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「人と虫の関係」 をめぐる研究の現在と展望

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「人と虫の関係」 をめぐる研究の現在と展望
論 文
「人と虫の関係」をめぐる研究の現在と展望
藤崎亜由子
大阪経済法科大学 総合科学研究所年報 第25号 抜刷
2006年3月発行
「人と虫の関係」をめぐる研究の現在と展望
藤 崎 亜由子
1.はじめに
数百万年に渡る人類の暮らしは、常に自然と共にあり、望むと望まざるとに関わらず、否応な
しに自然生命体との交流を余儀なくされてきた。動物や植物についての詳細な観察に基づいた具
体的な知識や研ぎ澄まされた感性はまさに、人間文化を生み出す原動力であった。Shepard
(1978/1991)が指摘するように、人間は、人間以外の者のもつ多様性と他者性を根本的に必要
とする存在なのではないだろうか。
現代、人間の生息環境は都市化され、人々は自らを取り巻く圧倒的な自然から帝離した生活を
送り始めている。温暖化や砂漠化、異常気象、生物種の絶滅などが深刻化する中、皮肉にもわれ
われは、人間以外の生命体との交流の実感が希薄なままに、地球規模での環境破壊に立ち向かわ
なければならないという事態に直面しているのである。この現状は、環境教育という実践的な問
題においても、人間存在の根本に関わる問題としても見過ごせない事態であろう。
果たして、現在私たちは日常に、どの程度自然生命体(以下、本論では主に動物を意味する)
と交流しているのだろうか。現代社会を生きる人々は、人間以外の生命体に対してどのような認
識を持っているのだろうか。それは、かつて自然とともに暮らしていた時代の人々が抱く自然観・
生命観−とは異なっているのだろうか。このような問いに答えていくことは、今後の重要な課題
であろう。
人と自然生命体との関係を捉えるアプローチの一つとして、対象となる生き物そのものを理解
するだけでなく、一般の人々が抱く自然や生命に対する認識というものを明らかにしていくこと
も必要である。本論文では、自然生命体の中でも特に「虫」2 との交流を通して、現代日本の人々
が抱く自然観・生命観を問い直すことの意義について考えたい。
地球は、「虫の惑星」とも呼ばれるほど、虫が大繁栄している(Evans,1968/1979)。哺乳類
の全種類がおよそ4000種なのに対して、昆虫は知られているだけでも100万種を超え、他の生命
を凌駕する多様性を誇っている。また、1匹ではほんの1∼5ミリグラムの重さしかないアリだ
けでも、地球上に生息する総質量は、人類全てを合計した重さにも匹敵するという圧倒的な数で
ある(H611dobler&Wilson,1994/1997)。地球に暮らすものにとって虫は避けることのできな
い存在なのである。人類も例外ではない。食料として、思考の対象として、害虫として益虫とし
て、虫は人の暮らしと切っても切り離せない関係にあり続けてきた。
だが、都会で生きる人々は、身の回りに存在している多くの虫の存在に気付いているだろうか。
小さな街路樹や植木の中にも、アリやダンゴムシやガの幼虫などが生息している。それは従来の
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生態系とは異なる部分があるとは言え、都市生態系の一部としてたくましく生きている。それに
もかかわらず、現代的な都市型生活を送る中で、私たちの意識からは虫という存在は排除されつ
つあるのではないだろうか。また、研究の対象としても「人と虫の関係」は、見落とされがちだっ
たのではないだろうか。本論文では、「虫」という身近でありつつも忘れられがちな存在に焦点
をあてて、人と自然生命体との交流を捉えるという新たな視点を提案したい。
従来、人と自然生命体との交流を扱った研究は、特に「人と動物の関係」という領域で成果が
蓄積されてきた。よって、本論文ではまず、第2章で「人と動物の関係」についての近年の研究
の流れを紹介し、今後の課題を探る。その上で、第3章では、「人と虫の関係」に焦点をあてて、
人と自然生命体との交流がもたらす発達的意味を問うことの意義を議論したい。
2.人と動物の関係をめぐる諸研究
1) 動物に関する知的認識を探る
動物に関する人間の知的認識を扱った研究として、生物概念に関わる研究をあげることができ
る。生物概念の研究は、「歴史的視点」と「個体発生的視点(子どもの発達)」という2つの視点
から整理することができる。
古来人類は、自然の生き物に格段の興味を示し、それらを分類し、命名し、生態を調べ、生物
学という学問分野を成立させた。「生物とは何か」「ヒトと動物の違いは何か」という問いも、生
物学の大きな関心事の一つであろう。かつて、デカルトは、人間のみに理性を認め、他の動物を
意識の無い自動機械であると述べたことはよく知られている(Descartes,1637/1967)。19世紀
に登場したダーウィンは、進化論を提唱し、人間と動物とは連続的な存在であることを示した
(Darwin,1859/1990)。20世紀には、動物の知能や感情に対する行過ぎた擬人主義的な解釈への
批判から、人間を含めた動物全ての行動の裏に何らかの心的機能の存在を想定することを否定す
る行動主義的な主張が台頭し(Watson,1930/1980)、科学者の持っ動物観は大きく揺れ動いた。
現在は、洗練された擬人主義的な理解の有効性が認められるようになってきている(松沢,2000)。
Griffin(1995)などは、ハチの行動の裏に「意識」を認めてよいのではないかと提案している。
以上のように、動物を対象とした学問の歴史を概観することによって、その時々の時代に生き
た人々が抱く動物観の一端を見て取ることができる。虫についても同様である。例えば、応用昆
虫学が成立し、「害虫」という概念が日本で誕生したのは明治以降である(瀬戸口,2004)。明治
を境に、かつては台風や地震と同じ天災であった虫害が、人為的防除の対象へと移行したのであ
る。虫をめぐる人々の自然観・生命観も歴史とともに変化してきたのである。
一方で、個体発生的視点(子どもの発達)からは、人間がどのようにして生物と無生物とを区
別し、生物というものをどのように認識しているのかという問題に関心が寄せられてきた。かつ
て、ピアジェは、幼い子どもたちが、雲や川や太陽、石などの無生物や動物、植物など、その全
てが心や意識を持っているとするアニミズム的思考を行いやすいことを明らかにした(Piaget,
1929/1955)。彼は、アニミズムを物理的な知識や生物に関する知識が乏しい幼児の未熟な認識
だと位置付けた。だが、今日では、幼い子どもたちでも十分に生物と無生物を区別し、必ずしも
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アニミズム的な反応を示さないことが知られている(Carey,1985/1994)。むしろ、人間以外の
対象(動物や植物、無生物)に心を付与するアニミズムは、子どもたちの異体的知識の不足を補
う形で有効に機能しているという。近年の生物概念の発達的研究からは、科学的な知識を体系立っ
て教わる以前の幼児期にもすでに、子どもたちは素朴生物学という形で首尾一貫して組織立った
生物理解を示し始めることが明らかになっている(稲垣・波多野,2005)。このことは、物理的
な原理が支配する世界とは異なる生物特有の世界に興味を向け、発達の早期に生物に関する知識
を論理的にも整合性のある形で獲得することが、人類の生存に有利に働いていたことを示唆して
いる。
このような、生物概念の発達を扱った従来の研究では、虫が議論の中心になることはなかった。
虫について補足的に尋ねることはあっても、虫そのものを子どもたちがどう理解しているのかを
調べた研究は乏しい。虫の小ささや軽量化されたシンプルな仕組みは、まさに人間が実感できる
「生命一非生命」の境界にある。だからこそ、「生き物とは何か」という人間の素朴な認識を探っ
てゆく上でも虫は有益な素材ではないだろうか。
2)人と動物の「関係性」を採る
上述の生物概念の研究は、人と動物の関係における、人間の知的認識の側面に焦点をあてた研
究として捉えることができる。一方で、人と動物の関係における「関係性」に焦点をあてた研究
がある。それらは、「歴史文化的な視点」と「現代社会の視点」という2つの側面から整理する
ことができる。
「歴史文化的な視点」からみた「人と動物の関係」についての研究の多くは、文化人類学者や
歴史学者によってなされてきた。文化人類学は、信仰・風習・伝承などの人間文化の記述を通し
て、そこに通低する人間の思考様式の変遷を明らかにしようとする学問である。例えば、斎藤
(2002)は、日本の古典文学に見られる22種の動物(馬、牛、犬、狸、燕など)を対象として、
文化史的記述を行い、化ける狸や、鮒の名前が成長に伴って変化するようになった由来などを通
して、日本人の動物観を描き出そうと試みている。また、山下(1994)は、牛や馬などの動物イ
メージを中心にヨーロッパの思想史を辿り、農業に牛馬を使用する大規模な撃桝というスタイル
が、機械工業という生産形態への移行を助けたことを指摘している。日本の昔話と西洋のグリム
童話に登場する動物を比較した中村(1984)は、グリム童話では、魔法などによって人間が動物
へと変身させられる(定められる)物語が多い一方で、日本の昔話では、動物が人間へと変身す
る動物の人間化が一般的に見られることを明らかにした。これは、人間と動物との間に越えられ
ない境界線を引く西洋社会と、アニミズム的な動物観を抱く日本社会の違いとしてみてとれるか
もしれない。虫と人の関係についても同様に、「歴史文化的な視点」から論じた研究が少なから
ず存在する。それにっては、第3章で詳しく述べたい。
一方で、「現代社会の視点」から、人と動物の関係を扱った研究は、心理福祉領域でのペット
活用に関わるものが主である。そこでは特に、人と動物との情緒的なっながり(絆)に注目して、
動物の存在がもたらす人間への心理的影響を評価してきた。その先駆的な研究として、Levinson
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による動物介在療法に関する論文をあげることができるだろう。Levinson(1961)は、臨床医
の立場から研究を行い、動物の存在が、セラピストとクライエントとの関係をよりいっそう発展
させる事例を紹介した。その後、「人間に及ぼす動物の影響」は次第に注目を集め、1980年代に
は、動物との触れ合いまたはその存在自体で血圧が安定し、精神状態が落ち着くことや心臓病患
者の一年後の生存率を高めるなどの「ペット効果」が明らかになった(Katcher,&Beck,1983)。
動物を飼育する七とが、子どもたちの社会的、情緒的発達にもプラスの影響を与えることも注
目されている。Vidoviさ,Stetiさ,&Bratko.(1999)は、ペットを飼育している児童と飼育して
いない児童に対して質問紙調査を実施し、犬を飼っている子のはうがそうでない子よりも、より
共感的で向社会的であることを報告している。Poresky(1996)は、単にペットを飼うだけでな
く、ペットとして飼育している動物と愛着関係を結ぶことが大切であり、ペット動物との「絆」
は、幼児の知力、活動力、社会性の発達に良い影響を及ぼすことを明らかにした。さらに、動物
に対する暴力と人間に対する暴力には同じメカニズムが働いていることを指摘する声もある
(Pgani,2000)。近年では、動物との触れ合いがもたらす効果を利用して、動物介在療法や老
人ホームなどへの訪問活動、動物介在教育などが行われるようになってきている(Garrity,
Stallones,Marx,&Johnson,1989;Limond.Bradshaw,&Cormack,1997;槙山,1996)。
人と動物の関係への関心、の高まりとともに、教育や医療の現場で活用される動物種は広がりをみ
せ、イヌやネコギけでなく、ウマやイルカをはじめとしてさまざまな生物との交流が紹介されて
いる(Nathanson,1998;津田,1997)。ただし、理科教育の教材としての利用以外に、人と虫
の関係が取り上げられることはまずない。
以上、現代社会における「人と動物の関係」を扱った研究では、動物との情緒的な結びつきが
人間の発達にプラスの影響を及ぼすことを示している。人と動物の絆を扱った一連の研究昼、人々
が素朴に感じてきた動物との触れ合いの効果を客観的に評価し、人と動物の関係を肯定的に捉え
直すことに重大な貢献をしてきたといえるだろう。
また、「人と動物の絆」の研究は、従来、科学的教育の名のもとに否定されがちであった動物
に対する感情移入的な態度が、人間発達にもたらす意味を改めて見直すきっかけとしても重要で
あったといえるであろう(Eisenberg,1988)。例えば、藤崎(2004a)は、幼稚園で行われてい
るウサギの飼育活動を観察し、ウサギに感情移入して擬人的に関わる態度と、適切な生物学的知
識は並存可能であることを指摘している。また、生物学者から提唱されたバイオフイリア仮説
(Biophilia)が、近年注目を集め始めている(Wilson,1984/1994)。バイオフイリアとは、他の
生命に関心を抱く人間の内的傾向であり、生命に対する人間の情緒的な結びつきを進化論的な観
点から捉えようとするものである。バイオフイリア仮説が提唱するように、今後は人と動物との
関係を、知的および情緒的側面から総合的に理解していくことが必要となってくるだろう。その
上で、科学的な知的認識と、動物に対する感情移入的・擬人的な態度が、どのように個人や社会
の中で存在しているのか、その力動的関係を捉えることが必要であろう。
3)人と動物の関係を扱った研究の今後の課題
以上では、知的認識の側面に限らず、絆というような情緒的な側面も包含した形で人と動物の
関係を捉えていくことの重要性を述べた。ここではさらに、現代社会における「人と動物の関係」
を扱った研究(心理福祉領域)をとりあげ、これまで見落とされがちだった課題を2つあげたい。
1つは、人と動物の関係の負ともいえる側面である。現代社会における「人と動物との関係」
を扱った研究では特に、「絆」という言葉にあらわれるように、主にペット動物などの愛玩動物
と人間との情緒的な交流の重要性について注目されてきた。だが、歴史文化的な研究が示すよう
に、ペット動物は、人と動物の多種多様な関わりからみれば、特殊な一形態であると言えるだろ
う。イヌやネコなどの小動物が、ペットとして人間文化に根付いたのは、わずかに1万年前ほど
であり、それ以前の数百万年にわたる人類の歴史において、動物は食料であり、人間の命を危険
にさらす敵であり、利用可能な素材であり、時にはわずらわしい存在でもあった。人と動物の関
係は、決して「絆」という言葉に表されるような美しいつながりだけではないのである。
Bryant(1990)が指摘するように、ペット動物を飼う際にも、ペットとの絆がもたらす利点
と共に、ペットとの死別による傷つきや、ペットからの拒絶によって引き起こされる苦痛なども
見過ごすことのできない大きな問題である。またBeck,&Kactcher(1996/2002)は、イヌが
示す飼い主への愛情や忠誠心は、時として軽蔑の対象となり、イヌという言葉は、「Shit−eating
dog(くだらないやつ)」などと、他人を侮辱する言葉となることを指摘している。ペット動物
に限らす、人間が他の動物に対して抱く様々な感情、例えば、愛情、あこがれ、畏敬の念や恐怖、
嫌悪感さらには残虐的な行為(異常なものだけでなく、自然に起こり得る範囲も含めて)なども
含めた総体として人間の動物理解を探っていくことが必要であろう。その上で、動物嫌いや動物
への恐怖\嫌悪、無関心といった感情が発達の過程でどのようにして生まれてくるのか、その発
生メカニズムの解明が必要となってくるだろう。
藤崎(2003)は、5∼6歳の幼稚園児にウサギとオンブバッタの写真を見せ、それらを好きか
どうか尋ねた。その結果、年長児の実に85%がウサギを好きだと回答した一方で、オンプバッタ
を好きだと回答した子どもは56%に止まった。中には、バッタを見て「怖い」「気持ち悪い」と
回答した子も見られた。この一例からも示されるように、虫は、ウサギなどの哺乳類と比べて多
様な感情を引き出しやすく、極端に好かれたり嫌われたりする。また、害虫、益虫という言葉が
端的に示すように、社会においても、虫は欠くことのできない貴重な存在であると同時に、わず
らわしい存在でもあるという二面性を色濃く持つ。さらに、同じ幼稚園で過ごしていても、幼稚
園に生息する多くの虫たちの存在をよく知っている子もいれば、アリすら見たことがないと回答
する子どもたちもいるように、虫への興味のあり方は両極端である(藤崎,2004b)。今後、虫を
題材とすることで、人間が自然生命体に対して抱くより多彩な感情を浮き彫りすることができる
かもしれない。また、虫への関心は、自然そのものに対する関心の度合いを測る1つのバロメー
タとしても有効かもしれない。
現代社会における「人と動物の関係」を扱った研究の2つ目の課題として、多くの場合、ペッ
ト動物や家畜動物(それを脅かす存在としての野生動物)など、いわば人間文化の一員としての
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動物に関心が集まってきたことをあげることができる。
山内(2005)は、文化人類学の立場からタブーについて論じ、ペット動物は自然と文化の境界
を超えて人間カテゴリーの奥深くに浸透したがゆえに、食肉の対象から除外されたと論じている。
養老(1989)は、都市化された社会とは、『建築物であれ、道路であれ、街路樹であれ、室内の
種々の設備であれ、すべてはヒトの脳が作り出し、あるいは配置したものである』と指摘する。
都市の人々は、自分の脳が予測することができ、コントロールすることができることのみに現実
性を見出し、脳が生み出した産物により重きをおく。都市に生息する自然生命体が、害獣や害虫
のレッテルを貼られて駆除の対象となる背景には、人間の意図を超えた存在を徹底的に排除しよ
うとする都市型人間の認識スタイルが影響しているのかもしれない。その一方で、人間の脳の産
物ともいえるペット動物や家畜動物は人間社会の内側へと組み込まれていく。このような現状を
踏まえると、イヌやネコなどのペット動物や、ウマやブタ、ニワトリなどの家畜動物と人間との
関わりは、人間の動物理解の一端に過ぎないことが理解できるだろう。
矢野(2002)は、人間社会の中に動物を回収し、人間になぞらえて彼らを理解するだけではな
く、人間以外の世界へと開かれるような動物との出会いこそが、人間の成長には必要であると論
じている。人の脳が生み出した都市社会に回収された動物(ペット動物や家畜動物)だけでなく、
人のコントロールを超えて存在する異質な他者との出会いがもたらす発達的意味を改めて問うこ
とは今後の重要な課題となるだろう。そのためには、現代、人々の意識から排除され、見落とさ
れがちな動物も含めて、人間と動物との関わりの全体的な地図を描く必要がある。
では、都市で暮らす私たちの身の回りには、人間文化に組み込まれない自然生命体との出会い
はあるのだろうか。その代表が虫であろう。虫は、都会においてさえも人間の支配を超えて存在
しつづけている。虫との出会いは、人間社会の外側へとつながる異質な他者との出会いなのであ
る。
3.人と虫の関係を問い直す
以上、人と動物の関係にまっわる従来の研究を整理した上で、現時点ではまだ「虫」に関する
研究が極めて少なく、ほとんど「人と虫との関係」については触れられてこなかったことを指摘
した。特に、生物概念の個体発生的研究(2章1節)と、現代社会における人と動物の関係(2
章2節)、2つの研究領域でそれは顕著であった。つまり、現代を生きる私たちが、虫たちをど
う理解し、成長の過程で虫たちとどのように関わっているのか、そのことを調べた研究はまだま
だ少ないというのが現状なのである。よって、3章では、数少ない「虫」に関する研究を紹介し
つつ、子どもたちが虫と交流することの発達的意義について論じたい。そこでまず、3章1節に
おいて、他の動物と比較して、虫と人との関わりが持っユニークさを指摘し、その上で3章2節
では現代を生きる子どもたちに焦点をあてて、虫との関わりを研究する意義と、今後の方向性に
ついて論じたい。
1)人と虫の関わりを問う意義
ここでは、他の動物(特にこれまで研究の対象となってきたペット動物)と比較して、虫と人
との関わりが持っユニークさを、生物学的な側面と文化的な側面の2つの方向から議論し、「人
と虫の関係」を研究する意義を整理したい。
まず、虫は人間との関係において、生物学的に実にユニークな存在である。昆虫は人類が生ま
れる遥か以前、約4億万年前に出現し、以降人間とは全く異なる論理で地球上に繁栄を極めてい
る。その圧倒的な数、極度に軽量化された精緻な仕組みは、高度に脳を複雑化し、知能化を図っ
た人間とは対極的な存在である。また、その小ささは人間が日常に意識できる最小の生命である
という特徴を持っ。このような特徴は、イヌやネコなどのペット動物など、人間と近しく、親し
みを持って感じられる哺乳動物とは異質な存在である。ある意味、人間と対極的な存在であるか
らこそ、虫とのつきあいは、私たち人間の自然や生命に対する認識の輪郭をするどく切り取るの
に好都合なのではないだろうか。
また、2章2節でも述べたように、虫という存在ほど、人間を魅了すると同時に嫌悪感をも抱
かせるという両義性を色濃く持っている生命体は他にいないであろう。すなわち、ペット動物や
審美的な野生動物など、保護し愛情を持って接することが強調される生命体とは異なり、時には
いともたやすく叩き潰される存在だからこそ、意識的もしくは無意識に人々が抱く生命観(動物
観)をより包括的に理解する可能性を秘めていると考えられる。
さらに、虫は都会においてもたくましく生息している自然生命体である。コンクリートやアス
ファルトで固められた都会でも、虫たちは人間文化に完全に組み込まれること無く、その過酷な
環境を利用して独自の生態系を織りなしているのである。ゴキブリなどは誰でも思いっく代表的
な都会の虫である。その他にも、ヤマトシジミなどのチョウチョも都市に適応して繁殖している
代表的な虫である(田中,2000)。セミも、都会の中においてさえ、その大きな声で存在を主張
する夏の風物詩である。このように、都会で生きる虫たちは、人工的な都市環境で出会うことの
できる数少ない人間社会の外側へとつながる他者である。虫との関わりは、ペット動物との関わ
りの中では薄らいでしまった、人間のコントロールを超えた異質な他者との出会いの意味を改め
て知る手がかりとしても重要であろう。
一方で、虫という存在は、生物学的に興味をそそられるだけでなく、文化的存在としても実に
ユニークな地位を占める。古来日本人は、虫を愛でる独自の文化を持っていた。秋鳴く虫や蝉の
声に対する独特の思い入れは極めて日本的な感情である(笠井,1997)。また、赤とんぼが飛ぶ
里山の風景などは、日本人の心の原風景として多くの人に共有されてきたものであろう。虫を抜
きにして、日本人の動物観を語ることはできない。
もちろん、西欧社会においても虫は興味の対象であった。だが、西洋的な興味は、主として博
物学的な知的対象としての意味合いが強く、虫の声や姿に対する情緒的な反応は、東アジアに特
有の文化であると指摘する声は多い。中国では、ひょうたんの中にキリギリスなどを入れて持ち
歩き、その声色を楽しむ風習がある(周,1995)。韓国でも、トンボは親近感のある昆虫であり、
平和の精霊として認められてきたという(鄭,2004)。東洋ではセミやチョウは縁起のよい虫と
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して、絵画や工芸品のモチーフとして多用されている(林,2000)。だが、なんと言っても、日
本における虫文化は多彩であることは、多くの人が指摘するところである(笠井,1997;上田,
2004;小西,1993)。
かつて、日本は秋津(トンボの古称)と呼ばれたほど、トンボの種類も多い。日本書紀には、
神武天皇が大和の土地を見て「トンボが交尾している姿のようだ」と言ったと記されている(小
西,1993)。このエピソードは、トンボという虫が日本人にとって実に身近な存在であり、豊穣
のシンボルとしていかに深く人々の心に刻まれていたのかを物語っているといえるだろう。トン
ボに限らず、キリギリスやスズムシ、コオロギなどの直週目の昆虫は、秋の風情とともに多くの
歌に詠まれてきた(松浦,1989)。夏の終わりに鳴くツクックホウシの声に、「つくづくおしい」
と物悲しさを重ねるなど、人々は小さな虫の声にも心を読みとってきたのである(笠井,1997)。
さらに、稲につく害虫として殺傷した虫に対しても村を上げて虫供養を行うなど、まさに一寸の
虫にも命があることを意識する文化が存在している(横尾,2004b)。
このようなちっぽけな虫に対する独特の感性は、森を守り里山というシステムの中で自然と人
間社会とを行き来してきた農業形態が生み出したものかもしれない。また、革木魚虫と人間とを
連続する同じ世界の住人として見っめるアニミズム的感性が生み出したものかもしれない。果た
して、このような虫に対する感性は、現代を生きる私たちの中にも息づいているのだろうか。次
節では、現代を生きる子どもたちにとっての虫と関わることの意味について考えてみたい。
2)子どもたちの発達過程における虫との交流の教育的意義
子どもたちにとって、虫は格好の遊び相手である。麦藁帽子をかぶり、捕虫網を手にして山の
中をかけまわる子どもの姿は、もっとも夏らしい風景の一つである。ジョロウグモを棒の上で戦
わせたり、カブトムシの角に紐をつけて荷物を運ばせたり、カナプンに糸をくくりつけて飛ばし
たりと、日本各地には、虫をめぐる多種多様な遊びが伝承されている。肥後などでは、アリジゴ
クを砂の巣からすくいあげてつかまえて地面におくと、「ごんじょ ごんじょ ごんと起きれ」
とはやしながら地面を叩き、アリジゴクがはさみを上に上げて動く様を楽しむ遊びがある(乙益,
1993)。
数ある虫遊びの中でも、トンボにまつわる遊びはバラエティに富んでいる。横尾(2004a)に
よると、『トンボは呼ばれ方や遊ばれ方において抜群の幅を要しており、雌雄や生態の観察、そ
れを歌いこんでいく際のストーリイ性の豊かさは追随を許さない』という。現在でも「トンボの
めがね」の歌は有名であるが、トンボを騙したり陳したり煽てたり椰輸したり、あらゆる文言を
並べ立てることは、古くから子どもたちの遊びの1つとなっているそうである。
では、現代の子どもたちは、日常的にどの程度虫と触れ合っているのだろうか。また、古くか
ら伝えられてきたような虫をめぐる多様な遊びは今の子どもたちにも継承されているのだろうか。
虫をめぐる子どもたちの活動の今日的風景を明らかにしてゆくことは、日本人の心にある自然観・
生命観の継承・喪失・変化を調べていく上でも大切であろう。藤崎(2002)は、幼稚園の自由遊
びの時間に行われている「虫捕りあそび」の様子を観察した。その結果、子どもたちは、小さな
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虫の存在を契機として、虫を追いかけたり、待ち伏せしたり、捕まえたり、飼育したり、「地獄」
と称した迷路にバッタを入れて実験したりと多様な活動を創造することが明らかになった。また、
虫捕り遊びを通じて、仲間と相談したり、協力したり、虫を分配したり、見せびらかしたりと実
に豊かなコミュニケーションを行っていた。さらに、虫をめぐる活動の中で、虫の分類が行われ
たり、虫の食べ物や繁殖方法、生息場所などに関する生態学的理解への言及が見られた。幼稚園
では動植物に関する知識を体系立てて子どもたちに学ばせることはしない。しかし、虫捕りあそ
びを通して子どもたちが学ぶことは実に多いといえるだろう。
今日、都市で出会える動物は少ない。それでも、虫の持っ圧倒的な多様性は、子どもたちが興
味を持って探求すべき奥行きと広がりをまだ備えている。幼稚園の敷地の中に限っても、少しの
草むらと水さえあれば、数十種類の虫が存在できる。何よりも虫の小ささは、子どもたちが直に
触って手元でいじれるという手軽さがある。大人の助けを借りずに、子どもたち自身の手持ちの
知恵や身体能力を駆使して挑むことのできる相手だからこそ、虫捕りを通して得られる喜びは大
きいだろう。子どもたちが虫との出会いの中で学ぶことの一つ一つを明らかにしていくことは今
後の重要な課題である。
また、興味深いことに、数々の虫遊びの中には、時として残酷とも言える遊びが存在する。例
えば、トンボの腹部を糸で縛り、それを振り回したり、弱ったトンボをアリの行列の中に置き、
「アリのオジサン、アリのオバサン、サァサァ皆一緒においで、トンボのお肉をお上がり」など
と言いながらアリがトンボを運んでいくのを楽しむなどである(朱,2004)。麻生・藤崎(2005)
は、幼稚園での実態観察に基づいて、子どもたちの虫遊びを記述した。その中で、片端からアリ
を踏み潰したり、アリをちぎって砂に混ぜてアリご飯をつくったりするエピソードが報告されて
いる。子どもたちは、虫をかわいがっ‘たとしても、いとも簡単に殺してしまうのである。多くの
子どもたちは虫に興味を持ち遊んでいるうちに死なせてしまう。故意にいたぶって殺すこともあ
る。虫との出会いの中には多くの死が存在しているのである。
では、虫をいたぶることと、ウサギなどの小動物やペット動物などをいたぶる行為とは、同じ
ように考えてよいのだろうか。ペット動物の死とはまさに、悲しむべき痛ましい死であり、時と
して親しい人間の死にも匹敵するような重大性をもっ(Brown.Richards&Wilson,1996)。
人間に近しく、同じ赤い血を流す動物であり、文化的にもいたわり、慈しむことが強調されるペッ
ト動物と、表情なく無数にうごめく虫の命で遊ぶことは、ある程度分けて考える必要があるので
はないだろうか。その上で、虫の命で遊ぶことがもたらす発達的意味を考えてゆくことが大切で
あろう。子どもたちは、小さな虫の存在に命や心を感じるからこそ、かわいがりもすれば、怖が
りもし、時には追いっめていたぶりもする。そして、1匹、1匹の個々の虫たちはもろくも死ん
でしまう。虫とは、私たちが実感できる「生命一非生命」の境界にあるからこそ、「命とは何か」
という問いを私たちにつきつけてくる貴重な存在なのかもしれない。死とは何か、生命とは何か
を学ぶ上で果たす、虫の命で遊ぶ意味をもう一度考えてみることが必要なのではないだろうか。
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4.最後に
本論文では、人と動物との関係を扱う諸研究の概観を行い、今後の課題を探った。その上で、
「虫」という存在が持つ生物学的、文化的な特異性を指摘し、虫との交流が人間の発達にとって
もたらす意味を解明していくことの必要性を論じた。
今日では、カブトムシやクワガタムシなどが養殖されてデノ1−トで売られるなど、一部の虫の
家畜化が進んでいる(スズムシなどは元禄のころから売られていた:松浦,1989)。これは、蜂
蜜や絹糸を得るためのミツバチやカイコの飼育とは異なり、ペットとしての虫の登場を示唆して
いる。さらに、子どもたちの間ではムシキングゲーム(カブトムシやクワガタムシなどが登場し
て闘うゲーム)が流行し、実際にカブトムシを捕まえた実体験も無いままに、ヘラクレスオオカ
ブトやコーカサスオオカブトなど、外国産の甲虫の知識を豊富にもっ子どもも存在する。私たち
を取り巻く昆虫事情も刻々と変化しているのである。
ペットとなった虫しか知らずに育っ子どもたちの自然観や生命観とは、どのようなものなのだ
ろうか。さらに将来的には、ペットロボットなどの擬似生命体しか知らずに育つ子どもたちも出
てくるかもしれない。果たして、自然生命体との交流の喪失や変化は、私たち人間の育ちにどの
ように影響を及ぼすのであろうか。このような問いに答えていく上でも、「虫」と交流すること
の意味をあらためて捉え直し、自然生命体との交流がもたらす発達的意味を明らかにしていく必
要があるだろう。
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謝辞
本論文の執筆にあたり、発達心理学の立場からご助言をいただきました、麻生武教授(奈良女子大学大学院)
に深く感謝申し上げます。
脚注
1本論文では、「自然観」は、物理的・生命的自然を包含する概念として使用している。「生命観」は自然
観の中でも生命に焦点をあてたものであり、「動物観」はさらに生命の中でも動物のみを対象とした概念
である。よって、「動物観」を調べることは、おのずと自然観や生命観の一端を明らかにすることにつな
がっている。
2 日本語の虫の概念は、昆虫のみならず、人間、鳥獣、魚貝以外の動物一般を含んでいる。本論文でも、
虫を昆虫だけに限定せずに広義に捉えていきたいので「虫」と漢字で表記した。
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