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Vol.526(pdfファイル) - 京都大学 大学院経済学研究科・経済学部
京大東アジアセンターニュースレター 京都大学経済学研究科東アジア経済研究センター 第 526 号 2014 年 7 月 7 日 目次 ======================================================================== ○ シンポジウムのお知らせ ○ 中国経済研究会のお知らせ ○ 中国ニュース 6.30-7.6 ○ 隠れキリシタンとカレン・カチン族 ○ 上海街角インタビュー ・ ○ 【中国経済最新統計】 主催 京都大学東アジア経済研究センター 後援 京都大学東アジア経済研究センター協力会 シンポジウム グローバル化の試練とチャンス ─新世代ビジネス・リーダーがみる日本— 2014 年 7 月 12 日(土) 14:00〜17:00 京都大学時計台記念館 2 階国際交流ホールⅠ・Ⅱ 「グローバル化」の語が普及し始めて 20 年近くが経過した。この間,世界における日本のプ レゼンスは大きく後退した。日本経済の長期停滞と競争力の低迷,人口学的な危機,日本社会の 「内向き指向」は,内外の悲観論の根拠となってきた。しかし一方で,危機をチャンスと捉える 見方もあり,また日本の経済・社会の価値観や対応能力を評価する見方もある。「周回遅れ」に もみえる日本の「グローバル化」をチャンスとすることは,果たして可能なのだろうか。可能だ とすれば,いかなる戦略が必要なのだろうか。 本シンポジウムでは,「人材のグローバル化」を体現してきた多国籍企業の新世代リーダーを 招き,世界とアジアの中の日本の位置と,「グローバル化」に際しての日本の課題について,議 論したい。 山本寧氏は,日系商社での現地法人社長としての経験や,地政学的に厳しい環境下で高い競争 力を維持するイスラエルとその企業を知悉する立場から,人的資源と起業に焦点をあて報告する。 アラン・デルフォセ氏は,日本の社会と文化への若くからの関心と,スイス多国籍企業の日本 法人トップの経験から,いわばヨーロッパの視点で日本社会と日本の人材についての見方を示す。 アレン・チャイ氏は,中国の最有力企業集団のトップ・マネジメント層の一員として,また東 南アジア・日本・中国・台湾を知る立場から,東アジアビジネスの中に日本を位置づける。 なお山本・Chai 両氏は本学経済学部卒業生(1992 年卒)であり,デルフォッセ氏は同志社大 学留学歴を持つ。 挨拶:京都大学大学院経済学研究科研究科長 教授 岩本武和 司会および問題提起:京都大学大学院経済学研究科 教授 黒澤隆文 1 第一報告 アダマ・ジャパン株式会社 代表取締役 山本 寧 「国際競争力と人的資源——起業立国イスラエルの多国籍企業の視点から」 第二報告 SIX ファイナンシャル・インフォメーションジャパン株式会社 代表取締役 アラン・デルフォッセ 「スイス金融情報サービス企業からみた日本」 第三報告 シティック・マーチャント有限公司 マネジング・ダイレクター アレン・チャイ 「中国・東アジアからみた日本」 討論 閉会 17:15-18:45 懇親会 於時計台記念館 2 階国際交流ホールⅢ 参加ご希望の方は事務局の張([email protected])までお申し込みください。 なお協力会会員は懇親会に無料でご参加いただけます。 ************************************************************************************************ 「中国経済研究会」のお知らせ 2014年度第3回(通算第42回)の中国経済研究会は下記の要領で開催することになりましたので、ご案内い たします。大勢の方のご参加をお待ちしております。 記 時 間: 2014年7月15日(火) 16:30-18:00 場 所: 京都大学吉田キャンパス・法経済学部東館地下1階みずほホール 報告者: 李 妍蓉(京都大学大学院農学研究科博士後期課程) テーマ:「中国農村での垂直的組織化と農地への投資行動―湖南省を事例として―」 注:本研究会は原則として授業期間中の毎月第3火曜日に行います。2014年度における開催(予定)日は以下の通りです。 前期:4月16日(火)、 5月20日(火)、 6月17日(火)、7月15日(火) 後期:10月21日(火)、11月18日(火)、12月16(火)、1月20日(火) (この件に関するお問い合わせは劉徳強([email protected])までお願いします。なお、研究会終了後、有志による懇 親会が予定されています。) ************************************************************************************************ 中国ニュース 6.30-7.6 ヘッドライン ■ ■ 産業:中国は世界最大の電子情報製品製造基地に 外交:中韓元首会談は打ち解けた雰囲気、両国元首の歓談は尽きず ■ 投資:7年連続で世界最大の金現物市場に、取引量は1万1600トン ■ 銀行:第3四半期の貨幣政策は現状維持の見通し ■ 国際:医療観光がトレンドに、中国人は日本でがん検診、外国人は中国で鍼 ■ 社会:“奇跡のピアノ”の音色、台湾でも震災復興支援感謝イベントで ■ 北京:1平方メートル9万7000元、今年最高価格の高級住宅が販売へ ■ 甘粛:中国敦煌石窟に「デジタル展示センター」 ■ 台湾:日本中を魅了する「翠玉白菜」 ■ アメリカ:米国人が大好きな「米国式中華料理」10品 ================================================ ニュース詳細 ■ 産業:中国は世界最大の電子情報製品製造基地に 2 【7月2日 新華社】中国工業・情報化部の苗圩部長が会合で述べたところによると、中国は世界最大の電 子情報製品の製造基地であり、昨年の電子情報産業の売り上げは12兆4000億元(約202兆8000 億円)に達し、輸出入総額は1兆3300億円(約21兆7500億円)で、全体の32.0%を占めた。 苗部長は、 「今回発足した中国電子情報産業連合会は、各種の資源を統合し、データバンク構築などの方法で 電子情報産業の戦略的研究やサービスを展開し、産業の健全な発展を推進していく」と述べた。 ■ 外交:中韓元首会談は打ち解けた雰囲気、両国元首の歓談は尽きず 【7月4日 環球時報】中国の習近平国家主席は3日正午、ソウルに到着し、多忙な外交日程をスタートさ せた。3日付の韓国聯合ニュースによると、習主席と彭麗媛夫人の乗った専用機が到着した際、尹炳世・韓 国外交部長官、権寧世・駐中国韓国大使、趙允旋・青瓦台政務首席秘書官らが空港で出迎えた。午後4時、 中韓両国の指導者は韓国総統府で首脳会談を行った。3日付の韓国紙・韓国日報によると、韓中両国元首は 首脳会談中、歓談が尽きず、終始打ち解けた雰囲気だった。朴槿惠大統領は中国人が好きなオレンジ色の服 を選び、中国語で習主席とあいさつした。朴大統領は「1年ぶりにソウルで再び習主席とお会いできて非常 に嬉しい。特に彭夫人もご一緒されたことで喜びが倍増した」と述べた。会談は当初の予定を50分以上延 長して終了した。 「前回のハーグでの会談からわずか3カ月後に行われた今回の首脳会談。45分間の予定が 1時間40分に延長された」。韓国紙・京郷新聞によると、朴大統領は会談終了後、「これほど話が尽きない とは。共通の関心事や協力すべき事項が増えているということですね」と習主席に笑顔で話しかけた。朴大 統領はその後の全体会議の席で「一徳一心」 (共通の利益のために心を1つにして協力すること)という言葉 で韓中両国のあるべき姿勢を表現すると、習主席は「中韓両国は重要な隣国であり、とても良いパートナー、 友人である。中国側は韓国との友好関係の発展を重視している」と応えたほか、セウォル号犠牲者に哀悼の 意を示した。 ■ 投資:7年連続で世界最大の金現物市場に、取引量は1万1600トン 【7月4日 新華社】上海黄金取引所が2日発表した情報から、中国が7年連続で世界最大の金現物市場に なったことが分かった。金購入ブームと業界の景気回復により、2013年の中国国内の金現物取引量は1 万1600トンに達し、金現物の個人投資家は603万人に達した。中央銀行上海本部金融市場部の周栄芳 副部長は2日、 「中央銀行が2001年に金の統一的な調達・販売を終了してから、中国の金市場は現物、先 物、デリバティブ(金融派生商品) 、リースなどの投資方法を形成し、その取引量は世界トップクラスになっ た」と説明した。中央銀行上海本部のデータによると、現物取引がすでに1万トンを突破したほか、201 3年の国内金先物取引は4万トン以上に、商業銀行の金取引量は4501トンに達した。これに基づき計算 すると、主要な金市場の取引量は5万6000トン以上に達していることになる。上海黄金取引所の宋鈺勤 副総経理は、 「中国は7年連続で世界最大の金現物市場になっており、市場はこれから発展の戦略的な時期を 迎える。しかし投資家のリスク意識が国内金市場の弱みとなっている。特に中小の投資家が成熟しておらず、 投資手段の判断能力が不足しており、価格リスクと投資リスクの意識が低い」と指摘した。中国黄金協会は、 中国の2014年の金需要量が約1176トンに達し、世界最大の消費市場であり続けると予想した。現在 までに230の商業銀行が中央銀行上海本部のモニタリングシステム内に収められており、金投資リスクの リアルタイムの観測が実現される見通しだ。 ■ 銀行:第3四半期の貨幣政策は現状維持の見通し 【7月3日 中国証券報】中国銀行国際金融研究所は2日に公表した「中国経済金融展望(2014年第3 四半期版)」で、「財政政策は積極化に向かう。貨幣政策は安定緩和の方向で、貨幣信用貸付も増え、政策の 柔軟性も高まりそうだ。資産証券化の規模も増えるだろう」と指摘した。同研究所の周景トウ・シニア研究 員は「貨幣政策は従来路線を維持し、利率や預金準備利率にも大きな変動はない。中央銀行の政策効果も次 第に現れ、第3四半期のマネーサプライ(M2)も増えるだろう。9月末のMPは13.5%増と予想され、 年間を通した増加量も政府目標の13%を超えるだろう」と述べた。 ■ 国際:医療観光がトレンドに、中国人は日本でがん検診、外国人は中国で鍼 【7月5日 北京晩報】健康と観光ニーズの両方を満足させる一挙両得の医療ツーリズム(医療観光)商品 の人気が日増しに高まっている。医療ツーリズムに参加して日本に行ったばかりだという女性は、 「海外の医 療ツアーは非常に便利」と満足そうに語った。東京で胃の内視鏡検査と血液クレンジング療法を行ったが、 最も印象に残ったのはサービスだったという。検診を行う病院はまるでホテルのようで、いずれのサービス も個人に合わせて行われる。 「まるで皇帝になった気分だった」と述べた。中国人はなぜわざわざ海外に行っ て医療を受けるのか?これは、中国では質の高い医療資源が限られていることや海外の先進的な医療・サー ビスに関係している。日本や台湾の検診ツアーが特に人気で、日本の検診ツアーは主にがんの予防医療がメ インとなっている。一般的な検診のほかにも、補助療法を行うツアーも流行の兆しをみせている。例えば、 ニュージーランドの睡眠研究センターに行って、不眠の原因を分析・治療するという「ニュージーランドの 不眠治療ツアー」を売り出す機関もある。以前医療ツーリズムに参加する人はほとんどが富裕層だったが、 3 現在は上級管理職や普通のサラリーマン層に変化している。中国人が海外で医療ツーリズムに参加する一方、 外国人も中国で医療ツーリズムを体験している。針灸、中医薬、太極拳の体験学習、薬膳健康食、マッサー ジなどが人気だ。 ■ 社会:“奇跡のピアノ”の音色、台湾でも震災復興支援感謝イベントで 【7月6日 中央社】台北市内で13日まで行われている、東日本大震災での台湾からの支援に感謝するイ ベントで、震災で被害を受けながら、奇跡的に修復されたピアノの音色が披露された。この“奇跡のピアノ” は震災当日、福島県いわき市豊間中学校の卒業式で演奏された後、津波の被害に遭ったグランドピアノで、 泥まみれで修復不可能とされながらも、同市に住むピアノ調律師の遠藤洋さんが半年の時間を掛けて修復し、 話題となった。演奏は2013年に被災地で復興支援のコンサートを開催したこともある盲目のピアニスト、 ホアン・ユィシアン(黄裕翔)さんが担当し、ミニコンサートには歌手のララ・スー(徐佳瑩)さん、普天 間かおりさん、臼澤みさきさんなどのアーティストも出演する。また、画家の淺井裕介さんが“未来”をテ ーマに岩手県大槌町の子供たちと制作した幅360センチ、高さ450センチの巨大アートや、写真家のハ ービー山口さんが同県で撮影した写真の展示なども行われている。 ■ 北京:1平方メートル9万7000元、今年最高価格の高級住宅が販売へ 【7月3日 新京報】予定価格が今年の北京の最高となる1平方メートル9万7000元(約160万円) という分譲住宅が、間もなく北京で売り出される。販売されるのは同市海淀区の「保利海徳公園」。予定価格 はすでに市当局の許可を得ているという。今年は不動産市場が低迷している一方で、億ションも相次いで売 り出されている。販売価格が3000万元(約4億9300万円)以上の分譲住宅の成約件数は6月15日 時点で昨年同期を上回っている。北京当局によると、5~6月に販売の承認を得たプロジェクトで、1平方 メートルの価格が4万元を超えたのは18件ある。今年1~4月にも13件あった。業界関係者は「昨年は 価格制限が激しく、高級物件は許可が下りにくかった。今は緩和されている」と述べた。 ■ 甘粛:中国敦煌石窟に「デジタル展示センター」 【7月4日 新華社】中国の国立機関、敦煌研究院は3日、甘粛省敦煌市の仏教遺跡、莫高窟(ばっこうく つ、=敦煌石窟)近くにある「敦煌莫高窟デジタル展示センター」を8月1日から一般公開すると発表した。 莫高窟に関するデジタル映像などで敦煌の歴史、文化を紹介する。予約制で、観光客はこのセンターを訪れ た後、専用車で莫高窟に移動し、見学する形となる。 ■ 台湾:日本中を魅了する「翠玉白菜」 【7月5日 中新網】先月24日の開催後、好評を博している東京国立博物館の特別展「台北 国立故宮博 物院 -神品至宝-」。目玉となる玉器の「翠玉白菜」は初日から日本中を魅了してきたが、今月7日の公開 終了後、台湾に“凱旋”する。同展は開幕10日目となる3日に入場者数10万人達成が発表され、特に2 週間限定で展示されている至宝の白菜を目当てに来館する人が多く、観覧までの待ち時間が3時間以上にお よんだこともあるほどの人気ぶり。また、陶磁器や書画などの美術品にも驚嘆の声が相次いでいる。台湾の 国営ラジオ局「中央広播電台」によると、公開初日の入場者数が8000人余りと過去最多を記録したほか、 日本の皇室関係者も参観したという。東博側では総入場者数300万人に上るのではと見ているといい、こ の数字は1974年開催の「モナ・リザ展」の2倍に相当する。故宮の収蔵品186点が公開されている東 博での展示は9月15日まで。10月7日から11月30日までは九州国立博物館(福岡県)で、本物に勝 るとも劣らないもう一つの“神品”である「肉形石」を含む110点が再び話題をさらう。 ■ アメリカ:米国人が大好きな「米国式中華料理」5品 【7月5日 新華社】米国人の好きな中華料理10品はいったいなんだろうか?なかには中華料理とは言え ず、中国人にとっては、 「オリジナルとは全く違う」と言いたくなる料理もある。1)米国版カニのワンタン 包みフリッター;米国人は、カニの身とクリームチーズをワンタンに包み、カリっと揚げたフリッターが大 好きだ。だが、中国人はクリームチーズはあまり食べない。中国人はチーズの代わりに、豆瓣醤や鴨の血な どを好んで食べる。2)アメリカン・チャプスイ;100年以上前に米国で生まれた人気料理。冷蔵庫の残 り物を全て取り出し、強火で炒め、最後に卵でとじれば出来上がり。中華の「ごった煮」に似ている。3) 鶏の唐揚げ唐辛子ソース;これは、極めてポピューラーな米国料理だ。鶏肉を適当な大きさに切って揚げ、 チリソースなどをからめたもの。湖南人がこの料理について知ったのは、1970年代に入ってからだった。 4)プー・プー・プラッター(食欲をそそる大皿の前菜料理) ;つやつやした豚肉の卵巻き揚げ、スペアリブ の揚げ物、鶏手羽先の唐揚げ、牛肉の照り焼きなど、食欲をそそる各種豪華料理が大皿に盛られた前菜料理、 中国ではこれほどパンチのある料理が前菜で盛られることはない。5)酢豚;豚肉の塊を切り分け、さっと 素揚げにして、甘酢ソースにからめる。米国南部の濃厚なバーベキューを連想させる味だ。 ************************************************************************************************ 4 隠れキリシタンとカレン・カチン族 02.JULY.14 中小企業家同友会アジア情報センター代表 東アジアセンター外部研究員(協力会副会長) 小島正憲 先日、気分転換を兼ねて、ある旅行社の主催する「明日の世界遺産に出会う旅・五島列島4日間」に参加してみ た。 五島列島の隠れキリシタンと、仏教国 ミャンマーにおけるカレン・カチン族(キリ スト教徒)との共通性を考えてみたかっ たからでもある。隠れキリシタンについて は、ある程度の知識を持っていたつもり であったが、今回の旅行で、見識を新た にさせられた。それは巷に流布している 通説とはかなり違い、現地に赴いてみな いとわからないことであった。また、五島列島にはキリスト教の教会が、壮 大華麗なものから、公民館のようなものまで含めて、50個所現存している。 これらの教会群は、現在、世界遺産への登録を目指しているという。五島 列島には、まだ素朴な味の風情がそこかしこに残っている。世界遺産に登録されれば観光客が殺到し、急激に俗化 すると思われるので、その前に訪れた方がよい場所だと思う。 俗に、江戸時代の幕府による禁教令の後、強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教を偽装棄教し たキリスト教信者のことを「隠れキリシタン」と呼ぶ。これとは別に、明治になって禁教令が解かれて潜伏する必要がな くなっても、そのまま江戸時代同様に秘教形態を守り続けたキリスト教信者のみを「隠れキリシタン」と呼ぶ場合がある。 今回の五島列島調査で、私はその違いを明確に認識できた。したがって以下の文章では、前者を「潜伏キリシタン」、 後者を「隠れキリシタン」と区別して書く。 1.隠れキリシタンの真相 ①政治に振り回された戦国時代のキリシタン 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などが行った全国的規模のキリシタン政策については、五島列島での見聞でも、 通説と大きな違いを発見することはなかったが、新説の紹介も兼ねてひとまずまとめてみる。いずれにしても、戦国時 代のキリスト教信者たちは、時の権力者の政策に大きく翻弄されたのである。なお、当時、南欧勢力による日本征服 計画があり、織田信長やキリシタン大名たちは、それを自らの野望の達成のために、利用したという指摘もある。 織田信長 : 一般的には、織田信長がバテレン保護政策を取った理由として、「伝統的宗教(仏教)を牽制するた めの政治的・軍事的必要からであって、教理的・倫理的な理解からではない。腐敗した既成宗教を忌避していた 信長は、遠く万里の波濤をこえて布教にきた姿に感心し、さらに新奇を好む性格から国際貿易の地位を認識し、 一向宗などとの対決上から期待したのであろう。キリシタンの教えが臣下の倫理的精神を養い、下克上が罪悪と して否定されるとの判断と、宣教師の“戦闘的使命感”と信長の“積極的運命観”との共鳴による」などが上げられ ている。新説としては、「信長は南蛮貿易の独占による経済的利益を狙っていた。信長はイエズス会から武器援 助を受けていた。たとえば石山合戦のとき鋼鉄船に載せていた大砲はイエズス会からのものであり、また鉄砲の 火薬に使う硝石の大部分をイエズス会の輸入に頼っていた。信長は南欧勢力から援助を受けて全国制覇を遂 行していた」などがある(以上は、「信長と十字架」 立花京子著 集英社新書)。 キリシタン大名 : キリシタン大名たちは、積極的にキリスト教に改宗し、仏像・寺社破壊を行った。それはイエズス 会からの軍事援助を期待してのものだった。大友宗麟へのバテレンからの武器供与は、史料的にも明らかであ る。またポルトガル商船の入港は、その地の領主に莫大な利益をもたらした。有馬鎮純(晴信)も自社破壊を行っ たが、その動機は明瞭であった。鎮純は、天正8年(1580)、竜造寺隆信との戦いでの危機的状況において、バ テレンから経済的・軍事的援助を受けて、滅亡をのがれた。鎮純は、その感謝の念から3か月間で、大小合わせ て40を越える寺社を破壊した。仏僧たちはキリシタンに改宗するか、または、有馬領から去っていった。このとき の軍事援助は、多量の糧食、金子を補給し、弾丸や火薬を供給したもので、それらの金額は多額であった。鎮 純は、南蛮船が引き続き入港できるように取りはからい、自分と領民がキリシタンに改宗し、領内の寺社を破壊す ることをバテレンに約束した(以上は、「信長と十字架」 立花京子著 集英社新書)。 豊臣秀吉 : バテレンの力を利用した信長によって、比叡山や一向一揆などの既成宗教勢力は一掃された。その 後を受け継いだ豊臣秀吉は、当初は信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし秀吉は九州平定 5 後、禁教令(バテレン追放令)を発動したり、「26聖人の処刑」などを行った。その理由には、「外交権・貿易権を 自身に集中させ国家としての統制を図るため」、「九州で日本人の奴隷売買が行われていると知り、それを禁止 させるため」「キリスト教徒による神社仏閣への迫害」「宣教師をスペインの日本領土征服の尖兵と疑ったため」な どの諸説がある。しかしキリスト教信者に対する強制改宗などを含む迫害は行われていない。 徳川家康 : 徳川家康も当初、キリスト教に対してはそれまでと同様の政策をとり、弾圧と呼べるような政策はとっ ていなかった。その後、禁教令を発布するなどして、宣教師の追放や各地の教会の破壊を行ったが、それほど 厳しいものではなかった。1616年に幕府(秀忠)が鎖国令を出すと同時に、キリスト教の禁止を厳格に示した。 そのようなときに島原の乱が起き、農民たちがキリスト教を拠り所にして徹底抗戦をしたため、幕府はキリスト教徒 の発見と棄教を厳しく実施するようになった。同時に、治安維持のため5人組制度を取り入れ、寺請け制度(強制 改宗)を積極的に行い、仏教を中心にした社会制度を作り上げていった。キリシタンを棄教、改宗させるための 弾圧、拷問はすさまじいものだった。その後、江戸時代を通じてキリスト教徒の発見、強制改宗は続けられたが、 長崎地方などのキリスト教徒の中には、潜伏キリシタンとして隠し通したり、偽装棄教によって幕末まで信仰を貫 いた者がいた。なお、五島列島のキリシタンは、この時期の過酷な弾圧・迫害によってほぼ姿を消したと言われ ている。 ②徳川中~後期、五島列島に移住して生きのびた潜伏キリシタン 1797年、大村藩主純鎮と五島藩主盛運は、各自領内の政治並びに経済の 建て直しを理由に、大村領外海地方の潜伏キリシタンを集団的に五島に移住さ せる評議をまとめた。その第1陣の108人は、御用百姓として土地も分け与えら れ待遇がよかった。引き続き五島藩が、第2陣1000人を地域開拓作業のために 募集したところ、第1陣の評判を聞きつけた潜伏キリシタンたち3000人が集まっ た。この大量の潜伏キリシタンが五島列島全域にばらばらに住みつくことになり、 結果としてそれらに対する監視の目も緩やかなものになった。 この事実から、江戸時代にはキリシタンがまだまだ各地方に潜伏していたという ことが分かる。移住してきたキリシタンたちは、山間部の僻地や海岸沿いの烈風 の吹きすさぶ土地、陸路での往来が困難な小さな入り江などに、小さな集落をつ くって、ひっそりと隠れ住み、秘かに信仰を続けた。その後、キリシタンたちはその 土地を懸命に耕し、そこそこの量の収穫ができる田畑に変えていった。それらは やがて仏教徒たちが耕す五島列島の平野部の田畑を凌ぐようになり、仏教徒は キリシタンの田畑に羨望のまなざしを向けるようになっていったという。 ③徳川末期~明治初期、迫害された五島列島の潜伏キリシタン 上五島列島の頭ヶ島にある頭ヶ島教会の庭の一隅に、「五島キリシタン信仰復活のしおり」という看板があった。そ の中に興味深い記述があったので、下記に書き出しておく。 1862(文久2年)、「外道征服」の超本人渡辺昇は大村藩の大目付にのし上がり、直属の横目に吉平を起用し、外 海キリシタン頭目の森松次朗翁を討ち取り、その配下のキリシタンたちを一網打尽にする計画を実行しようと策謀して いた。その知らせを聞いた松次朗翁は、住民集会を緊急に開き、渡辺昇のキリシタンに対する暴挙を説明し、信仰の 保全と家族の安全のため、全員を西海沖の上五島に避難させた。ところが一攫千金を夢見て予定通りに討伐に入っ た渡辺昇は、もぬけの殻の状態に憤然として、ただちに五島一円でのキリシタン大迫害に乗り出した。 ここに出てくる文久2年とは、「坂下門外の変」の年であり、まさに幕末、明治維新の6年前のことである。つまり幕末 にも潜伏キリシタンへの残虐非道の迫害がなされていたのである。さらに文中では、大村藩大目付の渡辺昇が、「一 攫千金を狙ってキリシタンを迫害した」と書いてあるが、具体的には「なにを奪おうとしたか」は書かれていない。それ はおそらく、潜伏キリシタンたちが懸命に働き蓄えた、なけなしの財産や田畑だったのだろう。潜伏キリシタンの撲滅と いう大義名分を掲げ、その実、財産の略奪を行ったと考えられる。 また、九賀島の「牢屋の窄教会」の石碑には、下記のような文章が書き込まれていた。 江戸幕府に続く明治政府のキリシタン弾圧により、1868年(明治元年)9月、九賀島の信徒が捕らえられ、激しい 火責め、水責め、算木責めの拷問を受け、同年1月22日には内上平部落の信徒の家をこの地に移して牢とし、老若 男女200余名が収容された。この牢屋は奥行き3間、間口2間、6坪の家牢で、中央が仕切られて男女別々に監禁さ れた。狭隘な牢内では、身動きする事も困難で人の身体にせり上げられて足さえ地に着かない者もあって、さながら 人間の密集地獄であった。3日目には足が腫れ上がり、食物は芋の小切れを朝夕1個ずつ、飢えと苦痛のため死者 が続出した。死体は次第に密集地獄の下に踏みつぶされて腐敗するが、5日間も放置され、蛆がわいて人体にはい 上がり、その上、その場に放尿排便せねばならぬので、その不潔さと臭気は言語に絶する惨状、13歳のドミニカたせ は、蛆に下腹を食い破られて死亡した。10歳のマリアたきは、熱病におかされ頭髪は抜け落ち「私は天国に行きま 6 す。お父さんもお母さんもさようなら」と言い残して息を引き取った。その妹のマリアさもは7歳の幼女であったが「イエ ズス様の5つの御傷に対して祈らねばなりません」と言い残して息が絶えた。かくて在牢8か月、殉教者39名、信徒の 頭9名はそのまま牢に残され、全員の出牢が許可されるまでに3か年を要した。彼ら信徒は、孜々として生業に励み、 忠実に法に従う領民であったが、信仰に忠実、神の掟を重んじたというだけでこの責め苦を受けたのである。明治政 府は、絶対主義神道国家確立を図り、祭政一致を唱え、その政策の犠牲になったのがカトリック信徒たちである。九 賀島の信徒は、あどけない幼児から60余歳の老人に至るまで超人的精神力を以て、この比類のない苦痛を耐え忍 び、信仰の自由と良心の尊厳とを身をもって主張し、信仰に生きる九賀島カトリック信徒の魂の偉大さを発揮したもの である。 ここに書かれている身の毛もよだつような迫害は、明治元年のものである。潜伏キリシタンへの迫害は、明治新政府 の神道の国教化目的のため、むしろ激化した。その後、迫害や大弾圧は、1873年(明治6年)まで続いた。なお、こ の碑文には書き込まれていないが、この間、迫害された信徒たちの田畑や財産も、おそらく他宗教の信者などに略奪 されたに違いない。むしろその目的で、他宗教の信者たちが、残虐非道な迫害を行ったと考えた方が順当かもしれな い。 ④隠れキリシタン 1873年(明治6年)に、江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が解かれて信仰の自由が認められた。それ以降はキリ スト教信者ということだけで重罪に処せられることが無くなり、一部を除く多くのキリシタンたちが堂々とキリスト教信仰 を表明し、祖先の信じたカトリック教会の信仰に復帰することとなった。 しかし一部の潜伏キリシタンたちは、200年以上もの間、指導者不在で信仰を続けたため、日本の民俗信仰と深く 結び付いた独自の信仰様式を作り上げてしまっていた。それらの潜伏キリシタンは、もはや潜伏の必要がなくなっても、 引き続き身分を秘匿し続けた。彼らをそれまでの潜伏キリシタンとは区別し、隠れキリシタンと呼ぶ。大正から昭和30 年代のころには、約2~3万人が存在したといわれているが、現在では、そのほとんどが姿を消している。隠れキリシタ ンが存在し続けたのには、いろいろな理由が考えられるが、身分を明かせば再び激しい弾圧や迫害に曝されるとの 恐れや、財産を略奪されるのではないかという危惧が大きかったのではないかと考えられる。 ⑤政治と宗教と民衆 織田信長は天下布武のため、キリシタンを利用して、一向一揆や比叡山などの既成宗教勢力を潰した。その後を 受け継いだ豊臣秀吉はむしろキリシタンの力の拡張を恐れ、それを制約する側に回った。徳川家康は社会の安定に 仏教を利用する制度を整え、キリシタン禁教令を出し、キリシタンへの弾圧を強めた。キリシタン大名たちは、自らの勢 力の拡大のため、キリシタンの武器や財力を利用した。つまり、時の為政者は宗教を利用して、目的を達成しようとし、 同時に民衆を統治しようとした。その中で、民衆は宗教を純粋に堅く信じ、為政者に振り回されながらも、懸命に生き のびた。反面、為政者の宗教政策をしたたかに利用して、自らの利益の拡大を図った。また異教徒たちの宗教を悪 用した迫害・略奪に耐えねばならなかった。 ⑥教会群の世界遺産登録への動き 1873年(明治6年)、明治政府の政策転換により、晴れて信教の自由を獲得したキリシタンたちは、五島の各地で、 続々と教会を建設した。それらは信者たちの浄財で建てられたものがほとんどであり、小規模のものが多かったが、そ の数は50個所ほどとなった。キリシタンたちは、引き続き結束を固め、農漁業に勤しんだ。妨害のない中での、彼らの 必死の努力の結果、教会はじょじょに立派なものになっていった。そ れらはまた鉄川与助という名建築家を、世に送り出すことにもなった。 そして人口8万人の五島列島の15%をキリスト教信者が占めるように なり、その人口密度は日本一と言われるまでになった。 現在、五島列島では高齢化や過疎化が進み、地域経済が疲弊し、 キリスト教信者も減りつつある。そのようなときに、このキリスト教会群を 世界遺産に登録し、それを契機に五島列島を観光化し、経済を活性 化しようという試みが始められた。まさに先輩キリシタンたちが苦難の 道を歩み、遺してきた教会群が、五島列島で現代を生きる人々の糧 になるわけであり、無念のまま死んで行った先輩キリシタンたちはそれ を墓場から、微笑ましく見ることだろう。 ⑦ある教会の信者の活動 ある小さな教会に見学に入ったとき、信者さんがお祈りのときに座る長いすの上に、A4版の文書が10部ほど、雑然 と積まれていた。その表紙には、「平成26年度 A 教区信徒総会」と書かれていた。私は信者のみなさんが、日ごろど 7 んな活動をされているのだろうかと思い、こっそりそれを手に取り中を読んでみた。そこには、毎日曜日の礼拝の他、4 ~5日間に 1 回、なんらかの活動が行われている様子が、びっしり書き込まれていた。黙想会や奉仕活動、募金活動、 防火訓練、生け花講習、歴史勉強会、果てはマラソン大会まであった。 その文書の後半部分には、収支決算書と予算書が綴られていた。私はそのページを見てびっくりした。それがきわ めて詳細なもので、正確に記されていたからである。それは、そのまま税務署に出しても、まったく問題がないと思わ れるほどのものだった。そこには、A 教区は183戸で、この小教区の維持費は3,842,800円、その他に大教区への 上納金が1,416,950円と書いてあった。つまりこれを見ると、この A 教区の信者は一戸あたり年間約30,000円を 宗教活動に支出していることがわかる。この程度の金銭負担で、これだけの活動を展開していることは、私にとってこ れまた大きな驚きであった。わが家は西本願寺の末寺の檀家であるが、ついぞこんな詳しい収支決算・予算書をみた ことがないし、ほぼ同額の冥加金で、年に1~2度、行事がある程度である。私はこの文書を読んで、今日に至るもか くのごとくキリシタンの結束は固く活発で、私の周囲の葬式仏教とは格段の差があると思った。 最後のページには、「連合婦人会の組織改革についての経過のご報告」という文書が綴られていた。そこには、 「調査の結果、予想以上に会員の高齢化が進み、加えて若年層の会員が少ないことが明らかになりました。このこと は、今後、会員ならびに活動費の減少につながり、近い将来、婦人会活動に支障が出てくることが危ぶまれることが 予測されます」と書かれており、キリシタンの社会にも高齢化の波が押し寄せてきていることが、明記されていた。さら に高齢化や過疎化の波を克服しようとする信者の人たちの組織改革方針も提起されていたが、それを読んでも、弾 圧や迫害を生きのびたキリシタンでも、さすがにこの障壁を乗り越えることは難しいように思われた。 2.ミャンマーにおけるカレン・カチン族 ミャンマーは典型的な多民族国家であり、主要民族だけ見ても、ビルマ・シャン・カレン・アラカン・モン・チン・カチ ン・カヤーの8民族が存在する。このほかに127の民族がいて、全部合わせると135民族という大変な数にのぼる。し かもそれらは多様な言語を使用しており、その上、多宗教国家でもある。人口の60%超を占めるビルマ族は仏教徒 が大半であるが、約400万人のカレン族の30%はキリスト教徒であり、約120万人のカチン族はほぼ大半がキリスト教 徒である。またアラカン族には多数のイスラム教徒がいる(根本敬著 「物語 ビルマの歴史」より)。 1885年にイギリスの支配下に置かれたミャンマーの中でも、とりわけ酷い状態に置かれ、辛い思いをさせられたの はビルマ族であった。イギリスは分割統治政策を推し進めたのである。当初この政策を後押ししたのはキリスト教の宣 教師たちであった。第一次英緬戦争に勝利した1862年以来この地にやってきた宣教師たちは、ビルマ族に反感を 持っていたので、イギリスによるミャンマー全土の植民地化は自分たちにとっても勝利だと受け止め、分割統治政策を 積極的に後押しした。彼らはビルマ族をキリスト教徒に改宗させるのはまず不可能であることを悟り、高地の少数民族 に視線を向け、未だ精霊信仰を続けていた彼らへの布教に力を注ぎ、ある程度の成功をおさめた。イギリス植民地政 府が主体になって彼ら一流の分割統治政策をより一層組織的に実施し、高地に住む少数民族をビルマ族から意図 的に分け隔てる政策を推進した。彼らが採用した統治形態は、イギリス人が最上層の支配階級を占め、その下の支 配層に中国人華僑やインド人を充て、さらにその下の郵便局員とか巡査といった下級官吏にはキリスト教に改宗させ られたカレン族の少数民族を起用した。経済活動においても、地主や金貸しはほとんどインド人が占め、流通業は主 として華僑が握るところとなった。こうして、ビルマ族は最下層の百姓と労働者に押さえ込まれ、政治、経済の表舞台 で重要な役割を担うことは不可能な状態に置かれた。植民地の現地軍も同様である。イギリスは現地軍への採用をカ レン族とカチン族とチン族に限定し、ビルマ族とシャン族には門戸を開かないことにした(山口洋一著 「歴史物語ミャ ンマー 下」より)。 イギリスはミャンマーにおいて、キリスト教の宣教師を尖兵にして、その植民地化を推し進めた。宣教師たちは仏教 を深く信心するビルマ族を避け、素朴な精霊信仰を持っているだけの少数民族の改宗を積極的に進めた。その結果、 キリスト教徒になったカレン族やカチン族は、イギリスの分割統治政策に担がれて、仏教徒のビルマ族の上に立ち、 大きな利益を手にすることになった。しかしながら、イギリスの撤退、ビルマの独立後、再びビルマ族の天下が到来し、 カレン族やカチン族などの少数民族は迫害されることになった。この宗教がらみの民族対立はいまだに続いており、ミ ャンマー各地でしばしば戦闘が繰り返されている。最近、タイの人権団体「フォタファイト」は、ミャンマー政府の治安 部隊が、紛争の続く北部カチン州で民間人に「組織的に」拷問を加えていると告発した。同州では、政府軍とカチン 独立軍(KIA)との間の戦闘が再燃して3年を迎える。ミャンマーの軍、警察、情報機関から拷問を受けた78人の生存 者や目撃者らの証言によれば、刃物による殺傷や殴打、首にワイヤーを巻かれるなどの拷問が行われているという。 このようなミャンマーの宗教がらみの民族対立は、まさに政治と宗教の癒着、そしてそれに振り回される民衆や、そ の中でしたたかに自己の利益を追及する民衆の生き様を、まざまざと描き出している。この他にもミャンマーには、バ ングラデシュとの国境沿いにおけるロヒンギャ問題がある。これも太平洋戦争中の日本軍がらみの民族、宗教対立に も原因がある。この国境周辺にはイスラム教と仏教のせめぎあいがあり、ミャンマー側では仏教徒がイスラム教徒を襲 撃し、バングラデシュ側ではイスラム教徒が仏教徒を襲撃している。 今、民主化の進展と共に、ミャンマーは世界の脚光を浴びているが、まだ国内では宗教がらみの民族問題が色濃 8 く残っている。それは進出する外資企業にとっても視野に入れておかねばならない大きな問題の一つである。 3.わが社ミャンマー工場における宗教融和対策 わが社は、今年5月からミャンマーの西バゴーで、縫製工場を稼働させ始めた。この地の住民の大多数は仏教徒 であるが、ラカイン州に近い場所であるため、イスラム教徒も結構住んでいる。まれにヒンドゥー教徒やキリスト教徒も 住んでいる。この村はヤンゴンから車で3時間ほどの場所であり、そんなに不便なところではない。ところが、外資工場 の大進出ブームにもかかわらず、この村には工場がまったくない。おそらく近くの村で一昨年、仏教徒の大規模なイス ラム教徒襲撃事件が起きたため、多くの企業がトラブルに巻き込まれることを嫌っているからであろう。 私もその情報を得ていたが、運良くその村で、10万㎡の土地が入手できたので、思い切ってそこで縫製工場を稼 働させることにした。私が、あえて宗教・民族問題が起きているこの村で工場を稼働させようと決意したのは、同じ屋根 の下で多民族・多宗教の人々に働いてもらうことによって、宗教・民族問題の解決に一歩でも近付き、ミャンマーの民 主化・近代化に貢献できないだろうかと考えたからである。 あるとき私は、広大な土地の四隅にパゴダ、モスク、キリスト教会、ヒンドゥー寺院を建て、全体を宗教融和のモデル 工場にしようと思いついた。ついでに工場の屋上に稲荷神社も建てようとも思った。そんなアイディアを、市役所を表 敬訪問したおりに、ひとまず市長に話してみた。すると市長はあきれ顔で、「パゴダは良いが、モスクは困る。モスクを 建てるのには中央政府の許可が要る」と答えた。私はひとまずこの珍案を引っ込め、「工場内での民族・宗教融和活 動は、引き続き実行します」とだけ市長に伝えた。 これもまた私の社会実験である。 以上 ************************************************************************************************ 上海街角インタビュー 社団法人大阪能率協会アジア・中国事業支援室副室長(海外委員) 順利包装集団董事(在上海) 福喜多技術士事務所所長 福喜多俊夫 “中国人は白髪が嫌いなのか?” 私は 2002 年から主に上海で暮らしているが、上海で暮らし始めた頃、中国中央テレビ(CCTV)で見る共 産党幹部全員の毛髪が黒々としていることに気がついた。白髪の人は全員染めていると聞いて納得したが、 中国共産党には毛髪を染める習慣があるのだろうか?2012 年秋の共産党大会で政治局常務委員に選出され た広東省書記の胡春華氏が白髪交じりで登場したことがマスコミに驚きをもって迎えられたことを見ると、 白髪というのは普通でないようである。それでは、政治家以外の一般人の間でも白髪はあまり歓迎されない のだろうか?街に出て聞いてみた。 1.20 歳代後半の女性 私は男性の白髪は嫌いです。大部分の中国人は多分白髪が嫌いだと思います。政治家でもビジネスマン でも元気に見えることが大事です。髪の毛が白いと弱弱しく見えます。特に半分白、半分黒はよくないで す。真っ白の髪でもいいです。主人に白髪が出てきたら髪を短く刈って元気そうに見せるように頼みます。 2.50 歳代前半の男性 共産党幹部の特徴は上の真似をすることです。上司がある銘柄のタバコを吸うと、部下もみんなこのタ バコを吸います。上司がこのドラマが好きだと言うと、みんなそれを見ます。目的は共通の話題を作って 自分の昇進を有利にする、或いは上司と“一致”を保っているふりをするのでしょう。江沢民政権時代に 多くの人が髪染めをしたのもその一因だと思います。 確かに、中国では今、けっこう多くの人が髪染めをしています。 開放前の平均寿命が 60 未満で、白髪だと年寄りのイメージが非常に強いです。また、以前は事務仕事の労 働者は非常に少なく、普通の人たちは楽で頭を痛めることが少ないです。今のように、早ければ 30 代から 髪が白くなり始める現象はほとんど見られなかったです。私も 95 年ごろ、日本からの出張者が来て、顔は 40 代ですが、白髪がけっこう多い人に会って驚きました。 “文化大革命”の時代、悪いことを考えるから、髪が早く白くなった、という説が世の中でよく受けて いました。また、打倒されたインテリも白髪が多く、それもその考え方に“合致”しました。そういうわ 9 けで、今多くの人が髪染めをするのは、老けていることを見せたくない、また、悩みがそれほどないと言 うイメージをつけるためでしょう 3.30 歳中頃の女性 私は政治家の頭髪には興味がないので、習近平総書記や李克強首相が染めているかどうか知らないけれ ど、主人が白髪になったら染めるように強く勧めます。中国でビジネスをするためには力強くなければダ メです。ちょっと頭を使ったら白髪が増えるような軟弱な男は出世しません。 4.40 歳代前半の男性 中国の政治家が髪を染めているのは知っているけれど、あまり気にすることはないと思うな。中国の政 治家も昔は髪を染めていなかったと思うよ。染髪液がなかったのかもしれないけど。毛沢東主席も周恩来 首相も写真で見ると頭髪は黒いですか?いずれにしても私は気にしません。 5.70 歳代の男性 私はもうリタイアしているから、白髪は気にしなくなったけど、だらしないのは嫌だから短く刈り上げ ています。現役時代は 3 週間に 1 度くらいの割合で染めていました。染めるのは理髪店です。私は国有企 業に勤務しており政府の役人と会う機会が多かったから身だしなみには気をつけ、好感をもたれるように 努力していました。政府の役人は全員黒髪でした。 6.10 代後半の男子学生 今は茶髪だけど、就職試験の前には黒に戻します。会社へ入ったら当然黒髪です。中年になって白髪が 出てきたら髪を染めます。ビジネス社会では外見が大事です。私は国有企業を狙っているので、活発で身 だしなみのよい若者に変身しますよ。中年になっても髪は黒々しており、エネルギーに満ち溢れた高級実 業家になります。 7.40 歳代中頃の女性 主人は私と年が 20 歳近く離れているので、若作りするように要求しています。子供が学校で「おまえの お父さんはおじいちゃんみたい」と言われたら可哀想だから、髪も染めて明るい色の服を着るように気を 使っています。髪の色で若さが随分違いますよ。 白髪を気にしない人も少しはいたが、男女とも大多数は髪を染めることに肯定的であった。政治家以外に も壮年男子の世界には黒髪を是とする文化があるようである。 以上 ************************************************************************************************ 【中国経済最新統計】 ① 実 質 GDP 増加率 (%) 2005 年 2006 年 2007 年 2008 年 2009 年 2010 年 2011 年 10 月 11 月 12 月 2012 年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 10.4 11.6 13.0 9.0 9.1 10.3 9.2 8.9 8.1 7.6 ② 工業付 加価値 増加率 (%) ③ 消費財 小売総 額増加 率(%) ④ 消費者 物価指 数上昇 率(%) 18.5 12.9 11.0 15.7 12.9 13.7 16.8 21.6 15.5 18.4 1.8 1.5 4.8 5.9 1.9 3.3 ⑤ 都市固 定資産 投資増 加 率 (%) 27.2 24.3 25.8 26.1 31.0 24.5 13.2 12.4 12.8 17.2 17.3 18.1 5.5 4.2 4.1 34.1 21.4 5.7 15.2 14.1 13.8 13.7 4.5 3.2 3.6 3.4 3.0 2.2 25.3 - 21.1 19.2 21.0 21.8 21.3 11.9 9.3 9.6 9.5 ⑥ 貿易収 支 (億㌦) ⑦ 輸 出 増加率 (%) ⑧ 輸 入 増加率 (%) 1020 1775 2618 2955 1961 1831 1549 170 145 165 2303 273 -315 53 184 187 317 28.4 27.2 25.7 17.2 ▲15.9 31.3 20.3 15.8 13.8 13.3 7.9 -0.5 18.3 8.8 4.9 15.3 11.3 17.6 19.9 20.8 18.5 ▲11.3 38.7 24.9 29.1 22.6 12.1 4.3 -15.0 40.3 5.4 0.4 12.7 6.3 ⑨ 外国直 接投資 件数の 増加率 (%) 0.8 ▲5.7 ▲8.7 ▲27.4 ▲14.9 16.9 ⑩ 外国直 接投資 金額増 加率 (%) ▲0.5 4.5 18.7 23.6 ▲16.9 17.4 ⑪ 貨幣供 給量増 加 率 M2(%) ⑫ 人民元 貸出残 高増加 率(%) 17.6 15.7 16.7 17.8 27.6 19.7 9.3 15.7 16.1 15.9 31.7 19.8 -0.6 -12.9 -15.4 8.7 -9.8 -12.7 16.7 16.2 17.3 14.1 14.0 14.3 4.6 38.7 -6.5 -26.1 -6.1 -16.3 10.8 -0.9 -6.1 -0.7 0.0 -6.9 16.6 17.8 18.1 17,5 17.9 18.5 14.8 15.0 15.7 15.4 15.7 16.0 10 7月 8月 9月 10 月 11 月 12 月 2013 年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10 月 11 月 12 月 2014 年 1月 2月 3月 4月 5月 7.4 7.9 7.7 7.5 7.8 7.7 7.4 9.2 8.9 9.2 9.6 10.1 10.3 8.9 9.3 9.2 8.9 9.7 10.4 10.2 10.3 10.0 9.7 8.8 8.7 8.8 13.1 13.2 14.2 14.5 14.9 15.2 1.8 2.0 1.9 1.7 2.0 2.5 20.6 19.4 23.1 22.4 20.0 18.8 251 267 277 320 196 316 1.0 2.7 9.8 11.5 2.8 14.0 5.7 -2.7 2.3 2.2 -0.1 6.0 -7.8 -12.7 -6.4 1.8 -8.7 -7.8 -8.6 -1.4 -6.8 -0.2 -5.4 -4.5 18.9 18.4 19.8 14.6 14.5 14.4 16.0 16.1 16.2 15.9 15.7 15.0 20.8 12.6 12.8 12.9 13.3 13.2 13.4 13.3 13.3 13.7 13.6 2.0 3.2 2.1 2.4 2.1 2.7 2.7 2.6 3.1 3.2 3.0 2.5 291 153 -9 182 204 271 178 285 152 311 338 256 25.0 21.7 10.0 14.6 0.9 -3.3 5.1 7.1 -0.4 5.6 12.7 4.3 29.0 -14.9 14.2 16.6 -0.1 -0.9 10.8 7.1 7.4 7.5 5.4 8.6 -12.4 -35.6 -19.7 13.9 -14.4 -17.3 1.2 -11.7 -16.8 -8.2 -9.3 -3.4 -3.4 6.3 5.7 0.4 0.3 20.1 24.1 0.6 4.9 1.2 2.3 -42.6 15.9 15.2 15.7 16.1 15.8 14.0 14.5 14.7 14.2 14.3 14.2 13.6 15.4 15.1 14.9 14.9 14.5 14.1 14.3 14.1 14.3 14.1 14.2 14.1 12.2 11.9 12.5 2.5 2.0 2.4 1.8 2.5 10.8 10.4 -11.3 0.7 -1.7 -8.6 1.3 6.1 0.5 8.4 -4.5 4.0 -1.5 3.4 -6.6 13.2 13.3 12.1 13.2 13.4 14.3 14.2 13.9 13.7 13.9 21.5 19.8 19.7 19.9 20.2 21.4 19.6 19.2 17.6 17.2 19.8 17.3 16.6 16.9 319 -230 77 185 359 10.5 -18.1 -6.6 0.8 7.0 注:1.①「実質 GDP 増加率」は前年同期(四半期)比、その他の増加率はいずれも前年同月比である。 2.中国では、旧正月休みは年によって月が変わるため、1月と 2 月の前年同月比は比較できない場合があるので注意 されたい。また、( )内の数字は 1 月から当該月までの合計の前年同期に対する増加率を示している。 3. ③「消費財小売総額」は中国における「社会消費財小売総額」、④「消費者物価指数」は「住民消費価格指数」に対応 している。⑤「都市固定資産投資」は全国総投資額の 86%(2007 年)を占めている。⑥―⑧はいずれもモノの貿易であ る。⑨と⑩は実施ベースである。 出所:①―⑤は国家統計局統計、⑥⑦⑧は海関統計、⑨⑩は商務部統計、⑪⑫は中国人民銀行統計による。 11