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天皇制ー1 - サイエンスバーバサラ

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天皇制ー1 - サイエンスバーバサラ
サイエンスバー特別企画:明治維新タブーを斬る!
「鹿島説幕末王朝交代論」を考える
1867年1月30日(慶応2年12月25日)
孝明天皇を厠の下部に潜んでいた
奇兵隊の伊藤博文が刺し殺す
1867年年7月8日睦仁親王満14歳、学問所で遊戯中
手に負傷し、宮内に岩倉具視に買収された伊良子光順侍医
が膏薬を貼り崩御。母の中山慶子が武士に仏像の絵の描いて
子供程の大きさのある包み(睦仁遺骸)を中山家に届けさせる。
(中山忠能日記)
第1章 「鹿島説幕末王朝交代論」の9つの根拠
異端の歴史家;鹿島昇・氏
• 大正15年(昭和元年)、横浜市生。父は弁護士。早稲田大学法学部入学。
在学中に司法試験に合格。卒業後、弁護士を開業。10年後、「天皇制の
研究」を思い立ち、東大工学部出身の異色の歴史家・浜田秀雄(1906
生)に師事し、古代史の研究に取りかかる。その後、韓国史の研究に向う。
従来の記紀中心の日本史に対し、朝鮮との歴史的関わりに注目し始める。
•
1978(昭和53)年、処女作「倭と王朝」を新国民社から出版した。これ
が韓国で大評判を呼び、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕岦氏と知り
合い、韓国の貴重な古文書類を委託された。この古文書類は全部「白文」
であった為、当時の著名な漢文大家や中国語教授、有名な歴史学者など
に協力を求めたが誰も引き受けなかった為、自力で翻訳と解読に取りか
かった。
•
骨身を削るような苦難の三年間の努力を経て、全訳「桓檀古記」出版に
漕ぎ着けた。その中には驚くべき史実が内包されていた。特に、「A,D214
年、イワレヒコ=神武が九州糸島郡に上陸して伊都国を建てた」という箇
所にさしかかると、さすがの鹿島も眠れぬ夜が何日も続いたという。
万世一系:天皇制のレゾンデートル
天皇陛下万歳と突撃した太平洋戦争
~戦意高揚に利用された万世一系~
天皇の祖先神: 天照大御神
天岩戸神話の天照大神(春斎年昌画、明治20年)
九
州
神戸
鹿児島神宮
生田神社
鵜戸(うど)神宮
高千穂神社
皇室のルーツ説
秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して北倭となり、
扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や
南倭と混血し、近畿の秦王国とも合流「桓檀古記」
二宮神社
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html
明治天皇すり
替え説
昭和天皇は
西園寺八郎と貞明皇后
のあいだの子 疑惑
『日本のいちばん醜い日』
幕末王朝交代説の根拠
1)歴史家、鹿島昇とルポライタ-の石川氏が田布施町を訪問。「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末蕎であり、明治天皇は祖
父の兄・大室寅之祐です」と主張する大室近祐氏80歳と面談し裏付け調査した結果。
2)明治の警視総監、田中光顕が「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と発言。
3)梨本宮守正の娘で朝鮮王朝に嫁いだ李方子は、「明治帝は南朝の人だ」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の妹の息子・興光
も、「睦仁親王と明治帝は別人だ」と発言
4)中山忠能が遺した「中山忠能日記」慶応3年7月19日条に、「奇兵隊天皇が、来年の正月上旬ないし中旬のうちに元服と決定と、
仰せられました」
5)長州の国家老一族の益田勝実『天皇史の一面』や、長州藩主を実父に持つ西園寺 公一の証言
6)睦仁親王は天然痘を患い、「あばた」の残る虚弱体質であり、書は下手で、即位 前乗馬の記録はないのに対し、明治天皇は
「あばた」がなく、5尺7寸・24貫の 巨漢で、達筆であり、鳥羽伏見の戦の際馬上閲兵した、また相撲を得意としたと言う不自然性。
7)突然の東京遷都、昭憲「皇太后」の呼称 (本来ならば「皇后」であるべき)
明治天皇の生母(中山慶子)の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていない
8)安 重根「伊藤博文を暗殺した動機:15項目」の一つに加わっている事
9)フルベッキ群像写真の大室寅之祐が明治天皇と似ていると言う説
• 1987(昭和62).10月、鹿島氏は、日本神道・歴史研究の権威である
吾郷(あごう)清彦氏の紹介で、山口県柳井(やない)市田布施町麻郷(お
ごう)に在住する大室近祐(おおむろちかすけ、平成8年没)氏を訪れた。
この時、大室近祐氏はすでに80歳を越えていたが、「私は南朝の流れを
引く大室天皇家の末蕎であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」
と、はっきりと語った。大室氏は、「大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦
仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった 」と云う裏明治
維新史を語り続けていた。大室氏は、地元でも 「田布施の和田喜八郎(東
日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていた。
•
鹿島氏は、この最初の訪問のときはさすがに半信半疑のようであったが、
その後10回におよぶ訪問を重ね、「皇道と麻郷」をはじめとする大量の
文書を見せられることにより、しだいにこの事実を確信するようになって
いった。以来二人は意気投合し、たびたび出会うようになった。大室氏曰
く、 「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていた。
田中 光顕(たなか みつあき)
天保14年閏9月25日(1843年11月16日) 1939年(昭和14年)3月28日)
土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒して
その道場に通い、土佐勤王党に参加。
土佐藩を脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。
薩長同盟の成立に貢献。第二次長州征伐時では
長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。
後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。
西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、
のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、
警視総監、学習院院長などの要職を歴任
田中光顕の証言
三浦芳堅著『徹底的に日本歴史 の誤謬を糾す』から
• 「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。
孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新というときに急
に殺されて崩御になり、世間には、明治天皇は孝明天
皇(北朝系)の皇子であり、母は中山大納言の娘中山
慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお
育ちになったということになっており、御名を睦仁親王と
いい、父である孝明天皇崩御と同時に直ちに大統を継
いだことになっているが、実は、その睦仁親王は暗殺さ
れ、これにすり替わった明治天皇(大室寅之助)は、後醍
醐天皇(南朝系)の第 11番目の皇子光良親王の子孫
で長州萩で毛利氏が守護してきた。
薩摩と長州の間には、この南朝の末孫を天皇にすると
言う密約があり、これが王政復古御一新を志した勤皇
の運動である」
鹿島著「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」
• 第1章 孝明天皇は暗殺された―毒殺説を検証する
• 第2章 孝明天皇暗殺始末―犯人は岩倉、伊藤と長州忍者
• 第3章 田中光顕、明治天皇すりかえを告白
•
―南朝の末裔、大室寅之祐を天皇にした
• 第4章 自らの出自を否定した明治天皇の「南朝正統論」
•
―なぜ天皇すりかえは可能だったか
• 第5章 岩倉欧米使節団の帝国主義参入―西郷隆盛はなぜ殺されたか
本書のなかで著者が展開する史観は三人の天皇、すなわち孝明天皇、その子睦仁、及び実は大
室寅之祐の明治天皇は、或いは明治維新を推進した岩倉具視や木戸、伊藤、山縣、大久保たち
に暗殺され、或は裏切られた悲しい存在であったという事実である。まず孝明天皇は長州藩の忍
者部隊によって暗殺され、その子睦仁も即位後直ちに毒殺された。そして、睦仁の身代わりになっ
た明治天皇は実は南朝の末孫という長州力士隊の大室寅之祐であり、孝明天皇の子ではなかっ
たというのである。
中山忠能
• 文化6年11月11日(1809年12月17日) - 明治21年(1888年)6月12日)は、江戸時
代末期から明治時代前期にかけての公家、政治家である。明治政府の議定。
• 父は藤原北家の花山院流権大納言・中山忠頼、母は正親町三条実同の娘・綱
子。子に中山忠愛、中山忠光。娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、明治天皇
を産んだことから、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。
• 元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩
の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考
えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買っ
て処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると、復帰を許される。
• 慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追
討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩
倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務
めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当
中山忠能の日記『正心誠意』
1868年2月8日(1月15日)京都薩摩藩邸待機していた
大室寅之祐が京都御所に入所し元服。
三条実美等の倒幕尊皇攘夷派の公卿も復帰。
(10月12日)京都御所で御大礼・・御所内大混乱。
中山日記「奇兵隊の天皇」
一条美子皇后を皇太后と贈り名し皇居では別居。
安 重根「伊藤博文を暗殺した動機:15項目」
14 今ヲ去ル42年前,現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤
サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
西園寺 公一(さいおんじ きんかず)
明治39年(1906年)11月1日 - 平成5年(1993年)4月22日)は、
日本の政治家。参議院議員、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事など歴任。
民間大使の異名をとる。
祖父は西園寺公望、父は公望の養子西園寺八郎(実父は旧長州藩主で・公爵毛利元徳)で
母は公望の娘・新である。
西園寺八郎
• 1881年、旧長州藩主・公爵毛利元徳の八
男として誕生。1906年、公爵西園寺公望
の娘・新と結婚して婿養子となり、宮内省
の官僚として主馬頭・式部次長などを歴
任。また東宮職御用掛として、皇太子時
代の昭和天皇を補佐した。剣道の達人で
あり、昭和天皇の訪欧に反対した右翼数
人が飯倉片町の邸内に乱入した際には、
護身用仕込杖で応戦している。また、非
常な人格者としても知られた。1928年、勲
一等瑞宝章受章。1940年、公望の死去
に伴って襲爵。
(右)
大室寅之祐
(左)
明治天皇
フルベッキ群像写真 (wikipedia)
• オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイ
ド・フルベッキとその子を囲み、上野彦馬のスタジオで撮影された44名の
武士による集合写真。明治フルベッキが佐賀藩の藩校致遠館の学生とと
もに撮った可能性が高い元年(1868年)頃、写真。
• 1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写
真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが
写っている、とする論文を発表
• 大室寅吉(大室寅之祐)という名で後の明治天皇が写っているとした説を
唱えるものや、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引い
ていた」説等の陰謀論、偽史の「証拠」とする例もある
フルベッキとは?(wikipedia)
• グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、1830年1月23日 1898年3月10日)。オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍
した法学者・神学者、宣教師。
• 長崎の私塾で英語や聖書などを教え生計を立てていた。佐賀藩の大隈重信と副島種臣が、英
語の講義を受けている。
• 長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所、済
美館、広運館などと呼ばれた)の英語講師として幕府に雇われることになった。済美館の教え子
には何礼之、平井希昌、大山巌も塾生。。なお、上野彦馬が撮影したフルベッキの写真(済美館
の生徒と共に写る集合写真)が長崎歴史文化博物館に残されている。何礼之はその後私塾を
開き、前島密、陸奥宗光、高峰譲吉、安保清康、山口尚芳らを輩出した[11]。
• 佐賀藩がフルベッキを雇用し、長崎に藩校「蕃学稽古所(致遠館)」[14]が設立。英語、政治、経
済などについて講義。伊藤博文はフルベッキが滞在していた大徳寺に宿泊したことがあり、フル
ベッキの弟子である何礼之の弟子、芳川顕正を大徳寺に呼び寄せて英語を学んでいた]。岩倉
具視の子、岩倉具定と岩倉具経が門弟。
• 東京の開成学校(旧幕府開成所、現在の東京大学)の教授。勲三等旭日章
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-227.html
オランダ系
ユダヤ人
マセソン商会は
ロスチャイルド家の系列会社
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-226.html
明治維新はフリーメーソン革命か?
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-227.html
船中八策
• 1.天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政
奉還)
• 2.上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ
決スベキ事(議会開設)
• 3.有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来
有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
• 4.外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
• 5.古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
• 6.海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
• 7.御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
• 8.金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
CIAキューバ計画と明治維新との類似点
• キューバ計画(キューバけいかく、The Cuban Project)とは、ジョン・F・ケネディ大統領政権初期に
中央情報局(CIA)が展開した、キューバのフィデル・カストロ政権に対する秘密作戦、国家テロ。
• キューバの共産政権打倒を目的としたもので、歴史学者のホルヘ・ドミンゲス(英語版)ハー
バード大学教授によると、ケネディ政権はこれを最重要課題としていたという[1]。「キューバの共
産政権転覆を支援」し、「1962年10月にキューバにおける暴動の発生」を企図している事がアメ
リカ合衆国国務省の文書で確証されている[2]。
• 反カストロプロパガンダや反政府勢力への武器援助、国中にゲリラ基地を建設したり、
10月のキューバへの軍事侵攻に備えたりする
明治維新でも、反幕府宣伝戦、反幕府勢力(長州、薩摩)への武器援
助、ゲリラ拠点(長崎、京都)の建設が英米国勢力を通して行われた。
帝国大学とフリーメーソン
• フルベッキを頂点とする、明治初年の数百人の御雇外国人は、ほとん
どユダヤ=フリーメーソン
• 東京帝大以下の日本の高等教育機関はフリーメーソンの巣であった
太田龍
帝国大学における謀略文化の歴史
• フルベッキを頂点とする、明治初年の数百人の御雇外国人は、ほと
んどユダヤ=フリーメーソン 東京帝大以下の日本の高等教育機関
はフリーメーソンの巣であった
太田龍
帝国大学におけるフリーメーソン文化
1.精神医学の欺瞞
2.エイズ学の欺瞞(コッホの原則)
3.地球温暖化学の欺瞞
4.クローン動物学の欺瞞
5.歴史学(2・26事件研究)の欺瞞
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大学は嘘をつ
くものである
と言うか
帝大は謀略のため
存在する。
現在でもトップの研究実績を誇る旧7帝国大学
http://ip-science.thomsonreuters.jp/press/release/2011/esi2011/
著作権 及び 責任
• 以上、ここで公開した全ての著作権及び責任は
• サイエンスバーバサラ代表の植田徹にあります。
• 連絡先は神戸市中央区中山手通1丁目7-6リッチライトビル二階
• です。電話番号は080-1475-9129。
• このスライドに関する質問は、サイエンスバーでお願いします。
• スライドの利用は自由ですが、必ず引用して下さい。
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