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日中15年戦争の真実 長谷川了一
日中 15 年戦争の真実 長谷川 了一(FC事務局長) 満州事変と平頂山事件 停戦協定が調印された。しかし、すでに前日、陸 1931 年から 45 年にかけて 15 年間、日本は中 軍は日本本国・関東軍・朝鮮軍から約 10 万人の 国に対する侵略戦争を続けた。これを日中 15 年 大兵力を華北に出兵することを決定していた。日 戦争と呼ぶ。その皮切りは「満州事変」である。31 本軍は「中国との戦争は 2−3 カ月で片付く」と考 年 9 月 18 日、中国東北地方(満州)の奉天(現 えていた。近衛文麿内閣も「重大決意」を声明し 在の瀋陽)郊外の柳条湖において関東軍(註 1)が た。28 日から日本軍は総攻撃を開始した。上海で 南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍(張学良軍) も大規模な戦闘が始まり、海軍は日本の基地から に対する戦闘を始め、32 年初頭までに満州全土を 南京・上海への渡洋爆撃を開始し、戦火は一挙に 制圧した。この「満州事変」はすべて関東軍の計画 中国全土に拡大した。 的軍事行動であった。関東軍は当初「満蒙」(満 全面的な大戦争と南京大虐殺事件 州と内蒙古)の日本併合をめざしていたが、国際 日本政府は、この戦争を「北支事変」、のちに「支 連盟や諸外国の批判をかわすために、自らの武力 那事変」と呼び、中国への宣戦布告はしていない。 占領を「満蒙」の「自治独立運動」を支援したも しかし、表向きは戦争ではないとしたものの、大 のであるかのように偽装し、方針を転換して 32 あいしんかく ら ふ ぎ 年 3 月に旧清朝の廃帝・愛新覚羅溥儀をかつぎ出 戦争として対応せざるを得ず、11 月には天皇に直 属する戦時最高司令部である大本営を設置し、 「満 し「満州国」を建国した。 州国」を除く中国大陸につねに70 万人から120 万 「五族協和」「王道楽土」はスローガンにすぎ 人もの大兵力を投入する全面戦争として対処した。 ず、「満州国」は関東軍と日本人官僚によって支 同年 9 月、国民政府は共産党との国共合作(註 配された傀儡国家であった。「満州国」建国後も 2)にふみきり、中国の抗戦力は増大した。日本 反満抗日勢力の活動は活発で、日本軍はこれらを は上海に6個師団半(註3)を投入し、ようやく 「匪賊」であるとして 「匪賊討伐」 に明け暮れた。 「匪 中国側の防衛線を突破して、首都南京に向けて急 賊討伐」は時には日本軍に敵対する一般住民への 進撃し、12 月 13 日に占領した。南京周辺を占領 虐殺へと発展した。 32 年 9 月に撫順の日本軍守備 した日本軍は10 数万人から20 万人と推定される 隊が行った平頂山村での住民 3,000 余人の殺害は 捕虜や一般市民を殺害するとともに、おびただし その最大級のものである。 い数の略奪・放火・性暴力を引き起こした。南京 華北分離工作と日中戦争 大虐殺事件は日本の「聖戦」の実態を暴露した。事 関東軍は 33 年 2 月に熱河省に侵攻し、 5 月に中 件は日本国民には秘匿されたが、中国人民の抗戦 国国民政府と塘沽停戦協定を結び、同省を「満州 の意志をいっそう固めさせた。国民政府は首都を 国」に組み入れた。この動きに対して国際連盟総 重慶に移転し、抗日戦争を継続した。 タンクー 会は日本軍の撤退勧告決議を行い、日本は国際連 動員力は限界、「現地調達」「現地自活」の実態 盟から脱退した。国民には諸外国による日本圧迫 日本軍は、軍事的攻勢による国民政府の屈服を であると喧伝した。この後、関東軍と支那駐屯軍 めざして徐州・武漢・広東を攻略する大規模な作 すいえん は、河北・山東・山西・チャハル・綏遠の華北 5 戦を連続して行い、中国の工業地帯の大部分を占 省を国民政府の統治下から分離して、華北を「第 領した。しかし、日本軍は予備役だけでなく、後 2 の満州国」にしようとする華北分離工作をすす 備役や軍隊教育を受けていない補充兵役の人たち めた。このような日本の侵略拡大に対して、中国 までも召集しなければならなくなり、動員力の限 ではしだいに抗日の機運が高まり、張学良が抗日 界を越えて手詰り状態に陥った。このころから、 よりも共産党攻撃を行っている蒋介石を監禁して 日中戦争は泥沼の長期戦に入った。それを打開す 内戦停止、 一致抗日を要求した西安事件が起きた。 るために、日本軍は 38 年以降、重慶に対して海 日中戦争は、 37 年 7 月 7 日夜の北京郊外での盧 軍が主体となって無差別戦略爆撃を繰り返した。 溝橋事件をきっかけに始まった。11 日には現地で 他方で日本軍は、ソ連に対して 38 年には張鼓峰 事件、39 年にはノモンハン事件と軍事的挑発を行 は連合国の一員となった。この後も日本軍は八路 い手ひどい反撃をこうむった。 軍のゲリラ戦と住民の離反に悩まされ続け、敗戦 日本軍は「現地調達」「現地自活」の方針をとって までずっと100 万人もの兵力を中国戦線にはりつ いたので、占領地において軍用資材や食糧をみず けなければならなかった(註5)。日本軍は資金 から確保しなければならなかった。日本軍は国民 調達と中国人弱体化のために、占領地に大量のア 政府軍や共産党軍を経済的に封じ込めるため、占 ヘンを流通させた。また、「厳に瓦斯使用の事実を 領地からの物資の流出を厳しく制限するとともに、 秘しその痕跡を残さざる如く注意すべし」(「大陸 軍用米の供出を割り当てた。だが、その買い付け 指第 345 号」)と外国に情報が漏れるのを恐れつ 価格は市場価格の 30∼60%程度であったため、 予 つ、違法な毒ガス攻撃を続けた。731 部隊は大が 定供出量を確保できなかった。そのため、日本軍 かりな細菌戦を実施した。 はしばしば部隊を派遣して武力で脅しながら農民 抗日戦争に勝利した中国 から米穀や物資を奪った。 43 年に連合国軍が攻勢に転ずるようになると、 「燼滅作戦」と毒ガス戦・細菌戦 ガ ス 中国軍も徐々に日本軍に対する反攻作戦を開始し 日本軍は広大な中国領土を占領したが、戦線が はじめた。中国軍は 45 年夏までに、日本軍など 伸び広がっただけで、中国を征服することはでき 47 万余人を壊滅させ、国土の大半を取り戻した。 なかった。日中戦争は持久戦となった。華北にお いて一般民衆と強くつながっていた八路軍(註4) 8 月 9 日、ソ連軍が「満州国」の関東軍に総攻撃を 開始したのと同時に、 抗日根拠地の軍隊と民衆は、 の正規軍戦とゲリラ戦を組み合わせた攻勢によっ 日本軍に対する大規模な反攻作戦を開始した。 てしばしば大きな打撃を受けた日本軍は、抗日勢 9 月 9 日、南京において中国戦区における日本 力支配地域に対して大規模な「燼滅作戦」を行っ 軍の降伏文書調印式が行われ、中国人民はついに た。作戦にあたっては「徹底的に敵根拠地を燼滅 抗日戦争の勝利を実現した。中国政府の発表によ 掃蕩し、敵をして将来生存するにあたわざるに至 れば、抗日戦争における中国の軍人と民間人の死 らしむる」ことが指示され、徹底的に殺戮・焼却・ 傷者は総計 3,500 万人、財産の損害は約 6,000 億 破壊することが命ぜられた。中国ではこれを「三 ドルにのぼるという。こうして中国は莫大な犠牲 光作戦」と呼んだ。 を払いながら、世界の反ファシズム戦争の勝利に 41 年にアジア・太平洋戦争がはじまると、中国 大きく貢献した。 ******************************************************** (註1)日露戦争で獲得した旅順・大連地区を関東州と名づけ、そこに駐屯した日本陸軍部隊を関東軍と呼んだ。 (註2)中国国民党と中国共産党の政治的提携・協力体制をいう。 (註3)陸軍の部隊の単位。1930 年代は 1 個師団=2 個旅団=4 個歩兵連隊=16 個歩兵大隊=64 個歩兵中隊= 256 個歩兵小隊から構成され、砲兵連隊・工兵連隊・輜重兵連隊も組み込まれていた。戦時における規模は、 歩兵小隊:約 60 人、歩兵中隊:約 250 人、歩兵大隊:約 1000 人、歩兵連隊:約 4,500 人、旅団:約 9,000 人、師団:22,000∼25,000 人であった。 (註4)国共合作によって共産党軍は蒋介石の指揮下に入り、八路軍と呼ばれた。 (註5)地域別の日本陸軍兵力概数(単位:万人)日本本土には朝鮮・台湾を含む。南方には中部・南太平洋を含む。 1940 1941 1942 1943 日本本土 27(20%) 57(27%) 50(21%) 70(24%) 121(30%) 278(43%) 中 国 68(50%) 68(32%) 68(29%) 68(23%) 80(20%) 120(19%) 満 州 40(30%) 70(33%) 70(29%) 60(21%) 46(11%) 78(12%) 南 方 15( 7%) 50(21%) 92(32%) 163(40%) 164(26%) 410 640 総 兵力 135 210 238 290 (出典)歴史教育者協議会編『日本の戦争ハンドブック』青木書店 大江志乃夫編『支那事変大東亜戦争間 動員概史』不二出版 1944 ’1945