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島々谷の悲話
143 島々谷の悲話 小島烏水は明治35年槍ケ岳登山のとき、嘉門次小屋で営林署の役人と同宿した。 そのとき人夫が島々谷で古い塚があったという話を聞いたが、それが次の悲話である。 戦国時代の飛騨国の国司に三木自綱がいた。ところが本能寺の変の後、天正12年(1584)、 織田信長の次男信雄は徳川家康と同盟し、羽柴秀吉に戦いを挑んだ。小牧長久手の合戦では三 木自綱と子の三木秀綱は家康側に加勢した。 戦いは双方のにらみ合いで優劣なし、和睦で終わって家康側も兵を引き上げた。 このため三木親子は浮き上がってしまう。その隙に秀吉側の高山の金森長近が三木父子を 攻めた。三木側は落城し金森に制圧された。だが子の三木秀綱は敵に降ることを拒否、夫人や 子供、近侍らと共に飛騨を脱出し信濃に向かう。これに気が付いた金森の追っ手は秀綱に追い ついた。秀綱はとっさに一軒の農家に助けを求めた。ちょうど養蚕の最中だったが、 農家は桑の葉っぱの中に隠した。追っ手は三木の奴らを見なかったか?と農家を問いつめたが まったく知りませんと、このときは無事に逃げ終え たが、奈川村角ケ平で金目当ての地元民に襲われ殺さ れた。このとき途中で秀綱とはぐれてしまった奥方と 侍女は、上高地を経て徳本峠から島々谷の道を急いだ。 だが女の足では山道はきつい。装備も食料もない。 2人はだんだんと体力をすり減らし、まず侍女が倒れ て死んでしまった。奥方は悲しさをこらえて1人で山 道をくだった。そのとき数人の樵人が現れた。樵人は 驚いた。こんな山道で女性がいるはずはない。キツネ か化け物に違いない。彼らは 『よしッ、化けの皮を剥がしてやる!』 悲鳴を上げる奥方を裸にして木に縛り、奥方の着物や 短刀など所持品を奪って島々へ帰った。 翌日、木の葉に変化すると思った奥方の着物類がそのままだ。おかしいと思った樵人たちが 前日の場所へ行ってみると、奥方が樵人をキッと睨み、不気味な笑顔を残して息絶えた。 驚いた樵人たちは一目散に村へ帰った。その後、村では変死者が相次いだ。人々は 『これはあの奥方のタタリに違いない』 このタタリは400年も語り継がれ、島々の村人は奥方の霊を弔った。 さらに戦後になって島々神社の境内に社を建 設し、奈川村で殺された三木秀綱も一緒に祀っ た。また昭和50年には島々谷のあの場所に 石碑を建設し罪滅ぼしにつとめている。 【三木秀綱奥方遺跡】↑ →