銀行は、世界中に 170 行近く存在していると言われる。しかし、政府と中央銀行が いかなる関係にあるかは、それぞれの国の政治形態、歴史的経緯、社会・経済風土、ある いは中央銀行のその国における認知度、信頼度、総裁の資質などによって、それこそ千差 11 万別であるといってよい。以下では東[1997]を参考にして、政府と中央銀行の在り方につい て 4 グループに分ける。 1-4-1. 政府主権説 政府が中央銀行をその配下におき、金融政策の決定などの主要任務について全面的に権 限を共有するという見解である。例えば、1942 年に設定された(旧)日本銀行法には「国 家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為」に大蔵大臣の監督・命令権、予算承認権や総裁をは じめとする役員の任命、罷免権が規定されており、まさしく政府主権説が明瞭に打ち出さ れている。第二次世界大戦後に国有化されたイングランド銀行、また法改正以前のフラン ス銀行やイタリア銀行、ベルギー銀行など多くの先行国の中央銀行に見られる傾向であっ た。 1-4-2. 中央銀行独立論 中央銀行独立論は、中央銀行は政府から独立的な地位を確保すべきであるという見解で ある。政府主権説の論拠として、金融政策は諸々の経済政策の中でも財政政策と密接な関 係があり、補完性がある、という意見があり、これは論拠として十分納得できるものであ る。しかし、議会制民主政治の下における施策は、国民各層のニーズを吸い上げるという プロセスを経て行われるために、どうしても財政拡張的にならざるをえない13。財政をはじ めとする公共部門や民間部門の資金需要に対して、最終的資金供給者である中央銀行がこ れに易々と応じていれば、インフレーションを招くことは必至であるため、中央銀行の政 府からの完全な独立を主張している。このように中央銀行に強い独立性を付与している国 としてドイツが挙げられる。また、ドイツのブンデスバンクの強い遺伝子を持つと言われ る欧州中央銀行も中央銀行独立論に近いと言えるだろう。 1-4-3. 相対的独立論 相対的独立論は政府主権説と中央銀行独立論を折衷した考え方である。中央銀行に金融 政策の主導権を付与することの意義は認めるものの、一方で国民とその代表である議会に 経済政策の運営に関して責任を有する政府が、まったくノータッチでいることは許される のかという疑問から生まれた概念である。 13 東[1997] p.59 12 このような中央銀行の相対的独立論は、soft independence と呼ばれている。米国の FRB は自らこの立場にあることを表明し、政府内部における独立「independence within the government」と称している14。 中央銀行の相対的独立論の具体的な形態としてとられるものに委任方式 (Principal-Agent)がある。議会あるいは政府が、通貨主権を掌握しつつも、金融政策の 執行を中央銀行に全面的に委任する方式をとるものである。委任方式の代表例として、soft independence であることを主張する米国や、他にはニュージーランドが挙げられる。 1-4-4.勢力説 中央銀行の独立問題は、法制上の位置づけによって左右される面は大きい。しかしなが ら、中央銀行がその独立性に法的裏付けがあったとしても、所詮、金融政策の決定に関し ては政府と中央銀行の綱引き、すなわち両者の力関係によって決まるという政治力学を強 調する見解もある。 例えば、日本における過去の例を見ても、戦時立法下に制定された政府主権説の色が濃 い(旧)日本銀行法においてもいろいろな教訓が残されている。1957 年および 1961 年当 時、成長路線を強行した池田蔵相、同首相に押し切られて、日銀は金融引締め政策が後手 に回るという苦い経験を味わっている。1972 年~73 年当時、田中内閣の列島改造論を背景 とする財政支出の膨張に対して、日本銀行は金融の大幅な緩和で呼応したため、狂乱物価 を招く事態を生じた。このとき財政インフレの発生を眼にしながら、当時の佐々木総裁は 政府に抵抗できなかったと言われる。しがしながら 1980 年当時、第 2 次オイル・ショック に見舞われたとき、日本銀行は果敢に金融政策を発動し、インフレを未然に防止すること に成功した。このとき、前川総裁は、国会が予算審議中にもかかわらず、引き締めの必要 性を大平首相に直接談判して説得にあたった。政府と中央銀行の関係は、こうした両者の 力関係によって定まるのかもしれない。 1-5.中央銀行の独立性 1-5-1.中央銀行の独立性とは 14 FRB[1984] 13 中央銀行の独立性とは、「中央銀行が政府との協議や政府からの要請を受けることなく、 自主的・自律的に現行金利水準を変更する(ないしは変更しない)決定を下しうる権限を 無条件で有している状況」である15。なお、中央銀行の独立性と言う場合、 (1)機関(組織) としての独立性、 (2)金融政策の目標設定の独立性、(3)金融政策の手段の独立性の三つ がある16。イングランド銀行の副総裁を務めた Harvey, E[1927]はその著書の中でセントラ ル・バンキングの 13 の重要原則を挙げており、原則 2 において以下のように述べている17。 原則 2 :中央銀行は、政策と運営の両面にわたり政府のコントロール及び政治の影響から 自由でなければならない。中央銀行が最も効率的に機能するためには,社会のど の階層からも支持と信認を確保することが不可欠である。一国全体の利益のため にのみ働くこと及び健全な金融,経済を目指した政策を絶えず採用することによ ってのみ,中央銀行は社会のすべての階層から等しく信頼を得ることができ、一 国全体へ奉仕するという伝統を確立することができる。中央銀行がこうした機能 を十分に発揮するためには,中央銀行の政策と運営に関して政治または政府のコ ントロールから自由であらねばならない。もちろん、国民の代表である議会によ り中央銀行に与えられた特権から生み出される利益の分配に国民が与かるべき ことは広く認められているところである。しかし,例えば中央銀行の役員会に政 府代表を入れる場合でさえ,その政府代表は役員会の少数に制限されなければな らない。政府代表以外の役員は,とくに政府とは関係のない人であり,金融,産 業,商業に関する高い識見を有する人であるべきだ。また中央銀行の仕事は政治 的状況の中で取り扱われることが多いため,個人的利益や党派的利益に関係のな い身分や独立性のある人物でなければならない。 Harvey[1927]は中央銀行の強い政府からの独立性を説いた。独立性に関する議論は 90 年ほど前からなされていたことが予測できる。 さらに、イングランド銀行総裁を務めたノーマンは中央銀行の 12 の一般原則のうち原則 5 において「中央銀行は,独立していなければならないが,金及び通貨を含めた政府のすべ 15 16 17 Capie and Goodhart[1995]p.152 伊藤・林[2006]pp11-15 Harvey,E[1927] pp.16-23 14 ての業務を直接又は間接に行うべきである。」と主張している18。ノーマンの主張は、中央 銀行の独立性においては政府とのコミュニケーションが重要であることを示唆している。 日本においては、今日まで、 「政治家は金融政策に口出しすべきではない」といった考え 方が極めて根強かった。それは、 「中央銀行の独立性」という概念への明らかな誤解に基づ いていた。中央銀行は独立性によって、確かに、物価や雇用の安定という本来の目標達成 のために、政策手段の選択と運営を政府に左右されることなく独自に決定することができ る。しかしながら、好き勝手に政策運営をしてよいわけではなく、最終的に達成すべき目 標を政府と共有しなければならない。それが「中央銀行の独立性」の本来の意味である19。 加えて、中原[2006]は、中央銀行の独立性を、先進国の長い経験の中から生み出された1 つの知恵であると述べている。政府の悪政に引きずられずに、物価安定を守る金融政策を 貫くためである。したがって、独立性が尊重されるかどうかは、金融政策のパフォーマン ス、実績によるものである20。 1-5-2. 独立性の重要性 Mayer [1976] は、FRB を対象とした議論の中で、中央銀行と金融政策の独立性を強化 すべきである、との各方面の主張を 3 つの論拠に整理している21。 第 1 には政治的決定は本来近視眼的で、インフレ的な金融政策は長期的には経済に悪影 響を及ぼすにもかかわらず、短期的には利得をもたらすことを考慮すると、金融政策は政 治的決定から独立すべきである。第 2 には、仮に通貨当局の独立性を弱めるとした場合、 金融政策の責任を政府のどの部分が負うかという問題が未解決で残される。第 3 には、通 貨当局が政府から独立していれば、政府の政策に 「外部の」中央銀行の意見を反映させるこ とが可能になる。金融政策の責任を負っている中央銀行は国内外の経済活動に関して幅広 い見識を有しており、政府の政策決定に有効な意見を述べることができる。 つまり、中央銀行に独立性を与えるべきである、とする見解は、政府がより高いインフ レ率に傾斜しがちである、という前提に基づいていることが解釈できる。なぜ、政府が高 いインフレ率に傾斜する傾向があるのか、という点について, Alesina[1988]は, 政府は不況 18 19 20 21 Sayers, R. S.[1976] Appendixes p.74 野口[2013] p.48-49 中原[2006] p.131 Mayer[1976] p.5 15 よりは高いインフレを望む経済的選挙区を代表しているからである、と解釈している22。ま た、立脇[2005]は以下の 3 点を根拠に独立性の重要性を主張している23。1 点目としては、 選挙に勝つために政府与党は景気をよくしなければいけないため、インフレ指向が強くな りがちになることを挙げている。2 点目としては、景気が良くなると、企業の収益は増え、 政治献金も増えるようになるため、インフレ指向が強くなると主張している。最後に 3 点 目として、行政、とくに財務当局は景気がよくなれば財政収入が増えるため、インフレ・ バイアスが強いと言え、さらに金融市場のプレーヤーであり、そこで資金の運用・調達を 行う財務当局は中立的な立場とは言えず、金融政策に介入することは公正が失われること になる、と述べている。 1-5-3. 社会主義崩壊と独立性の高まり 東[1997]によると中央銀行の独立性の高まりは、社会主義体制の崩壊と深く関わっている。 1991 年ソ連・東欧諸国の社会主義体制が崩壊し、指令経済から市場経済システムへと大き く変化した。また、中国が政治・社会システムとして、社会主義を堅持しつつも、市場経 済原理を導入した。資源の配分が、指令や割当などによって行われるよりも、マーケット・ メカニズムに委ねることの方がはるかに効率的であることが、歴史的実験においても、さ らに理論的にも実証されたからである。 旧社会主義諸国の市場経済システムの導入に伴い、通貨調節に関しても、従来の政府の 資金統制という形ではなく、マーケット・メカニズムを通じるコントロール方式に切り替 わった。これに伴って、従来大蔵省の一部局ないし国家の出納機関的存在であった中央銀 行を西欧型に改組し、自由裁量による金融政策の行使と政府からの独立性を付与する動き がみられる。中央銀行はマーケットにプレーヤーの一員として参画し、取引関係を通じて 通貨調節をはかることが目指される。つまり、政府が市場の外から介入する存在であるの に対して、中央銀行は市場の中で機能する存在であること、そのことが市場経済を有効に 機能させる意味からも好ましいと考えられるように至った24。 1-5-4. 独立性が損なわれることのリスク 22 23 24 Alesina[1988] p.223 立脇[2005] p.149 東[1997] p.56 16 独立性が損なわれるとハイパーインフレやバブルを引き起こしかねない。 第一次大戦で敗れたドイツは、戦前の対外債権をすべて失ったばかりか、1921 年のロン ドン会議において、1,320 億金マルク、毎年支払額 46 億金マルクと輸出の 26%を合計とす る賠償金を要求された。当時ドイツでは、賠償金支払いを除けば、予算はほぼ均衡してい た。賠償金は米国からの資本輸入、財政赤字と貨幣発行によって調達され、これがインフ レーションの土壌を形成した。ドイツの賠償金支払いが滞った 1923 年 1 月にフランスとベ ルギーがルール地方を占領したことに対し、ドイツがストライキで対抗した際、ストライ キ中の労働者に支払った報酬の資金をライヒスバンクに政府短期証券を無理やり割り引か せて調達したことでハイパー・インフレーションが発生した。インフレ的財政政策に呼応 して、資本移動規制のもとにもかかわらず通貨逃避が発生し、天文学的なハイパー・イン フレーションと外国為替の下落が発生した25。 日本においても、1985 年のプラザ合意以降の円高の時期に、アメリカの要請を受け入れ た大蔵省が財政再建の途上にあったため、内需拡大策として専ら金融緩和政策を日本銀行 に迫った。その結果として、バブル発生の一因となった26。 以上のように、中央銀行の独立性が損なわれることはバブルやハイパーインフレーショ ンといった事態を引き起こすことがある。 章のまとめ 本章では論文のテーマである中央銀行に関する知識への理解を深めた。とりわけ、政府 と中央銀行の在り方は複数あり、中央銀行の独立性に大きく関与する部分である。政治家 は選挙に勝利することが第一であるため、中央銀行に圧力をかけることが多い。最悪の場 合はハイパーインフレ―ションや、バブルを生み出すことがある。そのため、中央銀行の独 立性は重要である。次章では日本銀行について分析し、その独立性の在り方を検証する。 25 26 藤木[2000] pp.40-41 東[1997] p.57 17 第2章 日本銀行 本章では日本銀行の歴史や制度について見解を深めた上で、その独立性について分析し ていく。 2-1.日本銀行の目的とその歴史 2-1-1.日本銀行の目的 1998 年 4 月に施行された日本銀行法では、 「第 1 章 総則」のなかで,日本銀行の目的 を定めている。 第1章第1条 日本銀行は、我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通 貨及び金融の調節を行うことを目的とする。 日本銀行は、前項に規定するもののほか、銀行その他の金融機関の間で 行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資する ことを目的とする。 第1章第2条 日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図 ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念 とする。 以上より、日本銀行は日本における唯一の中央銀行であり、その目的は「物価の安定」と、 「金融システムの安定」であると整理できる27。そうした目標を達成することの究極の目的 は、国民経済の健全な発展を手助けすること、と言える28。 2-1-2.日本銀行の歴史 日本銀行は、1882(明治 15)年に制定された日本銀行条例に基づき、日本の中央銀行と して創設された。それ以前は金融経済制度としても様々な試行錯誤が繰り返された。特筆 すべきは 1872(明治5)年の国立銀行条例により全国に多くの民間銀行が創設されたこと である。この国立銀行はいずれも独自の銀行券を大量に発行し、同時に巨額の政府紙幣が 発行された。資金が不足する政府や銀行が一斉に大量の紙幣を発行して資金調達をし、巨 額の紙幣の濫発の結果として、国内経済は激しいインフレーションに見舞われ、殖産工業 などの国策を遂行するうえでも大きな障害に陥った。 27 28 日本銀行金融研究所[2011] p.2 翁[2008] p.4 18 こうした危機的状況への対応策として、中央銀行を設立しインフレ収束にあたらせるべ きであると大蔵卿・松方正義の県議により、日本銀行が設立された。日銀は銀行券を発行 する唯一の銀行として創設され、民間銀行による銀行券の発行は禁止された。日銀は、発 行した日銀券を見合いに巨額の国立銀行紙幣、政府紙幣を購入し償却した結果、さしもの インフレも終息に向かった29。 このように日本銀行は明治政府によって創設されたものであり、政府の政策に沿った金 融政策を求められる中央銀行としての性格を、その設立当初から一貫して帯びていたと考 えることが出来る。さらに、1942 年に至り、日本銀行法(旧法)が制定された。これは前 年に勃発した太平洋戦争の遂行支援のために、政府の政策に従う形の中央銀行としての業 務遂行が期待されたためである。しかしながら、1945 年に戦争が終了した後も、この法律 が施行されたままとなっていた結果、戦後の金融政策も政府の関与、影響を大きく受けて 実施されたことは否定できない。 2-2.日銀法改正 現行日本銀行法は 1997 年に成立し、1998 年に施行された。この日銀法改正は、1996 年 2 月、自由民主党、社会民主党、新党さきがけの 3 党による「金融行政をはじめとする大蔵 省改革プロジェクト・チーム」が「新しい金融行政・金融政策の構築に向けて(基本方針)」 という中間報告書を公表し、 「バブルの厳しい反省を踏まえて、金融政策と財政政策のある べき関係を含め、適切なマクロ金融政策の運営のため、古い日銀法を全面的に改正して、 時代の変化に対応した日本銀行の在り方について見直しを行う必要がある」とした。また、 同年 9 月には最終報告書「大蔵省改革についての報告」を公表し、金融機構の改革の 1 つ として、日銀の金融政策運営における独立性の強化を図るため、日銀法の抜本的な改正に 踏み切るべきであるとの提案を行った30。 2-2-1. 旧日本銀行法(1942 年法) 1942 年、営業年限(1912 年に 30 年延長)の満了を機に、日本銀行条例は全面的に見直 され、国家総動員体制の下、政府の統制色の強い旧日本銀行法が制定された。その際、組 織形態は、株式会社形態から、資本金を 1 億円(政府出資 55%)とする特別の法令に基づ 29 30 熊倉[2012] p.9 鐘ヶ江[1998] pp.6-7 19 く法人へ改組された(旧日本銀行法 5 条)。この改組によって株主総会は廃止され、総裁・ 副総裁は内閣による任命、理事は総裁が推薦し、大蔵大臣が任命することとされ(旧日本 銀行法 16 条) 、政府による役員の解任権が明記された(旧日本銀行法 47 条)。また、旧日 本銀行法が制定された際には、日本銀行条例下の重役集会に当たる役員集会は引き続き存 在し、業務の執行について重要な事項を審議することとされていたが、副総裁と理事には 投票権がなくなり、 総裁がこれを統裁することに改められた(旧日本銀行法下の定款 24 条) 。 なお、改組の手続は、旧日本銀行法の規定に基づき、大蔵大臣により任命された改組委員 によって行われた31。 2-2-2.透明性と説明責任 1942 年法では、透明性に関する意味ある要件はなかった。1942 年法では単に日本銀行が 「主務大臣の定むる所により毎事業年度の事業の概況を公告すべし」 (第 41 条)とされて いたにすぎなかった。つまり、統計情報を公表したり、日本銀行の業務について特別な報 告書を提出したり、年度報告を書いたりすることと解釈された。新法では、金融政策の決 定過程と執行をいっそう透明にするという点で大いなる改善が見られた。 透明性は新法の5つの分野で具体的に記されている。 ① 第 3 条:通貨及び金融調節に関する意思決定の内容及び過程を国民に明らかにするよう 努めなければならない。 ② 第 20 条:各委員会の議事録は委員会が定める相当期間経過後に公表されなければなら ない。 ③ 第 54 条:日本銀行は 6 ヶ月に 1 回政策委員会が議決した内容の報告書を作成したうえ、 大蔵(現財務)大臣を経由して国会に提出しなければならないとともに、日本銀行およ び政策委員会の代表者は要請に応じて国会に出席しなければならない。 ここでの大蔵(財務)省を通じて報告書を提出するという項は単なる慣習に過ぎず、こ の意味では大蔵(財務)省は国会に正式な出席権がない日本銀行の代理人にすぎない。 ④ 第 51 条:毎事業年度の経費の予算について日本銀行と大蔵(財務)省の間で意見の不 一致があった場合は公表しなくてはならない。 この経費の予算とは通貨及び金融調節とは関係のないものに限るとされている。 ⑤ 第 31 条・第 35 条:日本銀行の役員および職員の給与等の支給基準を公表しなければい けない。 31 公法的観点からみた中央銀行についての研究会[2000] p.6 20 実際には政策委員会の議決内容だけでなく、委員の意見や投票結果についても公表され ている。事実、議論の公開性は注目すべきものがあり、これだけでも金融政策の意思決定 における透明性を大きく高めた。また、1942 年法では日本銀行は大蔵省に説明する義務が あったが、1998 年法では政策委員会の 9 人の審議委員を任命する権限のある国会に対して 説明義務を課した32。 2-3. 日本銀行の制度 2-3-1.政策委員会メンバーの選任プロセス 政策委員会メンバーの選任プロセスは、日本銀行法第 23 条 1 項で「総裁及び副総裁は、 両議院の同意を得て、内閣が任命する。」 、第 23 条 2 項において「審議委員は、経済又は金 融に関して高い識見を有する者その他の学識経験のある者のうちから、両議院の同意を得 て、内閣が任命する」と定められている。 2-3-2. 政策決定とコミュニケーション手段 日本銀行のコミュニケーション手段としては、①声明文がある。日本では金融政策決定会 合において政策金利が変更されるときのみ、声明文において実体経済及び物価動向に関す る見方や金融政策の考え方が示される。②定期記者会見が行われている。月1回のペース で開かれ、その多くは金融政策決定会合直後になる。内容については会見要旨が掲載され るのみで質疑応答のトランスクリプト公表や記者会見の動画配信はない。このため、質疑 応答において総裁が注目される発言を行った場合には、多くの市場関係者はマスコミを通 じてしかその内容を知ることが出来ない。③金融政策決定会合の議事録が公表される。議 事録は開催から約1か月後に要約が公表される。 2-4.過去の失敗と成功、そして現在 2-4-1. 第 22 代 佐々木直 1969 年 12 月、 「日銀のプリンス」 と呼ばれていた佐々木直が第22代総裁に任命された。 佐々木は若くして総務部長、営業局長、理事を経験し、その後日銀副総裁に就任した。お よそ 14 年ぶりの日銀生え抜き総裁の誕生とあり、佐々木総裁に寄せる日銀マンの期待は当 32 伊藤隆敏/トーマス・カーギル/マイケル・ハッチソン[2002] pp.96-97 21 初大きかった。しかしながら、佐々木の総裁就任後、1971 年ニクソン・ショックが起きる ことで、金本位制が崩壊し、世界は混乱に陥った。ニクソン・ショックの影響で景気は悪 化し、経済界からは公定歩合の引き下げを求める声が次第に高まった。そして佐々木は自 らの意思で就任後4回目の公定歩合の引き下げ(5.25%→4.75%)を行った。その後、国内 において、佐藤栄作内閣は円再切り上げを絶対に回避することに主眼を置き内需拡大を目 指す超大型予算が作成された。その際に公定歩合の再引き下げが検討されたが、預金金利 の引き下げをめぐり郵政省との長期にわたる争いがあった。結果として、佐々木が公定歩 合を再度引き下げた時(就任後5回目の引下げ)には、すでに景気は着実な回復軌道に乗 っていた。さらに、卸売物価が急速に上昇し始めたことを勘案すると、明らかに時期を失 した。また、行き過ぎた金融緩和であった33。佐々木の5回目の公定歩合の引下げは過ちで あるだろう。これは総裁の判断ミスであると言え、ここで政府に物を申すことが出来れば 事態は変わっていたかもしれない。 続いて、1972 年 7 月に誕生した田中内閣は、円再切り上げ阻止を最優先の課題として位 置づけ、拡張的な財政政策を推進した。田中首相の下行われた日本列島改造ブームは超大 型予算を擁した。佐々木は5回目の公定歩合引下げ後に、卸売物価の急騰に対して、次第 に警戒姿勢を強めるようになったが、田中内閣が積極的な拡大均衡路線をとったことから、 公定歩合引き上げによる本格的な金融引き締めを躊躇してしまった。それから半年後によ うやく政府も景気の過熱状態を認識し、金融引き締めを容認する姿勢へと変わった。その 後、大蔵省の公定歩合引上げに対する反対姿勢があったことから、金融引き締めは遅れ、 インフレーションの進行に歯止めをかけることが出来なかった34。佐々木が景気の過熱に気 付いてから実際に金融引締めに至るまで約9か月間の差がある。政府に対するコミュニケ ーション能力や日本の中央銀行のトップであるという認識が佐々木総裁には欠けていたよ うである。 その後、1973 年の第四次中東戦争を契機として、第一次石油危機が発生した。物資は不 足し、いわゆる「大インフレーション」が発生した。このような事態に対し、日本銀行は どのような政策対応を採るべきか、しばらくの間戸惑っていた。結局、第一次石油危機発 生から2か月後に公定歩合を引き上げ 7.0%から史上最高の 9.0%へと引き上げた。1度に 2%引き上げて史上最高値となった公定歩合は、強烈な金融引締め効果を生み出した。結 33 34 黒田[2008] pp.3-8 黒田[2008] pp.8-10 22 果として 1974 年日本経済はマイナス成長、2 桁のインフレーション、経常収支の大幅赤字 というトリレンマの状態に陥った35。 1973 年にはスミソニアン体制へ移行することに伴い、1ドル=360 円から1ドル=308 円 へ円を切り上げることになった。しかし、新レートに対して各地輸出地場産業などから予 期せざる大幅な円の切り上げとの批判が高まり、円高ショックを緩和するための政策要望 へとつながって、その後における日本銀行の金融政策に大きな影響を及ぼすことになった36。 2-4-2. 第 23 代 森永貞一郎 1974 年 12 月、元大蔵省次官の森永貞一郎が第 23 代日本銀行総裁に就任した。東大法学 部卒業後、大蔵省へ入省、日本輸出入銀行総裁、1967 年 4 月には東京証券取引所理事長を 歴任して、 「大蔵のドン」と呼ばれる存在になっていた。 森永総裁は日銀総裁就任直後の記者会見において、日銀総裁の1番大きな仕事として、 「政策のタイミングを誤らないようにすること」、「政府に対しても言いたいことを言うこ と」の2つを挙げたが、それは佐々木前総裁と同じ轍は踏まないという決意の表明であっ た。そして、強力な政界・官界の人脈に支えられた森永総裁の下で、日本銀行は金融政策 の独立性を次第に取り戻していったのである。 第一次石油危機後、厳しい景気後退が引き起こされたが政府は積極的な財政政策へと転 じた。森永総裁の就任直後から公定歩合の引き下げを求める声が産業界やジャーナリズム などで高まっていったが森永総裁は、インフレ・マインドがまだ払拭されていない状況の 下での公定歩合引き下げは尚早として頑強に抵抗した。また、三木内閣の大平蔵相も「公 定歩合は日銀の専管事項である」と発言し、森永を保護した。このようにして公定歩合操 作の主導権を回復した。その後、森永は機動的な公定歩合操作にとっての障害となってい た郵貯問題を、人脈を駆使して乗り切ったことにより、森永の政策手腕に対する各界の評 価は一段と高まった。続いて、1976 年に誕生した福田内閣は足下での景気回復がはかばか しくないこともあり、財政政策と金融政策の両面から積極的な景気対策がとられた。森永 にとって福田首相は大蔵省での2年先輩にあたるが、公定歩合引下げのために必要な預貯 金金利の引き下げを強く要望するなど、森永総裁の主導力はここでも遺憾なく発揮された。 35 36 黒田[2008] pp.11-12 黒田[2008] pp.5-6 23 また、森永は欧米の中央銀行の金融政策を模倣し「マネーサプライ重視政策」を主張した。 当時、日銀内には反対意見が多く、また世間にも知られていない政策であったため、記者 会見や講演の場を利用して広く世間に知らしめる努力を行った。 1979 年にイラン革命が発生した。それに伴い森永は第二次石油危機によるインフレーシ ョンの再発を警戒し、金融引締めの必要性を説いた。政界や財界からは金融引締めへの転 換は時期尚早であるとの批判が一斉に浴びせられた。しかしながら、森永は公定歩合引き 上げにより本格的な金融引締め体制に移行する考えを固めて、当時の大平首相宛に私信を 送った。そこでは第一次石油危機当時の失敗を繰り返さないためには公定歩合の早期大幅 引き上げが必要な旨が説かれていた。公定歩合引き上げが認められるまで森永は「誰が何 と言おうと、公定歩合を決定するのは日本銀行である」という立場を堅持した。森永の態 度は人々に日銀の権威復活の強い印象を与えた37。 2-4-3. 第 24 代 前川春雄 前川春雄氏は、1974 年から 1979 年まで日本銀行副総裁として、1979 年から 1984 年に は日本銀行総裁として活躍した。周知のとおり、1970 年代後半から 1980 年代初頭は、世 界中の政策当局者にとっては非常に困難な時期であった。当時、多くの国でインフレが猛 威を振い、その後生じることとなる Great Moderation(「大いなる安定」と呼び、1980 年 代以降インフレ率や経済成長率の変動が低下した現象のこと)は、せいぜい金融経済学者 のはかない夢、もしくはコンピュータ上のシミュレーションに過ぎなかった。 こうした中、前川総裁率いる当時の日本銀行が行った卓越した金融政策は、後の世代に 重要な教訓をもたらすものであった。第一次オイルショックの教訓を即座に活かしたイン フレなき経済の実現に向けての日本銀行の確かなコミットメントによって、日本は、米国 や多くの欧州の国のように高いインフレに悩まされることなく、1970 年代後半のオイルシ ョックを凌ぎきることができた38。 しかしながら、彼の成功の裏側には大平首相がいた。ソ連のアフガニスタン侵攻により 物価が高騰していた状況を眼前に、前川総裁は予算審議中の公定歩合引き上げは行わない という慣例を犯して、公定歩合引き上げに踏み切る決心を固めた。しかし、竹下蔵相は認 めなかったため、前川はその後大平首相の私邸を極秘で訪問し、公定歩合早期引き上げの 37 38 黒田[2008] pp.13-22 John B. Taylor[2008] pp.37-48 24 必要性を大平首相に訴えた。その結果、公定歩合の早期引き上げの実行が可能となったの である。最終的に森永前総裁による予防的な金融引き締め政策の開始と前川総裁による金 融引き締め強化により、インフレを阻止することに成功した。 前川総裁は物価安定を金融政策運営の基本とし、内外金利差の拡大に伴う円安化を警戒 して常に慎重な姿勢を取り続けた39。 2-4-4. 過去の失敗例と成功例から 政府と中央銀行の関係は両者の力関係によって定まっており、独立性とは日本銀行の実 力に依るところが大きいことが読み取れる。それは、総裁の個人的なリーダーシップや資 質に依存するほか、中央銀行が的確な情勢判断を下す能力があるかどうか、適切なタイミ ングで政策を発動しているかどうかなどその実績に負うところも大きい。しかも、こうし た中央銀行の総合的なパワーなり実績に対する国民の信頼が大きくものをいうのが実態で あろう。 日銀の独立性について昨今最も物議を醸したのは白川前総裁の態度の一変であった。そ れは一貫して金融緩和を嫌う白川は、日銀改正法を垣間見せた政府に屈したことである。 挙って金融緩和に反対していた審議委員もみな金融緩和策に賛成した。そしてその態度の 一変に対し、なんの説明も国民に対してなされないのである。政府に屈し、その変更理由 の説明もされない日本銀行に独立性はあるのだろうか。日銀は哲学を失ったと評する専門 家もいる。前章で中央銀行の独立性の重要性を説明したが、その重要な独立性が今の日本 にあるとは断言できず、喫緊の課題である。 章のまとめ 本章では日本銀行の歴史や制度について分析してきた。とりわけ強調したいのは、過去の 歴史を分析すると政府と日本銀行の関係は両者の力関係によって定まっており、独立性は 日本銀行の実力に依るところが大きい。中央銀行は金融政策を専門的に行う機関である。 つまり、日本銀行の実力とは「適切なタイミングで適切な政策を打つことが出来るか否か」 ということである。 39 黒田[2008] pp.22-27 25 第3章 世界の中央銀行と国際比較 本章では、第1章で説明した中央銀行独立論に属した考えのもと設立された中央銀行の 例として欧州中央銀行(ECB)、相対的独立論に属した考えのもと独立性を獲得した中央銀 行の例としてイングランド銀行(BOE)、勢力説に属した考えで独立性を獲得した中央銀行の 例として FRB を挙げる。3 つの中央銀行を比較した上で日本銀行の独立性の勝ち取り方のヒ ントを得たい。 3-1.中央銀行独立論:欧州中央銀行(ECB) 本節ではヨーロッパにおける中央銀行である欧州中央銀行(ECB)について考察する。 3-1-1. ECB の設立 欧州中央銀行(以下、ECB)は 1998 年に設立され、まだその歴史も浅い。しかし、その特 徴は ECB がドイツのブンデスバンクの制度の影響を強く受けていることである。その理由 として羽森[2002]は以下4点を挙げている40。 ① 中央銀行の高い独立性が物価安定の実現にとって好都合である。 ② ブンデスバンクのような分権的組織の方が中央銀行の高い独立性を実現するのに適 している。 ③ ドイツ連銀が過去において物価安定および金融政策運営に一定の成果を上げてきた。 ④ EMS におけるドイツ・マルクの信頼を ECB におけるユーロが継承するためにはド イツ連銀と同じ組織構造にする方が有利と判断した。 ECB はその「主要な目的」を物価の安定としている。その背景には第 1 に、1980 年代以 降先進国間に物価安定の重要性に対する認識が深まったこと、第 2 に、ECB が新しく誕生 した中央銀行であるため、当初からその目的や運営方法等を明確にする必要があった点が あげられる。ブンデスバンクのティートマイヤー副総裁はブンデスバンクにならって ECB の目的として物価の安定を強く主張していた。ティートマイヤーは次のように述べている。 欧州中央銀行には単一金融政策の準備、策定、実施に責任の負う2つの意思決定機関が ある。それらは、政策評議委員会(the Governing Council)と役員会(the Executive Board) である。 政策委員会は役員会6名のメンバーとユーロ圏の加盟国中央銀行の総裁により構成され 40 羽森[2002] pp.105-pp.107 26 る。政策委員会および役員会共に議長は欧州中央銀行の総裁(President)が務め、総裁が 不在の場合は副総裁(Vice President)が代行する。政策委員会の責務は次の通りである。 ・ユーロシステムに委任された業務を確実に実施するために必要なガイドラインの設定お よびそのための決定。 ・ユーロ圏の金融政策の策定 欧州中央銀行制度法第12条第1項に従って、ユーロ圏の金融政策の決定には、ユーロ システムの「中期貨幣目標、主要金利、および準備供給」について決定することが含まれ る。さらに、政策委員会はこれらの決定の実施に必要なガイドラインを設定する。 役員会は欧州中央銀行の総裁、副総裁および他の4名のメンバーで構成される。これら のメンバーはすべてユーロ圏各国の国家元首ないし政府首脳レベルの合意によって任命さ れる。役員会は次の業務を行う。 ・政策委員会会合の準備をする。 ・政策委員会が定めたガイドラインと決定に従って、金融政策を実施する。また、その 際、ユーロ圏各国中央銀行に必要な指示を与える。 ・欧州中央銀行の日常業務に責任を負う。 ・欧州委員会により委譲される権限を引き受ける。このなかには規制に関する権限が含 まれる41。 意思決定の仕組みを見ると、ユーロ参加国の各中央銀行は、マクロ金融政策について ECB に従わなければならない。この点だけ見ると集権的であるが、ECB の意思決定機関は、政 策評議委員会(the Governing Council)と役員会(the Executive Board)である。その政策 評議委員会の構成は、役員会(正副総裁+理事4名:計6名)にユーロ導入国中央銀行総 裁の計 19 名である。さらには、第三の決定機関として、全加盟国の中央銀行総裁に ECB の正副総裁を加えた一般委員会(拡大評議委員会)も設置されている。したがって分権的 であるともいえる42。このうち、金利政策を決定する政策評議委員会に置いては、中央本部 たる ECB が5名の委員(議長となる総裁を除く)を出しているものの、委員会の過半数を 各国中央銀行が占めている。 3-1-2. ECB の独立性 41 42 小谷野・立脇[2002] pp.6-7 山村・三田村[2006] pp.3-4 27 ECB 機能条約第 108 条(旧第 107 条および欧州中央銀行制度法第7条)は中央銀行の独 立性という重要な原則を制定している。欧州中央銀行ならびに各国中央銀行およびその意 思決定機関のメンバーは、その権限を行使し、委託された任務および責務を履行するにあ たり、共同体の機関または組織、加盟国政府及びその他の組織に指示を求めたり、それら から指示を受けてはならない。同時に、共同体の機関または組織および加盟国政府はこの 原則を尊重しなければならず、欧州中央銀行の意思決定機関に影響を及ぼそうとしてはな らない。 この他にも欧州中央銀行とその意思決定機関の独立性を防護するための規定がある。た とえば、欧州中央銀行の財務上の取り決めは、欧州共同体の財務上の利益とは隔離されて いる。欧州中央銀行は独自の予算を持ち、その資本はユーロ圏各国中央銀行により引き受 けられ、追い込まれている。政策委員会メンバーの任期が長期間であることと、役員会メ ンバーは再任されないとする規定は、欧州中央銀行の意思決定機関のメンバーに対して政 治的影響力を及ぼす可能性を小さくするのに役立っている。さらに、欧州中央銀行の独立 性は、中央銀行による公的部門へのいかなる信用供与も条約で禁止することによって保持 されている。 3-1-3. 政策決定委員メンバーの選任プロセス EU 機能条約 283 条では理事会のメンバー(総裁 1 名、副総裁 1 名、理事 4 名)は、 欧州理事会が、欧州議会と欧州中央銀行政策委員会の助言を求めた後に推薦し、特定多数 決を経て任命すること、加えて、金融あるいは銀行の分野において傑出し、かつ専門的な 経験を持っていると認められることが条件である、と定められている。 欧州議会の助言においては、まず、欧州議会の経済・金融委員会が、欧州中央銀行の独立 性の観点と専門性の観点から候補者がふさわしいかを評価する。同時に、候補者から業績 書と質問書への返答も受け取る。その後、公聴会を開いた後で最終投票を行い、欧州理事 会の推薦に対して賛同するか反対するかを決定している43。 3-1-4. 政策決定とコミュニケーション手段 ECB の政策決定においては完全に合議的であるため、採決では少なくとも表向きは必ず 満場一致になる。各国特有の経済状況が個別に考慮されることはなく、ユーロ圏経済が一 43 European Parliament [2011] 28 体のものとして捉えられ、金融政策が決定される。ECB は、政策決定理事会後に総裁の記 者会見を開催して声明文公表に代えている。記者会見では総裁が実体経済や物価に関する ECB スタッフの見方を説明し、その後記者から質問を受け付ける。その様子は Q&A を含 めてすべて公表され、ウェブ上で動画配信もされる。理事会開催直後に総裁が、その日の 金融政策決定に関する説明を行い、その内容がすべて活字及び動画として公表されるのは 他の中央銀行にはみられないことであり、これに関して ECB はその透明性の高さを誇って いる。一方で各国の率直な意見のやり取りを尊重するため、議事録は公表されない44。 3-2. 相対的独立論:イングランド銀行(BOE) 3-2-1. イングランド銀行の歴史 イングランド銀行は、戦争による政府財政の逼迫を緩和する目的で設立された、いわゆ る「政府の銀行」としての役割を期待された民間の銀行であった45。1694 年に特許を受け て株式会社として設立されると共に、政府への信用供与の代償として銀行券発行権を取得 した46 1688〜89 年のイギリスの「名誉革命」とそれに続くアメリカの植民地をめぐるフランス との戦争によりイギリス王室の財政は窮乏を呈した。1672〜97 年の 25 年間に王室の負債 225 万ポンドから 2,000 万ポンドへと急増し、ウィリアム三世とメリー二世のころには財政 事情はさらに悪化した。このような事態を根本的に改善するために考案されたのが、①イ ングランド銀行の設立と、②国庫証券(exchequer bills)、および③利付き永久公債の発行 であった。イングランド銀行の設立はウィリアム・パタスン(W. Paterson)が立案し、シ ティの有力なシンジケートによって支援された。このシンジケートは 120 万ポンドの資金 を集めて政府に貸し付けた。 同行は署印のない現金手形(running cash notes)も発行し、預金業務も同時に営んだ。 この現金手形は、金匠手形(goldsmith notes)と同様、現金の預け入れに対して銀行が発 行する約束手形であったが、その後、100%以下の準備でも発行されるようになった。後に、 イングランド銀行券へと発展していったのは、この現金手形であった。他方、政府がその 44 45 46 鈴木[2006] p.22 春井[2013b] Capie et al[1994] p.126 29 債務の支払いに使用した署印手形の大部分は、その受取人によってふたたび銀行に預け入 れられるか、あるいは現金手形や新たに発行された署印手形で支払われた。 1697 年にイングランド銀行は政府への追加的な貸付の見返りとして、イングランドおよび ウェールズにおける株式組織による銀行券発行の独占権を獲得した。また、当時の英国で は、イングランド銀行券のほか、大蔵省や民間の金融機関(private financial companies) の発行した紙幣も並行して流通していたが、1708 年には、イングランド銀行を除き、6 名 以上の構成員から成る組織が銀行業を営むことが禁止されるといった措置がとられた。さ らに、イングランド銀行は 1715 年には政府債の管理等を通じて政府の銀行としての地位を 固めた47。 こうした中、他の殆どの銀行は自ら銀行券を発行することを止め、イングランド銀行券 を支払準備として保有し、イングランド銀行における預金勘定小切手を用いて銀行間決済 を行うようになった48。こうして、イングランド銀行券の地位は次第に高まり、1833 年に は、イングランド銀行券に法貨としての地位が与えられた(Bank Charter Act 1833) 。 この間、イングランド銀行は、戦争に伴う政府支出増大等を背景とした正貨準備の不足 や金融恐慌の発生に伴って度々兌換を停止したため、同行の発券制度の改革を巡って、通 貨主義と銀行主義という 2 つの考え方が対立した49。結局、1844 年に制定されたピール条 例(Bank Charter Act 1844)によって、通貨主義の考え方が採用され、イングランド銀行 の発行部と銀行部の分離や一定額以上の銀行券の発行に対する 100%の正貨準備の保有が 定められた。同時に、英国全土における発券業務への新規参入が禁止されたほか、イング ランドおよびウェールズにおける既存の発券銀行の銀行券発行高に上限が課されたことに より、イングランド銀行による銀行券発行権の独占が決定的なものとなった。 3-2-2. イングランド銀行の独立性 以下、植田[1998]に沿ってイングランド銀行の独立性獲得経緯について考察する50。 1992 年 10 月以後は、ERM からの離脱によるポンド安の混乱を避けるために、インフレ ーションがターゲットとされた。インフレ率をターゲット内に収めるためには金利政策の 運営がより重要になる。インフレ・バイアスを持ちやすい大蔵省が公定歩合の決定権限を 47 48 49 50 Capie et al.[1994] p.127 藤木[1998] p.39 館・浜田[1972] p.132 植田[1998] pp.196-207 30 有していれば、 (とくに海外)市場から信任が得られないという見解に基づいて、この頃か らイギリス国内でイングランド銀行の独立性強化に関する議論が活発化した。 1997 年 5 月のブレア政権発足後、直ちにブラウン蔵相は公定歩合の決定権限をイングラ ンド銀行に移行させ、イングランド銀行法も改正する意向を発表した。この改革はイング ランド銀行に金融政策手段の独立性が与えられたことを意味する。 ① インフレーション・ターゲットの決定 引き続き政府が決定し、ターゲットは毎年度予算演説の際に公表する。 ② 政策手段の独立性 イングランド銀行はインフレーション・ターゲットを達成するための金融政策運営上の 責任を負い、金融政策委員会を設置し公定歩合を決定する。 ③ 金融政策委員会 総裁・副総裁(2 名:1 名増員) 、イングランド銀行からの内部委員(2 名:大蔵大臣と 協議のうえで総裁が任命) 、外部委員(4 名、金融に関する有識者で政府が任命)の計 9 名で構成され、月 1 回開催される。任期は、総裁と副総裁が 5 年、内部・外部委員が 3 年である。議決権 公定歩合の決定は、9 名の金融政策委員の投票で決まるが、同数の場合は総裁が決定す る。また金融政策委員会には大蔵省からの代表者が出席することが出来るが、議決権は ない。 ④ 政策責任 インフレーションがターゲットから乖離した場合、総裁はその原因、対応策、目標圏内 へ戻るのに必要な期間を明示した公開書簡を大蔵大臣に送らなければならない。 ⑤ 情報公開 金融政策委員会の議事録・投票結果は6週間後に公表する。またイングランド銀行の政 策運営、将来見通し、見解は以前と同様に「インフレーション・リポート」において発 表し議会でも説明される。 ⑥ 例外 国益に影響を及ぼす場合、政府はイングランド銀行の決定を変更することができる(た だし国会の承認が必要) ⑦ 理事会 総裁・副総裁(2 名) 、外部理事(16 名任期 3 年)で構成され、イングランド銀行の経 31 営状態・金融政策委員会が適切に運営されているかどうかの評価を行う。 3-2-3. 政策決定委員メンバーの選任プロセス BOE の総裁選任プロセスは、例えば、2013 年 7 月より総裁に就任したカーニーの選任 プロセスから、非常にオープンであることが理解できる。今回公募で選任されたわけだが、 財務大臣が管轄しており選定パネルも財務省の常任書記、第 2 常任書記、イングランド銀 行取締役会議長から構成され組織された。選任理由は、FSB 議長であることやカーニーの リーマンショックに対する適切な対処であることが公表された。イングランド銀行の場合、 総裁・副総裁は財務大臣が、総裁・事務次官・財務省高官と検討後。財務大臣が首相に候 補者を推薦する。また、常任理事はイングランド銀行から金融政策と金融調節担当のもの を 1 名ずつ、財務大臣と協議の上、総裁が任命する。すなわち、政策決定委員メンバーの プロセスにおいて、財務大臣の影響力が大きい。 3-2-4. 政策決定とコミュニケーション手段 BOE の説明責任に関しては、政策金利が変更されるときのみ声明文の中で実体経済及び 物価動向に関するコメントが公表される。総裁の記者会見は MPC 後には開催されないが、 四半期に一度インフレーション・リポートが公表される際に定例記者会見が行われる。こ の様子はウェブ上で動画配信される。MPC 議事録は他の中央銀行よりも早く2週間後に要 約が公表される。 イングランド銀行の MPC の採決では、その政策委員の採決が完全に個人の自由である。 このため、投票結果において総裁が敗北を喫することもある。完全に個人的な委員会の投 票結果は、各委員の主張が投票の形となってそのまま現れることから、市場に対する金融 政策の重要なメッセージになる51。 3-2-5. 独立性付与以前に関する考察 改正前は、金融政策はイングランド銀行と大蔵省の間で行われる月例金融会議で決定さ れる。その協議ではイングランド銀行が経済状態を独自に分析した内容を説明した後、大 蔵大臣に対して、今後とるべき金融政策について助言する。大蔵大臣は、イングランド銀 行の報告を聞いた後、最終的な金融政策の決定を下す。法的な金融政策の決定権限は大蔵 51 鈴木[2006] p.22 32 省が握っていた。意見が対立する場合、基本的には大蔵省に優越権がある。したがって、 イングランド銀行は、金融に関する専門的・技術的な立場から助言し、国民生活に直結す る金融政策については行政府である大蔵省が決定する構造となっている。 1994 年 4 月以降、 3 か月にさかのぼって順にこの月例金融会議の議事録が公開されるようになった。この議事 録を見れば、金融政策の決定についてかなりの発言力をイングランド銀行が持っていると 理解できる。無論対立の上、大蔵省が独自の政策を実行したことも多々あったが、大蔵省 の最終決断に対し大きな影響を及ぼしている。また、議事録にはイングランド銀行と大蔵 省各々の経済見通しについての考えが詳細に記されており、金融政策決定過程の透明性確 保と責任の所在の明確化に結びついていることは言うまでもない。しかしながら依然とし てこの期間における公定歩合の最終決定権限は大蔵省に残っていたままであり、他の先進 諸国の中央銀行法と比較すると遅れていることは否めなかった。 3-3.勢力説:連邦準備制度(Federal Reserve System) 3-3-1. FRB の歴史 米国では、2度にわたって中央銀行の設立と消滅が繰返されたあと、現在の連邦準備制 度(Federal Reserve System)が設立される 1913 年までの 66 年間、中央銀行の存在しない 金融システムであった。合衆国憲法上、連邦が特許を付与して銀行を設立する権限を有す るかどうかについては、連邦の権限を巡る争いの一環として議論があった52。 米国最初の中央銀行は 1791 年、 「第一合衆国銀行(The First Bank of the United States)」 という名称 20 年間の営業免許に基づいて設立されたが、免許期間終了とともに消滅した。 また、1816 年には、 「第二合衆国銀行(The Second Bank of the United States)」がやはり 20 年間の営業免許で設立されたが、免許期間の終了した 1836 年に消滅した。その後、連 邦 準備制度が設立されるまでは、中央銀行が存在しない金融システムであった。米国は、い わゆるフリーバンキング時代を迎えたのである。第 1 合衆国銀行および第 2 合衆国銀行が 存続した期間は、両行が国庫の資金繰りも取り扱っていたが、その後は、州法銀行が財務 省資金の預託機関および財務省の代理機関としての役割を果たすようになった。しかし、 ヴァン・ビューレン(Van Buren、 Martin)大統領は、政府自ら金庫を作り、そこに流入・ 流出する正貨の受払・保管を行う独立国庫制度(1840~1914 年)を設立した53。 52 53 Beckhart[1972] pp.4-5 藤木[1998] pp.50-51 33 南北戦争(1861~65 年)が勃発すると、戦費調達の必要性を背景に、1862 年には連邦 議会によって合衆国紙幣( 「グリーンバック(greenbacks)」)の発行が認められ、関税と国 債利子を除くすべての支払に充当され得る法貨として連邦全域で流通するようになった。 しかし、グリーンバックは不換紙幣であり、発行量に制限が設けられ、速やかに回収され なければならないと考えられていたため、兌換性を備えた統一的な通貨の導入を求める動 きが高まった54。そして 1863 年には、国法銀行の設立と国法銀行による銀行券発行につい て規定する全国通貨法(National Currency Act)が制定された。同法の下で、国法銀行は 資本金の 3 分の 1 に相当する国債を購入し、これを担保に財務省から担保国債の 90%に相 当する銀行券を受け取り、兌換請求に備えて合法通貨(lawful money:金貨、銀貨および グリーンバック)を準備として保有したうえで、銀行券を発行することとされた55。翌年、 同法を改正した国法銀行法(National Bank Act)により、銀行券の兌換は 19 の準備都市 (このうちニューヨークは特に中央準備都市とされた)の銀行において集中的に行うこと とされ、準備都市の銀行では 25%、地方銀行では 15%の銀行券および預金に対する準備の 保有が義務づけられた56。地方銀行は準備金の 5 分の 3 までを準備都市および中央準備都市 に所在する銀行の預金として、準備都市に所在する銀行は準備金の 2 分の 1 までを中央準 備都市に所在する銀行の預金として保有することができ、中央銀行が存在しない中で、州 法銀行が採用し慣習化していたコルレス制度が明文化されることとなった。国法銀行制度 については、①銀行券発行が当時減少し続けていた米国債を担保としていたため、季節変 動や恐慌に際して弾力的な銀行券の発行ができなかったこと、②準備預金制度により地方 都市からニューヨークに集中した資金の大部分が株式仲買人に対して投資されたため、恐 慌により株式取引所が閉鎖されると、貸付けが凍結され、ニューヨークの市中銀行は地方 銀行に送金することができなくなり、地方銀行が支払資金の不足に直面するというように、 「最後の貸し手(Lender of Last Resort: LLR)」が欠如していたこと、③地域外小切手の 取立てに関し、しばしば現金輸送が必要とされたため、運搬費用により他地域のドルに対 する割引が発生したこと、といった問題点が指摘されている57 1907 年の金融恐慌を契機に、金融制度改革の気運が高まり、銀行間コルレス制度を支え る準備金のプールの場としての全国準備協会の設置案(オルドリッチ法案)が出されたが、 54 55 56 57 西川・松井[1989] pp.26-28 高山[1982] p.68 西川・松井[1989] pp.30-31 藤木[1998] p.48 34 結局、全国に配置する 12 の連邦準備銀行それぞれに中央銀行の役割を課し連邦準備局がこ れらを統御するという構想が生まれ、1913 年に連邦準備法が成立し、連邦準備制度が発足 した。連邦準備制度は、当初より、連邦準備券発行権を付与されたが、国法銀行券の発行 も 1935 年まで続けられた58。 3-3-2. 政策決定委員メンバーの選任プロセス FRB における金融政策決定委員会は FOMC である。メンバーは①連邦準備制度理事会の 議長 1 名、副議長 1 名、理事 5 名の 7 名と②連邦準備銀行総裁 5 名の合計 12 名であ る。連邦準備銀行は全部で 12 あり、ローテーション制が採用されて、12 名中 5 名の地 区連銀総裁に投票権が与えられている。もっとも、メンバーとならない 7 名の地区連銀総 裁も FOMC に参加し、他のメンバーと同等に議論には参加する。 連邦準備法 10 条 1 項によれば、連邦準備制度理事会の議長・副議長・理事は、大統領に よって任命され、連邦議会により承認される。その際、大統領は、金融、農業、工業、商 業上の利益および地域性を公正に代表させるよう考慮している。 アメリカにおける任命の過程としては、①大統領が人事案を公表し、②上院銀行・住宅・ 都市委員会が候補者を招いた公聴会を開く。③同委員会によって任命が承認された場合、 上院本会議で採決される。 3-3-3. 政策決定とコミュニケーション手段 形式的には委員の個人的な判断で判決が採決なされるものの、グリーンスパン前議長時 代にはほとんどの採決結果が満場一致であり、実質的には合議的であったと言える。これ は、米国では議長案が反対されて棄却されるようでは、FRB 議長としてのリーダーシップ に欠けると判断される風潮があるからである。実際にボルカー前々議長は採決での敗北を きっかけに自身のリーダーシップの欠如を感じて辞任した。また、グリーンスパン前議長 は採決の前に各理事と個別に意見交換を行い、自らの提案に賛成するよう促し、結果とし てほとんどのケースで満場一致が守られた。グリーンスパン前議長時代には Fed 理事が講 演やマスコミへの対応において慎重を期するようにグリーンスパン前議長から忠告を受け ており、また政策決定に関してグリーンスパン前議長の圧力を感じながら金融政策運営を 行っていたことは有名である。民主的で透明性の高い中央銀行を目指すバーナンキ議長が 58 安念他[2004] p.25 35 就任してからは FOMC の性質がやや個人的な方向に動いたと考えられるが、イングランド 銀行のように各理事が完全に自らの判断で行動できる状況とは異なるものと思われる。 コミュニケーション手段に関しては、①FOMC 後の声明文がある。実体経済及び物価動 向ほかにリスクバランスが示され、先行きの金融政策へのコミットメントの表現が入るこ ともある。②議長及び理事のスピーチがある。FRB 議長の記者会見は行われていないが、 その代わり議長及び理事の議会証言における声明やスピーチの内容はその都度公表される。 特に、議長による議会証言は注目度が高く、毎回必ず議会証言が生中継される。議長及び 理事のスピーチ内容は、翌日の新聞をにぎわすことが少なくなく、FRB からの情報提供手 段の1つと考えられている。また、グリーンスパン前議長の時代には非公式な情報提供ル ートとして一部の新聞記者に情報を提供し FRB の真意を書かせるということが行われてい た。グリーンスパン前議長は、政策を市場に伝える手段として FOMC 声明文の政策バイア スを第一に、議会証言やスピーチを第二の手段として用いていた。しかし、それらは必ず しも適切なタイミングで行われるとは限らないので、第 3 の手段として新聞記者を利用し ていたと言われている。③FOMC 議事録の要約の公表がある。FOMC 議事録は 2004 年ま では次回の FOMC 開催後に要約が公表され、2005 年初めより FOMC 開催から 3 週間後に 要約が公表されるようになった。FOMC 議事録の早期公表によって、FOMC の議論が市場 に伝わりやすくなったとともにその重要性が高まった59。 3-3-4. FRB の独立性と歴代の総裁 米連邦準備法には、FRB の独立性は明示されていない。戦時には戦費調達のために政府 が金融緩和圧力をかけることが多く、インフレを抑制したい FRB と財務省との間で対立が 生じた。トルーマン大統領は調停を進め、財務省と FRB は 51 年、金融政策の独立性を尊 重する協定を結んだ。現在では一歩進み、連邦準備法 14 条によって FRB は国債を市場か らのみ購入することが決められている。79 年就任のボルカーFRB 議長がスタグフレーショ ンの脱却に成功したことで、FRB の独立性はその信認の代名詞となっている60。 FRB 議事長の偉業によって FRB の独立性は強固なものとなった。そこで、本稿では歴代 FRB 議長について考察する。 59 60 鈴木[2006] エコノミスト[2013] p.17 36 ・FRB 初代議長 チャールズ・ハムリン ボストン出身の弁護士であり、当時は米国財務省の次官補を務めていた。ハムリンは系 統立った考え方をする融和的な人物であるが、財務長官の要求に過度に受容的である「軟 弱な指導者」と言われた61。 ・第 10 代:アーサー・F バーンズ(1970 年 2 月1日~1978 年1月 31 日) バーンズはコロンビア大学で Ph.D を取得し、その後 21 年間コロンビア大学の経済学教 授になった。1953 年~1956 年 アイゼンハワー政権下で大統領経済諮問委員会委員 長を務め、ノーベル経済学賞受賞者を多く排出する全米経済研究所局長を務めた。 その後、FRB の議長となる。 バーンズの政策運営手法はぎこちなく、失策も多かった。後世に伝えられるべき優れた 実績は何1つ残さなかった。規制する政策には取り組む姿勢を示したが、別に自らの考え でそうしたわけではなく、その姿勢にも一貫性がなかった。国民に失望感を与え、政治家 からの圧力には必要以上に動揺してしまい、政治的思惑から自分の見解を覆すこともあっ た。 ・第 11 代 FRB 議長:G・ウィリアムミラー(1978 年 3 月 8 日~1979 年 8 月 6 日) ウィリアムミラーはカリフォルニア大学バークレー校に学び、その後同校の法科大学院 卒業後は法律事務所に所属した。後に、テクストロン社 CEO に就任し、その間大統領産業 諮問委員会議長を務めた。ミラーの FRB での最初のポストはボストン連邦準備銀行頭取で あり、その後 FRB 議長に就任した。 在職期間はわずか 18 か月である。ミラーは FRB 議長に就任すると 1 つだけプラスにな ることがあった。それは、バーンズの後を継ぐ議長であったため、世の中からほとんど期 待されていなかったことである。しかしながら在職 18 か月間、政策運営に対する彼の姿勢 は一貫していた。政策を正しい方向に軌道修正し、主に2桁の賃上げ上昇率のために社会 に根付きかけていたインフレとの戦いに少なからぬ努力を重ねた。フェデラルファンド金 利を引き上げ、金融引き締めに取り組むと、本当はほとんど効果がない程度であるにも関 わらず、周囲からやりすぎだと批判されたのである。就任当初から政治的に勇気がなかっ たわけではないが、のちになると政策運営に揺らぎが出てくるようになった。彼にかけて 61 ハワード[2009] p.347 37 いたのは社会に根付いたインフレ根絶には小刻みに金利を引き上げても十分な効果を得ら れないことを理解できる金融政策についての経験であった。 ・第 12 代 FRB 議長:ポール・ボルカー(1979 年 8 月 6 日~1987 年 8 月 11 日) ボルカーはハーバード大学院で政治経済学修士号を取得し、ロンドン大学スクール・オ ブ・エコノミクスでフェローになった。その後ニューヨーク連邦準備銀行に入行し、さら にチェース・マンハッタン銀行に出向してエコノミストとしての腕を磨いた。さらに財務 省では金融分析の長となり、後に通貨担当次官補に昇進した。再びチェース・マンハッタ ン銀行で副頭取を経験し、財務省で国際金融担当次官を務めた後、ニューヨーク連銀総裁 に就任した62。 1970 年代にアメリカは不況と物価上昇が共存する「スタグフレーション」を経験するこ とになったが、1979 年に就任したポール・ボルカーがスタグフレーションからの脱却に成 功すると、このころから中央銀行の独立性の重要性が次第に認識されるようになった。ボ ルカーは2度にわたる石油危機に起因するハイパーインフレを収束させたとして、現在も 高い評価を得ている議長の一人である63。 ・第 13 代 FRB 議長:アラン・グリーンスパン(1987 年 8 月 11 日~2006 年 1 月 31 日) グリーンスパンは、金融分野では優れて実績を上げており、専門家の間では一流エコノ ミストとして高く評価され、ワシントンでは主にビジネス分野のエコノミストとして広く 認められていた64。ニューヨーク大学にて経済学博士号を取得し、その後経済シンクタンク にてコンファレンス・ボードの経済アナリストとして働いた。ジェラルド・フォード政権 下で 1974 年から 1977 年まで米国大統領経済諮問委員会(CEA)の議長を務めた。 ボルカーの後継者となったアラン・グリーンスパンの時代には FRB 議長の卓越した評価が 高まり、中央銀行の独立性がおおむね確立した。FRB の独立性が定着したのはおおむね 1980 年代であるといえよう。特に FRB 議長としては史上最長の在任期間(18 年 6 か月) を記録したグリーンスパンの功績は大きいと考えられる。グリーンスパンは議長に就任し て2か月後に 1987 年 10 月 15 日、ブラックマンデーが発生した。ダウ平均の下落率 23 パ 62 63 64 レナード[2009] pp.172-174 藤田[2013] p.133 レナード[2009] p.206 38 ーセントは世界恐慌の引き金となったブラックサーズデーの下落率 13 パーセントを上回っ た。これが引き金となり、10 月 19 日以降、世界的に株価が急落した。1929 年のブラック サーズデー以来、58 年ぶりとなった株価暴落に、米国の株式市場関係者だけでなく、世界 中が「大恐慌の再来だ」と悲観一色になったものである。共和党ジェラルド・フォード政 権下で米国の不況到来は不可避に見えた。ところが、就任後2か月にも関わらず。グリー ンスパンの行動は迅速であった。ただちに流動性を大量に供給し、FF 金利の誘導目標を一 気に引き下げた。 1996 年の IT バブルに対する警告、1998 年の LTCM 危機の対処などについては、グリー ンスパンの功績は高く評価され、歴代議長のなかでも高い評価を得ている人物の一人であ る65。 ・第 14 代 FRB 議長:ベン・S・バーナンキ(2006 年 2 月 1 日~) バーナンキはハーバード大学にて経済学を学び、その後、マサチューセッツ工科大学に て経済学博士号を取得した。長い間スタンフォード大学で教鞭をとっていたが、FRB 理事 を経験して CEA 委員長に就任。2006 年より FRB 議長に就任した。 バーナンキは学究的世界で過ごしてきたが、それには良い面と悪い面がある。良い面と しては金融の世界に対する造詣が深いこと、悪い面としては現実的な決定を下す場面であ るにもかかわらず理論に頼りすぎる恐れがあることである。彼は FOMC の運営に従来と異 なる手法を導入し、前任者のように自身の見解を早期に示すことをせず、同僚たちの話に より耳を傾け、より合議的なスタイルを築き上げてきた。2009 年にはパブリック・ミーテ ィングの開催や、過去に例がないほど広範囲なコミュニケーションによって、より多くの 有権者に FRB の政策を説明する構想を立ち上げた。FRB の説明責任に関するより形式的な メカニズムを要求する議会の一部からの圧力に直面し、このようなより開かれた斬新な取 組みを実施した66。 以上より、優秀な人材が多いと言われるアメリカでさえ過去には政府の圧力に屈する議 長がいたことは明らかである。しかしながら、ボルカーやグリーンスパンといった世界で もずば抜けた功績を残した名議長がいることもまた事実である。グリーンスパンの跡をつ 65 66 藤田[2013]pp.133-136 ハワード[2009] p.350 39 ぎ、時には金融政策について批判を受けながらも、コミュニケーションの面で自分流のス タイルを貫きリーダーシップを図ろうとするバーナンキの姿はこれまでの日本の総裁にも 見習ってもらいたい点である。総じて、FRB は実力によってその独立性を勝ち取った。す なわち、適切なタイミングで適切な金融政策を行うことで国民の信頼性を高め、その独立 性を確固たるものとしたのである。 章のまとめ 本章では、欧州中央銀行(ECB) 、イングランド銀行(BOE)、連邦準備制度(FRB)を挙げ、 その歴史や制度、独立性の在り方を検証してきた。次章においては、本章の分析と第2章 の日本銀行の分析を合わせその相違点について考察していく。 40 第4章 政策提言 4-1 日銀の問題点 4-1-1. 米英欧と日銀の国際比較と日本銀行の位置づけ 第 2 章の日本の分析と第 3 章の米英欧の分析に基づき、以下、図表 2 と図表 3 を作成し た。まずは、①独立性の付与②説明責任、透明性③委員会や理事の任期の3つに分けて、 日本銀行と米英欧の中央銀行について国際比較を行う。まず①独立性の付与の観点から考 察すると、米英欧も日本と同様に、目的決定の独立性は付与されず、手段選択の独立性の み与えられている。ゆえに、日銀の独立性を高めるために、目的決定の独立性は与える必 要はないと言える。 続いて、②説明責任、すなわち透明性の観点から考察すると投票結果の公表や政策決定 の当日の公表、議事要旨公表や議事録公表においてもグローバル基準にあると言え、透明 性が日銀の独立性を阻害している要因であり喫緊の課題であるとは言えない。③委員会の 構成や理事の任期という観点から見ても、任期や委員会の人数はグローバル基準にあると 言える。ゆえに、日銀の独立性を根本から揺るがすものは(制度上は)以上の3点には無 いと言える。 41 図表2 主要中央銀行と政府の関係 (出所)各中央銀行, 藤田[2013] 42 図表 3 主要中央銀行の金融政策決定組織の概要 日本 欧州 英国 米国 中央銀行 日本銀行 ECB BOE FRB 金融政策委員会 政策委員会 政策理事会 MPC FOMC 9 人数(外部委員) 再任 可 23 9(4) 不可 12 可 可 5 8 5 4 副総裁 5 8 5 4 理事 5 8 3 14 任期 総裁 5 各国中銀総裁 (出所)各中央銀行, 藤田[2013] 4-1-2. 政策決定メンバー選任プロセス 政策決定メンバーの選任プロセスにおいて、日本と米英欧には違いが見られる。これま での米英欧の選任プロセスではなぜその人を政策決定メンバーにするのか、必ず政府や議 会から説明があった。他方、日本では基本的に理由説明が行われない。また英米欧のよう に政策決定メンバーを決めるのに、熱い議論が行われることがない。これは、日銀政策決 定メンバーに政府や議会がそれほど関心を持っていないということの表れではなかろうか。 加えて、欧州では議会の経済・金融委員会が、欧州中央銀行の独立性の観点と専門性の観 点から候補者がふさわしいかを評価し、アメリカでは、上院銀行住宅都市問題委員会が公 聴会を開いている。他方日本は衆参両院の議院運営委員会で議論・採決される。質疑応答 や所信表明演説がなされたのは過去 2008 年のねじれ国会の時のみである。 日本と欧米にはメンバーの学歴と決定プロセスが大きいため、首相は選任理由を表明し た上で、欧米のように金融専門の委員会である、衆参財務金融委員会で任命者を招致し公 聴会を開催する、というプロセスを採ることにより、メンバーの質が改善し、適切な金融 政策を実行されるようになるかもしれない。それに伴い日銀への信頼が高まり、独立性の 強化に繋がることは大いに有り得る。しかしながら、本稿では選任プロセスの改善を提言 とはしない。理由は次項で述べる。 43 4-1-3. 総裁の力量で勝ち取る独立性 日本銀行が中央銀行独立論に基づく独立性を持つ ECB、相対的独立論に基づく BOE、勢 力説に基づく独立性を持つ FRB、どれに最も近いのであろうか。ECB は高い独立性を保っ ており、その点で近年では各国から不満の声もこぼれている67。具体的には各国政府がマー ストリヒト条約の ECB の独立性を謳った条項に当然に責任を有している。しかし、あらゆ る党派の政治家が、政策金利の決定に対して影響力を行使できないこと、加えて ECB に付 与された自由裁量の程度に不満を示している。 歴史的視点に立つと、ECB は中央銀行として設立され、その点では日本と似通っている。 だがしかし、政府と中央銀行が完全に分離しているような ECB は日本が独立性を獲得する ためのヒントはそう多くは得られないだろう。 日本と同じ時期に独立性が付与された BOE はまるで日本と同じような独立性の獲得の仕 方に見える者もいるかもしれない。しかしながら、第3章で考察したように、BOE はその 政策決定の独立性が与えられる以前から大蔵省に対し適切な助言を与え、大蔵省も BOE の 意見に耳を傾け、良いコミュニケーションが取れていたといえる。米国の通貨委員会は、 フィールドワークの一環として BOE に関する調査を行い、次のように指摘をした。 「金融 界において BOE が占める重要な地位は、これまで BOE の政策を運営してきた人々の英知 がもたらしたおのであり、法律の制定がもたらしたものではない。」と、アメリカの連邦準 備法に独立性が明記されていない点からも分かるように、中央銀行の独立性の成文化は必 要条件ではあるが十分条件ではないことを示唆している。 Cargill, Hutchison, and Ito [1997]は、日本銀行は 1970 年代半ばに事実上の政治的・制 度的独立性を得ていたと主張している68。 1970 年代半ばとは森永・前川と名総裁が続い た時代であった。まさに、政府に対し臆さず、果敢に「公定歩合は日銀の専管事項である」 と中央銀行のトップである自覚を持った総裁が日本に存在したのである。日銀としての威 厳を取り戻した時代を再度現実に見る日が来るにはどのようにすればよいのであろうか。 前項でも述べたが、その一つの有力な策として、総裁選任プロセスの改正が挙げられる。 しかしながら、第3章で確認したように、アメリカにおいてはしっかりした議長選任プロ セスを取りながら、ポール・ボルカー以前には結果を残せない議長も多かったことは否め ない。彼らは政府の圧力に負け、FRB への国民・政府からの信頼はどん底であったと言っ 67 68 ハワード[2009] p.181 Cargill, Hutchison, and Ito [1997] pp.41-52 44 ても過言ではない。総裁選任プロセスの改正は必要条件であって十分条件ではない。加え て、この選任プロセスを改正するタイミングは、まさに日銀が独立性を得ていたとされ、 政府の日銀に対する信頼が増えていた森永・前川総裁のような日銀のリーダーが現れた時 に実施するほうが効果的ではなかろうか。現在のように一括して審議委員の人事を決めて いる議会には日銀に対する興味が有るようには思えない。 例えば、アメリカのバーナンキは現実世界に対し、理論に頼り過ぎる点があった。しか しながら、彼はアメリカの高校生向けに講義を行うことや過去に例がないほど広範囲なコ ミュニケーションによって、 より多くの有権者に FRB の政策を説明する構想を立ち上げた。 バーナンキはその金融政策には賛否両論があるものの、自国の中央銀行のトップであると いう自覚を持ち、全力を尽くしたであろう。 第2代 ECB 総裁のジャン=クロード・トリシェはパリ政治学院、フランス国立行政学院 で学びフランス財務相に入った後にフランス銀行総裁にまでのぼりつめた。トリシェはパ リでは総攻撃を受けていた。ユーロ高になり。フランスの輸出産業が打撃を受ければ、そ れはトリシェの責任である。しかし、トリシェは欧州議会において、 「わたしはフランス人 ではない」と主張した69。すなわち、ECB の総裁は欧州全体の利益のために行動しなけれ ばならないという認識がトリシェの中では確立されており、欧州の中央銀行のトップとし て正しい行動であったと言える。 金融市場に対する理解力を備え、自分の哲学を貫き、かつ政府とうまくコミュニケーシ ョンを取ることが出来る人材を見つけるのは非常に難しいだろう。しかし、FRB は中央銀 行と政府の立ち位置や、設立の歴史的経緯(どちらもはじめから中央銀行として設立され た)が似通っている点や、森永・前川総裁の到来とポール・ボルカー、グリーンスパンの 到来が似通っている点からやはり日本銀行は FRB のように総裁の実力で独立性を獲得して いく必要があると主張する。すなわち、能力を持った総裁が適切なタイミングで適切な金 融政策を行うことで、日銀の権威を高め、独立性を勝ち取るべきである。 4-2. 総裁の地位の高まりとその素質 中央銀行の理事会の 4 分の 3 は総裁が議長を務め、さらに中央銀行による公開のコミュ ニケーションや説明責任のメカニズムの発展によって、中央銀行とその総裁が同一視され るようになってきている。中央銀行は 17 世紀後半から存在したが、20 世紀になってリーダ 69 ハワード[2009] pp.353-354 45 ーたちの人格がはるかに重要になった。彼らの権力が拡大したのも理由の 1 つであるが、 通常の在任期間がより長くなったことも理由である。BOE の場合は、設立からの 200 年間 はほとんどの総裁の在任期間は 1 年か 2 年程度であった。つまり、政策や中央銀行の運営 に際立った足跡を残すには不十分な長さであった70。 そこで、世界の総裁について分析していく。 4-3. 世界の中央銀行総裁 世界には優秀な総裁や議長が多い。そこで本節では、総裁及び、将来総裁になる可能性 を秘める副総裁に焦点を当て、彼らの学歴と職歴を分析し、以下、FRB、日本銀行、ECB、 BOE の順に表でまとめた。 図表 4:FRB 議長の経歴 FRB バーナンキ 学歴 ハーバード大学経済学学士 MIT 経済学 Ph.D.(1979) 職歴 スタンフォード大学経営大学院准教授(1979-83) スタンフォード大学経済学准教授(1983-85) プリンストン大学教授(1985-) MIT 客員教授(1989-90) ニューヨーク大学客員教授(1993) FRB 理事(2002-2005) CEA 委員長(2005-2006) FRB 議長(2006-) (出所)FRB HP より筆者作成 70 ハワード[2009] p.345 46 図表 5:日本銀行総裁・副総裁の経歴 日本銀行 黒田東彦 学歴 東京大学経済学部 オックスフォード大学修士 職歴 大蔵省入省(1967) その後財務官に就任。 アジア開発銀行総裁(2005-2013) 日本銀行総裁(2013-) (出所)日本銀行 HP より筆者作成 図表 6:ECB 総裁の経歴 ECB マリオ・ドラギ 学歴 サピエンツァ大学経済学学士 MIT 経済学 Ph.D. 職歴 トレント大学教授(1975-1981) フィレンチェ大学教授(1981-1991) 世界銀行エグゼクティブディレクター(1984-1990) イタリア財務省局長(1991-2001) Goldman Sax 副 会 長 兼 マ ネ ー ジ ン グ デ ィ レ ク タ ー (2002-2006) イタリア銀行総裁・FSB 議長(2006-2011) 欧州中央銀行総裁(2011-) (出所)ECB HP より筆者作成 47 図表 7:BOE の総裁・副総裁の経歴 BOE マーク・カーニー 学歴 ハーバード大学経済学学士号 オックスフォード大学経済学修士・博士号 職歴 Goldman Sax 入社(1988) ソブリンリスク担当、新興市場責任者を経てカナダ投資銀行分門経営責任者。 カナダ銀行副総裁(2003) カナダ財務省(2004-2007) カナダ銀行総裁(2008-2013) BOE 総裁(2013-) (出所)BOE HP より筆者作成 以上より、総裁・副総裁の素質は①中央銀行業務の経験、②政府の経験、③学者(Ph.D. の取得) 、④マーケット業務の経験に分けられる。まず、これまでの話の流れに沿って、総 裁に焦点を当て、下に図でまとめた。日銀総裁にはグローバル基準で世界の総裁が兼ね備 えている素質を多く持っていない点は明らかである。 図表 8:各国中央銀行総裁の比較 中央銀行業 政府の経験 学者 マーケット ○の数 務 ○ 黒田東彦 1 バーナンキ ○ ○ ○ ドラギ ○ ○ ○ ○ 4 カーニー ○ ○ ○ 3 (出所)各国中央銀行 HP より筆者作成 48 3 まずは、本当に、これら4つの素質は中央銀行総裁として必要な素質であるのだろうか、 という疑問に応えるべく、一つ一つ検討していきたい。 まず、①世界の総裁・副総裁は Ph.D.取得者が多い。ハーバード大学の Simmons[2006] は総裁のあるべき素質について以下のように分析している71。 より広い視点から G10 諸国の中央銀行総裁を眺めると、経済の専門家を重用する傾向が 明確である。シモンズは、これらの中央銀行総裁が総裁職に就く前の経歴を過去 15 年にわ たって分析した。シモンズは、こうした比較的短い期間で、総裁たちの経歴の同質性が著 しく高まったことに着目したが、もっとも興味深いのは、経済学の知識を身につけた総裁 が増加すると同時に、産業界や民間金融機関出身の総裁が激減していることである、と述 べている。20 年前には、総裁の 3 分の 1 は、民間部門で(通常は銀行で)経験を積んでい た。それがいまや、民間銀行での勤務経験が少ない。金融危機の際には、こうした事実が 短所となっていることが表面化した。中央銀行は、不意を突かれただけでなく、彼らが機 能不全を正そうと努めていた債券市場の力学をなかなか理解できずにいた。 シモンズは、中央銀行総裁の経歴面でのこうした変化から生じた利点だけに着目してい る。自身もエコノミストであるシモンズは、学者の世界で時に急速で時に辛抱強く経験を 積み上げてきたからこそ、通貨や金融の様々な問題に協力的な姿勢で取り組むことができ ると考えている。シモンズは「G10 諸国の総裁には学者であった者が多く、知識の習得や 周囲を説得することにますます強い関心を持つようになっている。つまり、他の総裁より も、証拠や理屈を伴う議論の力をより受け入れやすいであろう」と記している。 Adolph[2003]は、主要な中央銀行総裁の前歴の変化について、シモンズと少し異なる 手法で評価を行った。アドルフは、経済学の着実な習得がこれらの役職に就く準備段階で あると述べ、総裁はエコノミストであるべきだと主張している 72。日銀の名総裁である森 永・前川は法学部出身でありながら見事な金融政策を行った。しかし、金融市場がグロー バル化し複雑化していく中で、経済学のスペシャリストであることは必要条件であると言 えるだろう。 続いて、②中央銀行業務の経験である。近年大規模の金融危機が頻発しており、プルー デンス政策の重要性が高まりつつある。プルーデンス政策の実務の担い手である中央銀行 71 72 Simmons[2006] pp.2-20 Adolph [2003] pp.10-21 49 のトップがプルーデンス政策の経験が皆無であることは、不適切な事態としか言いようが ない。したがって中央銀行での経験も必要となる。 3 つ目の必要な素質としては、③政府の経験である。中央銀行の独立性を保つために政府 出身者は政策決定に関与すべきではないとする意見もある。しかしながら、先に述べたよ うに中央銀行の独立性とは 政府からの完全な独立ではなく、政府と中央銀行の適度な距 離のことである。あまりに近い場合や逆にあまりに離れている場合は、それまた好ましく はない。一国が行う経済政策とは大きく分けて金融政策と財政政策に分けられる。金融政 策は中央銀行が担い、財政政策は政府が担う。しかし、両者には補完性があり、切っても 切り離せない関係である。両者の適度なコミュニケーションを取るためにも、政府の経験 は必要とされる。 そして最後に④マーケットの経験である。最も持っている人が少ない素質がこのマーケ ットの経験である。マリオ・ドラギとマーク・カーニーが兼ね備えているものであるが、 カーニーに関してはまだ就任から4か月程であり、ここではドラギがマーケット経験を生 かしてなし得た偉業について焦点を当てていく。 4-3-1. ドラギ・マジック ECB のドラギ総裁は欧州債務危機が最悪期を迎えつつあった 2011 年 11 月に就任した。 その後、2 度にわたる利下げのみならず、「非標準的な」金融政策を絶妙のタイミングで打 ち出し、市場の鎮静化に大きな役割を果たしたのは周知のとおりだ。だが、特に着目した いのは、「市場との対話力」だ。市場との対話に優れていることは、ドラギ総裁が 02~05 年まで、ゴールドマンサックスインターナショナルで副会長を務めていたこととも無縁で はないだろう。 市場との対話力という見地でその対極にあったのが、ドイツのメルケル首相をはじめと するユーロ圏の政治家だった。ユーロ圏の政治家は、投資家がリーマンショック時に市場 の機能不全(特に短期金融市場)を経験して、リスクに対して過剰に警戒する状況に陥っ ていたことを見過ごし、自国の都合を優先させるつたない政策対応を行った。その結果、 ユーロ圏 17 か国の国債市場という最上級の信用力を貶めてしまった。これは政治の決定的 なミスである。債券市場参加者にとって、ユーロ圏の国債は無リスク資産であり続ける最 後の砦のはずであった。しかし、10 年秋に独メルケル首相が恒久的なセーフティネットワ ークESM(欧州安定メカニズム)の創設を提唱した際に、民間部門の債権者(民間の国 50 債保有者)にもケース・バイ・ケースで一定の負担を求める仕組みとしてしまった。市場 参加者にとっては、 「無リスク資産」であったはずのユーロ圏の国債の「リスク資産」化に ほかならない。さらには、11 年 7 月、ギリシャに対する第 2 次支援決定時に、自発的とは いえ「民間債権者の関与(PSI)」の提唱というパンドラの箱を開けてしまい、ユーロ圏の 国債は「リスク資産」と化してしまった。このような対応について政治家サイドはギリシ ャという固有国に対する「例外」措置だと強弁したものの、市場参加者はユーロ圏の国債 保有に共通して損失の可能性が生じる「前例」だと解釈した。これに、欧州において財政 上の問題を抱えた周辺 5 カ国(PIIGS)という市場認識の広まりが相まって、欧州ソブリン 問題はスペインやイタリアにまで波及した。スペインやイタリア国債の利回りが急上昇し 始めた時に、政治家や識者の多くはその要因を財政問題等のファンダメンタルズに求めよ うとした。しかし先進国の国債市場において、流動性を有する 10 年国債の利回りがわずか 数日で 1%以上も上昇する事態は「平時」では考えられない。投資家の不安心の高まりによ り売買が手控えられた「市場空白期」における投機筋の売り仕掛けが生んだ事象だ。ECB は早い段階から、これが市場のリスクに対する過剰なまでの警戒感や、政策対応ミスなど が複雑に絡み合った「市場の機能不全」によるものだということを見極めていた。両国債 を大量に保有する金融機関の潜在的な損失に対する懸念が、金融システム不安につながる リスクを想定していた。政治サイドが、自らの対応ミスであることを認めず、投機筋にそ の責任を転嫁するカラ売り禁止などの的外れな対応をする中、ECB は 11 年 8 月、国債買 い入れプログラム(SMP)を積極的に実行すると発表。即座にセカンダリー市場での買い 入れを実施し両国債の利回りを押し下げることに成功した。ただ、スペインやイタリア国 債のエクスポージャーを理由に市場から狙い撃ちされた欧州の金融機関は、自行のリスク 管理上の要請から次々と両国債を売却した。再度両国債の利回りは上昇に転じ、自己実現 的に複合危機が深まることになった。ここでようやく政治サイドが ECB とともに市場の懸 念を共有し、車の両輪として機能し始める。同年 12 月に政治サイドが欧州の金融機関の資 本増強策を打ち出したのに呼応し、ECB は 3 年物の資金供給オペ(いわゆるバズーカ砲) や適格担保要件の緩和により、市場からの資金調達に困難を来した金融機関の資金繰りに 万全を期す政策を打ち出した。12 年春にスペイン発の問題が再燃した際にも、6 月末の EU 首脳会議において、欧州のさらなる統合深化に向けた政治的な合意を引き出した上で、ECB のドラギ総裁は 7 月 26 日の講演で「ユーロ存続のためにあらゆる措置を講ずる」と発言し た。さらには 9 月には OMT(セカンダリー市場での 1~3 年国債の無制限買い入れ)を発表 51 し相場の潮目を変える上で大きな役割を果たした。しかも今日に至るまで OMT による買い 入れは実施しておらず、 「口先介入」をしただけなのだ。ECB が無制限に買うと宣言する中 で売り向かってくるカラ売り筋がいないことを読み込んだもので、市場の完成がなければ できない策だといえよう。 このような ECB の非標準的な金融政策が奏功した理由について藤岡[2013]は 1.財政問題 が政治の責任であることを明確にして、ECB の対応の前にまず政治対応を引き出したこと、 2.「一部国債の利回り上昇により金融政策の伝達経路が機能不全となったため」としてこれ を金融政策上の問題である、との筋を通す形をたったことにより独立した中銀としての市 場の信認を維持したことにあったと考えている73。 4-3-2. マーケット経験の必要性 本論文ではとりわけマーケット経験の必要性について重点を置く。世界の金融市場の巨 大化とともに、世界の経済危機の原因は大きく変化してきた。1990 年代前半までは、経済 危機が金融市場の混乱を引き起こしていた。経済危機の原因は、1971 年ニクソン・ショッ ク、1973 年第 1 次石油ショック、1979 年第 2 次石油ショック、1985 年プラザ合意、1991 年湾岸戦争に起因する原油価格高騰、1992 年ポンド危機など、その多くは通貨危機や石油 危機であった、つまり、経済危機をきっかけに株式、債券などの金融市場は大きく崩れ、 そして混乱した。 しかし、1990 年代後半以降は、順番が逆になり、金融危機が経済の混乱を引き起こして いる。1998 年 LTCM 危機、2000 年 IT バブル崩壊、2001 年エンロン危機、2007 年サブプ ライム危機、2008 年リーマンショック、2010 年ギリシャ危機、アイルランド危機、2011 年ポルトガル危機など、経済危機の主因は金融市場の危機をきっかけに経済危機が発生し たのである。 こうした構造変化を藤田[2012]は以下の 2 点の理由に起因すると考えている74。 第一に、金融市場の巨大化である。世界の金融市場の規模が大きくなったため、その相 場の変動は実体経済に大きな影響を与えている。マッキンゼー・グローバル・インスティ チュートによると、世界の金融市場の時価総額は 1990 年 54 兆ドル、2000 年 114 兆ドル、 2010 年 212 兆ドルと大きく拡大してきた。2000 年以降は、公債、株式、金融債の発行残 高が増加している。世界の GDP は 1990 年 22 兆ドル、2000 年 32 兆ドル、2010 年 63 兆 73 74 藤岡[2013] pp.60-61 藤田[2012] pp.376-379 52 ドルであった。金融市場時価総額対 GDP 比率は 1990 年 2.4 倍、2000 年 3.4 倍、2010 年 3.4 倍である。1990 年代以降、制度整備が進んだため、M&A や資金調達の金額が急増した M&A のなかでも、流通市場で株式を取得する公開買付制度(TOB)が普及し、株式市場と M&A の連動性が高まった。 第二に、株価変動率の拡大である。歴史的にみて、2000 年以降の IT バブル崩壊、リー マンショックにおける株価下落は、大恐慌に次ぐ規模であった。重要なポイントは、歴史 的な株価下落がわずか 10 年間で 2 回も起きたことである。1990 年代の S&P 先進国株価指 数の最大下落率は 24.5%(1998 年 7 月~10 月)、2 番目に大きいのは 23.9%(1990 年 7 月~ 9 月)であった。しかし、2000 年以降、2000 年高値から 2003 年安値まで 46.8%、2007 年高値から 2009 年安値まで 55.0%と、これらよりはるかに大きな下落を 2 度経験している。 2008 年の世界の年間株価下落率は史上最大級であり、史上 3 番目の大きさであった。 以上のように巨大化・複雑化・高度化・グローバル化した金融市場が実体経済に対して 大きな影響を与えるようになった。つまり、金融政策というものが、実体経済に対し以前 より大きな影響を与えるようになったということである。これまで中央銀行は短期金利の 操作をする「伝統的金融政策」を実施してきたが、近年では「非伝統的金融政策」と呼ば れる政策を行っている。非伝統的金融政策とは中央銀行が金融調節を行うため、市中から 買い入れる資産の範囲や規模を従来以上に拡充させるものである。例えば、量的緩和に加 え、CP や社債と言ったリスク資産を購入する信用緩和などがあり、確実に以前より複雑な 政策になった。金融市場が大きなインパクトを持つようになった今日、市場との対話が重 要になってきている。マーケット業務の経験はドラギ・マジックのように市場の動きを予 期し、適切な政策を適切なタイミングで打つ判断を行うために必要な素質である。 4-4. 総裁・副総裁による三位一体の戦略 以上の分析により 4 つの素質は中央銀行総裁に必要とされるものであることを示した。 しかしながら、これら 4 つの素質のうち、他の中央銀行の総裁が最低 3 つを満たしている のに対し、現在の日銀総裁は 1 つしか満たしていない。過去にこれらの要素を多く満たし ている総裁も日本銀行の場合はいないだろう。ましてやもちろん、世界的に見ても 4 点を 同時に満たす人材は稀である。本来はこのような 4 つの素質を兼ね備える人材を総裁に指 名し、日銀の権威を高め、実力で勝ち取るべきである、と最後に主張して本論文を終えた い。しかしながら、それでは現実妥当性がない。そこで、副総裁 2 名も含め、これらの素 53 質を満たすべきである、と主張する。 副総裁とは総裁を補佐し、また、総裁に事故があったときはその代理をする役である。 すなわち、総裁が持っていない素質は副総裁が自ら補っていく必要がある。しかし、総裁 副総裁 3 名で 4 つの素質を一つ一つ満たしていれば良いのだろうか、という点について検 討していきたい。例えば、総裁が中央銀行業務の経験と Ph.D.取得者である場合、他の 2 名の総裁のうち 1 名が政府の経験のみがあり、もう 1 名がマーケット業務の経験のみがあ るという場合である。以下に副総裁の経歴を図でまとめた。世界的に見ると多くの副総裁 は中央銀行業務の経験があり、かつ Ph.D.の取得者である。他方、日本の副総裁は 1 人当た りの素質の多様性という面で乏しい。21 世紀には大型の金融危機が頻発しプルーデンス政 策の重要性が高まっているため、金融政策の決定者として、中央銀行業務の経験は非常に 重要な側面だ。そして Ph.D.の取得は現在の複雑化した金融市場に対して専門的な知識が必 要であるため、政策決定者のトップ補佐として必要である。そのため、日本の副総裁に関 しても中央銀行業務の経験があり、Ph.D.の取得者であることが望ましい。逆に総裁は中央 銀行業務の経験だけではなく中央銀行出身者であることが望ましい。金融政策やプルーデ ンス政策の専門性が増しており、中央銀行出身者が中枢のポストを占めることは時代の趨 勢である。 そうすると副総裁には政府の経験とマーケットの経験が必要になり、かつ政策決定者で ある以上、中央銀行業務の経験が必要だ。そこで、Ph.D.取得者かつ、政府またはマーケッ ト経験がある者を審議委員として選出し、中央銀行業務を学習した後に副総裁に選出する、 というプロセスを提言する。これによりバランスの取れた総裁・副総裁が誕生し、総裁・ 副総裁の質はグローバル基準となる。各国の総裁のように適切なタイミングで適切な金融 政策を行い、国民の信頼を得ることが実現可能となるだろう。 54 図表 9:日本銀行副総裁の経歴 日本銀行 中曽宏 岩田規久男 東京大学経済学部 東京大学経済学部 副総裁 学歴 東京大学経済学 Ph.D. 職歴 日本銀行入行(1997-) 上智大学経済学部専任講師(1973-1976) 国際決済銀行に出向(2000) 上智大学経済学部助教授(1976-1983) 日銀金融市場局長(2003-) 上智大学経済学部教授(1983-1998) 日銀理事(2008-2012) 学習院大学経済学部教授(1998-) 日本銀行副総裁(2013-) 日本銀行副総裁(2013-) (出所)日本銀行 HP より筆者作成 図表 10: FRB 副議長の経歴 FRB 副議長 イエレン 学歴 ブラウン大学経済学学士 イェール大学 Ph.D. (1971) 職歴 ハーバード大学経済学助教授(1971-76) FRB エコノミスト(1977-78) ロンドンスクール・オブ・エコノミクス講師(1978-80) カリフォルニア大学バークレー校助教授(1980-85) カリフォルニア大学バークレー校教授(1985-94) FRB 理事(1994-97) CEA 委員長(1997-99) サンフランシスコ連銀総裁(2004-2010) FRB 副議長(2010-) (出所)FRB HP より筆者作成 55 図表 11:ECB副総裁の経歴 ECB 副総裁 コンスタンシオ 学歴 ISEG 経済学学士 ブリストル大学大学院 職歴 ISEG 経済学助教授(1965-1973) 国務長官、企画担当大臣(1974-75) ポルトガル銀行リサーチ(1975) 国務長官、予算・企画担当大臣(1976) ポルトガル銀行副総裁(1977) 財務省(1978) ポルトガル銀行副総裁(1981-84) ポルトガル銀行総裁(1985-1986) ECB 副総裁(2010-) (出所)ECB HP より筆者作成。 図表 12: BOE 副総裁の経歴 BOE 副 総 チャールズビーン ジョンカンリッフ アンドリュー・ベイリー ケンブリッジ大学学士 マンチェスター大学出身 ケンブリッジ大学博士号 イギリス大蔵省(1975-79,1981-82) 大蔵省(1990-2007) プルデンシャルビジネスユニット ロンドンスクール・オブ・エコノミ EU のイギリス代表(2007-2012) のMD クス教授(1990) BOE 副総裁(2013-) 裁 学歴 ケンブリッジ大学経済学修士号 MIT 経済学 Ph.D. 職歴 BOE チ ー フ エ コ ノ ミ ス ト (2000-2008) BOE 副総裁(2008-) (出所) BOE HP より筆者作成。 56 図表 13:各国中銀副総裁の比較 中央銀行業務 政府の経験 学者 マーケット 合計 日本銀行(2 名) 1 0 1 0 2 FRB(1 名) 1 1 1 0 3 ECB(1 名) 1 1 1 0 3 BOE(3 名) 2 1 2 0 5 (出所)各国中央銀行 HP より筆者作成。 57 結論 本稿の主張は「日本銀行は実力で独立性を勝ち取るべきである。そして、総裁副総裁が 三位一体となり、必要な素質を満たせるようにすべきである。」ということだ。 本稿では日銀の独立性の不確かさに着目し、日銀の過去の歴史と世界の中央銀行を分析 し、その問題点を洗い出すと同時に日銀はどのようにして独立性を勝ち取っていくべきな のか、そのあり方を模索した。日銀の問題点は総裁の素質がグローバル基準よりはるか下 にあることと設定し、本稿では総裁に必要な素質を①Ph.D.の取得、②政府の経験、③中央 銀行業務の経験、④マーケット業務の経験である。無論 Ph.D.取得者であり、政府や中央銀 行業務の経験がある FRB 議長のバーナンキは理論と経済のギャップに苦しんだと言われて いる。逆に①~④をすべて兼ね備えるマリオ・ドラギは市場との対話をうまく行い、適切 な政策を適切なタイミングで実施した。特にドラギのマーケット経験が生きた絶妙な政策 であったと言える。現在、黒田総裁は 4 つの素質のうち、②政府の経験しか兼ね備えてい ない。過去の日銀総裁にも数多くの素質を兼ね備えている人はいない。そのため、いきな りこれら 4 つの素質を持つ人材を見つけるのは難しいだろう。そこで、総裁の補佐である 副総裁 2 名を合わせ、4つの素質を満たすようにしていくべきである。とりわけ、マーケ ット経験が今後の金融市場にとって必要になってくる。そこで 2 段階踏んで総裁副総裁の 素質を高めていくべきだ。まず、マーケット経験者を審議委員に任命し、中央銀行業務を 経験させる。その上で、マーケット経験者の審議委員を、副総裁に任命するべきである。 総裁・副総裁の能力を高め、適切なタイミングで適切な政策を行うことで、いつか日銀 が国民の信頼を得ることを心の底から望んでいる。 58 参考文献 ( 日本語文献 ) 安念 潤司・岩原 紳作・神田 秀樹・北村 行伸・佐伯 仁志・櫻井 敬子・塩野 宏・ 道垣内 弘人・福田 慎一[2004]「中央銀行と通貨発行を巡る法制度についての 研究会報告書」金融研究 伊藤 隆敏/トーマス・カーギル/マイケル・ハッチソン[2002] 「金融政策の政治経済学(下) ―日本の金融政策と中央銀行制度-」東洋経済新報社 植田 宏文[1998]「第 11 章 イングランド銀行」 『中央銀行の独立性』東洋経済新報社 翁 邦雄[2005]「貨幣と中央銀行の歴史からみた物価と金融政策」日本大学経済学部経済科 学研究所研究会 エコノミスト[2013]「瀬戸際に立たされた日銀の信認」エコノミスト 折谷 吉治[2006] 「金融システムにおける中央銀行の存在理由―取引コスト経済学からの アプローチ―」 『明大商学論叢』 第 88 巻 第 4 号 鐘ヶ江 毅[1998]「第 1 章 新しい日本銀行法」 『中央銀行の独立性』東洋経済新報社 黒田 晁生[2008]「日本銀行の金融政策(1969~1984 年)」『アジア学への誘い―国際地域 の社会科学Ⅲ―』明治大学政治経済学部創設百周年記念刊行委員会編 御茶の水 書房 熊倉 修一[2012]「中央銀行と金融政策」昇洋書房 公法的観点からみた中央銀行についての研究会[2000] 「公法的観点からみた日本銀行の組 織の法的性格と運営のあり方」 『金融研究』日本銀行金融研究所 小谷野 俊夫・立脇 和夫[2002]「欧州中央銀行の金融政策」東洋経済新報社 鈴木 将覚[2006]「中央銀行の透明性をめぐる論点整理―日銀のコミュニケーション戦略の 評価に向けて―」 高橋 亘[2013]「中央銀行制度改革の政治経済的分析(試論) :歴史的視点と憲法論的視点」 神戸大学 経済経営研究所 立脇 和夫[2001]「欧州中央銀行制度の金融政策運営, 独立性及びアカウンタビリティ」 立脇 和夫[2005]「中央銀行の独立性と国際政策協調」早稲田商学 第 404 号 高山 洋一[1982]「ドルと連邦準備制度」新評論 滝田 洋一[2006]「日米通貨交渉」日本経済新聞出版社 59 館 龍一郎・浜田 宏一[1972]「金融」岩波書店 中原 伸之[2006]「日銀はだれのものか」中央公論新社 西川 純子・松井 和夫[1989]「アメリカ金融史」有斐閣 西山 元彦[1984] 「中央銀行‐セントラル・バンキングの歴史と理論‐」東洋経済新報 社 野口 旭[2012]「デフレ脱却問う次期日銀総裁選び」エコノミスト 東 忠尚[1997]「政府と中央銀行の関係(上)」 『日本福祉大学経済論集』第 15 号、日本福 祉大学経済学界 羽森 直子[2002]「欧州中央銀行の金融政策」中央経済社 春井 久志[2004]「欧州中央銀行制度の最後の貸し手機能」『欧州中央銀行の金融政策とユ ーロ 』有斐閣 春井 久志[2013]「セントラル・バンキングの歴史的展開――イングランド銀行はいつ中央 銀行に変貌したのか」証券経済研究 第 82 号 ハワード・デイビス・デイビッド・グリーン[2009]「あすにかける 中央銀行の栄光と苦悩」 一般社団法人 金融財政事情研究会 藤岡 宏明[2013] 「ドラギ総裁の特筆すべき市場との対話力」東洋経済 藤木 裕[1998]「金融市場と中央銀行」東洋経済新報社 藤木 裕[2000]「財政赤字とインフレーション―歴史的理論的整理—」日本銀行金融研究所 /金融研究, 2000. 6 藤田 勉[2012]「グローバル金融制度のすべて―プルーデンス監督体制の視点―」 藤田 勉[2013]「金融緩和はなぜ過大評価されるのか―政治に翻弄される日銀の実力と限界 ―」ダイヤモンド社 船橋 洋一[1988]『通貨烈々』朝日新聞社 山村 延郎・田村 智[2006]「欧州中央銀行制度の金融監督行政上の役割」金融庁 松岡 和人[2010]「自由銀行制度の再評価について」愛知教育大学研究報告、59、March、 2010 レナード・サントウ[2009]「FRB 議長 バーンズからバーナンキまで―Do They Walk on Water? Federal Reserve Chairmen and the Fed―」日本経済新聞出版社 ( 英語文献 ) Adolph,C.[2003] Paper autonomy, private ambition: theory and evidence linking central 60 banker’s careers and economic performance. Speech delivered to the Annual Meeting of the American Political Science. Alesina, A[1988]”Politics and Business Cycles in Industrial Democracies”、Economic Policy 8. Bank for International Settlements ed[1963] 、 ”Eight European Central Banks” 、 London. Beth A Simmons[2006] “The future of central bank cooperation” BIS Working Papers No 200, Monetary and Economic Department Capie, Forrest, Charles Goodhart, Stanley Fischer and Norbert Schnadt [1994] “The Future of Central Banking: The Tercentenary Symposium of the Bank of England” Cambridge University Press Cargill, Thomas F., Michael M. Hutchison, and Takatoshi Ito [1996] “Deposit Gurantees in Japan: Aftermath of the bubble and burst of the bubble economy” Contemporary Economic Policy 14. FRB[1984] Federal Reserve Board "The Federal Reserve System-Purpose and Function” 1984、 Board of Governors of the Federal Reserve System、 Washington D.C Harvey,E.[1927]、Central Banks、 London General Press John B. Taylor[2008]“The Way Back to Stability and Growth in the Global Economy: The Mayekawa Lecture、” Monetary and Economic Studies、Institute for Monetary and Economic Studies, Bank of Japan. 26, 2008. Mayer,Thomas[1976]"Structure and Operations of the Federal Reserve System.' 'In Compendium of Papers Prepared for the Institutions and the Natlon's Economy Study, Committee on Banking, Currency and Housing, 94th Congress, Second Session, Washington, D.C., GPO 1976. Morgan, R. Victor [1965] “A History of Money”, Penguin Books. Sayers, R.S. [1976], “The Bank of England 1891-1944”, Cambridge University Press. 61