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EUの緊急展開軍創設構想と米国の対応 - 防衛省防衛研究所

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EUの緊急展開軍創設構想と米国の対応 - 防衛省防衛研究所
EUとNATO
−EUの緊急展開軍創設構想と米国の対応−
金 子 讓
序言
後の時代にヨーロッパの安全保障問題を顧みるならば、1998年12月は米欧の関係に新たな局
面が拓かれた、ひとつの時代の分水嶺として想起されることになるのかも知れない。冷戦の時
代を通じ、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)を介して強固な
共同防衛体制を築き上げた米国とヨーロッパが、冷戦後の伝統的な軍事領域の縮小と対照的に、
新たな軍事ミッションとして登場した危機管理(crisis management)活動を巡って引き起こし
た論争を契機に、相異なる方途を指し示す兆しを見せ始めたからである。
98年12月初旬、北大西洋理事会(North Atlantic Council: NAC、NATOの最高意思決定会議)
の開催を間近に控えてサン・マロに集った英仏首脳は「欧州防衛に関する共同宣言1」を発表
し、欧州連合(European Union: EU)に独自の軍事機能を付与する意向を表明するとともに、
3万人を超える規模の緊急展開軍の創設に同意した。また、この共同宣言の中で、両国首脳は、
EUがその国際的地位に見合う役割を果たしてゆくために、英仏が供出する部隊を中核に据え、
97年10月にマーストリヒト条約を改訂して採択されたアムステルダム条約において強化の方針
が打ち出された共通の外交・安保政策(Common Foreign and Security Policy: CFSP)の履行、
とりわけ、EUに共通の防衛政策(Common Defence Policy: CDP)を遂行する能力を強化し
てゆく意向を表明した。加えて、この宣言には、緊急展開軍が想定する危機管理活動の遂行に
当たってはNATO(つまり米国)との調和を図ることが不可欠と明言される一方、NATOが関与
しない場合を想定することの重要性が盛り込まれたのである。
この英仏の共同宣言には二つの重要な意味が含まれていた。第一は、この緊急展開軍の性格
に係わっている。すなわち、この部隊はその名が示す通り、嘗ての欧州防衛共同体(European
Defence Community: EDC)が企図したような常設軍2ではなく、従って、そのミッションも軍
Joint Declaration issued at the British-French Summit, Saint-Malo, France, 3-4 December 1998.
1
2
50年6月の朝鮮戦争の勃発に接し、これを共産主義膨張の明確な証しと評価した北大西洋条約調印諸
国は、統合軍事機構の整備に着手すると同時に、対ソ戦力の劣勢状態を早急に改善する必要に迫られた。
このような状況の下で、米国国務長官アチソン(Dean Acheson)は駐留米軍の増派と引き換えに、当時、
敗戦の責を負う形で非武装状態に置かれていた西独の再武装を提案した。だが、戦後間もないこの時期、
ナチス・ドイツの亡霊の復活を恐れる西欧諸国がこの米国案を呑むことはできなかった。反面、戦後の疲
『防衛研究所紀要』第4巻第1号(2001
22
年8月)22 ∼ 39 頁。
金子 EUとNATO
が本来的に負う領域防衛ではなく、人道・救難活動や平和維持活動、あるいは、危機管理を目
的とする戦闘行動といった限定的なニュアンスを含んでいた3。ところが、その設立母体である
西欧同盟(Western European Union: WEU)の起源が、領域防衛を目指して48年3月に調印
されたブリュッセル条約に遡るために、条約の規定上、N A T O とのミッションが重複
(duplication)する恐れが生じたのである。あるいは、危機管理を巡るEU諸国の共同軍事活
動と訓練の蓄積が、長期的には、駐欧米軍の撤退をも射程に収めたヨーロッパ独自の常設軍の
創設に先鞭を付ける可能性も無視できなくなったのである。第二は、後述する統連合作戦部隊
(Combined and Joint Task Force: CJTF)創設の合意を通じ、一度はこの種の活動の遂行に
際してNATO(つまり米国)の軍事資材を活用することに合意したはずのヨーロッパ諸国が、英
仏による緊急展開軍の創設構想の発表と爾後のEUによる部隊創設の正式承認を契機に、独自
の装備調達の道を模索し始めたことである。英仏共同宣言の中に、EUが国際的な危機に対処
するためには充分な軍事力やその即応性に裏打ちされた自律的な行動を採る能力を涵養すると
ともに、それを支えるEU諸国間の結束が必須であると謳われたことが、これを示唆していた。
CJTFにおいては、十分な戦力を持たないヨーロッパ諸国が米国の関与しない独自の軍事作戦を
展開する際には、NATOの保有する軍事資材の提供を受けることが定められていた。同時に、そ
の代償として、この意思決定過程に米国を始めとする他のNATO諸国が介在することが制度的に
組み込まれていた。その意味で、ヨーロッパは明らかに方針を転換したのである。湾岸戦争や
旧ユーゴ紛争への介入に際し、米国の後塵を拝することによって味わった苦汁の払拭と、自律
性(ヨーロピアン・アイデンティティ)発揮への希求とが相俟って、ヨーロッパはCJTFの頚木
からの脱却を目指したのである。だが、これによってヨーロッパ独自の兵器調達が一朝にして
弊に喘ぐ西欧諸国にとって、NATO戦力の強化を迅速に図る有効な方策を見出すことも難しかった。その
結果、西独の再武装を不可避と判断したフランス首相プレヴァン(Rene Pleven)は、西欧各国の持ち寄
る軍を大隊(battalion)単位に分割し、これを統合した欧州軍を創設する意向を発表した。欧州国防相の
一元的な管理下に置かれるために、超国家的な性格を有することになるこの欧州軍は、海・空軍も含まれ
たが、陸軍については50個師団を上回る規模のヨーロッパ独自の常設軍となるはずであった。同時に、
各国が独自の参謀部を設けられないために、再武装を許される西独もまた新たな脅威とはなり得なかっ
た。この構想は後にNATOとの調整が図られ、また、その過程で各国軍の構成単位も師団を連想させる規
模へと修正されたが、それ自体は、超国家的な欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel
Community: ECSC)の軍事版とも言えるものであった。事実、この構想に沿って52年5月にEDC条約が
調印されると、51年4月に誕生したECSCと合体し、欧州政治共同体(European Political Community:
EPC)を創設する方向が打ち出されたのである。そして、これが実現すれば、今日のヨーロッパ統合は全
く異なる様相を呈することになったに違いない。ところが、国内の政治混乱を背景に、54年8月にフラン
ス国民議会がEDC条約の批准を拒否すると、統合欧州軍創設の夢も、また、政治統合の理想も一挙に潰え
たのである。EDCの生成と崩壊については、Major-General Edward Fursdon, The European Defence
Community: A History (London: Macmillan Press, 1980)を参照。
3
この活動領域の規定は92年6月に西欧同盟の外相・国防相合同会議が採択したピータースバーグ・
ミッション(Petersberg Mission)に基づくが、後述するように、EUもこれを踏襲している。
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達成されるとは思われなかった。また、長期的にもこれが可能か否か分からなかった。
他方、同じ98年12月、英仏が共同宣言を発表した数日後にブリュッセルのNATO本部で開催
された北大西洋理事会の席上、米国国務長官オルブライト(Madeleine K. Albright)は、新規
加盟国を迎えて99年4月にワシントンで開催する首脳会議の場でNATOとしての意思統一を図
るべき7つの課題を提起するとともに、とりわけ、大量破壊兵器の拡散や民族・地域紛争といっ
た多様化する脅威への対応を新たなミッションに据えるべきことを提起した4。NATOによるコ
ソボへの軍事介入が囁かれ始めた時期と符合して行われたこの提案は、恰も、冷戦終焉直後に
世界が抱いた国連への過剰な期待が冷めるのに従い、あるいは、米国の強引な姿勢に対する反
発が増すにつれて、迅速な紛争処理を難しくし始めた国連安全保障理事会に代わり、米国が同
盟諸国の力を結集してこうした問題に対処する方向を示唆したように思われた。
同時に、ここに示された米国の意図を米欧関係の文脈に置き換えて探れば、また別の微妙な
ニュアンスも含まれていた。第一は、世界の警察官としての役割こそ放棄したものの、冷戦後
の世界においても依然そのリーダーを自認する米国にとって、NATOは米国がヨーロッパ政治へ
の関与を継続する重要な装置であった点である。それ故、北大西洋条約に規定されていない域
外(out-of-area)ミッションである危機管理活動を正規のNATOの役割と位置づけることによっ
て、EUではなく、NATOの「優先権」を確保しようと試みたのである。第二は、NATOが保持
する強力な軍事力を背景に、ヨーロッパの枠外へもこうした活動範囲を拡大しようと企図した
ことが挙げられよう。大量破壊兵器の拡散防止の観点からはイラクなどが対象に据えられよう
し、いずれにせよ、この措置がヨーロッパ地域を超え、米国の国益に合致する形で中東やアフ
リカへも敷延されることが含意されていたのである。第三は、世界のリーダーを自認するもの
の、人的、物的側面からも、あるいは、行為の正当性を確保するためにも、米国が独力でこう
したミッションを履行することに躊躇したことが指摘できよう。そして、この意味でも自らが
盟主を務めるNATOは不可欠な組織だったのである。けれども、国益や国力の観点に照らして見
れば、こうした米国の方針がヨーロッパ諸国に容易に受け入れられるとは思われなかった。
このように98年12月は、冷戦の終焉を境に従前の米欧の安全保障の紐帯が稀薄化する中で、
EUを軸に統合の度を深めるヨーロッパ諸国とNATOを重視する米国が、新たな軍事ミッション
として浮上した危機管理活動を巡る主導権争いを表面化させたばかりでなく、米欧安全保障関
係そのものの変質を予兆することになったのである。そこで、本稿は、冷戦の終焉とともに必
このオルブライト演説については、Secretary of State Madeleine K. Albright Statement to the North
Atlantic Council (Brussels, Belgium, December 8, 1998) を参照。この中の掲げられた7つの課題とは、
(1)NATOの将来の役割と目的の明示、(2)戦略概念の更新(遠隔地から齎される脅威への対処、条約第5
条に規定される集団的自衛権と新たなミッションとして浮上している危機管理機能のバランスの問題)、
(3)拡大の継続、(4)防衛力の整備、(5)大量破壊兵器が齎す脅威への注意喚起、(6)ESDIに向けた米欧の協
働、(7)ヨーロッパに位置するパートナー諸国との関係強化、である。
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金子 EUとNATO
然化した同盟の変質を背景に、米欧に溝が生じた危機管理活動について、その経緯を辿るとと
もに、この争点が米欧の安全保障関係の行方に齎す波紋を交えながら、将来の展望を試みるこ
とにしよう。
1 EUの誕生からCJTFの創設へ
91年5月末、NATO国防相会議(防衛計画委員会〔Defence Planning Committee: DPC〕と
核計画部会〔Nuclear Planning Group: NPG〕の合同会議)が開催された。90年10月のドイツ
統一によって、冷戦期にNATOが構築した前方防衛 (forward defense)態勢は既にその意味を失っ
ていた。また、冷戦の終焉によって生まれた時代感覚の変化と、否、それ以上に重要な欧州通
常戦力(Conventional Armed Forces in Europe: CFE)条約の調印が齎した軍事デタントの昂
進への確信によって、ソ連を始めとする嘗ての東側諸国が再び軍事脅威の源泉となる危険も大
幅に減退した。その結果、この会議は主力防衛部隊(main defence force)、即応部隊(reaction
force)、増援部隊(augmentation force)の三種の戦力で構成する戦力再編構想を呈示したの
である。
1個当たり5∼7万人規模の7個軍団が想定された主力防衛部隊は、旧東独部に展開される
単独の1個ドイツ軍団を例外に、各国毎の師団を単位に多国籍軍団化されるとともに、域内へ
の分散配備が予定されていた。こうした機動力を重視した多国籍軍団を創設する構想は、冷戦
後のNATO諸国がナショナリズムへと回帰する危険を予め封ずるといった肯定的な意味合いを含
んでおり、第5軍団を擁する米国がこれを師団に分割し、ドイツとの合同軍団の創設に当たっ
たことがこれを裏書きしていた。また、戦闘単位としての軍団を重視してきたはずの米国が多
国籍軍団化を受け入れたことは、CFE条約の調印と相俟って、米国がヨーロッパでの戦闘を想
定していないとの意思をソ連に伝える有効な手立てとなったのである5。
これに対し、即応部隊は、凡そ72時間のうちに態勢を整える1個旅団規模の即時展開部隊
(immediate reaction force)と、5∼7日で作戦を可能とする5∼7万人規模の1個多国籍軍
団で構成される緊急即応部隊(rapid reaction force)に二分された。また、増援部隊について
は規模こそ明らかにされなかったものの、概ね本土から派遣される米軍を充当することが合意
された。
ところで、こうして新設の決まった諸部隊のうち、特に緊急即応部隊はNATOの新しい姿を象
5
但し、現実に眼を向ければ、これはCFE条約の履行や、国防財源の確保に苦しむ各国が独自に進める
軍備縮小によって、単独で軍団を構築することのできない国家が現出する状況を回避するための措置でも
あった。
25
徴するものであった。東側からの脅威が消滅した以上、この部隊が域外リスクへの対処手段と
見做されたからであり、同時に、NATOが北大西洋条約に規定される共同防衛範囲の枠を逸脱す
る作戦行動に積極的に関与する姿勢が示されたからである。また、その指揮構造も興味深かっ
た。緊急即応部隊の指揮官には嘗ての英国ライン軍(British Army of the Rhine: BAOR)の
司令官を務めた英国人の就任が決まり、さらに、この部隊は米国人の指揮する欧州連合軍の麾
下に組み込まれることが定められていた。このように指揮系統を見れば、多国籍軍とは言え、
伝統的な英・米の「特別の関係」を具現しているように思われたのである。
こうしたNATOの動きに逸早く反応したのがフランスであった。91年10月、フランスはドイ
ツと共同で欧州共同体(European Community: EC)委員長に対し、WEU諸国の参加を前に
欧州軍団(Euro-corps)を創設する意向を表明した。この構想は、まず、NATOが先に呈示した
緊急展開軍構想への対抗といったニュアンスを色濃く反映していた。フランスは冷戦後のNATO
運営においても米英が支配的な地位に留まることを嫌ったのである。また同時に、この提案は、
ヨーロッパの自律性の獲得を目指し、統合の深化を図るマーストリヒト条約の調印を見込んだ
対応でもあった。
91年12月、オランダのマーストリヒトに集ったEC加盟12か国の首脳はローマ条約の改訂案を
採択し、EUの創設に合意した。既にこの時点において、92年末の市場統合の完成を予定して
いたECは、一層の経済・通貨統合を促進するために、94年1月には欧州通貨機構(European
Monetary Institute: EMI)を設置、さらに、99年1月までに単一通貨制度を導入することで大
筋の合意を達成した。第二次世界大戦の疲弊から立ち直り、ヨーロッパが着実な経済発展を遂
げるために努力を傾注したEC(また、その前身である欧州経済共同体〔European Economic
Community: EEC〕)は、冷戦後の国際秩序理念に据えられた市場民主主義の潮流に沿って、
まず経済面での統合の強化を図ったのである。そして、このような統合の深化を目指す過程は、
必然的に、加盟各国に固有の主権の一部(端的には金融政策)を制限する「政治化」の動きへ
と繋がっていった。
これと同時に、ECはもうひとつの「政治化」にも着手する。50年代半ばに欧州政治共同体
(EPC)構想が頓挫した後、その活動範囲を経済領域に限定してきたECが、このマーストリヒ
ト会議において、加盟諸国に共通の外交安保政策(CFSP)の策定、及び、共同行動を実施する
ための諸原則に合意するとともに、特に、安全保障に係わる共同行動の枠組みをWEUに求めた
からである。また同時に、この要請に応えて、WEUが、欧州独自の安全と防衛に主体的に関与
することを目的に、漸次、EUの一部としての役割を強化する一方、この努力を米国の主導する
NATOへの貢献の強化とも一致させる旨、表明したからである。西独の再武装承認とNATOへの
加盟に際し、ブリュッセル条約を改訂する形で誕生したWEUが既存のNATOとの関係に加え、
こうしてEUとの新たな関係を結んだことは、ヨーロッパにおける安全保障構造の重心が微妙に
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金子 EUとNATO
変化し始めたことを示唆した。既に冷戦時代の末期から浮上していた米欧の安全保障上の微妙
な利益の食い違いを背景に、84年10月には初の外相・国防相合同会議を開催し、ヨーロッパ独
自の安全保障利益の確保を表明する一方、87年10月には「欧州安全保障綱領6」を掲げて米国と
の距離を置いた安全保障の方途を探り始めたWEUが、NATOを介した米国との安全保障関係を
堅持する姿勢を示しながらも、将来の統合ヨーロッパを見据え、安全保障面での主体となるべ
く強固な意思を表明したのである。
こうして92年2月にマーストリヒト条約が調印されると、ヨーロッパは統合の深化の過程で
独自の軍事領域を獲得する道を歩み出したのである。ところが、ここに二つの問題があった。
ひとつは、新たに誕生したEUと、その軍事部門を担うべきWEUの構成国が一致していなかっ
たことであり、もうひとつは、WEUのミッションとNATOのそれとの関係が不明確だったこと
である。この問題を解消するため92年6月、ボン郊外でWEUの外相・国防相理事会が開催され
た。その結果、採択された綱領7には、直面する加盟国問題をクリアするために、オブザーバー
(observer:EUに加盟しているもののWEUに加盟していない諸国を対象とするもので、理事
会や作業部会に参加でき、また、そこでの発言権を持つが意思決定には参画できない)、協力
メンバー(associate member:NATOに加盟しているもののWEUに加盟しないトルコ、アイス
ランド、ノルウェーを対象とするもので、理事会や作業部会に参加できるが、発言権を持たな
い)の資格が設けられた。これとともに、加盟を希望する旧東側諸国に対しては協力パートナー
(associate partner)の資格を付与し、新設する協議フォーラムの中での大使・閣僚レベルの
意見表明を認めたのである。
これと並んで、もうひとつの課題がNATOとの共存の在り方であった。NATOとの無用な重複
は避けねばならなかったし、NATO重視を貫く米国をいたずらに刺激することも好ましくなかっ
た。そのためWEUはこの会議において、自らのミッションを人道・救難活動や平和維持活動、
あるいは、危機管理を目的とする戦闘行動と規定する一方、領域防衛についてはNATOに委ねる
方針を明示したのである。その結果、このWEUの役割は同会議の開催地に因んでピータース
バーグ・ミッションと呼ばれることになった。
こうして欧州統合に弾みがついた92年11月には欧州連合軍最高司令官と仏・独軍首脳の間で
協議が行われ、欧州有事(北大西洋条約第5及び6条に基づく領域防衛)の際には総ての作戦
をNATOが担当すること、他方、WEUについてはNATOの枠外での独自の人道支援や国連平和
維持・強化活動の遂行を可能とすることで、双方の合意が成立した。そしてさらに、マースト
リヒト条約が発効した93年11月、WEUが独自の作戦遂行能力の強化を目指し、NATOに対して
WEU Ministerial Council, Platform on European Security Interests (The Hague, 27 October 1987)
WEU Council of Ministers, Western European Union Council of Ministers Petersberg Declaration (Bonn,
6
7
19 June 1992)
27
指揮・通信施設の提供を申し入れると、これに呼応してベルギーやスペインも欧州軍団への参
加を表明したのである。
他方、米国にとって、安保・防衛面におけるヨーロッパの自律性の強化は、「(NATOの枠内
での)ヨーロッパ諸国の安保・防衛面での主体性(European Security and Defence Identity:
ESDI)」の発揮でなければならなかった8。だが、NATOの枠組みの外側で進むヨーロッパの統
合の動きを不可避と評価するならば、WEUの活動をNATOの枠内に留め置く何らかの措置を講
じねばならなかった。独自の軍事活動こそ標榜したものの、戦力面において米国への依存を避
けられないヨーロッパの現実が手掛かりとなるはずであった。
93年10月、NATOの東方への拡大の是非を審議するためにトラヴェミュンデで開催された
NATOの非公式国防相会議において、米国国防長官アスピン(Les Aspin)は、事前に欧州連合
軍最高司令官との間で行った秘密協議を受けて、CJTF創設の構想を呈示した9。この提案の骨子
は、CFSPを目的に米国抜きで実施されるWEUの作戦に際し、NATO(つまり米国)が自らの
軍事資材を提供することにあった。WEUが独自の作戦を展開するために、自前で指揮・通信シ
ステムなど新たな装備を整えることが軍事的にも財政的も不経済かつ不可能である以上、この
米国案は現実的であり妥当であった。こうして、94年1月にブリュッセルで開催されたNATO
首脳会議はCJTFの新設に合意した。そして、その後も細部の検討が続けられ、北大西洋理事会
がCJTFの作戦全般を指導すること、作戦自体はNATOとWEU双方の司令部が指揮するととも
に、NATO側についてはヨーロッパ人である欧州連合軍副司令官がその任に当たること、また、
WEUの作戦に際してはNATOの主要な指揮官が軍事資材の展開状況を監視すること、などの枠
組み合意が成立した96年6月、同理事会はCJTFの正式発足に合意したのである。
CJTFの創設は米国にとって極めて重要な意味を持っていた。第一に、94年1月の合意によっ
て、NATOが北大西洋条約によって制約される域外展開の道を、間接的ながらも、活動範囲を特
定しないWEUを介して拓くことになったからである。第二は、ヨーロッパの同盟諸国と協同し
て実施する域外ミッションに関し、米国が参画の意思を表明する限り、自らが盟主としての権
限を行使し易いNATOに優先権を付与することが、この合意によって暗黙裡に確認されることに
なったからである。第三は、上述の問題と絡むが、米国とWEUの双方が同時にこうした軍事作
8
ESDIは、マーストリヒト条約が発効した直後の93年12月に開催された北大西洋理事会のコミュニケに
おいて、NATOとWEUの相互補完関係(complementarity)の重要性を確認する文脈の中で初めて公式に
登場した言葉である。NATO、つまり、その盟主である米国は、経費や人的資源の面からは、ヨーロッパ
諸国がEUを軸とした独自の安保外交政策を進めることを歓迎する一方、こうしたヨーロッパ諸国の動き
をNATOの枠組みの中に留め置こうと企図したのである。Final Communique of the Ministerial Meeting of
the North Atlantic Council, 2 December 1993 (M-NAC-2(93)70) を参照。
9
CJTFの端緒を開いたアスピン提案については、 Speech by Mr. Rob de Wijk, Clingendael Institute
Netherlands, Colloquy on “the European Security and Defense Identity” (Madrid, 5 May 1998) を参照。
28
金子 EUとNATO
戦の必要を考慮した場合、この作戦を決定する手順(sequence)として、NATOの審議が優先
されるばかりでなく、WEUが米国と思惑を異にする作戦を行おうとする際にも、米国がその審
議過程に参画し、その意図や活動に事前に箍を嵌める上での制度的な保証(ある意味での拒否
権)を手にする可能性が生まれたからである。
2 アムステルダム条約の調印から緊急展開軍の創設へ
ところが、これで一応の決着を見たように思われたこの問題は、冒頭に示したように、98年
12月に英仏首脳が発表した緊急展開軍創設構想と、その直後に呈示された米国のNATO強化案
によって急転する。独自の軍事能力を強化することによって、CJTFを超えた裁量範囲の拡大を
狙うヨーロッパの思惑と、戦闘作戦を伴う危機管理活動をNATOの枠内に留め置きながらその範
囲を拡大しようとする米国の意図が、正面から衝突することになったのである。
はじめに、この間にヨーロッパで生じた変化について見てみよう。
97年6月、アムステルダムで開催されたEU首脳会議は、通貨統合後の財政安定化協定を採択
するとともに、93年11月に発効したマーストリヒト条約の見直し作業の成果に基づき、将来の
拡大方針やCFSPの強化方針を定めたアムステルダム条約を承認した。とりわけ、独自の外交・
安保政策を標榜するEUにとって、このCFSPを巡る合意は重要であった。まず、EU委員長の下
にCFSP上級代表(High Representative)ポストを新設し、さらにその下にその計画・立案を
担う政策企画・早期警戒ユニット(Policy Planning and Early Warning Unit)を設置するこ
とが決定された10。また、同条約発効後1年以内にWEUと協同し、両者の協力強化策を立案す
べきことが定められた。それとともに、改訂される条約には、WEUの採択したピータースバー
グ・ミッションを継承することが同意され、共通の防衛政策(CDP)の履行への意欲を示した
のである。
こうした措置と併行して、EUは意思決定方式の変更にも合意した。それまで主要な総ての案
件の合意を全会一致によって得ていたEUが、原理・原則に関する決定に関しては従前の方式を
踏襲する一方、C F S Pを始めとする個別の「政策」に係わる分野については特定多数決
(qualified majority voting)方式を導入することに同意したのである。それは、迅速な意思決
10
このユニットの役割は、CFSPの進展状況の監視・分析を行うこと、EUの外交・安保利益を評価して
CFSPの対象を特定すること、CFSPに重大な影響を齎す恐れのある事象や潜在的な政治危機を迅速に評
価して警告を発すること、理事会やEU委員長からの要請に基づき、あるいは自らの判断で、理事会に対
して事態への対処方法を示した文書を提出すること、と定められた。European Union, The Amsterdam
Treaty: a Comprehensive Guide を参照。
29
定を確保し、全会一致に伴う弊害を是正することを目的としていた。同時に、全会一致の体裁
を保つために、この会議は建設的棄権(constructive abstention)の併用にも同意した。すなわ
ち、各国は反対票ではなく棄権票を投ずることによって決定への不参加を選択できるが、決定
に賛成した他の国の行動を妨害してはならないとされたのである。その意味で、経済面での統
合が超国家機関の創設に繋がったのと対照的に、CFSPはなお国家間協力の色彩を色濃く残して
いたのである。
CFSPを巡るEU内部の体制作りが進み、その主体もWEUではなくEUに一元化する動きが急
速に進んでいた。アムステルダム条約の発効は99年5月まで待たねばならなかったが、一度弾
みの付いた統合の勢いが頓挫するとも思われなかった。98年10月下旬にはEUの非公首脳会議が
ウィーンで開催され、12月の英仏共同宣言に繋がる英国案が提示されていた。さらに11月初旬
には同じウィーンでEU初の国防相会議が非公式に開催されていた。
98年12月初旬の英仏首脳による「欧州防衛に関する共同宣言」は、このような情勢の変化を
反映していたのである。ところで、英国が行ったこの選択は明らかに従前の方針を逸脱するも
のであった。これまで米国との同盟関係(つまりNATO)を重視し、そのために仏・独の主導す
るWEUに対しても消極的な態度を示し続けてきた英国にとって、この宣言は、ブレア(Tony
Blair)労働党政府が統一通貨(ユーロ)への不参加によって後れを取った統合の主導権を回復
し、発言力を高めることと引き換えに、安全保障面でのヨーロッパ寄りの転換を図り始めたこ
とを示唆したからである。また、軍事面に着目すれば、フランスと並び、嘗ての植民地経営な
どを通じて国外での作戦展開の経験を持つ英国が、経済面での統合の推進役ではあるものの、
国連の平和維持活動を除けばある種の戦闘行動までも想定する作戦経験に乏しいドイツから、
統合の主導権を取り戻す格好の機会を提供したのである。このように、英仏の緊急展開軍創設
構想は、米欧関係の文脈だけでは計りきれない複雑なEU内政治を反映した側面も併せ持ってい
たのである11。
さて、ここでオルブライト提案に戻ることにしよう。既述したようにNATOを重視する米国に
とって、危機管理活動の優先権はNATOに付与されねばならず、それ故、EUが逸脱し始めた
CJTFの枠組みも遵守されねばならなかった。他方、危機管理活動の範囲の拡大と米国の突出を
11
ドイツではこうした英仏の動きに呼応するとともに、新たな時代の要請に則した連邦軍(Bundeswehr)
の再構築を目指し、99年5月、シャーピング(Rudolf Scharping )国防相の下に、ワイツゼッカー
(Richard von Weizsaecker) 前大統領を委員長とする諮問委員会(委員は合計18名)が設置された。当初、
同委員会は2000年9月を目処に検討結果を纏める予定であったが、99年12月にEUが2003年の緊急展開軍
創設に合意し、また、これに伴い、ドイツも2個乃至3個旅団(あるいは、同軍の5分の1の兵力)の拠
出を発表したために、さらには、2001会計年度の予算審議にこの問題を組み込む必要が生じたために、検
討作業が急がれることになった。こうして2000年5月下旬、同委員会は、10万人規模の兵力削減を始め
とする新たな戦力整備計画を答申したのである。これについては、"Defence reform in Germany: A likely
prospect?”, Strategic Comments, Vol. 6, Issue 4 (May 2000) を参照。
30
金子 EUとNATO
危惧するヨーロッパにとっては、これを抑える枠組みが必要であった。その意味で、99年4月
にNATOが採択した「戦略概念12」は両者の思惑が凝縮されたものとなった。ヨーロッパの意向
を反映して、この文書には、NATO自らが軍事作戦を含む危機管理活動に携わるか否かは、加盟
国が案件毎に審議するとともに、全会一致の合意を見た場合にのみ選択されること、また、そ
の際には(国連安全保障理事会の役割の優先を謳った)北大西洋条約第7条を遵守すべきこと、
が明記された。このように米国の期待とは裏腹にNATOとしての域外活動には一定の枠が嵌めら
れることになったのである。これに対し、米国は、この概念文書において、NATOの枠組みの中
でのESDIを支援するとともに、この目的に沿ってCJTFの強化を図ることを改めて念押しした。
米国は、CJTFの一方の当事者であるWEUがEUに取って代わられることによって従前の合意が
曖昧にされ、さらには、危機管理活動における決定手順としてのNATOの優先が反故にされるこ
とを警戒したのである。
3 98年12月の余波
だが、このNATO合意にもかかわらず、危機管理活動を巡る米欧の距離はさらに拡がってゆ
く。安保・防衛面においても自律化の道を希求するヨーロッパの動きを押し留めることはでき
なかった。
99年6月にケルンで開かれたEU首脳会議は、前月初めにアムステルダム条約が発効したこと
を受けて、WEUを解消し、EUに一元化してゆくための措置を2000年末までに決定することに
同意した。また、必要に応じて(外相)理事会の審議に国防相を参画させることに同意した外、
その軍事機能を強化するために、理事会の下に、各国の大使級レベルで構成される政治安全保
障委員会(Political and Security Committee: PSC)を設置し、さらに、これをその活動・監
視・分析・計画といった軍事面から輔弼することを目的に、各国の参謀総長クラスで組織する
軍事委員会(Military Committee: MC)を設けることにも合意した13。加えて、これらの常設
機関を支えるために、同じく常設の軍事スタッフ(Military Staff: MS)部門が設けられ、当面
は20名程度の軍事専門家と8名の文官事務官が、ピータースバーグ・ミッションの履行に要す
る早期警戒や情勢分析、さらには、各国戦力の供出目標を含む戦力計画の策定に当たることに
なった。これに先立ち5月末に開催された仏独首脳会談では、既存の欧州軍団を強化し、英仏
12
The Alliance’s Strategic Concept, Approved by the Heads of State and Government participating in the
meeting of the North Atlantic Council in Washington D.C. on 23rd and 24th April 1999.
13
Presidency Conclusions, Cologne European Council, 3&4 June 1999 (PRESS/99/1500 1999-06-09)に盛
られたPresidency Report on Strengthening of the Common European Policy on Security and Defence
の項を参照。
31
の呈示した緊急展開軍に融合させてゆくことが合意されていた。そして、こうした一連のEUの
決定が、将来に向け、NATOと類似する軍事機構をEU内部に創設する可能性を暗示すると、
NATOを主柱に据える米国の疑念をさらに増幅させることになったのである14。
99年10月にはNATO事務総長を退任したばかりのソラナ(Javier Solana)がCFSP上級代表
に就任した。東方への拡大やコソボ空爆などの重大な案件に直面し、NATOの顔として米欧の調
整に奔走した彼が、今度はEUの意向を受けて、NATOとの協力関係の構築に臨むことになった
のである。同時に、彼は、ヨーロッパ独自の軍事機構としての役割を担ってきたWEUの事務総
長をも兼ねることによって、その幕引き役をも担うことになった。
99年11月半ば、加盟諸国の国防相を交えて始まったEU外相理事会は、ヘルシンキで開催され
る翌月のサミットに向け、EUの防衛・安全保障政策の強化を目指した事前協議を行った。その
結果、EU主導の危機管理作戦を遂行するために必要な軍の創設、政治安全保障委員会と軍事委
員会の新設、NATOとの協力関係の強化、が主要な目標として掲げられた。これに呼応して、同
月下旬には、英仏がロンドンで首脳会談を開き、C3I能力や戦闘支援能力を備えたEU独自の
軍団レベル(5∼6万人規模)の緊急展開軍の創設を目指すことをヘルシンキ・サミットに諮
ることで合意に達する一方、上述の米国の懸念に配慮し、NATOが集団防衛の基盤に据えられる
べきこと、及び、危機管理面でもNATOが重要な役割を担い続けること、を共同宣言の中で確認
15
したのである 。
こうして99年12月10、11日にヘルシンキで開催されたEU首脳会議は、2003年末までに60日
以内の準備完了と1年以上に亘る作戦展開を可能とする1個軍団相当(5∼6万人)の緊急展
開部隊を創設する方針に同意した。また、常設の政治安全保障委員会と、必要に応じて政治・
安保委員会に軍事面での助言を与える軍事委員会を新設する意向を正式に表明するとともに、
これに向け2000年3月にその暫定組織を創る方向を明示した。加えて、NATOが関与しない場
合を想定し、国際危機に対処するためのEU主導の軍事作戦を遂行する自律的な能力を発展させ
る決意を示す一方、米国が危惧するNATOとの重複を避けるために、欧州軍(EuropeanArmy)
16
の創設を目指す意図のないことを言明したのである 。
他方、このEU首脳会議と並行して99年12月半ばにブリュッセルで開催された北大西洋理事会
14
この争点を巡り、NATOの優先を企図する米国が決定の手順に敏感になっている問題は、ケルンで開
催されたEU首脳会議のコミュニケの中に、これが全くこれが触れられなかったことに対して示された米
国の苛立ちからも、推し量ることができた。Michael Evans, “US insists on NATO priority over EU force,”
The Times, November 23 1999 を参照。
15
Joint Declaration by the British and French Governments on European Defence, Anglo-French Summit,
London, Thursday 25 November 1999を参照。
16
「欧州軍」は既述したEDC構想の初期段階において統合欧州軍を指し示す言葉として用いられたもの
である。そして、ヨーロッパがこのEDC構想において目指したのは、「領域防衛」を担う「超国家的」な
「常設軍」の創設であった。これと対比すれば、EUの掲げる緊急展開軍はそのミッションを領域防衛で
はなく危機管理活動に限定しており、その意味で常設軍とはなり得ず、また、超国家的性格を持たない
32
金子 EUとNATO
は、ESDIを強化し、CJTFの枠組みの下でEUの実施する独自の軍事行動をNATOが支援してゆ
くことを改めて確認するとともに、こうしたEUの活動が、将来の(NATOに代わる)欧州軍の
17
創設には繋がらないことにも合意した 。米国は、統合の度を増すEUが、CJTFを離れ、さらに
は緊急展開軍を発展させる形で、NATOが担うべき領域防衛の分野に踏み込むことのないよう、
言質を取ったのである。また、オルブライト米国国務長官に代わり同理事会に臨んだタルボッ
ト(Strobe Talbott)国務副長官は、米国がEUの活動を全面的に受け入れる旨、強調する一方、
そのためにはコソボ介入で明らかになった米欧の軍事力の較差を埋めることが急務であると力
説した。人道・救難や平和維持活動はともかく、戦闘行動を含む危機管理措置においてNATOへ
の活動の一元化を期待する米国が、その意気込みに見合った国防費の増額を行わないEUの姿勢
に皮肉な疑問を呈したのである。そしてさらに、彼は、NATOの域外で発生する危機がNATOの
防衛領域へと波及する危険に予め配慮し、EUが行う審議の過程にEU以外のNATO諸国が参画
できるよう、これら諸国に特別の地位(special status)を付与することの重要性を付け加えた
18
のである 。
こうして危機管理活動を巡る米欧の溝は再度埋められたように思われた。ところが、ヨーロッ
パは水面下でCJTFの枠組みを脱する動きを速めていた。戦闘作戦の遂行に当たり、EUに決定
的に不足していたのは、戦略輸送能力であり、衛星通信能力であり、さらには、指揮統制能力
や電波妨害(ジャミング)能力であった。いずれにせよ、EU全体の研究開発費が米国の3分の
19
1程度では将来の独自の作戦遂行など絵空事に過ぎなかった 。
それ故、2000年11月のWEU理事会の決定は注目に値するものとなった。当初の予定を半年ほ
ど先延ばしするものの、2001年7月1日には自らを解消することを決定したこのマルセイユの
理事会において、WEUが独自の兵器調達機構である西欧装備グループ(Western European
Armaments Group: WEAG)の残存に合意するとともに、このグループへのオーストリア、
チェコ、フィンランド、ハンガリー、ポーランド、スウェーデンの新規加盟を承認したからで
20
ある 。ところで、WEAGについては少し説明を加えねばならい。この欧州独自の兵器調達を目
「政府間協力」に基づく枠組みの色彩を有している。従って、将来、この構想がEDCの再現に繋がるか否
かは明言できないが、いずれにせよ、この声明は、ヨーロッパが独自の常設軍を構築し、既存のNATOの
枠組みから離脱してゆくことを警戒する米国の疑念を取り除くことを目的としていたのである。
17
Final Communique, Ministerial Meeting of the North Atlantic Council held at NATO Headquarters, Brussels,
on 15 December 1999 を参照。
18
このタルボット発言については、Strobe Talbott, Deputy Secretary of State, The State of the Alliance:
an American Perspective, Brussels, December15,1999 を参照。
19
EUが抱える軍事面での問題点を指摘する、Lord Robertson, NATO Secretary General, “ESDI and
Transatlantic Defence Cooperation,” Conference on “The Globalisation of Defence Industry: policy Implications
for NATO and ESDI” (Chatham House, 29 January 2001) を参照。
20
WEU Ministerial Council, Marseille Declaration, Marseille, 13 November 2000 を参照。
33
指すグループの起源は、アイスランドを除くNATO加盟のヨーロッパ諸国が、装備の共同開発・
生産を目的に、76年2月にNATOの内部に設置した独立欧州計画グループ(Independent
European Programme Group: IEPG)に遡るが、91年12月のECマーストリヒト会議の折りに、
WEUはこのグループを強化し、欧州装備グループ(European Armaments Group)へと改編
することを提案した。そして、これを受けて、92年12月にボンに集ったIEPG加盟13カ国の国防
相がこれをWEUに移管することに合意すると、翌93年5月にWEU理事会はWEAGの創設を決
定したのである。ところが、その後、WEUの解消とEUへの一元化が決まったために、このグ
ループの帰趨が問題となった。その結果、2000年5月にポルトで開催されたWEU理事会におい
て、WEAGの存続とEUへの移管が同意されたのであるが、このマルセイユ理事会の決定は、
ヨーロッパが米国と距離を置いた独自の兵器調達の足場を強化する姿勢を鮮明に示すことになっ
た。同時に、こうしたヨーロッパの自律性確保への欲求は、装備面での対米依存を徐々に減少
させながら、兵器産業を巻き込んだ米欧の新たな角逐の火種となり始めたのである。
そして、こうした兆候を先取りする端的な事例が英国を襲ったメテオ(Meteor)ミサイル問
題であった。
2000年1月初め、ダイムラークライスラー航空宇宙社(DaimlerChrysler Aerospace: DASA)
の首脳は、英、独、仏、伊、スペインが共同開発するユーロファイター(Euro fighter)に搭載
する長射程空対空ミサイルの選定を審議していた英国のブレア首相を訪問し、同国が英仏の企
業連合であるマトラ・BAe・ダイナミックス(Matra BAe Dynamics)社の製造するメテオ
(Meteor)ミサイルを選択するよう要請した。DASAはスペインのカサ(Casa)社やマトラ宇
宙(Aerospatiale Matra)社と共同で、航空宇宙産業界において米国のボーイング(Boeing)
社やロッキード・マーチン(Lockheed Martin)社に次いで世界第3位となる欧州航空宇宙社
(European Aeronautic Defence and Space Company: EADS)の創設を目指していた。問題
の核心には、これによってEUによる緊急展開軍の創設など、米国を離れた独自の軍事力の獲得
を目指すヨーロッパが独自の防衛産業基盤を強固にできること、さらには、ヨーロッパ製の戦
闘機にヨーロッパ製のミサイルを搭載すれば、米国製のそれを搭載した場合に生ずる米国議会
による「拒否権」の行使を回避でき、つまり、米国の輸出許可を得る必要がなくなるために、
自由に輸出市場の獲得に乗り出せるといった利点があった。同時に、現実的な問題として、英
国による購入がなければメテオ・ミサイルの開発そのものが頓挫するといった差し迫った事情
もあった。これに対し、当時の英国政府は、クリントン政府の後ろ盾を得た米国企業レイセオ
ン(Raytheon)社の開発する改良型アムラーム(Amraam)ミサイルとこのメテオとの二者択
一を検討中であった。レイセオン社は、航続距離の増大や性能の向上を図るためにラムジェッ
ト(ramjet)エンジンを搭載するメテオに技術面での不確定要素が残ることを理由に挙げ、安
価な自社製ミサイルで充分であると主張する一方、自ら米国政府に働きかけ、ユーロファイター
34
金子 EUとNATO
21
の輸出を支援する旨、英国政府に申し出ていたのである 。
こうして両社がしのぎを削る最中、5月には関係諸国政府からの側面支援を受けて、EAD
SがEU委員会による反トラスト審議をクリアした。そして、これを受けて同じ月の半ば、英国
政府は最終的にメテオの導入を決定したのであるが、このブレア政府の苦汁の決断は、通貨統
合に乗り遅れた同国が、ヨーロッパの防衛産業を後押しするとともに、コソボにおいて露呈し
22
たヨーロッパの軍事面での非力を是正する方向に動き始めたことを暗示したのである 。
結語――将来の展望
NATOとEUの間では、CJTFの枠組みの遵守を巡る問題と密接に絡む意思決定プロセスを再
度調整することが急務となった。そのため2000年7月からは合同特別作業グループ(Ad hoc EUNATO working groups)が、問題となる4つの分野(安全保障上の取り極め、常設協議・協力
機関の設置、EUがNATOの軍事資材を使用する場合の様式、EUの戦力強化目標)を中心に調
整に入ることになった。そして、ここでの検討結果を受けて、9月と11月にはブリュッセルにお
いて、北大西洋理事会とEUの暫定政治安全保障委員会(EU interim Political and Security
Committee: iPSC)による大使級の合同会議が開催され、双方の合意取り付けを急いだのであ
る。この間、NATOは、所要戦力リスト(catalogue と呼ぶ)の作成に当たるEUに対し、軍事
技術面での助言を与えていた。陸・空・海兵戦力によって構成される緊急展開軍の所要戦力は、
想定される作戦に応じて異なるが、軍事面での経験に乏しいEUには独力でこれを作成する能力
がなかったからである。そして、こうしたNATOの協力を得て、EUは11月下旬、10万人の兵
力、400機の航空機、100隻の艦船、といった所要戦力見積もりを公表したのである。けれど
も、肝腎の危機管理作戦の実施に際して開催されることになるNATOとEUの合同会議に、
NATOに加盟しないEU加盟国やEUに加盟しないNATO加盟国をどのような形で参画させるかと
23
いった問題が最後まで残っていた 。
2000年12月、ニースで開催されたEU首脳会議は、EU条約を修正し、政治安全保障委員会を
正式に設置するとともに、危機管理活動の権限を同委員会に委譲することを決定した。こうし
Martin Barrow, “UK under pressure to buy European missile,” The Times, January 4 2000 を参照。
"Editorial comment: Britain bolsters Europe’s defence,” The Financial Times , May 17 2000 を参照。
21
22
また、米欧の兵器調達を巡る角逐が深刻化してゆくことを懸念する、ロバートソン(Lord Robertson)
NATO事務総長の発言については、Lord Robertson, NATO Secretary General, “ESDI and Transatlantic
Defence Cooperation,” を参照。
23
NATO, Strengthening European Security and Defence Capabilities, NATO Fact Sheets (15 December
2000) を参照。
35
てEUの掲げるCFSPはさらに前進するように思われた。だが、緊急展開軍の作戦活動の決定に
当たり、EU非加盟諸国の公的な参画が認められなかったことが波紋を拡げていた。
案に違わず、焦点となったのはNATO加盟国ではあるものの、ギリシアとの反目を抱え、EU
への加盟を拒否され続けてきたトルコの反応であった。2000年12月にブリュッセルで開催され
た北大西洋理事会は、EU独自の防衛力強化を唱えてきたフランスの翻意を得て、年間2回の閣
僚会議と年間6回の大使級会議を含む、NATOとEUの常設協議の場を設定することに合意し
た。そして、これによって懸案の決定手順を巡る問題は解消するように思われた。ところが、
今度は、EUがNATOの軍事計画スタッフと連携することを、EUの緊急展開軍活動の決定への
参加の道を閉ざされたトルコが頑なに拒否したのである。英国を始めとする多くの国の意向を
汲んで、EUがNATOから独立した軍事計画スタッフを置かない方針を固めている以上、このト
ルコの反対は実質的にEUの軍事活動の道を塞ぐことを意味した。逆に、このような状態が長引
けば、業を煮やしたEU側が独自の軍事計画スタッフの獲得に向かう可能性も否定できなかっ
た。米国の次期ブッシュ(George W. Bush)政権がEUの計画に熱意を示さないことを期待し
て、トルコが論議の引き延ばしを図っているといった憶測も流れていた。この事態に慌てたク
リントン(Bill Clinton)米国政府はトルコ政府に対する説得工作を試みたが、実を結ばなかっ
た。その結果、NATOはこの争点で成果を得ることなく、協議の継続を余儀なくされたのであ
24
る 。
このようにトルコをも交えた米欧の角逐が深まった2000年は、また、米国の進める本土ミサ
イル防衛(National Missile Defense: NMD)計画の是非を巡り、米国とヨーロッパが見解の
差異を際立たせた年でもあった。まず脅威認識の観点から、ヨーロッパは、インド、パキスタ
ン、北朝鮮、あるいはイラクにしても、今後10年のうちに射程3千km 程度の中距離ミサイル
を開発できるに過ぎず、従って、米国本土を危険に晒すICBM開発などできるはずもないと見て
いた。また、システムの有効性についても、計画されているNMDが、地上レーダーと宇宙空間
に設置された赤外線センサーに支えられた地上発射迎撃システムで構成されるために、対抗手
段によって破壊されやすく、短射程弾道ミサイルや巡航ミサイルにも効果が薄いと評価してい
た。さらに、NMDの配備がこれまで外交手段によって達成されてきた軍備管理レジームを破壊
する恐れも問題であった。同時に、核抑止の観点からは、中国のみが深刻な影響を受けるといっ
た点で米欧の評価が一致したものの、そして、これが招くアジアの核軍拡が危惧されたものの、
ヨーロッパにとっては、こうした論争自体が却って米国の拡大抑止(extended deterrence)や
Alexander Nicoll, “Setback for plan on EU link with NATO,” Financial Times, December 18, 2000、
及び、Leyla Boulton and Alexander Nicoll, “Turkey holds up EU-NATO deal,” Financial Times, December
16, 2000 を参照。
24
36
金子 EUとNATO
25
コミットメントの弱体化を示唆するものと映ったのである 。
事実、このような米欧の落差を反映して、統合欧州の建設に貢献した人物に授与される国際
シャルルマーニュ(Charlemagne:西暦800年にレオ3世からローマ皇帝の帝冠を与えられた
カール大帝)賞の受賞が決まったクリントン大統領がアーヘンでの式典に臨む途次、会談した
ドイツのシュレーダー(Gerhard Schroeder)首相は、NMDが引き起こしかねない軍拡の再燃
26
に懸念を表明していた 。また、独仏といった主要なNATO諸国がこの米国の方針に反対の意向
を表明する中で、その出方が注目されていた英国においても、8月初め、下院外交委員会が米
27
国に計画の中止を働き掛けるようブレア政府に勧告していた 。米国がNMDを推進するために
は、1962年以来ヨークシャーのフィリングデールスに設置する米国弾道ミサイル早期警戒シス
テム(US Ballistic Missile Early Warning System)や、メンフィズ丘陵に展開する衛星情報
中継基地が不可欠であり、英国政府からの同意を取り付けねばならなかった。こうしてブレア
政権は、米国の期待と与党内の反発の板ばさみに遭遇することになったのであるが、2001年1月
に発足した米国ブッシュ政権の下でNMD構想がその規模を拡大しながら加速すると、一層難し
28
い舵取りを迫られることになったのである 。同年2月下旬に開催された英米サミットにおい
て、ブレア首相が米国の抱く懸念を共有する旨、言明し、間接的にNMDの推進を支持する態度
29
を表明した ことが、フランスを始めとする他のヨーロッパ諸国の不信を買うとともに、6月の
25
NMDを巡る米欧の立場の相違については、例えば、この問題の深刻化を懸念するWEUが2000年9月
に開催したセミナーの報告書である、Burkard Schmitt and Julian Lindley (eds .), National Missile Defence
and the Future of Nuclear Policy (Occasional Papers 18), (The Institute for Security Studies, Western
European Union, September 2000) を参照。
26
Remarks by the President and German Chancellor Gerhard Schroder, (Office of the Press Secretary, The
White House, June 1, 2000) を参照。
27
The Foreign Affairs Committee, House of Commons, Foreign Affairs-Eighth Report (http://
www.publications.parliament.uk/pa/cm199900/cmselect/cmfaff/407) を参照。
28
英国を始めとするヨーロッパ諸国がNMD構想に抱く懸念を背景に、同じくこの構想に強く反対するロ
シアのプーチン(Vladimir Putin)大統領は2001年2月半ば、訪ロしたロバートソンNATO事務総長に対
し、NMDに代わる移動式ミサイル迎撃システムを共同で開発する旨、提案した。潜在的な侵略国の周辺
地域に配備するこのシステムはABM条約に抵触せず、加えて、NMDよりも遥かに安価であると説かれた
のである。
他方、5月初めに米国国防大学で演説したブッシュ大統領は、無責任な国家(least-responsible states)
への弾道ミサイル技術と大量破壊兵器の拡散に対処するために、また、偶発的発射事故に備えるために、
ABM条約など冷戦期に構築された枠組みを超えた「新たな抑止概念」を創造する必要を力説した。そし
て、彼はクリントン大統領時代に提起されたNMDと戦域ミサイル防衛(Theater Missile Defense: TMD)
を融合し、地上、海上、空中などあらゆる迎撃システムを選択肢として考慮するとともに、特に(同盟諸
国の協力を得て前方展開されるシステムが担うはずの)ブースト段階での捕捉の重要性を論じたのであ
る。またそれ故に、同盟諸国や友好国との協議を重視する姿勢を表明したのであるが、それは反面、これ
ら諸国の批判や反対を封じ込め、バーデン・シェアリングを促すことを暗示したのである。このブッシュ
大統領の演説については、Remarks by the President to Students and Faculty at National Defense University
(Office of the Press Secretary, The White House, May 1, 2001) を参照。
29
この英米サミットについては、Joint Statement by President George W. Bush and Prime Minister Tony
37
30
総選挙を控えた党内の亀裂を深めることになったからである 。
そして、この英米サミットは、同時に、EUの緊急展開軍創設を巡る英仏の温度差をも表面化
させることになった。この首脳会談において、ブレア首相がEUによる緊急展開軍の活動を
NATOの枠組みの中に位置付ける発言を行ったために、その自律性を主張してきたフランス政府
が、緊急展開軍の作戦の在り方についてはなお検討の段階にあることを確認するよう、強く英
31
国に迫ったからである 。
このように米欧間に、また、ヨーロッパの内部に生じた齟齬の中で、EUの緊急展開軍が何処
に向かうのか明言することは難しい。仮にEUがCJTFの枠組みを離れた独自の軍事能力を保持
するとしても、これにはなお多くの時間を必要とする。あるいは、国連の平和活動を超えた戦
闘作戦の遂行に当たり、独自の軍事スタッフと限定的な能力の下で、作戦規模を縮小し、迅速
に対処するといった選択も残るだろう。しかしながら、アムステルダム条約による改訂にもか
かわらず、各国の利害が交錯する中で迅速な意思決定ができるか否かは不明であるし、また何
よりも、拙速な作戦の失敗が齎すリスクがEUそのものの凝集力を蝕んでゆく危険も覚悟しなけ
ればならない。他方、危機管理活動を巡るNATOとEUの鍔迫り合いが終熄し、部隊派遣の決定
手順に合意を見たとしても、問題の発生に際して双方の意思の調整に時間を要するのであれば、
また、これに米国の国益が密接に絡むのであれば、湾岸戦争時の多国籍軍に類似した米国主導
の部隊が構築されることになるのだろう。そして、このような見通しに立つならば、危機管理
活動を巡るNATOとEUの確執は、単なる理念の争いに終わることになるのかも知れない。
だが、これによって一度弾みのついたヨーロッパの自律化への道が塞がれることも有り得な
い。むしろ、米国の力への依存を緊急に必要とする深刻な領域防衛問題の生起しない「冷戦後」
32
が継続するならば 、皮肉な逆説として、EUの緊急展開軍創設構想は、長期的には駐欧米軍の
Blair (Office of the Press Secretary, The White House, February 23, 2001)、及び、Transcript of a Press
Conference given by The prime Minister, Tony Blair, and President George W. Bush, Camp David, Friday, 23
February 2001 (Foreign and Commonwealth Office, 24 February 2001) を参照。
与党労働党内では、NMDに懐疑的なクック(Robin Cock)外相とこの構想を支持するフーン(Geoff
Hoon)国防相の相克が生まれており、クック外相は、国防支出の重点をEUの緊急展開軍創設に振り向け
るよう主張していることが伝えられている。Andrew Parker, “Britain to press US on defence,” Financial
Times, May 7 2001 を参照。
31
この問題については、Matthew Campbell and Stephen Grey, “French query British defence pledge
to Bush,” Sunday Times, February 25 2001 を参照。
32
このような米欧の差異を引き起こした最大の要因は、その主たる争点が危機管理活動に集中したこと
からも窺われるように、領域防衛を重視しなくても良い戦略環境が誕生したこと、端的には、90年11月の
CFE条約の調印から99年11月のCFE条約・適合合意(Agreement on Adaptation of the Treaty on
Conventional Armed Forces in Europe)の成立に至る軍縮の成功によって、ヨーロッパの軍事デタン
トが大幅に進展したことである。この点については、金子讓「米欧安全保障関係の展開――冷戦後の軍
事ミッションを巡る米欧の角逐を中心に」『防衛研究所紀要』第3巻第1号(2000年8月)、42−64
頁、を参照。
ところが、
このヨーロッパの軍事デタントを支える枠組みに綻びの兆しが見え始めたのである。
NATO
30
38
金子 EUとNATO
撤退後を睨んだヨーロッパ独自の領域防衛を射程に収める「受け皿」の意味を増してゆくこと
になるのだろう。そして、米国が最も警戒するのが、危機管理活動を巡る論争の陰に隠された
このメッセージにほかならないのである。
の東方への拡大の結果、嘗て西側が遭遇した西ベルリン問題と相似する形でカリーニングラード問題に直
面したロシアが、この地域の安全を確保するために、戦術核兵器の配備に踏み切ったことが噂され始めた
からである。これが事実であるとすれば、そのロシアの行為は適合合意に至るCFE交渉の合意事項を逸脱
するものであるが、その真偽のほどはともかく、2002年11月に予定されるNATOの第二次拡大を巡る審議
の過程で、自国と国境を接するラトビアやエストニアといったバルト諸国の加盟が合意されることを危惧
するロシアが、あるいは、逼迫する軍事費の下で通常戦力の確保に窮するロシアが、CFE条約や中距離核
戦力(Intermediate-Range Nuclear Forces: INF)条約の埒外にあるこの種の核兵器を国境地域に展開
することは、十分にあり得ることである。その結果、新たな緊張が頭をもたげることになれば、ヨーロッ
パの関心は再びNATOが担う領域防衛の問題へと引き戻されることになるだろう。「冷戦の終焉」を逸早
く達成したヨーロッパが、最初に「冷戦後の終焉」に遭遇しようとしているのである。
39
Fly UP